clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編5~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編6~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7~☆☆☆ ■ はためく旗は郿城での防衛に成功した官軍はその勢いのまま、反乱軍への追撃に移った。平野部の多いこの土地では、視界が広く、追撃を受ける部隊が大きければ大きいほど将兵の目を避けて逃げ切ることは難しくなる。事実、張遼は一昼夜を過ぎても反乱軍の尻尾を掴まえ続けていた。ここで張遼は追撃を続けるか否か頭を悩ませる。既に部隊は安定(アンテイ)を過ぎて武威に入ろうかというところまで進めている。これ以上奥に向えば、漢王朝に席を置く諸侯の一人―――西涼反乱に加担していない馬騰の領内に入ってしまう。そもそも、此処に来るまでに追撃としての役割はすでに十分以上に果たしていると言えた。 「そろそろ引き上げ時なんやけどな」張遼は馬上で武器を肩で担ぎ、面倒そうに呟いた。敵の機動力に追いつく為に馬を使用しているとはいえ、郿城の防衛から続く追撃戦で、将兵は少なからず疲労しているのは間違いない。糧食にも限りはあるし、敵部隊の戦力もしっかりと削いでいる。張遼が言う様に、撤退するべきであろう。ただ、何故撤退しないかと言うと、部隊の先陣を進む天下無双のせいであった。その背中を張遼はじっと見つめる。呂奉先。洛陽で起きた黄巾の戦の折に、兵3000を従えて潼関で立ち上がった黄巾兵3万余を一夜で壊滅に追い込んだと言われ個人の持つ武においては他の追随を許さない、まさしく天に愛された武を誇る。張遼が董卓の下に仕官を申し出たのは、彼女の存在が大きかった。自らの武勇に自信が在ったからこそ、天武と呼ばれる呂布に挑戦をしたかったのだ。結果は、完膚なきまでの敗北だった。研鑽を積んできた武技は悉く躱され、呂布の一撃を受け止めるたびに手足は痺れた。一撃を当てる事も無く空を見上げることになるとは、世界は広い物だと敗北の後に笑いまで突いて出た。自身は砕かれ、慢心は消え、そして憧れた。強くなりたい。子供の頃に強く願ったこの想いを年を経てもう一度抱く事になるとは。「ま、いつか追いついて見せるで。 まずは一撃当てるとこからやな」偉く低い、そしてやたらと高い目標だと馬上で一人苦笑していると、斥候の一人が戻ってきたようで張遼の耳元に口を寄せた。「張将軍」「ん? どした」「反乱軍の姿が消えました」「あ?」思考が脱線していたことを、張遼はその報告を受け取って気がついた。間の抜けた相槌を返して、張遼は先を行く呂布の下へと馬を走らせる。人の垣根に埋もれた荒野が、その視界に広がると確かに報告の通りだ。張遼は片手を挙げて全軍の停止を命令すると、首だけで振り向いて呂布へと問う。「なぁ恋、敵はどこいった?」「わからない。 気配も無くなった」「ん……そうみたいやな」呂布の感覚も、自分の感覚も周囲に敵の気配が無い事をしっかりと告げている。それほど熱心に追っていたという訳でもないが、さりとて見落とすほど不真面目であった訳でもない。と、なれば夜の間に距離を離されたと見るのが妥当なところであろう。こうして呂布が先陣を切っていたのは圧倒的な武を持っていることもあるが常人とは比較にならない程、視野が広く気配の探知に長けていたからでもある。そんな彼女が居なくなったというのなら、張遼もその事実は素直に受け入れられた。まぁ、呂布が先陣を切っていたのは他にも理由はあるのだが。「完全に見失ってもうたな~、恋。 しゃあない、郿城に戻ろか」「……残念、一刀居なかった」そう、"天"の旗を郿城の防衛時に目撃したせいで、呂布はこの追撃に積極的だったのである。呂布もまた、あの旗印には興味を抱いたが実際にぶつかってはおらず、一刀が居るのかどうかは判らなかった。「せやけど、恋。 もしも一刀が居たらどうするんや」「ん……?」「あの天の旗に一刀がおったとして、恋はどうするのか聞いとんの」そうだ。あの旗の下に一刀が居るとなれば、それは官軍の敵として反乱軍に参加したということになる。大まかな事情を知る張遼は、一刀が漢王朝への反乱に加担しても不思議なことではないと思っている。だから、覚悟が出来ている。反乱軍の将を斬る覚悟が。だが、目の前で首を傾げる少女はどうだ。董卓軍に身を寄せた経緯を直接聞いた張遼は、彼女が一刀を追って洛陽を飛び出したことも知っている。「一刀が……居たら?」「……」個人の事情も、その想いも断片的に知ってはいる。が、寝返るのならば話は別だ。敵とあらば斬り結ぶ。そんな意志を込めて、張遼は呂布に真剣な表情と感情を向けていた。敵意と勘違いしそうなくらい、鋭い視線を受けた呂布はいたって平然と答えを返した。「一刀に聞く」その返答に、張遼は馬上ですっ転びそうになった。この問答の根底は、呂布の歩む道を聞いているに近い物である。そんな人生に於いて大きく今後を左右するような選択肢を、呂布は北郷一刀という人間に丸投げしてしまっているのだ。「霞、へいき?」「いや……うん、まぁ恋らしくてええんちゃうかな」「……?」「あ~、気にせんといて忘れてええよ。 とりあえず、追撃しようにも敵がおらへんなら仕様がないやろ」「分かった」張遼の言葉に頷くなり、呂布は馬首を180度返して帰路へ向かう。突然、方向を変えたことで周囲で待機をしていた騎馬兵が慌てて道をあけて微妙に混乱を巻き起こしていた。張遼は部下に手振りだけで混乱を収めるよう指示してから、一つ大きな溜息を吐き出した。行動が迅速なのは結構だが、勝手に動かれるのも困り物である。呂布に着いて行くことが出来る兵は、限られることだろう。戦場であるならば尚更だ。張遼もまた、呂布へと続いて馬首を返そうとした時。首筋に走る寒気のような感覚に動きを止めた。視線を返して広がる荒野へと振り返る。ちょうど、傾斜の関係で隠れていたのだろう。小高い丘のような場所に、行軍をする部隊を張遼はハッキリと見ることになった。部隊の規模は少なくても万を越え、統率の取れた動きから賊の類でないことが見て取れる。はためく旗には"馬"の文字。武威国境に差し掛かっているとはいえ、こんな場所にまで一体なんの用事で軍を進めているのか。このままかち合えば、董卓の軍がどうして武威にまで姿を見せているのか問われる事だろう。立場上、中立である馬騰の軍が攻撃をしてくるとは思えないが、馬家の心象は悪くなる可能性はある。そうなると、失態を働いたとして董卓……というよりは賈駆に怒られるかも知れない。「あちゃー……反乱軍に一杯食わされた?」「霞」「おわっ、恋、いきなり話かけんといて、って……恋?」「……」先に向かったはずの呂布が、何時の間にか隣に馬を合わせて馬騰軍を厳しい目で見つめていた。その横顔に、張遼は僅かに眉を寄せて呂布の見る馬騰軍へと視線を移す。呂布の部隊、張遼の部隊を合わせて5000の兵がこの場所には存在する。これだけの規模になれば、将でなくとも気付くことになるだろう。馬騰軍は進路を僅かに変えて、こちらへと向かってきていた。「……警戒だけはしとこか」先ほど、攻撃するとは思えないと考えたが、馬騰がトチ狂って反乱軍に加担する可能性はあるかも知れないと改め直す。張遼も涼州の出身だ。血の気の多さは何処よりも高いと、胸を張って言えるほど涼州の人間は喧嘩っ早い。例外は当然あるが、概ねそうだと言えてしまうのが実情である。なにより、隣に佇む呂布の天性の勘が、張遼への警戒を引き上げさせるに至った。部隊に指示を出して、迎撃陣を整えると張遼と呂布の二人だけで陣頭に立つ。約3里ほどの距離で行軍を停止させ、同じように陣頭へと躍り出たのは頭をてっぺんで結び、長い茶色の髪を揺らす馬超。その後ろを複雑な表情で付き従う馬岱の姿であった。 ■ 『馬』旗ちょうどその頃。郿城の戦後処理に追われていた賈駆は、武威にまで足を伸ばしそうだと言う張遼の送った兵を下がらせて追撃中止の命を出し、誤解の無いように馬家へと事の経緯を書き添えた書簡を持たせて、使者を出していた。長安から安定を一直線に突っ切って逃げた反乱軍の、薄っぺらい思惑が透けて見えるというものだ。ここ涼州において王朝に反乱を起こしていない馬家を、なし崩し的に巻き込もうというつもりなのだろう。だが、反乱軍の目論みは甘いと言わざるを得ないだろう。そんな間違いを起こすほど耄碌していると思われているのだろうか。賈駆は指を眉間に当てて、僅かに眼鏡の位置を直しながら溜息染みた物を吐き出した。「だとすれば、これは私への侮蔑だわ」そもそも、馬家には中央からの正式な使者が赴いているはずである。よほど馬騰が狂った判断をしない限り、官軍に矛を向けることなど在りえない。確かに、中央は混乱している。天代である一刀の追放から始まって、帝の死、決まらぬ後継、各地の反乱。あれも、これも、物事一つを決めるのに間誤付く有様だ。漢王朝が抱える問題は多く、解決を迎えるには数年、下手を打てば数十年に渡って向き合わなければならないが何も手を打たずに見ているだけではないのだ。出来ることから手をつけている人たちが、大勢いる。その中には、反乱軍の侵攻を堅牢な郿城にて打ち破る董卓軍も含まれているし、馬騰へ使者を送った何進も入るだろう。「ご報告いたします!」武威に勤める文官が見れば、見惚れて眺めてしまうような手さばきで竹簡の山を崩していた賈駆の下に一人の兵があわくって走りこんできた。俯きながら視線だけで賈駆は兵の様子を流し見て、兵を落ち着かせるように一拍置いてから問い質した。見て分かったが、見慣れぬ兵装をしている者が一人、報告に来た兵の中に混ざっていた。「なに?」「は! この者から教えられたのですが……」「その、失礼致します。 私は張魯様の命によって天水付近を斥候していた者です」「それで?」「馬の旗と、天の旗を翻す軍勢が、長安に向けて進路を取っているのを確認したのです」「……」そこでようやく、賈駆は書簡に落としていた視線を上げて報告の兵に鋭い目を向けた。一瞬、ビクリと震えた張魯の兵は、他軍に混じって緊張しているのか目を泳がせた。驚かせるつもりはなかったが、予想以上に表情が険しくなっていたらしい。若干、罪悪感を抱きつつ視線を外し、賈駆は一つ頷いた。涼州の大規模な軍勢から長安を守る為に、董卓軍は郿城の防衛に全力を傾けている。中央から応援として派遣された皇甫嵩も同様だ。その兵数は、反乱軍の数には劣るものの5万という大きな規模である。郿城を主戦場として選び、防衛に力を割いているのも理由がある。ここを抜かれれば、自然の要害として機能する黄河の恩恵が失われるからだ。黄河が敵の主力である騎馬の機動力を削いでくれる事実は大きい。架かる数多の橋を落とし、郿城に繋がる橋だけを残してあるのもそういった理由からである。この堅牢な郿城を迂回するには、陸続きとはいえ険しい山間を越えなければならない天水か黄河に繋がる支流を渡河し、より洛陽に近い潼関付近に兵を寄せるしかない。そして、このどちらかを選ぶのならば、まともな頭を持つ人間なら天水しかないのだ。洛陽に兵を寄せるのは渡河の危険もさることながら、洛陽と長安の軍勢に挟撃されること。洛陽・長安のどちらを落とすにしても関所が多く、短期決戦に持ち込めないことが挙げられる。ヤケッパチになった死兵ならばこちらを取るかもしれないが、まず無いと言って良いだろう。董卓軍として不安となる場所は天水だけだ。中央から皇甫嵩を筆頭に援軍が送られてきたとはいえ、多方面に展開できるほど董卓軍に兵は居ない。予備兵まで入れて3万。 官軍合わせてようやく5万を超えるくらいだ。一方で、相手は7万を越す軍勢であり山越えのリスクが在っても天水から攻め上る可能性は高いと言える。官軍が打った手は、ゴットヴェイドーの祖と呼ばれ善政を敷く漢中の張魯に兵を出してもらう事であった。「旗印は馬ということだけど、それは間違いないのね?」「はい。 自分のほかにも10数名同じ証言をしております」「追撃を行わせたのはこれが狙い? なんだか違和感が残るわね……距離は?」「この郿城までならば約3日……長安ならば急いで5日と言ったところでございます」「3日ですって!?」兵の報告に賈駆は顎に手をやって立ち上がった。裏で馬騰が反乱軍と結託していたのならば、この話には筋が通る。だが、それならば武威にまで張遼と呂布を誘引したのは何故だ。3日という近距離にまで詰められたのも驚愕の一言だが、旗の中に"馬"の文字が翻っているのも引っかかる。「ちっ、やられたわね」「考えているところすまんな、邪魔をするぞ」「皇甫嵩殿」新たな来客者は数人の兵を連れた皇甫嵩であった。何時もながら気難しい顔をしている。今は賈駆も、皇甫嵩に負けず劣らず気難しい顔をしているのだが、そんな場違いな感想を想いつつ、肩を竦めて尋ねた。「それで、そっちはどんな報告を受け取ったのです?」「たった今、斥候から辺章軍が取って返してきたという報告を受け取った。 追撃を受けているはずの辺章が、何故か近辺に潜んでいたようでな」「……なんですって? 霞達が追っていたのは別の部隊だったってこと?」「呂布殿や張遼殿が釣られたとも思いにくいが、実際に居るのだからそうなのだろう」「規模は?」「約4万前後。 今までに比べれば数は少ない。 それとな、余り嬉しくない話になるが旗の中には"馬"旗と例の"天"旗が翻っていたそうだ」はぁ?そんな声を大声で皇甫嵩に返しそうになって、賈駆は慌てて言葉を飲み込んだ。自身の胸を叩いて、衝動を押さえ込む賈駆に皇甫嵩は怪訝な視線を向けてきたが今は奇異の視線に晒されることよりも、旗の意味を考えるべきだった。「こっちは天水を見張っていた張魯殿の兵からの報告を今受け取っていたのよ。 反乱軍と思わしき軍勢が"馬"旗と"天"旗を翻して攻め上がって来ているって」「なんだと? ふむ……」「妙でしょ?」「確かに、旗はこちらを混乱させる為の虚偽かもしれんな」「可能性としては一つよね。 中立……いえ、むしろ漢王朝側に立っていた馬家が加わることは、兵にも与える動揺が大きいわ。 それに……」言葉こそ発さなかったが、皇甫嵩は賈駆の言いたい事を把握できた。陣中に虚仮の旗を借りるとなれば、馬家は黙っていられないはずである。天代に関しても同様だ。未だ民の間では、天の御使いは漢王朝に立っていると認識されている。中央から兵馬を連れてきた皇甫嵩の部隊は勿論の事、董卓軍の兵も例外ではない。そして、黙っていられないはずの馬家に動きが無いのは未だこの事実を知らないせいか、それとも。「……」「……」賈駆も皇甫嵩も、どちらもそのまま黙してしまった。周囲に居た兵達は、いきなり黙り込んでしまった両将に困惑を隠しきれず互いに顔を見合わせる。追撃を受けていた辺章が何故か郿城にとって返してきている。張遼も呂布も、安定の端……馬家の収める武威にまで辺章を追って足を伸ばしたというのにだ。そして天水から山を越えて現れた"馬"の旗。二人が黙ってしまったのは、決まった訳ではないといえ、馬家と天代が反乱軍に加わったか、或いは大いに巻き込まれた事実に気が付いたからである。巻き込まれたのならばまだ良い。事実を教えて馬家に、反乱軍鎮圧の手伝いをして貰えるのだから、防衛に成功すれば勝つ未来が見えてくる。しかし、馬家が反乱軍と結託したのならば。賈駆も皇甫嵩も、この件には迂闊に口を挟めなくなったのだ。この場でその事実を話してしまえば、兵達の間に伝わり、動揺を巻き起こす可能性がある。お互いに視線を合わせて僅かに頷く。ただでさえ兵数で劣っているのに、士気まで下げる訳にはいかないのだ。「どちらにせよ、敵の狙いは長安だな」「ええ、郿城に篭るようなら天水からの敵部隊が長安に直接向かうつもりなんでしょうね。 でも、恐らくこれは見せかけ……本命は郿城のはず。 引っ張り出したいのは此処で防衛している兵に違いないわ」「しかし、長安に2万の兵を迎え撃てるだけの準備はないぞ」「かといって郿城を捨てれば、追撃に出た将兵は孤立することになる」そうだ。郿城を落とされれば長安と安定を繋ぐ道はなくなってしまう。涼州反乱の大規模な軍勢に対抗するために、自ら道を捨てたのだ。先に挙げた天水へ迂回するか、渡河をして潼関に出るか、その二つの道しか無くなるのだ。郿城に篭れば長安が、郿城を捨てれば将兵を失う可能性と今後の戦が厳しくなる。「郿城は捨てられないわよ。 コイツを敵に与えれば、今度は黄河が私たちの敵になる」「張魯殿の軍は当てに出来ないか?」「敵の距離が近すぎるわ。 打診はするけど当てには出来ないわね」「くそ、長安も当然捨てることは出来ん。 寡兵で守るしかないのか」皇甫嵩は唸り、賈駆の使っていた机を掌で叩いた。洛陽で起きた黄巾の乱からこっち、常に大軍を相手にしてきた皇甫嵩である。どうせ戦う事になるなら、たまには兵法の基本である兵数で上回る戦をしたい。そんな愚痴が口をついて出てしまいそうだった。そんな皇甫嵩に、賈駆は振り上げた手を途中で引っ込めることになった。彼が叩かなければ、彼女が机を叩いていたところであったのだ。白状すれば、見事に嵌められたと言う外無い。前回と同様に、力押しだけで郿城を攻めた辺章にしてやられた。挟撃の可能性は当然考慮していたし、張魯という保険も打ってあった。実際、この件について賈駆はミスらしいミスなどしていない。兵法にもある『天を欺いて海を渡りにくる』可能性も考慮した上での布陣だったはずだ。挟撃をされるとしても、もっと早い段階で気付けたはずであったのだ。ここで賈駆はふと気付く。振り上げたまま行き場の無かった手は、一人の兵へと向かった。「ちょっといい? 質問するけど、天水から攻め上った反乱軍の規模は大きいのよね」「え? は、はい。 大よそ2万程の規模でございました」この答えに賈駆は確信に至る。「そう。 2万の規模ね。 それだけの大軍ならば道中はそれなりに時間がかかるわ。 陳倉を超える山越えならば、余計にね。 報告の兵は貴方一人みたいだけど、それで得られた時間が3日間というのはどういうことかしら」「そ、それは……」「っ、反乱軍の偽兵か!」皇甫嵩の声に、周囲の兵の視線が張魯の兵装に身を包む男に注がれる。賈駆の言う通り、山を越える2万の兵馬を目撃し、報告に一人だけで馬を走らせるだけならば稼げた距離が3日という数字にはならないはずだった。規模が大きければ大きいほど、その動きは鈍重になるのだから。一気に顔を青くさせた男は、殆ど時を置かずして踵を返し、手近に居た兵を突き飛ばして逃げ出した。皇甫嵩が拿捕するように叫び、兵士が室内から飛び出していく喧騒の中で、賈駆は目を閉じて天井を見上げた。張魯軍はおそらく、天水から来た反乱軍の部隊と交戦し敗れたのだろう。恐らく、郿城が妙にやる気の無い辺章軍とぶち当たっている時だ。辺章や韓遂に軍師は居ない。前回の戦の時に、力押しばかりであった事も重なってそう思っていたが、何処かで知者を手に入れていたらしい。「天代かもしれぬな……」何時の間にか隣に立っていた皇甫嵩の声に、賈駆は僅かに頷いた。長安で待つ主、董卓が天代に心を開いていることを知る賈駆は、胸にこみ上げるイラつきを振り払うように頭を振る。天代に関してはまだ、確定的な報告は上がっていない。今は、存在の知れぬ天代よりも現状に対処する方が先決だ。賈駆は自分に言い聞かせるように胸中で呟くと、ドカリと椅子へと座り思考を切り替えた。皇甫嵩は長安には防衛の準備が出来ていないと言ったが、兵がまったく残っていない訳ではない。5千ほどの兵は残されている。が、長安の安全の為には、郿城から出兵させざるを得ないだろう。2万の兵馬、その上盾のない野戦となれば一万以上は割かねばなるまい。「仕方ないわね。 皇甫嵩殿」「分かった、長安の防衛に向かおう。 郿城は任せる」「……相手は騎馬が主力よ。 木や杭をこっちで作って運ばせるから」「ありがたい。 なに、即席で作る陣の敷設は洛陽で慣れた。 長安は任せてくれ」「頼もしいわね」そうして踵を返した皇甫嵩は、走りこむ兵の姿を視界に収めることになる。息を荒げる兵に皇甫嵩は眉根を寄せて皺を作り、賈駆は腰に手を当てて溜息を吐き出した。悪いことは積み重なるものである事を、残念な事に二人は良く知っていたのだ。「ほ、報告いたします!」「今度はなんだ?」「あまり聞きたくはないけど、そういうわけにもいかないでしょ」「確かに。 良し、話せ」手首を返して皇甫嵩が促すと、兵は息を整えてよく聞こえる声で話した。「ら、洛陽から孫堅様の援軍が長安に到着いたしました!」その報告は、賈駆と皇甫嵩の顔色を明るくするのに十分足りえた。何進の思惑は、偶然とはいえ郿城を救い得る光になった瞬間だった。 ■ 免れない激突視界に広がるのは数多の兵。そして、董卓軍を示す軍旗と二人の女性だった。「董卓軍の者だな」「そういうあんたは、馬騰軍やね」「あたしは馬超」「……うちは張遼。 隣のは呂布や」「えっと、あたしは……えーっと……馬岱」名乗り合い―――半ば蒲公英は無視をされていたが―――馬超は僅かに視線をそらして呂布を見た。こちらをじっとりと見つめる視線が鬱陶しかった。この出兵。馬超は自身の気持ちに素直になった結果だ。確かに、漢王朝に属し涼州で起きた反乱に対して馬家は中立として動かなかった。それは事実だ。官軍からしてみれば、反乱という大事に動かぬ馬家は何を考えているのか不気味に映ったことだろう。だが、馬家からしてみればそれは勝手な言い分だった。洛陽から起きた黄巾の乱は、遠く僻地である武威の地にも波紋は広がっていたのだ。同時、漢王朝へと相次ぐ異民族からの侵攻を防いできたのも、馬家である。とうぜん、馬家だけで全てを防いできたわけではないが、涼州の豪族や氏族、商人の協力で異民族からの侵攻を防いできた。対して、漢王朝は何をしてくれたかというと、稀に寄越す使者から『有難い御言葉』を頂戴するだけである。少なくとも、戦に関して有り難味を感じるような事は一切してくれなかった。その上で税収は上がるわ、中央の厄介ごとを武威の地にまで広げるわ、感謝をすることなど皆無と言って良い。馬上で握る武器が、軋みを挙げた。そんな事情を抱える中、母である馬騰が倒れた。これは、まぁ良い。良くはないが、実際に馬騰が倒れてから馬家の舵を取った馬超には、母の苦労が身に染みて分かった。倒れてしまったのは間違いなく、自身も余り気にしていなかった内政のツケであり馬騰が病に倒れてしまったのは馬超を含めた部下の者全員に少なからず責任がある。しかし、同じ親族である馬鉄は違う!これだ!馬超がどうしても……そう、一刀を誘って気晴らしに武を奮ったのも、全ては鉄が中央の!それも寄りによって、今まで漢王朝に尽くしてきた馬家を切り捨てるかのように使者を持って毒殺を企んだ事なのだ!「……そうか、董卓軍か」「なんや?」「一つ聞く。 畜生にも似た行為を平然と行い、戦うのが董卓軍のやり方か!」「畜生? ややこしぃ事にならへん内に言っておくけどな、うちらは涼州の反乱軍を追撃しとったんや。 これから長安に戻るとこなん、他意があって武威に進入した訳や無い」「どうだか。 使者に毒を持たして将兵を殺そうとするくらいだ。 言い訳を並べ立てて襲ってきても不思議じゃない」「あんな。 自分さっきから何言ってるかさっぱりやで?」「ふん、本当に知らないみたいだな。 董卓は部下にも知らせず謀略を仕掛ける外道か」馬超の、攻撃的な言葉に反応をしたのは呂布であった。一歩だけ馬を前に歩かせて、方天画戟を馬超へと向ける。「月は良い子」「? 真名か? あたしに取ったら董卓は敵だ」言い切った馬超に、今度は張遼が呂布を抑えるように飛龍偃月刀を振った。自らの仕える主を敵と断言されたのだ。馬超は今、張遼の敵となったに等しい。それは漢王朝に仕えているとか、使者がどうだとかは関係がなくなった瞬間でもある。「つまり、なんや。 万を超える規模の軍勢を引き連れて、武威から出るっちゅうのは、うちらと戦るからかい」「馬鹿なのかお前は。 今言ったばかりだろう」「どっちが馬鹿やねん。 うちらと現状で敵対するってことが如何いう事なのか分かっておらんのはそっちやろ」その通りなのだ。馬超がどういう思惑で『董卓軍』に敵対するのか、何かしらの事情はありそうだが現時点でぶつかればそれは、反乱軍に加担することを意味している。どんな理由かは知らない。知らないが、軍勢でぶつかり合うということは民を巻き込む事に直結するのだ。張遼としては反乱軍との戦を抱えてる現状で、馬家とまで敵対するのは避けたかった。仕える主君を馬鹿にされても、それだけの冷静さは何とか保っていたのである。一方、馬超も母が倒れて政務を執っていたのだから、自身のこの決定が武威に住む多くの民を巻き込むことは承知していた。あの時、城中でぶちまけた不満は、馬家の中だけの問題ではないのだ。何もしてくれない中央を武威に住む民たちはしっかりと見ている。誰のおかげで生きる事ができたのか。誰のおかげで守られているのか。誰が、安寧を与えてくれるのか。武威に住む民はそれが漢王朝ではなく、馬家であることに気がついていた。だから、この決定には多くの衝撃はあれど、馬超に従軍しているのである。「蒲公英」馬超の声に、蒲公英は一度顔を見返してから、懐に手を突っ込んだ。そして広がる、一枚の紙片。耿鄙の持っていた董卓からの命令で毒殺を指示していた、公文書であった。そしてその内容は、相対する張遼と呂布の目にもしっかりと把握できた。彼女達に見えるということは、後ろに控える兵もまた然りだ。「―――あほかっ! こんなん月が指示するはず無いやろ!」「字が違う」ざわり、と董卓軍兵士にどよめきが広がった直後、張遼は舌打ちを一つ。共に繰り出した否定にしかし、馬超は笑った。確かに目の前の二人が言う様に違うかもしれない。本当は董卓ではなく、もっと上……そう、大将軍の何進などが董卓に指示を出した結果、耿鄙に役目が与えられたのかもしれない。だが、そうだとして、何だ?漢王朝に仕えて来た馬家が、反乱軍との争いを母が倒れ静観していただけで、戦わないのならば毒殺しろと指示したのは変わらないのだ。「分かったか、あたしは、あたし達は正義の為に槍を取った。 言い方を変えれば、中央の身勝手にはこれ以上は付き合いきれないって奴だ」「ああ、良く分かったで。 涼州の雄馬超は、救いようの無いアホンダラって事が」「はっ、やっぱ話すだけ無駄だってんだ、槍を!」馬超は、自らの十文字槍を天高く掲げた。それは合図だ。避けられぬ激突の時が、来たことを告げる明確な合図。馬超と馬岱の背後に控える、2万余に及ぶ精強な軍が一糸乱れぬ動きで矛先を張遼達に向けた。一部始終を見守っていた董卓軍5千は、敵軍となった馬超軍の動きに敏感に反応し、動揺しながらも穂先を馬超達に向ける。「我が馬の旗に集う精強なる軍よ! 私の槍について来い! 蒲公英!」「ん~~~もぉぉぉぉぉ~~~、分かったよぉ! 熱血なんて柄じゃないのに!」「撤退や! 数が違う、とっとと反転しぃ!」疲れを知らず、度重なる異民族との激突を経て精強な馬超軍2万。対して、郿城の防衛に参加し、そのまま追撃をして安定を突っ切ってきた董卓軍5千。将の実力として云々以前に、戦として成立しない数差と士気。特に、馬岱に見せられた公文書を広げられたのは致命的だ。董卓軍とて、黄巾の乱と涼州の反乱での戦の経験がある。戦いに明け暮れていたというのならば、相手が違うだけで大差などないだろう。しかし、物証として公文書を見せ付けられ、非は董卓軍にあるのではないかという思いを少なからず抱いた影響は大きい。張遼は、全滅したくなければ逃げるより他、取れる選択肢がなくなったのである。「逃がすかぁ!」「っ!」『神速』と謳われる張遼の馬捌きに、しかし、馬超は追いついた。馬の差でも、馬上の手綱捌きの差でもない。ここは馬超の住む土地で、馬超の馬はこの武威の地を走りなれていた。ただ、それだけの差だった。馬同士の腿が接触し、袷馬のように顔を付き合わせる。体ごと打ち当てるように接近した馬超に、張遼の速度はガクリと下がった。「ぅだらっしゃあぁぁぁぁっっ!」「舐めんなや、ボケがっ!」掬い上げるような馬超の銀閃。振り落とした飛龍偃月刀。硬い金属の音が馬蹄の響く中、甲高く鳴り響き、刃先に青と赤の火花を散らした。「霞っ」「恋、先行きぃ! 兵を逃がせぇ!」「余所見する余裕があんのかよっ!」「ちぃっ!」「っ……分かったっ」馬首を僅かに下げて、致死の一閃を皮一枚で避ける。鋭い。土地勘も向こうが良い。これを相手取って逃げるのはしんどいと言う他無いだろう。それでも、張遼は馬超を必死にあしらって長安へ向けて進路を取った。そうするより、他に無かった。---・先行して兵の道を切り開き、その背を守る殿として走る呂布を追うのは馬岱と馬休だ。張遼の兵まで抱え込むことになった呂布の速度は、馬岱も馬休も容易に追いつけるほど遅かった。時間をかけずして、呂布の背に追いつく。馬休も馬岱も、すぐ後ろに信頼する武威の兵士の馬蹄の響きを感知した。ちらりと後ろを振り向けば、万を越える兵馬が列を乱さずに付いてきていた。「よし、休ちゃん! 呂布ぶっとばしてきて!」「おっしゃあああ! 任せろこらぁ! ぶちのめしてやらぁ!」馬休は両腕を振り上げて獲物である槍を回転させた。でかい。一般的な槍の2倍はあろうかと言うほどの長尺な槍だ。両端に、厳つい銀の煌きが閃くことから、どちらにも槍の穂先が付いているのだろう。一歩。また一歩と、馬休は呂布の背後に迫った。「―――っ」「オラオラオラっ! どうだこらっ! おらっ! どうだっ!」ついに呂布を完全に射程に捕らえる。激しく回転する長尺の槍は、馬上であることを考えても尋常でない風を切る甲高い音がまるで多重奏のように喧しく響く。そして、馬休はついに呂布と横に並んだ。回転数は更に加速し、そのまま振り落とせば牛馬の首とて切り落とせるほどの勢いである。「呂布ぅぅぅぅぅ! おらぁぁぁぁ! どうだっ! おらぁぁぁ! おっしゃあああ! ああぁ? どうよ!?」「……っ」回る! 回る! 回る!槍は回転し続け、やがてその回転速度が落ちていき、ついでに呂布からも徐々に離れていく。遂に回転は止まって、馬休は馬岱の下へと戻ってきた。兵を守りながら前を走る呂布から、馬休へと賞賛の声が上がる。「すごく回ってた。 凄い」「くそっ! 化け物め! 全然びびってないじゃねーかっ、俺の必勝戦法が!」「休ちゃん! 馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの? 馬鹿!」「うるせぇ! じゃあどうすんだ! 俺の必殺技が破られたんだぞ! 鉄と一緒に考えたのによぉ!」「そのまま振り落とせばいいじゃん、休ちゃんホント馬鹿っ!」「五月蝿ぇってぇの! そこはまだ未完成なんだよ! 練習時間が足らんかった!」「もぉぉぉぉぉ! 休ちゃんの役立たず!」途轍もなく酷い言葉を残し、今度は馬岱が呂布へと迫る。『影閃』をくるりと一つ回して、馬上でもっとも捕らえ難い、斜め後方から真っ直ぐに突き入れる。瞬間、三つの火花を散らして呂布の背後に『影閃』は弾き飛んだ。右手に持つ方天画戟を僅かに動かし、石突きで穂先を弾いたのである。たったの三合。しかも向き合わず、背後からの一撃に対して肩越しに覗かれての打ち合いだ。それだけで実力の大きな差を明確に感じ取った馬岱は、馬首を挙げて速度を落とし、馬休の下に戻った。「だめ、無理、あれは変態染みてる、絶対勝てない」「ちっ、岱の役立たず」「……回さないの?」「回さないよっ! 何!? 私、突いたのに!? 馬上で槍を振り回してるだけの奴よりがっかりされてない!?」「はっ! さすがだな呂布! 見る目が違うぜ!」「うあーっ、むっっかつくぅぅぅぅっ、けどアレは無理だよ休ちゃん! どうすんの!」「どうするっても、どうしろってんだ! 俺に聞くんじゃねーよ!」軽口を叩いて緊張感はまったくなくなったが、呂布も、もちろん後ろを追いかける馬岱や馬休も必死である。こうなってしまっては、馬超が董卓を討つまで止まる事は無い。そういう性格であることを、馬岱も馬休もしっかりと把握していた。だからこそ、その初戦となる董卓軍への虐めのような戦いに負けることは許されず士気を大いに上げる為にも勝たねばならないのだ。「ちっ、こりゃあ仕方ねぇ! 雑魚から片付けるかっ!」「~~~っ」「最近晴れてたろ! あれで行くぜ!」「分かったよ! 分かった! アレしかないんだから、蒲公英のせいじゃないもんねっ! あぁもうっ!」「行くぜ岱! 賽は投げちまってんだ!」「もぅ! お姉さまのせいなんだからぁーーーーっ!」勝つには何も、化け物を相手する必要はないのだ。だからこその仕方ないであり、だからこその躊躇いだった。将を討つことで勝つことが出来れば最善。出来なければ次善の策となる。すなわち―――馬岱は唇に指先を当てると、大きく息を吸い込んだ。それに合わせて馬休の長尺の槍が再び回転し、右方向へと差し向けられる。吹き込んだ馬岱の息は、鳥の鳴くような高い音を響かせた。「っ!」瞬間、後ろをひた走り従軍していた馬岱の軍勢と馬休の軍勢が二つに割れる。馬岱はそのまま呂布の後ろに。そして、馬休の部隊は右方に逸れて董卓軍兵士の下へと流れていく。「させないっ!」動きの変化を敏感に感じ取った呂布は、馬休の進路を塞ごうと右方に馬首を返すが、それを見越したかのように馬岱が左方に流れた。そんな急激な動きに、一糸すら乱れぬ統率を見せて馬岱に従軍していた部隊も流れていく。右も左も、どちらを追ってもどちらかで自軍の兵士が蹂躙される。身一つしかない呂布には、どちらかを切り捨てることでしか対応できない状況になってしまったのだ。咄嗟に、呂布は後方で剣戟を交える張遼に視線を向ける。馬超と張遼。どちらも拮抗した実力なのだろう。殿を走っていた呂布よりも鈍重な動きに、張遼を呼び戻すことも、引き連れてくる時間もない事を知る。呂布は選択を迫られた。「右から倒す―――」犠牲が免れないのならば、最小限に抑えるしかない。シンプルな答えをはじき出し、呂布は馬休の背を追った。「こっちかよっ! 畜生、蒲公英貸しだかんなっ! 早くしやがれ!」呂布が追いかけてくるのをしっかりと確認し、馬休は槍手を持ち替えて空の右手を空に向けた。その右手を空で振り落とすと同時、呂布は目を剥き僅かに馬の速度を落とすことになった。騎馬兵で構成された馬休の大部隊が、まるで見えない障害物を跳び越すように一斉に跳ねたのだ。地を蹴るとは思えない、地響きのような物が部隊の着地と共に響き渡った。「もう一度行くぞ! おらっ!」数歩の助走をつけて、再び跳ねて、地に落ちる。馬蹄の巻き上げる粉塵が、呂布の眼前に立ち込め、白煙は視界を覆った。同時、呂布の耳朶に董卓軍の者だろう遠い悲鳴が届く。「呂将軍が抜かれたっのかっ!」「うわあああっっ!」「ひぃいいぃっ!」馬休か、馬岱か。馬軍の部隊が前を行く自軍の兵を捕らえたのだろう。犠牲は出せない。見えぬ視界の中に、呂布はためらいも無く最高速度で突っ込んだ。「っ! 邪魔っ!」現れたのは、その場で足を止めた数十の騎馬の群れ。穂先を呂布に向けて何十の槍が視界を覆う。僅かに離れた場所で、また同じような地を鳴らす馬蹄の音。この留まる兵は要するに、捨て駒だ。呂布という天下無双の武を持つ将に対して、命を賭した時間稼ぎ。躊躇無く実行できるだけの、度胸と忠誠が彼らにはあるという事になる。「死にたくなかったら、どくっ!」恐らく、何十回と繰り返したところで聞き入れてはもらえないだろう忠告と同時方天画戟は中空に奮われ、4つの首が白煙に紛れて飛び消えた。―――・+激突し、火花を散らしあう両雄。馬超と張遼は時に距離を離され、近づき、戟を振るい、弾かれて遥か先に向かった董卓の軍を追いかけていた。周囲に兵は居ない。馬超の部隊は馬岱に預けてあるのだ。その理由に、馬超はこの一騎打ちに負けるつもりなどさらさら無い事。部隊はむしろ、邪魔になる事が挙げられる。そして、馬超に付き従う部隊は彼女のそんな想いは理解している。例え破れ、命を散らそうとも潔く受け止める。むしろ、邪魔をした方が馬超は怒るという事実を知っているからであった。そんなある意味、覚悟の決まりきった馬超と刃を交わす張遼はいい加減に限界を迎えていた。馬超と同じく、張遼の周りにも兵は居ない。呂布へと預け、今ごろ必死に守ってくれていることだろう。馬超の目標が自分に向いたことで自然と張遼が一騎打ちを行うことになってしまったが本来ならば逆であるべきだった。その方が速く決着はつく。しかし、張遼はそんな論理的な結論にならなかった事に感謝をしていた。馬超は強い。馬上での槍の扱い方は、張遼の知る名だたる武将の中でも随一と断言できるほどだ。実際、逃げに徹してようやく大きな傷を作らずに済んでいると言えた。最初から倒すつもりで打ち合っていたら、もしかしたら致命傷を貰い敗北していたかもしれない。馬上で『神速』の二つ名を持つ張遼をしてこの評価であった。「いい加減、しつこいんだよ!」「そりゃこっちの台詞や!」そう、張遼はもう、限界だった。兵は居ない。呂布が何とか、逃がすはずだ。この場には、戟を奮い合う敵と己のみしか居ないのだ。「やめや」「あ!?」「止めたっちゅうんや! 逃げるのはもう止めやっ! ぶちのめしたらぁ!」手綱を引く。馬の首が持ち上がり、前足は浮いた。釣られるように馬超の乗る馬も、体を預けて立ち止まる。「だらぁぁっ!!」「ッ、しゃおらぁ!」今、初めて張遼の全精力を傾けた一撃が、馬超の槍と重なった。防から攻へ。意識の違いが生み出した一閃は、馬超額当てを砕いた。舞う額当ての青銅のカケラが、陽光に反射して、まるでガラス片のように舞い落ちる。馬超の視界に、赤い線が落ちてきたのはそんな、時間が緩やかになった時だった。開かれた胸のあたり。張遼の皮一枚を剥ぎ取った馬超の一撃は、赤い線を引いて荒野の地に落ちた。どちらも軽症。たったの一撃の応手で、敏感に感じ取る。今まで感じる事のなかった、寒気が張遼と馬超の背中を走り相対する空気が変質する。死と隣り合う、世界に入ったのだ。「―――」「―――」声。どちらの声だ。視界に煌く銀の線と、相手の呼吸。揺れる馬上で動く、敵の肢体。時間が際限なく引き延ばされる。白昼夢でも見ているような、勝手に身体が動き、応え、迸る。馬超は、右腕に走る衝撃に夢から覚めたかのようにハッとした。張遼の左肩を、十文字槍が貫いていた。「っ! くくっ、馬超言うたな」「くっ!」張遼は笑った。 その瞳によどみは無く。貫いた十文字槍が動かない。怪我をした肩、左手で馬超の十文字槍を掴み、その穂先を引き抜いた。馬超は両の腕で槍を持っているというのにだ。「てめぇっ! 離せ!」「高うつくで! しっかり買うてや!」ようやく馬超は槍を手元に戻す事が出来たが、同時奮われた張遼の掬い上げるような一撃は無理な体勢で受けざるを得ず、致命的な隙を作り出す。左方で受け、衝撃に仰け反った馬超は人体の急所中の急所。心の臓を晒していたのである。「貰ったでっ!」まるで獣のような動き。衝撃で打ち弾かれた飛龍偃月刀は、慣性の法則を無視するかのように馬超の急所に差し迫る。馬超は悟った。張遼はまだ、夢の中だ。「くっっっそっ!」完全不可避の一撃であった。馬上であれば。馬超の生き残る道は、馬上ではなく地上にしか残されていなかった。転げ落ちるように、第三者が見れば無様と罵られるような格好で馬を捨て地を転がる。「なめんなぁぁぁぁ!」大上段からの一撃を僅かに身をそらす事で避けて、馬超は槍を突くように走らせた。その刹那の攻防の直後、馬超は身を折って後方に飛び跳ねた。焼けるような熱さだ。分かる。斬られたのだ。誰にだ。目の前の、張遼に。躱した筈の一撃が、軌道を変えて脇腹を裂いたのである。「っ!」馬超と同様、そこで張遼も夢から覚めることになった。そして張遼も、馬超も聞く。一騎。馬蹄を響かせる物がこちらへ向かう音を。同時に張遼は右方へ、馬超は左方へ顔を向ける。馬超の視界が捉えたのは見えるのは赤い髪に血塗れた服。長く伸びた二本の阿呆毛。馬上で持つは方天画戟。呂布だ。馬休と馬岱を追った呂布は、どうしても使い捨てにされる兵馬の垣根を越える事が出来ず自身の判断で馬家の総大将となる馬超へと標的を変えたのだ。実際、馬超を討ちとることが一番被害が少なくなる。張遼からの頼みで、兵を預かった呂布であったが、最善が取れない以上次善を取る事に変えた。それは、奇しくも先の馬岱や馬休と同じ結論に達し、方法はまったくの逆となった。馬超を討ち取る。「終わらせる」馬超へ一直線に向かう呂布。咄嗟に十文字槍を構えたが、目の前に相対していた敵をその瞬間、彼女は確かに忘れていた。真横で動く、死の銀閃。あと一足で飛び込んでくる、天下無双の武。「余所見してる余裕が、あるんかいボケェ!」「―――っ、ちくしょっ!」十文字槍の矛は、飛龍偃月刀を弾き飛ばした。「くそぉぉぉぉぉーーーーっ!」振るわれた方天画戟が馬超の視界を完全に覆った。 ■ もう二度と高い。場違いなほど高い音色が馬超の耳朶を響かせた。首を刎ね飛ばされる時になる音は、こんな耳鳴りのするものなのか。硬くした身の中、心中でそんな感想を抱いた馬超は音が止むと同時に目を開ける。「翠、遅れた」見上げた視界に、雄大な馬格と金の鬣を持つ馬が立っていた。跨るは目に悪そうな配色を身に着けた、黒髪の男。張遼の向けた視線の先で、一直線にこちらに向かっていた男―――北郷一刀。両手で歯を食いしばり、馬超の首を飛ばすはずだった、呂布の方天画戟を受け止めていた。半ばまで折れた、穴の開いた刀剣。その片割れが、僅かに離れた荒野の地に突き刺さる重い音が響く。「か、一刀……」「一刀、なんでや……」「北郷、お前……」「行くぞ! 乗れ!」三人とも、呆けたように一刀を見上げて口の中で名を転がしていた。それは、戦場に身を置く武将としては失格といえるほど、多大な隙を晒していたと言えるだろう。馬上から、馬超の肩を蹴飛ばして催促すると、いち早く放心状態から復活した馬超は一刀を見返す。「乗れよっ!」「っ、くっ!」身を翻し、金獅の背に跨る。背に馬超が乗った事を確認することもなく、一刀は金獅の腹を叩いて走り出した。乗り込んだ馬超に、張遼と呂布も同時に動く。「待ちぃ! 一刀! 何やってんねん、こんなとこでっ!」「一刀……一刀っ!」「ああ、そうだよ」「あほぉ! 何でやねん! なんでそっちに一刀がおるんや! 戻るんやろ、洛陽に、戻るって言うた!」「……っ!」金獅は、決して遅くはない。いや、どちらかと言えば速い。曹操の持つ名馬、月影とまでは行かなくとも、そこいらの軍馬はごぼう抜きに出来るほどの速度を持つ。身の上に二人も乗せていなければ、張遼や呂布を一気に引き離していても可笑しくはなかった。そんな金獅も、二人を乗せれば容易く追いつかれることになる。すぐに真横まで張遼が、その背を追うように呂布が肉薄していた。「答えぇ! なんで其処に居るんや! だまっとったら何も分からんでっ!」「守りたいからだよ」ぼそり、と一刀は口の中で転がした。馬上、しかも走っている最中に口の中で呟いた言葉は、当然彼女たちの誰にも聞こえない。納得が行かないのだろう。今はもう『反乱軍』に身を置いた馬超をその背に乗せる一刀は、敵。そう、敵だ。敵でなければなんだというのか。「一刀ぉぉ! 言わんかいっ! 敵なんやなっ! そっちに、ついたんやな!」「霞っ! だめっ!」稀……いや、ほぼ皆無だろう。呂布の悲鳴のような制止の声は、しかし、張遼には届いているにも関わらず聞き入れてはくれなかった。例え董卓の制止であろうと無視していたかもしれない。自身と肉薄する武を持つ馬超と、命を削る一戦を終えたばかりというのもあったが維奉達が居る邑でしばし生活を共にし、荀攸と自分の目の前で漢王朝を立て直すと宣言したはずの一刀に、どうしようもない憤りを覚えていた。洛陽に戻ると、約束したはずだ。郿城で見かけた"天"の旗も、兵はともかく張遼はさほど衝撃を受けていなかった。何故ならば、一刀の決してぶれない意志を目の前で見ていたから。だが、今はどうだ。北郷一刀はここに居る。漢王朝に起きた反乱軍を抑える為に出た、董卓軍と敵対した、馬超をその背に守って。「あほったれ……っ!」張遼の後背に差し迫る、空気を切り裂く重い音。呂布の方天画戟が一刀と張遼の間に割って入ろうとしているのが、張遼にははっきりと認識できた。しかし、張遼の腕は止まることなく振り落とされた。振るわれた飛龍偃月刀は馬超に負わされた怪我のせいか、鋭さは失っていたが気迫に覆われて呂布の方天画戟をすり抜ける。「あほったれぇーーーー!」折れた剣の柄近くで、一刀は手の甲を切り裂かれつつもしっかりと受け止める。衝撃に、金獅の馬体がやにわに動き、赤い飛沫が舞い上がった。「守りたいからだっ! 翠は"俺"が守る! もう二度と―――」一刀の背にくっつくように手を回していた馬超の、時間が引き延ばされた。 ■ "馬の"―――何言ってるんだよ。 そりゃ、俺は確かに弱いけど……―――見てくれよ、翠。 鉄っちゃんに教えてもらったんだ。 回せるようになった!―――違う、不可抗力だ! 馬騰さんが覗いてみろっていうからっ! え、エロエロ魔人!?―――迷ったら俺に聞けよ。 一応、軍師なんだし……って翠、その目やめてくれよっ―――気? 良く分からないけど、便利そうだなぁとは想うけど……教えてくれるの?―――好きな女の子を守りたいって、男は皆思ってると思うんだけどな。 ああ、いや、なんでもないよ。―――翠、服を作ってみたんだけど…… 「……あ、あのさ」「ん?」荒野に遠く広がる地平線の彼方。沈み込む夕陽が、星を連れて闇の帳を落とす頃だ。一刀は馬超と共に横に並んで座っていた。「今まで、あたしはずっと守る側だったんだなって」そうだなぁ「なんか、そう、その、あのさ……か、一刀の前では……」うん「一刀の前では……お、女の子で居て……ぅぅぅ……くああああっ、言えるかこんな恥ずかしいことっ!」翠「な、なにだよ!?」翠は俺が守ってやる。 俺が絶対に守ってやるから、俺の大好きな女の子で居てよ「っ…・・・うぁ……あぁーーー」愛してる「☆□△○×!?」『―――ば、馬超将軍が討ち取られました!』---・引き伸ばされた時間が戻る。「―――二度とっ、失って、たまるかぁぁ!」啖呵を切って、一刀は張遼の獲物を押し出すように弾き飛ばした。直後、馬超の身体が泳いで一刀の背に体重を預ける形で寄りかかる。弾かれ、小さく仰け反った張遼の隙を逃さず、呂布が二人の間に割って入った。「恋っ! そこどきぃ!」「……」「二人共、引いてくれ! 頼む!」「聞けるか、そんなこと!」無言で首を左右に振る。武器こそ振るっていないものの、呂布が間に居なければ再び振るわれていただろう。一刀、張遼、呂布の三人はにらみ合う様にして平行して移動していたが、しばし走ると正面が窪地のように抉れた場所に人馬一緒に投げ出され、慌てて手綱を引くことになった。落馬こそする者は居なかったが、着地後、金獅を除いた馬のほうが潰れてしまった。金獅もその背に一刀と馬超を乗せているせいか、吐く息は相当に荒くなっていた。「一刀」お互い立ち止まって、妙な間が空いてからの第一声は呂布……真名を呼ぶことが許された恋だった。恋が洛陽を飛び出して董卓に世話になることになった経緯は、目の前の男のせいでもある。音々音との約束もある。故に、董卓の陣営に拾われてからも一刀の事を捜し歩き、賈駆をいらつかせたのも数度ではない。馬超の首を落とすはずだった一撃を防がれた時、その相手を確認した時、恋の胸中に浮かんだのは一刀が無事で生きていて良かった。そんな一念だった。そして、そんな彼女が次に思った事はこうだ。蹇碩の魔の手から守ることは出来なかったが、音々音との約束はまだ生きている。またいつか、一刀と共に音々音の居る洛陽へと戻ること。「一刀、一緒に―――」「恋、そこに居て良いから」「……」「信じろよ、俺……あぁ、"俺"は必ず戻る」「わかった。 信じる」一緒に行くと言葉にする前に、それを予期していただろう一刀の声がかぶさってくる。呂布はこれもまた、無言で首を振ろうとしたが、続けて開かれた一刀の言葉に頷く事になった。その恋の頷いた様子をしっかり確認してから、一刀は手綱を引いて馬首を返す。足の無くなった張遼達が、金獅に追いつく事は不可能だろう。「一刀、覚悟しぃ。 報告しないなんて、甘ったれた事はせんで。 友人でも敵は敵や」「ああ、しっかり報告してくれ。 じゃないと困る」「……っ、見損なったで! とっととうちの前から消え失せぇ!」「……もちろん、そうするよ」腹を蹴り、走る金獅を呂布は見送っていたが、その視界に赤みを帯びた銀の光が遮ることになった。ゆっくりと首を曲げれば、飛龍偃月刀を差し伸ばす張遼の姿。「恋、どうしてこっちに来たんや。 うちらの兵はどないした」「一人じゃ守れなかった。 大将を取った方が早いからこっちに来た」「うちは恋に預けたんやで。 将を失って孤立した兵は、壊走しとるやろな」言い終わるが早いか、張遼の振るわれた拳が呂布の頬を打ちぬいた。もちろん、飛び込んでくる拳には気がついていたが呂布は避けることなく張遼の一撃を受け取った。兵を任せると頼まれ、応と返したのは他ならぬ自分だ。任された兵を捨て、大将の首を取り損ねたのも自分だ。この拳を受け取らなければならないことを、しっかりと分かっていたからこそだった。蹈鞴を踏んで身体が泳ぎ、唇の端が切れて血が滲んだ。打ちぬかれた右の頬を手で触れる。「次の戦、恋は留守番や。 相手見て態度変えるような将とは一緒に戦場で戦えへん」「……」「恋」「ん」「うちにも一発や。 馬超の挑発染みた一騎打ちに応じたのも、我を忘れて一刀を追いかけたのも兵を見捨てたと同じや」「分かった」しっかりと握りこんだ拳が振るわれて、張遼は大地に寝転がる事になった。倒れて開けた張遼の視界には、ムカつくほど真っ青な青空が広がっていた。「みんなアホばっかやな……」明らかに偽の公文書によって誰かに踊らされているだろう馬超も。そんな馬超を守ると言い張った一刀も。一刀を、今もなお追いかけ続けている呂布も。こうして仲間に殴られて大の字になって空を見上げる張遼も。頭の奥まで響く鈍痛に、顔を顰めながら張遼は一人呟いた。---・一刀は金獅を休ませることなく、陽が傾き出した太陽を背にしてひたすらと荒野を走っていた。董卓の軍勢がどの程度の規模か、一刀には判らなかったからだ。一刀が姿を見せた時、周囲に兵の姿は無く、張遼と激しく削りあう馬超の姿だけであった。金獅の手綱を引いて、全速力で向かった時に恋の姿が垣間見えた。間に合うかどうか、と言ったところだった。もしも跨っている馬が黄巾の乱からのパートナーである金獅でなければ、恐らく間に合わずに馬超は死んでしまったかもしれない。これだけ離れれば平気だろうと、一刀はようやく手綱を緩めて金獅の速度を落とし始めた。袁紹から貰った剣は、今度こそ使い物にならなくなってしまったが、それ以上に大きな相棒を授けてくれた。今度会った時には、改めて金獅の事で礼をしよう。まずは、頑張ってくれた今に感謝をするべきだろう。一刀は微笑み、首筋をポンポンと叩いて囁いた。「ありがとう、金獅……」「ブルルッ」「わあああああああっっっっ!」直後だった。一刀はその背を突き飛ばされて、荒野に転がる事になった。突然に喚き出し、一刀を突き飛ばしたのは金獅の背に一緒に乗っていた馬超。予想外の衝撃に、一刀は地面に倒れこむと同時、短く肺の中の息を吐き出した。「くっっふ!」「なんだよ! なんなんだよお前!」「す、翠……っ」そのまま組み敷いて、一刀の上に馬乗りになると、馬超は一刀の顔のすぐ真横に拳を振り落とした。お互いの顔が触れるほどに接近し、顔を歪めて押し迫る。一刀は小さく咳き込みながらも、馬超から目を逸らさなかった。いや、逸らせなかった。何故ならば、彼女の両目は赤く腫れており、涙の後が頬にくっきりと残っていたからだ。愛しい……そう、愛して止まない女が目の前に居てどうして目を逸らせようか。「ふざけんなっ! あたしはお前なんか知らないっ! 知ってる筈無いのに、こんな気持ちっ!」「お、落ち着けよ! 翠、痛いっ!」「真名も許した覚えなんかないっ! 女の子だとか、可愛いとか、愛してるとか、そんな事言われた事もねぇよ!」「す……お前……」襟首を持たれて一刀は息苦しさを覚えながらも、彼女の言葉に一つの心当たりを覚えた。アレだ。自分以外の脳内の人間が思う人々に本体が触れた時に起こる、なんらかの感情の働きかけが馬超に影響を及ぼしたのだ。確かに、一刀は金獅の上で馬超と接触をしていた。あの、感情を揺さぶる現象が起きていても不思議ではないし、金獅に乗せた際にそうなる可能性は高いと踏んではいた。しかし、何時もとは明らかに違う。性格による応対の変化では済まされない。明らかに、激情に動かされて馬超は一刀に歪んだ顔を見せている。「ば、馬超……さん」「今更、今更っ名で呼ぶなよっ! そんなのは嫌だ! それも嫌なんだけど、うあああああっ、もう、なんなんだ、訳が分からないっ!」「へ、平気か!?」一刀へと詰め寄って襟首を掴んでいた手は離されて、馬超はその顔を両の手で覆った。かと思えば、一刀の上から転がって地面に倒れると、嗚咽を漏らし始めたのである。訳が分からないのは一刀も一緒だった。いや、恐らくだが何故か本体から主導権を奪い続けている"馬の"の影響が大きく響いていることは間違いない。しかし、本体に触れた大切な人たちが、実際にどのような感情に襲われているのかなど、一刀には皆目検討が付かないのだ。もしかしたら自分でも分かっていない感情なのかもしれないという予測もあった。「お、おい……」「触るなっ!」「あ……ああ、すまん……」名を呼ぶことも出来ず、触れることすら許されず、一刀は困ってしまった。強く息を吐き出す目の前の愛した人。自分よりも、誰よりも大切な女。目の前に居ても何も出来ない。一緒に歩んだ翠は、本体の歩んでいる外史の翠ではない。一刀は本体の中に居て、久しく忘れた感情が爆発しそうになった。俺は一体、なんなんだ、と。「北郷一刀―――」「あ、ああ」「じゃない……」「え?」震える声で、そう馬超は言った。「お前はあたしの知る北郷じゃない……絶対そうだ。 そうじゃなきゃ、こんなこと無い……誰なんだよ」「……俺は」「誰なんだよっ……」翠は俺に気付いたのか。"馬の"はそう思わずに居られなかった。だって、現実としてこの場に居るのは北郷一刀以外の何者でもない。過去の想い出も、性格も、好きな物や気に入らない話だって北郷一刀と一緒だ。『"馬の"』『おい、"魏の"。 よせよ』『黙ってろ"呉の"。 この際だから全部言っちゃえよ』『良いのかよ……本体?』(……)―――もしも、俺が脳内の俺と同じ存在で。―――俺が音々音とこうして出会うことしか出来なくなったら。(いいよ。 俺の外史っていうけど、皆だって俺だ。 少しくらい我がまま言っても何にも言わないよ。 だってそうだろ。 俺だって皆が居なくちゃ馬元義に殺されてたかもしれない。 もっと早くに野垂れ死んでたかもしれない。 ねねに……会えなかったかもしれない)『……本体が、そう言うなら良いが』「すまない」「……っ?」謝罪の言葉に、馬超は顔を隠していた両手を挙げて前髪を掻き揚げるようにして一刀を見返した。真面目な顔をして目を瞑った一刀が再び目を開けた時、馬超と視線が交わる。突き上げてくる感情が槍となって、心臓を突き刺してきたかのようにドクンと跳ねる。ゆっくりとこちらへ身体を起こす一刀に、馬超も身を起こそうとしたが、片腕を取られて引き倒された。「っっ! な、何をっ!」「翠」「や、やめろ。 なんだよ? 顔が近いっ―――あっ!」制御の効かない感情のせいであったのだろうが、先ほどは自分からくっつく程顔を近づけたというのに慌てている馬超に、一刀は苦笑した。腕を後ろに回し、緩すぎず、また力みすぎない程度に身体を抱く。確かに感じる、鼓動と匂い。自分の腕の中で確かに、息づいている。「訳がわからなくたって良い。 気付いてくれなくても良い。 声をかけてくれるのが、俺じゃなく本体でも構わない……」「い、おい、ほ、ほ、ほんごー?」自分の前で、女の子として居てくれると、恥ずかしがり屋な翠が言ってくれたこと。そんな彼女を守ると、絶対に守ると言った。しかし、それは叶わなかった。そこで一刀は思った。次があれば必ず守ってみせる。青抜けた空の下、投げ出されて反転する世界の中で、一刀はそう誓った。その誓いは、本体やみんなの力を借りて為す事が出来たのだ。ああ、そうか。謝るんじゃない。俺が本当に目の前の愛する人に告げたいのは、こんな事じゃないんだ。「翠、愛してる」「なっ、なな、何、言って……」「服一つ着るのにも恥らうところも、純情過ぎて自分の容姿に自信の無いとこも、誰かの為に本気になって怒れるところも、全部好きだ」「う、あ、あたしはっ、嫌いだっ……あたし、第一、お前のことなんか、知らない、全然知らないっ……それに、許してもいない真名をポンポン呼びやがって……っ」「馬超って呼ぶなって、翠が言ったんじゃないか」「うぐっ、そ、それは」「それに、知らなくたっていいさ。 俺が言いたいだけなんだ」―――君と、歩いてきた北郷一刀が。一刀は身を引くと、真っ直ぐに馬超へと視線を合わせる。お互いに前髪が触れるほどの距離。馬超は胸の鼓動が直接耳朶に響いているような錯覚を抱いた。まるで心臓だけ、別の生き物になってしまったかのように激しく動いている。一刀の唇がやにわに開かれ始めたのを、馬超はしっかりと見て、そして硬く目を瞑った。「や、やめろよぉ……」顔を真っ赤にして目を瞑る目の前の愛する人の姿は、一刀が知る翠とまったく一緒だ。妙に押されると弱いところも、そうだと言えよう。翠は、やはり翠だ。世界が違うとか、一緒に居た人とか、そういう違いなんてまったく無い。「……守る事が出来て、良かった」ついに陽が沈みこもうかという頃。金獅の足元で一刀と翠の影が荒野で重なった。―――・主導権を取り戻した本体は、一夜を荒野の中で過ごし、凝った身体を解すように左右に首を振りながら肩を一つまわす。"馬の"は張遼と馬超の一騎打ちを見かけてから、今に至るまでずっと主導権を奪っていた反動か何度呼びかけても返答は無かった。以前の"肉の"のように、しばらく復活は無いかも知れない。「とりあえず、すげぇ痛いわけだが」『まぁ仕方ないな』『好きな様にしろって本体が言ったんだし』押しに押された馬超の唇を―――恐らくファーストキスだろうか―――"馬の"であったがその接吻が切っ掛けになったのか。本気になった"馬の"は調子に乗ったのか、それとも自然の流れからか。馬超の唇を塞ぎながら、脇腹や背中に手を這わせ始めたのだ。いわゆる愛撫をし始めたのである。口を挟めそうに無い空間が広がり始め、脳内の一刀達は映画でも見るかのようにポップコーン片手に座りこむようなイメージでソワソワとし始めたのだがしばらく続いた蠢く一刀の手の存在に気が付いたのか。馬超は慌てるようにして一刀の顔面を両手で突き飛ばしたのである。その際、運悪く馬超の指が一刀の鼻の穴に入り込み、尋常でない量の鼻血が噴出したが、昨夜の内になんとか止まった処であった。とにかく、突き飛ばされたのを切っ掛けに本体に体の主導権が戻ってきた。"馬の"の満足そうな『ありがとう……みんな……』という声を最後に聞いて。ちなみに、その後馬超は脱兎の如く金獅を盗んで走り去ってしまった為、一刀は荒野に置き去りにされていた。「しかし、どうするかな」『思いっきり愛してる言っちゃったもんな』『どうするんだよ、本体」「いやぁ……まぁ、それはどうするって言われてもなぁ」『例えばだ、本体。 音々音にバレるとしよう』一刀は脳内の声に、背に氷嚢を突っ込まれたような気分に陥った。なんという恐ろしい仮定だろうか。どうするか、と本体が呟いたのは今後の行動についてだったのだが。『修羅場ってやつは怖いよな……』『ああ……』『男じゃ勝てないよね……』『うん……』急にしみじみし始めた脳内の声を他所に、一刀は仕方ないので徒歩で荀攸との待ち合わせ場所に向かう事にした。本当ならば、馬超を連れてそこで出会うはずだったのだが、予想外の連続が起きてこうなったのだ。仕方が無いだろう。半ば諦観の想いで歩きはじめた一刀であったが、時間も無い事だし少しでも近くに行かなくてはならなかった故である。昼ごろまで、とぼとぼと変わらない風景に辟易しながら歩いていた一刀だったがやがて視界に見覚えのある人馬が一騎でこちらに向かってくるのを捕らえた。「あ……」「……こんなとこに居たのか」馬超だった。逃げ出した後に、戻ってきたのだろうか。一刀としては嬉しい反面気まずかった。行為を致そうと半ばまで暴走し、拒絶された女性とあらば男として気まずく無い筈が無いのだ。一刀は頭を掻いて馬上の馬超を見やる。昨日の錯乱っぷりが嘘のように、落ち着いた彼女は胡乱気な顔で一刀を見下ろしていた。「あー、戻ってきてくれてありがとう、馬超さん」「……」金獅から飛び降りて、馬超はそっぽを向いた。今、彼女はどのような感情を抱いているのだろうか。昨日の様子では、まるで"馬の"の事に気がついているかのようであったが、事実として見ると一刀の身体は一つしかないわけでそれはつまり、一刀が行為を迫ったと見ても間違いではない。まぁ、全員一刀なことは一刀なのだが。なんにせよ、明らかに今までに無い程の感情の発露を見せた馬超がどういう思いをしているのか、というのは"馬の"に限らず、脳内の一刀全員が興味を惹く事柄でもあった。「あの……さ、真名でいいから」「え?」「だからっ……その、真名で呼んで良いって言ってるんだ」「……翠」「うわああああっ! なななななん、なに、何だ!?」まるで敵と相対した時のように、翠は身構えつつ一刀へ向かって呂律の回ってない言葉を投げかけてきた。一刀もそんな翠に驚き、無意味手を前に出して、まるで頭を守るように身構える。「いや、真名で良いっていうから呼んでみただけなんだけどっ!」「わ、分かってるよ! ちょっと急に呼ぶから驚いたんだ!」「う、うん……」お互いに不恰好な姿勢を崩して、顔を背ける。なんというのだろうか。一刀は昨日の出来事があるせいで、非常に気まずく、同じように翠も気まずいのだろう。何と声をかければいいのか分からなかった。「あの、翠」「な、なぬ?」「なぬ? いや、あのさ、真名ありがとう」「……それはだって、どうせ一刀は勝手に真名を呼ぶじゃないか」「……いや、ちょっと違う、俺じゃない俺が勝手に言うんだ」言い訳にすらならない台詞が一刀の口から飛び出したが、翠はきょとんとした顔を向けてクスリと笑った。「そうか……それならしょうがないかもな」この翠の反応に一刀はどちらの意味で捉えるか悩んだ。一つは本当に真名を口走る男だと思われており、呆れつつ真名を呼ぶことを許したのかそれとも、一刀の中にいる"馬の"の存在に気が付いているからなのか。そこまで考えて、ふと翠が自分の事を下の名前で呼んでいることに気が付いた。その事を聞こうかと口を開いた一刀であったが、その前に翠の声が飛んでくる。「あのさ……その……えーっと、昨日のことだけど……」「うん、何?」「あ、ありがとう」「……礼は受け取る。 それとさ、翠」「なんだよ?」一刀は意を決したかのように翠へと向き直った。急に真面目な顔を作って振り向いた一刀に、翠は頬を僅かに紅潮させて視線を向ける。今ここで、一刀はハッキリさせようと考えたのだ。翠は一刀の中に居る"馬の"の存在に気が付いたのか。あの爆発するような感情には、どういう物が含まれているのか。もしかしたら、この話を聞いた翠は、一刀のことを本当に狂人であると思ってしまうかもしれない。自分の秘密を話したことがあるのは、音々音だけだ。しかし、それでも。今後、同じような状況に陥った時の為に、知っておく事は重要であろう。「俺は、本当に俺じゃない自分が何人も俺の中に居るんだ」「どういうことだ?」「言葉の通りだよ。 同じ人間が何人も、一つの身体に在る。 それが俺なんだ」「……良く分からないけど、一刀が何人も居るって話は分かったよ。 昨日の……その……あの、あれも今の一刀じゃない一刀って事だろ」「翠、やっぱり気付いてたのか」「信じられないけど、でも……分かるよ。 一刀のことなんて何にも知らなかったんだ、エロいってことくらいしか」言葉の末尾には色々と物言いたい処もあったが、一刀は黙って翠の話に耳を傾けた。最初はまるで、夢の中に居るようだったという。様々な場面での一刀―――恐らく、“馬の”の外史の中―――との触れ合いが、夢の中で再現されて在る筈の無い思い出が蘇ってきたのだという。交わした会話。触れ合った身体。そして、重なる心。体験していないはずの体験を夢の中を通して経験した。虫食いのように断片的ではあったが、それは確かに自分であり、一刀との思い出であったという。翠の話を聞くに当たって、一刀は得心したように頷いた。一刀の脳内の出来る事の一つに、洛陽で編み出したイメージを送る事で映し出す能力がある。"肉の"から発覚したこの事実に、脳内の一刀達はそれこそ、血を見るような努力によって同じ能力を手に入れることに成功したのだ。まぁ、それは本体が目撃した少女である必要があったのだが。要は、それの強化版とでもいうのだろうか。他者へ、自分の想いの丈を映し出した、とでも言うのか。『なるほど……それは、困惑するわけだな』『ていうか、性質悪いな俺達……』『洗脳、みたいなもんだよな。 証拠の無い……』洗脳……そうだろうか。何も知らない状態で感情に影響を与えてきた本体ならば、一も二もなく脳内に頷いたところだろうが落ち込む脳内の声に、本体はふと思った。外史を跨いでいるとはいえ、確かに"俺達"は愛する人と一緒に苦難を共にして、駆けてきていたはずだ。今までは彼女達の豹変振りの理由を聞けず、脳内達の言う洗脳という言葉がピッタリ当てはまる事から他人の信頼を借りて親愛を得ている、という風に本体は感じてきた。だが、実際に影響された翠の言葉を聞いてふと違う面から考える事ができたのである。それは、愛する人をこの外史で取り戻す事。"馬の"が想いの丈を翠に告白する前に、自分と音々音が"もしそうだったら"と考えた。本体が脳内と同じ立場であったのなら、音々音に振り向いて欲しいと思うだろう。そもそも。多くの外史を駆け巡った自分達と、まったく違うスタート、条件であった本体だ。"無の"が言う様に、外史という存在が誰かの願いで作られた物だと言うのならば"北郷一刀が別れた女(ひと)ともう一度再会して愛し合いたい"そんな願いで作られた外史だという可能性もあるのではないか。「まぁ、だから。 なんていうか、知っちゃったから。 その、一刀のこと」「ああ……」「あああ、あ、ああ、愛とか、そういうのは、その……分からないけど……」一刀は口の中でモゴモゴと喋る翠を見て、だんだんと笑いがこみ上げてくるのを感じた。自分の事だというのに、野次馬的な楽しさというのだろうか。要するに、今の翠の状態は一刀の中の"馬の"に照れているという感じだろうか。脳内が良く本体のことで茶々を入れてくる気持ちが、なんとなく分かってしまった。「くっ、あっはははははは」「な、なんだよ! 何笑ってるんだっ!」「くくっ、ごめん、でも良いよ。 そんな難しい事考えないで。 俺だって本当のところは良く分かってないんだ」一刀は堪える事を忘れ、盛大に噴出した。翠の抗議を手で押さえ、収まった頃に金獅の手綱を引いてその上に乗る。実際のところ、"馬の"が翠に送ったイメージというのも推測でしかない。外史の事だって、本当に分かるだろう脳内で噂の"貂蝉"という方とかが現れない限り真相が分かることはないだろう。「さ、そろそろ行こう。 俺は俺で、翠は翠だ。 出合ったのもつい最近だし、俺は翠と仲良くなれただけでも嬉しいよ。 ごちゃごちゃ考えるよりは気楽に付き合おう。 その方が良いだろ?」金獅に乗った一刀が、翠へと手を差し伸べて乗るように催促しながら言った。そんな一刀に翠はむくれて、ブツブツと何かを呟く。「な、なんだよそれ。 お前が愛してるとかいきなり言うから、あたしはこうやってずっと……」「金獅、悪いけどまた頼むよ」「……」それは一刀には聞こえなかった。諦めたように溜息をついて、翠はしばしジットリと金獅に声をかける一刀へ恨めしい視線を送っていたがやがて一つ頭を掻いて一刀の後ろに乗り込んだ。「行こう、とりあえず蒲公英や荀攸さんたちと合流だね」「……」手綱を引いて、一刀は金獅を走らせる。その背にコツリと翠は額を当てて、自分以外に聞こえないような声量でひっそりと呟いた。「……守ってくれて、ありがとう」良く晴れ渡った荒野。一刀と相乗りで馬上に跨る翠の感謝の言葉は金獅の巻き上げる砂煙に、紛れて消えていった。果たして"馬の"に、届いたかどうかは分からなかったが。 ■ 擾乱は騒乱へ「なるほど、まったく分からん」一刀が馬軍と董卓軍の中に飛び込みに行った頃だった。武威の城中から飛び出した、ある一団が居た。荷馬車には行商用の商品だろうか。重そうに二頭の馬がゆっくりと歩いて運んでおり、その少し先を荀攸と馬鉄が並んで歩いていた。「はぁ……余り期待はしていませんでしたが、やはり分かりませんか」「うむ、あまり俺は頭が良く無くてな」「でしょうね」「なんだと、侮辱するか!」「だって、馬鉄さん。 自分で今言ったじゃないですか」「なに? ああ、そういえばそうか」こうして商人に化けているのは、もちろん理由がある。移動をするだけならば、馬だけ居れば十分なのだ。荷台に積んでいるのも商品ではなく、棺だ。荀攸と馬鉄がどうして、わざわざ商人に化けて棺を運んでいるのか。それを彼女は馬鉄に先ほどから説明していたのだが、返ってきたのは分かりませんという返答だったのである。「俺に毒を食らわした筈だけど、実は違って韓遂の野郎が犯人で無実だった耿鄙の遺体を捜すってのは分かった」「ではもう一度」「なんでだよ」「良いからお願いしますね」「……俺に毒を食らわした筈だけど、実は違って韓遂の野郎が犯人で無実だった耿鄙の遺体を捜すってのは分かった」「そうです。 忘れても二度は言いませんから」「なんだか妙に不機嫌だな。 どうしたよ」「別に、不愉快なだけです」それは不機嫌とどう違うのか。馬鉄は問い質したくもあったが、小難しいことを言われても分からないので結局聞き出すのはやめる事にした。もともと、こうして商人に化けて耿鄙の遺体を捜すことは荀攸の役目であった。ただ幸か不幸か。華佗の腕が良すぎるのが返って災いし、出かけようかという段になって馬鉄が動けるくらいに復活した。華佗からは安静にしておくように強く言い聞かされていたが、耿鄙に毒を盛られたという話を聞くとすぐに激昂。そのまま城中を飛び出して愛馬に乗り込み、怒涛の勢いで馬超の向かった荒野に走り出すところを寸でのところで荀攸が止めに入った。武将とはいえ、病み上がりでは首を取られるかもしれない。そんな心配と、今から飛び出して一刀の迷惑になっては困るからというのもあった。一刀。そう、一刀だ。荀攸はいきなり馬上で、両手を同時に振り上げて、自分の太腿をバンバンと叩き出した。「おいおい」「お気になさらずに」「しっかし、まぁ韓遂の罠を破る策っての一刀と荀攸が考え付いたんだろ? すげぇよな」本心では在るが、馬鉄としては何だか不機嫌さを加速させている荀攸が怖かったというのもあった。その為、この会話は話の矛先を変える為にしたものであったが、それは逆効果だったようで無表情のまま荀攸は馬鉄へと首だけ向けた。トコトコと馬に跨って歩いているので、無表情の荀攸が平行移動しているのが、逆に恐怖をかもし出す。武威を出てからこっち。ずっと荀攸はこの調子だ。馬鉄は疲れた顔をして馬上で体勢を崩した。「言っておきますが、これは策でも何でもありません。 これを策だと言い張るのなら私は自殺します」「自殺って……おまえ」「良いですか。 策というのは現実に即して考えなければならないのです。 例えば、今回で言えば"説得"です。 まず一刀様の思いついた策を成功させるには漢王朝に叛意を抱いた馬超殿を説得しなければなりません。 よしんば、彼女の説得に成功したと仮定して、次は既に襲ってしまっただろう董卓軍を説き伏せねばなりません。 はっきり言って無理でしょう? 無理なんです。 でもやる気なんです一刀様は馬鹿ですから」「……?」「問題はまだあります。 仮に全ての説得が成功したとしてもですよ? 涼州での反乱軍と官軍の衝突は大規模な物になるのです。 何故ならば、策がほぼ的中したと言って良い韓遂殿が決戦を仕掛けるはずですから。 そんな大決戦に一刀様が参加するのは利点よりも欠点の方が大きいんです。 死ぬ可能性の方が高いです。 つまり、馬鹿です。 ていうか、常人なら此度の件はもう無視して次善の策を練るべきなんですよ? 何よりですね、董卓軍と接触することは"追放"された"天代"が表舞台に立つという事に他ならず この前忠告したばかりの、宦官が仕掛ける筈の罠に嵌る可能性と言う物に一刀様は気付いている。 にも関わらず正面から立ち向かおうとしてる他に類を見ない馬鹿なんです。 危険でしょう? 馬鹿ですよね。 ちょっと聞いてるんですか馬鹿さん」「ああ? 聞いてるよ……ん? 今最後変じゃなかったかおい?」「気のせいです。 つまり、この件に於いての一刀様の行動は無謀以外の何物でもありません。 現実に何一つ即していないじゃないですか、第一ですね―――」馬鉄は大部隊の一斉連弩が打ち放たれたかのように、止まらない荀攸の不満を適当に聞き流しながら理解した。いや、話の大半は―――策そのものは聞いたが、あまり覚えていない為―――意味不明ではあったが一刀に対して大きな不満を抱いていることはハッキリと分かった。時折、思い出したかのように荀攸は両手を振って自分の身体ではなく、遂に乗っている馬にまでバシバシと叩き始めたりしていた。見た目だけで言わせて貰えば、馬鉄には子供が癇癪を起こして拗ねているようにしか見えない。そんな荀攸を見て、馬鉄はふと気が付いた。一刀の命が危険であることに、これだけ不愉快になっているということはつまり、アレだ。「ああ、そうか。 荀攸は一刀が心配だってことだな? いやぁ、あの野郎も中々にモテるな」「何言ってるんです? 私が好きな方はもっとでっぷりしててお腹が出てて、犯罪を起こさないような優しい人です。 ああ、この人は私が居ないと駄目なんだなって思える人が良いです。 馬鉄さん、誰か良い人知りませんか」「うーむ……よぉし、じゃあ俺とかどうよ」「ふっ」荀攸は明らかに蔑んだ眼差しを馬鉄に送り、向けていた首を前方に戻した。「うわ、うぜぇ! 冗談で言ったけどうぜぇものはうぜぇ!」そんなやり取りをしつつ、一応は真面目に耿鄙の遺体を捜してはいる。荀攸としてはほぼ、芽の無い一刀の考えに頷いて、こうしてお手伝いをしているのにも理由はある。漢王朝は既に死に体に近いことは間違いない。馬超が実際に漢王朝に反旗を翻した際、躊躇いを残しつつも武威の民が付き従ったことから、荀攸はその片鱗を垣間見たのだ。黄巾の乱が農民主体として立ち上がった反乱であることは既に知っている。これは漢王朝が持つ民への求心力の低下が伺える出来事だった。そして馬超が立ち上がった側面には、間違いなく漢王朝に不満を抱く諸侯という構図があるはずであり、そんな馬超の感情も馬家の内政を手がけた荀攸には理解が出来てしまった。武威は放置されている、という言葉が似合うほどだ。漢王朝にとっては確かに、中央からも離れて工業、生産力が少なく、漢王朝を脅かす異民族と隣接した武威の地は扱い難い。だが、蔑ろにするには些か度が過ぎているとも受け取れる。黄巾の乱からこっち、収めるのに躍起になって周りが見えなくなっているのも多少は関係しているのだろうがそれで新たな敵を増やしてしまうほど憎まれては元も子も無いではないか。そんな漢王朝の実情、実際に諸侯を纏め上げた北郷一刀という者は眩しい光になる可能性が大きい。大陸に轟いた噂『天の御使い』の名は、漢王朝を生き長らえさせるのに確かに大きな効果を発揮していた。荀攸から見て例え0に等しい一刀の考えでも、成功するならば手を組み続けるに相応しい者が一刀しか居ない。そんな理由があるから、一刀の考えに一応は賛成し手伝いをしているのだ。有り体にいって、荀攸は一刀をほぼ切ったと言って良かった。「ここで一刀様を止める事が出来なかったのを、私は死ぬまで悔やむ事になるんでしょうか」「ああ? なんだって!?」「少し、優しすぎるというのが欠点ですね」「あ? そうか……俺は優しすぎたのか……」「馬鹿というのも追加で」「おっし、やっぱお前一発殴る」「……」一刀へと向けた言葉が、何故か馬鉄の反応を呼んでいた。荀攸は馬の腹を蹴って無言で加速し、馬鉄もまた拳を振り上げて加速した。重たい荷物を乗せた荷馬車を、あわや置いていこうかという勢いで走りこんで、すぐに取って返したのは二人だけの秘密となった。―――・―――洛陽。丁度大通りの中央に設けられた庶民たちが休憩に使う広場の中、一刀が袁家の二人の間で大怪我をした場所にほど近く造られた椅子に寝そべる翁が一人。春らしい、日中のうららかな陽光に照らされて、大きな欠伸をかましていた。後退した髪を後ろに掻き揚げて、特徴的なひん曲がった口を窄め、口で笛を吹いていた。名を曹騰。陳留で覇気も露に活動する曹操の祖父であった。「おう、来たか」「爺さん、今日は何くれんの?」「あたしにも頂戴。 貰えるって聞いたの」「おうおう、こんな粗末な菓子で良ければくれてやるわ。 それより、前の話の続きをしてくれんか?」「いいよ。 ちゃんと覚えてるからね」過去、宮内で宦官として勤めを果たしていた曹騰は、眠たい目を擦りつつ待ち人が来たことに気付いて懐に手を伸ばした。その相手は、洛陽に住む子供たちだった。子供たちを相手に顔を綻ばせ、菓子を与える曹騰は誰が見ても洛陽に住む平和な一時を楽しむ爺に見えたことだろう。「なるほどぅ、袁紹って奴が入ったのかい」「そう言ってたよ。 それで、えーっとね」「まって、あたしも言う~。 お菓子貰うのにずっと黙ってるのも悪いもん」「ほっほ、偉いなお嬢ちゃん。 名は何ちゅーんだ?」「あたしは郭淮(かくわい)っていいます」「俺は鄧艾(とうがい)だぜ」「お主のは知っておるわ。 で?」「何進大将軍が、袁紹様をお呼びしたんだよ。 だからね、監視の目っていうのが柔らかくなるかも知れないって言ってたんだ」「……なるほど?」その言葉に、曹騰は目を細めた。周囲からは笑っているようにも見える薄目の奥には、宦官時代に張譲を初めとした多くの陰謀家達と凌ぎを削った鷹の様な鋭い目が隠されていた。ゆっくりと立ち上がり、曹騰は子供達にお菓子を与えて首を回した。伝言を子供達に託して。見上げた空に、鳥の群れがクルクルと回っている。「飛ぶ鳥はすぐに叩かれるたぁ、世知辛い世の中ってな。 鳥に隠れて地を這う虫も滑稽と言やぁ滑稽なもんだ」片手で抑えるように肩に手を置いて、曹騰はゆっくりと屋敷に戻る帰路へとついた。「滑稽な物の方が、見て楽しめる分好きではあるがなぁ」謳うようにそう嘯いて。―――・宮内の一室。大将軍として政務と軍部の統括に励み日々忙しない日常を送る何進の姿が在った。覚悟を決めて劉協の下に訪れた何進は、あの一件を振り返るに大きく進んだ後継者問題にようやく一区切りが付いたと感じた。次に当たるべきは、漢王朝に広がる乱の平定。それと同時に進めるべき、漢王朝の膿の排除であった。あの黄巾の乱で波才率いる大部隊が洛陽へ攻めあがった時。天代と初めて出会った、軍議で使われた部屋の中。何進は一人、共もつけずに上座に胡坐を掻いて人を待っていた。その人の名は、袁紹。後漢4代に渡って三公を輩出した、名門中の名門―――今の漢王朝に多大な影響を及ぼしうる諸侯の一人であった。孫堅を身内に引き込む事に成功した何進は、自分が出兵するべき物を孫堅に任せて出来た貴重な時間を、現状で浮かび得る問題の解決に乗り出すことにしたのだ。後継者問題、天代の追放、勝手な人事を横行し、やりたい放題と言って良い宦官。漢王朝の、毒。「身体の毒を吐き出さぬ限りはどうにもならん」この考えは間違っていない。まともに漢王朝の今後を憂えば、10人に聞いて必ずこの答えに辿りつくはずだ。宦官の持つ権力が大きすぎて、そうしたまともな答えを出せないのが現状なのだ。「何進様!」「ああ」「袁紹様が、ご到着なされました」「うむ、入れてくれ。 それと人払いを頼む」「はっ」しばし待つこと、果たして袁紹は扉を開けて威風堂々と入って来た。「お久しぶりですわね、何進大将軍。 このわたくしの力を借りたいと聞きましたけれど」「うむ。 座ってくれ。 誰の眼があるかも分からんので手早く済ませたいのだ」「そうですの? ならばとっとと本題に入ってくださいな?」「……うむ」―――・「段珪様、お待ちしておりました」「うむ、人払いは済んだか?」「は。 今は私と建物の反対側に居る兵しかおりませぬ」「そうか。 では約束の物だ」それは何進へ袁紹が到着した事を知らせた兵であった。段珪が懐から取り出した巾着袋を笑顔で受け取って、頭を下げて立ち去っていく。段珪は肩にかかる邪魔な長髪を一度掻き揚げて、扉へと擦り寄った。―――・「宦官を、排除するですって?」何進はやや大きな声を出した袁紹に、慌てて人差し指を鼻の前に当てた。袁紹は、何進の大げさな行動に眉を顰めて小声で話しかける。「大将軍、宦官は確かに気味の悪い奴らばかりですけれど、中央の政治に無くてはならない物でもあるのは事実ですわ」「分かっている。 宦官を排除するに当たって大きな混乱が訪れることは目に見えていよう」その口ぶりからは、確かに何進は宦官を排除した後のことまで考えているように感じられるが実際のところ、皇帝が死に、後継者も大きく劉弁側に傾いたとはいえ決着は終えていない現状だ。この時点で政務を取り仕切ってるのは宦官が中心であると言って良い。袁紹からすれば、今宦官を放逐することが原状回復に向かうとはとても思えなかった。愛の力か。天代の調教に皆勤賞で出席した袁紹は、勉強する事に意欲を出していた。そんな億分の一の確率であろうやる気を見せた袁紹に、袁紹軍に所属する軍師連中が黙って見逃すはずが無かった。今こそ攻め入る時! とばかりに竹簡の山を抱えて袁紹の執務室に毎日突撃し、煽て、煽り続けた結果本質こそ変わらぬものの、数多の外史に比較して賢くなっていると評価できた。そんな袁紹自身、求めるのは天代が王朝に帰属することである。話を戻せば、袁紹はこの何進が呼び出した用件を推測することが出来ていた。十回に一度、当たるかもしれないと田豊に評された本領を発揮したのである。「ちょっとお待ちになって大将軍。 宦官は私も早急に駆逐いたしたい存在ですわ」「ならば、協力してくれるか、袁紹殿」「方法は?」「下手に小細工を打っても利用されるばかりだ。 悔しいが、奴らは謀略に長けている事だけは確かでな」「真正面からぶっ潰すってことですわね。 あぁ、嫌ですわ。 あまり優雅ではございませんわね。 猪々子さんは喜びそうですけれど」予測通り、とはいかないまでも、概ね想像通りの話に袁紹は小さく息を吐き出した。宦官は確かに、物理的に―――要するに武力を用いて―――排除するのが一番早く確実だろう。下手な謀略を打てば、何倍にも増幅されて返って来る可能性が高い。何より、天代であった北郷一刀が碌な抵抗すら出来ずに追放された実例が、記憶に残っているほど近くに行われたばかりである。なるほど、漢王朝の膿は宦官であり、これを排除するに袁紹の持つ武力を借りたいという話になるわけだ。ゆっくり、そう。時間にして半刻は何進の話を聞きながらゆっくりと自分の考えを巡らして袁紹は一つの答えをはじき出した。「大将軍は、天代の事をどうお考えですの?」「"元"天代か。 惜しい人物だった。 彼が居ればここまで王朝が荒れることは無かったかもしれん」「それは私も同じ考えですわね。 でも今聞いてるのは宦官の排除後ですわ」「……袁紹殿」「なんですの?」何進は、険しい表情を作った。口ぶりから、袁紹が天代をいたく気にしているし、また期待をしていることに気が付いたのだ。ここで色好い返事を返せば袁紹は何進の元に容易に転がり落ちてくるだろう。諸侯の間でも特に強大な兵力と金を持つ、名家の袁紹が。しかし、何進の手元には長安に応援へ向かった皇甫嵩からの報告で"天"の旗が反乱軍に立っている旨の情報が転がり込んできていた。そこに居るのが天代かどうかの確認は取れなかったそうだが、可能性としては十分に在りえる話だと何進は感じていた。もし、袁紹欲しさに天代を呼び込もうとした時に、本当に漢王朝の反乱軍に参加していたらどうなる?袁紹は怒るだろう。嘘をついたと、何進に向けて矛を向けるかもしれない。こうして宦官の排除に袁紹を頼りにしているのは、各地で治めるべき乱が頻発したせいで正規の兵士が洛陽に少ないからである。下手をすれば、正規兵の中にも宦官と深い繋がりを持つ者が居て、こちらの思惑が兵から露見するかもしれないのだ。だからこそ、数多ある考えの中から、諸侯の力を頼ることにしたのである。袁紹を選んだのは、比較的大規模な軍を持つことから乱の平定に追われていないこと。形骸化したとはいえ、西園八校尉に選ばれ何進が軍部の話を持ちかけるのに不自然にはならないことが挙げられる。先ほどの袁紹のように、じっくりと自分の考えを纏めた何進は深い溜息を吐き出した。「天代は一度追い出された身。 漢王朝を恨んでいてもおかしくはないのだ。 迎え入れることは出来ない」「なるほど、大将軍の考えは分かりましたわ」「だが、袁紹殿。 貴方も宦官には煮え湯を飲まされてきただろう。 漢王朝に乱を齎すのは、宦官であるとも言える! 中央……つまり、漢王朝の心臓である洛陽の根幹が揺るがなければ、各地の諸問題も一気に解決を見せるはずだ!」「ちょっと大将軍? お熱くなるのは構いませんけど、声が漏れてしまうのではなくて?」「むっ」「それと、その話は正式にこの袁本初は突っぱねさせて戴きますわ」「何故だ!」机を叩いて食ってかかる何進に、袁紹は暑苦しいと一言零して理由を述べた。宦官が膿であることは何進の言う通り。首都である洛陽の根幹を押さえるのも、袁紹には預かり知らない事だが理解はできる。「ですけどね、事を起こすにしてもせめて、宦官よりも先に今起こっている黄巾の乱の後片付けと涼州の乱を鎮めるべきですわ。 田豊ちゃんは逆でしたけど、郭図ちゃんが言ってましたし。 それと天代様は戻すべきという点で、何進大将軍とは意見が合いませんわね」袁紹の言う事はもっともな部分でもある。現状でも、一応漢王朝の政務は回っているのだ。ここを先に手を付けることで混乱が起こるは必定。宦官を排除した場合、下手をすれば洛陽にかかりきりになってしまって乱の平定は諸侯を頼りにしてしまうことに為りかねない。既に、諸侯の力があってようやく反乱の相手を出来ている現状もある。諸侯に民の求心力が集れば、それこそ反乱などでは済まされない、漢王朝存亡の危機を迎え入れる事に成るだろう。しかし。「だがな、これはどちらを先に取るかという問題に過ぎないのだ。 このまま宦官共の中央権力の専横を許してしまえば、確実に漢王朝は死に滅ぶ!」「大将軍、私言いませんでしたこと? この話は乱を終えてからと」話は全て終わった。そう言わんばかりに立ち上がった袁紹を見て、何進は怒鳴りつけたいのを必死に我慢しつつ口を開いた。ここで袁紹の機嫌を損ねた大事に立ち上がってもらえないのは困るからだ。「分かった……! まずは乱を治めることに腐心しよう。 だが、もしもその時が来たのならば」「そうですわね……もう一度しっかり、話を致しましょう」「頼む……急に呼びつけてすまないな。 宦官共の目を欺くために、後2~3回はこういう話の機会を設けるから しばらく洛陽に留まっていてくれ」「そう? 面倒ですわねぇ……まぁ良いですわ。 それではさよなら、さよなら、さよなら、ですわ。 おーっほっほっほっほっほっほ」「っ、その高笑いは耳に障るからやめろっ」こうして何進と袁紹の談合は、今の時点では決裂した。―――・「よっし」「ぬっ」離宮の一角で、天代が教えた一つの遊戯。"将棋"というものを指しあう者が二人。十常侍筆頭としても名が挙がるしかめっ面を浮かばせる張譲と、熊のぬいぐるみを手の中で弄び楽しげに笑う趙忠の姿であった。最近は謀略を働かせる場面もなく、政務に問題があるわけでもない二人は、簡潔に言うと暇であった。そんな訳で娯楽に興じている訳だが、この将棋という遊びに二人は今夢中なのである。まぁ、張譲は将棋の才能に乏しかったのか、趙忠に勝つ事は稀だった。「譲爺弱いな~」「未熟者が、勝負はまだついとらんわ」「いやでも多分もう無理だよ? 席交換しても勝てる気がしないもん」「孫子には無中生有と言う言葉があるのを知らんのか」「意地っ張りなんだから、早くしてよねー」ほぼ勝ちを確信した趙忠が剥げ堕ちた熊のぬいぐるみの頭部を撫でながら椅子を前後にユラユラと揺らす。厳しい顔つきで盤を眺めていた張譲だったが、やがて目線だけを趙忠に向けて口を開いた。「趙忠、残念ながら劉協様を皇帝にするのは難しくなったのう」「そうだねぇ。 何進のおっさん邪魔すぎ」「まさか離宮に直接乗り込んでくるとはな。 これもまた、天代の影響ということなのだろうな」盤から目を逸らさずにそう言った張譲に、趙忠は肩を竦めた。何進が離宮に来ることは稀だ。時たま、黄巾の乱で共闘したからか、陳宮という外戚に話をしに訪れる事はあったが裏を返せば何進が離宮に訪れる理由などその程度でしかなかった。だからだろう。張譲達も後継者問題で揉めていた最中、何進が訪れたのも大した用事ではないと考えて深くは調べなかったのだ。そうして離宮に訪れた何進は、劉協へと直接面会し後継者問題について言及した。「今、漢王朝は洛陽中枢が乱れ、これが収まらないせいで大きな危機を迎えております。 劉協様、天代が薦めておられた劉弁様の即位を認めてくださいませ。 宦官に何を言われたのかは問いませぬ。 しかし、漢王朝の未来を憂うならばいち早く皇帝を即位させねばなりません。 こうして皇族たる劉協様の前で、後継者問題に首を突っ込む事をお許し賜れ。 もしも、即位を認めてくださらないならば、この大将軍何進。 漢王朝のために死を賭して願う所存でございます」大将軍であり、軍部を統括する何進が、話を蹴れば命を捨てるとまで言い出した。そのせいで、劉協はこれを認めざるを得なくなったのだ。事実、何進の気迫は本物であり、傍に居た陳宮すらも認めるべきだと劉協に囁いたほどである。大将軍何進の死は、活気付く乱を後押しする可能性を秘め、宦官のより強い専横を許す事態になりかねないからだ。劉協は何進に、自身の兄の劉弁をよく支えるように言い渡し、皇帝は兄に譲るとはっきり言ってしまった。これは決定的だった。滞っていた後継者問題が一気に推し進められ、もう一月、速ければその前に劉弁は漢王朝の第13代皇帝として君臨するだろう。何進のこの行動を、後から聞いた張譲は天代の影響が何進に及んだと思わざるを得なかった。もともと、何進は商家からの出。こうまで自分の命を盾に要求を通すような豪胆さは持ちえていなかったはずである。それは、張譲の人物眼から見てもそうだった。だというのに、宦官同士が争う後継者問題に首を突っ込んできたのだ。「まぁ仕方があるまいな。 どんな知者でも、人の流れを完全に読む事は不可能だ」「そうだよね。 でも劉弁様で漢王朝を立て直すことも出来るんでしょ?」「無理だな。 宦官も以前ほど結束していない。 これは天代の差し挟んだ人事と後継者問題の争いでしこりが残ったせいだ。 劉弁様はもとより自分の意見を持ちえぬ、言わば霊帝のように流される帝よ。 右へ左へ意見を変える宦官に振り回されて、良いように扱われるだろうな」張譲の断定した声に、趙忠はぽりぽりと頭を掻いた。「まぁ、劉弁様におべっかを使い、漢王朝から去る準備を進めて資産を肥やすのが一番だ」「ふーん。 時期を見て逃げ出すってことね。 あ、じゃあさ大きな屋敷建てるよボク! 河南の方でさ。 一回商人をやってみたかったんだよね」「それもよかろうよ」自分も、そろそろ引退か。張譲は長く仕えた漢王朝の中枢を去る未来に想いを馳せたが、だいたい人を殺す事しか考えてなかった事に気が付くと頭を振って盤上を見つめる作業に戻った。そんなときだった。部屋に、新たな人物が加わったのは。「あ、段珪のじっちゃんじゃん」「趙忠殿、張譲殿……」「なんじゃ?」「報告したいことが御座います」ただならぬ段珪の物言いに、趙忠は段珪へと不審な視線を向けた。張譲は盤上を険しく見つめて動かない。「何進大将軍が、宦官の排除を目論んでいるそうです。 動きには注意をされた方がよろしいかと」「うわー、なにアイツ、むかつくなー」「ふん……それで、袁紹か?」「そうですな。 話は決裂した模様ですが、袁紹殿以外の諸侯を頼る可能性は高いでしょう」「どうする、やっぱり殺しとく? ていうか死んだ方がボク達の為だよね」「ふむ……」張譲は顎鬚に手をやって、もう片方の手で懐から宝玉を二つ取り出した。コロリ、コロリと掌の中で回し始める。長く漢王朝で謀略を糧に生きてきた張譲が、考え事を始めたときにまわす二つの玉。趙忠も、段珪もやにわに掌が汗ばんだのを感じた。鋭い視線で張譲は、コロリコロリとまわす宝玉を持つ手とは逆の顎鬚を触っていた手がはたと落ちて、王手目前の王将を一歩横にずらした。妙な沈黙が支配する中、盤上に眼を移した趙忠によって謀略が露見し、その日のうちに宦官の企みがまとまる事は無くなったという。そして――――――・「って言ってた。 そんなところかなぁ?」「うん、ぜんぶ言ったはずだよ」「そうなのですか。 何時もありがとなのですよ」「じゃあもう帰るね、陳先生!」「また明日来るね「気をつけて帰るのですぞ。 陽は伸びたとはいえ、遅くなると親御が心配されるのですから」陳先生こと音々音は手を振り、子供達の姿が消えるまで見送った。曹騰との連絡を、音々音は子供達を通じて取ることに成功していたのである。そして、曹騰から齎される情報は非常に貴重であった。子供を通して、という部分に若干の不安は残るものの、自分が教育を買って出た中でも彼らは特に優秀であった。子供でも、情報という一点のみでならば有用に扱える。音々音が此処に目を付けたのは、桃香が洛陽の子供達と親しげに遊んでいたことが発端だった。曹騰からは、宮中、しかも離宮に篭っていては中々聞こえてこない民の声と商人達の噂話を中心に話を聞いてもらっていた。これにより、宮内で劉協を支えながら市井の最新情報を得られるというのものだ。噂話は噂話。根も葉もない下らない物も多いが、重要な情報を民草の中に落として安全を図ろうという者もいる。そして、一刀の噂が捉えられる可能性があるのは、こうした噂話の中にあると音々音は踏んだ。張譲達が劉協を皇帝にしようと動いた事で、監視の眼が自然と強くなった離宮では碌に連絡を取る事ができない。その為に打った手がこれだ。「何進殿は袁紹殿を呼んだ……袁紹殿には手紙で言い含めてるけど、ちょっと不安ではあるのです」とんとん、と踵で地面を叩いている少女が、音々音の後ろでコクリと頷いた。その服は皇位を現すものであり、今、漢王朝が抱える大問題の後継者の一人である劉協だった。勉強の合間として宮内を散策をするようになったのは、音々音が子供達の勉強を教え始めた時期と一致する。つまりは、そういうことだった。「袁紹には思いとどまってもらわねば困るな、ねね」「ですな。 袁紹殿も一刀殿には懸想していたはずなのです。 恋愛の心理を突いてやれば大丈夫だとは思いますが」「そうだな……ふぅ、そういえばねね」「なんでしょう?」「今朝、一刀の使っていた茶器が割れた」音々音は劉協はクスリと笑いながらそう報告したことに、肩を竦めた。劉協様の持っていた一刀の茶器が割れたのか、と。「実は、ねねが持っていた一刀殿の茶器も割れてたのです」「そうか……」「そうなのです」「では、女だな」「はい、恐らく一刀殿が毒牙を振るっているのだと思うのですぞ」「なるほど、ふふ」「くくく……」それは、何の根拠も無い推測であった。しかし何故か分からないが、その割れた茶器を見た時に二人とも直感のような物が働いたのである。それはそう、もしかしたら女性が持つ絶対感覚、女の勘という奴なのかも知れなかった。洛陽の宮内、その広場に顔を見合わせて不気味に微笑んでいる二人の姿が稀に垣間見られたという。 ■ 弔いの種「お疲れ様」「お疲れ様です、一刀様」「おう、一刀、久しぶりだな……」安定付近で軍を逗留させて、一刀達は荀攸の到着を待っていた。なんか馬鉄がヤケに穏やかな顔をして感慨深げに呟いているのが印象的だったが、一刀はとりあえず気にしない事にした。何よりも、今は翠の説得に必要な耿鄙の遺体が重要なのだ。「それで、耿鄙さんは見つかった?」「はい。 まぁ余り見るには偲び無いほど惨殺されておりましたが」「そうか……」そうして一刀が一歩に馬車へと向かった時、馬鉄が一刀の肩を叩いて引き止めた。何時に無く真剣な顔に、一刀は眼を瞬かせた。「耿鄙殿は女だったせいか、最後に弄ばれたんだろう。 酷い事になってんだ。 見るなら覚悟がいるぞ、一刀」「……予想はしてましたから」一刀は手伝いをしてくれた荀攸と馬鉄に手厚く礼を言って、一人で見に行くと告げて二人は旅の疲れを癒してもらうことにした。荷馬車へと近づいて、一刀は中を覗き込むと若干立ち込める、腐った肉の匂いと閉じられた赤黒い棺が視界に飛び込んでくる。棺に手をかけて、一刀は力を入れてその戸を開けた。「っ……」人として。同じ人間に対して、ここまで物理的に身体を欠損させることなど出来るだろうか。少なくとも一刀には無理だ。両足は裂かれて、眼球も一つだけ。腹部からは内臓が中途半端に飛び出しており、性器は言うに及ばずだ。何よりも、凄惨さを増すのは頭部だろう。頭頂部は何も無く、あるはずの脳は空だ。「……耿鄙さん。 すまない……俺のせいだ」見捨てたのは間違いない。自分の保身の為に、荀攸に言われるまま正しいと思った判断をした結果、彼女は死んだ。何もしていないのに、犯罪者に仕立て上げられ、志を目指す半ばに無念の内に。その胸中はどうだったのだろうか。首を縦に振らない自分へ、怨嗟の声を挙げたのだろうか。「……そして俺は、まだ貴方を利用する」『本体……』「大丈夫だよ。 大丈夫だ。 利用できる物はなんだって利用するんだ。 そこだけは韓遂を見習ってもいいさ。 俺は洛陽に戻るんだ……だから」だから、金獅に乗せた馬超の感情が、自分に向いたことは喜ばしい。それは“馬の”が北郷一刀の主導権を完全に奪い去るほどの激情が齎した、一刀の成果であった。「翠はきっと何とかなる。 月は……」『俺、だね』『“董の”が二番乗りか、いいな』「……そうだ。 先に言っておくけど、これは洗脳なんかじゃないと思うよ」『ん……まぁ、気にするなよ本体』『ああ、想いをぶちまけて良いって事の方が、俺には重要だ』『なんだろう、俺ってもしかして、凄い自己中だったのかな』『あー……そうだな』「……いいじゃないか、自分の為に何かを出来ない奴が、人に何かを出来る訳が無いって」『良いこと言うようになったな、本体』『ははは、じゃあ、本体の言う通り自分勝手な北郷一刀って感じて行くか』『おう』『あ、“肉の”だけ自重な』『賛成だ』『マジか……ひでぇ、イジメだ』一刀は苦笑を零した。余りにも自然に出たせいで、一刀はこれが脳内の総意として現れた感情なのではないかと疑った。今まで、一刀が自ら脳内の想う人の感情に働きかけようとしたのは、朱里と雛里を救う為に桃香へ触れたのが最初で最後だ。だが、今はもうそうも言ってられない。時間も、金も、権力も、何も無いのだ。持たない物を得る為には、自分の力だけでは限界があり、それを補うための能力がある。だから、それを使うだけの話だ。「まずは翠の説得だな。 行こうか」そうして一刀は、翠が休む天幕に向かって踵を返した。とうぜん、棺の蓋をしっかりと閉めてから。―――・「翠、みんなを集めてくれないか」「一刀? どうしたんだ」「話があるんだ」常為らぬ、気軽な雰囲気は立ち消えて真剣な眼差しを贈る一刀に、翠は頷いた。一刻もたたずに集められた将兵は皆、馬家の者。馬超、馬岱、馬鉄、馬休の姉弟が勢揃いし、天幕の中心には一刀と荀攸が立っていた。他にも、軍の副隊長を務める者達が数人集っている。「呼びつけてすまない。 これから韓遂の策の全てをみんなに話す」「韓遂?」「韓遂殿は、反乱軍と馬家を繋ぐ使者として立たれた筈ですが」「そうですね。 それもまた、韓遂殿の狙いです」翠、蒲公英を含めた全員が一刀と荀攸の声に不思議な顔を浮かべて顔を見合わせていた。馬家の敵は謀略を仕掛けてきた董卓だけではあるが、その結果として漢王朝に叛意を翻すことになるのも分かっていた。その為、一軍だけでは対抗するのは難しいと助け舟を出したのが韓遂だった。「そもそも、まず知って貰いたいのは韓遂が武威へ訪れた目的は、馬家を涼州叛乱軍に引き込む為、という事です」「こうして皆様が完全に巻き込まれた事を、彼女は裏でほくそ笑んでる事でしょう」「ちょっと待て、この出兵は私達が自分自身で決めた物だ。 韓遂殿は偶然居合わせただけだろう?」「その辺も含めて、ご説明いたします」そして、話の舵取りは一刀から荀攸に引き継がれ、策の全貌が語られる事になった。韓遂の目的、それ自体は不明ではあるが一つだけ確実なことがある。それは中立を保っていた馬家を煽って反乱軍に参加させること。その為、韓遂はまず馬家の信頼を集めることに腐心し馬騰と旧知であることを利用して逗留した。そこに予想外の駒が現れることになる。耿鄙と、一刀だ。韓遂が馬家を涼州反乱軍に引っ張ってくるのに一番の問題は涼州で名高く、異民族にまでその名を知られている英雄の馬騰だ。彼女の部屋に入り浸った数日間、韓遂は彼女の説得ないし、病の進行を手伝ったはずであった。何故ならば、馬騰よりも馬超を動かせた方が韓遂にとって御しやすいからである。「……っ」「お、おねーさま、とりあえず最後まで聞こう、ね?」「分かってる。 怒鳴ったりなんかするかっ!」「わっ、怒鳴ってるじゃん」「怒鳴ってるな」「怒鳴ってるわ」「喧しいぞ! お前らっ!」身内に囃し立てられていきる翠に、一刀は苦笑し、荀攸は話の腰を折られて一つ不愉快そうに咳払いをかました。とにかく、馬超が慣れない内政に振り回され始めた頃、韓遂の行動は激化したことだろう。天代であった北郷一刀の名声、それを利用する為に部下へ噂話を忍ばせて民草に広がらせた。一刀本人には、勧誘という名目で近づいて自身を餌にし、一刀に天代の噂が流れていることを気付かせない処置を取っている。なにしろ、天代の名は大陸全土に轟き響いている。荀攸が蜀の地に訪れた際にも、噂話が上ってきた程だ。韓遂としては、一刀本人が勧誘に応じるかどうかなど、どうでも良かったのだろう。結果として大事なのは、『反乱軍に参加した天代』という噂と『天代が居ると思わせる軍勢の準備』の二つだ。これで、直接敵対し戟を交わす官軍には動揺を与えることが出来るし、一刀が応じればそのまま利用してやるだけのことを考えていた筈だ。そして肝心の、馬家を攻める手立ての構築には、同じく一刀を匿うつもりで居た事を知った耿鄙を使う事にした。こちらも韓遂がした事は酷く単純である。偽の公文書の用意と、被害者を演じる為の服毒だ。「そんな馬鹿な! じゃあ、鉄に毒を盛ったってのも韓遂殿のせいだっていうのか!」「それは偶然でしょう。 身内を巻き込めれば重畳。 そうでなくても正義に篤い馬超殿なら問題ないと考えたのでしょう。 毒は、自分の分以外は無差別にばら撒かれたはずです。 馬鉄殿が服毒したのは偶然に過ぎません」「けど、公文書は……」「公式の印そのものの入手は、韓遂が過去に中央で勤めていた時に手に入れた物かと思われます。 何度も使われたのか、いささか押印された紋は草臥れていましたから。 そして、馬超殿。 あなたが見た耿鄙殿は本物の耿鄙殿ではありません」「なっ!」「本当かよ!?」コクリと頷いた荀攸に、一刀が引き継いで口を開いた。耿鄙の顔が右半分を布で覆っていたことの意味。それは使者として赴くには少々ふさわしくない、火傷の爛れたあとが残っていたからだった。実際に遺体を確認した一刀と、生前から目撃していた荀攸の証言に場は騒然となった。確かに、武威で死亡した者は耿鄙の服と特徴的な布、似たような髪形をしていた。何より、布で顔を覆うほどの理由など無いほど顔に傷痕は無かった。しかし、他に遺体が発見されてなおかつ証言があるのは無視できない。「その遺体は?」「……こっちに」一刀は遺体を見せるように催促され、翠達を天幕の外に案内した。天幕の中に残ったのは、既に遺体を見ている馬鉄と荀攸だけ。「……そういうことか。 だから、荀攸は耿鄙を探していたんだな」「そういうことです。 というか、馬鉄さんには出立時にしっかり説明している筈なんですが」「わりぃ、正直途中で意味判らなくなって聞いてなかったんだ」話し込んでいると、一刀を先頭にして将達が天幕の中に戻ってくる。皆、凄惨な死体に顔を青ざめさせていたが、中でも馬岱は相当に取り乱した様子であった。そんな中、一刀は再び説明に戻る。こうして馬家を引っ張り出す事に成功した韓遂は、既に成功することを見越して動いていた事を一刀達はあの日に知った。それは翠の演説の中に在ったのだ。『更に! 我が領内に董卓軍が今! 進軍しているという報告が上がっている!』これだ。この韓遂にとって都合の良い、良すぎる侵攻の知らせ。恐らく、韓遂は涼州の反乱を主導する辺章とは結託しており、必要な時に動いてもらうよう連絡体制を作っていたはずだ。そうでなければ、ここまで都合の良い状況を作り出すことは神でもなければ不可能だろう。そして、この話に裏付けできる事実を、翠の声から聞くことになる。「そういえばアイツ……知らなかった」「……字が違うとか、後、救いようの無いアホンダラ~とかって言ってたよね」「じゃあ……でも、そうだったらあたし達は、何の罪も無い董卓軍のケツを叩いていたってことなのか!?」「ま、まさか……」「そ、そんな……我々は既に、董卓軍の追撃隊を完膚なきまでに叩きのめしてしまったのですぞ!?」「これでは、反乱軍に嵌められて暴れただけの、能無しと思われてしまう」一気に天幕の中が騒がしくなる。当然だ。正義の為に矛を取った彼らの敵が、実は正義を示す相手では無いと言われれば動揺を隠し切れなくて無理はない。確かに、馬家に漢王朝は何もしてくれなかったかも知れない。しかし、裏を返せばそれは、馬家に全てを任していたとも取れなくも無いのだ。こうして剣を振るい、人命を奪った以上、馬家の取る道はただの一つ。漢王朝に敵対しなければならない事実。いかに大陸の中で乱が巻き起こり、求心力を失っているとはいえ漢王朝の存在は一諸侯が敵対するには余りに巨大すぎる壁だ。「一刀、どうすればいいんだ。 私達は」そんな動揺の広がる天幕内、現状で馬家を引っ張る立場に居る翠が一刀に尋ねた。その視線に、一刀は笑みを作った。縋るような。そう、まるで一刀に話の続きがあるのだろうと懇願するような眼。もし、“馬の”との一件が無ければここまでスムーズに話は出来なかっただろう。心の中で未だに眠る“馬の”に感謝をしながら、一刀は口を開いた。「これをひっくり返すには、官軍に付く。 それだけです」「おいおい、一刀。 簡単に言ってくれるがな、実際に董卓軍をぶっ潰した今、そんなすぐに立場を換えられるかよ!」「鉄の言う通りだ。 俺が董卓軍なら、面子の問題もある。 絶対に許さん」「ああ、確かにそうだね。 でも韓遂に利用されている俺も居るんだ。 ひっくり返す手は此処にある」「……つまり、どういうこと?」蒲公英の声に、一刀は頷いていった。そう、天代を利用した韓遂と同じように、自分も天代の虚名を利用するのだ。こうして一刀が中央から西送られた原因は何だ?どうして、洛陽を追放された時に5000もの兵と装備を張譲が差し出した?今、巻き込まれている涼州の反乱軍を叩き潰す、そういう名目で追い出されたのだ。「これはね、策なんだ」「……?」「天代が描いた、涼州の反乱軍に潜む埋伏の毒だよ。 規模の大きい涼州反乱軍に直接当たることを良しとせず、天代は馬家を頼った。 それに馬家は頷き、反乱鎮圧の為に動き出すことになる」一刀は天幕に集る諸将を落ち着かせるように、ゆっくりと語るように話し始めた。「しかし、馬家には反乱軍の将の韓遂が監視の目を光らせていたため、止むを得ず適当な部隊を見つけて戦った。 それが不幸な事に反乱軍に誘引されて誘き出された董卓軍だったんだ。 これを明るく捉えて、敵を騙すには味方からという事で通すつもりだよ」一刀の提案に近いこの言葉に、しかし、馬家の将達の顔色は戸惑いを含んでいた。仮にそう言われたとしても、馬家の者が董卓軍の立場で物を考えた時に納得できる自信などなかった。いや、むしろ激昂してそう言った使者の首を刎ねる事も在りうるだろう。ふざけた事を抜かすな! それだけの為に我が民を斬ったのか! と。そんな反応は半ば一刀の予想通りだ。一刀が董卓軍を説き伏せるために使うカードは、脳内の自分と天代として関わりあった董卓の良心が全てだ。普通に考えればまず、説得できるはずがない。そんなことは一刀だって承知の上だ。しかし、韓遂の描いた図をひっくり返す手立てはこれしか無かった。荀攸が看破した時点で、董卓軍に一刀が向かえば、旧知ということもあって董卓もすぐに信じたことだろう。だが、韓遂の一手が僅かに早く、自軍に被害を及ぼしてしまった董卓軍が問題であった。その為、荀攸はこの策を却下にしたのだが、一刀は使うことにしたのだ。誰も……いや、この場では翠だけが知っている、自分の事。そして、董卓を説き伏せることが出来れば、後は実際に涼州の反乱軍とぶつかって勝てば良い。そうすれば、『天代・北郷一刀』は涼州の反乱を収めた漢王朝にとっても大きな武功を手に入れることができなおかつ民達からは信望がいっそう集まる事になる。少なくとも、乱を一つ平定することで漢王朝そのものを存続させるのに一役買うことは間違いない。出来れば、完勝がベスト。最低でも、短期決戦で決着をつけるべきだ。董卓軍を利用してまで、埋伏の毒を演じたという話にもっていくのだから、それが出来ずに長期戦となれば天代の名声は逆に落ちることになるだろう。洛陽へ戻る為の大事な一歩。絶対に負けられない、戦いであった。そんな熱意に押されたのか、翠は諦めたように一つ息を吐き出すと、一刀の案に賛成の意を返した。「分かった。 どうせ他に何とかなる方法なんてあたし達じゃ思いつかない。 一刀」「ああ、翠。 必ず説き伏せる。 翠も一緒に来てくれ」「そう……だな、馬家を率いるあたしも一緒に行くべき、だな」「荀攸さん」「はい」「馬軍を反乱軍が攻め立ててるっていう郿城ってとこに布陣を頼めるかな。 こちらが完全に董卓軍と決裂し、反乱軍についた振りをして欲しいんだ。 それが出来て、なおかつ韓遂の応手に対抗できるのは荀攸さんだけだ」「……」分かりました。そんな返事を期待した一刀だったが、荀攸は黙して顔を僅かに一刀から逸らした。疑問を抱いた一刀だったが、脳内の声にハッと気が付く。『なぁ、荀攸さんは成功する可能性が無いと思っているんじゃないか?』確かにそうだ。この策の根幹は荀攸に聞かされて、成功した時の多大なメリットに心を引かれて採用したものだ。そして、耿鄙を見捨てたのもこの荀攸の策が決まると、信じて疑わなかったからだ。そんな策の発案者である荀攸は、馬家が董卓軍とぶつかった直後に別の策を練るべきだと今しがた、一刀が話した策を未練なくスッパリと切ったのである。一刀が漢王朝を生き長らえさせるのに必要だと思った。だからこそ荀攸は自分の知を一刀の為に振るうと約束し、手を取り合っていたのだ。確実に成功する事のない策に乗った愚者である。そう判断されて見捨てられても可笑しくはない。何より、一刀が今まで荀攸の前で取った行動は、彼女が自分に信を預けるに足るかどうか甚だ疑問が残る。だが、今は。この一戦だけでもいい。荀攸の、大陸でも有数の知を持って韓遂に当たってもらいたかった。「……とりあえず、話は以上です。 荀攸さん」「はい」「後で、話がしたい」「……分かりました。 後ほど一刀様の天幕に参ります」「……耿鄙さんの埋葬をしたいんだ。 明日の一番で頼むよ」「はい。 了承です」こうして、一刀は韓遂の目論見と、馬家を味方に引き込むことに成功した。が、その代償として一刀の下で知を奮う少女を失いかけていた。―――・天幕を去った一刀は、棺を馬に運ばせて適当な荒野に穴を掘り始めた。たった一人で、深夜を越えてようやく棺が入る穴倉を作ることが出来た。「……耿鄙さん。 ごめん、でも俺が……貴女の志もきっと運んでみせるから」一刀はそんな別れの言葉を向けて、棺を穴倉に放り込んだ。掻きだした土を今度は穴の中に放り込む。月明かりの荒野で、黙々と一刀は土を放り投げていた。途中、耿鄙と生前に別れた際に見かけた亜麻の種を周辺にばら撒いて。そんな、一刀に近づく人影。「土弄りとは、まぁた妙な事始めてるんすね」「……ああ、泥臭く生きてる俺にぴったりだろ」「へへっ、俺の口からぁ天代様に、んな大それた事は言えやしねぇや」その人影は、そんな軽口を叩いてニヤリと一刀に笑った。一刀が埋める手を止めて、首を巡らせば、そこには月の明かりに照らされた数十の人馬の群れ。一体、何時の間にここまで来ていたのだろう。「天道教、総員56名。 全員連れて来やした!」「ありがとう。 アニキさん。 手紙が届いてよかったよ」「ちぃと離れてた奴も居たんで手間どっちまいましたが、間に合ったようで何よりっす」一刀はアニキこと維奉に向き合い、身体ごと『天道教』の信者だろう人たちに向き会った。維奉のすぐ後背には、姜瑚が手をヒラリと挙げて声には出さす口の形だけでお久しぶりですっ、と一刀へ存在をアピールしていた。その更に後ろでは、洛陽を共に出立した兵の中、家族と別れて付いて来た見覚えのある男の姿も。董卓軍を……いや、その前に荀攸を説き伏せ、反乱軍とぶつかるに当たって、一刀が頼りにしたのは唯一といっていい。一刀に対して疑いの無い忠誠を誓う維奉と、その維奉が啓いた『天道教』の存在であった。この僅か50余名の軍を率い、一刀は反乱軍の首謀者でこの擾乱を企てた“韓遂”の首を取るつもりだった。そうだ。利用できる物は利用してやろう。これだけは韓遂を手本にさせてもらうべきだ。音々音と劉協の下に早く戻るためにも、その覚悟は必要だ。違うのは、信義がそこに在るかどうか。ただ、それだけ。集ったアニキ達に一刀は右手を上げて声を放った。「ありがとう。 まずは礼を言わせてくれ。 たった一人で、誰かを養うことすら出来ない俺の為に集ってくれた皆には、本当に感謝の言葉しかでない! 皆もアニキさんから聞いて知っているだろう! 俺は、宦官の謀略に嵌められて、中央を追い出された野良犬に過ぎない!」だが、未来は違う。それだけの決意と意志は、何時だってこの身を駆け巡っているのだ!「けれど、俺には洛陽に戻るためにも力が必要なんだ! その力に、俺を支える力になってくれることを、皆に願いたい。 そして……そして、何時かは皆に強いる苦労を幸福という形で返すことを約束する!」答える声は無い。一刀と向き合う50人に届くか届かないか。そんな僅かな、しかし真実『天兵』と呼べる者達が一刀の次の言葉をひたすらに、ただ待っていた。そう、彼ら"天兵"が望むのは、一刀の次の一言だけだ!「俺に、力を貸してくれ!」「「「「応オォォォォォッ!」」」」爆発したかのように、天兵たちは武器を空に掲げて咆哮した。休んでいる馬軍の天幕の中から、数名に兵が何事かとこちらに視線を向ける。矛を向ける先が、ようやく見つかった。そんな晴れ晴れしい顔に満ち溢れ、“天兵”達は力強く地を踏み音を鳴らした。一緒になって一刀の横で“天兵”達と鼓舞していたアニキは、やがて振り返り一刀へと破顔する。アニキが掲げた片方だけの手に、一刀は同じように手を掲げた。「アニキさん、本当にありがとう。 俺、さっきまで少し落ち込んでたんだ。 マジで嬉しかった」「へっへへ、俺の方こそって奴っすよ。 もう二度と、御使い様……一刀様の下で暴れることなんてねぇと思ってた」「頼りにしてるからっ!」「オォッ! 任せろ! 死んでも守るぜっ!」パァン。快活な手を叩く音が、武威の夜空に響き渡った。 ■ 外史終了 ■