clear!! ~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~☆☆☆ ■ 文「むむむ……」朝。一刀は一人、朝食を抜いて即席で作られた引き出し付きの机の前で唸っていた。手には筆と墨。ここ最近、一刀は張遼との訓練と食事の時間以外は自分の家に篭っている。昼頃から張遼との訓練が予定が入っているので、それまでの時間を無駄にしないために。生活環境が落ち着いてからというもの、一刀はこうして机の前で座して、物思いに耽ることが常になっていた。一体何をしているのかと問われれば、簡単だ。洛陽の宮内で、音々音によって廃棄された『歴史』をまとめた物を、もう一度書き起こしているのある。それだけならば、こうして机の前で唸ることなど無かった。実際に一度書いているのだ。細部は違いが出てきてしまうかもしれないが、思い出しながら書いていけば、ほぼ誤差の無い物が出来上がるはずである。今後の自分の行動を纏めるためにも、指針となる為の『歴史』をもう一度書き起こそうと思ったのだが「……うーん」しかし、どうにも筆が止まってしまうのである。と、いうのも何故か頭の中に浮かぶ『歴史』がおかしいからであった。例えばそれは、定軍山で夏候淵が黄忠によって討ち取られる話が赤壁の前であり、しかも夏候淵は助かっていることだったり諸葛亮の計略を逆手にとって蜀に逆撃をかました上に、魏延を捕獲して如何わしいアレコレをする南蛮軍だったり時代を擦り合わせて近いところでは、反董卓連合を計略、野戦どちらも真っ向から打ち破っていたりしていた。そんなおかしいはずの『歴史』が、正しいことだと認識でき、すんなりと納得をしてしまう。一方で、呂布が下邳で捕縛されて処断されることや、曹操が袁紹と激突したことなども正しい物として認識できる。そんなおかしいと思う歴史と正しいと思う歴史が、絵の具の色を混ぜ合わせたようにぐちゃぐちゃで何が本当に正しい物なのかの判断が出来ない。書いてる内から、やっぱりこっちが本当だったかな? などと文字を打ち消したり紙を破り捨てたり、一枚まるまる捨ててしまったり、どうにもこうにも先に進まないのだ。もちろん、前に書いただけあって覚えているところはしっかりと、これが正しい歴史であると思えるわけだが。中でも、陳宮については、その生死に関して思い悩んだこともあるせいか、しっかりと正史が認識できている。『思うに……』腕を組んで天を仰ぐ一刀の頭に響く声。『これも俺達の影響、なんだろうな』『そうだろうね』「……」確かに、それは本体も思い当たっていた。何時から“北郷一刀”と覚えている歴史が混ざり合い始めたのか、それは定かではない。意識を失う前と、取り戻した後で身体の異変も見られないし、脳内の自分達が出来ることも本体である自分が出来ることも特別な変化はまったくない。ただ、知っている歴史が混ざりあっただけだ。慣れてしまっていたが、こうした変化を受けるに当たって、一刀はなんとも言えない感情を抱いた。自分の中に何人もの自分が居ることがまずおかしいのだ。しかも、自分ではない自分達は、一度この大陸に落ちてそれぞれの歴史を紡いできた。結果はそれぞれに違うけれども、途中で終わりを迎えて。「……外史か」『どうした?』「いや……」そこで一刀は頭を振って立つと、唯一設置されている窓を開けた。狭い室内、机から一歩分の距離であるこの窓は、張遼が脱出した際に少しだけ広がっていた。寒気が部屋の中に入り込み、白くなった吐息が部屋の中に昇って立ち消えた。窓から覗ける風景は、林立する樹木の中でちょうど一軒家の庭くらいの、僅かに草木が生えたスペースが広がっている。とりたてて、何か面白い物があるわけでもない。時折、雀か何かの鳥や犬のような獣が日向に当たりに来るくらいである。後、一刀の洗濯物。「なんか……別のことでもしようかな」ここ最近、ずっと同じところをグルグル回っているようで気が滅入ってきている。何か気分転換を図るのも良いかもしれない。一刀は一人呟くと、脳内から声がかかる。『何するの?』『せっかく墨作ったんだし、勿体無いよね』『何か書く?』『絵とかか?』『墨も紙もただじゃ無いもんね』「荀攸さんにお金払った方がいいのかな?」『まぁ、がめつい人じゃないし大丈夫じゃない?』『話を戻すとして、えーっと、じゃあ恋文とか?』『いいんじゃない? 詰まってたしね』『俺も書こうかな』『あ、俺も書こうかな』『え、皆書くの?』『恥ずかしくないか』『でもさ、俺達が想いを告げられるのって限られてるし』『まして、こんな状況ならね』『みんなに読まれるの?』『読まない取り決めにすれば?』「恋文かぁ……音々音に書こうかな」『書いたことある人居る?』この質問に、誰もが首を横に、或いは否を声にして返した。恋文など書いたことはもちろんの事、貰ったことも無い。これは本体に限った話しではなく、少なくとも一刀達にとって経験したことの無いものだった。恋文を宛てるよりも確実に、直接気持ちを確かめられる距離に彼女達が居たせいでもある。一刀は再び机に座すと、乾き始めた墨を作って筆を走らせた。「最初はえーっと、愛するちんk……あれ?」最初の一行目で早くも一刀の筆は止まった。『どうしたの?』「これって、真名の方がいいの?」『どうなんだ?』『わかんない』『俺も』『えーっと星が何か書き方云々で話してたような』『その書き方って恋文だったの?』『あれ? 手紙だったかな?』『一応恋文なら真名の方がそれっぽいんじゃない? 許されてるし』『あれ、俺は美以に会ってないよ?』『おい、俺も翠に会ってないぞ』『華琳なんて書いたら本体の首が飛ぶぞ、春蘭あたりのせいで』『俺はセーフだな……』『“呉の”とか“袁の”は良いよね』『仕方ないよね』『えー、不公平じゃねぇ?』『そうだ、不公平だぞ。 本体はもっと真名を許されるべき』「おい、無茶言うな」『でも同姓同名の人も何処かにいるだろうし、やっぱ真名の方がいいんじゃないの?』『真名許されてない俺はどうすればいいんだよ』『うーん』『とりあえず、本体は真名にすれば?』「そっかな? じゃあ、真名にしとこうかな」最初に中途半端な形で残っている文は、消しゴムなどの便利な道具がないので、とりあえずそのままに。どっちにしろ、最初の一枚目だ。失敗しても良いくらいの勢いで、一刀は一枚、書いてみることにしたのである。『ほう……』『うむ……』『え……?』が、一刀は全然集中できなかった。何か一語を書き込むたびに、脳内から妙な頷きや吐息や疑問が漏れる。それらは時に強く、或いは密やかに脳の中がざわめきたって、本体も気になるのか、会話に意識を割く事になってしまう。『いや、それはちょっと』『おいおい、恥ずかしすぎるだろ』『いや、いっそこのくらい過大な方がいいのかも?』『今ので麗羽が喜びそうな物なら思いついた』「……ちょっと見ないでくれないかな」『いや、参考にしたい』『そうそう』「こういうのは自分で考えろって!」『おれ、ほんごうかずと』『お、偶然だね、俺も北郷一刀だよ』『奇遇だな、俺もなんだ』「ああっ、もうっ、うるさいって」『ていうかさ、本体の筆が進まないなら、とりあえず思いついた“袁の”が書いてみてよ』『いいけど、本体いい?』「……いいよ」“仲の”の提案に本体は微妙な感情を押さえ込んで了承すると“袁の”に変わって恋文の続きを書き始める。こうして一刀達は時に絶賛され、時にドン引きされながら、練習用の白紙が墨で黒くなっていった。思い思いにそれぞれの感情をぶつけて、慣れない手紙を書いていた。途中、誰もが後から見たときに顔から火が吹くのでは? と思い当たったが場の空気を読んで誰もが言わなかった。そして気がつけば、太陽は空の真上に差し掛かって昼食も取らずに執筆していたのである。流石に空腹と疲れを感じた一刀は、何か食べるものが無いかと家を出る。そういえば、霞との約束もあるのだった。コリを解すように腕を空へと伸ばして、大きな欠伸を一つ。結局、起きてからすぐに取り組んだ、本来の目的であるところの『歴史』については何一つ進んでいない。そう思うと焦れてしまうが、この混乱極まる頭の中の歴史を綴るのも気がひける。いっそ、もう『正史』を当てにするのは止めてしまった方がいいのかも知れない。なんにせよ。「焦ってもしょうがない、か」「何を焦ってるのですか?」「わっ」自分を納得させるように呟くと、独り言のはずなのに答えが帰ってきた。首を巡らせば何時の間に居たのか、荀攸が姿を見せていた。一つ挨拶を交わして、どうしたのか尋ねれば一刀に話があるという。一瞬、聞いてから食べに行こうか悩んだ一刀だったが「話長くなる?」「なるかもしれません」「あ、じゃあ昼食取ってからでもいいかな? 荀攸さんはもう食べた?」「頂きましたが」「残念、一緒に食べれたら寂しくなかったんだけどな」「そういうのは彧ちゃんにどうぞ」一瞬、荀攸の声に一刀は首を傾げて、良く分からなかったので華麗に流した。「あー、とりあえず先に食べに行ってもいいかな?」「急ぎではありませんから、待っていても構いませんよ」「そう? じゃあすぐに戻るから待っててよ」「分かりました」それだけ伝えると、一刀は手早く済ませてしまおうと足早に家から立ち去った。―――・一刀の言葉に頷いて、彼が立ち去ってからしばし。荀攸はグルリと一刀の家を一周してみたり、少し開いている場所に腰を降ろして日向でボーっとしてみたりしたが真冬となっている外は日向に出ても寒いものは寒い。 しかも暇だった。僅かな逡巡を経て、彼女は外よりはマシだと思える一刀の家の中で待たせてもらうことにしたのである。一度倒れた柱も、やたら立て付けの悪い扉も修繕が終わっており、今のところ倒壊の心配もしなくてよさそうだった。一刀の家はこの辺では珍しい家の作りであった。倒れそうだとかみすぼらしいとかはともかくとして、扉を開けるとすぐに段差がある。この周辺では、床を作らずに地面を均し、そのまま絨毯の役割を果たす布が敷かれているのが一般的だった。冬のこの時期では、地面を掘って暖を取る手っ取り早い造りになっている。が、一刀の家では床がある。火を燃やすところも煙を吐き出すところも無いこの家で暖を取るとすれば、一刀が眠るときに使う掛け布団か、服を重ね着するしかないだろう。事実、一刀は厳しい寒さの中を重ね着してやり過ごしている。おかげさまで、結構室内には服が散乱しているのだが。「……」ぐるり室内を見回しても、目に付くのは机と寝床と服くらい。それに僅かばかりの食器や水桶など、本当に暮らしの最低限の物しか置かれていない。一刀がこの地にずっと留まるつもりが無い事が、室内の様子からハッキリと分かる。そして、この場に留まるつもりが無いということは―――そんな事を思いながら、荀攸は床に直接座るのも嫌だったのか。一つ手で払うと服の上に正座で座り込み、一刀を待つ。両手を合わせて息を吐き、寒さに耐えるようにしていた荀攸が、置きっぱなしにされた手紙へ視線が向くのはそう長い時間を要さなかった。筆や墨、机の上に置かれている道具は、自分が貸し出した物である。見つけてから時間が凍ったように、荀攸はやや距離を置いて呆然と眺めていたがやがてどういう心理が働いたのか、好奇心に負けただけなのか。服を器用に前へと引っ張って、座りながらズザザザっと移動し紙を手に取った。彼女が手に取ってから視線が流れていく速度は速かった。―――『愛する陳k 愛する音々音へ。洛陽を出てからはやく■も半年くらいになるのだろうか。3ヶ月も昏倒することになったけど、俺は■■なんとか元気でやっているよ。ふとした時、■華のの 華のように可憐な君が脳裏に浮かぶ。早くまた、洛楊 揚 陽 洛陽でみんなと笑いあ ■■■ 麗羽 華麗な君を想うと会いたい気持ちが城壁を爆発させて大破したいくらいに膨れ上がるよ盛極める今の時分、きっと持ち前の超新星爆発■■■ 天にある陽が爆発するような明るさと我侭で斗詩達を困らせてるのかな。 羨ましい。また会えると信じてる。■■■■ 馬超、まだ見ぬ君と―――』荒唐無稽に広がる文面をつらつらと読み進め、意味が分からない単語を心の中でメモしつつ最後に曹操の名が出て節が切れているところ―――要するに最後―――までしっかり読んだ荀攸は自然に手を額に当てて被りを振った。まず、最初に襲い掛かった感情は自己嫌悪だった。まさか真剣な表情で紙と筆を貸し出した一刀が書いたものが、恋文だったとは思わなかったのである。恋文にしては何人もの真名が飛び交ってるし、一部では真名ではなく姓名で書いてあるし文章の構成も、なんか軸がぶれてて良く分からない状態だった。荀攸の感性からすれば、これを恋文として見るには意味不明な代物だ。それでも愛を詠っているだろうこれを読む事は、明らかに個人の領域に触れてしまっている。しかも、最後までしっかりと読んでしまった。実際、最初の数行を読んだ時点で見るのをやめればよかったのだ。勝手に恋文を読まれて良い気分がする人は居ない、少なくとも自分はそうだ。溜息と共に机へと手紙を置いて、荀攸は一つ呟いた。「桂花ちゃんかわいそう」自己嫌悪の中に紛れて浮かび上がった素直な気持ちであった。従姉妹である少女の顔を思い浮かべながら、荀攸自身も少しがっかりしている事に気が付いた。曹操へと仕官することを勧める手紙の中に、何度も書かれた天代への愚痴。男に対しては難攻不落極悪非道七転八倒荀文若とまで呼ばれた桂花が、一刀に対して内容はどうであれ異常に気にかけていることは間違いないのだ。これはもしかしたら、と荀彧を知っている者が見れば期待せずにはいられない。そんな期待も、一刀が荀彧を気にかけていないのならば全ては淡い夢となることだろう。とはいえ、荀彧の方から積極的に動けば一刀も一人の若い男である。実際に数人の女性を囲い、妻として迎えている者も多いし、どう転ぶかは分からないかも知れない。こうして荀攸は思考を年頃の少女らしく回転させ始めて、時間を潰すことに成功していた。それは一刀が帰宅するまで続いた、らしい。―――・一刀が昼食をチョッパヤで終えてケツカッチンにならない内に戻ろうとしていたところ見事に先約の霞に捕まってしまっていた。霞自身もこの邑では暇であるからという側面があるが、一刀から日時を指定してお願いしている約束だ。しかも迎えに来てもらっている。流石に待たせるのも悪いので、素直に荀攸を待たせていることを伝えると「ほな、うちも付き合おか?」と、一緒についてくることになった。寒い日ではあるが、柔らかな陽光が枯れた木々の隙間から差し込んで落葉を踏みしめる独特の音が耳朶を震わす維奉の家から向かう帰り道。両手を頭の後ろで組んで、気持ち良さそうに鼻歌をかましながら前を歩く霞を見ながら一刀はぐるり周囲を見回した。時折吹く風を覗けば、音の無いこの場所は静謐な雰囲気を持っている。季節が冬であるのも、それを手伝っているのだろう。昏倒してから三ヶ月。意識を取り戻してから、おおよそで2ヶ月。言ってしまえば、こんなに静かな場所で羽休めしていても良いのだろうかと首を傾げたくなる。“天代”であった時の忙しさが懐かしいくらいだ。この場所でもやらなければならないことは、きっと山ほどあるというのに。歩き出す一歩は思いのほか重く、進展の兆しすら見えない。自然、歩は淀み、そのうちに足を止めることになった。「ん? どしたん?」「ううん、なんかさ」「うん?」「なんか、こんなにゆっくりしていても良いのかなってね」「……」振り返った彼女にはにかみながら一刀は頬を掻いてそう言ったが、霞から答えは帰ってこなかった。何か想うところがあるのだろうか。一つ天を見上げてぼんやりと眺めてから、霞は再び前を歩く。もしかしたら、前を行く彼女も同じ感情を抱いていたのかもしれないと一刀は思った。気持ちは既に、この安穏としている邑から飛び出して勇躍することを望んでいる、と。その気概を押さえつけているのは。「……ねぇ、霞」「なんや?」「俺の我侭に付き合ってもらって、ごめんね」「一刀、ウチは嫌なことはやらへんよ」張遼からの返答はいやに早かった。まるで、一刀の声を予期していたかのようだ。もしそうだとするのならば、きっと一刀の予想は当たっていた。歩くことを止めずに前へ進む張遼の背を見やりながら、一刀も追随してその背を追う。落葉を踏みしめる音に混じって、そのまま張遼の声は続いた。「一刀は付き合ってて楽しいし、一緒に訓練するのも身体を鈍らせすことない良い運動や。 維奉もまぁ、おもろい馬鹿やし姜瑚の飯は美味いし。 この邑で過ごす日々は悪ぅない。 ちぃっとばかし、美味い酒が足らない事と刺激に欠けることを除けばやけどな」一刀の家にたどり着く、最後の角を曲がる。やや急な勾配となっている坂を登りきれば、視界に入るだろう。張遼の声に黙して、聞き役に徹していた一刀であったが立ち止まって言った彼女の言葉に顔を上げることになった。「でも、なんかなー」「不満かい? ……やっぱり、仕官できないこととか?」「うんにゃ、それは別に。 ウチとしてはいつ仕官したって構わへんもん。 そうやなくて、んー……今の一刀やね」「今?」「うん、時々見せるそういうところが嫌いや」マジマジと顔を見られて、ハッキリと嫌いだと口にした霞のその言葉に、一刀は僅かに眼を見開いて驚いた。自身の手を思わず自分の顔に当てて、張遼を見る。彼女は一つ肩を竦めて自嘲するような笑みを浮かべていた。「色々あるんやろうし、色々あったんやと思う。 それはきっと、一刀もウチも変わらないやろうし、言いとうないことを聞きだすつもりもあらへんよ。 けど、何時までもそれを引き摺ってたら悲しいやんか」「……そうか」「そうやで」張遼は彼の言葉を反芻するようにして答えると、背に携えていた飛龍偃月刀を掴んで一刀にその刀身が見えるように突き出した。照らされた鈍い光に映り込む自身の顔。僅かに視界をずらせば、獲物をしっかりと握り締めて立つ凛々しい顔つきの張遼が映った。「こうしてウチも良く自分の顔、見てるんや」「……ああ?」「一刀も見えたやろ? その顔が治ったら、ウチは一刀のこと嫌いなとこが無くなるで」「え?」「そしたら、ウチの真名預けたる」それきり、張遼は踵を返して一刀の家へと足を向けてしまった。やや置いてけぼりにされた感のある一刀は、遠ざかる張遼の背を眺めながらしばし。今の話に想いを馳せていたが徐々に右側の唇だけグニャリと曲がり、奇妙な顔を形成し始めた。『なんか“魏の”とか“董の”の感情が微妙に伝わってきてキモイ』『おい、キモイとか言うなよ』『そうだぞ、傷つくぞ』「……え? 今のってそういう意味なの?」『『いや、それは分からない』』『ていうか、霞、あの宴会の時に真名預けてたの忘れてたんだな』『ああ、そういえば貰ってたっけ』「ええ!? そうなのか?」『全員ベロンベロンだったからねぇ』『ふふ、まぁ、またもらえば良いじゃないか』『そのニヤついた声を早く何とかしてくれ』『恋文書ける相手が増えるからじゃ―――あ』『『『『あっ』』』』「ああっ!?」自然と脳内の会話から、今の話の真意に思考を割いていた一刀達の意識が一気に現実へと戻ってくる。書いたきりですっかり忘れていたが、机の上には剥きだしのまま練習用の恋文が放置されている。その事に思い至った直後、一刀は物凄い勢いで坂を駆け出した。感情の発露を思うままに書き綴ったアレは、誰かに見せられるような物では無い。例え見られるとしても、許せるのは維奉とか華佗とか、同姓までだ。たった今、自分よりも先を歩いていった張遼や、先に待たせている荀攸といった異性に見られるのはきっと恥ずかしくて死ねる。もう手遅れであることを知らずに、一刀は自宅前の坂登りタイムアタックを自己ベストで駆け上がると後に神速と謳われる張遼が驚くほどの速度で追い越して、自らの家の扉の前に立つ。「な、なんや!? いきなりどうしたん?」「はぁ……はぁ……す、少し待ってて貰えないかな……」「おかえりなさ―――どうしたんですか」興奮したように肩を弾ませて扉を守るようにしていた一刀の背から、落ち着いた声がかかった。瞬間、必死の形相のまま振り返った一刀の顔に驚いたのか。一歩身を引いた荀攸は、当然のことながら家の中に居た。凍りついた表情のまま、片方の手を広げもう片方の手を扉に手をかける一刀見て。なんのこっちゃと眉を顰めて首を傾げる張遼を見て。荀攸は一刀の心情と状況、そして自らの行いと反省から、一刀へ死の宣告を浴びせた。「ごめんなさい、一刀様」「えぇ……」『嘘ぉ!?』『あああああああっ』『いやあああっ!』『なんでだぁぁぁ!』『ちょまっっ、ちょ』『救いは無いんですかっ!?』『もう終わりだぁ!』歪んだ一刀の顔は、いつか玉座で張譲に追い出された時に酷似していた。そんな絶望に染められた一刀へ更に無常な追撃が振りかかる。今の不自然な行動と一連の流れを見せられて、張遼が気にしない訳が無かったのだ。問い詰める彼女に荀攸は困った顔を一刀へと向けたが、呆然と立ち尽くす彼に助けを求めるのはすぐさま諦めた。一刀がこうして茫然自失しているのも、原因は荀攸なのだ。黙すること、そう彼女が決意するのに時間はかからなかった。「すみません、秘密です」「えー? いいやん、減るもんやないし。 ん? 減るもんなん?」「減りませんが、秘密」「ちょっとだけなら?」「駄目ですね」「えー! ずっこいで自分! じゃあ何かちょっと示唆を得るような……」「残念ですが」にべもなく断り続ける荀攸に、流石の張遼も目が無い事を認めたか。矛先を一刀へ向けることにした。ブツブツとうわ言を呟いて、壁に手をかけて頭を垂れている一刀を見て一瞬だけ躊躇した張遼だったが湧き上がる好奇心を抑えきれずに口を開く。「なーなー、一刀ー、ウチに何のことか教えてくれへん?」「みんなー、おーい、俺に変わってどうするのさー」「へ? 一刀?」「おーい? だめだ、引きこもっちゃった、あはは、しょうがないなぁ本当に」「あー……あかん、脳がやられとる」「はぁぁ……」奇しくも正しい意味で使われた張遼の呟きに続いて、荀攸の自己嫌悪を帯びた深い溜息が、寒空の下で吐き出された。 ■ 立つ位置“肉の”を除く全員が、一斉に動揺してしまった影響からか、随分とその復活には時間がかかったがようやく精神を持ち直した一刀は、差し出されたお茶を一つ口に含んで大きく息を吐き出した。アレを机の上に置きっぱなしだったのも、この寒空の下に外で待たせることになる荀攸への配慮が足りなかったのもだいたい自分自身の失態である。素直に謝られてしまえば、彼女を責めるのも酷だろう。隣で神妙な顔をしながらニヤついている張遼は別として。残念ながら、荀攸の必死の防衛は実らずに張遼へと恋文の件はばれてしまっている。行頭だけ読んで察したのか、すぐに読むのを辞めてくれてはいたが想像は付いたのだろう。しかしながら、もはやこの程度の精神的苦痛で崩れ落ちる一刀ではなかった。追い詰めたのも自分だけど。「えーっと、とりあえずもう大丈夫、落ちついたよ」「それならば良いのですが」「……」「それで……荀攸さんの話って?」「はい、それでは……コホン」そこで一つ咳払いをし、荀攸は一刀へ切り込んだ。これからどうするのだ、と。その問いに僅かではあるが、眦を下げて真正面に座る荀攸を見る。てっきり一刀は荀攸が洛陽へ戻ると言い出すのではないかと考えていたためまさか自分の今後に対して問われるとは思いもしなかった。一刀は机の上にお茶を置きながら、質問の意図を噛み砕く。良く考えてみなくても、荀攸という少女はこの邑に逗留する理由など一欠けらも無い。蜀での勤めを果たして洛陽へ戻る最中に、たまたま一刀を発見した官吏に過ぎないのだ。漢王朝に仕えている荀攸からすれば、王朝簒奪を企てた極悪人を見つけたと言っても良い。意識の無い合間に通報されて、そのまま獄門に入れられたり或いは首を斬られていたりしても可笑しくはないだろう。まぁ、今に至るまで全くその事について触れてこなかったのだから今更警戒する必要はないと思われる。「……これからか」一瞬、興味なさそうで居て耳をピンと張っていた張遼が呟くような声に薄っすらと眼をあけた。一刀へ視線を一瞥し、肩を少しだけ上下させると再び瞑目する。それに気付くこともなく、一刀は幾度と無く自問自答した質問を人に尋ねられて、改めて考える。これから。反董卓連合のことや、天代の風評などのことを考えれば行動を起こすのは早ければ早い方が良い。客将として諸侯の下に身を寄せるのも難しい、自分の顔は漢王朝に於いて知られすぎている。そうなると、一刀の選択肢は狭い。「だいたい察しました」「……そう?」沈黙をどう捉えたのか分からないが、納得したように頷く荀攸に一刀は首を傾げた。今の一連の問答で一体何が分かったのか疑問である。怪訝な表情でお茶を飲み始めた一刀の視線に荀攸は気付いて、一つ息を吐くと口を開いた。「これからに置いて、ある程度の指針があれば今のような顔は成されないでしょう」「顔? ああ……そういうことか」「私から筆を借りたように、何かお考えがあるのは分かりますが」「そうだね」「……私は幸運にもこの邑で一刀様に出合ったことで、幾つか選択肢が生まれました」そう言って荀攸は自らの懐から一枚の書を取り出して机の上に置く。思わずその書を視線で追いかければ、丁寧に封がされているし、痛みも無さそうだ。余りに綺麗なので、届いたばかりなのかと尋ねれば一ヶ月前の物だと返された。大事に保管されていたのだろう。差出人は荀彧。顔をあげれば、真面目な顔で頷く荀攸の姿があった。その様子を見て、一刀は何はともあれ読んでみることにした。そこに書かれている内容に一刀は眼を剥くことになる。この書、荀彧本人が書いた物かどうかは定かでは無いが、今の朝廷に関することがビッシリと書かれていた。天代の追放から始まった帝の突然の崩御。謀ったかのように起きた黄巾党の反乱と西涼の蜂起。そして、やはり劉弁と劉協の後継者争いは水面下で始まっていた。重なった事象は全て偶然であるのかどうか、或いは何者かの手が入っていたのではないか。そういった調査の結果の一つなのだろう。知らず一刀は空白の知識を埋めるために、周囲を忘れて読み始めていた。途中、一度だけ手を震わした一刀であったが、一つ息を吐き出して呼吸を整えるとそのまま最後まで読み終えた。見計らっていたのだろう、荀攸の声が重なる。「一刀様を邑で見つけてから、桂花ちゃんにお願いしていました」「ひどいね」「はい」混乱に継ぐ混乱が、時をおかずして宮内を震わせた結果でもあるのだろう。書かれていることが全て真実とするならば、漢王朝は宮内からボロボロに崩れ始めている。宮内は見えないだけで酷いことになっている。そう断じても良いだろう。軍を統括する何進を初めとして、唐突と言っても良いほど激化した大陸の情勢に軍部は宮内の中まで眼を配る余裕はとても無さそうであり、連続した事象に関わっている者は居ても極僅かだろう。ただし、帝の死に関わっている可能性はあるそうだ。崩御した後、張譲、趙忠を初めとした宦官が劉弁即位に難色を示し劉協を押すことになる。勿論、準備を進めていた劉弁派はこれに憤慨した。考えの足りない宦官の一人が、劉協の暗殺を企て実行に移した事例もあったそうだ。先ほどの一刀の震えは、これにある。今回は一人の馬鹿が暴走した結果ではあるし情勢からか、まだ宮内で血を見るような事態には至っていないが時間の問題であると書かれていて、一刀もそれは容易に想像できた。また玉璽に関して、新しく作られた方は処分されたそうである。更に、宮内で片付けたはずの不自然な人事異動が始まり出し、頻繁に普段では見ないような不審な人影がちらほらと朝廷内で散見するようにもなっているらしい。最後に宮内に戻らずに、曹操の下へ来いと勧誘の文にて締められていた。手紙の内容から思わず呟いた酷いという言葉に、荀攸は同意した。このことから、彼女の話とは一刀へコレを見せることが目的なのかも知れない。その目的から何を見出そうとしているのか、それは分からなかったが。書を机の上に戻して、一刀は唸るように吐き出した。「……荀攸さんは、洛陽へ戻るか悩んでいたんだね」「一つですね。 大規模な反乱である黄巾残党と西涼の騒動が治まるまでは、表面的にはこのまま平和を保つと思います。 ですから、洛陽に戻る事で私自身の安全を心配するような事態には陥らないと考えてます。 もともと皇室とは繋がりが薄いですし、首を突っ込まなければ問題もないでしょう」「なるほど」「次に今見てもらった書の末尾にあるように、曹操様の元へ赴くことも一つです。 桂花ちゃんのお呼びですから心配は皆無ですし」「それで、俺にこれを見せたのは?」「一刀様が漢王朝に対して、どのように出るのか知りたかったのです」ここで一刀は眉を上げて荀攸を見据えた。なんとなく彼女の言葉の裏にある物が見えてくる。これは、試されている。そんな根拠の無い確信が心中に広がるのを自覚する。「漢王朝に対して、か」「失礼ですが、天代の身分を失って後ろ盾が何も無くなった一刀様が今出来ることは、限られています。 このまま漢王朝に関わらず隠居して生きていくか、今の一刀様を受け入れてくれる諸侯に身を寄せるか 自分の足で道を切り開くか、異民族の住まう地へ向かうかです」先ほどまでの、どこか無気力を感じさせる佇まいから一変して前髪を手で弄り、もう片方の手で選択を指折りながらゆっくりと話し始める。一刀はこれが荀攸の軍師の顔であると、初めて知った。「諸侯に身を寄せる、これはかなり難しいと思われます。 漢王朝が健在な今では、一刀様を迎え入れるに当たって条件が悪すぎますので。 次に異民族へ向かう可能性も、この邑へと逗留を続けていることから除外できます。 残る二つですが、お顔を拝見して察しました。 立つおつもりですね」「……ああ、そうだね」「その場合、一刀様を追放した者の罠に嵌る事になります」「え?」ここで何故、宮廷の思惑が一刀にかかってくるのか分からずに素っ頓狂な声を出した一刀だが一つ一つ、丁寧に荀攸の口から疑問に思ったことを話されて納得する。漢王朝にとって一刀を追放すると断じた時点で、一刀そのものが汚点となった。これを滅さずに居る事は後顧の憂いとなる事が明白で、その事に何も手を打たない筈が無い。蹇碩の襲撃までが天代追放の一連の流れで、それに失敗した時の事を考えていないと思うのは危険だ。簡単に推測できるのは、一刀が立ち上がったその時に、漢王朝に叛意を抱いたとして叩くこと。その為に時間をかけて風評を操作する手間も人員も時間も、一刀を追放した首謀者にはある。「そう、なのか」「あくまで私の推測ですが」「荀攸さんは、確信しているんだよね」「はい。 それで、もう一度尋ねますが漢王朝に対して、どう出るのですか?」「どう……」言葉使いに乱れは無い。ただ純粋に、本当に自分がどう立ち上がるのかを知りたい。そんな様子が言葉の中に確かに混じっている熱で伝わってくる。ややあって、一刀は苦笑した。何とかして立ち上がる、その方策すら未だに思いつかない一刀ではあったがその意気込みは何としてでも成し遂げるという決意があった。しかし、その行動を起こせば罠が待っているという始末である。無いかも知れないが、そんな淡い期待を抱くと痛い目を見ると経験したばかりだ。何より、目の前で丁寧に説明してくれた荀攸の推測は、やたらと説得力があった。「ああ……うーん、どう出るも何も、分からない、分からなくなってきたなぁ」「……」「うん、今さ、立ったところで罠に陥ると聞かされて、分からなくなったよ」「怖気づきましたか?」「ああ、うん。 そうかも知れない。 約束を守れなくなるのは、嫌だからね」「約束、ですか?」一刀は首を傾げる荀攸と、視線に気付いて顔を上げた張遼を一瞥して頭を掻いた。洛陽には、少しばかり荷物を忘れすぎている。それを取りに行けなくなる事は、怖い。気が付けば一刀はそんな気持ちを目の前に居る二人に曝け出していた。淡々と、一つ一つ。荀攸も張遼も口を挟むことなく、独白に近い一刀の言葉に耳を寄せて。「漢王朝に対して、どう立つのか。 そういうのは言ってしまえばどう立っても良い。 俺が立つ位置が何処であろうと、天代なんて物じゃなくて一庶民でも良いんだ。 ただ俺は……」―――ただ俺は、あの子が家族と一緒に笑いあって、世の中が平和で回っていればそれだけで。そんな何処にでも在りそうな優しい願いを捨てて、愛する家族と対立することになった少女を支えてあげたい。自分を見失うほどに壊れそうな中、たった一人で駆けつけて救ってくれた。確かな情熱を感じた音々音と、共に歩んで生きたい。これらは言葉にこそ出なかったが、目の前の少女達にはその想いの断片がしっかりと聞こえていたようだ。先ほど、顔から火が出る程に恥を掻いた恋文を見ていたから、それを分からせたのだろう。 「どっちにしろ、俺は漢王朝を立て直さなくちゃいけない。 困難でも、辛くても、指を加えて見てるだけは出来ないから」「……まるで、一刀様が何もしなければ漢王朝が無くなると言ってる様に聞こえますが」「足掻かないと無くなる。 荀攸さんなら分かってる筈だよ」「それは……」「だから、罠でも立ち上がらなくちゃいけない。 時間がないから」そう、時間は限られている。たった今気が付いたことだが、荀攸がこの話をする『今』。それが時間的猶予がなくなってきた証拠なのでは無いだろうか。荀攸はもっと早く、一刀に仕掛けられた罠に気付いていた筈で、もっと早く邑を出ることも出来たはずだ。少なくとも、この手紙が届いた一ヶ月前から話せた事を、今日になって話すというのは不自然である。彼女が何を思って伏せていたのか、その理由は分からない。それこそ、荀攸の心の整理を付けるための期間だったのかも知れない。「荀攸さん」「はい」「なんで俺に話したのか分かったよ。 漢王朝に対してどう考えているのかを尋ねたのも」「そうですか」「一緒に救えるかな?」「少し予想外の答えでした」「そう?」尋ねると、荀攸は一つ頷いてから一刀に対して片手を差し出した。一刀はその手を取って、しっかりと握る。「一刀様らしい答え、かも知れません」「ありがとう」「我が智が役立てるよう頑張ります」「うん、頼りにしてる」「……あかん、全然分からへん」やや置いてけぼりを食らった張遼が、硬く手を握る二人に胡乱な視線を注いでいた。―――・荀攸との会話を終えて、一刀と霞は一番最初の目的。つまるところ一刀の訓練を行うために厩舎へと向かっていた。やたらと嬉しそうに、心なしか晴れた顔をして歩く元、偉い人が一人。その元・偉い人の後ろを歩く霞は、顎に手を添えながら首を頻りに左右へ傾けて気持ち良さそうに前を歩く一刀を眺めていた。傾ける原因はもちろん、一刀と荀攸が手を握り合うまでの流れである。もちろん、二人の間で交わされたやり取りから協力関係のような物を気付いたことは理解できる。荀攸の立場は漢王朝の元で確立されているので、握手を交わしただけに過ぎないが傍から見ていた張遼でも、彼女が勢いあまって臣下の礼を取るのではないかと思うほど一刀を上に立てていた。過程も見ているのに、あの結果に落ち着いたことは霞にとって正に謎の出来事であった。「うあーーーー!」「うわっ、どうしたの霞?」「一刀! なんで荀攸が一刀についたん!?」奇声を挙げて両手で頭を掻き毟った彼女は、考えるのが面倒になったのか。半ばヤケクソのような声をあげて一刀に詰め寄った。「え? ああー……いやほら、分かるだろ?」「分からへんから聞いてるんや!」「うーん、ほら、だって、言うのは恥ずかしいじゃないか」「恥ずかしい!? どういう意味や!」「いや、そのままだけど」不思議そうに張遼を見やる一刀に、彼女はしばし黙考した。言うのが恥ずかしい。それはどういうことか、あの場で交わされた会話に恥ずかしいところ等一つも無かった、ような気がする。思い当たるとすれば、荀攸が差し出して一刀が読んだ書くらいである。書と恥ずかしい。この二つの符号が示す物は―――「恥ずかしい……まさか、恋文っ!?」「うっ、そうズバリと言われると照れるな」そう、一刀が恥ずかしかったのは恋文だった、自分の。あの恋文を見たから、自分が洛陽に残した愛しい人が居ることを荀攸は悟ったのだ。漢王朝の為ではなく、愛する女性と大切な人の為に、自分は漢王朝を存続させると一刀は言った。これが一刀と荀攸が手を組む決め手になったことは明白。もしも漢王朝を滅ぼすとか、そこまで極端でなくとも敵意を持っていれば荀攸は一刀を見捨てて去っていたことだろう。そこから導き出される荀攸の志もまた、漢王朝の存続ということになる。だから、二人は同じ目的の為に手を取り合ったのだ。荀彧から齎された情報から王朝の惨状を知り、荀攸は漢王朝の存続を成し遂げることは困難を飛び越えて、至難であることに気が付いた。その時点で荀攸は『元・天代』という職に在った一刀に期待をしたのだろう。身内である荀彧からの信頼できる宮内の情報と、一刀から聞かされた追放までの経緯、残して来た劉協との関係を加味して考えて一刀が漢王朝に返り咲く可能性に賭けた。本人の口からハッキリと聞かされた訳でもないし、一刀の勝手な推測でしかないが脳内からも曖昧な同意を頂戴したので、そう的外れな考えでは無いのだろう。とにかく、宮内でも活動できる官吏を一人、味方につけることに成功したと言える。しかも歴史に名が残るほど有名な知者だ。一刀が嬉しいのは、その事実だった。意識を取り戻してから2ヶ月余り、ようやく再起の為の最初の一歩が踏み出せた気がしたのだ。嬉しさに笑顔を見せる一刀に、ようやく合点が行った霞は左右に揺れていた首を、今度は上下に揺さぶっていた。恋文。それが荀攸が一刀に付く決定打となるのならば、非常に単純で明快な答えであったから。「なるほどな~、うんうん、そういうことなんやな~、一刀も男やし、嬉しいのも分かるわ~」「うん、まぁ、そういうことなんだよ」「ああ見えても大胆やなぁ、目の前にウチが居たのに……愛は偉大ってことなんかな」「ははっ、そうハッキリと言われると余計に恥ずかしいな」「せやけどな、一刀」わざわざ一刀の前まで飛び出して、ガッシリ彼の肩を掴んで見据える。張遼の表情はいやに真剣実を帯びていて、一刀は驚きながらも口を開いた。「張遼さん?」「一刀が心に決めた女性、居るんやろうけど、荀攸も乙女や! ウチの友人でもある。 大切にせぇへんとあかんで!」「そう、だね? 荀攸さんも、もちろん俺の大切な人だよ」「おおっ、格好ええ事言うやんかー!」力強い答えに満足するように、張遼も笑顔を見せて一刀の肩を叩いた。何故かいきなり上機嫌になった張遼を訝かむ一刀だったが、一刀も気分が高揚しており一緒になって喜んでくれるのは、とても心が弾むことだった。故に、一刀も深くは気にせずに肩を並べて機嫌の良い張遼と厩舎へ向かう。「うっしゃ! 気合入って来たで! 一刀、ちゃんと力を付けてしっかり(荀攸を)守れるように気ぃ張り!」「はは……ああ、そうだな! (音々音や劉協との約束を)守れるようになる為に、頑張らないとな!」その日から張遼の訓練は、通常の三倍で行われて地獄を見ることになる一刀の姿が見られるようになった。余談だが、荀攸と張遼に見られたからか。開き直ったように荀攸へと恋文の書き方を尋ねた一刀は、あれやこれやと口を出されて愛を謳う一枚の手紙を作成する。こうして一刀の指導に付き合って深い愛を目の当たりにした荀攸から、荀彧へと手紙が送られたそうだ。その手紙は一刀の事を除いた近況報告と、曹操への誘いに断りを入れて、末尾に荀彧を励ます文で締められていた。「側室なら多分なんとか、応援します」 と。荀彧はしばし末尾の内容に首を捻ったが、やがて曹操との関係であろうと当たりをつけて「側室? 本命以外ありえないわ、安心しなさい」そう返信したそうな。 ■ “頭”が季節は冬を越えて、多種多様の花が野に咲き始めた。相変わらず一刀の生活に大きな変化はない。が、懐に入ってくる情報は激変していた。協力関係を結んですぐに、洛陽へと足を向けた荀攸は実に様々な情報を仕入れてきた。帰ってきてすぐに一刀の家へと訪れて、洛陽に出向いていた間に増えた座椅子とちゃぶ台で向かい合う。彼女が持ってきた情報の中で一刀が一番に食いついたのは、呂布の行方であった。「あー、それで董卓さんの所に行ったんだ」「天下無双も人の子という事でしょう」恋は一刀を追いかけて蹇碩を討ち取った後、右往左往した挙句に長安付近で保護されたそうだ。保護、という言葉を使ったのは、恐らく食べ物に困ってぶっ倒れたと想像できたからである。何にせよ恋が董卓の元に身を寄せたのは間違いがない。恐らく、墓参りに行ったことも素直に身を寄せる一端を担ったのだろう。「そっか……反乱を抑えたのも、彼女の加入が大きいんだろうな」「でしょうね。 噂にもなっていますし」「反乱軍5万人を一人で撃退だっけ?」「ええ、噂を利用して牽制する為に、随分と誇張しているとは思いますけど」また、宮内では何進が宦官に甚く腹立てているという話も聞いた。元より進めていた劉弁の話が、宦官の気紛れによって妙な形に変わったことで声を荒げているそうだ。特に、張譲と趙忠を初めとした十常侍が、真っ二つに劉弁と劉協に分かれたようでこの問題は何時まで長引くか予想が付かない。何より、いつ何進が行動を起こすか分からないほど切れているそうなのだ。理由は―――「一刀様を追い出した経緯を、知っているからでしょうね。 宦官の行動が勝手に過ぎるように見えて、余計に腹立たしい思いを抱いているのでしょう」「そう……」この話を聞くに一刀は複雑な想いを抱かずには居られなかった。とはいえ、この場所で気を揉んでいても何が出来るわけでもない。雌伏の時を待つと決めたからには、一刀も下手に動くことはしないつもりである。「……えーっと、他にですね」「ああ、いや。 ねねや劉協様の事が分かっただけで、とりあえずは良いよ。 戻ってきたばかりで疲れているだろうし、細かい事は後でも構わない」「そうですか? じゃあお言葉に甘えます……あ、金獅さんは戻しておきましたので」「ありがとう」洛陽へ戻る際に、一刀は荀攸へ金獅を貸していた。下手な馬よりもよっぽど速いし、体力もあるので、洛陽までの道は随分と短くなった事だろう。この地で遊ばせているよりは、マシだろうとも考えての判断だ。頭を下げて踵を返した荀攸を見送って、一刀は邑の中心部へ足を向ける。家の目の前にある坂を下って見える雑木林を抜けて、“訓練”を行うために目的地を目指す。その目的地に、もう快活なあの子が居ることはない。「今頃、仕官できてるのかな」そう、張遼は既にこの邑を離れて旅立った。自らの夢と志を胸に。荀攸が戻る10日ほど前に、一刀の下に来て報告されたのだ。そろそろ行く、と。一刀は維奉に相談し、送別会という名の宴を開いた。彼女の大好きな酒を、浴びせるほど飲ませて盛大に見送ったのである。何処へ行くのかも聞かなかったが、荀攸の話を聞くに放って置いても董卓の下へ向かいそうだ。なんてたって、彼女は武将だ。天下無双の噂を聞けば、霞は我慢できずに大陸一の武を体感しに出向くことだろう。荀攸から貰った情報を加味して、近況をまとめていると何時の間にか広場へ辿りつく。そろそろこの邑に身を寄せてから半年を迎えているので、流石に見慣れた景色になってしまった。のどかな風景。平和を享受する邑の人々。駆け回る幼い子供たち。工具片手に、梯子を上る青年。そして、中央に陣取るふんどし一丁な筋骨隆々な男が二人。「ブハッ! げほっ、えほっ!」いつかも見た、邑にとって異様な光景を眼にして、一刀は思わず咳き込んだ。相変わらずフンドシと『悩殺』と書かれた看板以外は何も身に付けていない。そのまま眼を背けて知らぬ振りをしたかった一刀だが、男達の目の前に居る一人の少女がそれをさせなかった。維奉の妻となった、姜瑚が半裸、いや、ほぼ全裸の男達の前でなにやら会話をかわしていたのだ。『……一応、見ておいた方がいいよね』『そうだな』前に現れた時も、別段何事もなく去っていったようなので記憶の彼方に置いてきたのだが悩殺ブラザー(仮)が今回も同じように何もしないで居るとは限らない。脳内の声に同意を返して、一刀は姜瑚を視界に捉えつつ、会話の聞こえる距離に移動した。近づけば近づくほど、彼らはなんというか、男らしい。いや、男臭い。存在感だけならば竇武と陳蕃に引けを取らないだろう。適当な石段を見つけて座り込むと、一刀はそわそわと落ち着かない様子で耳を欹てた。「それで追い出されたんですかー」「おうとも。 まったく、母者も姉者もケツの穴が小さくて困る!」「事故だったのだから仕方ないと何度言っても怒るのだっ! 怖い」「怖い」「あはは、馬鉄さんも馬休さんもそんなに厳ついのに怖いなんておかしいです」ハッキリと聞こえた二人の男の名前に、一刀が脳内へと問いかけようとした瞬間だった。逆に脳内から怒声のような叫び声が、頭痛を伴って響く。『ふざけんなぁぁぁぁ!』『おいっ!?』『“馬の”!』「うがああああああ」その慟哭は、本体の意志を無視して“馬の”に入れ替わった。突然の奇声と共に、勢い良く立ち上がった一刀は何も眼に入らずと言った様相で、馬鉄と馬休の下に向かう。当然、彼らは一刀の存在に気が付いて、姜瑚は驚いた様子で声を掛けた。「み、御使い様?」そんな彼女の声をしっかりと無視して、二人の男達へと詰め寄る。もう一歩踏み込めば、身体が接触しそうな程の距離に至るまで、瞬きする間に。“肉の”影響もあってか、鼻息も荒く、一刀の表情には明らかな怒気も含まれておりさしもの馬鉄と馬休も戸惑いを抱いて声を荒げた。「な、なんだお前!」「やる気か!?」「おま、おま、お前ら本当に鉄っちゃんと休ちゃんか!」「ああ? おう、確かに俺は鉄だ!」「そして、俺が休だ!」「……馬……鹿な」二人が猛烈な勢いで近づいた一刀に、胸を張って親指を差しながら名乗ると一刀は顔を歪め、突き出した両手を投げるように前方へ突き出し、そのまま頭から地に伏した。鈍い音を響かせて倒れ伏した一刀を囲んで、周囲は凍りついたかのように時が止まった。先ほどまでの猛烈な勢いは幻だったのでは、と思えるほどの見事な脱力である。果たして、一番に声を挙げたのは馬休であった。「こ、これは……猛虎落地勢っ!」「見事すぎて言葉を失ったぞ……」「……あの、御使い様大丈夫ですか? 頭」『おい、どうすんだコレ』『“馬の”がおかしくなった』ピクリと動かない一刀の中で、人知れず本体に主導権が戻ってくる。自分の妙な体勢になにやら盛り上がる男達はともかくとして、心配させてしまった姜瑚には声をかけるべきだろう。心の中で今の出来事を整理しながら、ゆっくりと身を起こす。口を開きかけた本体はしかし、声をかけることは出来なかった。脳内に戻ってきた“馬の”から衝撃的な発言が飛び出して。『……女の子だったんだよ』『うん?』『何がさ?』『鉄っちゃんも……休ちゃんも……女の子、だったんだよ……』『え?』搾り出すように震えた声で、“馬の”は告白した。本体含めて『だった』という言葉を正確に理解すると同時、余りの残酷さから黙してしまう。外史の歪みということだろうか。余りに無慈悲な現実に、“一刀達”ですら、どう声を掛ければ良いのか分からない。「……」『……』『あぁ……えーっと』『サイドポニーとツインテール……メイド服のさ……あ、はは、そうか、これは夢だ』『落ち着け! これは夢じゃない!』『うわあああああっ!』『馬鹿っ、錯乱させてどうする!』再び吹き上げる激情から本体と入れ替わった“馬の”は、一瞬だけ馬鉄と馬休を一瞥すると近くに聳え立つ木々に頭から突っ込んでいった。流石にこれには全員が唖然とし、同時に一刀が狂乱していると判断する出来事であった。慌てて二人の男が一刀を取り押さえ、姜瑚は天医である華佗を呼びに走り始めた。「ハッ! そうか、これは夢だ」『落ち着け! これ、あ、夢だよ!』(俺の身体がーっ!)『そうだ! 夢だから安心しろ!』「夢なら覚めろ! 夢なら醒めれば良いっ!」左右に挟まれ、両腕をガッチリとホールドされる一刀は引き倒されながらも今度は喚きながら地面に自らの頭を叩き付け始める。身体の制御権も、とても奪い返せそうにない。『おいやめろばか! 夢じゃないぞこれは!』『本体が死ぬっ!』(あああああああー!)「ええい、思ったよりも力が在るぞ! 押さえつけろ!」「ふぬぬぬぬぬ!」『こうなったら馬鉄さんと馬休さんを応援するしかない!』『頑張れ鉄っちゃん! 頑張れ休ちゃん!』「うわああああああ」一刀がまともに落ち着くまで―――“馬の”が“肉の”に意識を落とされるまで―――この騒ぎは続いた。それは、二人の大の成人男性が汗だくになって必死に抑え、ようやく引き止められた惨状であった。頭からダラダラと流れ頬を伝う血を一つ触って、本体は呻いた。「痛ぇ……」『なんですぐに殺らなかったんだ! “肉の”!』『ごめん、触れ合いが……いや、じゃなくて、つい遅れた』見上げた空は、真昼間だというのに赤く染まって一刀の視界に映していた。―――・一方、姜瑚は頭が大変な事になっている一刀の為に華佗の住む家に駆け込んだ。荒い息を吐き出して現れた姜瑚に、華佗の視線と一人の少女の視線が向けられる。姜瑚が一瞥すれば、幼い体躯に似合わぬ槍を、その背にぶら下げていた。布の頭環で掻き揚げた茶色い髪が後ろで一つに纏められ、馬の尻尾のように揺れている。明るい橙色の上服を身に纏い、太腿のあたりまで伸びた白い布地から、瑞々しい白い肌を見せていた。活発な印象を与える少女は、この邑に住む姜瑚にも見覚えはない。すぐに華佗と相対する彼女が、よそ者であることを知った。なんにせよ、今は一刀の頭の危機である。顔を上げて華佗を見れば、姜瑚の様子から何かを察していたのか、落ち着いた頃を見計らって口を開いた。「どうした、急患か」「うん、頭がおかしい感じで!」「頭が? 良く分からんが、急ぐんだな」「はい、お願いします!」「分かった。 馬岱殿、すぐに戻るのでここで待っていてくれないか」「あ、はい、分かりました」少女に断りを入れた華佗は、ほどなく一刀の下に駆けつけて治療はすぐさま行われた。これが、一刀と馬一族との波乱の出会いとなるのであった。 ■ 馬家へその場所は夥しい数の人影で埋め尽くされていた。地平線が見える荒野に柵が立てられ、その内側を覆いつくすように槍と弓を持って立つ人馬の群れ。漢王朝に反乱を企てた、西涼の雄。辺章と、韓遂の陣内であった。「糞、赤毛の女、邪魔だ」「まったくさね、困ったもんだよ」天幕の中で苛立ちを隠しもせず、卓を叩くのは辺章だった。一つ首を振るたびに、モヒカン頭からぶら下げた後ろ髪が揺れる。その手に抱いた杯が軋むほど力を込めて、呪詛のように吐き捨てていた。「……赤毛女、排除したい」「まぁ落ち着きな、辺章。 それに、赤毛女ってのは辞めてくれないかい? 私も赤い髪なんだから……あっちの赤い髪に関しては、我に策ありってやつだ」「何をすれば良い」「だから落ち着きなって、せっかちは嫌われるよ」「分かった、我慢する」一つ荒い息を吐いて、辺章はどっかりと椅子に腰掛けて瞑目した。そんな彼を生暖かい眼で見やりながら、妖艶に微笑むのは酒で満たした杯を無意味に揺すりながら話す韓遂である。天幕に備え付けられた、この陣の中でも一等高価な寝台に寝転がり揺れる酒の水面を見つめながら、韓遂は自身の中で思考する。それは辺章からすれば、長い一時であったが、我慢に我慢を重ねた彼が口を開くことはなく彼にとってようやくと言える時間をかけて、韓遂は身を起こし口を開いた。「まぁ、まずは失った戦力を取り戻すことから始めるとするか」「どうやってだ?」「この西の大地で、未だに傍観を決め込んでる野朗が居るだろ?」口の端を曲げて、韓遂が答える。しばしお互いに見つめあい、やがて理解に至ったか辺章は頷いた。理解に至ったのを把握して、韓遂は辺章に合わせる様に口を開いた。「「馬家」」「可能か?」「馬家が漢王朝に仕えてることが心配かい?」「……いや、お前、頭が良い。 頭が良い女、俺は好きだ」「頭の悪いあんたに言われても嬉しくないね。 はっ、まぁ見てな」そこで韓遂は杯に満たした酒を仰いで、一気に飲み干すと空になった器を投げ捨てた。陶器で作られた杯は、甲高い音を響かせて粉々にくだける。口の端を拭いながら、妖しい瞳を燦爛とさせて、韓遂は辺章に言った。「我に策あり、だ」季節は春を迎え、いよいよ彼女達の動きは本格化しようとしていた。 ■ 外史終了 ■