■ 有待之身を伝え知らせて洛陽の北にある黄河を覗ける荒野に、官軍を示す鎧を来た者達が設営された天幕の傍で輪になって食事を取る。配給された糧食は、乾燥した肉と一つまみの塩、水と変わらぬような味の薄いスープだけであった。この地に来てから何度見たか判らない、配膳の者に群がる兵の光景を一つ息を吐いて見やりいの一番に配給を受け取って天幕の中へと姿を消したのは、漢王朝の大将軍こと何進であった。天幕を潜ると、そこには一人の男が待ち構えるようにして座っていた。「なんだ、朱儁将軍か。 珍しいな」「失礼かとは思ったが、中で待たせて貰った」「ああ、構わない。 戦時でもないしな」どうやら配給一番槍は、目の前の男であったようだ。朱儁の隣にも、しっかりと配膳の為の盆受けがあるのを目にして何進は苦笑した。この演習に来てから、そろそろ10日は経とうかと言うところだ。自身の天幕に訪れることはもちろん初めて。言葉にしなくても、朱儁が何を言いに来たのか何進は憶測がついたが、あえてそこには言及せずに彼の口が開くのを待った。「……それにしても、この演習に大将軍が居られるとは聞いていませんでした」「ああ、私も蹇碩殿に頼まれて仕方なくな。 帝が倒れられてから忙しくてかなわん、休みが欲しいものだ」「はっはっは、まったくです」「まぁ、助かっているのは天代様の名で集った此度の兵は、文句も言わずに良くやってくれることだが」「そうですな、ここまで素直な兵を調練するのは初めての経験です」「……ところで、このような世間話をしに来たのではないのだろう。 朱儁殿は何か用事でもあるのか?」一向に核心へ迫らない朱儁に対して、何進は焦れたかのように切り出した。もともと、会話が転がり出してからじっと待っていられない性格である。白湯のようなスープを口に含んでいた朱儁は、その状態のまま何進の問いに向けて視線を投げると一拍置いてから卓に容器を置いて切り出した。「蹇碩殿の天幕に、官僚が出入りしていたのを見ました」「うん? それが何かおかしいのか?」「真夜中なのです」「真夜中? ふぅむ……」確かにおかしい。官僚達ともなれば、大陸を移動するに徒歩であることは殆ど無い。何より、馬を用いて走らせれば都を朝から出て夕刻にはこの近辺には辿りつく。余程ゆっくりと……それこそ、どこかで時間を遊ばせない限りは深夜になることなど在り得ない。勿論、急病を患ったり、何かの事故が起きれば別ではある。「しかし、色々な原因が考えられるからな。 おかしい事はおかしいが、悩むほどでは無いのではないか?」「確かに、そうでしょう。 ただ、彼らの会話の内容にやや、思うところがありまして」「ほう、朱儁殿はその場に居合わせておったのか」「は。 正確には、天幕の外から覗き聞いたにすぎませぬ。 聞き間違いということもあるかも知れません」ここで、何進は顔を盛大に顰めた。朱儁の口ぶりと、まるでこの天幕の外を窺うように潜めた声に、あまり良くない話であることなのが分かったからだ。声を大きくして話せないという件で、真っ先に思い浮かぶのが帝の崩御である。これならば目立たぬ深夜、隠れるように官僚が蹇碩の下へと訪れるのは自然であるし内密にしなくてはならない事だろう。同じように声を潜め、何進が崩御したのかと問うと、朱儁は自らの髭を撫でり首を振った。そして、告げる。「あぁん?」言った朱儁本人も、自身が無さそうな様子で告げた内容は、予想だにしない物であった。素っ頓狂な何進の声が天幕の中に響くと同時、突風だろうか。強い風に煽られて、布がはためく音に二人して周囲を見回す。次に互いの視線が合った時には、風は止んでいた。何進が手振りだけで人払いをするように指示すると、朱儁は一つ頷いて天幕から顔を出す。傍に居る兵士だろう、何事かを話しかけている間に何進は椅子に深く座りなおし、腕を組んで考え込んだ。仮に朱儁の聞いた物が事実だとすると、都で何かしらの政変があったのは間違いない。出立する前の天代の忙しさは並では無かった。それは、軍部の事を全て丸投げされた自分が一番良く分かっている。その間に何者かが天の御使いを陥れたのだろうか?「……何進殿」「ん、ああ。 すまない。 突然のことに驚いてしまった……その―――は事実なのか?」「いえ、驚くのは当然でしょう。 私も正直、何かの間違いなのではないかと……」難しい顔をして言葉尻を濁す朱儁。その表情は、確かに聞いたその会話をどこかで事実だと認めているように思える。何進も、半信半疑ながらこれが真実なのではないかと思えてしまう。そのような心当たりが、何進も朱儁もあるのだ。宮内に身を置いていると、多くの謀略に消えた者を知ることができる。それは普段の生活の中、気がつけば居なかったという事が多い。こうした事実の裏に十常侍を初めとした宦官達が居る事は、宮内で仕事をしていれば嫌でも気がつくし珍しくないことでもあった。例えそれが、謀略とは程遠い場所に居ても多かれ少なかれ目にし耳に聞こえるのだ。「……大将軍」「ああ、なんだ」「……私を洛陽へ戻らせてくれまいか」朱儁の声に、何進は考え込むのを止めて彼を真っ直ぐに捉えて見つめた。事実を確かめたいのだろう。それは、何進も同様にそうであるから察しがついた。その思いの根底にあるのは、何時だったか。 天代と張譲が手を取り合って漢王朝の良い未来をと語り合ったのを見てからだ。この二人が固く握手した時、何進は確かに漢王朝の未来は明るいものだと感じていた。自身の身分が天代の下に付くことを、素直に受け入れることができた瞬間でもあった。宦官の頂点である張譲の目は、真剣であったことを考えると彼が陥れたとは考えにくい。少なくとも、何進にとっては一刀、そして張譲に敵意を抱く者が嵌めたのではと考えてしまう。「……分かった、許可しよう。 朱儁殿の担当は私が受け持つ」「ありがとうございます!」「しかし、朱儁殿。 早まってはならぬぞ」「それは事実確認だけで満足せよということですか」「そうだ。 この件、間違いでなければ政争が原因なのは明白だ。 下手に足を突っ込んで優秀な部下を失う事になるのは我慢ならん」「……分かりました。 それでは急ぎ都へ戻らせて戴きます」一つ礼をすると、朱儁は早足で天幕を飛び出して洛陽へと向かった。天幕から出て行った朱儁を見送り、何進はしばし黙して考えたがとりあえずは明日の朝、何時もの一人朝議の時に考えを纏めることに決めると立ち上がり、調練のために天幕を潜った。荒野へ出た何進は、その見える風景にふと違和感を感じる。「うん?」人が居ない。確かに人払いするように朱儁を通して命じてはいたが、見張りの兵くらいは付けているはずだ。その人払いを命じた兵すら居ないとは一体どういうことだろうか。或いは、朱儁が前もって、もう人払いはしなくてもいいと伝えたのか。恐らくそうだろう。一人納得して、何進は兵の調練を消化するために剣を取り、馬を預けている即席の馬房へと向かった。結局、この日の調練は蹇碩の声で中止することになり、部隊は西を目指して移動することになる――――――帝の寝室、絢爛な天蓋の下にある贅沢を尽くした寝具に、身を預けて横たわる劉宏の背を擦りながら趙忠は熊の人形をその腕に抱いていた。ときおり聞こえる苦しげな劉宏の呻き以外、耳朶を震わせる音は何も無い。天代との邂逅からあれだけいきり立っていた晩、それを越えると見る影も無く呼吸は弱弱しくなっていった。このまま、いつ崩御してもおかしくない有様だ。朝日を迎えて、随分と立った。いい加減、自分の食事を取らないと身が持たない。趙忠は撫でやる手を止め、スクリとその場で立ち上がると恭しく一礼してから帝の寝室を後にした。「……医者は?」「は、私が控えております」「見てて」「かしこまりました」寝室の外で待機していた幾人かの医者と宦官に後を任せて、軽食を取るために隣室へと向かう。開いた先には、自身の親とも言える張譲と、この宮内で見慣れぬ髭を生やした李儒という男であった。扉が開かれた音で気がついたのか、双方共に趙忠へと視線を送りやがて逸らした。いくつか卓に置かれた果物を見つけると、趙忠は座り皮も剥かず頭から齧る。水気のある、甘い風味が口の中に広がった。しばし咀嚼する音が響いて、ふいに止まる。そして、まるで世間話するかのように口を開いた。「譲爺、劉宏様は死ぬよ」「……」趙忠は決して医の知識が高い方ではない。この時代からか、簡単な応急処置は理解しているものの、病となればとんと分からなくなる。素人目からみても、劉宏は、帝は死ぬ。もう、そのくらいまで病状は悪化してしまったと趙忠も感じていた。次に意識を落とせば、今度こそ崩御することだろう。「今度は誰がなるのかな。 劉弁様かなやっぱ」「……趙忠」「なに?」「聞きたいことが、あるのだろう」何時の間にか、趙忠の座る卓へと椅子を寄せて近づいた張譲がそう言った。手に取った果物を卓に置いて、趙忠はしっかりと用意された布で手を拭くと熊の人形を抱えあげて尋ねる。「なんで動くの遅かったの? 途中まで、本気で寝返ったかと思っちゃった」「……うむ。 理由か」此度の張譲の描いた策謀に、趙忠がハッキリと気付いたのは帝が倒れられた直後だ。天代を追い返す旨を告げる書状が、帝の元から戻った自室に置いてあった。それは、一冊の本であり、その本の合間に挟まれた紙片に書かれた文字は、張譲の筆跡だ。帝が倒れ、遅れてきた数刻の間に張譲は根回しを全て終えていたという事になる。蹇碩の下に、同様の書状が届いたことも確認が取れている。恐らく、天代の下で北郷一刀に対して知らぬ顔をし過ごしていた、段珪の下にも送られたのだろう。そうした経緯から、確かに『天代』が決めねばならぬ案件から、誰にでも出来るような簡単な案件まで全て直通で一刀に通し、思考をそちらに向けさせた。一刀が忙殺された理由はここにある。正直、趙忠が一刀の立場であっても逃げ出したくなる量であった。それをしっかりと―――なんせ殆ど睡眠時間が無い―――こなしている当たり、天代の有能さは趙忠自身も認めざるを得ない。間近で見ている分、その感情はひとしおであった。企みを、忙しさで逸らした結果に出来上がったのが玉座の間での出来事だ。ただ、玉璽の一件から段珪の裏切りが、今になるまで時間をかけずに実行できた筈でもあると、趙忠は分析している。何故、帝が倒れたのを契機に実行したのか。趙忠はそれが分からなかったのだ。「天に在る陽は、一つで良い。 二つになれば大陸は焼かれ、人は住めぬのだ」「もう、また回りくどいことを言ってさ。 もっと簡単に話してよ」「やれやれ、もう少し会話を楽しめ」「面白い話ならね。 譲爺のはくどいだけ」「……ふぅ」そこで首を振り、張譲は一つ頷くと、趙忠の疑問に答えるようにして口を開いていった。天代は、その権力と政策、風評、評判から民の信望を集めた。これは洛陽に居る者に限らず、噂を通じて大きな戦功も含めて大陸に広がっている。そう、一刀は民から人気になりすぎたのだ。これが一刀を殺さない原因となっているように、漢王朝にとって北郷一刀の名は激烈に輝いてしまった。政策もまた、金のかかる物ばかりではあるが実現するとなれば未来の見通しは明るい物に思える。張譲をして思いつかぬ発想や発着点に目を剥くこともしばしば。涼州や黄巾党が不穏な動きを見せつつも、本格的に武力化しないのは、記憶に新しい黄巾の乱を劣勢の状態から僅か7日という期間で叩き潰した風評があるからに他ならない。ああ、漢王朝に降りた天の御使いだというのは最早、この大陸に住む全ての民にとって覆せない物となっただろう。「だからこそ、劉宏様が動かねばならなかったのだ」一刀がこの大陸に現れる前、いや、この漢王朝で天の御使いを名乗るまでの情勢はどうであったか。それを省みれば、言うまでもないことだろう。実質、漢王朝という国を左右してきた張譲や趙忠達は、決して民達の声が聞こえていないわけではない。無視をしていた部分も在るという方が正しかった。実際に、宮廷内でも現状を憂う声が増してきたことから、頭の片隅で好転させる舵を取ろうと考えていたのだ。そんな折、自ら飛び込むように天の御使いを名乗る青年が現れた。自らの地位を一足飛びで跳び越していった一刀に、趙忠は大きな不満を抱いた訳だが張譲は、これを好機と捉えた。「北郷一刀、あれは偶然であろうとも、王になる資格を兼ね備えたのだ」そこからの一刀の経緯は今更説明しなくても分かるだろう。乱を鎮め、諸侯との結びつきを強くし、民の目線に立って政策を施し、宮内の膿を吐き出そうとした。少なくとも、これだけは確かに日々共に過ごすことで間違いなく言える。文句の無い清廉な青年だ、人気が出るのも理解できる。故に、張譲は一刀が『天代』となったその時から、劉宏がどう動くかを静かに観察してきた。劉宏が一刀をしっかりと御する動きを見せなければ、漢王朝は帝の元ではなく天の御使いの下で、その国の趨勢を決めることになるだろう。そうなれば、天に二日をいただけない以上、天代を排除するしかなかったのだ。「分かるか」「……分かった。 劉宏様次第だったってことは」「うむ。 仮にこのまま、北郷一刀が帝を支え続けたとしても漢王朝は消えることになる。 民意によって押し上げられた……そう、押し上げられる素養を培った北郷一刀自身の手によってだ。 アレは漢王朝を立て直すと言っていたが、間違いなく漢王朝を滅ぼし新たな王朝に向かう未来となるだろうよ」「……殺さないのは、やっぱり風評のためなんだ」「……いいや、殺すとも。 こうして追放した以上、あの男を生かす道理は無い」とはいえ、宮内で殺すことは不可能であった。この洛陽の宮内で殺せば、噂はたちまち広がって一刀が築いたと言って良い漢王朝の風評は元に戻るだろう。いや、元に戻るだけならばまだ良い。最悪、そのまま形を変えて、洛陽に第二の黄巾の乱が起きないとも限らなかった。では、どう殺せばいいのか。「これには随分悩んだが……天代を追い出す準備をしている途中で掘り出し物を拾ってな」「……」張譲の視線が、一人の男に突き刺さると、釣られて趙忠も首を向ける。そこにはニヤリと口を歪ませて弧を描き、笑う男。李儒だ。水を向けられる形になった李儒は、首をやにわに振って肩を竦めると短く声を発した。「天代を、西へ」「……そうだ、言ってなかったな。 天代は3千の兵と共に西へ向かわせる……大々的に喧伝し、盛り上げる形でな」「え?」「そう……丁度良い軍勢が、天代を滅してくれるのだ」「あ……蹇碩さんか、ふーん……討てるの?」「さてな。 どちらでも良いのだ。 討てようと討てまいと。 仮に生き延びたとしても表舞台に出てきた時には朝敵となっているだろう。 それだけの理由や証拠を作る時間はたっぷりとあるのだ」何よりも、李儒が示した方策は都合が良い。出立の時には、未だ荒れる大陸を治める為に、立ち向かう天の尖兵として大いに称えられ向かう先は不穏な動きを見せる涼州となれば、軍備を勧める涼州の連中に、天代という名を用いた牽制ともなる。謀略に気付いて蹇碩の手を躱せば、漢王朝を見捨てたと罵り民の思考を恨ませることで、“天の御使い”の風評は落ちていく。蹇碩に討たれれば良し。漏らしても先の通り表舞台に出た瞬間にトドメを刺せる。そうなるよう、情報の操作をするのは容易い地位に、張譲や趙忠は居るのだ。何よりも―――「北郷一刀は我々を恨んでいよう。 逃げ延びれば朝敵として軍を起こし、或いは混ざり、反乱を企てる可能性は高い」ということだ。むしろ、李儒としてはそれを期待している節があった。「ふーん……ちぇ、悔しいな。 全然思いつかなかった。 どうすれば良いのか分からなかったもん」「お前達は良く動いてくれていた。 目を逸らすのにな」「囮に使ったってこと? しかもちゃっかり西園三軍も利用してさ、気分よくないな」「お互い様だ、早まれば私が死んでいたかも知れないのだからな」「そーだね。 まぁ、勉強になったよ」「これからの漢王朝は、天代の残した清涼な資産を食い潰す間にどれだけ清い空気を形成することが出来るかだ。 濁っているだけではいかん。 清すぎても、またいかんのだ。 どちらも合わせ、初めて王朝というものは成り立つ事を知れただろう。 趙忠、分かっているか?」これに趙忠はぬいぐるみを抱えたまま頷いた。馬鹿でもない限り、今の話を聞けば漢王朝の息を吹き返す為の時期に差しかかったのだと気付く。と、なれば帝の死期が近い以上、皇帝として推挙するのは若い頃からチョロチョロと漢王朝の膿を吐き出そうと動き回っていた少女の方か。「遺言残さないで死んでくれればいいね、譲爺」「……うむ、そうだな。 漢王朝の為には、もはや劉宏様はこのまま死んでくれるのが望ましい」「ふっ……」二人の声に、それまで黙って話を聞いて空気に徹していた李儒が漏れ出すように声をあげた。それは、嘲笑のような、自嘲のような、含みのある笑い声であった。「何?」「いえ……しかし、天代の居ない期間が出来るのは不都合になりませんか、張譲様、趙忠様」「何が言いたいのだ、李儒」「不都合があるのなら、私が天代となっても良いのですが……?」それを言った瞬間、室内の空気はやにわに下がった気がした。張譲と、趙忠の厳しい視線が李儒へと突き刺さり、互いに牽制しあう様に交錯する。その沈黙は、僅かな時であったがこの場に居る全員、長く感じられた時であった。「冗談ですよ……お戯れをしましたが、お気に召さなかったようで」「笑えない冗談だね。 長生きしたいなら黙ってた方が良いよ、君」「これは……申し訳御座いません」そうして頭を下げる李儒の口元は、やはり弧を描いていた。張譲も、趙忠も伏せられているために分からなかったが、確かに彼は笑っていた。一つ息を吐くようにして、張譲は立ち上がると出口へ向かう。彼がこの場に留まっていたのは、ずっと劉宏へと付き添っていた趙忠に天代の扱いについて話す為であったのだ。もはや、此処に留まる理由は無かった。部屋を離れ、しばし歩いた先。バルコニーのように作られた、洛陽を一望できるその場所に、張譲は見知った顔を見つけて歩みを止める。「おう、張譲か」「曹騰……」木柵に背を預けるようにして、寛いでいた曹騰の手には何かの書が握られていた。その書に見覚えの在る張譲は、認めると曹騰へ視線を流した。彼の視線に気付くと、曹騰は書を丸めて肩を叩き始める。「一手遅れたようだな、曹騰」「まったくだ。 天代の面を見たか? ありゃもう再起することは出来ないだろうなぁ」「……」「おい、良いのかよ。 アレが居なけりゃ漢王朝は滅ぶぞ」「逆だ、曹騰。 アレが居るから漢王朝は滅ぶのだ」「……曇ったな、引退した方がいいぜ」「おお、今日のような陽の出ている日は、走り回るに健康に良かっただろう?」「わしよりも老いぼれに言われたくねぇよ」言いながら、曹騰は自らの持つ書を両の手で力任せに引き千切った。何度も、何度も。細切れになった書を、天に返すように突き出して、流れる風と共に消え行く。張譲はその曹騰の行動に笑みを浮かべた。天代を陥れた、唯一の物証が今この瞬間に消えたのだ。曹騰が持っていたのは劉宏を通さずに押した玉璽の印をもって、何も知らぬ官僚へと手渡した物。帝が呼び出したのは事実でも、実際に玉璽を用いて勅とし、動かしたのは張譲であったのだ。これの回収は、どうしても玉座の間に居る間は出来ない。後で無いことに気がついたときは、どうしたものかと悩んだ物だが。今。その証拠は風と共に流れこの世から消え去った。「嬉しそうだな。 わしは降りるぜ」「うん? 降りるだと?」「ああ、隠居する」「そうか……長年、よく勤めてくれたな」「……じゃあな、精々楽しく生きろや」「……」胸の内で、互いに、とだけ返して踵を返す。天代は消え、劉宏は死ぬ。これからまた、忙しくなるだろう。自分の時代も、そろそろ終わる。趙忠には、多くを学んで仕込まねばならない。頭の中で、幾つかの事案を優先すると、張譲は掌でコロリ、コロリと玉を転がし廊下の闇に消えた。―――一方で、一刀と別れた音々音は、時刻としては昼になってようやく、離宮へ進む道を歩き始めていた。昨夜の愛しい人との紡ぎ合い故か、若干その歩調は頼りない物になってはいたが。朝出てからすぐに離宮へ戻らなかったのは、当然ながら理由がある。それは、ひとよの交叉の中で定めた、自らの道のため。その瞳に宿る炎は、今までの彼女から感じられないほどの決意が宿っていた。愛される中で、聞いていた一刀の懊悩。一人で苦しんで、答えが出せずに、それでも前へ向かっていた一刀の声を共有した時から。彼は、自らを“天の御使い”と称していた。まさしく、そうである。何故かは分からないが、北郷一刀という一人の青年が“天の御使い”と呼ばれて遜色ない知識を持って大陸に落ちた。何のためなのか。離宮へ暮らし始めてから、彼が行ってきたことを紐解けば答えは出ている。漢王朝、それを生かすこと。始まりがたとえ、偶然からとはいえ、一刀が行ってきたことはソレに集約されている。張譲の謀略に飲み込まれてしまったせいで、その道は随分と遠のいてしまったが。しかし、あの夜。音々音へと、確かに諦めない、諦めたくないと告げた。「……一刀殿。 ねねが、一刀殿の道を繋いで見せるのです……」周囲に誰も居ない中、一人呟いて上唇を噛み、造ったばかりの首にぶら下げた髪留めの紅玉を握り締める。それはきっと、事実を知る誰かが聞いていれば、この状況になって何を思い上がった事をと笑われるかも知れない決意であった。だが、その認識は間違いになるだろう。一刀の軍師である音々音は、いつかも思うように無敵なのだ。愛する彼の為ならば、自らの脳漿は無限に策を引き出せる気がした。昨日、あれほど慌てふためいていた張譲の謀略が、酷く小さな物に思えてくる。今、軍盤を指しあえば誰であろうと負ける気がしない。そんな音々音が一刀と共に描いた策は、とても、とても辛い物だった。繋がる道は、これが一番早く、そして苦しい。自らの覚悟を後押しするように、一つ頬を叩いて音を鳴らすと、音々音は離宮の中へと扉を開けて入った。入り口から伸びる廊下を抜けて、劉協の下に繋がる階段を登り開けた扉に広がる空間――朝食を取っていた団欒の――場所へ出るとそこには音々音の主である劉協と、隣には桃香が座っていた。その随分後ろ……壁際に立つようにして恋と、誰であろうか。刀剣の類を腰にさした見知らぬ男達が数人、居心地が悪そうに顰め面をして佇んでいた。劉協と桃香は、どちらも卓に置いた自らの手に視線を落として、音々音には気付いていない。わずかに立ち止まったが、短く息を吐くと音々音は足音を立てるようにして歩き二人の座る卓を目指した。「ねね……」「あ……」当然ながら、音に反応するように二人は顔をあげた。覗けた顔は、心配するような、それでいて何処か疑うような揺らぎの見える表情であった。劉協は音々音をじっと見据え、桃香は僅かに顔を俯かせる。様子からして、一刀が陥れられたことは既に知っているようだった。「どこに、行ってたのねねちゃん……大変だったんだよ。 昨日から、色々あって……」桃香の声には答えず、音々音はチラリと奥を見やった。帯刀している男達は、“あちら側”であろう。「恋ちゃんが、いきなり暴れるし……官僚の人達が、朱里ちゃん達を連れて行っちゃって……」「愛紗殿達もですか」「……」ようやく言葉を発した音々音に、桃香はコクリと頷いた。おそらくは昨夜の内の出来事に違いない。一刀が張譲の謀略に嵌ったその後に、離宮へ張譲の言の証拠を示す為にも、朱里と雛里の二人の下に誰かしかを送るのは目に見えている。心の中で密かに、恋に一刀の机を“掃除”してもらったのは正解だったと安堵する。同時に、この場に控える男達が居る時点で桃香の納得行くような説明は出来なくなることを理解した。何故なら、彼女が音々音に対して求めるのは、一刀の潔白を示して欲しいことだからだ。「ねね、何があったか教えてくれないか」「勿論です、劉協様。 ねねはその為に此処に来ましたから……」そこで一つ言葉を切って、音々音は椅子から立ち上がると口を開く。「もう聞いていると思いますが、一刀殿は天代の身分を追われました」「それはっ! それは……朱里ちゃん達の事で?」「……勿論、それも含まれるのです」劉協と桃香は、既に聞いていただろう『天代の追放』を音々音の口からも聞かされ、それが疑いようのない事実であることを知る。音々音は、二人の暗く翳る表情を一瞥してから事の顛末を話し始めた。その内容は、多くの事実を混ぜながらもやにわに一刀を批判するものであった。劉協が再三注意したにも関わらず、朱里や雛里の刑について私情を優先したことを批判した。西園八校尉の選考に偏りが見られたのも確かであるし、それまでの軍権勢をガラリと変える物であった。それらを含めて、一刀の顛末を知った劉協は、視線を逸らさずに音々音へ相対し続けた。しばしの沈黙を破り、問いかける。「……ねねも、一刀が権威を得る為にしたことと、そう思うのか」「思います」「ねねちゃんっ!」そこで初めて、桃香は椅子を引いて立ち上がって音々音を睨むようにして視線をぶつけた。隣に居る劉協は、落ち着かせるように片手を挙げて声を出す。「桃香、口を挟むでない!」「劉協様、ごめんなさい! でも、ねねちゃんが本心でこんなこと言うはずありませんっ!」「桃香殿、それは見当違いですぞ。 ねねは劉協様に仕えてから本心以外を申したことは無いのです」「そんな……嘘でしょ!? どうしてそんな事を言うの?」「どうしてもなにも……一刀殿が文字通り、天である劉宏様を無視して天に代わろうとしたことに失望したに過ぎないのです」「―――本当に、本当に一刀様のことをそう思っているの!?」「くどいのです。 逆に聞きますが、桃香殿はどうして此処までの状況証拠が出来上がって一刀殿を妄信できるのですか」「座れ! 感情的に話すことではない!」肩を震わせて、やや前のめりになりながら口を走らせる桃香と睨み返すようにして相対する音々音の声に劉協は手を卓に叩いて声を荒げ制止した。しかし、彼女の声に従って席についたのは音々音だけで、桃香は聞こえている筈なのに立ち続けて音々音を睨んでいた。実際、桃香は自分の感情を御するのに精一杯であった。一刀の一番近くに居た音々音が、どうして一番に信用してあげないのか。何よりも、曹操と孫堅の会話を耳にして、天代が居なくてはならないと自分自身の中で漢王朝―――ともすればこの大陸を憂いた自分にとっての答えが出た直後であるだけに認められない。認めてはならないことだった。ここで音々音に感情をぶつけても、過ぎた事は巻き戻せない。そんな事は、桃香も分かっている。しかし―――「一刀様のことを一番見てきた、ねねちゃんが分からないでどうするの!」「一番に見てきたからこそ、そう判断を下したと言えば納得するですか!」しかし、何よりも納得できないのは、隣に居た音々音の口から、一刀を悪し様に言う言葉が出ることだ。おかしいではないか。あれほど傍目から見ても、一緒に居ることで笑顔を零していた彼女の急変した様子は何かしらの妖術をかけられたかのように不自然に見える。見えてしまうのだ。「―――っ、一刀様に裏表を感じたことがある!? 人間だから、間違いだってするよ! 勘違いだってするし、思い違いもあるよ! ねねちゃん、きっと騙されてるんだよ! 一刀様を追い出した人たちに―――」「……はぁ」「ねねちゃんっ!」「もう良いのです。 桃香殿との話は後にするのです……劉協様」「……なんだ」劉協へと水を向けた音々音になおも声を上げる桃香を無視して、彼女は口を開いた。「納得する、しないはともかく、もはや朝敵となった一刀殿と培った関係は忘れてほしいのです」「―――っ」「むしろ、突き放すべきで―――」言い切らぬ内に、桃香の掌が翻り乾いた音を室内に響かせた。瞬間の衝撃に、音々音は転ぶようにして椅子に身を預ける。頬にじんわりと広がる熱さと、途中で遮られたせいか鈍い鉄の味が口内に広がるのを自覚して――――――音々音は、喜んだ。ようやく、手を出してくれた。帯刀した男達がこの場に居る以上、劉協や桃香には全てを話すことは出来なかったから。だから、音々音は悪し様に一刀を扱って、好意を抱く彼女の怒りを引き出した。小さく声を漏らして、手を上げたこと事態に驚いているのか。自分の手を見つめて動かない桃香に、何時の間にやらそっと恋が近づいていた。「桃香! 落ち着け! 恋、桃香を抑えていろ」「―――劉協様、桃香殿は一刀殿と繋がっているかも知れないのです。 いっそ、朱里殿や雛里殿の居られる場所へ 頭を冷やしに行って貰いましょう」「ねねちゃん……っ」「……お前達、ねねは劉協様に事のあらましを説明しなくてはならないのです。 桃香殿を丁重に、送ってやるのです」突然と言って良いだろう。それまで顔を見合わせて様子を見守っていた“あちら側”であろう男達は、音々音の言葉に一つ頷くと桃香の腕を引っ張り、踏みとどまろうとする桃香を強引に歩かせる。短い声をあげながら抵抗するも、数人がかりとなれば留まることも出来なかった。「私っ! 私は、ねねちゃんの言うこと信じないからっ! 絶対、絶対おかしいよっ!」喚くように声を上げて去る桃香に、顔を向けることもなく。音々音は完全に男達と桃香の足音が消えるまで、劉協へと顔を向けていた。その劉協も、桃香が去るまで口を開くことは無かった。左の頬を赤く染めて上唇を噛む音々音の目の端に、僅かに浮かぶ水滴を見つけたせいだった。それが桃香に叩かれた痛みからくるもので無いことは、表情から察しがつく。決して彼女の本意ではないことも。官僚達や、帯刀した男達が居るせいで、煽るように言わなくてはならなかったのだろう。自分に、本意を伝えるために。「……それで、ねね」「はい……」「何があったんだ」「……概ね、昨日の出来事は先ほど述べたとおりなのです。 劉協様に、一刀殿との関係を否定してもらうことも、ねねの望むことです」そう、一刀はもう朝敵ということになってしまった。その一刀に誑かされ続けた事になっている劉協には、ここで下手に擁護をされてしまえば劉協にとって大きなマイナス点となってしまうのだ。騙され続けていることに気がつかない無能であるとか、弱みを握られているのではないかとか、男として惚れてしまったのではないかとかおおよそ、皇位を継承するかも知れない者にとって大きなマイナス点だ。「劉協様、一刀殿は漢王朝にとって無ければならぬ人なのです」「……ああ」「今、この時に張譲の謀略を覆す術はございません。 一刀殿の身の潔白を証明できるかもわかりません。 けれど、道は繋げていかなくちゃいけないのです」故に、音々音は劉協に立って貰わなくてはならない。一刀から、帝である劉宏の状態を聞いた音々音は、劉協を皇帝にすることが一番の近道であることに気がついたからだ。勿論、劉協が皇帝になってすぐに一刀を呼び戻せば、それはまた政争の火種になってしまう。一刀を漢王朝に戻すには、劉協が皇帝となった上で此度の件が謀りであったことを証明し潔白を示した上で呼び戻さなくてはならないのだ。劉弁では無理だ。彼は劉宏帝と同じように周囲の者の言葉、その裏表を鑑みれずに鵜呑みにしてしまうだろう。「残酷なことを言うな。 我が兄を差し置いて帝となれというのか」「漢王朝にとって、一刀殿が不要だというのならば劉協様が玉座に座らなくても構わないのです」「―――」「そちらを選んだ場合……」「言わなくて良い。 話は分かった……」選んだ場合、自分の下には残らずに一刀を追う。そういうことなのだろう。劉協は複雑な感情を抱えて、しかし、喚くこともせずに黙り込んで考えた。一刀を失い、おそらく一刀が外戚として連れてきた桃香達も手元に置く事は難しい。この斜陽を迎えた漢王朝に於いて、最も良い方法を目の前の音々音は提示してくれている。一刀が居たことで、ギリギリの均衡を保っていたのは劉協にも分かることであった。民の信望が、漢王朝の何処に向いているのかなど、挨拶に参った諸侯の声からも明らかだ。何より、自分が真名を託した初めての人。この宮内で誰の言葉を一番に信じられるかと言えば、一刀の物だった。「……帝、か」「劉協様、どちらへ?」呟いてスクリと立ち上がり、歩き出した劉協に音々音は尋ねた。劉協はその声に僅かに立ち止まると「……父の元へ。 別れを済ませてくる……私を支えてくれ。 もう、ねねしか頼れぬのだ」「……はっ」言って音々音と恋も、劉協の後を追うように一歩踏み出して、それを手だけで遮られた。誰もついてくるな、ということだろう。一人だけでは危険だ、とすらも言わせぬ無言の圧力が、そこには存在した。ついて来ないのをしっかりと確認してから、劉協は一人、帝の元に向かって歩きはじめた。その後姿が消えるまで見つめて、音々音は恋へと視線を向ける。「恋殿」「ねね、桃香たちは、どうなる?」「……かばう事は、立場上できないのです。 介入すれば、それは劉協様の弱みになってしまうですから」「……それは、やだ」「恋殿、劉協様を守ってくだされ。 劉協様に何かあれば、本当の意味で終わりを迎えるのです。 お願い、するのです……」言いながら、音々音は恋へと頭を下げた。そんな音々音の行為に、恋は無言で握り締めていた拳を開き、大きく息を吐く。「寝る」「……」思うところは多くあるだろう。吐き出した溜息が、言葉無くとも音々音にそれを伝えていた。全てを飲み込んで、恋はただ一言、昼寝すると音々音に伝えて一刀の使っていた部屋に向かって歩き出した。音々音はそんな恋を見送り、一人きりになった室内で彼女もまた大きく息を吐く。それは溜息とは違う物であった。静寂を思わすこの部屋に、もう一度笑顔を取り戻して見せる。その為に、下手な芝居まで打ったのだ。ようやく痛みの引いて来た頬を片手で押さえる。痛かった。まっすぐに一刀だけを思って放たれた桃香の平手は、きっと幾百の名刀が身を突き刺すよりも痛かったに違いない。音々音は自らの使う部屋へ戻ると、墨を取り出して竹簡を広げた。この場に昼まで戻らなかったのは、劉協を帝に押し上げる決意を伝える為の覚悟が決まらなかったからじゃない。一刀から聞いた“天の知識”を下に、音々音が描いた未来の為の準備から遅れたのだ。曹騰は、上手く偽の証拠を張譲の目の前で破いているだろうか。袁紹は、自分の手紙を読んでくれただろうか。劉協の覚悟は、自分の声で決まってくれただろうか。分からないが、それでも一刀を取り戻す道を繋げるためだ。もう無様に迷うことなどしない。ああ、そうだ。覚悟するといい、張譲。一刀殿に関して謀略を打った相手が誰なのかを思い知らせてやろうではないか。「……我が名は陳公台! 一刀殿“一”の家臣にして、頭脳! 策謀全てを押し流してみせるのです!」竹簡の上に、墨は走った。――――「なー」「なんだ、また来たのかお前」昨日、謀略の渦中にあって心中穏やかならぬ時を過ごした一刀は、軟禁されるように宮内の一室で時を過ごし、夜を迎えて至って平常心となっていた。器用に飛ぶようにして、僅かな縁を伝って一刀の下へ訪れた猫が、夜になって再び顔を出したのである。昼間に余りに暇すぎて小一時間ほど遊び、ついでに配給された残飯のような食事を分け与えたせいで懐かれてしまったのだろうか。とっくに夕食の時間は過ぎてしまったし、また来るなどとは思いもよらなかったので取り置いても居ない。しばし、一刀を警戒するように窺いながら、鳴き声をあげていた。「飯はないんだよな。 暇だし、一緒に遊ぶかい?」チッチッチと舌を転がして指先を床に置き、トントントンと細かに叩く。昼間、遊んだのだから今回も、という一刀の目論みはあっさり交わされることになった。「チッ、ペッ」気のせいだろうか。舌打ちされ唾を吐きかけるような声を出すと、猫はぷいっと顔を逸らして来た時と同じように器用に僅かな屋外の縁を伝って一刀の視界から消えてしまった。舌打ちまではいいが、猫に唾を吐きかけられるとは。「……」『なぁ、今の猫すげぇ渋い顔して去って行ったな』『餌がなければこんなものだよ』『“南の”が言うなら間違いないけど』『基本的に、獣は正直なんだ……ああー、美以に会いたいなぁー』一刀がこうして、気持ちに余裕が持てているのは脳内と徹底的に話し合ったおかげでもある。人間、やるべきことが決まっていると安心するものだ。それが例え、厳しい道だとしても自分の道が見えずに右往左往しているとくだらないことで迷ってしまう。身を持って体験したばかりに、教訓となって一刀の胸に刻まれたことでもある。未だ玉座の間での後悔はあるが、後ろを見ている場合でも、下を向いてる場合でもない。今は、ちゃんと前を見据えなくてはならないのだ。一人だけでは、そんな簡単なことも気付けなかったかも知れないが一刀は一人ではなかった。あの頭が割れそうな程の痛みの中で吐き出した口論が、結果的には幸いとなって遠慮せずに物を言い合える土壌を作っていた。時に、ぶーぶー文句を垂れる脳内、或いは本体も会話の途中で垂れていたが結束力は随分と上がった気がする。「しかし、決まったらすぐに動きたいんだけどな」『まー、こればっかりは待つしかない』『放り出されるのを待つっていうのも、おかしな話だけど』この言葉にいつしか、今日だけで何度繰り返したか分からない考えを、一刀は振り返っていた。ぶっちゃけると、これだけしかする事が無い、というのもある。一刀が音々音に託したことは幾つかある。まず、歴史の流れから反董卓連合についてのことに触れていた。黄巾の乱が終わったかどうかは定かではないが、蜂起はこの歴史の中でも起きた事だ。終わっていようと終わってなかろうと、どんな形であれ歴史をなぞる事に成るのであれば、次の大きな事件は反董卓連合だ。これのタイミングを知る事件は幾つかあるが、宮内に身を置けない一刀にとっては難しい部分となる。この難しい部分を解消する為に思いついたのが、竇武や陳蕃を通じた外戚の者たちを通じ、洛陽の事情を知ることであった。近く宮内に参内する予定であったが、こうなれば一刀を通じて官僚の枠に入ることは難しい。そうなれば、彼らも元が宦官に追い出された身。宮内へ現れる可能性は低いだろうし、竇武や陳蕃も慎重になって身を隠そうとするだろう。音々音に頼み、連絡を取ってもらい、一刀を見かけた時にあちらから接触してもらいたい旨を伝えればある程度の情報は入手できるのでは無いだろうか。タイミングを知る問題はこれで良いとして、次は董卓達の行動である。勿論、天代として居た一刀にとって、脳内の一刀達の経験は当てに出来ない。歴史の流れだって相当に歪んでいるだろうし、本体の知識も同様だ。実際に会えれば別だろうが、それこそ賈駆を初めとした者達が一刀と董卓が接触することを拒むだろう。漢王朝から追放された一個人と仕える主を天秤にかけることは在り得ないから。そもそも、一刀が向かう先が西とは限らないし、反董卓連合が在るのかどうかも分からない。その場合は、董卓でなくても何とか連合を起こして貰うしか無いだろう。これについて、音々音が候補としてあげたのは袁紹だった。先にも述べたことがあるが、袁紹は諸侯の中において、絶大な権勢を誇っている。三公を何代にも渡って排出し、統べる領土は広く、放っておいても豪族が集ってくるし民だってそうだ。袁紹はその袁家を束ねる長だ。現段階で、董卓以外で連合を組ませるのに適しているのは彼女しか居ない。納得してもらえるかどうか、それは分からない。最悪、土下座してでも頼み込まなくてはならないだろう。『麗羽に土下座するとか、ワクワクがムネムネするよ』『メーディーックッ!』「ちょっと、今まとめてるんだから待っててよ」『無視しとけ、本体』『そうそう、病気だし』『全員な』『ふっ、まぁな』『……くそ、否定できないっ』「……えーっと」思考を遮られた本体は、一つ誤魔化すように呟くと再び考えに没頭した。そう、連合を作らねばならないということだ。なぜならば、乱世へと突入するに当たって、諸侯が一同に介する最後の時だから。この、諸侯が一同に介するという部分が重要だ。恐らく、帝である劉宏が倒れることで宮内はバタつく筈だ。既に劉弁を持ち上げて、後継者としての体勢を造りかけている今になり。一刀が復帰するために音々音が劉協を持ち上げてしまえば、劉弁の周囲に居る宦官達が納得しない。その中には一刀とは余り関わりの無かった十常侍も当然居るし、王朝に戻るために劉協を押すことにした一刀と音々音は漢王朝に後継者争いを巻き起こす、その遠因となるだろう。後になって結果論となるだろうが、一刀が内から混乱を齎す形になるのは間違いない。元が張譲の謀略だとしても、漢王朝にしがみつきたいと願った自分の我侭で政争が在るだろう事を考えれば確かに、張譲の言う通り内からの脅威を起こしたとして裁かれておかしくはない。が。まぁ、正直に言えば、今更になって張譲や趙忠に遠慮する義理も無い。こちらも十分、腸は煮えくり返っているのだ。綺麗ごとを言えば、双方共に矛を収めて漢王朝に対しての今後を憂うべきなのだろう。それが適わず、どちらも拳を治めるつもりが無い以上は覚悟しなければならない。とにかく、それらを自覚しつつも一刀―――脳内を含めて―――が願うのは、乱世となる未来を防ぐことだ。諸侯同士が争うのは、最悪の未来なのだ。一刀にとっても、劉協にとっても、諸侯の皆にとっても。なによりも、この大陸で苦しい思いを抱えながら暮らす民にとって。その為には漢王朝を一刻も早く立て直さなければならない。ベストは一刀が洛陽を追い出された時に、諸侯との関わりを積極的に増やして関係を強める。それに加え、地方に居る官僚の中で清廉な人との協力関係が築ければなお良い。その間、劉協と音々音に頼ることになってしまうが、自分が戻る素地を造ってもらうこと。外から、その援護が出来れば良いが、こればかりは一刀も手伝えるかどうか自信が無かった。いざ、この洛陽へと戻って来た時、“天の御使い”という風評がどこまで維持できているかも分からない。ただ、一つ。漢王朝を存続させるには、劉協を帝として認め、諸侯や民達が漢王朝と共に歩むことを納得させるだけ。これだけで、漢王朝の存続は成る。この一刀の考えを知らずとも、張譲達が何がしかの手を打ってくる可能性だって高い。漢王朝存続がどれだけ難しいことなのか、もちろん理解はしているが、一刀の望む未来はこれだけしかもう来る事は無いのだ。難しい、出来ない、やりたくないでは、望む未来など掴めないし、諦めるつもりも毛頭無かった。「……出来る。 ねねが俺なら出来るって言ってくれたんだ」ただ、この洛陽を離れる当たって唯一の不安は、朱里と雛里のことである。この二人を預かる桃香もそうだ。これだけは、一刀も音々音もいくら頭を捻ったところで良案が出てこなかった。洛陽に居る間、彼女達に会える可能性も零に近い。『大丈夫だ、本体』『そうそう、桃香も愛紗も、皆強い子だ。 俺達は信じられる、な? “無の”』『そうだな……不安だけど、きっと』『ああ……きっと……だ、大丈夫かなぁぁぁぁ!? 桃香、頑張ってくれ、頼む!』『うおおおお、情けない声をあげんな“蜀の”! 怖くなってくるだろ!?』『……なんとかしてやりたいが』『誰か一人くらい、北郷一刀以外の頭の良い人が居れば良かったんだ』「これ以上俺の頭がおかしくなるのは御免なんだけど」『後一人くらい、本体なら、本体ならなんとかしてくれる!』「いや、そもそもお前らならともかく、他人は嫌だぞ!?」『ねねでも?』『なるほど、本体の中に美羽が居ればいいのか……』『あんまりまともに考えるなよ“仲の”』「……ねねかぁ……ずっと傍に居てくれているという意味では……いやでも、触れられなくなるし」『本体もな』心配から一転、そんな妄想に身を委ね始めた一刀であったが、戸を叩く音に気付いて視線を投げる。やや間を置いて開かれた扉から現れたのは、張譲と、それに付き添うようにして歩く李儒であった。「……」「……」「! ……」互いに視線を交わし、室内は沈黙に包まれた。一瞬、李儒は驚くような顔を一刀へと向けたが、すぐに無表情へと戻る。「たかが一日で、随分と覇気を取り戻したものだな」「そうそう落ち込んでもいられないからね、張譲さん」「……明日の朝、出立だ。 目的地は涼州、指定した進路を取ってもらう。 用意するべき物があれば李儒へ言いなさい」「分かった。 悪いけど、用意してくれるなら遠慮はしない。 裸で放り出されると思ってたから在り難いよ」「天代をそのまま送り出すことなど出来まい」最初こそ、虚勢ではないかと疑った張譲だが、言葉に陰りの無い一刀の声に宝玉が乗る掌がじんわりと汗が滲むのを自覚した。長い宮内に身を置いている中、策謀に陥れられてここまで早く自分を取り戻した者はついぞ記憶に無かった。それは張譲にとって驚愕といっていい。 驚きに心臓が跳ねる思いであった。それを李儒とは違い、顔に出さないのは流石に歳を重ねているのか。心中で動揺しながらも、態度には全く出さなかった張譲である。後事を李儒へと託して退室した張譲は、喉を鳴らしてから一つ呟いた。出来れば、自分の描いた絵図で決着を着けたかったが……「蹇碩は敗れるかも知れん……李儒の策に頼ることになるとはな……」―――結局、一刀が突きつけた要求は自分の部屋に置いてある武具全てと、金獅を初めとした軍馬を兵士全員分。更に行軍に必要な膨大な糧食と水、官軍水準の装備を兵士全員に与え、一人一人に槍と弓を用意することであった。流石に全ての要求には答えられないと突っぱねた李儒であったが、一刀はしつこく要求した。最終的には唸るようにして出した李儒の妥協案で一刀も頷くことになる。自分の武具と金獅。軍馬を500に2ヶ月は持つだろう糧食と水。槍隊、弓隊と分けて武具を全員に配給することで決着をつけたのである。―――翌日。一刀が出立の為に出ることを聞いた離宮の室内で、段珪が姿を見せていた。劉協の傍には音々音が控える中、静々と入り恭しく頭を下げて入り込む。彼女達の鋭い視線に臆する事無く、しかして下げ続ける頭を上げることはしなかった。短い息を吐き出すと共に、劉協は口を開いた。「……よくも私の前に顔を出せたものだな」「私は、劉協様の世話役の為に仕えております」「その役目、今後はねねも混ぜて戴くのです。 異論はないですね?」「勿論。 劉協様を支える手が増えるのは、喜ばしいことでございます」ゆっくりと顔を上げた段珪に、ギリっと音が鳴る。傍に居た劉協には、それが音々音の歯を噛む音であることが分かった。気持ちは分かる。目の前の男は一刀を追い出した謀略に加担しているのだ。立場が無ければ、劉協はきっと罵詈雑言を目の前に男にぶつけているに違いない。こみ上げる、音々音と同様の感情を噛み砕いて、劉協は口を開いた。「段珪、父は近く亡くなるだろう。 その間、父の元で経過を見て、変異があれば教えよ。 ……しばらく、この離宮には姿を見せなくて良い」「……それは、ここへ戻るなということですか」「勘違いをするな。 あくまでも父が亡くなるだろうまでの間だ。 段珪、お前が居なくては困るのだから」この立場に立っている故、段珪を離宮から追い出すことは出来ない。感情に任せて追い出せば、対外的には一刀の謀略から劉協を救った男を追い出す風に見えてしまうからだ。劉協の傍に、段珪は居なくては困る。それはもう、前とは違う理由になってしまったが。「承りました。 帝の元で勤めを果たして参ります」「頼んだ……」入る時と同じように、恭しく頭を下げ、過度とも思えるほど礼儀正しく部屋を出て行く段珪を見送って劉協は両の手で瞼を押さえるように揉み解しながら、荒い息を吐き出した。理性で感情を押さえつけるのも、一苦労であった。この吹き荒れる胸のいらつきは、どうにもならない。ともすれば、吐き気を催すほどだ。「劉協様、我慢するのですぞ」「分かっている! 父が亡くなるまでには、感情に整理をつけなければな……」「……吐き出されたい時は、ねねにぶつけると良いのです」「馬鹿を言うな、苦しみを背負うのはねねも同じだ。 そんな甘えたことを言えようか。 私は帝となるのだから、なおさらだ……」「……」意識を落としてはいたが、父との別れは済ませてきた。劉弁とすれ違う形で。兄は酷く動揺しており、その眼には涙すら垣間見えた。あの、情深い兄を蹴落として帝となる決意を、意識の無い父に人知れず報告した劉協の覚悟は、出来ている。もしかしたら、劉弁には恨まれてしまうかも知れない。それでも……自らの代で漢王朝を終わらせることは出来ない。精々、あるとすれば―――「いや、ねね。 一つだけ甘えていいか」「え?」「最後にするから……民の用いる服を用意してくれ。 地味な物を」「……あっ、まさか!」―――出立の時を迎えた一刀は、金獅の顔をしばし叩いた。「これから頼むよ、金獅」「ブルルッ」一つ声を掛け合って、その背に公孫瓚から貰った金獅用の馬具の上に跨る。腰には波才との一騎打ちに用いた剣が2本。これは後に、装飾が施されていたようで、幾分か見た目が良くなっていた。元が同じような剣であるせいで、一対となっているように見えてくる。その剣に加え、袁紹から渡された『†十二刃音鳴・改†』が一本ぶら下がっている。戦の前に送られた袁術の金ぴか鎧に身を包み、懐には董卓から貰っているペンダントを。両の腕には帝から賜った銀色の篭手ではなく、孫堅から送られた赤い篭手が嵌められていた。金獅の腹を、その足で一つ軽く叩くとゆっくりと歩み出す。その両足、膝から踝までを守るように、曹操から送られている蒼い具足を身に着けていた。気負いの無い様子で金獅を歩かせる一刀の胸元で、赤い紅玉がキラリと陽に照らされて光る。一刀が武具として選んだのは、全て諸侯から天代―――北郷一刀個人へと送られた物だった。そんな一刀は、既に集っているという3000人の兵の下に向かう途中。馬に乗って待ち構えているようにしていた曹操、荀彧と夏候惇に鉢合わせた。荷物を馬具に取り付けていることから、陳留へと戻るのだろう。少し前、桃香からそんな話を聞いた覚えがあった。「……祖父から終わった顔をしていたと聞いたけれど」「心配してくれたのかい?」「そんなわけないでしょ!? 憔悴した顔を拝んでやろうとしたのよ! それに何なの、目に悪い配色の武具を身に着けて―――」「桂花」「うぐっ……」「うぷっ」ギロリという効果音がなったかのように、睨みつける荀彧。口元を押さえてそっぽを向きつつ、結局肩が震えているせいで笑っているのが丸分かりな夏候惇を無視して曹操は口を開いた。「その顔なら、大丈夫そうね」「……ああ」「春蘭、兵にそろそろ出る準備を始めさせなさい」「はっ……、くふふっ」「くぅっ……!」最早、隠しきれて居ない笑い声を堪えながら、曹操の声に応えて遠ざかる夏候惇。こめかみに青筋を浮かべながら、持ち上げた拳を震わす荀彧を、やはり無視して曹操は語りかける。もちろん、余り関わりたくなかった一刀も曹操に調子を合わせた。「えーっと……さて。 私が見送ってあげるのは、一つ聞こうと思っていたからよ」「何だろう?」そこで曹操は、一つぐるりと周囲を見回した。一刀は、何が聞きたいのかをぼうっと考えて、張梁の件に思い当たる。が、周囲を一度確認した曹操から飛び出したのは、一刀の予想とは別のものであった。「北郷、私の下に来ないかしら?」「え?」「貴方を迎え入れる準備は出来ているわ。 勿論、関羽も一緒にどうかしら?」「……なんだ、俺はオマケなのかい?」「さぁ、どっちかしらね? どっちか知りたいなら、私の下に来れば分かるわよ? それと、貴方と私は対等……客将として持成すことにするわ。 どうかしら……悪い提案ではないでしょう」『うおっ……マジか……』悪いというよりも、曹操からすれば破格の提案であると言って良い。“魏の”が漏らした感嘆の声が、如実にそれを表していた。彼女の誘いを受ければ、桃香達を救う目処が立つだろう。それだけの繋がりを宮内に持っているし、関羽も一緒に、という誘い自体がそれを仄めかしている。しかし、一刀はこの選択に悩むことは無かった。いつだったか。音々音が誘いを請われた時とは違う、認められた上でのお誘いに一刀は嬉しさを覚えつつ同時に一刀にとって大きなハードルになったな、と思いながら口を開く。「誘ってくれて嬉しいよ……でも、俺にはやることがあるんだ、ごめん」それは、何時かの断りと被ったような気がした。そもそも、今の一刀を抱え込むことは曹操にとっても大きなマイナスとなる。この誘いをかけること事態、曹操は漢王朝を見捨てて自らが立つ決意をしたのだと思って良いだろう。漢王朝存続を志に掲げる一刀にとって、彼女は説得する相手になる者となったのだ。曹操を説得する。これが如何に大きな壁となるのか、なまじ歴史を知っている分、尻込みしそうな課題である。とはいえ、一刀の心は揺らがない。ねねに誓った、想いがあるから。「そう……今度こそはと思ったけれど、残念だわ」言いながら、一刀に投げられた小さな包み。曹操から渡されたそれを受け取って、一刀は怪訝な顔をする。「紅茶よ。 我が陣営に来たくなったらそれを持って来なさい。 一緒に飲みましょう」「ああ、それは楽しみだよ、曹操……それじゃ、俺は行くから。 荀彧も、元気で」「……華琳様の誘いを二度も蹴るなんて、頭にウジでも沸いてるんじゃないの?」「ははっ」「笑うとこなんて無いでしょうがっ! ああ、ムカつく! 精々苦しんで、華琳様に誘われたことを後悔して死にかけのまま生きてればいいのよっ!」「桂花、ちょっと黙りなさい」「うっ、す、すみません……」『皆! 桂花が心配してくれたよっ!』『『『『『『わかんねーよっ!?』』』』』』』「あっはっはっはっは、あー、笑わせるなよっ!」「むぎぎぎぎ、コイツ……っ」「……はぁ、北郷。 あまり私の可愛い軍師を虐めないでちょうだい」「違うんだ、悪かったよ、あぁ……うん、ありがと、元気でた。 それじゃ行くから」言って、金獅の足を進ませる。振り返る必要はない。どうせ、またいつか出会うのだから。遠くなる一刀の背を見つめて、曹操は一人胸の内で呟いた。共に、道を歩んでみることも夢見ていたと。一つ目を瞑り、次に開いた時には曹操の顔に覇気が戻る。彼女は今この瞬間、薄影に見た夢を見捨て、覇道の道を歩む決意をしたのだ。そんな曹操が固い決意を見せる中、遠くなる一刀の背を見送っていた荀彧は、ボソリ曹操へと呟くように言った。「華琳様、あの男は罵られると元気が出るんですか……?」「……いや、そうとは思えないけど……え? つまり何?」「だって、異常ですよ。 普通怒ります……え、やだ、こわい」「……そうね、可能性の一つとして考えておきましょう…………いくわよ、桂花」一体、なんの可能性なのか分からないが、ついつい口走ってしまった曹操は言葉を濁して兵を纏める夏候惇の下へと馬を走らせた。一拍遅れ、荀彧もその背を追う。 やや青い顔をして。こうして、ほんのりと北郷一刀ドM疑惑が持ち上がり、曹操との別れとなるのであった。―――曹操との別れを済ませた一刀は、自分の名で集った兵3000を連れ立って、洛陽の大通りを金獅に跨り歩く。周囲には一刀の見張りだろう、宦官が一人と数人の官僚が取り囲みその後ろを、盛大な民の見送りの下、誇らしげに歩く兵達の姿が見える。中には家族もこの場に来ているのだろう。隊列を乱して手を振ったり、別れを惜しんだりする姿も覗けた。そんな見送る家族だろう人々も、笑みを浮かべて拳を振り、応援するように声をあげていた。何も知らされていない彼らは、一刀が天使将軍として不穏な大陸を治める為に出兵すると信じ込んでいるだろう。実際を知らせず、天代としての名を最後まで有用に使おうという意図が感じ取れた。この辺は、さすがである。一刀も、半ば放り出される形を想像していただけに予想外のことであった。まるで、洛陽を波才から守り通した時のように、官軍が大通りの通行を規制するまで集ったこの民の数。もしも、この出兵が自分を追い出すための物であり、漢王朝の言葉に騙されていると知れば一気に暴動を起こしてもおかしくない。今、この時において一刀はようやく自分の持つ“天の御使い”という名の絶大さを目の当たりにした。それは、大陸に住む者達にとって大きな希望となっていたのだろう。天代故に、宮内の暮らしの中で完結して、本当の意味で民の目線には立っていなかったこともハッキリと分かった。この風評は、漢王朝から離れれば離れる程、大きく落ちていくことになる。本当のタイムリミットは、盛大に見送りをしてくれる彼らの声を失う時だ。『……甘く見積もってた。 俺は怖いよ』『“白の”……』『気持ちは分かる。 俺も怖い』『なまじ頭が働くから、そう思うんだな……“呉の”も“白の”も』『まぁ、考え込んだって変わるわけじゃないんだ。 頑張ろうぜ』『そうだな、それしかないだろ?』『“仲の”や“南の”が居るからバランスは取れてるだろ』『フヒヒ、“馬の”さん虐めないでくださいよ』『微妙に笑いながら言うのを辞めろ! 本体だってそういうの嫌いなんだから!』「え? いや別にいいけど」『『『フヒヒ、サーセン』』』「ごめん、やっぱ辞めてくれ」脳内の声に調子を合わせながらも、様々な想いが一刀の胸に去来していた。陳留から逃げるようにして踏みしめた洛陽の地。そういえば、玉璽を拾ったことも大きな転換点だったのだろうなと、苦笑するような笑みを浮かべ頭を振る。もう一度戻る時は、一体何時になるだろうか。「一刀ぉぉぉぉぉぉーーーーっ!」ぼんやりと洛陽の街を見ていた一刀であったが、ふいに聞き覚えのある声に首を巡らした。聞こえるはずが無い。だって、彼女は―――この洛陽の街に出たことなんて一度も無かった。しかし、確かに捉えたその声は、見送る民の喧騒の中で一刀の耳朶を震わせたのだ。一体どこから。しきりに周囲を見回すが、彼女の姿は見えない。幻聴か? と疑問を抱いた頃、再度震わす声に、確信する。「待ってる! 戻ってくるまで! 私は! ずっと、待ってるからっ!」姿は見えない。洛陽の街に、彼女が来れるはずもない。しかし、確かに聞こえた声は、劉協の物だ。天代として宮内に居たころ、何度となく聞いた彼女の声を自分が聞き間違えるはずが無かった。だから。「ああっ! 必ず戻る! 約束だっ!」洛陽のどこまでも届けと言わんばかりに叫んだ声と同時に、腕を天に突き上げる。劉協の声が聞こえたのだ。自分の想いの詰まった声だって、きっと聞こえた。一刀の声と、振り上げた手は、金獅に跨るせいで兵の全員に見えた。一刀が何を言っているのかなど、聞こえた者はどれだけ居るだろう。しかし。未だ天代であり、天使将軍である北郷一刀が叫び手を突き上げたことは。多くの者にとって、意気を上げるに足る所作であったのだ。「オオオオォオォォォオオオォオォォオォオォオオオオオオ!!!!」こうして天の御使い、北郷一刀率いる天兵は、洛陽を出でて涼州を目指すことになったのである。 ■ 外史終了 ■