clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編4~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編5~☆☆☆ ■ シャバへ(どうなってるんだこれ……)『さぁ?』眼をさましたら、荀攸に近況を聞いた時に彼女が言っていた事が現実となっていた。一刀本人は聞き逃してしまった為、まったく気付いていなかったがとにかく、あのからくり牢屋から抜け出すことには成功していたのである。経緯は実に単純だ。朝陽に照らされている鳥の営みを観察していたら、馬超と荀攸の二人に連れ出された。それだけである。何処へ連れて行かれるのか。何をするのかの説明もまったくない。一目散に向かった場所は、ある一室であった。目の前には、うず高く積まれた竹簡の山。左手には大量の墨が用意されていた。右手には筆を握らされて、一刀は幅広い机の前で座ることを強要されている。部屋の片隅には、眼に隈を作ってこちらを睨むバ・モーキさん。その近くには、自分が牢から出れるように働きかけてくれたであろう荀攸が、スラスラと何かを書いていた。牢から出ろと高圧的に言われた時には、想像出来ないような空間が出来上がっている。「つまり、これをやれと言うことで良いのかな……?」「むぅ……」一刀は意を決して、馬超へと首を向けて尋ねてみたが、帰ってきたのは疲労の色が濃い眼光と唸り声だけ。馬超から説明を聞く事は、難しいようだ。一刀は眉を顰めて竹簡に文字を綴る荀攸へと視線を移した。しばらく助け舟を期待して見つめていた一刀だが、視線に気付いているはずの彼女は華麗にスルーを続けていた。「……分かったよ、やればいいんだよな?」帰ってくるのは静寂だけだった。一刀は一つ大きな息を吐き出して、竹簡を一枚広げると、内容に眼を走らせる。中身の方はかろうじて一刀がその内容を把握できる程度に、乱雑に書かれていた。数分の格闘の末、ようやく読解に成功すると、周辺地理の名と共に収穫高などの数字が書かれている物だった。何も教えてくれないので意味が判らないが、とても罪人に見せるような物でないことは確かである。近くの山からもう一つ、一刀は竹簡を取り出すと、これまた崩しの激しい文字と格闘することになりこちらは軍馬に関わる出費、経費の概算書であった。ここに積まれている竹簡。馬家で管理している多くの事柄が集中しているのだろう。洛陽に居た頃の一刀の机の上と、酷似した風景が広がっていることからも明らかである。ここで一刀は、馬超を見やった。その視線は、やや呆れの混じった物になってしまったが一刀に他意はない。こちらをじっと見つめていた馬超も、様子から一刀の視線の意味に気が付いたのか。バツの悪そうな顔をしてそっぽを向いてしまった。「……えーっと」状況から察する限りでは、この竹簡の山を崩す事が一刀の任務なのだろう。しかし、一刀の立場的に馬家の内情に深く食い込む、いわば内政の類に手をつけて良いのかという疑問が浮かんでしまう。どうするべきか悩む一刀に、今まで黙り込んで居た馬超の声が飛んできた。「何見てんだ、し、しょうがないだろ、こっち見んなっ」「あ、ああ……うん」「ったく、母様が倒れなければこんな面倒なことには……」最後の言葉尻はすぼんでいき、一刀は良く聞くことが出来なかったが止むを得ず、というのは態度や口調で実に伝わってきた。一刀はなんだかんだ言っても、漢王朝の中央その心臓で内政に携わり、時に忙殺されたこともある。目の前に積まれた竹簡の山は、内容にもよるのだが、さして強敵ではないと言える。一日、二日もあれば十分だろう。もちろん、これは本体の中に居る一刀達のおかげでもあるのだが。「とにかく、私達には人手が足りないし、使えるだろう人間を遊ばせておくのも勿体無いって言う話になったんだ」「なるほど」「それから、終わった物は私がちゃんと眼を通す。 下手な嘘をつくとすぐにバレるからな」「ああ……それは分かったけど。 ひとつ良いかな?」「なんだ?」「この竹簡の山は、内政に携わる様々なことが書かれているみたいだけど それらを処理している間に、この部屋だけで判断することが難しくなる時が必ず来ると思う」一刀が言ったこれは、半分ホントで半分ウソだ。実際に自分の目で確認することはとても重要な事だし、現状を把握するには自分の足で歩いて見て回るのが一番早い。あの曹操や孫策も、貴重な時間を割いて街を歩く事があるのは、こういう側面もある。気分転換や休息も兼ねているのだろうが。一方で、信頼できる部下からの連絡や報告があれば自らが出歩く必要が無いのも事実だ。特に、その内容が自分が見た時と同じような評価を出せる、知者であると知っていれば尚更だ。だから、一刀はこの一件を牢を出れるチャンスと見たのである。つい先日、馬超が街を巡察していたのを知っていたから思いついたと言っても良い。「馬超さんも、巡察を行うことで多くの実情が分かるのは、知っていると思うけど」「う、それは確かに……」「何より、俺はこの地に来て日が浅い。 実際に見て判断したいことが多くなると予想できるし……」「牢屋に入れておくのは、非効率的でしょうね」一刀の台詞に追従して、今まで黙々と筆を動かしていた荀攸の声が飛んできた。「もしも俺が出歩くことに不安があるなら、監視をつけてもらっても構わないよ」「はぁ……分かったよ。 この部屋の近くに客間を用意させる、監視もつける。 とりあえず、その竹簡を早く片付けとけよ」「え、あ、ああ。 約束してくれるのなら直ぐにでも取り掛かるよ」馬超はしばし一刀を見つめると、小さく息を吐き出して頷いた。思いのほかあっさりと要求が通ってしまったことに戸惑った一刀だが、先ほど手に持った竹簡へ目を落とすと意識を切り替えて筆を取った。時に筆を置いて腕を組み、久しく動かしていない脳が回転しだすと筆も軽快に動き始める。一刀が集中を始めた頃、馬超は部屋の手配や調練に行って来ると荀攸へ告げて、立ち去った。彼女が立ち去ると、竹の上を走る筆のなびく音だけが室内に響く。時間にして小一時間は経っただろうか。顔を上げて一息ついた一刀は、先ほどの出来事を振り返ってポツリと零した。「なんか、あっさりしすぎだよな、やっぱ」打算を含んでいたために、即座に作業へと没頭した一刀であるがやはり頭の片隅には小さな違和感が拭えずに残っていた。人手が足りない、という言葉を疑う訳ではないが、ただそれだけで罪人として捕らえた男を牢から出して内政を手伝わせるだろうか。こんな形で牢を出る事に成るとは、昨日までは思いもよらなかった。そこで一刀は思い出す。韓遂と、耿鄙から自陣に来ないかと勧誘された事実に。「……一刀様」「そうだ……荀攸さん」「あ、お先にどうぞ」「あ、ごめん、実は……」一刀は、荀攸の言葉に甘えて先に相談を持ちかけることにした。昨夜の出来事を思い出すように振り返って、言葉を選びながら一つ一つ説明していく。同時に、自分の気持ちが耿鄙の申し出を受け取りたい旨を伝えた。韓遂の声には、考えてしまったが脳内の自分―――“仲の”とのやり取りを思い出すとどうにも裏がありそうで不信感が拭えないのである。何より、彼女は立場がまずい。漢王朝と敵対していることが間違いない相手の仲間になることは、自分の志とは正反対の位置に居る。全てを話し終えた一刀に、荀攸は一つ頷くと真っ直ぐと一刀へと視線を送った。その真剣な表情は、嘘を言う事を許さない雰囲気をかもし出している。「それで、一刀殿はどうお答えになりましたか」「……考える時間が欲しいといって、即決しなかったよ」「そうですか、安心しました……耿鄙殿に付いて行きたくなる心情も理解できますが」「荀攸さんは、反対かな?」「はい、反対です」理由は3つあった。一つは耿鄙の望む、西涼反乱軍と官軍の戦が何時起こるのか分からないこと。加えて、戦がすぐに始まらなければ、時間の経過と共に危険が増大していくこと。最後に、一刀も不安視したように、官吏による告げ口があれば耿鄙ともども逃げ道を失う事であった。もちろん、韓遂の下に行く事も論外だ。「一刀様が牢から出れたのは、天運というものに恵まれたからでしょうね」「運?」「こうして一刀様が隣に居る事がまず在りえないのですから、そうとしか言いようが無いですよ」この疑問に答えをくれたのは荀攸であった。一番大きいのは、馬家を取り仕切る長であった馬騰の昏倒である。内政事情を纏めて執り行っていた彼女が倒れた事により、早急である筈の事案も滞ってしまったのだそうだ。荀攸がこの場に居るのも、馬騰の不在から頼まれて協力しているからであった。家長が倒れたことによって、馬家を取り仕切ることになった馬超は寝る間も惜しんで働いているそうである。馬騰が優秀すぎて、文官が彼女を頼りきり、その質が頼りなかった事。一刀の元天代としての能力。辺境ともいえる武威の、中央の干渉が少ない立地。「他にも、一刀様が宦官の罠に陥れられたと王朝側に立つ耿鄙殿が仰ったことや 母親である馬騰様の友人、韓遂殿が一刀様と同じような境遇であることを知っていたこと。 この武威の民が、未だ天代追放の事実を知らないこともそうでしょう」「捕らえただけで処刑をしなかったのは……」『馬騰さんも、天代を斬ることのメリットが何も無いと判断したからなんだろうな』『ここの民が知らないんじゃ、混乱を誘発させるだけだしね……』「じゃあ、俺が牢から出れたのは偶然ってことか」「いえ、一番大事なことを言い忘れてました」「なに?」「馬超殿の内政の手腕が、壊滅的だったこと」「は、はは……そうなんだ」一刀はバッサリと斬られた馬超に、乾いた笑いを零した。荀攸は筆を置いて、苦笑する一刀へと視線だけを向けた。「まぁ、それは冗談ですが……言ってしまえば中央の事に関心も薄いのでしょう。 馬超殿や馬岱殿と話をしましたが、一刀様には無関心に近かったですよ」「そう……まぁ、そうかもね」遠い地で偉い人の噂が在っても、面識がなければ日々を過ごす中で忘れていく。生きていくことに必死なのは辺境に居ようが、中央に居ようが、人間である以上は変わらないのだ。関心ごとの多くは、身の回りに居る自分の近くのことで遠く離れた、知らない人の話など取るに足らない日常会話の一つに過ぎない。荀攸が言う関心が薄いことも一つの要因であるのは、そういうことなのだろう。好意も悪意も無い。フラットな状態だから、生理的な嫌悪がなければ嫌いになることなんて無いだろう。悪人だと言われている人間を捕まえたが、民すらその悪事が何なのかを知らないのだ。『それでも、最後の最後まで牢から出すことを渋っていたんだろうな、翠は』『だろうね……正義感が強い娘だからね』「性格、状況……色々あって、出れたんだな」「疑問と悩みが氷解したところで、そろそろ手を動かした方が良いかと」「そうだね、さぼってて牢に戻されちゃ、笑い話にもならないもんな」「はい、その時はもう見捨てますので耿鄙殿を頼りにしてください」「そりゃ大変だ。 頑張らないとね」冗談を交えて、一刀は竹簡の山に手を伸ばした。瞬間、馬超が巡察に出向いた時に荀攸も同行していたことを思い出す。もしかしなくても、一刀が交渉する材料をこの日の為に作ってくれていたのかも知れない。『本体、見捨てられたら大変だな』(そうだね……心強いよ、ほんと)王朝の為にという共闘関係を結んでいるが、今のところ足を引っ張ってばかりだ。今からでも、彼女の期待に応えるのは遅くはないはずである。大げさに声を一つかけて、一刀は腕を捲くると先ほど以上に身を入れて竹簡の処理を始めたのだった。 ■ 監視対象が視てる牢を出て幾ばくかの夜を過ごし。ようやく全ての竹簡を片付け終えた、深夜を迎えたこの日。上半身を晒して、満足気な笑みを浮かべ、一刀が部屋の中央で仁王立ちしていた。その場で大きく深呼吸。鼻腔の奥に、独特の異臭が漂って、それがとても懐かしい。人によっては、この匂いが苦手で気分を悪くしてしまう者も居るのだが一刀はむしろ、この場所に立ってから気分が高揚していた。鼻を擽るのは、ツンとした濃い硫黄の匂い。そう、一刀は竹簡の山を崩して得られた物のひとつに、風呂を使えるという現代人にとって非常に嬉しい報酬を得ていた。考えてみれば、一刀も風呂に入る事が出来るのは久しぶりだ。ほぼ毎日、水浴びや濡れた布で身体を拭くことだけで身を清めていたのだ。最近では牢暮らしであった為、それも毎日は出来なかった。硫黄の匂いよりも、自分の体臭の方がきついかも知れない。正直いって、ここ最近に限っては自分自身の匂いに顔を顰める時の方が多かった。衛生的にも、精神的にも、風呂に入る事が出来るというのはとても嬉しいものだ。洛陽に居た頃が、どれほど恵まれていたのかを嫌でも実感してしまう。馬家では、地下から湧き出た天然の温泉を利用して風呂を作っているようだが洛陽ではそんな物は無く、燃料を使用してお湯を沸かしていた為、多くのコストがかかっていた。それでも、皇室が利用するからだろうか。毎日清掃されて、お湯を張り替えて、何時でも利用できる様になっていたのである。ここ、馬家で使われている風呂も毎日使えるが、それは温泉を利用しているからであってそうでなければ毎日入ることなど、財政の関係上不可能だろう。とにかく、久しぶりの風呂である。一刀は自然と緩む頬を隠しもせずに、最後のパンツを脱ぎ捨てて籠の中に入れた。と、同時に聞こえてくる。「―――でしょ? この前計った時よりも少し―――」「まだまだ―――、それに、大きくたって邪魔なだけ―――」「大きいから言える―――贅沢かと」「そういえば――――なんだとさ。 揉んで―――」「やーん! 卑猥ーーー!」「な、何言ってるんだよっ、そんな―――」複数の女性の声だった。『蒲公英と翠だ』『荀攸さんも』『あとは誰だ?』本体が女性の声だと認識するかどうかの、一瞬の合間に脳内から分析の声が上がる。一方で、本体は冷静に周囲を見回した。この温泉へと続く道は、一つの入り口しか見当たらない。脱衣所であるこの場所を除いて、男女で別れている様な表示も無かった。利用時間が男女で別れている可能性もあるが、それならば前もって話しがあるはずだ。「くそっ……」一刀は悪態をついて、頭を掻いた。久しぶりの温泉―――入浴を前に、お預けである。混浴であったとしても、現代人の感覚を持つ一刀にとって女性が使っている温泉に一人で突撃する勇気は無い。仮にそんな肝が据わっていたとして、実行するかどうかは立場を考えると別である。籠に投げ入れたパンツを手に取って、履き直す。万が一、こちらへ戻ってきた時の事を考えての処置であった。どちらにせよ、このまま温泉に入る事は出来そうもない。また時間を改めるか、余り考えたくは無いが長いこと彼女達が利用するようならば、日を改める必要もあるだろう。あまり遅くまで起きていれば、明日の仕事に支障を来たすかも知れないからだ。「そういえば、北郷―――」匂い立つ自らの服を、顔を顰めながら着なおした一刀の耳朶に響く少女の声。脳内の誰かが、ハッと思い出したかのように韓遂の声だと分析する。自身の話題が出たからか。一刀はその場で硬直し、入り口の扉へと視線を向けた。「―――けど、―――」「―――なの?」意識して耳を傾けても、くぐもった声と声量がそこまで強くないのか、途切れ途切れにしか聞こえなかった。間取りの関係なのだろうか。部屋の壁は衝立のように、足元が外と繋がっているのに中にまで声が響かないのは。『気になるな……何を話してるんだろう』『確かに……』「そうだね……って、おいっ」脳内の声に相槌を打った瞬間であった。気が付けば一刀の身体が一歩、僅かに足元の床を軋ませて、扉に向かって前進していた。誰もが驚き、息を呑むような妙な声が脳内に響く。『……だれ?』『俺じゃない』『俺じゃないな』『少し聞くだけだ、覗くわけじゃない』『おい、今の誰だ?』『いやでも、今後の事を考えると得られる情報は得られた方がいいな』『キリッ』『言ってることに信憑性が皆無な件』『うるせぇ』『ははは、まぁでも、あながち間違ってる訳でもないかな』『扉の横の壁に少し隙間が空いてるね』『目ざといじゃないか』『まさか常習犯じゃ……』『違うって、なんかたまたま視線がそっちに―――』『『『ダウト』』』「ちょっと待て、マジで行くのか!?」言い合っている間にも、一刀の身体はゆっくりと、着実に扉のほうへ向かっていた。脳内が身体を動かせる条件を考えると、彼らも妙な高揚感に包まれているのだろう。その歩みにあわせて、温泉から聞こえる少女達の声量が大きくなっていく。先ほどこの脱衣所で感じた本体の胸の高鳴りは、なんか別の胸の高鳴りに代わっているような気がしてくる。先ほど誰かが囁いた、壁の隙間に視線が泳ぎ―――「くっ……いかんっ、身体が勝手に風呂場の方へ……っ」『本体、本当に嫌なら止まれよ』『そうだ、嫌なら見るな』『そうだそうだ、覗きはいけない』自分勝手なことをのたまいつつ、誰もが本体の歩みを止める者は現れなかった。いや、そもそもこれは本体以外の誰かが歩かせているのか?もしかして、本体が自らの意思で歩いているのでは?だが、誰もが申告せず、全員がやんややんやと脳内の中で騒いでるのを見ると誰がどうしたという世界ではなく、北郷一刀の総意とも受け取れるだろう。『もうだめだ、このまま流れに任せていくか』『いや、止めたほうがいい、きっと、多分、恐らく、メイビー』「はぁ……はぁ……」まるで天使と悪魔の囁きである。天使と悪魔の実態は自分自身の意識だと考えると、自作自演と取れなくも無いかもしれない。なんだかんだ言っているうちに、一刀の身体は荒い息を吐き出しながらも目的の壁の隙間にたどり着くと躊躇いもせずに、ゆっくりと腰を落として覗き見た。僅かな隙間ではあったが、幸い遮蔽物も無く、視界には話し込んでいる少女達の姿が映し出される。実ったメロン……いや、韓遂と、美味しそう桃……いや、馬超が隣り合って酒を呑んでいた。うまい具合に白い靄を作り出す男の敵、湯気というリーサルウェポン4に阻まれて全体像は見えない。自然、一刀は眼に力が篭り、見開いてその光景を見届けようと、体勢が前のめりになったところで一応ではあるが、今回のスニーキングミッションの目的である、彼女達の会話が耳朶に飛び込んで来た。「ああ、街でも噂になっているよ」「ふぅん。 そんな大それた事が出来るような奴に見えないけどな、あたしは」「真偽はともかく、そういう噂が流れているというのは事実さね。 それに……見た目は青びょうたんでも、中身は飢えた狼かもしれない。 そうでなきゃ、中央で天代になることなんて出来ないさ」「確かに、韓遂殿の言葉に一理あるな」なにやら自身に纏わる、街の噂があるようである。どのような噂かは分からないが、単語を端折って掻い摘むと、天代時代にさんざん流布した幼女虐待の趣味とか変態とかなんとか、碌な物ではないだろう。今まで培った一刀の直感が、そう判断したのである。今の自分の姿を客観視すれば、半裸で衝立の向こうから女性の入浴を覗き見るという飢えた狼であることは間違いないのだが、残念ながら一刀がそれに気付く事は出来なかった。飢狼の見つめている視界の中に、声だけは聞こえていた新たな少女の姿が入り込む。馬岱である。小柄な体系に似合わず、なかなか立派な尻……ではなく桃を左右に振って、会話に混ざっていった。僅かに見切れているのは、見覚えのありすぎる荀攸だろう。「ねぇおねーさま。 そんな男を牢から出したの、おば様にバレたらまずくない?」「お前も賛成してただろ。 全部あたしのせいにする気か?」「だって、今の馬家を仕切ってるのおねーさまじゃん」「むぐぐ……それは、そうだけど……」「何にせよ噂は噂ですね」「そうだねぇ。 けれど、そういう噂があること事態がまずいんじゃないのかい?」「そうですね。 一体、どこの誰が流したのでしょうね?」「ううん? なんだい? 私の顔を見て」「お気になさらずに」一体、なんの噂なのだろう。思い当たる節が多すぎて、絞りきれない一刀である。馬騰に知られたら、馬超が怒られる……すなわち、文字通り獣を牢から出したという意味なのだろうか。もう少し近くで視たい―――ではなく、聞きたい思いに駆られて一刀の身体が一歩前に泳ぐ。両手をついて、壁ににじり寄る体勢になった一刀の指先が穴の一部に触れて、小さな軋みの音を上げた。それは、僅かな。本当に僅かな音であったはずなのに、視線の先の少女達は一斉に視線を一刀の居る壁へと向けた。まるでホラー体験をしているようである。全身の血が一瞬で引き、ついでに体の一部の出っ張ったナニかも一瞬で引き、一刀は反射的に壁から離れた。「誰か居るの!?」「覗きか!?」「ヤバッ!」『しまった!』『“肉の”!』『Roger!』『服の回収を忘れるな』『オーバ!』『プランBだ!』『あ?』『ねぇよそんなの!』直後の一連の流れは、筆舌にしがたい。一刀は実に流麗な動きで浴室からの撤退に移行し、時間にして僅か数秒。それも殆ど物音を立てず、時代が時代ならばNINJAと賞賛されていたかもしれない。一部の隙すら見せない一刀の逃走は、確認に走ってきた馬超と馬岱の視界からタッチの差で逃れることに成功する。「あれ? おかしいな……確かに気配を感じたんだけど」「あっ、穴が空いてるよココ! きっとここから私達のこと覗いてたんだよ!」「穴が空いてるとは、感心しませんね」「ふふっ、覗かれるってことは私達に魅力があるって事の裏返しじゃないか? 私も捨てたもんじゃないねぇ」「あー、なるほどぉ~。 それじゃあしょうがないかもだね?」「何言ってんだ蒲公英! あたしは許せないぞ、こんな卑怯で卑屈な事をする変態ヤローは!」「あ、馬超殿。 その穴の周りは踏まないで下さい」「へ?」激昂する馬超を諌めつつ、荀攸は馬超の足をゆっくりと掴んで放す。彼女の足元には、誰かの靴の足跡が、へばりつく様にして残されていた。「これは随分特徴的な足跡ですね。 まだら模様のように、複雑……」「そうか、これと同じ足跡を付ける奴が犯人ってことだな!」「うわー、荀攸さん頭良いー」「そうですね……足元を掬われるとは、こういう事なんでしょうか?」「……なんで私を見るんだい? 荀攸殿?」「いえ、お気になさらずに、韓遂殿」「とにかく、手がかりは見つかったんだ! とっ捕まえるぞ、蒲公英!」「あ、待ってお姉さまっ! 服っ、服!」「っ! ば、馬鹿、先に言え! 危ないところだったじゃないか!」「あいたっ! あーん、お姉さまがぶったー!」馬家の宮内を巻き込んで大きな騒ぎとなった『温泉覗き間変態ヤロー捜索事件』は、しばらくして沈静化する。なぜならば。 ■ エロエロ魔人「で、申し開きはあるのかエロエロ魔人」「……お兄さんってほんっっっとに天代だったの?」「牢に戻すべきかもな、蒲公英」「う~~~~~~~~~~~~~~ん………」「反省してるよ……」不名誉な称号を得た男が、とっ捕まったからである。 ■ 管仲随馬の“一刀”エロエロ魔人という名で呼ばれることを強要されて三日。一刀は何百枚にも及ぶ反省文を書かされ、その上書いた作文の音読まで強要されてようやく部屋から出る許しを得た。これは内政も同時に行う事を脅迫―――という名の約束をさせられた上での事だったので、中々に苦行な日々であった。脳内の自分のおかげで睡眠不足にはならないものの、軟禁された部屋の中で只管に筆を動かす作業を行うのは肉体的に大きな負担がかかっている。主に手首が。しばらく、墨を摺ることはしたくないと思えた。自業自得といえばそうなのかもしれないが、ちょっと不幸な事故で覗いた代償としては過大な罰なのではなかろうか。まぁ、非は自分にあるのでそんな事は心で思っても、決して口には出せないが。重くなった手首を、上下にふってブラブラさせる。しばらく部屋を出てから当ても無く歩いていた一刀だが、せっかくの外出許可を貰ったのだ。なんだかんだで町の様子を落ち着いて見れなかったこともあって、一刀は街に遊びに行く事に決めた。来た道をくるり。反転したところで、ある一室の扉が開いて最近ようやく打ち明け始めた少女の姿が飛び出てくる。「あ、一刀」「やぁ、蒲公英」「何処行くの? 反省文は終わった?」「ああ。 ようやくね。 外出許可を貰ったから、街に出てみようかと思ったんだ」「あ、じゃあ蒲公英も行くよ。 一応一刀は、監視しなくちゃいけないしねっ!」「とかいって、仕事をサボる口実にしてるんじゃないか?」「分かってないなぁ。 一刀と一緒に居る事が仕事になるじゃん」「で、本当のところは?」「えへへ、ほんとはこの後のお姉さまとの模擬戦があって。 手加減って言葉をおねえさまは覚えるべきよねー」頬を掻いてはにかむ蒲公英に一刀は苦笑しつつ頷いた。一人で街を観光するのもつまらないと思っていたところだ。この蒲公英の申し出は、むしろ一刀にとって有益なもので、彼としても断る理由など無かった。一応、一刀はどちらの意味でも監視対象であることは間違いないので、蒲公英のいう事ももっともであるのだが。ちなみに、馬家において真っ先に真名を許してくれたのは馬岱こと蒲公英であった。一刀としては何故、彼女が自分に真名を預けてくれたのかは分からない。じっくりと話をしたことは、食事の際に何度か顔を合わせた時くらいだろうか。他には、仕事の絡みで話をしただけ。真名を貰うにはちょっと、簡単すぎなのではないかと一刀が心配するほどである。ただ預けてくれたからには、その信を、信頼で返すべきだろうと一刀は心に決めてはいた。「で、何処に行くの?」「んー、そうだなぁ……」この街を回ったのは、不本意ながら脱走した時と馬騰との面会に及ぶ前が全てだ。“馬の”に聞けば参考にはなるかもしれないが、彼の知っている街並とは違うところも多いようだ。実際、“馬の”の外史においては彼が内政の根幹に居たのも含めて、本体の居るココとは違った形になっているという。それは、本体が今までに訪れた洛陽や陳留も同じだ。「特には決めてないんだけどさ」「それじゃあ蒲公英が案内人になってあげるよ」「そう? 助かるな」「お風呂とか、お風呂とか、あとね、お風呂とか」「……」「あはははっ、冗談だってば~」蒲公英にからかわれながら、城内から街に出る。途中、誰かに会うこともなく門兵と二、三簡単なやりとりをして蒲公英の先導でゆっくりと景色を見回した。こんな単純なことで、一刀はふと気付いてしまう。それは、馬騰に捕らわれる前までは意識に上っても自覚が足りなかった事を痛感させる。『天代』洛陽では宮内の中でも、町の中でも歩けば多くの人が自分をそう認識して、畏まったり敬ったりしてくれていた。視線一つにも、多くの思惑が含まれて自分を見つめる人々が居た。それが此処にはかけらも無い。「……あんな強烈な想いがあるのに、忘れてしまうものだなぁ」「何? どうしたの?」「ううん、なんでもないよ」「うーん……」振り向いた蒲公英が一刀に身体ごと向けて値踏みをするように見つめる。「なに?」「いや、ほらさ。 頭打ち付けたりする発作があるから油断できないじゃん?」「忘れてくれ」「あんな強烈な印象、忘れられないよ」「……ところで、蒲公英は何処に向かってるんだい?」なんだか言い繕っても薮蛇になりそうだったので、一刀は話題そのものを転換させることにした。肩を竦めてこの話題に乗ってくれた蒲公英は、顎に指を当てながらやや黙し決まったのか、一つ納得するように頷くと、一刀へ向けて良い笑顔で宣言した。「えっとね、一刀は阿蘇阿蘇って知ってる?」「なんだっけ、何処かで聞いた覚えがあるけど」蒲公英の先導で訪れたのは、一軒の店先であった。看板に小さく『阿蘇阿蘇印』と書かれている。残念ながら外から覗けるような構造にはなっておらず、外観は木製の壁になっていて店内の様子は窺えない。どうも心に引っかかりを覚えながらも、一刀は『阿蘇阿蘇』という単語が何を意味するのか思い出せなかった。「お店のようだけど、何の店なんだ?」「まぁまぁ~、入って入って」「怪しいお店じゃないだろうな……」脳裏を過ぎるのは、文醜と共に散策した洛陽で発見した『おとめかん』だ。あの時は店内に汚物……ではなく、竇武達が半裸でバンプアップしており、そのまま文醜にヘッドロックをかけられた。流石に一刀も、あのような事がそうそう起こるはずは無いと知っているが二度あることは三度有るという格言もある。 いや、一度しか経験はしてないが、一度あることだって二度があるから前述した格言が出来るというものだ。油断は出来ない。扉の前に立った一刀は、後ろからニコニコと、若干不気味な笑みを浮かべた蒲公英を肩越しに見やった。彼女に任せたのは自分なのだ。今更止めようと言っても、顰蹙を買うだけだろう。一つ、溜息のような物を吐き出して、一刀は覚悟を決めてドアノブを捻った。「いらっしゃいませー!」「お二人様ですね」いたって普通の店員の声が耳朶に響き、一刀の視界に飛び込んだのは数え切れない程の衣類だった。扱って居る物は殆どが女性ものの服のようで、派手な物から地味なものまで、色々だ。蓋を開けてみれば、一刀の心配など何処吹く風。まともな服屋である。「あー、思い出した。 阿蘇阿蘇ってファッション誌だったなぁ」「ふぁっしょんし? 何それ?」「服の情報誌だってことを思い出したんだよ」「あー? もしかしてぇ、一刀、変なお店だと思ったんでしょー?」「確かに、変なお店かと……いや、違うっ、蒲公英の言うようないかがわしい店じゃないぞ! 断じて違うからな」「えー? イカガワシイ店ってなにー蒲公英わかんなーい」「だから違うって!」ぎゃあぎゃあと喚く一刀に、悪戯が成功したような笑みを貼り付ける蒲公英。笑顔で出迎えた店員さんの額に、青筋が浮かび上がった頃、一刀は落ち着きを取り戻す事に成功する。「ったく、それで、阿蘇阿蘇を見て来たっていうことは、欲しい服があるのかい?」「うん、おば様が倒れられて、少し遅れちゃったけど前からまとめて買おうと思ってたの」「ふーん……」「あ、なんか気のない返事~。 せっかく一刀が一緒だから来たのに~」「そう言われてもなぁ……蒲公英は何を買うの?」「下着」「なるほど」一刀は頷き、その場で反転した。会話の途中から不穏な空気は察していたが、半ば予想どおりの回答に一刀の行動は早かった。躊躇い無く踵を返した一刀に、蒲公英が慌てて追いすがる。「わわわ、待ってよ。 何処行くの一刀」「俺はエロエロ魔人じゃない、俺はエロエロ魔人じゃない」「うわ、二回も言った。 男の人の意見も聞きたいんだってば」「ほんっとうに、他意はないんだな?」「ちょっとあるかも」「帰る」「うそ、ないないっ! ないから、感想聞かせてよ―――っ?」必死に引きとめようと、蒲公英が掴んでいた左腕が急に離れた。抵抗するために踏ん張っていた一刀の身体がつんのめって、あわや転倒しかけてしまう。急に離されると危ない、と一刀は文句の一つでも言ってやろうと振り向くと、蒲公英は手を中途半端に差し伸べたまま頬を紅潮させ、妙な体勢のまま静止していた。何度か、同じような体験をしている一刀は彼女の状態に心当たりがあった。洛陽に居た頃、或いはそれ以前に、“一刀”へ接触した際に何らかの感情のスイッチが入る現象。それは、本体がどうすることもできない、彼らと彼女達の繋がりの証明に似た何かだ。他人の感情を弄くるような形になってしまう事実があることから、本体はこの現象には少々複雑な思いを抱えている。ただ、気をつけてどうにかなる物でもないことだけは確かであり、対策という対策も取っていない。だから、一刀は蒲公英に短く声をかけた。「だいじょうぶかい?」「え? あれ? なな、なんでもないよご主人様!」『ほう……』『『『ご主人様か……』』』『『『五月蝿いぞ皆、静かにするんだ』』』『落ち着けよご主人様』『やめろ、気持ち悪い』「……蒲公英、落ち着くんだ」「え!? へ、平気、落ち着いてるけど、なんだろう。 やっぱ落ち着いてないや、ご主人様見てると変になる……」「え……変になるって……」思わず、ぼんやりとした視線を一刀に向けている蒲公英の言った言葉を反芻する。今まで、脳内と繋がりがあるだろう少女達が反応したところを見かけていたが、実際どのような感情を抱いているのかは謎のままだった。お互い、視線を絡め合わせてからどの位経ったのだろうか。眼を潤ませて見つめる蒲公英が、やにわに顔を下げた時だった。一刀と蒲公英の間に、恰幅の良い溌剌なおば様が割り込んだのは。「ちょっと、お兄さん。 酷い男ね」「え?」「他人事だし、お節介かもしれないから黙っていたけど、女を泣かせるとあっちゃ黙って居られないわ この子は下着をあなたに選んで欲しいから、勇気を振り絞ったんでしょうが」「あ、いや、別に泣かせているわけでは……」「そ、そそ、そうそう。 別に泣いてもないし、選んでもらうつもりも―――」「大丈夫っ、おばさん全部分かってるから! 一度失敗すると諦めたくなっちゃうのよね。 でも平気、安心して。 男なら、きっと付き合ってくれるわよ。 そうでない奴は玉無し野朗よ」言葉尻に挑発染みた一言を乗せて、おばさまは蒲公英の援護に回る。一刀も蒲公英も、この時は確かに他人事の上に見当違いのおせっかいだと、言葉にしていないのに心で通じ合ってしまった。まるで、乗りかかった船だというように一刀達に勢い込んで話す彼女を止める術は無く。気がつけば、店内でも奥の方にある下着売り場と、更衣室近くまで移動するハメになってしまった。一刀が隙を見て動こうにも、おばさんの視線が纏わり着いていて、どうにも逃げれそうに無い。気まずそうに一刀が蒲公英を見やると、当の彼女は困ったような笑みを浮かべつつも本来の目的を忘れた訳ではないのか棚に並べられた色とりどりの衣類を物色し始めていた。一度商品を手に取って眺めれば、蒲公英の顔も先とは全く違う、楽しそうな顔に変化する。こういうところは、流石に女性ということなのだろう。気持ちの切り替えが早いというか、割りきりが素早いというか。女性物の下着売り場という、男ならば誰でも気後れしそうなこの場所で一刀は妙な居心地の悪さを覚えながらも蒲公英の後ろを付いて行く。「あ、これかわい~」「……そうだね、良いんじゃないかな……?」「んー、もうちょっと他のも見たいな」「あ、うん……」「あ、これお姉さまに似合いそう。 どう思う?」「ああ……そうだね……良いんじゃないかな」「一刀、ちゃんと見てる?」「一応見てるけど……」「お、ここの意匠なんて秀逸~。 ほら、見て。 似合うかな?」商品の一つを手に取って一刀に向き合い、蒲公英は自らの胸にブラジャーらしき衣類を当てて首を傾げて聞いてくる。そう言われても、ファッションに特にこだわりもない一刀としては男物ならばまだしも女性物、しかもインナーとなるとまったく持って理解できない領分となってしまう。女性が着飾るのは世の常とはいえ、インナーまで拘るのは理解に苦しむと言う他ない。一刀自身、他の人には有り得ないような奇天烈な体験をしてきたと自負はしていても年頃の少女の下着を一緒に買いに来るという経験は初めてのことだ。当然、うまく口など回るわけも無く。「えっ? い、いいんじゃない……かな?」「……それじゃ、これ一刀そこの籠に入れて」「あ、ああ……」手渡された衣服を足元に転がっていた籠に入れて、一刀は抱え上げる。その後も同じようなやり取りを何度か行い、籠に入れたり入れなかったり。蒲公英がこの店に来た目的は着々と達成されようとしていた。にもかかわらず、段々と彼女の顔から笑みが消えていくのに一刀は気付いていた。何故かは分からない。分からないが、多くの女性と付き合ってきた経験が一刀にはあった。この蒲公英の表情の変化は、女性にとって共通する危険を伴うシグナルであることに感づいてしまう。『本体、さっきから良いんじゃないか? しか言って無いぞ』『それじゃ駄目だぞ』(そう言われても、何を言えば良いかなんて分からないよ)『仕方ない、俺に任せろ、見てられん』(あ、ああ……)『“魏の”、平気なのか』『駄目そうなら俺が変わってやるから』『任せろ、俺だって鍛えられてきたんだ、見てろよ』「えーっと……」「お、これはどうかな? 触った感じ肌触りも良さそうだし生地の質も良い。 透明感のある青色も、これから夏になるし、涼しげな印象になるかも」「あ、ほんとだ。 滑らかだね。 でもちょっと地味すぎなくない?」「この位が丁度いいよ。 変に凝った装飾がついているよりは、よっぽど良いさ。 まぁ、あくまでも俺の意見に過ぎないけど、蒲公英には似合うと思うよ」「一刀……」「なに?」「……ううん、なんでも……って、それならさっき選んだのは派手だったけど、良いって言ってたじゃん」『俺の出番のようだな』『“袁の”か、任せた』先ほど本体が投げやりに―――本体はいたって真面目に良いんじゃないかな? と答えていたが―――返答して籠の中に放り込まれていた様々な下着を、“一刀”はまるで口の回る店員のようにスラスラと答えていく。しかも、どの様な部分が魅力的であるのかを答えた上で、自分の所感まで述べていた。装飾の多い物も、デザイン的に優れていて職人の魂を感じるとか、うまく言葉を捻りつつ。おばさんの視線も、合格ラインに達したようで満足そうな笑みを浮かべて気がつけば途中からは掻き消えていた。結局、購入に至った枚数は計4枚。手に取った数こそ多かったものの、最終的に蒲公英が絞り込んだ物に厳選されてまとめ買いというには些か少ない数に落ち着いた。殆ど脳内の自分達に任せてしまったが、蒲公英の顔色はすこぶる良い。会計を済ませて店を出てから、一刀は脳内の自分達にひっそりと感謝を告げた。『そうか……あの曹操に鍛えられたのなら、納得だな』『でも、俺なんて恵まれてた方だよ。 “袁の”や“仲の”みたいに命がけじゃなかったんだから』『うまく褒めないと文字通り首が飛ぶからな、必死だった』『ははは、まぁ本体の助けになってるからまったく無駄って訳でもなかったのかな?』同じ北郷一刀とはいえ、先人の経験は決して馬鹿に出来ないものである。一刀は脳内の彼らが居ることの心強さを改めて知ったのだった。 ■ 大渦の中蒲公英との買い物に付き合わされた帰り道、奇妙な仮面を着けて窮地を脱した広場の外縁。広場全体の様子が伺える場所に、カフェのような外で食事を楽しめる飲食店に訪れていた。前に来た時は―――脱走時だった為、ほとんど初見ではあるが―――このようなお店は無かったはずだ。真新しい建物に、中古ではあるだろうが良く磨かれた椅子と卓があることからつい最近に開かれたのは間違いないだろう。案内したのは、もちろん蒲公英である。「あ、美味しい」「ほんとだ」一刀が頼んだのは軽食として選んだ手羽先のような物だ。スープに浸された鶏肉は塩が使われているのか、しょっぱくて薄味が中心であるこの場所では珍しく味が濃い。「洛陽でも、これだけ調味料をふんだんに使っている場所は少ないよ」「だろうね~、あのね。 ここって実は、私達が援助して建てられたお店なんだ」「そうなのかい?」「だから開店したばかりのお店に、案内できたんだよ?」「へぇ……」内政にはお手伝いとして携わっているが、一刀はこのような案件を見たことは無かった。おそらく、担当しているのは荀攸なのだろう。彼女は一刀が捕まってから、ずーっと馬家の内政を手伝っているような気がする。多分、一刀の気のせいではないだろう。馬騰という一家の大黒柱が倒れた今、馬家の内情は確かに厳しい。こういっては何だか、一刀から見ても文官のレベルは低いと言わざるを得なかった。丼勘定、誤った報告の多発、不審な金銭の移動、中には何の報告をしているのかすら分からない竹簡があったり民間の要望書が混ざっていたり、存在しない案件すら挙がってきてたりしていた。これは文官の個人の質云々よりも、管理に問題があるとしか言いようが無いだろう。馬騰が一家の長として、軍部、内政、他もろもろ全てを背負っていたというのだ。これは馬騰が文官を育てていないのではなく、育てる余裕が無かったのだと一刀は思う。自分がやるべき仕事が重なりすぎて、とても育成にまで時間を捌くことが出来なかったのだろうと。洛陽に居た頃、一刀は脳内含めて総出勤していた事があったが、馬騰の労力はその頃の一刀に匹敵するのでは無かろうか。12人でひぃひぃ言いながら何とか回っていた物を、一人で全てやれというのは無茶な話である。「文官を育てるのは急務だよなあ」「お姉さまも、そう言ってたよ。 荀攸さんもね」「まぁ、誰が見てもそう言うんじゃないかな……」「あはは、確かにね。 私達、ずっと叔母様に頼ってたから」「蒲公英も頑張らないと」「あ、一刀。 私もちゃんとやってるんだから」「今、遊んでるじゃん」「違いますー、今は一刀の監視が仕事だもーん」「ははっ、そういえばそうか」蒲公英が膨れっ面を作ってそっぽを向く。一刀は苦笑しながら、この店を作ることになったのは荀攸の差し金なのだろうと半ば確信した。良く見れば、この店の隣には警邏が留まる派出所の様な物が一緒に建てられている。人の通行が多いこの広場を見渡せる場所に、警邏を置くのは理に適うだろう。一刀が仮面を着けて狼狽していた頃、こんな案件を進めていたのだと思うと、思わず苦い笑みがこぼれてしまう。「それにねー……噂、気になってるんでしょ?」「噂? なんの?」「一刀がエロエロ魔人になっちゃった時の噂」「うっ、それ止めてくれないかなぁ」しばらくエロエロ魔人は自分に付いて回る称号になりそうな事実に、一刀は頭を抱えたが一方で彼女の言う噂について考えを巡らせてもいた。そう、確かあの時、一刀は自分の話題が昇って思わずエロエロ魔人になってしまったのだ。それは根の葉も無い、洛陽に居た頃に聞こえてきた自分の噂と大差ない物だと思っていたが……なるほど、噂とは人の集る場所でされるものだ。人通りの多い広場に開店したばかりのカフェのような、この辺では見ない店など噂話が飛び交うに違いない。蒲公英が自分を此処へ連れてきたのは、噂を聞かせる為だったのだろうか。「でも、それなら蒲公英が教えてくれても良いんじゃないか?」「そうだけど……でもそれじゃあ一刀はきっと納得しないと思ったからさ」「どういう事?」「自分で聞かないと、信じられないって思うんじゃないかな……私だったら、そうだから」要領を得ない蒲公英の回答に、一刀は首を傾げた。が、答えはすぐに返ってきた。目の前で茶を啜る、小悪魔っ子な少女の口からではなく―――街の人々の声で。「なぁ、天代様が中央に反旗を翻したのって本当なのかなぁ?」すぐ傍で聞こえた訳ではない、やや離れた場所で酒盛りをしている男の一人の声が、一刀の耳朶に強く響く。「……え?」「さぁなぁ。 でも、ほらよぉ、天水や安定の方じゃ反乱軍に参加してるってもっぱら噂じゃないか」「中央から追い出されたって言うのも何だか眉唾だよな」「でも本当だったら、中央の乱れは相当酷いんだろう」「まぁどっちだろうと、俺達にゃ関係のねーお上の話だが」「はっはっは、違いねぇ」―――何を言っているんだ。一体、彼らは何を話していたのだろうか。一刀は男達の話が他愛の無い女性の胸の話になったところで、目の前で真っ直ぐと真剣な眼を向ける蒲公英の姿に気がついた。「あ……」「ね、私が言っても、きっと否定したと思うよ」「……」肩をすくめて視線を落とした彼女に、一刀は何も言う事が出来なかった。噂は噂だ。彼らが話していたことも、根の葉も無い事実には違いはない。洛陽の頃にも自分の身分が高かったせいで、普段ならくだらないと言える噂など売るほど余っていた。だが、今の一刀にとっては笑えない冗談となる。民衆はそうだ。今のようにまだ何も知らないから、そう問題ではない。だが、諸侯の受け取り方はどうだろうか。恐らく、今後の一刀の行動に大幅な枷が嵌められる事になる噂になることだろう。いや、違う。問題はもっと違うところにある。男達が話しているのは所詮は噂でしかなく、一刀はこの場所で地に足をつけているのだ。問題は―――『噂が広い範囲に拡散していること、だな』『天水、安定……朝廷に反乱した軍の主力が居るところだね』『そうなると……』『うん、きっと朝廷が涼州の反乱を頭で抑えてる長安にも……』『それなんだけどさ、“天代”は涼州の反乱の頭を押さえる為に洛陽を出た事になっているんだよね』『それが皆……大陸の人たちが認識している事実だね』『此処に来て涼州の反乱に加わった噂が流れるのは、誰かの意図があると見て間違いない、偶然出た噂にしては出来すぎだ』『俺達が追い出された事を知っているのは、まだ中央の官吏や諸侯の有力者だけのはず……ってことは』『―――洛陽からか? 張譲達の罠なんじゃ』『涼州に反乱を先導しているって噂されてる韓遂が此処に居ることも忘れるなって』『あ……そうか』『怪しいね』『洛陽の濁流派から出たんじゃなければ、この噂、利用されるかも?』『ああ……その可能性は高いかも知れない』「……蒲公英」「なぁに?」「ごめん、俺ちょっと先に戻るよ」脳内の声を聞いて、うまく考えが纏まらなかった本体は焦燥も露に席を立つ。そう、噂は噂だ。だが、この噂の出所はとてつもなく“きな臭い”蒲公英が口を開こうとする前に、踵を返した一刀だが、それよりも早く聞き覚えの野太い声が二人の耳朶を打った。「岱! ああ、一刀も一緒だったか!」振り返れば、やにわに息を切らして馬休が広場の中央から手を振って走ってきていた。「休ちゃん? 出れたの?」「どうしたんですか?」「ああ、姉者がようやく出してくれた……っと、言いたい事はそれじゃないんだ」「何よ?」「毒だ! 夕飯に、毒が混ざってて韓遂殿やその供回りが倒れちまったんだよ」『『『え?』』』「え? 韓遂さんが?」「それで、お姉ちゃんや鉄っちゃんは無事だったの?」「それが……鉄は……朝廷の使者の耿鄙殿は無事だったが……巻き込んでいたら一大事だったぞ!」「分かった、一刀、城に戻ろうっ!」「ああ、すぐ行こう!」蒲公英は懐から巾着を取り出して、卓の上に乱雑に硬貨を置くと、確認もせずに城へ向かって走り始める。一刀も“肉の”に入れ替わり、彼女に劣らず速度を上げて城へ向かった。―――・城内に駆け戻り、向かった先は一刀も何度か使ったことのある食堂だ。先に入った蒲公英が、入り口で急に止まったせいで一刀はあわや追突しそうになったが“肉の”の驚異的な膂力で扉の縁を掴み、静止することに成功する。一刀が顔を上げると飛び込んで来たのは、この馬家にて出会った全員の面子が揃っていた。馬超が中央に、その隣には荀攸が。彼らの後ろには、馬騰の治療に専念していたはずの華佗が馬鉄を診ているようで特徴的な短髪が椅子の隙間から見え隠れしていた。垣間見えた光景から、馬鉄の胸が上下していることから、命は助かったのだろう。一刀は知らず小さく吐息を零して安堵した。一刀から見て右方には耿鄙とそのお供だろう。文官らしき男達が居心地悪そうにして立っている。一瞬、室内に入り込んだ一刀へと耿鄙が首を動かして視線を送ってきたものの、すぐに真正面へと顔が向く。その反対側。一刀から見て左方に、この部屋で唯一椅子に座り込んだ赤い髪をした妖艶な女性、韓遂が顔色を真っ青にしていた。その後ろには調理人だろうか。前掛けを着ている数人の男女が固まって難しい顔をしていた。「蒲公英、どこほっつき歩いてたんだ。 訓練も無視して」「ごめんお姉さま。 一刀が強引に私を拉致して……下着とか」「ちょっと待て、それは違うから!」「……お前……」「それより、お姉さま。 どうしたのよこれ……」「っ、休から聞かなかったのか?」「聞いたけど……」「見てのとおりだ。 食事に毒が盛られてた、それだけさ」蒲公英の性質の悪い冗談に反論する隙間すらなく、一刀の声は空しく響いて遮られてしまった。こんな時に頼むから止めてくれ、と一刀は思ったが、馬超の鋭い声に意識を切り替える。蒲公英の事は後にして、今はこの状況の方が先である。「ちょっといいかな。 ここに集められているってことは、目処がついてるってこと?」「はい、ついてます」荀攸の声に、全員の視線が向く。現在はまだ夕陽も出ておらず、これからの時間帯となっていて夕食を取るには些か早い時間帯である。厨房で作られたばかりの料理も数は多くなく、配膳された者はこの場所に居る者で全てだそうだ。韓遂やその供回りが食事を行ったのはつい先ほどである。つまり、料理に毒を盛るには作られた時か作った後でしか有り得ない筈で、厨房と食堂に居ない人間は犯行を行えない、という話であった。このことから、食堂と厨房に顔を出していない一刀と馬家は対象から外れることになる。華佗も、急患で倒れた韓遂達の手当ての為に呼ばれたので、犯人ではない。「残るは厨房に居た調理人の方数名、食事を取っていた韓遂殿とそのお供。 食堂に訪れた耿鄙殿達。 そして、私……荀公達が料理に毒を盛った犯人の候補となりますね」「……笑えないね……私もかい……?」若干喉に引っかかるような掠れた声で抗議したのは、服毒しただろう韓遂であった。彼女の言い分も尤もだろう。華佗のおかげか、それとも料理に含まれた毒が致死量でなかったのかは分からないが被害者である彼女の言い分は最もである。誰が好き好んで毒入りの食事をしようというのか。一刀は韓遂から視線を調理人の方へと向けた。或いは彼らが、とも思ったが動機がないはずである。少なくとも、自身が仕える身内を手に掛けることは早々無いはずだ。「それで、どうするのお姉さま?」「荀攸殿……これは家の信用問題にも関わる。 力を貸してくれないか?」「そうですね……持ち物を洗ってみましょうか。 誰も外には出ていませんから、使用した毒物を持っているかもしれません」「……よし、それでいこう。 皆、異論はねぇよな」馬超の声に、全員がゆっくりと頷く。いや、体調故だろうが韓遂だけはその場で小さく呼吸を繰り返して俯いていた。また、候補からは外されていたが一応ということで一刀や馬岱も持ち物の検査を受けることになった。調理人達の持ち物を馬超が確認し終わると、一刀の元に近づいた。馬超の手が伸びてボディチェックのように全身をまさぐり、異物がないかを確かめる。一瞬、一刀は彼女に感情のスイッチが入ってしまわないか心配したが、特に表情に変化は見当たらず別の意味でほっとしてしまった。それはともかく、一刀がもともと持っている物など殆どない。買い物して蒲公英に持たされている下着が4着だけである。後は胃の中に入っているので、簡単に一刀の持ち物検査は終わった。下着が出てきた時だけは、馬超に思い切りガンを飛ばされたが、とりあえず今は無視である。「耿鄙殿、よろしいか」「構わない」未だ辛そうな様子を見せる韓遂を後にして、馬超は耿鄙に声を掛ける。立場上、中央からの使者である耿鄙は馬家の客人である。本来ならばこれで耿鄙やその供回りから物証が出なければ、失礼千万と侮辱されてもおかしくない。何度か馬超が耿鄙の身体や持ち物を調べていく。二度、持ち物と耿鄙の衣服を往復したところで馬超の手が止まった。「……」「何か?」「耿鄙殿、これは何でしょう」「……何だ、それは?」布袋だろうか。使者が持ち運ぶのに良く使われる桐で出来た箱の中から、小さな布袋を取り出して馬超が耿鄙へ振り向いた。帰ってきたのは耿鄙の疑問の声。馬超はそんな耿鄙の声には答えず、布袋の中身を取り出すと、赤黒い粉末が入った小さな瓶が現れる。「私はそんなものは知らない……」「耿鄙殿の持ち物から出てきたのだが……華佗殿、確かめてくれ」「……ああ」呼ばれた華佗が手当てを中断して、馬超から瓶を受け取ると中身を手のひらに乗せて取り出した。すると、彼は信じられないことに取り出した粉末を舌で舐め取った。一刀はおろか、隣に居る蒲公英や馬超も驚いて息を呑む。華佗は検分が終わったのか、瓶に蓋をして顔をあげた。周囲を見回して、小さく息を吐いてから呟くように口を開いた。「毒だ」「馬鹿なっ!」「……こ、耿鄙様……」「耿鄙さん……」「どういうつもりだ」華佗の声に衝撃を受けたのは、耿鄙本人や供回りの文官達もそうであったが一刀も同様だった。あの夜、自分を誘ってくれた耿鄙が、毒を盛るなどという後先の無い行為をするとは思えなかったのである。だが、事実は耿鄙が完全に犯人だと物証を持って証明している。華佗が人体に無害な物を有害だと見誤ることはありえない。それは、一刀が華佗の腕を信頼しているだけではなく、今までに見て来た毒の治療や怪我の治療そして、華佗の医者としての有能さを誰よりも知っているからだ。「耿鄙殿、これは、どういうつもりか」馬超の冷たい声が室内に響く。未だ呆然としている様子で、口を半開きにしながら視線を迷わせる耿鄙から声は無かった。一刀は沈黙が続く中、馬超の拳が強く握られて震えているのに気がついた。『やばいっ!』『なんだ!?』「え?」瞬間、一刀の身体は泳いだ。いや、泳いだというよりも、弾けたという方が正しい。壁に立てかけられた装飾品だろう、槍のような戟のような木製の棒を手に取って一刀は馬超と耿鄙の間に割って入っていた。腕に、重たい衝撃が走って肘の辺りから痺れるような痛みが一刀に走る。あまりに突飛な“自分自身”の行動に気がついた時には、一刀の目の前に己の武器を振り落としていた馬超の姿が視界に映った。「ぐっ……」「邪魔をするなっ! ぶっ飛ばしてやるっ!」「お、落ち着けっ! 姉者!」「ね、お姉さま待ってっ!」「どけぇぇっ! よくも鉄を―――っ!」一刀の行動が切っ掛けとなったか、馬超の暴挙に馬休と馬岱が飛び込んで彼女の体を押さえつけた。が、馬超の憤怒は収まらないのか、馬休と馬岱を引き摺るように、一刀と耿鄙の方へ近づいてくる。その勢いは、まさに怒髪天を突くと言ったところか。目の前で怒りに顔を歪ませ、鬼気迫る表情を見せる馬超に、一刀は思わず腰を引いた。一歩引いた一刀の横を滑る様に、耿鄙へと馬超の戟が伸びてくる。一刀がしまった、と思った時にはもう、手遅れであった。そして、室内に金属の残響音が響いた。打ち鳴らされたのは馬超の戟と、金属製の鍋であった。その轟音が、若干馬超の理性を取り戻す事に成功したのだろう。間近で聞いたせいか、僅かに顔を顰めて鍋が飛んできた方向へ馬超が視線を送ると、其処には華佗の姿があった。「医者の目の前で怪我人を作らないで欲しい、馬超殿。 それに、ここには患者も居る。 静かにしてくれ」「っ……華佗、殿…」「俺は医者だ。 まだその戟を振り回すなら、相応の対応をすることになる」「馬超さん……華佗の言う通りだ、少し頭を冷やした方が良い」「くそっ!」恐らく納得はしていないだろう。この激情が、今の言葉で収まるはずがないのだ。それでも、彼女は矛を収めて床に八つ当たりするだけに留まった。きっと、華佗の言葉は、そして一刀の言葉は彼女には届かなかったが、少しだけ冷静にさせることには成功したのだ。耿鄙は中央から正式な手続きを踏んで、馬家へと訪れた。漢王朝からの使者なのだ。その使者をどんな理由であれ、問答無用に切り捨てたとなれば流石に王朝も黙っては居られないはずだ。馬家そのものが漢王朝から朝敵扱いされることも十分に有りえる。それを思い出したのだ。馬超はやり場の無くなった怒りからか、周囲を見回してから悪態を一つつくと、大きな足取りで食堂から出て行ってしまった。一刀はそれを見届けて、ようやく即席の武器を下ろすと忘れていた呼吸を繰り返す。両手で握っていた武器は、半ばまで圧し折られていた事にその時になって気付く。「……はぁっ……はぁっ」「一刀……」「はぁっ……っ、馬休さん……」「すまぬ、礼を言う。 よく姉者を止めてくれた」「いや……それは……それより、耿鄙さんの……」「ああ……耿鄙殿、すまないが部屋には監視を付けさせてもらう。 許可があるまで、自室から出る事は辞めてもらおう」「そうだね、休ちゃんの言うところが妥当かな」耿鄙は一連の流れから―――特に、馬超の戟が自身の身に迫った事から―――荒く息を吐き出していたが蒲公英と馬休の話は聞こえていたようで、力弱く頷くと供回りの文官と馬休に連れられる形で食堂を退室した。やや、呆然とした面持ちでそれを見送った一刀に、一人の少女が傍による。荀攸だった。「一刀様、夜に私の部屋に来てもらえますか」「え……あ、ああ……」「確信に至りましたので」荀攸の声に、一刀は身を震わせて体ごと彼女に振り向いた。人差し指を立てて、自分の顔の前に持ってきている荀攸に、寸でのところで一刀は口を噤む事に成功する。その後、一刀は華佗と共に介抱を手伝い、食事を済ませると自室をひっそりと出た。残念ながら、服毒したうち、数名の者は致死量を越えて摂取したせいか命を落とすことになってしまった。 ■ 先を見据えての覚悟「ごめん、失礼するよ」「あ、案外早かったですね。 ……どうぞ」「ありがとう」木製の扉を二度叩いて、一刀が声を掛けると殆ど間を置かずに扉が開かれる。風呂に入ったのだろうか。出迎えてくれた荀攸は濡れそぼった髪降ろして、布を肩にかけていた。女性特有の、甘い香りが一刀の鼻腔をくすぐる。「お茶でよろしいですか?」「あ、うん。 お願いするよ」「はい」荀攸の部屋、と言っても馬家に用意された客室ではあるが、中に入って眼を惹くのは執務用の机や竹簡が散らばっているところだった。普段から馬家の内政に携わっているのは知っていたし、一刀も一緒にお手伝いをしているのだがまさか自室にまで持ち込んでいるとは思っても居なかった。他にはプライベートの物だろうか。寝具の隣に取り付けられた小さな卓に、照明用の燭台、紙や硯が置かれていた。そして寝具にばら撒かれているのは衣類だろうか。箪笥のような家具はあるのだが、乱雑に―――まるで脱いだばかりのような―――服や下着がほっぽってある。一刀が持っている彼女のイメージとはややかけ離れた光景に、思わず凝視してしまった。「あの、すみません、余り見ないで頂きたいのですが……」「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」「ちょっと片付ける時間が無かったんです……こちらにどうぞ」「別に気にしてないから、あ、お茶ありがとう」一刀は薦められた椅子に腰を落ち着けると、淹れたばかりのお盆に載せられたお茶を手に取って視線を部屋の風景から荀攸へと移した。同じように対面に座り込むと、一つ息を吐いてから口を開く。「今日お呼びしたのは―――」「あ、荀攸さん。 その前に、俺も少し考えてみたんだけど……」一刀は荀攸の声を遮った。食堂で部屋に呼ばれた時は直前に聞いた自身の噂の事や、馬超の凶行に動揺が激しくとても冷静ではいられなかったが、時間が経つにつれて今回起きた件について疑問が沸いてきたのだ。それは脳内との相談の上ではっきりと自覚できて、ちょうど良いので荀攸にも意見を尋ねることにしたのである。涼州の反乱に加担しているという噂のこと。反乱の首魁とされている韓遂が行ったのではないかということ。そして、先の毒の一件。「ただ……不可解なのは、韓遂さんがどうして被害者になったのかと言うところなんだけど」この事から、本体と脳内が導き出した答えは、毒の一件は韓遂の仕業ではないという結論だ。実際に彼女の供回りは毒を摂取して死に至っている。あの後に華佗を手伝って救護していた一刀は、苦しげに呻く韓遂の容態も見ていた。正直、演技だとはとても思えない。かといって、毒を盛った犯人が耿鄙だというのもどうにも胡散臭い。そもそも中央から馬家に使者として訪れた耿鄙が、あの場で毒を盛ることに何のメリットがあろうか。自分の立場を悪くするだけだ。ならば犯人は誰なのかと言われても、一刀も分からないのだが。まぁ何にせよ、一刀自身にとって重要なのは『毒』の事ではなく『うわさ』をどう扱うかの一点だ。自分の考えを一頻り喋って、一刀は意見を求めた。黙って聞いていた荀攸は卓上に視線を落として、口を開いた。「……今日、一刀様を呼んだのは、その事を含めてこれから先の事をお話し出来るのが今しかないと思ったからです」「ああ……そういえば、確信に至ったって、何がなんだ?」彼女は視線を落としたまま、一刀に表情を見せず無機質な声を響かせる。「これから先、恐らく涼州の反乱軍が動きます」「え?」「そして、そこには居ないはずの一刀様の部隊が、朝廷軍と激突するでしょう」「は? な、何を……」「噂は布石に過ぎません。 近く、決定打となる事実を用意すると、そう言っているんです」この噂が広がっている現状で、無い筈の一刀の部隊が用意されてしまい、反乱軍に参加するということ。それは、表舞台に立つことの出来ない一刀にとっては最悪のシナリオの一つであった。狼狽も露に、僅かに腰を浮かせた一刀に荀攸がなおも告げる。「それと、噂を広めたのは一刀様が言う様に韓遂殿に違いないでしょう。 天代が洛陽から追い出されたという事実を、馬騰殿の友人である韓遂殿はこの武威の地で知った筈ですから。 中立の馬家を巻き込むついでに、一刀様の名声も利用しようと考えるのは不自然ではないです」「そ、そんな……また知らない間にこんな事……」「韓遂殿は大きな局面で絵図を書いていますよ、一刀様。 先の毒の一件も含めて」「……じゃあ、あれは……」「馬騰殿が倒れたのはもともとの症状が原因なのか、それとも一計を案じたのかは分かりません。 しかし、馬家を率いることになった馬超殿は利用されたのは間違いありません。 今、彼女は“朝廷の使者”の耿鄙殿に怒りの矛先が向いています」淡々と確信している推測を告げる荀攸の声に、浮かした腰を降ろして手を口元に寄せる一刀。一刀の胸中は、今日一日で何度目かになるざわつきを見せていた。目の前の、三国志という舞台の中でも有名な知者である少女の言っている事が、間違っている可能性もあるだろう。三国志という歴史の中に立って、大体の事件や経緯を大まかにとはいえ知っている一刀でもこの大陸で過ごす日々は、予測のつかない体験の連続であった。「……荀攸さん、教えてくれ。 この先、俺はどうすればいいんだ」「これから先―――」―――・―――月明かりが中空に浮いて、荒野を優しく照らしていた。その荒野に、整然と並ぶ人馬の列。それは、夜であることを差し引いても先の見えぬ軍勢となって、容易に万を越える人数であることが分かるだろう。中央に翻る旗の色は橙。文字は『辺』と『韓』二つの旗のやや前方に、月明かりだけでも目立つ一つの赤い部隊が異彩を放っていた。まるで橙色の軍勢に迷い込んだように、ぽっつりとそこだけが異色を放っている。騎馬と歩兵で編成されたソレは、真っ白な旗を立てて存在していた。旗印は『天』最上の者であるという意味を持つ、この旗は漢王朝に籍を置く将兵達に大きな衝撃を与えることだろう。彼らが見れば、怒り狂って突撃してきてもおかしくはない。漢王朝打倒を掲げる反乱軍の、大きな大きな挑発である。「―――辺章様、準備が整いました」「よし……良いか」「はっ!」「出るぞ!」そして、この挑発にはもう一つの意図が隠されている。この場に居ない盟友が伝えてくれた、間接的な援護が先ほど述べた部隊の存在であった。辺章はどういう意図があって、あのような特殊な部隊を用意するように頼んできたのかは分からない。しかし、彼が一つ確実に分かっていることは、盟友の韓遂は自分よりも遥かに頭が良い知者であるということだ。何の意味もなく、余計な手間隙をかけて頼みごとをするような女ではないのだ。あの部隊の存在が、漢王朝の軍に大きな混乱を齎すだろうと、彼女は言った。その混乱を利用して、この涼州に立ち上がった反乱軍が勝ち鬨を挙げるだろうと教えてくれた。「長安、ぶち抜く!」短く、しかし力強く宣言した辺章の声に反乱軍がゆっくりと、まるで何かの生き物かのようにゆっくりとその足を長安に向けて動き始める。ここから長安までは徒歩でも3日。ここまでの行軍で長安に接近していることは既に知れ渡っているだろう。はっきりと近づく戦の時に、辺章は大きく息をついて胸の高鳴りを吐き出していた。―――・「―――これから先、私が今から言う通りに動いてください、一刀様」「言う通りに?」「韓遂殿の描いた絵図は読み切りました。 手の内を読みきった盤の戦いほど、簡単な物はありません」「荀攸さん……」常とは違う、覇気のような物にあてられて、一刀は思わず彼女の名を呟いた。それまで俯いていた荀攸の顔が上がり、一刀を見据える。そして、彼女は一刀が怯むほど綺麗な笑みを浮かべて笑った。「韓遂殿に感謝しましょう、一刀様。 せっかく用意してくれたこの陰謀。 一刀様が漢に戻る一助としてちゃんと利用しなくてはなりません」一刀が荀攸に呼ばれたのは、韓遂が自ら服毒して動けないこの夜だからこそであった。読み切ったと断言した彼女の言葉を、一刀は胸に刻みつけて。先を見据えた覚悟を、一刀は決める事になった。それは今までの知識に頼ったおぼろげな物ではなく、本当の意味で先を知らされて覚悟を決める日となったのである。撹乱と騒乱の日々が『これから先』に待ち受けることを、知ったのだった。 ■ 外史終了 ■