clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~☆☆☆ ■ 結末のひとつああ、そうだった。ぼんやりとしたイメージが明確な輪郭を帯びて、一刀はようやく理解に至る。風に流れて靡く纏められた長い髪が、快活さを見せて破顔する笑顔が、ハッキリと映し出されていく。健康的なその肢体も、一刀にとっては既に見慣れた物であるはずで。自分が降り立ってからずっと傍に居て、当たり前のように存在していた彼女の姿。そうだ。こんなところで這い蹲っている場合ではなかった。意識を取り戻した一刀が薄く眼を開ければ、飛び込んでくるのは粉塵を上げる戦場だった。けたたましい馬蹄が、剣を交える甲高い音が、誰かの怒声や悲鳴が折り重なって轟音となっている。一刀の周囲には人の気配はしなかった。「……っ」反射的に身体を起こせば、背中や足に大きな痛みが走る。視界も赤く染まり、随分と狭い。ともすれば、グラリと世界が歪んでそのまま倒れこみそうになってしまう身体を、一刀は必死になって片手をついて支えた。鋭い痛みが全身に走ったせいかは分からないが、ようやく経緯と状況を思い出せた。この一戦は、大陸の趨勢を決定付ける物であると誰もが理解している大きな物であり当然、馬騰軍に所属する一刀も覚悟を決めて、相手―――袁紹を下した曹操軍―――に対して準備を進めてきた。そして、必ずとは言わないまでも勝算はあったし、自信もあった。華北を制した曹操軍と、中原を支配した馬騰軍。気炎を上げて激突した両軍がぶつかりあったのは、戦前の予想通り官渡。川上から攻めあがる曹操軍を受ける形で始まった戦いは、激突してから3日という短い期間で急変した。『―――ば、馬超将軍が討ち取られました!』勢いを増して攻め立てる曹操軍、その鼻っ柱を圧し折る為に馬騰軍が砦を出て迎え撃った日であった。一部隊を率いて、野戦の指揮を執り行っていた一刀に齎された報告。それは一進一退の攻防を繰り返していた両陣営の勢いが、一方に傾いた瞬間となる。突然の凶報に混乱して、自らの動揺が部隊全体に広がっていった。指揮官としてはあまりに不甲斐ない失態を毒づく暇も無く、一刀の部隊は夏候惇の部隊によって、瞬く間に貫かれたのである。結果として、一刀の今の状態がある。「くそっ、ちくしょう……」考えてみれば、その報告は余りにも突然で偽の報告であることも十分ありえた。確かに相手には猛将も多く、この戦の規模は余りに大きい。互角の攻防を繰り広げていたせいで、不安が募っていなかったといえば嘘になる。何よりも、戦場に出ていればどんなに強くても討ち取られる可能性はある。それを、覚悟していなかった。いや、していたつもりだったのだ。意識がハッキリと浮上するにあたって、一刀は痛みよりも自らに対する怒りの感情が激しく浮かび上がっていく。怪我をしているのを忘れているのかと思う程に、自分への悪態を交えながら立ち上がる。今、自分がすべきことは拠点へ一刻も早く帰ることと、翠の安否の確認だ。傍目からは覚束ない足取りで、動けそうな馬を捕まえると一刀は不器用に跨って走らせる。帰ること。他のことには一切眼もくれずに、ただただ真っ直ぐに自らの戻るべき場所へ。自分の部隊を貫かれ、その戻るべき場所には敵が居ると言うことすら失念し、一刀は手綱を振ってただひたすらに駆けた。内から発する身体の熱が鬱陶しい。汗だろうか、背中にこびりついた布が風に煽られて寒気すら覚える。流れて行く歪んだ視界、ぼんやりと霞んで働かない頭。そうして走らせた一刀が、馬から零れ落ちるのにそう長い時間はかからなかった。一瞬の浮遊感を経て、気付いた時には一刀は天を仰いでいた。憎らしいほどに晴れた青い空が、漂う粉塵を切り払って、歪んでいた視界の中でハッキリと映し出される。太陽から迸る光すら、眼を細めることなく一刀の瞳に刻まれていた。―――次があれば。次があるのならば。それが一刀の胸の内に走った、刹那の感情であった。一瞬であるはずの空中への停滞が途轍もなく間延びして。視界は白い光で溢れていて。嵐のように荒れ狂った感情が、口から突き上がり―――「二度と―――ッ」そして、一刀の身体は地面へと激突した。―――・「うわあっ!?」「わああっ!?」金獅の馬上で身体を震わせて、切迫したような、驚くような一刀の声が荒野に響く。突然の大声に驚いたのは、一刀の前で馬を歩かせている馬岱だ。何事かと振り返れば、目頭に手を当てて頻りに首を左右へ振っている一刀が見える。別段、彼の隣に在る荷物が崩れているとか、落馬したとか、彼女が思い描いていた光景が繰り広げられている訳でもなく馬上に跨る一刀の様子以外は、至って普通だった。手綱を引いて速度を落とし、馬岱は今もまだ空を仰いだり、自らの胸に手を当てて深呼吸する一刀の隣に付くと窺うように覗き込む。「お兄さんどうしたの、急に」「ああ、あ、いや、何でも……ごめん、なんでもないんだ」「そうなの? あんな大声あげたのに?」訝かむように片眉を上げた彼女だが、一刀が言った事は事実だった。ごく普通に馬を歩かせていただけで、どうして急に寒気のような、身を焦がすような感情に捕らわれたのか全く分からない。ただ、ハッキリしているのは外に聞こえるのではないかと思えるほど波打っている心臓の音とまるで高山に放り出されたかのように息苦しくなった呼吸が、自分の中で何かが起きたと確信させていた。「ああ、気を使わせたみたいでごめん、本当になんでもないんだ」僅かに震えているその言葉は、客観的に一刀の様子を見ている馬岱にも明らかに様子がおかしいし額に張り付いた多量の汗も相まって、全然大丈夫そうには見えないが本人が大丈夫だと言っているのだ。彼女は無理やり納得して放っておくことにした。覗き込むことをやめた馬岱は、懐から黄色い布を取り出して口を開いた。「まぁ、何もないなら良いんだけど、ほら。 汗拭いたほうがいいよ」「え、あ、ありがとう」「なんだかお兄さんって不思議な人だよね。 会った時は頭をカチ割ってたし、今も変な声をあげていたし」「う、それは、えーっと」差し出された布を戸惑いながらも受け取った一刀は、続く馬岱の声に思わず否定しようとして出来なかった。彼女と会ったのは、“馬の”が凄惨な事実を目の当たりにし発狂した直後であり、華佗の治療を受けている最中であったからだ。馬岱、という名前から分かるとおりに、自分達よりも先を歩く馬鉄と馬休の従姉妹にあたる。自分が怪我をした理由は、バッチリ彼女にも伝わっているせいで狂ったように頭を打ち付けていたという事実は誤魔化せない。こうして邑を出るまで話す機会が無かったせいで、今の奇声が出るまで大した会話も出来なかった。ファーストコンタクトは頭を打ち付けて自傷する男。セカンドインパクトは突然奇声を上げて脂汗を流す男。一つでも十分なのに、狂った人間と判断されておかしくない行為をニ度続けて披露してしまったわけだ。本音がどうなのかは分かる術も無いが、この二つの行動に対して“不思議な人”で済んでいるのはひとえに馬岱という少女の優しさだろうか、それとも慎みだろうか。二の句を告げずに黙り込んだ一刀に、馬岱は肩を竦めて話題を変えた。「あのさ、天医様とは知り合いだったの?」「あ、うん。 華佗とは友達なんだ」「じゃあお兄さんは漢中……ごっとべいどーの人?」「違うよ。 俺は天……」そこまで言って、一刀は口を噤んだ。自分は一体どこの人間かと言われたことは、天代であった時に良く聞かれた質問の一つだ。この時、“天代”たる自分が返答に用いたのが天から来たという物であった。風評にも関わっていたので、対外的には基本的にこう返していたのだ。が、今それを言うとまずいことになる。天から来た者など、“天の御使い”以外には畏れ多くて言えたものではないからだ。そもそも、天という単語事態、皇帝を指す言葉の一つとして捉えられている。迂闊に言って良いものではない。それこそ、“天の御使い”でなければ不可能なことだった。「えーっと、その、俺は陳留のあたりからかな」「そこで天医様とも会ったんだ?」「うん、たまたまって感じでね」「病気だったんだ?」「うーんと、まぁ、そうだね」思い出すように一刀は腕を組んで頷いた。確かに彼との関係は、自分が大怪我をして助けて貰ったのが始まりだ。そうして頷いた一刀に、馬岱は身体を寄せて彼の肩を励ますように二度、三度叩いて。「っと、どうしたの?」「大丈夫、きっと治るよ。 ごっとべいどーの天医様っていったら何でも治せる名医って聞いてるもん。 頭でも、おば様の病気も……きっと。 うん、頑張ってねお兄さんっ!」凄く明るい声でそう言い放った。「え?」やたらと優しい眼を向けて励まされて、一人頷きながら元の場所へと戻るように馬岱は馬の速度を上げた。唐突な彼女の行動に、一刀は最初こそ理解が出来なかったが、ふと気付く。要するに、さきほどの『不思議な人』は優しさと慎みを兼ね備えた彼女の配慮だったという事らしい。ようやく一刀の口が、力ない呟きを交えて開かれた。「……違うんだ」『いや、ある意味、完全に当たってるよ』『うん、頭おかしいよね俺ら』『馬岱さん、鋭いね』「なんか、すっげぇ理不尽だけど否定できないのが辛い」『とりあえず、今の会話は“馬の”には内緒な』『おk』『把握した』ちなみに彼女の誤解を招いた原因を作った“馬の”は、精神的ショックから引き篭もりの状態が続いており“肉の”を筆頭にして声をかけあい、精神の安定を図っているところである。経過は順調で、もうそろそろ復活するだろう。復帰直後に馬岱の言葉を今の“馬の”にぶつけることは危険だと思えた。また意識の闇に引き篭もられても手間なだけである。『まぁ、馬岱さんの誤解はその内といてあげれば良いよ』『そうだね。 時間はあるし』「他人事のようで、自分のことだから困るんだよなぁ」『ていうか、解けるの?』『誰かなんとかするだろ』『他力本願すぎ、本体頑張れ』「また俺か!?」『本体なら……北郷一刀ならやれる……っ!』『お前が言うな』『お前が言うな』『お前が言うな』『お前が言うな』「いや、もう、俺が悪かったから、ばよえーんの連鎖みたいなのはやめてくれ」無限ループに突入しかけた突っ込みに、慌てて制止して一刀は溜息を吐き出した。不毛な争いに入る前に、先ほどの身体の変調に対して意見を聞こうと口を開いたが本体よりも前に彼らが振ってくれた。『で、どうしたんだ突然』「ああ、いや……それが本当に良く分からなくて」『白昼夢とか?』『もしかしたら、維奉さんの電波とか……』『ああー、そうだった。 あれはマジなのかな?』『目が本気だったよな』『本気だったね』「本気だろうなぁ……」流れるように変化した話題に、本体は僅かに眉を顰めたが彼らの話に乗っかることにした。そう、邑を出る前に一刀は残ることになった維奉に見送られたのだがその時の彼の言葉が、実に想像の埒外の物だったのだ。維奉、曰く。「御使い様、俺ぁ手も失っちまって何が出来るのか考えて考えて、ハゲちまいそうなほど考え抜いて ようやく分かっちまった。 まぁ、もともと頭は薄かったんですがね。 とにかく俺がこの世に生まれて、この先御使い様の役に立てれるとしたら、何が出来るのか。 そう! “天の御使い”の“道”をみなに教えることっす! 俺ぁ天道教を啓く為に、生まれてきたんすよっ!」と、握りこぶしを作って物凄い笑顔を向けながら力説されたのである。もちろん、下話も何にも無い。突然の決意表明だった。結局、許可を求められて有耶無耶のうちに飛び出してきてしまい―――止めてくれとは言っておいた―――訳だが邑に戻ったら自分の銅像が立っていたりしそうで怖かった。現状でそんな宗教を興したら、黄巾のことも重なってマッハで潰されることだろう。そうなれば無関係の宗徒や邑の人々に無用な危険を呼び込んでしまうはずだ。そうした説明も、もちろん維奉にはしてあるし頷いてくれてもいたのだが不安は募る。意気込みが半端でないことを、維奉の全身から感じ取ってしまったからだ。「……もし大々的に広まったらどうしよう」『その時は……』『その時は?』『誰よりも先に荀攸さんからぶっ飛ばされるな、きっと』同意するように、金獅の短い嘶きが荒野に響いた。―――・まだ春を迎えたばかり、朝と夜は随分と冷え込む季節だ。こうして昼に吹き付ける風は、生ぬるい。陽が出ていればそれはそれは、昼寝するに丁度良い気候になってきたと言える。今日もまた、目的地を目指して荒野を歩いていた。一刀の隣ではガラリガラリと、地面を踏みしめる車輪の音が響く。思いのほか、大人数での移動となってしまった為に馬を用いて荷物を運んでいるのだ。既にこの地に降り立ってから1年以上。馬の扱いも随分と手馴れてきたとはいえ、何日も馬上の上で過ごすことにはやっぱり慣れない。我慢出来ないほどではないが、数日も馬上で日々を過ごせば疲れもたまる。手綱を緩めて、コリを解すように自らの肩に手を当てるとゆっくり揉みしだく。先導するように前を行くのは、つい先ごろ知り合った馬鉄と馬休。その後ろに華佗がついていっている。自分を挟んで、後ろからゆっくりと付いてくるのは馬岱と荀攸だった。こうして荒野を歩くことになった経緯は簡単だ。容態の優れない馬家の主、馬騰の治療をして欲しいと馬岱から要求されて華佗が頷いた。言ってしまえば、一刀と荀攸は華佗のオマケみたいなものである。もちろん、華佗と共に馬家に向かうのには一刀にも理由がある。これが諸侯の一人でなければ、向かう事は無かっただろう。表舞台、つまり自分が立ち上がることはなくとも、周辺諸侯との繋がりを持っておくに越した事はない。いずれ明確に自分が行動を起こすであろうその時、諸侯との友誼を結んでおくこと。プラス面にもマイナス面にも転がる可能性はあるが、それは畏れることではない。分からない未来に怯えて飛び込んで来たチャンスをふいにすること程、馬鹿らしいことは無いのだから。打算とは無関係のところでも、華佗に付いて行くことにしたのは当然ながら“馬の”の為でもある。馬鉄と馬休のこと―――外史の影響だろう変化―――で生きる意味を失いかけた“馬の”も昨日、ようやく再起動を果たして馬岱の姿を認めて感涙していた。その際、本体にも激情から影響が出ており人知れず涙と鼻水を流すことになったのだが、それは余談だ。とにかく“馬の”に関わらず脳内に居る自分達の想いがそれだけ……そう、自分にとって音々音との想いと代わらないほどの物だと理解はしている。だからこそ、“馬の”を変に慰めることもしないし、茶々を入れることもしなかった。「そろそろ飯にするか」眠たい眼を擦り、おおきな欠伸を一つかましたところで、前を行く馬鉄から声が上がる。誰とも無く頷いて、馬から下りると、一刀達はいそいそと昼食の準備をし始めた。ふと気が付くと、馬を下りた直後には居た筈の華佗と、荀攸の姿が見えなかった。「あれ?」「おい、一刀。 炊き出しをするから木材を運んでくれ」「え、ああ……分かったよ」水か何かを汲みにいってるのかも知れない、と思いつつ一刀が馬鉄の声に頷く。ほどなく炊き出しが終わろうかという時になって、華佗達は戻ってきていた。自分の準備を終えた一刀は、それとなく近づいて尋ねる。「華佗、どこに行ってたんだ?」「ん、ああ。 荀攸殿から馬騰殿の容態について確認していたんだ」言われて一刀は納得する。先ほど、荀攸は馬岱と談笑するようにして馬を並べて歩いていたのを見ていたからだ。一刀は自身の疑問が氷解すると、華佗へと食器を手渡した。「そんなに悪そうなのか、馬騰さん」「まぁ診てみなければ何とも言えないが、話を聞いた限りでは良くは無さそうだな」「うん……そうか」「まぁ、話はそれだけじゃなかったんだが」「?」「いや、まぁ気にしないでくれ」僅かに顔を顰め自分の見つめる華佗に、一刀は首を捻ったがとりあえず言われたとおり気にしない事にした。それよりも、気になるのは馬騰の方である。諸侯との繋がりを持つために、付き添いという形で向かっている一刀からすれば馬騰の容態は良いに越したことはない。華佗の診断次第ではあるが、こうして向かったは良い物の、会話することすら出来ないというのも可能性として在り得るからだ。もちろん、馬岱や馬鉄たちと知己になれたことは無意味ではない。しかし、彼女達も親族であり主と仰ぐ馬騰の判断で動くことになるのだ。そんな事を思いながら華佗と話していると、ふいに水を向けられた。「馬騰殿の事は俺に任せてくれれば良い。 それよりも、一刀は平気なのか?」「なにが?」「一刀は罪人だろう」「あぁー……確かにそうなんだけど」ぶっちゃけるとこの辺は曖昧である。何が曖昧であるかといえば、一刀が中央から追放されて、王朝簒奪の罪に問われた犯罪者であること。それが何処まで世間に広まっているのかの判断がつかないのだ。 宮内の中に居た者たちには知れ渡っているかも知れない。しかし、言ってしまえば辺境と言って差し支えない馬一族が、引いては涼州に居を構える諸人が一刀の罪を知って居るかどうかは謎だ。馬岱達も自分が天代であった事に気が付いた様子はないし、宮内で『馬家』に関わる人物と出会った記憶もない。「だから、大丈夫だと思うよ」「何が大丈夫なんだ?」「随分と口が忙しいな、飯を食わんのか」話を遮ったのは、さきほどの一刀と同じように、器を抱えて近づいてきたのは馬鉄と馬休だった。押し付けられるように食事を手渡され、一刀は苦笑した。彼らにも同じように空の容器と、大きな鍋のような物が抱えられている。「ありがとうございます」「礼などいい。 こうして旅を共にする以上は仲間だからな」「我らの下に来るというのならば、客でもあるしな」「はは……そうだ、お二人は馬騰殿の容態をご存知ですよね」自然、座り込んだ馬休の隣に腰を降ろして、一刀は聞いてみた。二人が座り込んだからか、馬鉄も華佗も同じようにして男四人、中央に置かれた鍋を中心に輪を描くように座る。馬休がフタを開けると、薄茶に色づいたスープと、鶏であろう肉が放り込まれていた。一瞬、彼らはそこで動きを止めた。肉である。「それが、我らはずっと外に出ていたせいで知らんかった」「邑から邑へ渡り歩いていたからな」「え、そうなんだ?」「馬岱殿の話では、今から3ヶ月前には症状が出ていたと聞いているが」「うむ、まったく同じ事を聞いて知るに至ったぞ」この馬鉄の同意に一刀は首を傾げた。いくらなんでも3ヶ月以上も自陣営に戻らないとはおかしいのではないか。例えば、先に激突した董卓と反乱軍の戦に関して調べているとしても、彼らは二人だけで行動していると聞いていた。報告を怠れば、情報を調べていても意味がないし、一度も戻らないのも不自然だ。おもむろに伸びた馬鉄の串が、馬休の左手によって防がれる。その隙をついて鶏肉に向かう黒い影。北郷一刀の串が忍び寄るように鶏肉に伸びたが、それは馬鉄の持つさえバシによって掴まれた。「どうしてお二人はずっと外に?」「うん?」「ああ……それはな」「鉄」「いや、良いじゃねぇか。 隠すようなことでもあるまい」「あ、言えないことならば別に無理して言わなくても」「そうじゃねぇ。 ただ、これを話すと気が重くなるだけだ」言うが早いか、大きく息を吐き出す馬鉄と難しい顔をして黙り込む馬休。これは聞かないほうが良かったのかと、一刀と華佗は顔を見合わせた。 いや、一刀の目線だけは器用なことに肉に向いている。僅かな間を置いて、今度は馬休の方から声が上がった。間、三人の間では、その武威を証明するかのように、しなやかな動きで鍋の上を踊る。どういう力が加わったのか。鶏肉は鍋の底を離れ、空に躍り出た。「っ……我らの目的は、資金の調達だった」「集めなければならない金が、途轍もない額でな。 っと、おおよそ軍馬にして500頭」「ご、500頭……」「それはまた、随分と大きな金額ですね」「うむ。 無理だと言ったのだが、必ず集めろと言ってな」「そうして已む無く、裸で周辺の邑をうろついていたのだ」色々経緯が省かれたせいで誤解してしまいそうだが、きっと彼らの服も資金の肥やしとなったのだろう。それよりも気になるのは、どうして金集めにそこまで躍起になっているかという事だ。軍馬500頭というのは、口で言ってもすぐにはピンと来ないが途轍もない値段となる。細かい事は省くが、馬を戦場で使えるようにするには多くのコストがかかるのだ。それこそ、軍で運用することが出来る馬齢に成長するまでの餌や世話をする人の人件費など、多くの事が重なって。農耕馬一頭だけでも多くの金はかかってしまうし、軍で運用する物となれば相応の訓練も必要となる。一刀が跨る金獅のように屋敷が建てられる程の値段は稀だが、無い訳ではない。鶏肉は未だに空に浮いている。一刀と馬鉄、馬休の串が空気を切り裂いて甲高い音を奏でていた。時折ぶつかり合い、弾きあう。「そのお金、何に使うかは聞いても?」「分からん。 俺と休には母と岱以外にもう一人肉親が居るが、集めているのはその人だ。 聞いてみないことにはな……ふんっ!」「薬か?」「いや、華佗。 馬騰さんが体調を崩したのは三ヶ月前って言ってただろ、くそっ」「ああ、そういえば」『翠……のことだよな』『ああ、多分……いや、翠だよ』『なんで馬超にそんな金が必要なんだ?』『いや、聞かれてもなぁ』『まぁお金が無いと何にも出来ないのはどこでも同じだね』『ああ、こんな醜い争いを見たくはないしね』「五月蝿いっ、気が散るだろ」一度鍋の中に生還した鶏の肉は、やや細かく千切れつつもその存在を明確に示している。とうぜん、彼らの腕は休むことなく右へ左へ、牽制を踏まえた本命を叩き込むことに真剣だ。馬鹿らしいかもしれないが、馬鉄、馬休の懐具合は今の会話の通りほぼゼロに等しかった。そんな事情が在る中で、鶏肉のような高価な食事を取る事はできなかったのだ。同様に、一刀の方もほとんど荀攸や華佗からの支援と、邑の中での生活の中で大工仕事や土木作業などで手に入れた日銭ばかりのなか、贅沢な食事は自制していたのだ。ポンっと出されたせいでもあるだろうが、この肉はなんとしても手に入れたかった。単純に、彼らは貴重なたんぱく質の摂取に、飢えていた。「我らの放浪の理由はそんなところだ。 岱から母者の容態を聞かなければ今も金集めに奔走していたことだろう」「うむ、母の事は気になるし、戻るのに丁度良い理由が出来た。 ちょっと離せ鉄こら」「なるほど……ところで、お金はどのくらい集ったので―――あぶなっ」「一刀、休、ここは俺に譲るべきじゃないか? 時間も押してるぞ」「何を言うか、兄者が器を見せるべきだ」「大人げない」「可愛げない」「いや、この場合は意地汚いが適していると思う」華佗の最もな突っ込みは当然の如く三人にスルーされた。この熾烈な争いは、一刀と馬鉄の串が交錯してはじき出された肉が、地面に落ちかけたその時。鋭敏な動きで放物線を描く肉に、馬休が漁夫の利を狙う形で突き出したさえバシが僅かに狙いをそれて鶏肉を弾き飛ばし、その先に在った一刀の口に飛び込んで終了を迎えた。なぜか食事後、誰かの殴打により昏倒した一刀を放って慌しく食事の片付けを始めた馬休と馬鉄の二人に華佗は気を用いての治療を施して一刀を起こすと、彼は痛む頭部を手で押さえながらニヤけていた。離れた場所で談笑に耽っている馬岱と荀攸に、叫ぶように声を上げて出立を告げている。頬を掻いた一刀は、漏らすように呟いた。「肉うめぇ……いや、じゃなくて、お金か……」「鉄殿も休殿も出会った時は裸だったし、服も質に入れたのだろう」「それには同意……気が重いっていうのはお金のことだったんだろうね」結局この会話は、金を集めている馬超の目的は聞けず、鉄と休の商売下手が発覚し久しい鶏肉の味に頬を落として終わりとなった。 ■ 虎の行方今、洛陽は春の麗らかな日差しが宮殿を照らそうかという、暁の時であった。そんな宮殿に設けられた部屋の一つで、一人の男が腕を組み傍らに灯した一本のろうそくの前で眼を閉じている。彼の名は何進。毎朝、飽きる事無く続けている一人朝議とも言える習慣は、どれだけ忙しくても欠かしていない。しかし。ここ最近はまったく同じ事で思い悩み、そして未だ決断することが出来ない大きな問題を前にしていた。その問題とは、劉宏が崩御してから空のままである王位にある。何進はこの問題は早期に片付くものだろうと思い込んでいた。帝が崩御する前、いや、天代がまだこの宮内に姿を見せていた頃から、後継者は劉弁になると約束されていたからだ。そしてこの考えは、何進を含めて大多数の人間の総意であったと言える。なぜならば、後継者問題は半ば天代の手で進められ、劉弁が皇帝になる為の準備が整い始めていたからだ。ところが、だ。天代が理由はどうあれ追放されて、追うようにして帝が崩れたときになり張譲を初めとした宦官らは言い出した。この天代の手で進められた後継者問題が、問題になるのだと。更に、彼らは天代を住まわせた劉協を後継者に押し出したのだから劉弁の下に勤めている十常侍どもは激昂した。追って言わせて貰えば、劉協自身も皇帝になる気だというのだから始末に終えない。何進の目から見て、彼女にそんな気があったとは思えなかったのだが、これも宦官に惑わされて良い様に使われていると見るべきか。だが、断定することは彼には出来なかった。そこからは泥沼と言える水掛け論の投げ合いだ。劉弁には謂れの無い、天代と結託して皇帝になるつもりだったのではないかと言う不遜極まりない言葉が投げかけられ対して劉弁側からは天代の下に居た劉協を支えることこそ愚かだと言い捨てられ。とにかく、双方ともに在る事無いこと、よくもそこまで口が回るものだと何進を呆れさせた。これが自分が呆れるだけならばいい。後継者、特に一諸侯などではなく漢王朝の未来に繫がる問題なのだから、話し合いは重要だ。「……だが、これでは先が見えぬ」そうなのだ。もう帝が崩御されてから随分と立つ。この宮内の混乱は、軍部を総括する何進にも大きな影響を及ぼしているのだ。劉協、劉弁、どちらの宦官共も私兵を持っており、これだけ長引いた論争の果てには必ず武力の行使が行われることが容易に想像できてしまうからだ。当然これらは何進の憶測に過ぎず、洛陽を空けたからと言ってすぐに血生臭い抗争が始まるとは限らない。しかし、もしもそうなった時、何進を含めて武力を用いてでも止める第三者が居なければ、宮内は血に彩られることになる。それはまずい。漢王朝は未だ在るということを、庶人に認識されていなければ今の状況は本当にまずいのだ。勿論、これは宮内の人間ならば全員が理解しているのだろう。未だに表向きの平穏が保たれているのがその証拠だ。涼州の反乱、黄巾の抵抗。どちらの切っ掛けも漢王朝そのものへの不満が爆発したせいだ。少なくとも、表向きの理由ではそう叫ばれている。そして、この理由に頷けてしまうだけの醜態を、今この瞬間にも漢王朝は晒していた。平時ならば違ったかも知れない。しかし今は、戦乱の只中な上に王朝側が不利であると言ってもいい。大将軍という地位に居る何進は、宮内の問題が―――宦官の暴走を抑える意味でも―――片付くまで戦場には出れないだろう。誰か他の人間を当てるにしても、西園八校尉に選ばれた者は、それぞれの場所で奮闘していて中央には誰も居ない。袁紹は上党に居を構える大規模な黄巾残党を抑える為に動けない。蹇碩は死んだ。董卓も、涼州の反乱軍とぶつかり合い、小康状態を保っている今、呼ぶことは不可能だ。曹操も動けないだろう。黄巾残党が一大攻勢を仕掛けた陳留を預かっているのだ、動くに動けない。そして、この動けない……いや、動かない漢軍を庶人はしっかりと見ている。天代は、涼州の反乱軍とぶつかっているだろうと信じきっている民衆は、動かない漢王朝をどう思っているだろうか。この何進を、どう批判しているだろうか。「このままではまずい」分かっていたことだ。この一人朝議を毎朝続けてきて、何度も同じ事を考えて、同じ結論に達している。結局のところ、この問題の要点はただの一つだ。劉弁、劉協、どちらでもいい。どちらかが、とっとと皇帝の座に居座って、宮内を安定させてくれれば、それだけで劇的に変わる。もしかしたら、それだけで黄巾か涼州か。二つの内一つの乱は片がついていたかも知れない。そこまで行かなくても、事態は好転したはずで、胃を暴れまわる不快感など催さなかったはずだ。「……」何進は徐に立ち上がり、洛陽を照らし始めた朝日を窓から眺めた。問題の要点は分かりきっていた。誰も動けないのならば、動けるようにするしか無いではないか。このままでは遠からず、漢王朝は自滅するのだ。漢王朝の大将軍である自分も、その時は同様に天へ還ることにもなるだろう。もう十分待ったはずだ。誰もが出ている答えから眼を背けて、都合の良い未来に思い更ける時間は終わりにしなければならない。「眼を覚まさなければな……自身を含めて」何進は言い聞かせるように呟くと、踵を返して外套を纏った。扉を開け放ち、幾つかの目的地を思い浮かべながら足を進める。何進とすれ違った多くの人間が、その形相に驚いた眼を向けることにも気付かず、彼は早足で宮内を飛び出した。漢王朝にもう、天の御使いは居ない。いや、今はその天すらも居ない。漢王朝という巨龍は、頭をもがれてしまっているのだ。「そうだ、まずはそこからだ。 誰か居るか!」「は、はぁ、どうしましたか何進様」「劉協様に面会を求める。 その旨を離宮に申し付けておけ」「わ、分かりました」「昼過ぎに向かう。 その前に私は会わねばならん」「は? あ、何進様!」呼び止める男の声を無視して、何進は踵を返した。「漢王朝は終わらん。 この何進が此処に在る限りは終わらせなどしないぞ」そして彼は、ある一室の扉を開いて中に飛び込むと、驚いた様子で振り向く女性に詰め寄った。―――・「なるほど、それで私の下に鼻息も荒く訪れたというわけか」「……その通りだ」「最初は何事かと思ったぞ。 あいにく私は夫以外の男に抱かれる趣味はないからな。 だから、その顔面の腫れと噴出した鼻血は不可抗力だということを、先に言っておこう」「良い、些か興奮していたからな、逆に頭が冷えた。 ありがたい」「ほう、ならば良かったぞ。 流石に大将軍を殴打してしまったのはまずいと思っていたところだ」何進が息も荒く詰め寄ったのは、江東の虎と呼ばれる一人の女性の下だった。彼女の居る部屋に飛び込むなり、肩を両手で掴み、鼻息も荒く目が血走っていてはこの仕打ちも仕様がない……というよりも、当然なのだろう。毎日少しずつ、一人で悶々と悩んでいるうちに蓄積された物が、決意とともに吹き荒れたのも原因だろう。普段ならこんな性急な行動は避けていた筈である。何進は一つ頭を下げて、肩を竦める孫堅に進められたお茶を口に含む。「それにしても、大将軍」「ああ、なんだ」「話は分かった。 このままではダメだというのも同様の認識だ」「そうか、いや、やはり孫堅殿ならば分かっていると思っていた」落ち着いた何進が自分の考えを述べたところ、孫堅からは同意の旨が帰って来る。どうして彼が、孫堅の下に訪れたのかを言えば簡単だ。孫家の長として行動していた彼女は、天代に協力していることをハッキリと公言してしまった為孫家の次代、孫策により糾弾されて爪弾きにされたのだ。まるで示し合わされたかのように、流れるようにして彼女は孫策の言葉を受け入れて追放されている。そして、そんな事を言ってしまった為に中央からも疎まれて、現在はこの宮内に監視を兼ねて軟禁されている。もちろん、其処に至るまでに多くの経緯はあったのだが、簡単に言えばそういうことだった。西園八校尉の役も、当然ながら取り上げられている。動くはずの物が動けず、動かすことすら出来ない西園八校尉は、もはや形だけの役に成り下がりつつあった。とにかく、何進にとって彼女は都合が良い存在なのだ。名もある。実力もある。そして、彼女の問題は自分の権力で解決することが可能だ。そんな自分の意思で動くことが許されない状態の孫堅は何進の目的と照らし合わせると駒として最高の存在であり、仮に断ろうとも権力を嵩に無視することが出来る。この場ではお願いとして話しているが、その気になれば強制することは容易い。それは孫堅も理解しているのだろう。「ようするに、大将軍は我が身を都合よく使いたい、ということだな」「隠すこともせん、その通りだ」理解しているから、確認するように何進の意思を問う。彼は素直に頷いた。彼女を涼州、あるいは黄巾残党へと差し向ければ少なくとも王朝が鎮圧する意志を持っている。庶人の者はそう思うはずだ。何より孫堅は大陸に武名を轟かせ、江東の虎の異名を持つ猛者である。効果はそれなりに見込めるはずだった。「その間に、大将軍はこの場の問題を片付けると」「うむ、まずは今日の昼間、劉協様と顔を合わせる」「行動を起こすには遅い、かといって今すぐ動くには性急だ。 あまり言いたくは無いが、言わせてもらうぞ何進殿。 焦りすぎて目が曇っていないか」「そうかもしれん。 しかし、これ以上待てないのも事実だ」何進の焦燥も、まったくの的外れでないことは孫堅も分かっていた。この問題は、先延ばしにしても良いことなど一つもありはしない。少なくとも、漢王朝を生きながらえさせるのにおいて、メリットなど皆無だ。「……良かろう。 ここの生活も飽いていた。 話に乗らせてもらう」「持ちかけておいて筋違いだとは思うが、良いのか。 一日くらいなら待っても構わんぞ」「どうせ答えは決まっている。 精々、漢王朝の為に身を砕くとしよう」「……ありがたい」この問答からも、孫堅は何進の考えの全てを見抜いていると考えても良い。ここで頷かず、断ったとしても結局のところ何進の意思が全てである。これは最早、孫堅と少しでも気持ちよい関係を築くための心遣いに近い。と、いうよりも何進が孫堅を動かす為には『漢王朝の為に働く』という一点を約束させなければならない。もはや諸侯としての権力もなく、野に放す訳にもいかない孫堅という人間はこれを頷いてしまえば、何進の部下という立ち位置に自然落ち着いてしまうだろう。そんな彼女に求められるのは、死と隣り合う戦場だけ。少なくとも、戦乱を終えるまでは孫堅は常に戦場へ向かうことになる。彼女が否と答えようと、あるいは曖昧な返事を返そうとも結果は決まりきっているのだ。「……」「……それでは、朝からすまなかったな、孫堅殿」「ああ」「では、また会おう」「ああそうだ。 一つ聞くが、どちらが皇帝になる」腕を組んで思い出したかのように、話は終わりだと背を向けた何進に投げかける。そんな孫堅の言葉に何進は背中越しに苦笑した。「決まっている。 劉弁様だ もはや賢しいだけの宦官共の好きなようにはさせん」崩御した劉宏、そして消えた天代が推し進めた後継者の名を口にし、何進は退室した。この答えは、半ば分かりきっていたものだった。最初から劉協側が騒ぎ立てなければ、劉弁になっていたのだ。元から在る話をそのまま進めるつもりなのだろう。この後、劉協と面会し何をして、何を話すのかは検討もつかないが、恐らく何進の思いは叶うことだろう。今まで黙して動かなかった漢王朝の重鎮の一人、何進の決断だ。武という分かりやすい権力を扱う彼の決断は、何進自身が思っている以上に大きな影響力を持っている。劉協側も追い縋るだろうが、まぁまずは無理な話になることだろう。残された孫堅は、一度深く椅子に座りなおすと、大きく息を吐き出した。実際のところ、この話は孫堅にとって悪い物ではない。漢王朝の一員だという自負は元から持っていたし、劉協と天代に申し出たあの日に口にしたことは嘘ではない。漢、その存続の為に命を賭ける。その部分に於いて、何進の申し出た物はぶれていなかった。故に、天代追放、孫家追放という状況に身を置いて、自らの意志で動くことが容易でなくなった孫堅にとってこの話は渡りに船と言えたのだ。ただ、仕える相手が変わるだけのことだ。劉協から、劉弁へ。ここまで考えて、孫堅は気が付いたかのようにフッ、と自嘲した。「何進殿、その道は天代が歩もうとした道だと気付いているか?」この問いに答える者は当然おらず、彼女の声は中空に浮かんでそして消えた。数日後、孫堅は5千の兵を率いて洛陽を発つ事になる。軍馬を進める足は、洛陽から西へと伸びていた…… ■ 集う役者達漢王朝を示す旗をたなびかせて、馬車は荒野を走っていた。数十の供回りだけを連れ立って走るそれは、少なくとも王朝に役を頂く官吏であることを予想させる。孫堅が西へと足を向けるその2日前のことであった。漢王朝に弓を引いた反乱軍、辺章の軍勢に対抗するために兵を集めている一人の者が居た。現在の涼州の刺史で、名を耿鄙(こうひ)と呼ぶ。前の激突ではこの地位に着任して間もなく、援軍にすら駆けることが出来なかった。膠着している状況の中、耿鄙は次こそは武勲を立てようと黙々と兵を集めている最中にある。そんな耿鄙の下に王朝から一枚の書が届いていた。差出人は、今の今まで動く気配すら見せなかった中央の大将軍、何進。既に長安付近にて辺章の軍勢と激突した当事者、皇甫嵩と董卓を飛び越えてこの書が耿鄙の下に届けられたのは小康状態となっている現状を覆すための一手を差すため、なのだろう。その何進からの書には、簡潔に馬騰と結託して反乱軍を鎮圧せよと書かれていたのだ。これに耿鄙は、漢王朝と激突した賊軍、それを見ても中立を貫く馬家に不信感を抱いて一度拒否の姿勢を見せたのだが玉璽と思われる印と、勅であるという一文から無視することは出来なかった。「耿鄙様、見えてきました」「……あれか」幌に取り付けられた覗き穴を手で広げると、耿鄙の視界には今まで散々見せられた砂埃舞う荒野ではなく都、それも都市と言っても過言では無さそうな街並が飛び込んで来た。現在、馬家の長である馬騰が拠点としている場所である。「涼州の刺史、耿鄙が使者として訪れたことを馬騰殿に知らせ。 準備が出来次第、こちらから窺わせて貰うとな」「はっ」供回りの者に言伝を終えると、耿鄙は馬車から顔を出してその足を地に着けた。姿を見せて、まず眼を引いたのは顔の右半身を覆うようにして巻かれている布である。髪は黒く、耳を隠す程度に切り揃えられて随分と短い。ごく一般的な文官が着用する袖の長い服装であり、特筆するような特徴は無かったが唯一、襟足付近から二つに別れた長い鉄の鎖が異様であった。そんな、馬騰の下に訪れた耿鄙の一団を眺めるように見つめる視線が合った。「あの馬車は……」「探したよ、荀攸さん……どうしたの?」「いえ。 辺境にしては珍しい物があると思いまして」荀攸が人差し指をついっと向けた先に、耿鄙の一団が留まっているのを見て一刀は眉を顰めた。馬車の4隅にはためく、王朝を示す印を認めたからである。そんな一刀を、荀攸が優しく手を取って諌めた。「一刀様、顔が……」「え、ああ……」一刀は、漢王朝から朝敵として認識されているせいか、本人が思っている以上に渋い顔をしてしまっていたようだ。降り立ち、忙しく声を発して指示を与えている耿鄙を見て、一刀は小さく首を振って息を吐き出した。相手はともかく、一刀は宮内で見たことも無い人物であった。顔半分を布で隠す、そんな特徴的な人物が居れば関わりが無くとも覚えていておかしくはない。この吐き出した息は、安堵の溜息か。人知れず一刀は自嘲し、耿鄙から視線を外して荀攸へと用件を伝えた。一刀達はこの地に着くと、目的となる馬騰との顔合わせのための段取りを馬岱に頼みそれまでに空いた時間を、長旅で疲れた身体を癒すことにしていたのだ。実のところ、この場所に来てから3日は経っている。十分に休養は取れたが、もうそろそろ会えない物かと気を揉んでいたところだった。そして。「ついさっき馬岱さんが戻ってきたんだ。 面会できるって」「ようやくですか。 随分待たされましたね」「まぁ色々事情があるんだろうけどね。 もう皆集ってるそうだから、後は荀攸さんだけ」「分かりました。 一度荷物を預けてから向かいます」「分かった、それじゃあ俺は先に行ってるから」お互いに頷き会って、一刀は踵を返すと振り向く事無く歩き去っていく。それらを見届けてから、荀攸は視線をもう一度、耿鄙のもとへと向けた。距離こそ近くはないが、この時代の将の視力は耿鄙の姿形を確認するのに容易であった。背を向けて立つ耿鄙をしばらく見つめ、その首筋に妙な痣が走っている事を荀攸は気付いた。丁度耳の裏の当たり。斬り傷や刺し傷、刺青などとも違うそれに微かな違和感を抱く。そんな違和感を拭い去る前に、耿鄙は体勢を変えて荀攸はハッと気が付いたように首を振った。そうだった。皆、自分を待っているのだった。その事実に気が付いて、彼女は観察を止めて一刀の後ろを追うように踵を返した。一刀がそうであったように、荀攸もまた耿鄙を見たことが無かったのだ。少なくとも、中央から訪れたわけではなさそうである。何処から来た官吏なのか、それを知りたい欲求を押し殺して荀攸は思考を切り替えた。―――・武威と呼ばれるこの地で、最も栄えている場所と聞かれれば大勢の人間が同じ場所を指す。漢王朝の末席に所属し、この西の地で最も精強な兵を持つ馬騰の領地だと口を揃えて言うことだろう。一刀はそんな涼州の雄、馬騰との対面を控えて詰まる息を吐き出すように大きく深呼吸を繰り返した。どちらかと言えば、一刀はおまけである。この面会は、馬岱が叔母である馬騰の容態を見てくれと、華佗に依頼したのが切っ掛けで成ったものだ。それは理解しているし、そのつもりで一刀もこの場に居る訳だがそれでも、緊張を自覚して口を乾かしているのは馬騰が漢王朝側に立っているからに他ならない。蹇碩からの追撃を振り切って、眼を覚ましてから動くに動けない日々を過ごしていた。一刀はそんな日々に焦りを覚えつつも、自分を諌めて雌伏の時を待ち暮らしていたのだ。事、ここに来てようやく動き始めた。いや、まだ動いてもいないが動くかも知れないところまで来ているのだ。「……良い関係が作れれば」「? 何か言ったか一刀」「なんでもないよ」隣を歩く馬鉄に苦笑を一つ交えて、一刀は肩を竦めた。時間は確かに有限だ。漢王朝を存続させるのに、天代として築き上げた名声が朽ち果てるまでに残されている時間は多くないだろう。だが、事を急いても意味はない。荀攸が言う、張譲達の用意した罠というものが何なのか、それは分からないが性急に動いてしまえばその毒牙にかかってしまうだけだ。「つきました。 どうぞ馬岱様」何にせよ、治療に赴いた華佗を切っ掛けにして、何か得る物があれば言うことはない。ベストは馬家に漢王朝を支える為の友として約束をすることだ。案内を終えた兵が引くと、一度だけ振り返って、馬岱は全員の顔を見回してから口を開く。「ありがとう。 それじゃ皆いこーか」開けた視界に、壇上にて王座に座り構える馬騰だろう者の姿。そして、その真横で凛々しい顔つきで腰に手を当てている少女の姿が見える。あれが、馬超なのだろう。『翠……あぁ、俺の翠だ……』『その、なんだ……』『“馬の”、良かったな……』『ああ、生きてて良かった……』『いや、意識だけだけどな俺ら』『茶化すなよ……』『あ、ああ、ごめん……うん、良かったな』『う′ん′』『俺もなんかホッとしたよ……』脳内のやり取りに―――若干涙声も混じっていたが―――気が抜けそうになりながらも一刀は前を行く華佗達に習い、腰を落として頭を下げた。「顔をあげてください」馬騰の声にあわせ、一刀達は一斉に顔を上げる。改めて近くで見ると、馬騰という妙齢の女性の姿が明確に一刀の視界に映し出される。髪は馬岱や、馬超と同じく茶。長い頭髪を頭の天辺で一括りにしており、やはり馬の尻尾のように纏め上げている。切れ長の大きな瞳をこちらに向けて、凛々しい顔を貼り付けているが、物腰はどこか柔らかい。紺色を基調にした外套に、橙の色の線が袖口に走っていた。その手に持っているのは銅色の棒。 何時か見たコンサートの指揮者が持っているような、細長い棒であった。有り体に言って、美女だといえる。とても子持ちとは思えないスタイルと美貌の持ち主だった。チラリと視線を逸らせば、母と同じように射抜くような眼でこちらを見つめる馬超の姿。そんな一刀の視線に気が付いたのか、馬超は僅かに眉を顰めた。「ようこそ、我が馬家の下へ。 お会いするまで些か待たせてしまって悪かった、華佗殿」「お気になさらずに」「うむ。 我が事は岱から聞いているのだろう。 天医とまで呼ばれる華佗殿に診てもらえることは、僥倖だな。 岱には感謝せねばならん」そう言って、何時の間にか馬超の隣まで足を運んでいた馬岱に、彼女は柔和に微笑んだ。馬岱はクスリと笑って、肩をすくめる。「これからしばらく、華佗殿には世話をかけることになるが、宜しく頼もう」「病に冒された人を治すのが、俺の使命です。 精一杯努めましょう」「ありがとう。 この地に逗留している間、衣食住はこちらで全て用意しよう。 超、後で華佗殿を連れて案内しておけ」「分かったぜ。 母さん」「それと、共の者にも同じように部屋を用意しよう」そろそろか、と一刀は話が一段落したことを見据えて、前で跪く華佗の背を目立たないように突いた。背中越しに僅かに首を巡らせて、華佗が頷く。診察の前でも後でも良い。馬騰と会話する切っ掛けを、華佗に作ってもらおうと予め華佗に頼み込んでおいたのだ。が、華佗がそんな一刀のお願いを叶えようと馬騰に顔を向けて口を開いた時だ。馬騰の視線が、一刀に向いていたのは。「ところで……華佗殿。 一つ聞きたいが」「……はい、なんでしょう?」手の上で弄んでいた、彼女の銅色の棒が一刀に向く。「そこに居るのは、天の御使い殿ではないか?」この馬騰の声は喧騒の無い玉座の間に大きく響いた。少なくとも、一刀自身はその声が此処に居る全員に届いたことが不思議と確信できた。同時、馬騰のこちらを射抜くような鋭い眼差しに、一刀は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。指し示していた銅棒が、一刀から僅かに逸れて馬鉄と馬休に向く。「私が耄碌したので無ければ、確か天の御使いは宮内を乱し、王朝を簒奪しようと画策した極悪人だったはず……」「なっ、本当か!?」「嘘ぉ……」『本体、やばくないか?』「待って―――うっ!?」馬超と馬岱の声が響く中、脳内の声が早いか、一刀は声をあげようと身を起こした瞬間だった。左右から腕を捻りあげられ、体重をかけられてぐしゃりとつぶれる。一瞬の衝撃に、息を詰まらせながらも一刀が首を巡らせば、上に乗っているのは馬鉄と馬休であった。「馬鉄さん……馬休さんっ……」「お前、そんな奴だったのか。 良い奴だと思ったが」「我らの肉を掠め取るような奴だ、兄者」「そういやそうだった」「ま、まだ……根に持って、ですか……っ!」鶏肉の一件のことなど、記憶の彼方だった一刀にとってその理由はなんだか理不尽であった。いや、それはとにかくこのままではまずい。現状は考えていた最悪の形に近い。何か言葉を口に開こうとしても、上に乗る馬鉄と馬休の加える力が存外に強く、まともに喋れそうもなかった。そんなに食いたかったのか、肉。「……それで、華佗殿、それと―――」「我が名は荀攸です」「うん? 荀? ……荀家の者がどうして此処に居るのかは判らないが、二人は天の御使いと知っていたのか?」水を向けられた華佗と荀攸の二人。共に一刀よりも前に位置する為に、その表情は読み取れないがどちらとも顔も見合わせずに同時にはもった。「ああ、知っている」「私は知りませんでした」華佗は首肯し、荀攸は無表情で首を振った。この答えはどちらも予想通り。華佗はもともと、天代との繋がりを強調されるようにして天医として祭り上げられたし荀攸はあくまで一刀と手を組んでいるだけに過ぎない一人の官吏。どちらかといえば彼女の立場は馬騰側であるのだ。白を切るほうが利口というものだろう。この返答に馬騰は何度か思い返すように頷くと、ゆっくりと玉座から立ち上がって口を開く。「どちらにせよ、私の立場では罪人である天の御使いをこのまま見逃す訳には行かない。 華佗殿、申し訳ないが彼は拘束させてもらう」「それならば仕方ない。 一緒に捕らわれないだけ……いや、処刑しないだけマシだと思いましょう」「……北郷一刀を兵に預けろ。 枷を嵌めて牢に転がしておけ」「はっ!」「くっ……」抵抗することは出来ず、一刀は強引に首襟を持たれて立たされると、後ろ手に枷をはめられる。木と鉄で作られた頑丈な手枷に鍵がかけられて、両脇を持たれて強引に歩かされた。脇腹から走る痛みに僅かに顔を歪ませて、身を捩る。遠くなる華佗達を見ながら、一刀は下唇を噛んで、続く玉座に響くの声を耳朶に響かせていた。「超! 鉄と休のことはお前に任せる―――」「失礼します、馬騰様」「どうした?」一刀の耳に届いた声は、ここまでだった。玉座と通路を隔てる分厚い扉が開かれて、伝令と思われる男の声が、一刀に届いた最後のものだった。「韓遂という者が、馬騰様にお会いしたいと―――」瞬間、扉は重い音を響かせて玉座の光景を閉じた。「韓遂……? 今、韓遂って言ったのか?」『ああ、俺も聞いた、間違いない』『反乱軍として率いている内の一人なんだろ?』『そうだ、辺章ってやつと、韓遂が涼州の反乱を起こしてるとされてる』『その韓遂がなんだって、曲りなりにも漢王朝に属している馬騰さんの下に来るんだよ』『わかんないよ、ただ……』『ああ、思ったよりも複雑そうだ』「おい、何を立ち止まっている、とっとと歩け」「っ、分かってます、押さないで下さいよ……」立ち止まった一刀の足を叩くように、剣の鞘で打たれて短く声をあげる。4人の兵に囲まれて、一刀が足を進めると前方から見覚えのある、印象に残る集団を捉えた。この場に来る前、荀攸を呼びに行った先で目撃した、漢王朝の馬車。その前で指示を出していた、顔の右半分を布で覆い隠している小柄な人影。すれ違う直前、一刀と耿鄙の視線は一瞬交錯した。顔を向けることも出来ず、連れ立たされて遠のく一刀に、耿鄙は首を巡らして振り返った。そして、周囲に居る人間に気付かれないくらいに、僅かに口元が震えた。「あれは……?」「耿鄙様? どうなされましたか」「……いや、まさかな」しばらく、一刀の去って言った方向へと立ち止まっていた耿鄙だったが、やがて踵を返す。響く牢の鉄の音を聞くものは、この場に誰も居なかった。 ■ 外史終了 ■