■ 華佗は見た大きな部屋の中央に、煌びやかとまでは行かないまでも、立派な天蓋を備え付けた寝具の前で華佗は椅子と座卓の上に置いた道具を、腕を組んで眺めていた。その表情は非常に堅い。華佗の目の前で、ゆっくりと呼吸を繰り返し胸を上下させるのは、妙齢の女性―――馬騰だ。意識不明になってからしばらく立つ彼女の容態を、華佗は付っきりで診ていた。巷で天医と呼ばれることに、慢心をしているつもりは無い。自ら処置を施した患者が亡くなってしまうことも、数多くある。亡くなった者の大半は取り返しの付かない程の重篤な病を患った、いわゆる末期症状の患者や致命傷を負ってしまい、臓物そのものが欠損してしまった重傷者がほとんどだ。だが、だからこそ華佗は自分が万人を救える医者であるとは妄信していない。その境地に至ることこそが理想とはいえ、人たる身である自分の限界も分かっていた。何より、その地、その場所に居る者を診る事しか華佗には出来ないことも。ただ、そういった華佗が診ても亡くなってしまう者と比べるには馬騰の容態は些か特殊だった。蔓延る病魔には同調した気を直接あてて流し込み、適した薬を調合し水に含ませて飲ませていた。その処置で、馬騰の病は回復に向かったはずだった。昏倒した直後に診ることが出来たこともあり、華佗も自信を持って回復すると宣言できた。が、実のところはどうだ。馬騰は眼を覚ます様子もなく、それどころか治療を施した患部とはまったく別の場所に新たな病魔が蔓延る始末。挙句、数日に一度呼吸が荒くなり、多量の発汗が見られるようになった。華佗が治療を行うと、確かに症状は軽くなるのだが、馬騰の容態は日を置かず悪化していくのである。そうした現実が、華佗の胸中に鬱憤を溜めさせていた。知らず、手の内にある針が握り締められ、僅かに軋みの音を室内に響かせた。「くそっ……」一つ悪態をついた華佗の耳朶に、木の擦れあう音が響いてくる。この扉を開けることが出来る者は指で数えるに足りる。華佗が振り向いた先には、馬超が居た。「華佗殿……母上の容態は?」「……手は尽くしている」「そうか……」短い会話を交わして、馬超は華佗の隣まで来ると寝台に腰掛けて馬騰の顔を眺め始めた。そんな馬超から視線を外し、華佗は天井を見上げて思う。思い返すのは夕刻、馬超に呼ばれて検分に向かった毒の一件。毒の種類としては即効性で多量に身体に含んだ際に致死に至る物であった。この一件では2名の死亡者が出て、どちらも韓遂の供回りの者だった。もし、もう少し速ければ―――もう少し自分に力があれば―――救えたかも知れない二人の男性の顔が脳裏に過ぎる。「……」「……」栓の無いこととはいえ、もし、たら、ればが心の中を締めてしまう。このまま目の前で寝息を立てる馬騰も、もしかしたら。そこまで考えて、すくりと立ち上がる。華佗は自分の考えが沈んでいることに気が付き、二度首を振った。ここ最近、思うように治療が進まずに気持ちが前を向いていない。そんな華佗に、馬超が口を開いた。「華佗殿、母上は良くなるのか?」「……この前説明したとおりだ。 病魔を取り払っても、新たな病巣が生み出されて馬騰殿の身体を冒している。 根源と為る病魔を探し出さない限り、この病は治らないと俺は考えている」「……華佗殿の正義はぶれないんだな」「?」「なんでもない、忘れてくれ……出来れば母上と二人になりたいのだが、許可はおりるだろうか?」華佗は馬騰から眼を逸らさずに要求してきた馬超を見やった。彼女が倒れてから、馬超は身を粉にして馬家を取り仕切っていたのを華佗は知っている。強壮剤を作るように頼まれて、彼女に手渡した事はまだ記憶に新しい。疲労が濃くなっていく顔色に、心配したのも何度か在った。ただ、今の馬超の横顔は確かに疲労も見えるが、それ以上に踏み込みがたい何かの意志が感じ取れた。馬騰の治療は夜を徹して行う予定だったが、華佗は馬超の様子を見て静かに息を吐いて口を開いた。「少し、散歩でもしようと思っていたんだ」呟くと、華佗はそのまま馬騰の寝室を後にして城中の中でも一際大きな広間に向かう。ここからはちょっとした中庭へと繋がっており、城内で働く者の憩いの場としても利用されていた。中庭に出ると、華佗は空を見上げた。残念ながら月は雲にかかりおぼろげで、霞んでいた。その時だった。華佗から見てちょうど真正面。客人を迎える為に用意された部屋の中から、今日一日は必ず安静を取るように言い付けた韓遂の姿が現れたのは。目ざとく韓遂を発見した華佗は、一つ注意をしておこうと一歩踏み出して、止まった。その原因は、彼女の声が華佗の耳朶に響いたからである。「いいかい、自分の身の振り方を良く考えておくんだね」「……」常とは違う、底冷えのする声に華佗は思わず息を殺して韓遂の姿を追う。扉越しに会話を交わしているのは、顔の半分を布で覆った小柄な者だった。「……あれは、耿鄙殿か……それに見張っている者が……」華佗は韓遂と耿鄙の会話そのものよりも、別の事が気になった。毒の一件で馬家から軟禁されている耿鄙は、部屋から妄りに出ない様、監視しているはずの兵士が付けられている。その兵の顔が、華佗には見覚えのあるものであった。夕刻、服毒した為に治療を行った韓遂の傍付きだったのだ。馬家の兵は一体何処に行ってしまったのだろうか。やがて二人の会話は終わったのか、扉を閉めて室内に戻る耿鄙と、宛がわれただろう自身の部屋に戻る韓遂を見送って華佗は殺した息を吐き出した。しばし、今の一連の流れについて考えに耽っていたが、華佗は自らの本分を優先した。すなわち、考える事は後にして、韓遂へ安静にしていろと注意をしに行くことにしたのである。姿を消した韓遂の部屋に歩を進め、ある一室を通過した直後だった。まるでおぞましい者に出会ったかのような悲鳴が、通り過ぎた部屋の中から響き渡ったのである。「ぅわああああああああっっっっ!」華佗は振り返り、気が付けば飛び込むように悲鳴の聞こえた室内に踏み込んでいた。悲鳴を挙げた人物が、華佗の良く知る者だったからである。「一刀っ、どうした―――」 ■ 抉られた闇荀攸の部屋を出た一刀は、まっすぐに自身の部屋へ戻ると聞かされたばかりの今後について何時もどおりと言えば何時もどおりの自分会議を行っていた。馬岱との慣れない女性下着の買い物、突然の毒の一件に馬超の一撃。そして、最後の最後に荀攸の話である。よほど疲れていたのだろう。脳内の一刀達が話をしている最中にも、時折首を揺らして船を漕ぐほどだった。ただ、要所ではしっかりと反応を返していたので、適当に返事をしていたわけでは無さそうだった。こうした部分でしか脳内の一刀達は手を出す事が出来ないことを、本体もしっかり分かっているというの在るのだろう。限界を迎えて、寝具に飛び込んだ本体は、間を置かず寝息を立てることになった。本体が眠ることになってからも、脳内の一刀達はしばらく今後について予測や推測、意見交換を交わしていたがやがて一人、また一人と自分の考えに耽り始めたのか、或いは自らも休憩として意識を落とし始めたのか。会話は徐々に少なくなって、やがて黙した。そうしてどれほど時間が経ったか分からぬ頃。“無の”は口を開いた。『居るか、“肉の”』『……どうしたの?』『少し聞きたいことがあってな』“無の”は確認するようにそこで一つ、会話を切った。誰かがこの話に参加するような気配は無く、誰もが沈黙を保っていた。十分な間を置いて、“無の”は尋ねる。『“肉の”、誰か聞いているか?』『秘密の話?』『出来ればな』『多分、皆落ちてるんじゃないかな。 それより、どうしたのさ』『率直に聞くよ。 なぁ“肉の”。 お前は“北郷一刀”なのか?』『……どういう意味?』『そのまんまの意味だよ……最初は気にしてなかったけど、最近になって思う事があるんだ。 本体含めて、俺達は全員がそれぞれの外史を歩んできた“北郷一刀”なことは、今まで付き合ってきて認めてる。 俺以外の俺も、きっとそうだ』『……疑ってるのか?』『……うん、疑ってる。 “肉の”。 この際だから聞いておくけど、お前は……お前は、貂蝉なんじゃないか?』この疑いは、実際のところ“無の”は当初から抱いていた。“無の”自身もそうであるように、現代人として過ごしてきた北郷一刀にとって、迷い込んでしまった“外史”の中で生き残っていく事は、尋常ならざる苦労をしてきたのである。“無の”も、愛紗や鈴々と言った愛する人を初めとして、どれだけ多くの人に教わり、助けられて命を繋いできたのか。話を聞けば、同じ北郷一刀である全員が多かれ少なかれ、似たような苦労を背負って駆け抜けていた。脳内の自分自身が敵対した時全員が、その圧倒的な存在に苦悩を抱いた覇王のもとで、自らを認めさせた“魏の”身内に信頼を向ける傾向にある江南の地で、努力を続けて信を勝ち取った“呉の”“無の”自身、似たような経緯を辿って多くの共通点を見出せる“蜀の”スタートラインから、頼るものがまったく無かった中で生き抜いた“南の”支えられてきたから分かる、優れた知と勇を持つ趙雲が出奔した後に白蓮に拾われた“白の”『そして……俺達が本体の中に居るこの外史の中で、“肉の”……お前だけ、北郷一刀からかけ離れすぎてるじゃないか』『……』『生き残る為に、死なないために、自ら武器を持って馬に跨って、戦いに明け暮れた“馬の”や“白の”だって 武将としてみれば愛紗や鈴々とは比べるべくもない。 いくら気の扱いに長けてるからって、俺は“肉の”のように強くなれる自分が想像できないよ』『……“無の”』『もし!』“無の”は、短く言葉を発した“肉の”を遮って強い言葉を投げかけた。それは、強い力が篭っているのが“肉の”にはしっかりと感じ取れた。この話の中で、“無の”が伝えたかった物。それを感じ取れてしまい、“肉の”は口を噤む。『もし……なぁ、もし、お前が貂蝉なら教えてくれ! 俺は―――いや、俺達はどうして本体の外史の中に紛れ込んだんだ? 俺達は、いつまでこの場所に居なくちゃいけないんだ?』それは本当にただ、何故なのかを問う物であった。この“無の”の言葉は同じ北郷一刀とはいえ、“無の”はもとより脳内の誰もが本体の中で抱いた根本的な疑問である。別に本体の中に居る事が不満なわけではない。いや、まったく無いという訳ではないが、この外史に降りてから長い間、自分自身と付き合ってきた事で自分の心中に納得できる形にはなってきている。何よりも、自分はもう自身の駆け抜けた外史に戻れない。そんな予感は殆ど確信となって“無の”の内心にこびり付いているのだ。きっと、脳内に居る全員が同じことを思っている。だからこそだ。本体の中に居れば、本体を通して自分の愛する人をその目で見て触ることが。本体を通じて自分を感じることが出来てしまうから。“北郷一刀”は本体の中にしがみついているのでは無いのか。そう考えが及ぶと“無の”は今の本体に罪悪感を抱かずには居られない。可能性の話になってしまうが、本体にはもっと望まれた外史があったんじゃないかと思ってしまうのである。『……そう問い詰めるなよ、“無の”』『“白の”……起きていたのか』『考え事をしていたら聞こえてきたんだ……混ざるつもりは無かったんだが』『そっか。 それで“白の”も“無の”と同じなのかな?』『……可能性はあると思っているよ。 こんな特殊な状況、奴が関わっていないと言われる方が信じられない』『“白の”は貂蝉と……?』『ああ、知り合い……というか、まぁ良くしてくれたよ。 貂蝉が居なかったら、もっと速く俺は脱落していたと思う』『……そうなんだ』『二人共、俺は“北郷一刀”だ。 信じてもらえないかもしれないけど……いや、最初からきっと信じていなかったかもしれないけど。 それでも、俺は君たちと変わらずに外史に落ちた“北郷一刀”なのは間違いない』『……そう、か……』『そうか』気落ちした様子で口を開く“無の”と、対照的に一つ頷くだけに留めた“白の”それは“無の”が期待していた答えでは無かった。貂蝉であると、言って欲しかった―――それが本音だ。外史について彼……いや、彼女ほど詳しい人物を一刀は知らない。現状。特に、黄巾の乱が一応とはいえ落ち着き始めてこれから先。激動する乱世の時代を迎えることを身を持って体験しているからこそ、自分の状況をハッキリとさせたかったのだ。『そう落ち込むなよ、“無の”。 確かに俺達が本体に居る事になった理由は分からない。 でも、本体を支えたくないって訳じゃないんだろ』『ああ、それは……そうさ。 本体だって俺だし、“白の”も俺も、皆俺だ。 愛紗とも会えた。 そう……まるで夢の続きを見せて貰っている本体の力になることは吝かじゃない』『同感だよ。 そして俺達とは明らかに違う道を辿っている。 そう確信できる奴が居たら、そりゃ聞かずにはいられないって話だよな』『遠からず聞かれるんじゃないかって思ってはいたけどね……』『疑ってるわけじゃないさ。 でも、それでもやっぱり“肉の”自身が認めてるように、俺達とはちょっと違う北郷一刀だ。 だから、ハッキリさせよう』“白の”は“肉の”が北郷一刀だと認めた上で提案した。このわだかまりが、今後の本体の事に影響を与えないようにという配慮も当然あったがこれから先、何よりも“無の”がしっかりと納得できなくてはしこりが残るかも知れなかったからだ。『俺達は三国志を舞台にする外史に落ちて来た。 それまで、高校生として普通に過ごしてきた訳だが……』『……“白の”、まさか。 そうか……貂蝉でも俺の過ごしてきた世界の全部を知っているとは限らないよな……』『何でも良い、“肉の”自身が北郷一刀である思い出を教えてくれ』“白の”が提案したものは、北郷一刀の過ごしてきた人生の中でも自分だけしか知らぬ物を教えて欲しいという物だった。その容姿からして規格外である化け物……貂蝉であろうとも、現代で暮らす一刀の人生全てを把握できているとは思えない。現代生活の中での秘密を“肉の”が知っているのならば、北郷一刀だと納得せざるを得ないのだ。しばしの間、沈黙が流れていた。まるで話すことを躊躇うかのように。ある種、もったいぶっている様にも見え、“無の”が業を煮やして口を開きかけた頃。“肉の”は覚悟が決まったのか、溜息を吐き出すように言葉を発した。『螺旋の中で踊れ』『なっ!』『うっ!?』この何でもないような、意味の無い文脈に“白の”と“無の”は盛大に顔を引きつらせて呻いた。知っているからだ。誰にでもない、自分自身の中の苦い記憶として脳裏にこびり付いていたから。それはまだ、中学に上がって間もない頃の話。『無慈悲なる白銀に降り注ぐ流星の抱擁を右手に抱き』『ぐわあああっ!』“無の”が何かに耐えかねたかのように、苦しみの悲鳴をあげた。次に続いた一文も、良く覚えている。部活を始めたばかりで、一刀は後輩としての勤めとして早朝の誰も居ない剣道場で竹刀を取り出して……あの一件が脳裏を過ぎる。『な、なんだ!?』『どうした!』『今の悲鳴は!?』『昏倒の中で燃ゆる闇を我が左手に収め、シ・ツ・コ・ク・ノエンコンを飲み込め』『うわあああああっ!?』『な、な、何を、何を!?』『お、おい、何言ってんだやめろっ!』“無の”の悲鳴から、北郷一刀は次々に意識を立ち上げ、速攻で撃沈していく。誰も居ないからと、その時に嵌っていたゲームの影響で適当な詠唱をでっちあげて竹刀を振り回した、かつての自分が完全にイメージできている。振り切った平凡なる突打。それを密やかに覗く―――いや、見守ってくれていたこれからお世話になるだろう男女の集団。いわゆる、諸先輩方。部活の中でさんざんからかわれるネタとされ、そのおかげか部活内の空気にいち早く馴染むことが出来た一件だ。ヒュカッ、と情けない音が剣道場に鳴り響いて、一刀は打突した。一刀達がのた打ち回る中、“白の”の声が“肉の”に聞こえてきた気がした。『もういいっ“肉の”! 十分だっ! 分かっ―――』『魂魄に刻め―――闇光螺旋突(ダークライト・オブ・ドライブ・ストラッシュ)ッッ!』『うわああああああああああああああッッッッ』『ワアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ』『URYYYYYYYYYYYYYYyyyyyyyy』―――・「うわああああああっっっ!?」本体は、常では考えられない尋常さのカケラも無い寒気に襲われて体を跳ね上げ飛び起きた。蹲るようにして身を倒し、自分の身体をその両腕で抱く。体の震えが止まらない。何事が起きたのかと思って、切羽詰って室内に目線を飛ばすが視界にはまったく異常が無い。脳内は今も、声にならない悲鳴を挙げている。本体は突然の体の変調、脳内の異変に一気に混乱した。意味が判らないまま混乱した一刀の視界に飛び込んで来たのは、音々音を除けば一番長い付き合いになる友人の姿だった。「な、なにがっ!? なんだよっ、これっ!?」「一刀、どうしたっ―――っ!? こ、これはっ!」華佗が部屋に踏み込んで、身体を震わせて蹲る一刀を見たときの表情は驚愕という言葉が当てはまるだろう。眼を見開いて立ち止まり、そのまま凍り付いてしまった。見えるのだ。一刀の体の中でのた打ち回る、幾つもの気がまるで荒れ狂う黄河のように暴れまわっているのを。そもそも、気とは一人につき一つの気質を持つのが常識だ。これは大陸全ての人間に当てはまる事を、華佗は一刀と出会う前の旅の中で学んだ。複数の気を持ち、安定した状態を保つ一刀の存在は、華佗に少なからず衝撃を与えた物である。そう。華佗にとって一刀の存在とは、自身の常識をあっさりぶち壊した数少ない人間の一人であったのだ。当然、このように複数の気が暴れ狂う現象に立ち会った事など無い。「くそっ! 一刀、待っていろ! 今すぐ治療を行うからな!」「か、華佗……俺、わかんないけど、死にたいっ!」「馬鹿を言うな! 落ち着けっ!」華佗は焦った様子で一刀の眠る寝台に近づくと、すぐさま気を用いる治療に使う針を取り出して一刀に触れた。一刀の額にはびっしりと汗が張り付いて、震えが止まらない様子であった。触れた指先から、酷く体温が低下していることを華佗は知る。語りかける内容も要領を得ない。体内を荒れ狂う気は、まるで螺旋状に渦を巻いて一刀の内部を食い散らかしている。正確な数を把握することは出来ないが、少なくとも10に近い。まるで龍が龍の尾を追うように、一刀の中で気が渦を巻いて吹き荒れている。診断結果は言うまでも無い。即刻、この荒ぶる気を鎮めなければ命に関わる。華佗はそう判断した。この武威に来てから、馬騰も、韓遂の供回りも、救えない、救えていない。一刀まで可笑しな事になってしまった。友人を、人を救えずして何が医者か。 何がゴットヴェイドーかっ!助けてみせる! 必ず!華佗は溜まっていた鬱憤を吐き出すように、全神経を両腕に集中させた。「負けるっ……ものかぁぁっっ! うぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉっっっ!」「華佗っ、え? おおおぁぁぁぁぁっ、わああああぁぁぁぁっ!」一刀の肩を掴んで押し倒し、華佗は自身の限界まで気を練り上げて両手で針を持って振り上げた。その表情の、なんと鬼気迫ることかっ!あの温厚な華佗の顔が、まるで憎しみで人を殺せたらという羅刹の顔に染まっている!死ぬ……殺されるっ!一刀はこのとき、正常な判断が出来なかった。脳内を含めた自身の身に激流となって遅い掛かる震えと寒気、そして混乱に継ぐ混乱。動きを封じられ、太い針を天高く掲げて、今にも全力で振り落とそうとする華佗を見て完全に恐慌したのだ。なにより、視界に映った物がまずかった。眼を剥いて歯を食いしばる華佗の両手で握り締める針が、一刀にさえハッキリと視認できるほど金色に輝いていた。「元 気 に な ぁぁぁ れ ぇぇぇぇーーーーーーーっっっっ!」「ねねぇぇぇぇーーーーーーーーーーーっっっっっっっ!!」華佗の魂の一撃と言うべき一発は、愛する人の名を力の限り咆哮し、華佗から逃れようと身を捩った一刀の行動により目的の腹部を逸れて睾丸を直撃した。そして広がる、視界を埋め尽くす金色の光。一刀は埋め尽くされた金色の光の中、安らぎと悶絶を同時に感じて意識を落とした。華佗の気を限界まで練り上げて発生した光が徐々に薄れていく。当然、治療どころか人が生きる為に必要である気を全てを出し尽くした華佗も、一刀に折り重なるようにして倒れた。幸いというべきか。寝台の上で横たわる複雑な寝顔を浮かべる一刀と、何かをやり遂げた誇らしい表情で昏倒する華佗の姿を見るものは居なかった。―――室内に残るは、一人、華佗に打ち込まれた気を跳ね除ける事が出来た“肉の”だけ。『―――『突端』を開いたのは“無の”だったんだな。 すまない、俺は確かに隠し事をしているよ』波才と劇を合わせ、激突したあの時。張譲に追い詰められたその時。“肉の”が本体の身体を借りることは出来た。蹇碩の軍勢を一騎で駆け抜けた際には、“北郷一刀”の無謀さに出ざるを得なかったが。『貂蝉、俺はまだ諦めない……必ず繋げてみせるから』“肉の”は独白をそう締めくくって、意識を落とした。自分自身の闇を抉るのは、諸刃の剣だと考えながら。 ■ 知っている「ようやく起きたか、エロエロ魔人」「起き抜けに随分な挨拶だね……」「忙しい中、随分と待ったんだぞ。 これくらい言わないと割に合わないじゃないか」妙に吹っ切れた様子の顔をした華佗が目覚め、何故か礼を言われて馬騰の部屋に向かった頃。一刀も同様に、華佗から夜の出来事を大まかに教えてもらってふらつく頭を抑えて部屋を出ていた。何時もどおり起き抜けに水瓶で顔を洗い、ようやく覚醒して働き始めた脳を引っさげて内政のお手伝いをしようと執務室に入った直後、馬超から声がかかったのである。あの死にたくなるほどの寒気の原因はハッキリした。脳内の誰かが何故か自殺用の詠唱を始めたからである。なんだか、“白の”が珍しくおろおろした様子で説明のようなそうでない様な話を皆にしており、彼が第一容疑者に上がっていたけれど。何にせよ脳内の自分達も、本体である俺に影響がある事を忘れないで欲しいと強く願った。この願いは聞き入れられて、とりあえず再び己の闇は封印することになったが久しぶりに思い出してしまったせいか、今も胸中に妙な虚無感が広がっていた。「……北郷、少しこれから付き合ってくれないか」「あ、うん。 え?」「聞いてなかったのか。 ちょっと時間をくれって言ったんだ」「ああ、別に構わないけど。 何処に行くんだい?」「練兵場だ」馬超はそれだけ言うと、執務室から強い足取りで出て行った。一刀はそんな馬超に首を傾げたが、日々の内政から一時でも解放されることも含めて軽い気持ちで執務室を出て、馬超の足取りを追ったのであった。……練兵場について周囲をひとつ見回し、一刀は不信感を抱いた。誰も居ない。いや、馬超が奥の方でなにやら物騒な武器を携えて腕を組んでいるのは見えるが肝心の兵が何処にも見当たらなかった。練兵場の名に偽り有りである。「何入り口でぼうっとしてるんだ?」「あ、いや、想像していた光景と少し違ったから……今行くよ」この会話を経て、一刀は不信感に妙な確信を得た。あまり嬉しくない類の確信である。馬超との距離にして約5メートル程だろうか。それまで腕を組み動かなかった馬超が、手を前に翳して一刀を制止した。手には訓練に使っているのだろう、簡素な木剣が柄を一刀側に向けて差し出されている。一刀は悟った。「……母上に代わり馬家を取り仕切るようになってから、北郷の事は調べさせてもらった。 天代としての噂は知っていたけど、事実がどうなのかをな」「あ、ああ……」「洛陽に押し寄せた賊を策にて打ち破り、黄巾の大将をその手で下し、追放された際にはただの一騎で一万の兵の中を駆け抜けた……」なんだか兵数が水増しされていた気がしたが、どれも本当の事なので一刀は素直に頷いた。蒲公英のような―――例えば洛陽に居た頃に流れた幼女趣味云々の―――からかいが無い事はありがたいのだが勇猛で知られる西涼の雄、馬超からはただならぬ気迫を感じてしまう。別の意味で一刀は落ち着くことが出来なかった。「これを知った時、それほどの猛者ならば私は是非手合わせをしたいと思ったんだ」いや、結構。口に出して言えれば……いや、この言葉を受け入れてくれればどれだけ救われるか。馬超と同じように、三国志において所謂『強い武将』というものを一刀はこの世界で見て来た。夏候惇、華雄、孫堅、雪蓮、愛紗、鈴々、張遼、恋。実際にその武を目の前で見せ付けられると、ただただ感嘆の息を漏らすことしか出来ない。要するに何が言いたいかというと、彼女達とは武において次元が違うのを一刀は知っていた。目の前で試合したいと願った馬超も、先に並べた武将達と遜色の無い実力を持っていることだろう。このままではタコ殴りの憂き目にあってしまう。(誰か変わってください)『いや、まだだ。 “肉の”が居る』『まぁ、確かに“肉の”はおかしいからもしかしたら』『ごめん、俺はパス』『だ、そうだ。 本体頑張れ』(は、薄情者-っ!)一向に受け取らない一刀に焦れたのか、馬超は手首を返して木剣を揺らし受け取るよう催促する。朝っぱらからこんな事をお願いされるとは思ってもいなかった一刀である。覚悟の決まらない表情で恐る恐る木剣を受け取った。そんな一刀の様子からか、馬超はそこでふっと笑みを零した。「急だったのは悪いと思ってる。 それに、北郷はやっぱりあんまり強くなさそうだ」「はは、察してくれて嬉しいよ」「普通は侮辱だって怒るところだ、ちょっと情けないぞ」「まぁ退屈しないように頑張ってはみるさ」剣を持って相対すれば、相手の大まかな実力が分かる。強者になればなるほどそれは、実際の一騎打ちでの戦いにおいても重要なウエイトを占める物になるし実感できる物であった。今こうして相対している馬超は、調べた情報が全て嘘なのでは無いかと疑いたくなるほど一刀から強者であるとは感じ取れなかったのである。仮に全てが本当だとしても、それは“運”というものが絡んでいたのだろう。運も実力の内である。まぁ、こうして相対すると目の前の男はどれだけ幸運なのだろうかと、それすら馬超は疑ってしまいたくなったのだが。「……じゃあ、少し付き合ってくれ」「ああ、よろしく」訓練用の木剣が僅かに重なって、乾いた木の音を練兵場に響かせた。―――・どれだけ腕を振るっただろうか。もう時間の感覚も無い。最初の内は、馬超の鋭い攻撃に為すすべも無く防戦一方だった。手加減してくれているからこそ、何とか倒れずに踏ん張っていられたのが一刀自身良く分かった。が、何時の頃だろうか。馬超の剣閃に鋭さや怖さが無くなったのは。もちろん彼女が本気になれば瞬く間に冷たい床にキスをすることになるのだろう。しかし、手加減しているとはいえ馬超の攻撃がハッキリと捕らえられるようになった頃、一刀は思い切って反撃に出てみた。散発的な攻撃しかせず、守勢に回っていた一刀のこの反撃には、馬超も驚いた様子で蹈鞴を踏む。奇襲に近い反撃が急所どころか、しっかり木剣で一刀の攻勢を弾き返す当たりは流石であった。長期戦となりはじめ、もともとの体力が違うせいか体の重さを感じた一刀はローテーションを使い始めて対抗した。振るい、弾く。かわし、突く。休憩すら取らずに二人はまるで、予め決めておいたかのように剣戟を交わし続けていたが“馬の”の声が飛んできて、僅かに一刀は集中を逸らした。『……なぁ』(なに?)『もう終わりにしよう』「え?」「―――あっ!」突如として動きの変わった一刀の一撃に、馬超は咄嗟に反応したが遂に弾く事適わず。一刀が素早く突き入れた打突が、馬超の腹部……鳩尾近くを強打して彼女は持っていた木剣を落とし蹲った。両手で腹を押さえ、短く咳き込みながら恨めしそうな視線を一刀へ向ける。そんな無言の抗議を視線で受けた“馬の”は、手に持っていた木剣を床へと放り投げた。カラリと、乾いた音を立てて馬超の近くまで転がっていく。「……俺の勝ちだね」「ケホッ―――っ、ず、ずるいぞ!」「試合中に上の空だったすぃー……馬超が悪い」慌てて言い直した“馬の”であったが、馬超から向けられる視線は恨めしそうな物から更に危険な角度へと眦が上がっていた。冷や汗を垂らし、言い繕おうと口を開きかけた処で“馬の”の意識が堕ちる。身体に返ってきたのは本体である。「今、お前、私の真名を……」「イッテナイヨ」「いいや、確かに聞こえた!」「上の空だったしぃーって言ったんだよ」「北郷、お前、私の事を馬鹿にしてるだろ?」ようやく腹部の痛みも和らいだのか。馬超は木剣を握り締めながら立ち上がって一刀へと近づいていく。。なんかミシミシと手に握られていた木剣から音が出ていた。どんどん危険な角度に眉が釣りあがっていく馬超を見て、一刀は観念したように両手を挙げて頭を下げた。「悪い……つい出ちゃったんだ、ごめん」「やっぱり言ったんだな。 他人の真名を勝手に呼ぶなんて、最低だ」「う……すまない」「そう思うなら、一発くらいは覚悟してるんだろうな」威圧するような馬超の声に、一刀は半歩後退しながらも頷いた。言ってしまったのは“馬の”であるが、彼がついつい真名を呼んでしまったのは事故に近い。それはそう、この世界に降り立ったばかりに失敗してしまった“魏の”の様に普段から呼び慣れた名を呼んでしまうのは仕方の無い物があるのだ。例えば、昔飼っていた犬の名前を、ついつい今飼っている犬の名前と呼び間違えてしまうものに通じる物があるだろう。まぁ、呼ぶ相手は人なので、犬と比べる事は出来ないが。とにかく“馬の”の失敗は北郷一刀の失敗である。少なくとも、目の前の馬超からすればそうだ。一刀は目を瞑り、背筋を伸ばして馬超の前に潔く立った。「言い繕った割には素直だな」「全面的に俺が悪い事は認めてる。 これで許してくれるなら安いもんさ」「本気でいくからな、この、馬鹿ッッ!」練兵場に肌を叩く乾いた音が残響を残すほど響き渡った。左頬を打ち抜いた馬超の平手が、倒れこむ一刀の視界に一瞬だけ映り込む。尻餅をついて倒れた一刀は、明滅する視界とじんわりと熱を持ち始めた頬に手を当てて短く呻いた。めちゃくちゃ痛い。そんな無様な一刀の姿を見やり、馬超は小さく息を吐いた。「今回だけはこれで許す、次やったら承知しないぞ」「っ~~、分かってるよ」「ふんっ……付きあわせて悪かったな。 あたしはもう行くから、ありがと」床に転がっている木剣を拾い道具を片付けながら、一刀の横を抜けて入り口へと向かう。一刀はへたりこんだまま、左頬を押さえて床を見つめていた。“馬の”が戻ってきた時は、そんな時だった。「……少しくらいは気は晴れたのか?」ぴたり、と一刀の声に足を止める。「自分を卑下するわけじゃないけど、俺なんかの一撃が入るくらいだ。 何を悩んでるのか分からないけど俺の知ってる馬孟起らしくないんじゃないか」「っ……お、お前に何が分かるんだ。 知った風な口を利くなよ」言葉当たりは厳しいものだったが、声からは動揺の色が窺い知れた。大きな足音を響かせて、やがて遠ざかる。練兵場に残されて座っていた一刀は、ごろりと寝転がり天井を見上げ呟いた。「知ってるさ。 知らないわけ無いだろ……」『もう行っちゃったぞ“馬の”』「分かってるよ。 翠に聞こえたらもう一発いただくことになっちゃうからさ……ああ、一発と言えば、すまなかった本体」(いや、いいよ……気にしてないから)「ありがとう、恩に着る」やがて主導権が戻った本体は、大の字に寝転がる事を止めなかった。長時間の運動の後ということもあるのだろうが、なんとなく立つ気分になれなかったのである。一刀には“馬の”が思っているもどかしさの様な物がうっすらと理解できた。想っている人がすぐ手に届く距離に居るのに、触れられないもどかしさ。一方的に知っているだけで、相手にとったら馬家の逼迫する状況から牢を出すことになっただけの男である。この地で過ごす日々の中で、馬超の態度は一貫して冷たい物になっている。幸いなのは彼女の性格から、陰湿な物言いや部下を含めてのイジメなどが無いということだ。本体としては何とかしてあげたいとも思う。思うが、どうにもこうにもうまい切っ掛けが見つからないのも事実だ。しばし冷たい床の上で一刀は天井を見上げて、ぼんやりと考えに耽っていると聞こえてくる足音。首だけを持ち上げると、ひっくり返った視界の中で見覚えのある特徴的な顔が練兵場に入って来たことを認めた。「耿鄙さん……」「すいません、北郷様。 時間を戴いてもよろしいでしょうか」自然、見下ろす形になる耿鄙の顔が一刀の視界に映る。相変わらず布で右半分覆われているが、一刀は耿鄙の口元に薄っすらと色が付いているのに其処で初めて気がついた。あえて尋ねる必要も無かったので問わなかったが、もしかしたら耿鄙は女性なのかもしれない。声色が中性的であるため、判断がつかなかったのである。「ああ、良いよ……」「ありがとう御座います……本当は早く会って話したかったんですが、その……」「ああ、馬超さんとは顔を合わせづらいよな」「はい……」「とりあえず……場所を変えようか」―――・場所を中庭の庭園に移した一刀は、お天道様が空の真上に陣取っているのを見て、昼が近いことを察した。空を見上げてゆっくりと歩く一刀の背を、耿鄙は静かに後ろから付いてきていた。やがて、一際大きめな岩の前にさしかかり一刀は立ち止まった。耿鄙が自分の下を尋ねてきたのは、大体想像がつく。いや、想像というよりも荀攸の推測から“来るだろう”と知っていたからだが。昨日の今日だとは彼女も、もちろん一刀も思ってはいなかったが。「それで、話ってこの前の事でいいのかな?」「はい、本当はもっと時間を置いて、性急に決めてもらいたくは無かったのですが」「……監視の人は?」「すぐに戻ることを伝え、金銀でご納得して戴きました」確認するように尋ねた一刀は、返ってきた答えに小さく息を吐き出した。ゆっくりと一刀の考えを待つと言っていた耿鄙が、賄賂に頼ってまでこうして会いに来た。答えは決まっている。耿鄙を利用して王朝に害意を抱かせる韓遂の思惑に、どっぷり漬かってしまった耿鄙に着いて行く事は一刀の意志を無視して出来なくなってしまったのだ。荀攸からの推測が、こうして当たってしまったからには余計にそうであった。一刀の答えは、決まっていたがこれを口に出して言うには覚悟が決まっていない。何故ならば、この答えを返してしまえば、自分は耿鄙を―――『本体……』(ああ、昨日みんなで話した通りにだろ……でも)「こうして急になってしまった事は、申し訳ないと思います。 しかし、私にはもう、時間が無いのです……」「時間……どうしてそう思うんだ?」「それは……その……」一刀は見上げていた空から視線を落とし、耿鄙の顔を真正面に捉えて尋ねた。両の目で見つめられて、耿鄙はやや俯きながら心情を吐露した。「……この地を、早急に去りたいからです」「……身の危険を感じているんだね?」「はい」例の毒の一件があっても、事実を認めておらず馬家の中の立場として微妙な場所に居る耿鄙はこの武威の地に居る限り、昨夜の馬超のように暴走する者が居なければ100%とは言えないまでも安全であると言える。なにより、毒の一件があってなお、すぐに去ろうというのは馬家の疑いを余計に深める事に繋がりかねない。立場的に疎外感を感じようとも、彼女の取るべき選択肢は武威の地に留まって本来の目的を遂行するべきだ。中立である馬家を、朝廷に味方するように。韓遂の謀略によって、その任務を果たすことは―――特に現状馬家を取り仕切っている馬超の印象が悪い今では―――至難となったがそれでも耿鄙はこの場で役目を果たさなくてはならないはず。が、その任務を覆して武威の地を去るつもりでいる。一刀に、耿鄙の下に来るのかどうかの答えをせっついている時点で耿鄙は武威を去ろうとしているのが透けて見えた。馬家の印象が劣悪であり、朝廷の不信を深めることも厭わず、命の保証があっても尚、耿鄙が逃げ出そうとする理由。韓遂のせいに違いない。「要するに……命がかかっている」「っ! ……さ、さすがは天代であったお方。 昨夜……服毒して倒れた韓遂殿が、私の部屋に来ました」「……それで?」「韓遂は、私を殺そうとしております」「仮に……そうだとしても、韓遂とて耿鄙殿と同じ客人。 馬家の人間が耿鄙殿を害そうとしても、馬家の立場からは 耿鄙殿に手を出させはしないはずですよ」この一刀の考えに、耿鄙は首を振って否定した。昨夜の内に訪ねてきた韓遂は、耿鄙に恨みの言葉を吐き捨てながら、近く真剣を用いた死合いを行いたい旨を伝えに来たそうなのだ。復讐ということなのだろう。「義に篤いと言われる馬家が、この韓遂の申し出を拒否することはないでしょう。 必ず私に死合うかどうかを尋ねてきます。 これを突っぱねる事は、現状の私では難しいですし、私は自分の武に自信がありません」「それでも、貴方は朝廷の正式な使者だ。 突っぱねる事は可能だと思うけど」「その場合、彼女は私がこの地を離れた時に、韓遂殿自身が襲撃すると脅迫しました。 私の連れてきた供回りは文官ばかり。 襲撃されれば勝てる見込みがありませんし、何より部下を巻き込みたくない」「……個人的に復讐するということなら、馬家は韓遂の勝手を見逃すだろう、そういうことか」その場合は、韓遂も朝廷の者を襲ったという事実から馬家に戻ろうとすることは無いだろう。自分よりも背の低い耿鄙は、確かに小柄だ。武に自信が無いというのは本当の事だろう。一刀も、韓遂や耿鄙の実力を知っている訳ではないが、目の前の人よりも韓遂の方が武に長けている気はする。「……だから、今すぐ答えが欲しいんだね」「はい……」「分かったよ……それで、俺が行かないと言ったら、耿鄙さんはどうするんだ?」「……残念ではありますが、死ななければまた北郷様を誘う機会もありましょう。 すぐに立ち去ります」一刀は岩に背を預けて地面を見つめる。働きアリがせっせと自分の巣に小さな物を運び入れている姿が目に飛び込んでくる。僅かに目を細め、それを見ながら思う。荀攸から聞かされた韓遂の思惑。それは、耿鄙の排除と馬超の正義感の強い性格を利用した馬家との結託にあるという。毒を利用して巻き込み、馬家と耿鄙の間を割き、自身も服毒して同情心を馬超から得るのが今回の一件の目的だという。事実、耿鄙は武威の地から容易に離れることはできなくなった。一刀は、耿鄙が立ち去る事を選ぶ可能性を荀攸から聞いて知っていたのだ。今のタイミングで耿鄙が立ち去れば、韓遂は西涼の反乱軍を用いて殺害するだろうと予測していた。朝廷と敵対している今、使者の馬車が襲撃されることは自然であるし、韓遂からすれば自分の居場所を知っている危険な人物の排除に成功する。残るのであれば手出しはせず、時期が来るまで飼い殺しにする。そう、一刀は聞かされていたが、まさか韓遂が耿鄙を追い出すように仕向けてくるとは思っていなかった。もしかしたら荀攸は知っていたかもしれないが、彼女の口からは説明はされなかった。どちらにせよ、韓遂は耿鄙を排除しようとしていたと見るべきだろう。『話に乗れば、耿鄙さんは死ぬ。 俺も含めてな』『北郷一刀が生き残るには、耿鄙さんに着いて行くことは出来ない……か』(死ぬわけにはいかない……)昨夜、脳内の全員で荀攸の話を纏めて方針を固めた。この話を蹴る事は自身が生き残る為に、蹴ることになっている。だが、蹴ってしまえば目の前の人は死ぬ。それを伝えてやれば、耿鄙は思いとどまるだろうか……それとも。黙して地を見つめ続ける一刀に、視線を合わせた耿鄙は一つ呟いた。「亜麻の華ですね」「え?」「今時分に種を巻けば、夏には華を付けますよ」全然関係の無い事を言われ一刀は戸惑ったが、一刀の視線の先には確かに働きアリの他にも植物が映っている。一刀はなんと返すか思い浮かばずに、そのまま首を振った。耿鄙が一つ息を吐いたのはそんな時だった。「今日の夕刻……立ち去ることに致します。 もしも私と共に来て下さるならば、その時で結構ですので」「……」「お手間を取らせました。 失礼します」踵を返し、耿鄙の足が視界から消える。良いのか。これで本当に。ここを飛び出していけば、耿鄙は死ぬかも知れない。この地に留まれば、もしかしたら違う生きる道が見えてくるかもしれない。何か、手立てがあるかもしれないのに、見捨ててしまったも良いのか。「っ!」一刀は焦燥に狩られ、顔を上げればそこにはもう耿鄙の姿が見えなかった。追うようにして踏み出した一歩が、制止の声で止まる。『本体、待てよ』(けど……知っているのに見捨てるなんて俺は……確かに付き合いは浅いけど、耿鄙さんは……)『気持ちは分かるし、何か別の手があるかもしれないけど、具体案も無しに提案なんてしても蹴られるだけだ』『韓遂の目を欺く為にも、嵌っている振りをするって約束したじゃないか』(……)韓遂の描いた絵図を利用し、荀攸が画策した洛陽へ戻る為の一歩。一刀が聞いても自分にメリットしか齎さない、ようやく見つかった自身の復活に光が見えた一手。劉協との約束と、音々音との再会を誓い立てた一刀は、一時の感情で全てを不意には出来ない。だが、目の前で救えるかもしれない人を見捨てるのは、どうにも納得がいきそうになかった。知らず、掌が拳を作り、強く握られる。「くそ……嫌になるよ……」『……』『……』一刀は、巨大な岩の下に座り込んで、はき捨てるように呟いた。座り込んだ一刀は何をするでもなく、空や地面を見つめていた。夕刻。蒲公英が彼を見つけて声をかけるまで。 ■ 追撃長安周辺、郿城(びじょう)と呼ばれる場所。辺章が反乱軍を率いて攻め立てた地は此処であった。長安を拠点として活動する諸侯の一人、董卓軍が此度の反乱に際して作られた要塞だ。黄河を渡った先に作られたこの城砦は、反乱軍を押し返すのに重要な役割を担っていた。野戦で敗北を喫しても、この中に戻れば安全を確保できることは勿論、糧食、軍馬の運搬の容易さ、渡河の必要性の排除。相手の機動力を削ぐ攻城を強いても良い。だが最も大きいのは、大軍として襲い掛かる西涼の反乱軍の攻勢に、堅固な盾として立ち塞がってくれて将兵に大きな安心感を与えてくれている、精神的な部分で役に立ってくれているところだろう。そんな郿城に攻め立てた辺章軍は今、敗走の時を迎えていた。迎え撃った董卓軍と王朝から増援として送られた孫堅・皇甫嵩の官軍相手に長期戦を強いられて劣勢となり糧食が心もとない事から撤退に移ろうとしていたのだ。この事実にいち早く気がついたのは、董卓を隣で支え続ける才女、賈駆であった。撤退の準備を進める辺章軍が、戦意を失い始めてる事に気がついて最低限の防衛だけを残し郿城から打って出たのだ。孫堅、呂布、張遼を先頭に、奇襲のような形で持って攻め上がり決着はついた。此度の侵攻は防げたと言って良いだろう。「張遼殿! 張遼殿はどこかっ!」「おっ、皇甫嵩のおっちゃん、こっちにおるでー! てやっ!」余裕を持って会話をしながら、雑兵をひとなでに吹き飛ばす。周囲に敵が―――といっても、ほとんど逃げ出しているが―――居ない事を確認し、張遼は馬首を皇甫嵩へと向けた。「賈駆殿から追撃に移るように指示が出ている」「なんや、官軍の将軍様を顎で使うなんて、詠も怖いもん知らずやな」「手が空いていたから伝えに来ただけだ。 それに、今回は相手も本気では無さそうだった」「そやな」愛用の武器、飛龍偃月刀を肩で担ぐようにして張遼は同意を返した。確かに、大軍を用いて攻め上り、一気に郿城へと迫った反乱軍だが勢いはここで一気に落ちた。確かに堅牢な郿城が相手の進軍を鈍らせたのは事実であるし、大規模な侵攻のせいで事前に董卓軍は準備を出来たのもある。しかし、昨年の勢いでぶつかってくると確信していた張遼は今回の戦の手応えの無さに訝しかんだのも事実。皇甫嵩も同様に感じ取ってることから『本気でない』という言葉に素直に頷く事が出来た。戦に勝った以上、追撃するという命令には賛成だが、罠という可能性も張遼の頭の片隅に浮かんでいた。警戒するに越した事はないだろう。「とりあえず、追撃の件は了解や。 皇甫嵩殿は?」「私は一旦郿城へと戻る。 ああ、そうだ。 張遼殿は『天』の旗を掲げた一団とぶつかったか?」「いんや、遠目から確認はしたんやけどな」「そうか……分かった。 追撃には張遼殿と呂布殿で向かってくれ。 それではな、武運を」それだけ確認すると、皇甫嵩は馬首を返して郿城へと向かった。最後に形だけとはいえ応援してくれたことから、皇甫嵩も罠の可能性があることに感づいているのだろう。勿論、追撃の命令を出した軍師の詠も。自分の持っている頭脳とは比較にならない―――無論、馬鹿だとは思ってはいないが―――軍師様が追撃を指示しているのだ。相方が天下無双の彼女であるならば、心配しなくていいのは確かである。「ま、ええか。 あれこれ考えるのはうちの役目やないしな。 部隊をまとめぇ! 逃げ出す臆病者のケツをひっ叩きに行くで!」張遼は3千ほどの兵をまとめて、先発した呂布2千と合流し追撃に移った。 ■ 正義の槍の矛先それは、辺章が官軍に敗れて敗走した日の翌日。なんとも言えない感情を抱え込み、眠りについた一刀を起こしたのは外から聞こえる喧騒であった。起き抜けに騒ぐ人の声に、一刀は寝台から動かずに聞き入る。「休ちゃん、おねぇさまは!?」「駄目だ、聞く耳をもっちゃいねぇよ。 どうすんだ?」「どうするって、そんなの蒲公英に聞かれても……」『何かあったな』『見に行こう』「ああ……」一刀は寝巻きを脱ぎ捨てて、すぐに着替えると部屋を出る。焦った様子で会話を交わす蒲公英と馬休は、一刀が部屋を出たのに気付かないで話し合っていた。夢中になって話し込む二人には悪いが、一刀は二人の背に声をかける。「どうしたんだ? 二人共」「あ、一刀……」「一刀か。 いやな……その、今朝耿鄙殿が死んだ」「え?」「監視の兵が気付いたの。 朝見に行ったら、自害していたって……それで」一刀は二人の言葉に違和感を覚えずには居られなかった。昨日の内に出立したはずである耿鄙が、何故この馬家の中で死んでいるのか。確かに、馬家で朝廷の使者が死んでいれば焦るかもしれないが、ここまで動揺しているのも可笑しい。「……それで?」「遺書みたいなのが見つかって……っていうか、早くお姉さまを止めないと大変な事になるって!」「分かってるっつの! でもよ、どうするんだよ? 正直言ってよ、このままぶつかっても良いんじゃねぇかって気分にはなってるぜ俺も」「馬鹿なんじゃないの休ちゃん!? 何が敵になるのかってのを理解してよ! 敵は羌の連中じゃないんだよ!?」「誰が馬鹿だっ!」「……」一刀への説明する時間も惜しいのか、蒲公英は途中で話の矛先を休へと向ける。喧嘩腰になりつつある会話に、一刀はこのままでは要領を得られないと判断し耿鄙の部屋へと向かうことにした。耿鄙に用意された部屋は一刀の部屋から程近い。走り始めてすぐに、人だかりの出来た目的地へと到着する。人ごみを掻き分けて、見えたのは布で隠されていただろうか顔の半分が晒された耿鄙。やはり女性であったのか、と一刀はその整った顔を見て思い、僅かに胸が軋んだ。そして、医者である華佗がその身を診ていた。一刀は華佗の下まで近づくと、そっと耳元に口を寄せた。「華佗、この人が……?」「ああ……例の毒を多量に含んで死んでいた。 時間も経っている……」「そんな……耿鄙さんが自殺するなんて……」「くそっ、こんな事になるのなら、あの夜に俺が声をかけていればっ……」「華佗……ん?」そこで一刀は耿鄙の遺体の傍に、一枚の紙が落ちていることに気がついた。自然と手が伸びて、用紙を裏返すと綺麗な字で何事か文面が書かれている。読み始めると同時、一刀を呼ぶ声が聞こえて振り返った。人の垣根からその身を跳躍して声をかけたのは、荀攸であった。小柄で小さな腕を持ち上げて、必死に来るように身振りをしている。一刀は嘆く華佗に一言声をかけその場を離れて、荀攸の呼ぶ方へ足を向けた。「荀攸さん、耿鄙さんが……」「ええ、先ほど知りました。 それよりもまずいです、予想外の事件が起きてしまいました」「ああ、まさか耿鄙さんが自殺するなんて」「違います、一刀様。 耿鄙殿ではありません」「は?」荀攸の言葉に、一刀は間の抜けた声を返してしまう。着ている服は朝廷の身分を示す礼服の類の物であるし、ずっと顔を半分覆っていた布も見覚えのある布だ。身長や髪型も、一刀が見て来た耿鄙の物と差異はない様に思える。「耿鄙殿は顔の半分……恐らく火傷でしょう。 皮膚が爛れており、それを隠す為に布を宛がっていました」「え? そうなのか?」「此処に初めて来た時に、遠目から見たことがあります。 あの遺体は耿鄙殿ではありません」「そうなのか……しかし、予想外ということは、何か他にあったのか?」「それは馬超殿が……一刀様、その手に持っているのは?」言われ、一刀は初めて自分が読もうと思っていた紙を持って荀攸と話していた事に気がついた。荀攸に首を振って内容を見ていないことを告げて、改めて紙面を広げる。飛び込んで来たのは端に押印された朝廷の命令を刺す印と朝廷の臣である董卓の名。文面を追って読み終えると、一刀は額に手を当てて唸った。「こ、これはまずい」「あの、私にも貸して下さい」「あ、ごめん……しかし、これは……」一刀は荀攸へと紙を手渡す。速読した荀攸も、読み終えると同時に口を手元に寄せて顔を若干青くさせた。内容は、董卓から耿鄙へと命令の形で書き綴られているものだった。要約すると、馬家を朝廷側に引き入れる事。それが不可能ならば。「っ、これは、いけませんね……」「俺は董卓さんを知っている。 こんな謀略が出来るような人じゃない」「しかし、押印された朝廷の印は本物です。 馬超殿はこれを?」「見たようだよ。 俺の部屋の前で蒲公英……馬岱さんと馬休さんが焦って話をしていたんだ!」不可能とあらば、使者殿自身の判断にて馬家の者を害し、脅威となり得る要因を排除せよ。馬騰の倒れている今は、馬家を取り纏めている馬超の判断で馬家が動くということだ。そこに個人的な想いの是非は存在しない。馬超の行動一つが、どう言い繕おうとも覆せない馬家の方針になるということだ。無論、馬騰が目を覚ませばまた違う話になってくるのだが、華佗の診断から考えればその可能性は低い。当然、韓遂も彼女の容態は華佗から聞いていることだろう。荀攸は寄せた手の爪を噛んで、小さな……一刀が聞こえたのが偶然だと思えるほど、小さな舌打ちを一つした。「荀攸さん、前に言ったこと……」「待ってください、今考えてますから」「い、今考えるって……」邪険に扱われて、一刀は若干身を引いて再び紙面に視線を落とした。馬岱と馬休の焦りが、今なら分かる。こんな謀略、しかも自身の身内を害され、臆面もなく罠に陥れようと指示する物を見せ付けられて正義感に篤いと言われる馬超が黙って居られるはずがない。耿鄙を追い出したのも、全ては耿鄙の身代わりを立てて馬家を動かす為。馬超が軍を起こせば、馬家には大きな波紋を呼ぶだろうが、この時勢に際して反旗を翻す事はそれほど変な事ではない。少なくとも武威の地に住む民は馬家の方針に首を傾げることはそう無いだろう。『……あれ、韓遂は何処だ?』『そういえば、姿が見えないな』『翠……くそっ、なんとかならないのかっ!?』『なんとかと……言われても』一刀は脳内の言葉に周囲を見回したが、確かに韓遂の姿は見えなかった。偽者かと思われる耿鄙の遺体に一度だけ視線を向けて、一刀は顔を顰めた。彼女の偽者にされたあの女性も、きっと韓遂の手にかかって死んだのだろう。ふつふつと、一刀の腹の底に良い様の無い怒りが生まれてくるのを感じる。この地は平和だった。黄巾の乱の被害も多少はあるし、辺境故の異民族の問題もある。内政のお手伝いをしていた一刀には内部にも多少問題があることが書類上から分かったが、それでも平和だったと言えよう。何より、友人だと互いに認め合っている筈の馬騰の家……馬家まで巻き込むことに躊躇いが無い。悪戯に乱に巻き込むだけ巻き込んで、実際に起これば彼女の姿は消えている。「……むかつく」彼女は言った。牢の中で、自分は友情には篤いのだと。馬騰を利用することを疑われる事が、心外であると。今となっては薄っぺらいその言葉に、一刀は謝罪をした。その謝った自分にすらいらつきを覚えずには居られない。一時は王朝から利用されるだけ利用され、追い出されたという部分で共通する韓遂に共感を覚えた。しかし、どれだけの無念が在ったとしても、多くの人間の命を天秤に復讐することなど許される訳が無い。そうだ。確かに一刀は韓遂の思惑を知らない。王朝への復讐という推測すら、一刀自身の勝手な思い込みに過ぎないし、これが一番韓遂の行動に納得が行くだけである。一つ言えることは、韓遂と自分は違うという事だけ。漢王朝の息を吹き返す為に生きる一刀と悪戯に騒乱を巻き起こす彼女は、北郷一刀の敵だ。「聞けっ! 我が馬家と共に在る者達よ!」未だ騒乱止まぬ耿鄙の部屋の前にまで、馬超の物だろう声が聞こえてきた。一刀は顔をあげて、声のする方向へ足を向ける。殆どの人間が、馬超の声に気がつき、振り向き、足を止めた。「我が母が倒れ、苦慮する中、卑劣な謀略に我が親族の鉄は倒れた! それは、王朝を信じて仕えてきた私達をあざ笑うかのような朝廷の裏切りによってだ! 度重なる異民族との戦いに、大きな血を流してきた我らに中央は何をしてくれた! 黄巾の乱を押さえ、涙を抑えて民を斬った我らに、何をしてくれたのだ! この期に及んで、泣き寝入る事なんて私には出来ない!」中庭で、馬超が十文字槍「銀閃」をその手に持ち、城内で働く全ての人間に語りかける。この場に居る全ての人間は、馬超の決意とも言える内容に察しがついたことだろう。中庭で武器を掲げ、覚悟の決まった表情で熱演する馬超の意思は固い。一刀は最後まで聞くこともせず、馬超のすぐ横に控え口元を袖で隠す韓遂を尻目に踵を返した。馬超の宣言を、その背に受けながら。「聞けば朝廷は帝が倒れ、その内部は混乱し、何進大将軍を初めとして権力者が好き勝手に行動していると言うではないか! そんな権力だけを傘に勝手な行動を起こす輩に、我々が付き合う必要は無い! 更に! 我が領内に董卓軍が今! 進軍しているという報告が上がっている! 武器を取れ! 槍を掲げよ! 中央が蔑ろにし、我らに突き立てようとする牙がどれほど高い物になるかを思い知らせるのだ!」その一刀が立ち去る姿を荀攸は気付いて見送った。「皆よ、真の正義の為に立ち上がれ! 我が槍こそが正義だっ!」馬超の天に向けて掲げた十文字槍「銀閃」が、陽に反射して煌いた。 ■翌日夕刻。気炎の上がる馬軍は、異民族との戦闘を繰り返し精強な兵を迅速に纏め、反乱軍の増援として出陣。反乱を率いる辺章へと韓遂を使者として送り出し、その陣容には馬超、馬岱、馬休の姿があり、約2万の兵を率いての出兵であった。向う先は領内に進軍する敵―――辺章を追撃する官軍・董卓軍だ。その堂々たる“賊軍”の出陣に拍手を送る。「格好良いねぇ。 精強なる馬超軍の誕生だ。 はっははぁ、めでたいじゃあないかっ」その威容を見て、馬上で手を叩く“使者”の韓遂は満足そうに笑った。余計な要素であった天代の頭は抑えた。馬家を引き込む事にも成功した。辺章の率いる反乱軍そのものを囮にした、誘引をうまく行っているようだ。追撃を行う官軍への奇襲に馬超軍は都合が良い。そのまま官軍へ西涼反乱に馬家が参軍したことを喧伝してもらおうではないか。「さぁて、これからが本番だね。 辺章に頑張ってもらうかね」馬首を返し、韓遂は荒野を走った。自身の目的に大きな前進を見せたことに、上機嫌となりながら。―――・そして、静かに韓遂へ怒りを見せる一刀はその頃、馬房に居た。その馬格は雄大。鬣は金色。付けられた価値は、袁家換算で大きめの屋敷5つ分の一刀の相棒。「金獅……久しぶりだな」「ブルルッ」首筋に手をかけて、嘶く金獅を優しく撫でる。『本体、良いのか』「何を今更……追撃しているのが張遼さんと恋だろ?」『追撃の兵数よりも、将が問題だよね』『まったくだ』幸いというか。韓遂が戦の準備に腐心してくれたおかげで、荀攸とはみっちり話が出来た。賭けが過ぎる、と荀攸は予想外の馬超の出陣も合わせて不満を抱いていたがとりあえずは馬超が反乱に加わったのも踏まえて韓遂の思惑を逆手に取る策は練りあがった。まぁ、彼女が不満を抱くくらいに分の悪い賭け事になったのは、馬超を韓遂の描いた謀略の手から救い出したいという一刀の―――特に“馬の”と悪役に仕立てられた董卓の為“董の”がわがままを言ったせいでもあるのだが。何にせよ、一刀はすでに一枚の手紙というサイコロを振ってしまっている。本体が言うように、良いのかどうかなど聞くには今更過ぎたし何よりも。「耿鄙さんのような人は出したくない……彼女はただの被害者だ」『……本体』『そう、だな』一刀は金獅を馬房から出し、腰に修繕を施した†十二刃音鳴・改†を差してその背に跨った。一刀の意思が伝わっているのか。背に跨った瞬間から、金獅の顔つきも心なしか変化する。「笑ってるだろうな、今頃」『だろうな』『全部うまく行ってて愉快だろうしね』「はは……良し、金獅行こう」トン、と足で金獅の腹を叩く。馬房からゆっくりと出て、一刀は金獅と共にたった一人で武威の街を出て荒野に飛び出した。「笑ってればいいさ」砂煙をあげて走る金獅の背で、そう呟いて。 ■ 外史終了 ■