■ 折れぬ十二の刀走った。天幕の外で、自らを鍛える将軍の口から出た瞬間に、走り続けた。今になって思えば、何故馬を用いなかったと自分の馬鹿さ加減に後悔していた。どだい、人間の足が馬に追いつくはずが無いのだ。何をしているのだろうと自問自答しながらも、それでも無い頭が微妙に働いた結果持ってくることに成功した水を最後の一滴まで飲み干し、重荷になる竹の筒を捨ててアニキは走っていた。睡眠と一度の休憩を除いて走りっぱなしだ。こんな距離を踏破できるとは、だるいと思いながらも槍を奮って鍛えた結果だろうか。ならば、厳しい訓練もやっていて良かったと思える。そもそも、こうして未だに目的地を見据えて走り続ける根性が自分にあるとは思えなかったのだから兵士の調練という物の効果は抜群なのだろう。あの天幕。何進と朱儁の人払いの為にアニキが呼ばれたのは間違いなく偶然の産物であった。その会話の中で聞こえてし0まってから、アニキは一刀の下へ一刻も早く辿りつくために走っていたのだ。反芻すれば、その時の言葉は良く思い出せる。『天代は朝敵となった。 これを西方で待ち構え討て、と』何進の間抜けな声を聞いたのを最後に、それ以降の会話は聞いていない。実際、これが正しい情報なのかだってアニキは知らなかった。ただ、もう勝手に身体が動いてしまった。「はぁっ……はっ……はぁっ……ふぁっ…………はっ……」この照りつける太陽の中、僅かに草木が生える荒野の中をただ走る。槍は捨てた。鎧も捨てた。具足も篭手も、兜も捨てた。着ているのは股間を隠す今で言うところのパンツのみだ。殆どの身に着けるものを捨てて走り続け、見れば醜いと罵られるだろうほど顔を歪ませ胸を打つ鼓動しか聞こえなくなった頃、ようやくアニキは荒野の中に変化を見つける。金色の馬に跨って、金色の鎧を身に纏った一人の青年の姿。後ろに多くの官軍の兵を揃え、従えるのは自らの世界を変えてくれた“天の御使い”だ。「うぉぉおおおおぉぉぉおぉっっっ!」獣の唸りのような声をあげて、アニキは一直線に一刀の下に走った。この声に反応したか。一刀の周りを守るように囲み、兵の動きが活発になるとアニキに向けて槍の穂先が向けられる。彼らからすれば半裸の男が汗だくになって走りこんできているのだ。警戒もするだろう。「おい、止まれ!」「何者だ貴様!」「はぁっ……はぁっ……っ」制止の声に応えもせず、アニキはそのまま荒ぶる息を整えながらも座り込む。これだけ走ったのは、ついぞ記憶になかった。強いて言えば、憲兵に追われて逃げた時であったか。あの時とは違い休憩も、途中歩くこともしたがそれでも、一昼夜を通して走り続けたことなど無いし正直言えばもうこのまま寝たかった。「待ってくれ」「天代様、しかし……」「いいんだ、知り合いだ」しかし、ここまで来たのだ。寝るのは全部終わってからで良い。一刀がアニキの顔を見つけると、そのまま兵の垣根を割くように金獅に跨って前に出る。彼から見て、アニキの様子は尋常な物では無かった。当然だ、身に着けている物なく荒い息を吐き出してへたり込む知人を見れば、一刀でなくとも何事かと思うことだろう。一刀はアニキへ水や衣服、とりあえずの鎧等を手渡すと、しばし息を整えるのを待った。ようやく一心地ついたのだろう。口を腕で拭い、重そうな身体を引き摺って着替え、立ち上がると口を開く。「っ御使い様、俺ぁ蹇碩と何進の調練に参加してたんですが―――」そこでアニキの声は詰まった。一刀が何事かを口元で呟きながら手を上げて制止したからだ。一つ二つ呼吸を置いて、少し待つように言われると、一刀は周囲に居る兵を下げさせた。よほど大きな声でなければ分からないだろう距離まで、兵達が移動したのを確認してから一刀はアニキへと首を向けた。人払いをしたのだろう。「……アニキさん、聞かせてください」「あ、ああ……その、何進と朱儁の話にあったんすけど、その……」一刀はアニキの話を聞くにつれて、徐々にその表情が険しくなる。真夜中に蹇碩の下に訪れた官僚。その会話の中に在っただろう『討つ』という言葉。間違いなく、先行して演習に赴いた部隊が一刀の指定されたルート上に配置されていることだろう。中で殺せないのならば、外で殺せばいい。天代が死んだという情報を流すのは、何も期間が決まっている訳では無いのだ。ほとぼりが冷めて頃合の良いころに、適当に賊に敗れたとか何とか理由をでっちあげて言えば良い。そういうことだろう。ここに居る一刀が率いる3000の兵は、徴兵されたばかり。意気や士気はともかくとして調練などしていない。勿論、洛陽にも練兵場はあるから、そこでの訓練はしているだろうが、追い出すことを目的としているのにまともな調練を彼らに施しているだろうか。その期待はあまり出来ないだろう。何より、一刀自身の気持ちが折れていればまず間違いなく死んでしまっていたかも知れない。蹇碩と何進が率いる兵数は5000余であったはずだ。先立って演習を行っていると言う、この5000の兵は自分に従う兵よりも精強のはずだ。『多分、先に舌戦で意気を挫き一飲みに打倒することを考えてるな』『相対した時、天兵と持て囃された自軍がいきなり朝敵扱いだ、動揺は止められないだろう』『どうする?』『このまま付き合えば負けると思うよ』「かといって、逃げる訳にはいかない」「え?」一刀の脳内に応える声に、アニキは不審な顔で言葉を漏らした。逃げる事はできない。一刀に付けている見張りだろう官僚は洛陽を出る際に別れてはいる。しかし、それは問題ではないのだ。きっと、蹇碩と接触しなければ彼らと合流する予定だったなどと虚偽の報告をされて天代は逃げたしたに違いない、などと密やかに噂を流し、いずれ事実に仕立て上げるつもりだ。西園三軍設立からこのシナリオを考えていたとすると、何進も共謀している可能性も出てくる。『本体……提案がある』『俺も』「……うん、俺もあるんだ。 言ってみてくれ」一刀はそれぞれ、その場で意見を出し合って、驚くことに全員の意見は同様の物だった。北郷一刀の意思が、一つに集約されていた。それは……「アニキさん、ありがとう。 おかげで意見が纏まったよ」「あ、ああ……?」「胸を張ってください。 貴方は3000の兵の命を救った英雄ですから」ニコリと笑って、一刀はアニキを称えると、金獅の腹を蹴って馬首を兵達へと向けて声をあげる。その声の内容は、行軍していた兵達を動揺させる内容であった。一刀はその場で、兵達を解散させて散り散りになって涼州へと向かう旨を伝えたのだ。涼州で不穏な動きをする者達が、一刀の兵団を見て討伐に来たのでは、という余計な疑惑を持たせない為だ。数百人を居残らせて兵糧や水、装備をこの場に置いて、目立たない格好でそれぞれ涼州、安定を目的地として目指す。残った者は黄河から川沿いに装備を運搬し、合流する。そんな風に、ありもしない作戦を咄嗟に考えて。天の御使いの下に集った天兵である彼らは、一刀の言う作戦の内容を理解すると、殆どの者が礼を取って解散し始めた。すぐに数十、数百のグループを組あって、鎧や具足を脱ぎ始める。一人、一刀の後ろでそれらの光景と作戦の内容を聞いていたアニキも、理解に至ると安堵するように息を吐いた。「……あ? そうか。 これで御使い様も逃げれるってことだな。 頭いいぜやっぱ、ハハハ」「……」「なぁ、御使い様……」黙して振り向いた一刀の顔は、僅かな笑みを浮かべていた。一刀がこの場で兵を解散させたのは、後ろの敵を作らない為だった。先ほども考えたように蹇碩に朝敵であると舌戦を仕掛けられれば、それを突っぱねたところで動揺は抑えられない。最悪、一刀を背後から襲う槍が現れる可能性すらある。しかし、そんな在るのかどうか分からない可能性を心配よりも何よりも、一刀がどうしても許せないのは何も知らずに自らに従う兵達が、一緒くたに朝敵と看做されて討たれることだ。洛陽を出立する時に見たものが、付き合わせる事が出来ない最大の理由だった。親だろう、年配の方に誇らしげに胸を張る者が居た。家族だろう、妻や夫に声を掛け合い抱き合っていた者が居た。子供だろう、駆け寄ってくる少年少女の頭を撫でる者が居た。そんな光景を見て、一刀は彼らを自らの死地に付きあわせる事など出来なかった。ぞろぞろと明後日の方向に向かって歩きはじめた集団を一つ見やって、一刀は金獅の手綱を引いて西へと向かい始めた。ただ、一人で。「おいおい、御使い様!?」「アニキさんも、洛陽にもどってください」その背を追いかけて、アニキは確認するように一刀へと声を荒げたが、返ってくる返事はにべもない。心中、どう思っているのかはアニキも分からなかったが、一刀の様子はおかしい。それだけは、アニキも分かった。そもそも、兵を解散させることなどしなくて良い筈だ。逃げるだけならば、このまま蹇碩の待ち構えるだろう場所から遠ざかればいいだけで、話は全然早い。金獅の歩調に合わせるように、駆け足をしながらアニキは一刀の横について声を荒げた。「ちょっと待ってくれよっ! 命を救った英雄だって? それは御使い様も含まれてるんだろ、なぁ!?」「俺は、逃げられないんだ」「はぁ!? 待てマテマテ! 待ってくれ! 一人か!? 馬鹿言うな! 死ににいくようなもんじゃねぇっすか!」「死ぬつもりは無いよ、やることがあるから」「―――っ! いやいやいや、待てよオイ! いくら天の御使いだっていっても死んぢまうだろ、無理だろ!?」アニキの声の調子は、ドンドン強くなっていった。それでも、一刀の、金獅の歩みが止まることは無かった。何度声をかけても、大丈夫、死なない、会敵したら駆け抜ける、と取り付く島も無い。それは、アニキから見て一刀が意固地になっているようにしか見えなかった。何も事情を知らぬからか、そんな一刀の態度には次第に怒りが沸いて来て声を荒げて叫ぶ。「ざけんなっ! 止まれって! わざわざ死にに行くことねーじゃねぇかよ! なあっ!?」「……アニキさん」「なんだよ!? 命あっての物種じゃねーかっ、おかしいか俺は!? ええ!?」「俺には守りたい人が、守りたい人達が居るんだ。 その為には、行かなくちゃいけないんだ」「っ……」喚き散らしたアニキへと、初めて視線を向けて見せた一刀の表情に、気おされて言葉に詰まる。一度止まった金獅の腹を叩いて、また一刀は西へと向かう。駆け足をしていた回転が、徐々に緩んで金獅との距離が離れていく。そうして遠ざかる一刀の背を、アニキはただ見守ることしか出来なかった。やがて、荒野の丘陵の谷間に姿を消していく、金色の人馬。「……くそっ! もう知るかっ!」地を蹴りつけて僅かに舞い上がる砂埃。怒気を孕んだ表情に、いきりたつ肩を震わせてアニキは踵を返した。一体誰の為にこれだけ疲れて走ってきたというのだ。必死こいて頑張ってみれば、その本人が嬉々として死に場所へと向かっていくのだ。冗談ではない。頑張った分だけ無意味であった。考えてみれば、波才の下で軍師として働いていたあの少女達もそうだ。自分の命が終わるかも知れないのに、頼んでも居ないのに自分から死地に向かって行ったではないか。頭は良いかも知れないが、そんな奴は馬鹿だと心で嘲笑していた。結局、天の御使いも彼女達と同じように頭が良くても馬鹿なのだ。死んだら全部が終わりだという、そんな根本的な問題すら分かっていない。自らの命が何よりもこの世の中では大切で、失くしちゃいけないもの。それを分かってない。まったく、偉い奴は何も判ってない。馬鹿ばかりの世の中に、本物の馬鹿が居るとすれば、それは嬉々として死のうとする偉い奴だ。雲の上にある偉い偉い天の御使い様、北郷一刀だって、ただの馬鹿であるとハッキリした!気がつけば、アニキの足は再び駈足を始めていた。どうしようも無く荒れた心中と、沸騰するような熱い頭に我慢が出来ない。仕方ないじゃないか。死んだら終わりなのだ。「俺は死にたくねぇ! 死んでたまるか! 死んだら夢も見れなくなる! 間違いじゃねぇ! これだけは俺は誰になんと言われようと、間違ってねぇーんだっ!」熱くなって、どうしようもない感情を声に発して荒野にぶつけて立ち止まる。そんな馬鹿に夢を描いていたのは、自分である。振り返った視界に、自らが夢描いた人馬は見えない。歯を食いしばって、震えるアニキは荒野に立ち尽くし、それは随分と長い間に渡って続いた。そう、彼が動く事は無かった。今は、まだ――――――一刀は金獅の上で流れる風景に、懐かしい想いを抱いた。何時だったか。公孫瓚と共に遠乗りに来て、そのまま張遼と出会って宴会にもつれこんだあの日。あの日に見た薄皮に包まれた皮は開ききり、見事な桃の実をつけている。荒野を抜けて山岳に差し掛かった道を上げたところで、一刀の視界に徐々に広がる人の波。もぎとった桃を齧り、口内に広がる甘みを噛み締め、種を吐く。『おー、居るなー』『ご苦労なことだね』山岳の合間を縫って広がる狭い道の頂上。そこで、一刀は金獅の手綱を引いて立ち止まった。蹇碩の旗と何進の旗が翻り、まるで待ち構えるようにしてこの山岳に開けた場所で布陣している。抜ける道は一つきり。狭所となった場所を塞ぐように、陣取られている事を考えると蟻一匹すら逃さないという意思が見える。そんな一刀はすぐに見つかることになる。もとより隠れることなど考えていない。ここに北郷一刀は現れた―――どちらにしても、それを知ってもらわねばならないのだから。そして、一刀を見つけた蹇碩の方でもやにわに動揺が広がる。「なにぃ? 一騎だとぉ?」「蹇碩殿!」「何進か、なんだ!」「天代の部隊と合流する予定では無かったのか。 なぜ天代様が一人でこの場に現れるのだ!」それを聞きたいのはこちらの方だ。蹇碩は怒鳴り散らしたいのを我慢して、手を振り上げてこちらへ向かう何進に渋い顔をした。予定では、一刀は3000の新兵を率いてこの地に現れるはずであった。その場で合流するということを、何進に伝えても居る。ところが、この場に現れたのは天代ただ一人。趣味の悪い色合いの装備に身を包み、山岳の頂上付近でこちらを見下ろしていた。この3000の兵と、何進大将軍を自らの舌で言い包めて天代を駆逐する。これが張譲の描いた謀略であり、協力を求められた蹇碩が為すことであった。とにかく、予定通りに北郷一刀が現れたことには違いないのだ。むしろ、たった一人で現れたことは、天代を討つ好機以外の何ものでもないでは無いか。何より、これは小賢しい天代の描いた罠かも知れない。勇んで突撃すれば、周囲に伏兵が居て手痛いしっぺ返しを食らう可能性は、ある。自らの持つ兵に、蹇碩が天代の周囲に兵が居るかどうかの斥候を出すと、何進はようやく蹇碩の前に現れた。何かを言う前に、蹇碩は身振りで何進へと天幕を指し示して、自らも中に入る。豪快にバサリと天幕を開くと同時に、何進の声が響く。「蹇碩殿、これはどういうことか聞かせてくれ」「私は知らんぞ、聞かれても困る」「そうかな? 朱儁将軍から、話は聞いているぞ。 誰かは知らぬが、真夜中に官僚が蹇碩殿の天幕に訪れたそうですな」「なに? 盗み聞いていたのか貴様?」「なるほど、やはり天代を討つ為だというのは本当であったか」この場所に、天代が現れた事実をもって、何進は政変が在ったことを確信した。そして、前から天代と対立することを隠そうともしなかった蹇碩が、この場に居るということは天代を追い出した者達に加担していることも同時に理解する。「随分、私も上手く利用されたものだな」「勘違いをして憤られても困るぞ、何進大将軍。 天代は理由あって追放されたのだ」「追放? 天代ともあろうお方を追放するとは、余程の理由があるのか」「その通り、天代は劉宏様を誑かし、帝位の簒奪を謀ろうとしていたのだ」「ふっ、はっはっはっは。 面白いことを言う」蹇碩から理由を端的に聞いた何進は、思わず口から笑いが漏れた。なるほど、西園三軍の創設から既にこの絵図を思い描いていたのだろう。確かに、一刀の任命した者達は今までの軍権をガラリと変える物であり、一刀本人と強い繋がりを持っている。それは、調教先生として教壇に立つ場に何度か居合わせた何進も認めるところだ。と、なると天代と協力的な姿勢を見せていた張譲も怪しい。西園八校尉の設立を持ちかけた、趙忠も然り。いわば、最初から漢王朝に在る天代を追い出す方向で物事は動いていたと考えて良いだろう。この事実は、何進を酷く腹立たせる物であった。利用されたことも然ることながら、成り上がりだと影で囁かれて、ヤッカミに身を焦がした何進にとって一刀は自らの境遇と重ね合わせて共感の出来る青年であった。高い地位に身を置いてから、漢王朝の為を思って身を砕いた苦労も同様に。自らの地位を跳び越した、まだ若い天代に嫉妬はあったかもしれない。それでも認められたのは、乱れに乱れた宮内を、漢王朝という巨大な龍の毒を吐き出そうと身を削る姿を見てきたからだ。黄巾の乱から始まって、宮内での政に精を出す姿を。漢王朝を憂いて働く者が、どうして帝位の簒奪などと言う突拍子も無い疑いをかけられるのか。それこそ、波才と共謀して洛陽を陥れた方が話は早いではないか。「何を笑うか、何進!」「蹇碩殿こそ、何を真顔で冗談を言うか! 簒奪するなどありえんわ」「貴様も天代に誑かされた口なのか? 帝の傍に在って苦しみを感じ取れぬのか」「苦しみ? 帝は天代との会話を楽しんでいたように思えたがな」「阿呆がっ! 事実を知ってなお、その様な事を言えるとは! 漢王朝の敵となるつもりか!」「余りふざけた事を言わないで貰おうか! 何をどう捉えれば漢王朝に刃を向けたことになる!?」この二人のすれ違いは、事実を知っていると勘違いしている蹇碩にあった。張譲の謀りを知っているものとして話す蹇碩と、端的にしか事情を知らない何進のすれ違いだ。だからこそ、何進は蹇碩の言葉が余りに過程をすっ飛ばした妄言と思えてしまい蹇碩は何進が天代側にあると断じることになる。ただ、代わらないのはこの場に天代が現れたこと。それが示すのは、政変があった洛陽で一刀が追い出されたことを意味している。つまり、この場合には中身はどうあれ、何進が天代を庇う事は許されない事実だけが確認できる真実なのだ。「……蹇碩殿は宦官の中にあって、帝を憂うことが出来る数少ない者だと思っていた。 好感すらも覚えたことがある」「黙れ、逆賊め! もはや語ることもない。 とっとと去れ!」「しかし、最早ここに至ってそれが全て、私の勘違いだと言う事が分かったわ! 追放されたという天代には加担はしない。 帝を蔑ろにし、漢王朝を本当の意味で見捨てている者を残し 大将軍に在る私が、軽挙で持って身を滅ぼすことは出来ぬからなっ!」「貴様! この俺が帝を蔑ろにしているだとっ!」何進のこの言葉は、蹇碩の頭を沸騰させるのに容易であった。十常侍に召し上げられて、今まで一度も帝の言に沿わぬ事をした覚えが無い蹇碩にとってそれは自身の名誉を踏みにじられたことに等しいからだ。腰に下げる刀剣に手をかけた蹇碩を無視して、何進は踵を返す。斬られることは無いと、わかっていたから。ここで何進を殺害することは、謂れの無い大将軍を無闇に滅することでありそれは蹇碩にとって言い逃れの出来ない罪となるからだ。「こんな茶番に、私は付き合うつもりは無い! 洛陽へ戻らせてもらうぞ!」「覚えていろよ! 何進! 貴様に未来は無いぞ!」「ほざいてろ」捨て台詞一つ、天幕を飛び出した何進が蹇碩の声を後ろにして馬を引くと兵を全て無視して天代の下へと向けて馬を走らせた。こちらへと単騎で向かう何進の姿は、一刀もしっかりと捉えていた。近づくに連れて、一刀の緊張は高まっていく。何進が“どちら側”であるかを知らなかったから。10メートル前後開いた距離で、走らせた馬を止めて何進は眉間に寄せた顔を一刀へ向けた。「……」「……」お互いに黙し、美しい実をつけた桃の木の下で相対する。自然、一刀は腰にぶら下げた刀剣の柄を一つ撫でる。所作を見やり、その沈黙を最初に破ったのは、何進の方であった。「天代殿。 洛陽へ戻られよ。 漢王朝に貴殿は必要だ」「……何進さん」「細かいことは知らん。 しかし、今、天代を失うのは漢王朝にとって明るくない それだけは、この私でも分かることだ」「……無理です、追放に足る理由は作り上げられてしまっている。 覆すには難しいんだ」武力以外では。そして、武力を用いればそれは、簒奪したと言って過言ではなくなる。この会話から、何進の状況をおぼろげに把握した“無の”が代わるよう要求した。ほんの僅かの一拍を置いて、何進の口が動く。「……分かった、ならばもう語る術を持たん」「何進さん、お願いがある。 軍部を纏める貴方に、劉備を放り出して欲しい」「なに? 天代の部下であるあの子か?」ゆっくりと頷いて、一刀は何進を真っ直ぐに見つめた。「頼んでも、良いかな……この剣を一緒に渡して欲しいんです」「……遺言のようなものだ。 その話、承る」「っ―――ありがとう、恩に着る」一瞬、言葉を詰まらせた一刀とすれ違う時、一刀が腰から引き抜いた二本の刀剣を何進に突き出した。礼を言われて差し出された剣を受け取り、何進は振り返らずに馬を走らせた。この剣を、一刀は詫びと想いを乗せて差し出したのだ。―――・蹇碩は、何とか怒りを噛み砕いて天幕の外に飛び出ると、先に走らせた兵から天代の周囲に兵の影は形も見えないことを知る。腰に差した刀剣を抜き、もう片方の手で玉璽の押された書状を取り出して蹇碩は叫んだ。「帝位の簒奪を目論んだ天代、北郷一刀をこの場で討つ! 全ては洛陽から届けられた、この玉璽が押印された書状に書かれている通りである! 天代、北郷一刀は自らを漢王朝に降りた“天の御使い”と自称しながらも その腹の内に醜悪な野望を秘めて帝位の簒奪を目論んだのだ!」叫ぶ言葉は、この広い山岳が響き、返すようにして広がっていく。その声は、山岳の頂上に居た一刀の下に伝え聞こえていた。集る兵達は、この声に示す反応が鈍かった。確かに、玉璽の圧された書状を掲げて天代を糾弾するものの、それは彼らにとって余りに唐突に過ぎたのだ。一刀の後ろに兵が居ればまた、違った威圧感と印象を与えたかもしれない。しかし、丘の上で佇むは、ただの一騎。そんな大それた野望を秘めているのならば、何故、この場に死にに来るかのように一騎で現れたというのだ。なおも続く蹇碩の声は、もはや聞くことすら無駄だ。一刀は一つ目を瞑り、袁紹から貰った刀剣に手を伸ばして柄を掴む。『……駆け抜けるだけなら行けるよね』『覚悟は決まったか?』『当たり前だ、翠に会うまで死ねるか』『美以をちゃんともふもふしなくちゃねぇ』『あの遠乗りだけじゃ、満足できないしな』『土下座もしなきゃいけないしね』『美羽に蜂蜜を上げる約束してるんだ、守らないと』『もう一度、桃香と会う。 その為には仕方ないしね』『愛紗も忘れるなよ』『連合のことが在るんだ、月を放っておけない』『孫堅さんの事もある。 彼女達に会わないままってのは無いだろ』『華琳が紅茶を飲むのに誘ってるんだ、覇王様を待たせると、後が怖いからね』「……ねねと劉協様が待ってるんだ。 こんなところで立ち止まれないさ」「ブルルッ!」金獅の忘れるなとも言っているような嘶き、一刀は目を瞑ったまま苦笑する。そうだった。金獅だけは、この死地に付き合わせてしまう唯一の者だ。「頼りにしてるよ」丘の上。金の鬣と尻尾を持つ、この時代の軍馬でも一際大きな体躯を持つ金獅。背に跨る意思に引っ張られるかのように、吐き出す息は荒ぶりツル首となって馬具を噛み締めていた。そして。金獅の馬上でゆっくりと開かれた一刀の目は鋼の意思を見せて、眦は自然下がった。眉間に皺が三本寄り、頬は震えて真一文字に口は閉じられた。視界を埋め尽くす、味方だったはずの人と刃の群れ。開けた世界に、ぶるりと一刀の身体は震えた。その全身から立ち上る気炎はゆらりと空気を歪ませていた。そう、揶揄でも何でもなく、一度震わした身体から湯気が出ていた。気温の高い、この熱い洛陽の猛暑の中で大気を歪ませるほど。驚くほど、自分の感覚が鋭敏になっていくのを一刀は自覚していた。「―――行くぞっ皆っ!」『『『『『『『『『『おう!』』』』』』』』』』一刀の、或いは脳内の呼応に答えるように。金獅は手綱を引かれた訳でも、身体を叩かれた訳でもないのに大きく一つ嘶いて駆け出す。坂を駆け下りる一刀の背後に、一本の線が引かれるように粉塵が舞う。腰から引き抜いた、“†十二刃音鳴・改†”が、金獅の駆け抜ける先の風に煽られて甲高い音をその刀身から響かせていた。一直線に駆け抜ける一刀と金獅に、蹇碩の荒い声が飛ぶ。官軍の兵にとって、たったの一人、たったの一騎で数千を越える兵の群れに駆ける人馬は、想像の外の出来事であった。金獅が間近に近づくその時まで、ただただ駆け下りる一刀を呆然と見ているだけだった。敵が居ると聞かされて槍を、刀を、武器を持った。その武器を向ける相手はどこにも居らず、目の前には天代・北郷一刀のみ。何も知らされずに賊の討伐に来た官軍の兵は、一刀のたった一人の突撃を見ることだけしかしなかったのだ。この目の前に居る、天代が敵であろうか―――迷いは伝播し、向けた槍は僅かに後退する。壁となる場所を器用に避けて、走る金獅の上で、一刀は声を出す。この迷いが、迷いのまま終わるように。己が運命に立ち向かうように。「道をあけろぉぉぉぉぉっ!」ついにただ駆け抜けるだけでは難しい、兵の密集地帯に入り込んだ一刀は邪魔になる槍に目掛けて剣を奮う。一際甲高い音が山岳に弾け飛んで、この地に居る全ての人の耳朶を奮わせた。接触した槍が勢いに押されて仰け反ると同時に、一刀の顔の真横を通り過ぎて行く破片。振りぬいて引き戻した一刀の手の中にあるは、“†十二刃音鳴・改†”の刀身が音を奏でる部位を残して消えている姿だった。代わっていた“馬の”、素っ頓狂な声が響く。「折れたぁーっ!?」『『『うぉぉぉぃ、袁紹ーーーーー!』』』『麗羽、ごめん、流石に擁護できないよっ!』「がっ……!?」その声は誰から漏れたか。一刀の真横を通り過ぎた刃の刀身が、不幸にも兵の首めがけて突っ込んで行き、その喉をかき切った。溢れ出す鮮血が、経緯はどうであれ兵に一つの答えを導いていた。「ひぃっ!」なにも分からない、どうしてそうなったのか。理由などどうでもいい、問題は今だ。今、この時に天代が奮った剣が、味方を―――自分達に奮われたという事実だけで、理解してしまったのだ。天代は―――あれは、敵だと。「うわあああっ!」「こ、殺せぇっ!」「なんでだああっ!」恐慌染みた叫びは流れ、ここで初めて兵の、自分自身の意思を持った穂先が一刀に迫る。迷いが消えれば、後ろ盾は無くなってしまった。中央を真っ直ぐに切り開いた道は固く槍の穂先で閉ざされて、金獅が駆ける空間は一気に狭く細くなる。『“呉の”! 右だ!』誰かの声に、咄嗟に反応して頭をかばう。瞬間鈍い音を立てて、槍の閃刃が一刀の右腕を叩いた。甲高い音が響いて、孫家から貰った手甲は割れ落ちていく。反撃する間も無く、通り過ぎた視界に残すのは黄巾党と相対した時に一刀が敷いた槍衾。とてもただの一騎が貫くことは出来そうに無い。瞬時の判断で、“蜀の”の声が頭を打つ。『“馬の”!』『あっ、代われ、こっちだ!』斬り飛ばした槍の木片が宙を泳ぎ、一刀の身体は泳いだ。瞬間、進路を右方に取り、兵の波をなぞる様に平行して走らせる。群がる人と槍の隙間を縫って、金の人馬は徐々に、徐々に前へと進んでいった。強引に手綱を操って引き戻した身体の残影を射抜くように、弓矢が飛び込んでくる。その避けた矢が奥の兵士に突き刺さり、悲鳴と共に恐慌が包む。塊となった人の群れを“馬の”は勢いを殺さずに突っ込んで行き金獅はそれに応えるように地を蹴って天に向かい飛んだ。そして空で視界に捉える、見える唯一の駆け抜ける道。そこまでには、まだ遠かった。―――・洛陽へ急ぐ何進は、途中で官軍の兵装に身を包んだ一団を視界に収める。その数、おおよそ三百。全てが馬に乗って荒野に砂塵を巻き上げて駆け抜けていた。ちょうど何進に向かって進める軍馬は、方角からして天代と出合った場所と直線状に結ばれていた。その集団の先頭を走るのは、アニキであった。「待て! 止まれ! 貴様ら何処へ行く!」明らかに将軍と思える装備に身を包む何進に止められて、数百の天兵は自然足が止まった。何進の顔を認めて、吼えるのはアニキだ。馬鹿な人に、馬鹿がつくのは当然だろう。馬鹿な夢を見るために、馬鹿がついていくのだ。止めた足を二度、動かしたときにはアニキは一刀に騙されて装備を纏めていた居残りのグループに叫びを上げたのだ。「何進か!」「貴様、なんだその態度は! お前達、まさか天代の下に向かっているのではなかろうな!」「何を当たり前の事を言ってやがる!」「いかんぞ! 貴様らは漢王朝の兵、漢王朝の盾だ! 朝敵として在る天代の下に向かえば、逆賊になるのだ! 分かるだろう!」何進の怒気をはらむ声は尤もであった。しかし、そんな正論に頷けるような者ならば、この場で馬を走らせて天代を追いかけては居ない。それは、アニキ以外の天兵も同様だ。あの時、アニキの叫んだ言葉のほうが、何進の正論よりも魂を奮わせたのだから。「御使い様が居なかったら、俺が官軍に居る意味なんかねぇんだ! 黄天より、どこの天よりも! 俺ぁ御使い様の見る“天”が見てぇんだよっ! 大将軍だろうとなんだろうと、邪魔すんじゃねぇぞっ!」引き抜かれた剣を水平に凪ぐように奮われたアニキの腕は何進によって引き止められた天兵を動かすに足る十分な啖呵であった。「おいっ!」何進の制止など何処吹く風か。軍馬は一つの意志を持って動き出し、天代の下目指して荒野を一直線に割いていく。「逆賊にでも何でもしやがれっ! 俺ぁ賊暮らしは慣れてんだよっ!」捨て台詞一つ。残してアニキもまた、天兵の砂塵の跡に消えていく。舞う砂煙に目を細めて、何進は叫んだ。「くそっ! もう知らぬぞ! この砂煙で何も見えなかったわっ!」―――・未だ疾風となってこの地を駆け抜ける一騎の人馬の姿に、蹇碩はその顔を歪めて憤慨した。自らが弓矢を抱いて馬をもって駆け出し、いくら人数をかけても天代を囲むことは出来れど討つことの出来ない兵を役立たずと罵りながら恐慌に震える兵士達を吹き飛ばすように馬を飛ばし、一刀を射程内に納める為に真っ直ぐに駆けていた。馬上での騎射は、尋常ならざる技術を持ちえてなければ難しい。それは何度も何度も練習を繰り返して、ようやく手に入れる職人芸に等しいのだ。その難度高い術を、蹇碩は持ち得ていた。この技を手に入れることが出来たのは、全ては帝の期待に応える為。上下に揺れる視界の中。自軍の兵から奪っただろう槍を馬上で奮う一刀を捕らえて。キリキリと甲高い音を奏でて撓る弓に、支えるように添えた左手に伝わる筈の感覚を感じる。限界まで引き絞った弓が、ただ殺害するという意志を持って撓んで弾けた。「ふおっ!」吐き荒れる声と共に放たれた矢が、空気を切り裂いて音を鳴らし、一刀へと迫る。その一矢。取り囲む兵の道を切り開くことだけで精一杯であった一刀を確かに突き刺した。金色の鎧を貫き、その肉体まで僅か数センチのところで、何かガラスが割れるような音を響かせて身体を泳がせる。「ぐぁっ……!」砕かれたのは、胸元に潜ませた董卓から貰ったペンダント。翡翠の塵と欠片が、一刀の中で弾けて肉に刺さる。その一撃は、現状に変化を齎すに十分な威力を誇っていた。悲鳴を無理やりに抑えて揺れた一刀の身体が馬上に戻る頃には、今までに無い速度を持って突かれる槍が迫っていた。咄嗟に片足を上げて、具足を犠牲に砕かれながらもその一撃を捌くと、横合いから伸びた刀剣が首筋に迫る。最早、判断の余地なく“無の”はその手に持つ槍を振り上げた。自らの腕を伝い、人肉を突き破る音が響いて、自らの手に赤い斑点を描かせる。この所作に、足を止めずに走り続けた金獅の速度が、僅かに緩んだ。その間隙を縫って、一刀の足に向かって突き入れられた槍は、公孫瓚から贈られた金獅の馬具に当たって弾かれた。『駄目だっ! 一度抜けろ!』『戻れるかよっ!』『“馬の”が戻ってこない!』『矢が邪魔だ! 死角に逃げろ!』『来たっ避けろっ!』脳内に響く声に上体そらした瞬間、頬を横切る風切り音。蹇碩の第二の矢は僅かに逸れて、直後に迫る槍兵の胸を突き刺した。そのせいで空くことになった空間を見つけ、“董の”が無理やりに手綱を引いて金獅を飛び込ませる。この戦場に変化が訪れたのは、その瞬間だった。「オオォオォオォオォオオォオォオォォォォォオ!」金獅の馬蹄の音だけが鳴っていたこの地において、地震を思わせる地の奮えと共に意気を上げる声が響き一刀が駆け下りた後をなぞるように、数にして約300の軍馬が一直線に戦場へと向かっていた。「ああっ! なんだっ!?」「まさかっ!」蹇碩の声と、一刀の声が同時に上がったその瞬間。人の群れに軍馬の槍は雄叫びと共に突き刺さった。人の壁となっていた一刀の居る場所にまで、その衝撃は伝わって、遮られていた道が再び開く。「おのれ! やはり伏兵を配置していたな! 奴らも逆賊だ、殺してしまえ!」「くそっ、馬鹿なことしてっ! 俺は謝らないからなっ!」一刀の言葉を無視して、突撃してきた一団を無視するように先へと進む。その動揺から見えた道は、確かに後僅かな場所へと近づいていた。金獅の足ならば、10秒足らずで抜けられるその場所へ。もう、あと少しだった。あと少しであったのに、一刀の死角から伸びてきた槍は、金獅の足を確かに絡め取っていた。『―――“南の”っ!』倒れこむ金獅の動きに、瞬時の判断からの声で“南の”が曲芸のように空で体勢を整えて持つ槍を地に差すと、勢いを殺して直立することに成功する。が、遂に金獅から引き摺り下ろされた一刀の目の前には、数十の刃が一斉に向かってきていた。「誰か―――俺じゃ無理だっ!」“南の”はその刃の群れから飛び退るように走って逃げ出すと、叫びを上げた。代わる者は居なかった。代わって、どうにか出来る者など此処には居なかった。自然、時間を迎えたかのように意識を落とす“南の”から身体の主導権を奪い返したのは、本体だった。「うおぉぉぉおおぉお!」「ち、ちくしょぉっ! 誰の約束も、守れないのかよっっ!」取り囲まれ、迫り来る一撃を捌く術を“北郷一刀”の誰もが持ち得なかった。時間が引き延ばされたかのようにすら感じるほど、長い時をかけて幾刃もの刃が一刀へ向かう。そして、先陣を切る刃は確かに、一刀の胸部を突き刺した。瞬間、遅れて腹部と大腿部の肉を裂く音が一刀の耳朶を響かせる。「ふ、ふははっ、やったぞっ! たかが一騎で駆け抜けることなど出来る物かっ!」誰かの声が遠くに聞こえ、猛烈な痛みにのたうち、一刀が叫び声を上げる―――ことは無かった。「ああ、なんて痛い目ざましだ……」貫かれ体勢のまま、やにわに腕が閃いて、兵の持つ槍に手をかけると衝撃から俯いていた一刀の顔は上がって、酷く落ち着いた声が響いた。(う……あ、なんだ!?)『“肉の”……か……?』「ごめん、遅れたよ……後は任せてくれ」(え……?)まるで世間話するかのように、呟いた“肉の”の声に驚愕の反応を示したのは、一刀を取り囲む兵の全員だった。一つ息を吐きだすと共に片手の握力だけで圧し折って、胸部を確かに刺していたはずの槍の穂先が地に落ちる。ありえない物を見たかのように自らの手と、一刀を見比べて。胎に力をこめて突き入れた槍が、大腿部の筋肉の盛り上がりに防がれていた。それは天代に殺されるかも知れないという事実を、目の当たりにした恐慌の度合いすら完全に上回り彼らは恐れから、悲鳴を上げて逃げるようにして走り出す。「うわああああああああああっ!」「ば、化け物だぁぁぁあ!」「ひぃぃぃぃ!」「誰が化け物だってぇぇぇーっ!」無残にも、足を縺れさせて逃げ遅れた兵の一人の足首を持ち上げて、後退さる兵達に向けて、投げるように叩き付ける。その際、叩きつけられた兵士も軽く数メートルは吹き飛んで、撓んだ包囲の合間から目ざとく驚きに固まる、蹇碩を目撃した“肉の”は手近に在る槍を手に取ると、まるで人が居ないかのように助走を付けて投げつけた。物理法則に反するように、水平のまま迫る一槍に目を剥く暇も無く。蹇碩はその飛来した槍を左腕で受け取ることになり、そのまま馬上から転げ落ちた。「ガアッっ!?」『『『『『惜しいっ!!!』』』』』『『いいぞ! もっとやれっ!!』』「あれ、しばらく見ない間に攻撃的になってないか皆!?」(いいから、金獅を拾って逃げてくれ! この場所から離れないと―――)確かに、“肉の”が入れ替わったことで太腿と胸部を貫かれることは免れた。しかし、じんわりと広がる腹部の鮮血は、隠しきれるものでもなく。その突出した個人の武で―――とはいえ、異常性から兵が慄いたせいでもあるが―――金獅の下まで兵をなぎ倒しながら近づくと捕らえられる様に押さえつけられていた金獅を立たせ、その上に跨る。今切り開いた道に、近づく兵は居なかった。「ぐううぅぅっ、な、何をしているっ! 早く道を塞いで殺さぬかっ!」「邪魔をすれば命はないぞっ!」同時に飛び出した声は、しかし。“肉の”が発した一刀の威圧が勝った。誰も近寄らないその西へ抜ける道を、一刀は金獅と共に駆け抜ける。「おのれ! おのれ! おのれぇっ! 呆然と見送りおって! 後を追ってでも殺せっ、誰か奴を、殺せぇっ!」蹇碩の、怨嗟の声をその背に受けながら。―――・後世“天の御使い”が、ただの一騎で5千の兵を突き破って西方に駆け抜けた事が記された。その際、“天の御使い”を追いかける天兵が在り、その悉くを討ち取られたと言う説があるが真偽の程は定かではない。そして、この一騎駆けから暫しの間、歴史の中から北郷一刀の名は消えることになったという。 ■ 外史終了 ■