clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編4~☆☆☆ ■ 牢中騒乱窓から差し込んでくる光に照らされて、一刀はやにわに眼を覚ます。牢中に入れられて、暫くの間は落ち着かなかったのだが考えに没頭している内に眠気に襲われてそのまま眠ってしまったのだ。この世界―――外史という物に落とされてから、三回も捕らわれの身となっている。だから慣れたという訳でもないが、無闇に暴れたところで何にもならないということは経験から知っているのだ。できれば、こんな経験は積みたくなかったが。何よりも大きく一刀を支えていたのは、牢中で独り身であるはずなのに、孤独ではなかったと言うのが大きい。「あぁ……朝か」『おはよう』寝ぼけ眼を擦り、むくりと起き上がって周囲を見回す。分厚い壁と、鉄の格子が付けられた窓に、鍵のかかった扉。窓の外は、視界に収められる範囲で変わった物は無かったが、大きめの樹が一本。手が届きそうな距離で樹立しているのだけは分かった。部屋の中に存在するのは、寝具とも呼べなさそうな僅かな藁と異臭のするツボのみ。まだ牢屋の中での生活の一日目を迎えたばかりなので、ツボには近づいていないがそのうちアレを利用しなくてはならない時があるのだろう。せめて蓋くらいあればまだマシなのだが。ちなみに連行されたときに使われた手枷は外されている。抵抗することも無かったので、危険度が低いとみなされたのだろうか。そういえば、初めて荀彧にハメられて入った牢屋も、洛陽のような本格的な地下牢ではなく必要最低限のものだけが置かれた牢であった。「俺が寝てる間、なにかあった?」『いいや、特に進展は無いね』「そう……じゃあお隣さんが増えたくらいか」『そうなるな』『金集めの原因がわかって、それは収穫だったけどな』「はは、そうだね」肩をすくめて一刀は苦笑した。一刀が牢に入れられてからほどなくして、隣の部屋へと連行された者が居た。声から察することが出来たが、馬超に連れられて親族であるはずの馬休と馬鉄が放り込まれたのだ。視認できない扉越し、くぐもって反響する声から全てを把握できた訳ではないが大方の事情を察することができたのだ。確かに、馬鉄と馬休の言う通りに馬超は集金を命じていた。ただ、それは馬超が私情から率先して集めていたわけでなく、必要に駆られてのものだった。簡単に言うと、馬鉄と馬休の二人が軍馬500頭を演習中に失ったのである。どうして500頭もの軍馬を失ったのか。その理由は流石に聞き取れなかったが、捉えた単語の中に、崖とか水没とかあったので恐らく、何処かに落ちたのだろうと思われた。損失した影響の規模を考えれば、牢行きも納得できる……まぁ、やっちゃったぜミ☆ では済まないことは確かである。むしろ牢行きにしてくれた事を感謝するべきではないだろうか?馬家は身内に将兵が多いのも牢屋行きで住んだ理由の一つなのかもしれない。罰を与えなくては身内びいきに見られるし、その風評は将や兵へ妙な軋轢を生む切っ掛けになるだろう。かといって、将を二人も失うのは避けたい。身内ならば尚更だ。そんな思いが混ざり合い、補償をさせるという手段に図ったのではないかと一刀は考えた。断片的な会話から拾った推測ではあるが、的外れという訳でもないだろう。「ぬぅ……」「起きたか、兄者」「む、ここは……ああ、そういえば」壁に寄り添うように腰を落としていた一刀が“おとなりさん”の声を耳朶に捕らえる。昨日さんざん喚いて眠りに付いた彼らも、ようやく目が覚めたようだ。「しかし、この扱いは酷いと思わぬか」「まったくだ。 しっかり反省しているというのに」未だにその口からは不平不満が漏れ出ているようである。一刀はやる事も無いので、しばし”おとなりさん”の会話に耳を傾けていたがやがて愚痴を零すことにも飽きたのか、会話は途切れたようで聞こえてくるのは木々のざわめきと鳥であろう獣の鳴き声。登ってきた朝日が鉄格子の付けられた窓を正面に捉え、牢の中が日に一番の陽に照らされる。座したまましばし、一刀は窓の外を眺めていた。「どーなるんだろう……早く牢を出たいな……」思わず、呟いてしまった一刀。思い返せば、馬騰との接触は華佗の面会を済ませ、診察を行い、彼が一定の信用を得てからでも遅くは無かったのではないだろうか。いずれ、自分が天代であったことを知られるにしても、問答無用で牢に入れられることは無かったかもしれない。なにより、廊下ですれ違った王朝の官吏。何故か現れた、反乱軍の首魁であろう韓遂が同時に訪問した日に、わざわざ会いに行かなくても良かったのではないか。勿論、これは結果論に過ぎず、あの時はすぐに面会することが最善であると思っていた。事前に王朝の官吏が訪れていたことを知った一刀は、先に馬騰との繋がりを手に入れて安全を確保したかったのだ。外を眺めながら、一刀が物思いに耽っているとお隣さんから一際大きな音が響いてくる。何をしているのだろうか。暇すぎて組み手を始めたのかもしれない。『……とりあえず、今は何も出来ない事は確かだな』『華佗や荀攸さんに期待するか』『まぁ平気でしょ、後2,3日なにも無ければ命は助かるだろうしね』「みんな気楽だなぁ」『“南の”だし。 象並のおおらかさなんだ、仕方ない』『象関係ないだろ』『あるよ』『股間とか言うなよ』『これはひどい』『前に言ってたじゃん』『そうだっけ?』『言ってたよ』『嘘、全然覚えてないよ俺』『あれ?』「あれ?」脳内の会話が不毛な言い争いに発展しようとした矢先であった。外を眺めていた一刀の視界に、見覚えのある人影が過ぎったのである。パンダのように片目が黒い、特徴的な容姿を持つ男の姿。お隣に居たはずの馬鉄……かと思われた。『……え?』『いやまさか。 そんな筈は無い』そうだ、そんな筈はない。隣の牢屋の様子は実際に見ていないので分からないが、感覚的に一刀が居る部屋と同じ間取りであろう。正面の扉は鍵がつけられ、固く閉ざされている。他に出入り口になる様な物は、鉄格子が付けられた窓だけ。いかに筋肉モリモリマッチョマンであろうと、2cmは在りそうな格子状の鉄筋を力任せに捻じ曲げるのは、道具を使わなければ不可能だ。それも成人男性が通れるようにならば、道具を使っても多大な労力を強いられるはずである。しかし、驚きのあまり固まっていた一刀をあざ笑うように、黒い髪を後ろに流して縛っている男が通り過ぎる。今度は最初から集中して見ていたせいか、確実に視界に捉え明確に顔まで判明できた。馬休だった。「……脱走?」『じゃないか?』『あ、こっちに来るよ』脳内の誰かが言ったとほぼ同時。ぬっ、っと窓から様子を窺う一刀を覗き返す馬鉄の顔が現れた。やや遅れて、下の方から馬休も顔を覗かせる。一刀は自身の常識と照らし合わせても意味不明な光景に、僅かに身を引いて頬を引きつらせていた。「おう、一刀。 牢の中で一晩居たのに思ったよりも元気そうだな」「何故、という顔をしているな、予想通りだ」「ふっはっはっはっは」悪戯が成功したような、呆気に取られて呆けている一刀にわざとらしく口角を崩しついには二人とも愉快に爆笑し始める。非常識に過ぎる行動に、混乱していた一刀は何とか言葉を搾り出す。「な、な……何をやってるんですか……?」「なんだ? 分からないのか? 鈍いやつめ」「こんなしけた処に居られるか、脱走しているのだ」「いや、それは見れば分かるけど……じゃなくて、逃げたらまずいでしょう!?」「勿論、相当まずい」「ああ、かなりやばい」なら逃げるなよ。突っ込みたい気持ちを全精力を持って自制し、どうすれば良いのかを考えることにした。別に彼らが逃げ出したところで一刀にはまったく罪にならない。ならないが、短い期間とはいえ旅の道中を共に過ごし、同じ釜の飯を食った友人と言えそうな二人を見捨てるように無視する事は一刀には出来なかった。どうやって外に出たのかは知らないが、中に戻るように説得しようと、その頭脳を回転させ始めた時だった。ガンッと石を叩くような音。続いて、妙な回転音と竹が犇めき合って回転しているようなけたたましい轟音が室内に響く。音に続いて地を僅かに震わす振動が、一刀の足から伝う。「なんだっ!?」轟音と共に埃だろう、白い粉塵が室内に立ちこめ、腕を交叉し身を縮める一刀。僅かに片目を開き、衝撃の元であろう場所に視線を向けると、部屋の壁の一部が水平になっていた。その光景は驚くことではあるが、一刀は知識としてこれを知っている。バラエティの番組とか、忍者屋敷とか、そういう場所にあるだろう隠し扉、からくり扉という類の物。濛濛と立ちこめる埃を照らし出す、陽の光が一刀に確信させた。『馬鹿なッッッ! これじゃあ牢屋じゃない! 壁の付いた扉だ!』『普通、扉は壁に付いてるんじゃないかな』『言いたい事は伝わったぞ、“呉の”』「おっし、まだ仕掛けは生きていたな」「それじゃ一刀、行こうぜ!」もはや呆れる他ないが、現実として受け止めるとこの部屋には隠し扉があったらしい。拘束具である筈の手枷も外されており、外に繋がる隠し扉が設置されている牢屋。一体、馬家の牢はどんなコンセプトで作られているのか、製作者に聞きだしたいところである。最早突っ込むのも馬鹿らしい。馬鹿らしいが、事実は事実として認めなければならないだろう。「……で、どこに行くんです?」色々な感情を―――大半が呆れで占められているが―――押し込んで、一応ではあるが、一刀は尋ねた。「そうだな、まずは酒だな」「飯だ。 どうせ外に出るなら美味い飯がいい」「酒だ、昨日は休もそう言ってたではないか」「……俺は行きませんよ」「なんだと、困るぞそれは」「そうだ、一刀が来ないと罪を押し付けられんではないか」「それが本音かよっ!?」「いや、本音は一刀は犯罪者だから矛先がそっちに行くかなと思ってる」「期待してるぞ、鉄がどうしてもと言うから付き合ってるだけだしな俺は」「なんだと、お前も納得していただろうが」「いや、仕方なくだ」「じゃあ俺もそうだ」「ずるいぞ兄者」「あんたら最低だ……もう”さん”は付けないからな」二人の行動は無策で脱走するほど愚かではなかったらしい。一刀を巻き込んだところで、二人が難を逃れられるかどうかは別として。「という訳で行くぞ! 一刀! 美味い飯と酒が待っているっ」「なおさら行けるかぁー!」「まぁまぁ、嫌もぐるりと回って好きでしたと言うではないか!」「嫌に決まってるだろっ! ああ、もうっ! 手を放せっ!」結局、激しい抵抗が功を奏したか。一刀は小一時間に渡る、時に肉体言語を交えた説得により牢屋の中に居る権利を勝ち取った。つい先刻まで、速く牢を出たかったのに、今はこの牢屋の中が途轍もない安心感を与えてくれる。牢屋に感謝すらしたい程だ。何時でもその気になれば脱走できる部屋を牢屋と呼ぶかどうかは、この際置いておく。(笑)をつけても良いかもしれない。『鉄っちゃんも休ちゃんも、中身はあんまり変わらないんだな……』『“馬の”……お前、苦労していたんだな』『俺とは少し、違う苦労をしてそうだけど、頑張ったな“馬の”』『へっ、よせよ“仲の”、“袁の”』『同情できそうで出来ないところが可哀想だ』「ハァ……ハァ……つ、疲れた」ちなみに、一刀を諦めた馬鉄と馬休の二人は悠々と脱走し、しばらく牢屋に戻ってこなかった。牢屋となれば看守が居るはずで、看守が巡回すれば牢に誰も居ない事に気付かれるはずだ。そうなれば騒ぎが起こる。騒ぎが起これば、将といわずとも、誰かが馬鉄と馬休を糾弾するだろう。罪は重くなり、死罪にされても可笑しくない。豪胆と言えばそうだが、これで死罪になればただの馬鹿だ。が、一刀の予想は見事に裏切られる結果となった。外を十分に満喫したのか、馬鉄と馬休は陽が赤く染まった頃に戻ってきた。鉄格子の間から、お土産であろう肉まんなどを一刀の牢屋に放り込みながら。そして、再び“おとなりさん”となったのである。「……おかしいだろ」『確かに、看守が一度も巡回に来ないとはおかしいな』『“白の”?』『まぁ、間違いなく賄賂だろ』『あ』『そうか……』“白の”の推理を聞いて、一刀達は得心が行く。不自然なまでに訪れない看守、余裕のある馬鉄と馬休。ここから考えられるのは、金銭か、それとも他の何かで看守を抱きこんだ可能性が高い。脱走直後はともかく、心配していた一刀からすれば些か納得の行かない展開である。「なんか……まぁ、もういいや……」全てが馬鹿らしくなってきた一刀は、その身を倒して床に仰向けで突っ伏した。これが牢の中での日々の序章であることに、考えることを放棄した一刀はまったく気付かなかったのである。―――・「んで、今日も行かないのか?」「行かないです」この牢屋(笑)での生活は異常極まりない。一刀が牢屋の中で日々、やつれていく。原因はもう、言うまでもないだろう。看守に賄賂を贈っているという推測はドンピシャであった。“おとなりさん”だった二人が、一刀の牢屋の中に居るというのに、看守は目の前を通り過ぎても存在しないかのようにスルーしたのである。異常なし、と呟きながらだ。まぁ、異常在りと喚かれても非常に困るので助かっていると言えば助かっているのだがそうした危機感を煽るのは目の前に居る脱走常習犯のせいである。こんな日々が毎日続いている。そう、毎日である。一刀の牢屋の中にもお土産がどんどんと溜まっていくのだ。定期的に窓から投げ捨てているが、掃除された気配も無いので外は中々にカオスな事になっている事だろう。食品ならば、その場で消化してしまえば証拠は残らないが、本などは食べる訳にも行かない。たまに用途の分からない物体を放り投げてくるので、暇つぶしにはなるし、実際脳内の誰かが懐にいれとけと妙な形をした被り物を持たされたりもした。とにかく、いくら何でもフリーダム過ぎた。馬鉄も馬休も、初日を除いて毎日外に遊びに出歩いて疲れては牢の中に戻り眠るというイミフな生活をしていたのだ。常識という言葉に、日々自信を失っていく一刀である。「もういい加減やめてほしいんだけど……」「一刀こそ、いい加減大丈夫だってことが分かっただろう」「それは……そうだけどさぁ」流石にこれだけ目の前で成功例を見せられては止めるのも馬鹿らしくなってくる。が、忘れてはいけないのだ。いかに目の前の男達がまるで自分の部屋であるように出入りをしていても、ここは牢の中。未だ将や文官など、要職についている人間が見回りに来なくても牢屋なのだ。「ここまで強情ならば、仕方ない!」『っ! 本体っ!』「え?」一瞬であった。口では何度も誘ってきたし、時に引っ張り出そうとじゃれ合いのような取っ組み合いはしていたが本気で打ち込まれた事は一度も無かった。それが、油断であったのだろう。常とは違う、鋭い一撃に一刀は脳内の声から察する事は出来たが、反応することができずに顎を打ち抜かれた。ぐらりとその身を揺らして、その場で尻餅をつくように倒れこむ。「牢の中にずっと居ては、気が参るぞ一刀」そんな馬鉄の優しくもありがた迷惑な言葉は、朦朧とした意識の一刀には当然届かなかった。股座に腕を滑り込ませ、担ぎ上げるように一刀を抱えると、隠し扉をグルリと回して外に出る。「どうだ! 気持ちいいだろう!」「うぅ……?」いい天気だ。さわさわと風に揺られて木の葉は音を奏で、白い雲が青い空を彩っている。草原に転がれば、気持ちよく昼寝ができそうな、文句の無い晴れっぷりだ。一刀はまったくそんな陽気を感じることができないが。「よし、まずは飯と酒だ。 休も待ってるぞ一刀」そんな鉄の宣言に、ついに本体は意識を落とした。足掻くのも限界だったようである。『あー、どうするよ』『いつかこうなる気はしてた』『牢に戻らないと、後で本体が泣くぞ、多分』『でも、確かに外は良いね……』『おいおい』『何言ってるんだよ、“南の”』『はは、ごめん、でも牢の中は確かに気が滅入るよ』『朱里と雛里に笑われる。 こんなところ牢屋じゃない、部屋だ』『いやまぁ、それはそうだな、うん』『それとこれとは話は別だろ』『で、どうすんだよ』『まぁ、戻るべきだよね。 ちょっと馬鉄さんを煙に巻いてくるよ』『頼んだ』声と同時、“蜀の”は担がれている本体の主導権を奪いその身を地に向けて翻した。「馬鉄さん、どうしても俺を外に出したいなら、条件が一つある」しっかりと両の足で地面を踏みしめると同時、手を馬鉄へと向けて人差し指を一本立てる“蜀の”振り向いた馬鉄は、覚醒した一刀に驚いたのか、それとも頑なに外出を拒んでいた一刀の突然の条件に驚いたのか。口を空けて呆けたように一刀へ視線を送った。いや、違う。確かに驚いた表情ではあるが、僅かに頬が紅潮している。心なしか、目尻も潤んでいるではないか。指を突きつけたまま、嫌な予感に身を強張らせた一刀に対し、ついに馬鉄は黒ずんだ片目を見開いて、震える唇から言葉を紡いだ。「……か、一刀様……?」「うわああああああああああああああーーーーッッッッッッッ」『『『『『『『『『あああああああああああああーーーーーッッッッッッ』』』』』』』』』『じゅるり』一刀は逃げた。戦場で呂布に襲われたかのように、一目散に脳内一刀ローテーションを駆使して逃げた。今、一刀は風になった。“肉の”に変わった瞬間、一度風向きが反転することになったが、それでも逃げ続けた。その甲斐あってか、一刀は馬鉄から逃れる事に成功する。ある意味で、脱走を果たしたと言えるだろう。 ■ バタフライ「……なぁ、これ何?」しばらくして、本体は眼を覚ました。『狭まった視界』に広がる光景に呆然としつつも、現状把握のために頼れる11人の相棒へと声をかける。今、一刀は街の広場だろう場所で、階段に腰をかけている状態だったのだ。『あぁ……本体』『これには深くて浅くて濃い事実があって……』『とても牢屋には戻れなかった』なるほど、と本体は頷いた。牢屋を出る前から意識のなかった本体に、理由は分からない。分からないが、自分自身とも言える脳内の意識が、口を揃えて牢屋に戻れない状況だったと言うのならばそれは、本当にそういう事態が起きたのだろう。それはいい。いや、正直勘弁して欲しいのだが馬鉄の一撃に昏倒してしまった自分にも責任はある。一番悪いのは馬鉄だが。「わかった、うん。 それはもうこの際しょうがないって事で納得する。 納得するけど、これは何?」そう言って、一刀は自身の顔半分を覆っている違和感に触れた。表面はざらざらとしている。それは丁度、一刀の鼻の頭からコメカミの辺りまで広がっているようで形状的には眼鏡に近い。顔幅を越す程の大胆なデザインをした眼鏡を本体は知らなかった。だから、これは眼鏡ではない。『それは、華蝶になれる仮面だ』「華蝶? 仮面?」『自身を謎のベールに包み込む、正体不明の英雄になれる物で、一部では神器とか言われてた、いや言ってた……』「ごめん、意味が判らない」本体は装着しているせいで、視界には収めていないがこの仮面には黒と白で刻まれた文様があるはずだ。形も色も、まるで蝶を連想させるようなデザインであった。なにより、見る者が見れば眼を惹き付けて止まない、作成者の魂の一魂が篭った物であるのが分かる。馬鉄と馬休がお土産に持ってきてくれた物品の一つだった覚えがある。が、そんなことはどうでも良かった。どうして自分が神器とかいう胡散臭い、脱走犯のお土産だった仮面を知らぬ間に装着しているのか。脱走も大いに問題だが、こっちも大きな問題だ。「なぁ、外していいか?」『だめだ、周囲に天代だとばれるぞ』『牢屋に戻れない以上は、とりあえず装着しててくれ』『今のところ、誰も本体には注目していない』「時間の問題だと思うのは俺だけか?」この本体の声に返事は無かった。つまり、そういうことなのだろう。しばし悩んだ一刀であるが、このまま広場に座り込んでいても目立つだけである。謎の仮面を装着しているとなれば更に目立つことだろう。立ち上がり、周囲をぐるりと見回す。閑散としているわけでも、人通りが多いわけでもない、まったりとした空気が流れていた。「あ」『やばい……』広場から大通りに繋がるいくつかの道、その一つに見覚えのある顔を見つけて、一刀は声を漏らす。短い邂逅ではあったが、印象に残っていた凛々しい顔付き。茶色の長いポニーテールを左右に揺らして、荀攸や文官風の男達と町を練り歩いていた。一刀はそっと視線をはずし、階段の隅に移動すると顔を伏せた。「馬超さんだよね、あれ」『ああ』「どうか気付かずに通りすぎてくれますように……」恐らく、馬超は文官と共に巡察をしているのだろう。天代として努めて居た時に、実際に見回りをすることは無かったが、犯罪が起きていないかどうか何か見落としている、或いは発見に繋がる物は無いか、常に巡察をする者を置いていたのは書類を通して知っていたことである。文官を連れて歩いているのも、街そのものに手を加えようという思惑が在るのだろう。一刀が顔を伏せたのも、仮面を装着している自分が不審者に見られないようにする為だ。この仮面を見れば、間違いなく不審者だと思われる今、一刀に出来た対策は地を見つめることだけだった。もちろん、仮面を外す度胸など全く無い。脱走がバレてしまえば、なし崩し的に死罪を言い渡されるかもしれない。いや、王朝からの使者に首を渡されても可笑しくないだろう。こんな間抜けな捕まり方は御免である。「牢屋に戻りたい……」『我慢するんだ本体』「こっちの方が苦痛なんだけど……」『いや、あっちも相当怖いことになってる』『こっちの方が幾分平和だな』「何やらかしたんだお前ら」一体馬鉄に襲われたあの時、何が在ったというのだろうか。黄巾の戦でも、張譲に追い詰められた時でも平然と―――というのは大げさだが―――本体より遥かに強い胆力を持っていた彼らが、ここまで恐れる事態とは何だというのか。意識をそちらに割いた本体は、直後聞こえてきた会話に身を強張らせた。「……?」「ん? どうしたんだ荀攸」「あ……―――。 なんでも……せん」「うん? ああ、アレか?」「あー……えーっと……」僅かに戸惑いを含ませて言い淀む荀攸、それに対して得心したかのような馬超の声。近い訳でもないのに、荀攸の声と違って馬超の声は良く広場に通った。俯いているから、一刀から見える景色は砂利と石だけ。だというのに、何故か馬超がこちらに真っ直ぐ歩いてくるのが手に取るように分かる。逃げ出したい気持ちを必死に堪えつつ、一刀はひたすらに地面を見つめ続ける。馬超がそのまま横を通り過ぎるように願って。「なぁ、あんた。 具合が悪いのか?」違う、これは俺に話しかけたのではない。視界に瑞々しい太腿、それを包むように白い清楚なニーソックスが地面の砂利石との美しいコラボレーションを見せ付けてくるが断じて北郷一刀に語りかけては居ない。 絶対違う。必死に自己暗示をかける一刀だったが、その願いは空しく敗れた。「平気か? 医者でも呼ぶか?」「―――ッッ!」『『『『『『おおっ!』』』』』』心配する声と共に、太腿が、いや、馬超が屈んで様子を伺って来る。それに伴い、けしからんふともも……じゃなくてスカートの奥の……でもなくて、とにかく刺激的な光景が目の前に広がる。ここで不自然に体勢を崩すことも出来ず、一刀は思わず目頭を手で押さえようとして、仮面に指がぶつかった。そこでハッと気がつく。今、馬超は医者を呼ぶと言った。医者と言えば、馬超の元には確かな腕を持つ医者が居る。彼が見れば、長い付き合いである彼のことだ。こんな仮面をつけただけの変装など、即座に見破ることだろう。慌てて一刀は拒否の言葉を連ねた。「だ、大丈夫だ」「いや、傍から見ていても発汗が凄いし体調が悪そうに見えるぜ」「いや、全然平気だ!」『うん、これ脂汗だからね』『ちょっと“南の”は黙ってろ』「じゃあ、顔あげて顔色を見せてくれよ」この発言に、ビシリ、と一刀は石のように固まった。なんでここまで関わるんだとも思ったが、馬超が心配して声をかけてくれているのも分かっている。とにかく、嘆く前になんとかしなければならない。華佗は100%と言えるが、馬超だって一度顔を合わせているのだ。いかに仮面をしているとはいえ、一刀だとばれない保証はない。だが、最悪な事にこのままふとももや地面やスカートの中身を覗こ、見つめていても医者=華佗を呼ばれてばれるだろう。暫く、一刀は俯いたまま固まっていたが、意を決して顔を上げることを選択した。「なっ! お前……っ!」(くっ、やっぱり駄目だったか!)「うわぁ……」馬超は一刀が顔を上げて、その全貌を認識すると共に驚きの声を上げて一歩後ずさる。対して、その後ろに控えていた荀攸は一刀を見るなり顔を引きつらせていた。その虫を見るような眼が、まるで荀彧のようだ。なんにしろ、一刀は諦観の思いで二人を見つめた。ふらふらと腕が上がり、一刀に馬超の人差し指が向けられる。「お前……お前は何者だっ! 妙な仮面つけやがってっ! 怪しいやつめ!」『『『セーーーーーフッ!』』』「「うわぁ……」」最後の声は一刀と荀攸の声である。まさか仮面を付けただけで欺けるとは思わなかった。それも、荀攸に即看破されたであろう、ドン引きした声を聞いた後では尚更だ。確かに、一刀は馬超とは短い、本当に短い間しか顔を合わせていない。それでも、これは無い。だが、助かっているのも事実である。「答えろっ!」「っ!?」何時の間にか、馬超のその手には愛用の武器である十文字槍(銀閃)が握られており一刀の喉元に突きつけられていた。武器を向けるほど、禍々しい姿なのだろうか。何にせよ、触れているのか、それとも触れていないのか一刀自身が分からぬ程の薄皮一枚で止められた銀の刃先があるのは事実。この一瞬、僅かに思考を逸らした瞬間には既にこの状態になっていた。少しでも馬超の手が押し込まれれば、容易に皮膚を貫き一刀の喉を抉るであろう。先ほどまでの気の抜けた空気は完全に一掃され、睨みつける鋭い馬超の眼光に、一刀は自然身体が後ろに泳いだ。頬を伝う汗を無視して、一刀が馬超を見上げる。「今は余計な問題を起こされたくないんだ、あたしは。 その仮面を取ってもらおうか」「……それは、できない……」この一刀の返答に、馬超は僅かに眦を上げると刃を一刀の喉に押し付けた。プツリ、と薄皮を剥ぐ音が聞こえ、赤い血が伝うのを実感する。その間、一刀は視線を逸らさずに馬超を見つめていた。僅かに、僅かに馬超の目元に出来ていた黒ずみに気がついたせいだった。そこに気がつくと、馬超の顔色そのものが余り良くないことを知るに至る。目の前で槍を突きつけ、威圧をしてくる馬超には鬼気迫る物があったが、一刀はその事よりも彼女が体調を崩している事実の方が気になった。「……分かった、話すよ」「最初から素直に話せば良いんだ。 顔を見せてもらおうか」「いや、この仮面は外せない」「何でだよ!?」バレルからである。「実は、この仮面は光に作用している。 太陽の光だ。 俺は生まれつき強い光がある環境では視界がぼやけてしまう、障害を負っている。 だから、この仮面を外すと失明してしまう可能性があるんだ」「な……」「ここで地面を見ていたのも、太陽が傾き始めて眩しくなってしまったからなんだ」「……」一刀は、この今のハッタリが多少効いたことを、喉元に突きつけられた槍から敏感に感じ取った。本人以外では絶対に気付かない程だが、確かに槍の穂先を下げたのである。ここが勝負所と、一刀は判断した。真っ直ぐに馬超の目を真正面から見据えて、対面する。その顔は、演技で造られたとはとても思えない程の真剣な表情だった。もしもこの場に天代であった一刀を見ていた者が居れば、その胆力はかつての一刀と違うことを知ったであろう。まぁ、全て嘘で塗り固めた話な上、仮面のせいでその表情の効果は半減していたが。「……本当か?」「こればっかりは信じて貰うしかない。 目が見えなくなるかも知れないのに、仮面を外したくないんです」「分かった……信じる」言ってから、やや間を置いて一刀の喉元から十字槍が引いていく。大きな安堵の溜息を吐くと、馬超は言いづらそうにそっぽを向きながら「すまなかった。 悪気はなかったんだ」そう言って、巡察の続きに戻るのだろう。踵を返し、背を向けて歩き去っていく。その馬超の背に、声をかけたのは荀攸だった。「馬超殿。 少し用事を思い出しましたので、私はここでお別れしても良いですか」「あ、ああ。 分かった。 ありがとう荀攸殿」「いえ。 有意義な時間を過ごせました」「それと……えーっと、その仮面、意匠を何とかした方が良いと思うよ。 余計なお節介かもしれないけどさ」言い残して去っていく馬超は、今度こそ振り返らずに広場から姿を消した。馬超が見えなくなるまで見送った一刀と荀攸は、声をかけることもせずに、どちらともなく視線を交し合った。「……はぁ」「うっ……」盛大な溜息を突かれ、一刀は呻いた。しばし、首を逸らして溜息を漏らしていた荀攸は、一刀をもう一度見て仮面を凝視する。何も言えず―――そもそもこの場に居る時点で言い返す術は無い―――固まっている一刀に近づいてペタリペタリと、二度三度仮面に手を触れてから、今日一番の溜息を荀攸は吐き出した。「はぁぁぁ…………」「ごめん。 俺が悪かった」もはや一刀には謝ることしか出来なかったのである。―――・適当な店に入り、一刀と荀攸は軽食を頼んで向かい合って座り込んだ。万が一を考えて、仮面は装着してある。チラチラと一刀と荀攸を伺うような視線が飛んでくるが、それは荀攸の「やっぱり北さんにその仮面は似合いますね///」の一言で、興味を失ったかのように視線は消え去っていった。正直助かった。偶然とはいえ、荀攸とこうして話す機会を得たのだ。一刀としては、聞きたいことが山ほどあったので注目されるのは宜しくなかった。「貸しですよ」「はは、分かったよ」人差し指を立てて静かに宣言。一刀は苦笑しながら、彼女の言葉を認めた。「……えっと、早速いいかな」一刀の言葉に、首肯すると荀攸は一刀の聞きたいことを淀みなく話してくれた。まず、馬騰の治療。一刀が牢屋に入れられてから3日後から治療は始まったそうだ。どうしてそんなにも遅れたかと言うと、馬騰が華佗を待たせて韓遂と引き篭もったせいである。「引き篭もった?」「なんでも馬騰殿と韓遂殿は旧知の仲だったそうで。 重要な話がある事を察した馬騰殿が、人払いをした結果です」「なるほど、韓遂が尋ねてきたのは友人だったからか……」「北さん、今は韓遂殿に反乱の疑いは持たれていません」「なんだって?」一刀は耳を疑った。馬家に訪れる前、いや牢屋に入れられる直前まで、韓遂は反乱の中心人物ではないかと噂されてきたのだ。中央では、まず間違いなく韓遂と辺章が首魁だと思われている。それが、中央よりもよっぽど戦場に近いこの場所で、逆賊ではないと言われているとは思えなかった。「何故かは分かりません。 本当にただの噂だとしたら、韓遂殿は被害者ですね。 韓遂殿自身にも直接聞いてみましたが、辺章に利用されたせいで、信頼できる友を訪ねてきたと」「そうなのか……しかし、もう手遅れだろう?」「ええ。 王朝からは逆賊の徒として見られているでしょうし、これは覆らないでしょうね」もし韓遂の言っていることが事実ならば、憎むべきは辺章だ。利用されて蹴落とされたというのならば、一刀も同じような物だ。ただ、立場が王朝側に在ったか、もともとが反乱側に在ったかの違いがあるだけで。まだ見たことも、会ったこともないのに、一刀は韓遂へ奇妙な共感を覚えた。「北さん、あくまでも韓遂殿自身の発言であることを忘れないで下さい」「……そうだね、荀攸さんから見て、韓遂殿はどんな人だったんだ?」「そうですね……食えない人でした」「君のように?」「心外ですね……」「ごめん、冗談だよ。 だから筆を置いて何かを書くのは止めてくれ」どこからか取り出した筆で、これまた何処かから取り出した紙を見て、一刀は慌てて謝った。ついでに墨や顕も無いのにどうして文字が書けたかも謎だったが、触れないでおくことにした一刀である。「続けますが、仮に嘘であったとして中々尻尾は見せないでしょう。 変に詮索しようと近づけば、手痛いしっぺ返しがあるかも知れません。 様子見に止めておくのが懸命ですね」「うん、そうだね……それで、馬騰さんは治った?」「いえ、倒れて意識不明です」「え!?」先ほどまで、韓遂と馬騰がどうのこうのという話をしていたせいで、これにも一刀は驚いて声を上げてしまう。詳しく経緯を聞くと、倒れたのは韓遂との密会が終わった翌日に自室にて昏倒したのだという。「倒れた直後は、馬超殿が韓遂殿に詰め寄っていました。 こっそり隠れて盗み聞きしていたので、内容はだいたい把握してます」「こっそりか……」「そこを突っ込むのですね」「いや、むしろそこが突っ込みたかった」一刀からすれば、文官一直線の彼女がどうやって馬超と韓遂の話を盗み聞き出来たのか。そっちの方が不思議だったのだが(盗み聞きしたことは別段不思議には思えなかった)、確かに内容を聞くべきだろう。肩を竦めて一刀の戯言を流すと、荀攸は様子を説明した。馬騰と韓遂は密室で過ごしていたこともあり――もちろん、食事などは外に出て取っていた――真っ先に問い詰められたのは韓遂であった。病態が悪化したのは何故か、と。これに韓遂は、馬騰におかしな様子は見られず、まったく気付かなかったと心配そうな声を上げていたと言う。後に華佗の診断で、1日2日で進むような病魔ではない、といわれた事もあって馬超は韓遂に詰め寄ったことを謝罪し、難しい顔をして立ち去ったそうである。「現在は、馬騰殿には華佗殿が毎日、診ているようです。 病巣は深いが、この位なら救える筈だ、とも仰ってましたので回復の見込みはあるかと思います」「……馬超さんの目に隈が出来ていたのはそれか」「でしょうね。 当主が倒れた今、馬家を引っ張っているのは彼女ですから」「そうか……それで、牢屋に誰も顔を見せなかったのは」「あ、忘れてました」「え? マジで!?」「嘘ですが」「……」「おあいこですね」「……そうだね」一刀は参ったというように手を挙げてから、机に置かれた急須を取って荀攸の容器へと茶を注ぐ。ついでに自分のコップにも注ぎながら、一刀は質問した。「漢王朝の使者は?」「耿鄙殿ですか? あの方も、まだこの地に留まっております」「耿鄙さん……か」『知ってる?』『いや、本体は?』(知らないな……どんな事をした人なのか、まったく分からない)『“馬の”』『わるいが……』『本体が知らないんじゃ、誰も分からないと思うけど』『だな……』「私の推測ですが、耿鄙殿は馬家の監視をしているのではないかと」「監視か……西涼の大きな組織で反乱の軍を出していないのは馬家だけだから、当然かもね」「ええ、耿鄙殿は涼州の刺史の任を戴いているそうです。 私も始めて見る人でしたので、つい最近になって拝命したのかと思います」もちろん、一刀にも耿鄙という人物に見覚えは無かった。顔を半分隠しているという特徴的な容姿をしていたのだ。見かけていれば思い出す。西園八校尉、そこから軍権のトップだった一刀が抜けたことも相まって大きな人事の異動があったのは想像に難くない。どういう思惑が絡んだのか、左遷したのか、昇進したのかは分からないが耿鄙もそういった人事の波に浚われて涼州の刺史に就任することになったのだろう。「耿鄙殿も、おそらく長い間逗留することになるでしょう」「そうか……なぁ、荀攸さん。 俺はどうすればいいかな」「牢屋で寝ててください」「……できれば外に出たいんだけど」『頑張れ本体!』『お前に全てがかかっている』「どうしたの突然!?」「は?」「あ、いや、なんでもないよ」「良く分かりませんが、そうですね。 一つだけ、北さんに助言をしておきます」「あ、ああ。 何かな」「脱走しちゃ、いけません」この助言に、一刀はもっともだと深く頷いた。逆に脳内は訳の分からない悲鳴を挙げていたが。『ぬっふ♪』いや、一人だけは喜色ばんだ声をあげていたが。この時に、かずかに荀攸の口元が動いていたのを、脳内の悲鳴に気を取られていた一刀は知ることは無かった。「どうせ、すぐに出れますから」と。 ■ 牢中勧誘・多岐亡羊ある程度のまとまった情報を手に入れて、一刀は仮面を取り外しながら、からくり扉を掻い潜った。荀攸と別れた頃には陽は傾いて、紅くなった街並をこっそりと移動しつつ、城中へと潜り込んだ。数人の衛兵にその姿を見られたが、誰も天代の脱走だと騒ぐ物は居なかった。逆に親しげに話しかけられるくらいであったのだ。「あんた、その華? 蝶? みたいな仮面格好良いな!」「何処で手に入れたんだい!?」と言った具合である。何故、変装にもならないただの仮面を―――確かに奇抜なデザインではあるが―――装着しただけで誰にも気付かれないのか不思議でならない。脳内の誰かが言う様に、これは神器なのだろうか。「……いや、ないな。 うん」言いながら、一刀は仮面を懐に仕舞い込んだ。なんにせよ、この仮面のおかげで助かったのは事実であり、この牢屋では唯一の一刀の物である。手に入れることが出来たのは馬鉄と馬休のおかげであったが、感謝する気にはなれなかった。脳内の話から、馬鉄が原因で牢屋に戻れなかったことを本体が知ったからである。そもそも、いきなり容赦のない一撃で昏倒させた馬鉄には言いたいことが山ほどある。あるが、不思議と憎めない。きっと謝ってくれれば許してしまうだろう。それもこれも、馬超と相対したときに難を逃れたから言えることでもあるが。そんな未来が見えて、一刀は一人苦笑を零した。冷たい床に、大の字になって寝転がる。紅くなった世界は、闇に彩られて、その漆黒を切り裂くように天に浮かんだ月明かりが鉄格子から差し込んでいた。その身を横たえてから程なく、一刀は眠気に襲われた。考える事は沢山あるかも知れないが、今はこのまどろみが気持ち良い。馬鉄の言葉ではないが、しばらくぶりに外に出たことで見えない疲れが抜けていたのだろう。気が付けば、一刀は眼を閉じて規則正しい呼吸の中に沈んでいた。「……ん」ふと眼を覚ます。牢の中で、時間の感覚を計るのは難しい。“おとなりさん”から物音がしないことを考えると、もう夜も更けているのだろうか。中途半端に寝てしまった。そう思いながら、一刀が上半身を持ち上げた時である。カタン。と、この牢屋と本宮を繋ぐ扉から鍵の外れる音がした。この牢は、鉄格子の窓以外は密室だ。誰が扉を開けて中に入って来たのか、それを確認することは出来なかった。地を踏みしめる音が、牢の中を駆け抜ける。その音は、一歩一歩、確かめるように踏みしめられて、やがて止まった。一刀の牢の、扉の前で。「誰だ?」誰にも聞こえないだろう。口の中だけで転がした一刀の尋ねに、答える声は無い。やがて、一刀の牢の扉の鍵が外れる音が響いて、一刀を訪れた人影を月明かりが映し出す。短く黒い髪を僅かに揺らし、右半分を布で覆っていた。時折響く金属音は、服に装飾されている鎖がぶつかりあって響いているようだ。一刀は、その姿を認めた瞬間、顔を顰めて眦がやにわに持ち上がった。唇も、少しばかり震えて。「夜分に失礼する。 まだ起きていられたようで、安心しました」「……あなたは?」「我が名は耿鄙。 お初にお目にかかります、天の御使い様」そう言って、耿鄙は驚くことに恭しく一刀の目の前で頭を下げた。王朝側の、それも涼州の刺史である官吏にいきなり頭を下げられるとは一刀も思わなかったのである。一刀の立場は今更言うこともない。今、牢屋の中に放り込まれているように、漢王朝の敵となっているのだ。もちろん、民草にまではまだ浸透していないみたいだが、漢王朝の役人や官吏。それも中央に近ければ近いほど、天代敵対の事実は知られているはずだった。「耿鄙さん、俺に何か?」「否定しないということは、やはり天の御使いで間違いないですね」薄く笑って顔を上げた耿鄙に、一刀は舌が乾いていくのを感じた。別に威圧されているわけでもない。いや、どちらかといえば柔らかい雰囲気を感じる耿鄙という人物に、一刀は確かに緊張をしていた。耿鄙と、いや、漢王朝の官吏と直接出会って一刀は、一刀達は初めて知った。『……そっか』『なんだよ、“董の”』『本体だけじゃない。 俺達も一緒だってことだ』『何が?』『自覚も無かったけど、トラウマになってるんだ』『え?』『張譲に……追い詰められた時のこと』瞬間、蘇るのは壇上で見下ろす張譲の眼光。 李儒の薄い笑み。そして、劉宏の失望を映した瞳。意識である自分達が拒否された。意識である自分達を拒絶した。あの日、確かに一刀達はバラバラに引き裂かれてしまった。繋ぎとめることが出来たのは、涙でくしゃくしゃにして笑顔を振りまいた小さな天使のおかげだ。『本当に俺達が何にも思ってないんだったら、本体が何にも思ってないんだったら』『王朝側の人間を見て、顔を歪めたりなんかしないってことか』『そうだな……』脳内の会話に耳を傾けながら、本体は耿鄙の顔へと視線を向けた。「ああ、耿鄙殿の言う様に……俺は天の御使いで、天代だった。 それと、君が此処へ訪れたのは天代としての自分に会いに来た、ということで良いのかな」「はい」「そう……」一刀は、耿鄙が頷くと、即座に立ち上がった。王朝側の人間が、追放された天代と知って接触を図るのならば、答えは単純だ。捕らえ直す。或いは、この場での殺害。別の用件かもしれないが、どちらかと見て良い。そのくらいに疑って、警戒したほうが正しい。一刀は耿鄙の動きを見逃さないよう、しっかりと見据えながら後退する。目指すはからくり扉。危険を感じたら、なりふり構わず逃げる算段である。「天……いや、北郷様」完全に警戒された。その様を感じ取った耿鄙は、現れた時のように再び頭を下げて敵対の意志を見せないように言葉を紡いだ。天代という言葉を隠し、一刀の名前で呼びかけて。さすがに、一刀は耿鄙の恭しい態度に疑問を抱く。後ろに下がる足を止めて、頭を下げ続ける耿鄙へと視線を注ぐ。「私は、北郷様に害意を持って会いに来たわけではありません」「じゃあ、何のために? 漢王朝の敵だと言われている俺に会いに来たの?」「それは、北郷様が天代であったからです」「どういうことだ?」『本体、この人は……』何かに気付いた脳内の一人。その声よりも先に、耿鄙の声が速く届いて理由は氷解する。「天代を失ってからの漢王朝は見るに耐えません。 私は、北郷様」一度言葉を区切って、耿鄙は顔を上げて一刀を直視する。その眼には強い決意のような、志のような者が宿っていた。「あなたに、天代として漢王朝へ戻ってくださるようお願いに参ったのです」それは誘いであった。そこから、耿鄙は一刀に質問の隙間を挟ませぬように、一刀が戻らなければ行けない理由を捲くし立てた。耿鄙の話は、一刀が如何に天代として在った事で繋ぎとめられていた物が在ったのかを力説したものだった。天代が追放された直後、まるで天から見放されたかのように帝は崩御した。人事は一刀が予想していたかのように、大きく動き始めた。西園八校尉に天代から選ばれた諸侯の権限は大きく制限されて、実質その役目を果たす事無く形骸化した。その混乱を加速させるように、劉協が皇帝へなることを宣言し、劉弁派と激突。この劉協の傍に十常侍筆頭である張譲や趙忠が加わって、宮内の中は乱れに乱れ、それは今もなお続いている。その混乱に巻き込まれるのを嫌ったのか、偶然かは分からない。だが、諸侯は漢王朝を見捨てるかのように、一人、また一人と宮中を去っていく。演習に赴いた蹇碩の死と、その部隊の兵の様子は、漢王朝を守る盾である兵卒に大きな衝撃を与えていた。感の良い物は、既に天代が漢王朝から去り、戻ってくる事がないのを感づいている。軍部で言えば、大将軍である何進、それに続く名将・皇甫嵩、朱儁の仲は一変し、特に何進と朱儁の溝は深刻になった。諸侯同士も……特に一家の大黒柱が抜けた孫家は江東一帯で起きた乱に手を焼いておりこれの援軍を申し出た劉表は、孫策によって断られた。耿鄙はその理由を知る事は出来なかったが、母である孫堅に関係するらしい噂を聞いた。一方で、好意を無碍にされた形である劉表は、大事に小事を拘る孫策を、虎の娘は虎ではなかったと罵り、仲は険悪となる。諸侯の中では最大兵力を保有する袁紹は自身の領地である南皮から動かなかった。これに、逆賊を討つ意志無しと強く糾弾したのが同じ袁家である袁術であった。袁術は本拠地である寿春で黄巾との消耗戦を繰り広げて疲弊したところ、同じ袁家である袁紹へと兵の出兵を願ったのである。これを受けて、袁紹は確かに了を返したが、戦況が完全に膠着するまで遂に寿春に援軍は来なかった。激怒した袁術が、袁紹を指差して糾弾するのは当然だろう。袁紹もまた、朱儁や盧植が攻め立てた上党の黄巾残党の頭を押さえる為に、援軍を出す事が適わなかったのだが約束をした以上はそれも言い訳となる。謝罪の貢物を袁術へと送ったそうだが、袁家同士の間に僅かながら亀裂が走ったのは間違いない。これらの事は一例に過ぎず、諸侯同士が日々緊迫していく様子が感じられたという。やがて時は経ち、耿鄙は涼州の刺史の命を宦官の一人、段珪という物から拝命する。その前の涼州の刺史は、張譲に召し上げられて中央で勤めることになった。張譲が自身の派閥を増やそうとしていることは、耿鄙にも理解できた。劉弁との後継者争いに、劉協側は発言力の確保に躍起になっていたと思われる。帝の遺言では、劉協を皇帝にするようにとの触れだったが、聞いたのは十常侍のみ。どこまで本当の話なのかがそもそも疑わしい。実際、劉弁を皇帝にするようにとの遺言もあるそうなのだ。もはや言った者勝ちみたいな幼稚な次元にまで落ちているというのが、本当のところである。「天代様が洛陽を出られてから、漢は滅茶苦茶です。 これが天の御使いと名乗る前も平穏ならば、切っ掛けになっただけと割り切る事が出来たでしょう。 しかし! 北郷様が天代を名乗られた瞬間から、漢王朝は腐敗から息を継ぐ事ができた! 直接関係する事の少なかった私は、だからこそ気付く事が出来たと思うのです!」「……」「あ……、失礼。 少し熱が篭ってしまいました」「いや、いいよ。 それに、少し安心した。 俺を認めてくれる人が少しでも居てくれて」「北郷様は、漢王朝に降りた天の御使いなのでしょう? 戻るために、私は協力を惜しみません。 いや、天代であった北郷様ならば全権を……もちろん、表に立つのは私ですが、委ねても良いと思っています。 涼州を治めてから、僅かではありますが私にも力が…… 次に反乱軍と董卓軍がぶつかった際に援軍として駆けつけれるだけの力が在ります。 天代様の持つ軍略があれば、武功を立てて舞い戻ることだって不可能ではない」一刀は、揺らいでいた。追放され、諸侯が抱えるには危険すぎる爆弾としての自覚があったからこそ誰かの下で再起を図る事を選択肢から取り除いたのである。荀攸の言う、罠に陥るという言葉もあって。それを承知で、抱え込んでくれると眼の前に居る耿鄙はそう言っているのだ。耿鄙の持つ権力は、言ってしまえば同じ刺史に任命されている曹操と同程度の物だ。言い方は悪いが、耿鄙という隠れ蓑が手に入り、なおかつ一刀は自分の陣営を持つ事が出来る。また、自分が洛陽へ戻れるまでひたすらに機を待ち、耿鄙の庇護下で雌伏の時を待つことも可能だろう。掛け値なしの破格の条件。耿鄙が求めてることは、一刀が洛陽へ舞い戻り漢王朝を立て直す事。利害も文句なしに一致した。「北郷様……私は思うのです」「耿鄙殿……」「私のように、漢王朝を想う者はまだ多いはずで、腐敗を止めようという想いの中、各々の志を掲げてしまって その志同士がぶつかりあってしまっている」「そういう物は、あるかも知れないな……」「きっと私もその一人でしょう。 此処に来た事も、私の勝手な想いを実現させようとしているに過ぎない」「……」「しかし、宮中でも同じ、志のぶつかり合いがある、そんな中で天代は諸侯を纏めきりました。 様々な志を束ねて、大きな力のうねりに変えることが出来ていた。 他の誰もができぬ事を、確かに成し遂げようとしたんじゃないか、そう思えるのです」それきり、耿鄙は言いたい事は全て言ったのだろうか。口を噤み、それ以上一刀へ思いの丈をぶちまけることをしなかった。耿鄙から視線を切って、一刀は窓の外を見た。光源は月明かりだけだというのに、この時代はよく光が差し込む。無意識に、一刀は胸元に下げた小さな紅い宝玉をその手で弄っていた。鈍い光を反射して、一刀の顔を照らし出す。黙した一刀は、胸中で尋ねた。(……みんな)『おう』『どうした』(俺、迷ってる)『みたいだね』『諸侯への接触は、危険も大きいみたいだしな』この危険とは、今の一刀の状態を指しての事だ。馬騰とは入り方を間違えたのか、或いは初めから芽が無かったのか。会話することすら出来ずに牢屋の中で、気がつけば馬騰は倒れて同じ卓に立つことすら可能かどうか疑わしい。同じ雌伏の時を過ごすのならば、耿鄙の下でも良いのでは無いか?現状、一刀がこう考えてしまうのは仕方が無いだろう。『疑っている訳じゃないし、様子から見ると平気だろうが、それでも耿鄙は漢王朝の官吏だ』『裏切るってこと?』『止むを得ず、どうにもできない事態になる可能性はある』『それを言ったら“白の”、今の状況はなんなんだよ』『少なくとも、今は安全だろうね、耿鄙さんのところは』『そんな事分かってる。 俺が言いたいのは刺史である限り宮内の人間の出入りは少なからず在るってことだ』『そうか、“白の”が怖いのは、耿鄙さんよりもその部下か』『“呉の”の言う通りだ、言っちゃなんだが、本体は有名人過ぎる。 末端から何時こっちの存在がバレるか分からない』『宮内に俺達の潜伏場所が割れれば、幾らでも相手に手ができる。 しかもこっちからは耿鄙さんだけしか情報の窓口が無い』『だから、当ても無くさ迷うのか? そんなことで、洛陽に戻れるのかよ俺達』『それは……しかし、耿鄙さんの下では諸侯との関係が作れない』『諸侯への協力を申し出て、この場に居ることは忘れてないだろ』『それも分かってる、ただ、俺ならきっと断る。 リスクの大きさは良く考えればトントン……いや、それ以上かもしれないんだぞ』『俺なら付いてく。 どっちにしろ見えない危険に怯えるのは一緒なんだ。 最悪、兵という力を得ることが出来る選択肢を逃すことは勿体無くないか?』(そう、だよな……簡単に決められることじゃないんだ、これは)今も続く脳内の会話に、本体は耿鄙へと身体を向けた。その空気を察してか。耿鄙もまた、一刀に視線を合わせる。「耿鄙殿、最初に言わせてください」「はい……?」「ありがとう。 少し大げさな表現だったし、俺がそこまで高く評価されてるのは、純粋に凄く嬉しかったよ」「いえ……少なくとも私はそう感じた、感じましたから」「それで、この話は少し考えさせてくれないか。 簡単に決められないから。 自分の立場を、良く理解しているから、すぐに決断が下せない」「……いえ、十分です。 私の想いが天代に伝わって、真剣に受け止めてくれたこと事態に価値があります。 もし、もしも私の志を受け止めてくれるのならば、北郷様。 この牢から正式な手続きを踏んで、出すことにいたします」馬騰の判断で牢に入れられた一刀だが、耿鄙が一刀の身柄を預かって中央に連行するといえばすぐにでも出れることだろう。馬家にとって一刀を拘束し続けることに、メリットは余り無いからだ。むしろ、下手に周囲に知られれば、それこそ天代を匿っていると言われて可笑しくない。言うなれば、厄介物である一刀は何処に行っても煙たがられる可能性がある。受け入れてくれる場所が在る事のほうが稀と言っても良いかもしれない。二、三、耿鄙は一刀へ挨拶を交わすと、扉を閉めて牢から出て行った。来た時と同じように、心なしか軽い足取りで靴音を響かせて、扉の開閉の音が聞こえてくる。その直後だった。この場に存在しないはずの、一刀以外の声が聞こえたのは。「そう、あの官吏の目的は私と同じだったか……」「っ!?」それは鉄格子の外から聞こえた。声の方向に首を巡らした一刀の目に飛び込んで来たのは、厚ぼったい唇を三日月に歪めて一刀へと視線を送る赤い髪をした妖艶な女性であった。「誰だお前!」「そういきり立たないで欲しいな、曲りなりにも立場は同じだろう。 天の御使い様」「立場?」『まさか……』『“呉の”、知ってるのか』『いや、知らない。 けど、本体、こいつ韓遂じゃないか?』“呉の”の予感に、本体はハッと気がついた。今日、荀攸との会話で似ていると感じて同情心が芽生えた相手を。顔も声も知らない。性別さえ分からなかった人に共感めいた感情が生じたのを。「……韓遂、か?」「あら、嬉しい。 私の名を知っていたとは。 天代様程じゃなくとも私も有名になったものだよ」「何時から居たんだ」「最初からさ。 気がつかなかったかい?」そう言って口元に手を当てると、何が可笑しいのか。クスクスと楽しそうに笑う。茶化されてる気がして怒気を孕むより、一刀はまずいことになったと歯噛みした。耿鄙の一連のやり取りは誰かにバレて言い物では無い。いわば密約の類であり、本質を隠されたまま実行されるのが最善だった。牢から出して貰って、何時までも耿鄙が中央に行かなければ疑われるかもしれない。しかしそれは、一刀を中央に送る振りをして、道中賊に襲われる振りをすれば適当に解決できる問題でもあったのだ。他にも様々な手立てが考えられただろうが、しかし。「そう邪険にするな。 言わば私と同じなんだよ、天の御使い様は。 中央から排されて、腐敗しきった漢王朝に切り捨てられた、哀れな子羊だ」「……それで、何用ですか」「耿鄙殿と同じ事だ。 分かるだろう? 私と共に来ないかと誘いに来たのさ」「何―――、えっ!?」「うん?」この時、韓遂の言葉の裏に最初に気がついたのは“仲の”であった。根拠は無い。殆ど直感めいた確信に、本体の主導権を奪って“仲の”は韓遂へ向けて言った。「天の御使いの名を巻き込んで、どうするつもりなんだ?」「聡いね。 さすが大陸に響く天代の名は伊達じゃない」「馬騰さんを、友人として頼ったのも怪しいね。 本当の目的は涼―――」「……なんだい? 途中で言葉を切るなんて、言いたいことがあるなら言ったらどう?」この時やや強引に入れ替わったのは“董の”である。恐らく、“仲の”の直感が正しい。だからといって、今この場で分かったことを全て韓遂に教える必要は無い。何より、韓遂は“最初から居た”と言っていたが、それが事実かどうかも疑わしい。あれだけ物音の無かった静かな時。扉の鍵を開けた音があれだけ明確に響いていた時。鉄格子だけついて窓の無い外からの雑音が耳に入らぬことなどあるだろうか?“董の”は“仲の”が紡いだ言葉尻を引き継いで、適当なことを韓遂へと尋ねることにした。「本当の目的は、馬騰さんを利用することだったのかい?」「これは異な事を言うもんだ。 私はこう見えても情に厚いんだぞ。 見くびらないで欲しいな」「それは……すまなかった。 もしかしてと思ってしまって」「男が簡単に謝るもんじゃないさね。 まぁだが……そうだね」「?」「御使い様が望むなら、すぐにでも牢から出して誘い出した目的を話すとしよう。 心配はいらない、私は馬家と親しい。 私が預かれば“余計な”心配もしなくて済む」それは、先ほど耿鄙の下に居た場合を考えていた時の話だろう。末端から、或いは耿鄙の領地に訪れた諸侯や官吏から漏れ出る心配など無用だと、韓遂は言っている。「……まぁ、誘いに来た日がまずかったね。 あの官吏もどうしてこの地に逗留を続けるのかと不思議だったが。 御使い様、答えは今日で無くても構わない。 ゆっくりと考えて、御使い様にとって賢い選択をすると良いさ」「……お礼を言えばいいのかな?」「言いたいのならば受け取るが、言うのかい?」「はは、ありがとう。 今の俺を誘うこと事態、礼を言うべきことだろうから」「受け取っとくよ……それじゃあ、良い返事を期待して待つことにしよう」最後に韓遂はそう言って、笑顔で手を振って鉄格子から姿を消した。思いのほか、気が抜ける無邪気な笑顔だった。荀攸が韓遂を評した言葉が、今更ながら一刀の脳裏に過ぎる。食えない人。なるほど、と一刀は頷くと共に、大きな溜息を吐き出した。「……やれやれ」『本体、ゆっくり考えよう……』『ああ、俺達が出来るのは、考えることだしな』『二度と無様を晒さないように、ね』「ありがとう……よろしく頼むよ」この日、停滞してじれったい日々を過ごしていた一刀は、数多の選択肢を手に入れた。同時に、余りに多く振って沸いた道の多さに、混乱することになったのである。明けて翌日。一刀は、牢屋の中での日々に脱走ではない終焉を迎えることになるのだった…… ■ 外史終了 ■