clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編6~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8~☆☆☆ ■ 頭垂れ朝を迎えた。そんな事実を入り口の隙間から差し込む陽光で知る。一刀は用意された天幕の中で一人、ぼんやりと入り口を見つめて何をするでもなく座っていた。人を待っていたのだ。一刀が知っている三国志の知識においても曹操からの信頼厚く、幾たびの戦場でその英知から勝利を手繰り寄せた才気溢れる人。荀公達。この世界に降り立ってから、何かと荀家の人たちには縁がある一刀だ。実際に彼女と初めて会ってから今に至るまで、一刀は身を持って荀攸の才能に助けられてきた。記憶に新しい自分で建てた家の中で、崩れゆく漢王朝を共に支えようと手を取り合ってから、そう遠くない。季節が三回回ったか否か。されどそれ位には短くも長い期間、一刀は知らず荀攸に寄りかかることが多かった。ショックは隠せない。 というよりも、一刀にとっては想像の埒外であったというのが本音だ。誰かに見限られるかも知れないという事態に直面したことが、初めてだったのもある。瞑目して一刀は組んでいた腕を下ろすと、背もたれに首を預けて顔を上げた。ゆっくりと目を開き、木々の影を映す天幕の天井を見る。「……」韓遂の謀略を先んじて読み通し、その上で覆す手を誰よりも早くに構築した。荀攸と同じ場所に居たはずなのに、一刀はまったくと言って良いほど気付かなかったというのにだ。此度、韓遂を欺くに当たって荀攸の力は間違いなく必要だった。見上げた天井をじっと見つめて動かない一刀の耳朶に、砂利を踏む音が響いてきたのはそんな時だった。待っている人がやってきたのだろう。居住まいを正して、一刀は用意しておいた急須のような物に湯を張った。「おはようございます。 起きていらっしゃいますか」「ああ、起きてるよ。 ごめんね、朝早くに呼んでしまって」一刀へ構わない旨を告げながら入って来たのは一人の少女。やや伸び始めて肩甲骨の先あたりまで伸びた栗色に近い髪に前髪をピンで留めた、見慣れた容姿。翡翠色の眠たそうな眼が一刀へと向けられていた。「とりあえず朝の一杯でも」「ええ、ご馳走になります」座るように身振りで指し示し、一刀は自身も茶器を取って器に注いで口へと含む。荀攸も座り、同じように一口含む天幕の中には沈黙が降りた。何時ものような軽い雰囲気は何処にも無い。お互い、これから何を話し合うのか分かりきっているからだ。この先、自分にとっても相手に取っても志を成す為に選ぶ分かれ道に立たされているのだ。一刀は唇を一つ舐めて、口を開いた。夜通し考えて、決めている。翠達が一緒に居た天幕の中で、あの軍議の場で、荀攸は言葉を濁したのだ。「荀攸さん」「はい」「頼む、今回だけ力を貸して欲しい」「……」一刀はそう言って、荀攸に対して頭を下げた。それは余りに率直で、単純なお願いであった。 だからこそ、その言葉にはシンプルながらも誠意が篭っている物となっていた。面食らったかのように僅かに身を捩って荀攸は頭垂れた一刀へ視線を向けた。そしてやはり、室内は沈黙が降りた。下げたまま戻らない一刀の頭をじっと見つめる荀攸も、下げたまま戻さない一刀も何も喋らなかった。朝特有の静謐な空気と、鼻を擽るような緑色濃い匂いが漂っていた。ようやく、と形容できそうなほどの時間が経過して、沈黙を破ったのは荀攸の高い声であった。 ■ 忠軍馬が地を蹴って鳴らす蹄の音が、軽快に森の中に響く。郿城に向けて進める兵馬の数はおおよそ2万。辺境の地で幾度と無く異民族と矛を交え、精兵と呼んで差し支えない領域にある2万の軍列は決して近くはない郿城への行進を着実に進めていた。そんな馬超軍を見ながら付いて行く一人の少女は、煮え切らない心中を追い出すように、小さく息を吐き出した。彼女は、一刀と同様に一晩かけて答えを出していた。 決別する、と。だというのに、今朝あの場所で荀攸の出した答え、それは一刀の提案を受け入れる事で決着を迎えた。何故か、その答えは正直に言うと荀攸は良く分からなかった。一刀と手を組んだ事は、あの時点では漢王朝に息を吹き返す大事な一手だと確信していた。天の御使いであるという風評、天代という名声、実績。文句などつけようがないほど輝かしい栄光だ。他の誰がこのように成り上がれるというのか、ましてや何処の馬の骨とも分からぬ年若い男が。多くの偶然も勿論あっただろう。天運に背を支えられたのも間違いないだろう。宦官、特に一部悪臭の酷い膿を知っている者に洛陽を追われ、挽回することは難しいが不可能ではないとも思えた。荀攸は少なくとも、そう思っていたからこそ一刀の手を取った。そこまで考えて、荀攸はああ、と小さく呟いた。同時に今、自分が胸の内に抱えていて喉の奥に突っかかっていた言葉がするりと心中に木霊する。「自滅したということですか」一刀が漢王朝を存続させるに足る鍵であること、或いは大事な要素であることは荀攸の見立てでは間違いが無いのだ。多くの人間が、天代ならば、と期待を抱いたはずである。涼州で起こった叛乱の中で選んだ、一刀の選択は自らの提示した策であり、それは結果として贅沢な物になってしまったのである。漢王朝も守る、馬家も守る、董家も守る、郿城も守る。それは韓遂という謀将が居なければ可能だったかもしれない。実際に、そういう夢想を抱かせて決断させてしまったのは、紛れも無く荀攸の口から出た『策』であった。これを自滅と言わずなんと言うか。荀攸はもう一つ、大きな溜息を吐き出してしまった。やはり今、郿城へ向かうこの行軍の中に自分が居るのは間違いである。今朝、一刀との会話で出すべき答えは、やはり決別以外にありえなかったのだ。たとえ彼から、百万の呪詛を吐かれたとしてもだ。そうすれば、一刀は『策』を諦めるより他はない。 仮にも一刀の知となると手を取ったのならば、絶対の決別の意志を持ってあそこで断るべきだった。自然、行軍からやや離れ、荀攸は僅かに進路を逸らせた。徐々に、乗った馬の歩みが緩み、やがて行進する兵馬のなかでただ一人、動きを止める。若干、馬超軍の兵が不審な面持ちで見やるが、特に止められることもない。だが荀攸は分かっている。こんな事をしても意味が無いことを。今朝、一刀の嘆願に頷いた時点でもう覆らないことは。一度した約束を反故にするほど義に疎くはないし、やり直す機は当に過ぎ去っていたことも。そうして悲観的に物思いに耽る―――馬上で呆けて立ち止まった様に見えた―――荀攸の背に声が掛かったのはその時だった。「おう、何か問題でもあったのかよ」「維奉殿……」「ああ、いや、まぁお前さんにとっちゃ問題だらけか」そう言ってアニキは荀攸の傍まで馬首を近づけて、後続の私兵達に手首を返し先を促した。彼は荀攸が、自分の仰いだ主君から今朝、何事かを任されたことを知っていた。その内容までは分からなかったし、頭の出来が悪い自分が聞いても分からないと考えている。ただ、この戦の事で先の黄巾の乱で自分がしたように、重大な事を託されたのは間違いないと思っていたのである。「今朝の事を聞きましたか」「あ? いや聞いてないけど、まぁ何となく分かるっつーか」「そうですか」荀攸は一つ頷いて、さくっと勘違いした。自分がこれ以降、一刀を見限って漢の生きる術を探す事、或いは捨て去って新たな道を行くこと……それを話した、と。維奉ことアニキという存在は、一刀にとって信頼たる人物なのだ。今朝の出来事が強く心象に残っている荀攸にとって、アニキの言動をそう受け取るには容易だったのである。「なんだか、少し気まずいですね」「何がよ?」「いえ……」「とりあえず行こうぜ、俺らだけ置いてかれちまう」「そうですね」小さく馬の腹を蹴って、また進む。同時、荀攸は心中でアニキという人物を褒めた。決別するにしても、機というのは存在し、この戦の顛末に関わらず別れることになるというのは天代を見限るに等しいのだ。まるで崇拝するかのように天代を敬う彼にして、この反応を返すことは荀攸から見て意外と言う他なかったのである。まぁ、アニキはそんな事は露も知らないのだが。「なんとなくだけどよ」微妙に重苦しい空気を切り裂いて、口を開いたのはアニキであった。「荀攸が思ってることも分かるぜ。 御使い様はよぉ、結構馬鹿だからな」「痛感しているところです」「だろ? 難しいことなんか分からねぇけどよ、今回の話だって普通じゃねぇって事くらいは分かるぜ」アニキからすれば本心であった。一刀は現在、お尋ね者である。それは勿論、現状の世間では未だに『天代』であることは間違いないのだが、馬超軍と一緒に行動しているのは不可解だ。馬家は漢王朝の諸侯の一つで、どうして追われる身の一刀が一緒に行動することになるのか。自分の頭の悪さをしっかりと認識しているアニキは、天文学的速度で考えるのはやめていた。まぁ、仲間なんだろう、多分。 これで済ましたのである。一刀が持ち前の馬鹿さ加減を発揮して、戦をすることになったということも、そうなっちまったんだなとだけ考えていた。アニキからすればそれだけ判れば十分であり、他のややこしい細事は一刀が考えればそれでよかった。「本当、危なっかしい人だと思うぜ。 マジで。 もしかしたら死にに行くのが趣味かもしんねぇ」「ふふ、アニキさんが居るせいかも知れないですね」「いや、そりゃねぇな、元からそうなんだよ。 つまり、死ななきゃ治らねぇってことだ」「じゃあもう治らないね。 奉ちゃんが死んでも守るって言ってたし」「うおっ、居たのかよ姜瑚……いや、まぁあれはよ、その場の乗りっつーか……」「えぇ、そうだったの? あの時は格好良かったのに」「お、はは、そうだろぉ? でも、俺は死にたくねぇぞ」ひょっこりと馬の背から顔を出した姜瑚といきなり惚気て顔面をゆがめたアニキを見てなるほど、良き理解者だ、と荀攸は自然に顔を綻ばせて頷いた。そして気がつけば、彼女は口を開いて尋ねていた。それは荀攸にしてみれば珍しくといった言葉がつくだろう。 考えるよりも先に口を付いて出た言葉だった。「維奉殿は、どうして天代を支えているのです?」姜瑚とじゃれあっていたアニキは、その言葉に思わず荀攸を見返した。そして、僅かに口を曲げて空を仰ぐと、あー、と気の抜けた声を出して続けた。「正直よぉ、俺は御使い様の言う漢がどうとか褒章がどうとか、どうでも良いんだよな」「え?」「いや、出来たらそりゃすげぇし、金貰えりゃ嬉しいぜ? 頭の良い奴ぁ他にも色々、あるのかもしれねぇけどよぉ。 まぁ、どうでもいいぜ実際のところは。 そもそも俺はその漢王朝に嫌気がさして黄巾になったんだしな。 俺から言わせりゃ、今の王朝を立て直すなんて無理だと思うぜ……波才のヤローとかもそうだがよ。 今のまま暮らしてて、座してお上に殺されたくねぇってのだけは同意できるぜ」アニキは頭を掻いてそこで言葉を切った。次いで、隣に並ぶ姜瑚へと視線を向けた。そんな彼の横顔を、荀攸は何故か目から離せなかった。荀攸とて民の現状、そして王朝としては敵対する賊の現状を知っている。だが、事象として認識し、知っていた物の根本をアニキから聞かされているような気がしたのだ。知っていた知識を、改めて新鮮な気持ちで聞かせてくれたというところか。「金はねぇし、飯もねぇ。 噂が流れりゃろくでもない話ばっかりでよ。 気がつきゃ隣の家がなくなってたり、道端に首が転がってたりな。 何時から賊を始めたのか、それももう曖昧になっちまってたな」賊になったクズが、嘆くことじゃねぇかも知れねぇが。そう自嘲気味に話して、アニキは淡々と荀攸へと語りかけた。ある意味、それはざんげに近い物だったのかも知れない。或いは天代という存在に拾われたアニキが感じていた、賊に身を落とした仲間(同類)への罪悪感だったのか。「……俺が御使い様の為に働くのは、命を救ってもらったとか、賊の俺を信じてくれたとか、そういう色んな物あるっちゃあるが どっちかてぇと、もっと別のところだな」そう言ってアニキは天に顔を向けて、陽光に目を細めた。荀攸は続きを促した。アニキは少し恥ずかしそうに笑って、警告した。「笑うんじゃねぇぞ」「ええ」「大きな夢をよ、見れるんだ」夢。確かに大きな夢を見れる。漢王朝をまだ、続ける夢を実際に荀攸は見た。しかし何故だろうか、アニキが言う夢と荀攸の頭がはじき出した夢は、少し種類が違うように感じたのは。「上手く言えねぇけど、俺達とは違う人なんだな、御使い様ぁよ。 俺らみてぇに間違ったり、悩んだりする同じ人間のはずなのによ、見てる場所が違うっつーか。 あー、やっぱ良くわからねぇが、まぁそういう理由だな」「……そうですか」荀攸は彼が言わんとしていることをなんとなく理解した気がした。北郷一刀という男はきっと、目の前の男を惚れさせたのだ。理由はもう、なんでも良いところまで来ているのだろう。維奉という男はもう、一刀という存在に対して"忠"を持っているのだ。どんな夢を一刀が持とうとそれは些事であり、彼の形作る夢が彼にとって正しい世界になるのだろう。決して依存をしている訳でもなく、かといって突き放す訳でもない。一刀ならば、新しい世界を切り開いて道を作ってくれると信じているのだ。自分もそうだろうか。理屈で分かっていたはずの彼の叶わない嘆願に、是と答えたのは自身の"忠"を捧げるに値する者だったからかもしれない。きっと目の前の者とは違う、もっと打算的で、もっと大きな望みを持っての忠誠ではあるのだろうが。多分だが……いや、曖昧な言い訳はいらないだろう。ここまで深く思考を捏ね繰り回すだけで、立派に証明しているではないか。「私は……漢王朝に仕えているのですから、一刀様との関係は今回限りです」「あ?」「いえ、なんでも。 大いに参考になりました、維奉殿」「んだよ、気になるじゃねぇか。 まぁいいけどよ」「この戦が終わったら、一刀様の元を離れるという事ですよ」そう言うとアニキは納得したのか、大げさに相槌を打った。彼は忘れていたのである。荀攸が、王朝に身を置く官吏であることを。アニキは先ほど、さんざんに漢王朝を罵倒したことに気が付いて困ったような顔をしたがそれも数瞬、頬を掻いて曖昧な笑顔を浮かべ、荀攸へといった。「そうか、そういやそうか、余りに自然に御使い様の隣に居たから忘れてたぜ。 いっその事、御使い様に鞍替えするってのはどうだ?」「ええ、機会があれば」「そりゃ残念だ」「……維奉殿、少し提案があるのですが」この会話を終えたとき、荀攸は自身の胸の内に住んでいた靄が晴れていた事に気が付いた。そして案外、前向きに……軍師としては少し反省が必要なのではと思うくらいには楽観的な結論に達していた。成功するはずのない『策』が成ったその時は、一刀の根拠のない自信を信じてあげても良いかもしれないと思うくらいには。仕える場所の候補の一つに、彼女が良く見かけた苦笑を漏らす青年の顔が描かれた日でもあった。馬超軍はこの日、荀攸からの提案を受け入れて2日、出発を遅らせることになる。2日、それ以上取れば馬超軍が郿城へ来ない理由を、韓遂に悟られる危険が増す。韓遂の疑問が確信に変わりズルズルと長期戦に持ち込まれる可能性があるのだ。 引き伸ばす事は無理だろう。この期日が一刀に与えられた猶予になる。一刀が長安で官軍と董家を説得できなければ意味はない物になるが、ここまで来てしまった以上、足掻けるのならば足掻いた方が良いと判断したのだ。この戦で荀攸の放った、最初の一手だった。 ■ 正面突破そして、今や官軍、反乱軍、馬超軍といった十万を越える人命を背負っていると言って過言でない男。歴史の鍵を握る北郷一刀と言う名の青年は、げっそりしていた。この二日を一刀が振り返るならば、ただの一言で足りる。エロ苦しい、と。一刀からすれば苦行となった原因は理不尽以外の何物でもないが、しかし、確かに自分にも非があることを認識していた。こういうのは何と言っただろうか、ラッキースケベと呼ぶのか。悪意も無いし、下心も無かった。詳しい経緯を省くまでもなく、事は単純かつ複雑だった。強いて挙げるとするならば、翠のおっぱいはプルンプルンで太腿がムチムチで、お尻がボンボーンだったということか。加えてそれらの結果、『KENZEN』な青年である彼の下腹部に存在したラストサムライが『鎧化(アムド)』を引き起こしたくらいだ。あえて言えば、そう。 圧倒的なまでの謎の力が働いていたのだ。いや、脳内ではない。 確かに謎の力という言葉は脳内に当てはまるかもしれないが、そこまで自分達が野獣でないことも一刀は分かっている。馬家の温泉の一件など無かった。「そろそろ長安に入るんだけど……今のままじゃ不味いと思うんだ」『そうだな』『ああ、深刻だな』『翠が口を聞いてくれないもんな……』頬に見事な紅葉を咲かせている一刀は神妙な顔で頷いた。当然のことながら、約10メートル先を前に行く金獅を一刀から奪ってポニーテールをたなびかせる少女がつけてくれた紅葉である。彼女の機嫌は当然だが、相当悪い。一度や二度なら彼女もかろうじて許してくれていた。だが5回を越えた辺りから眼が据わり、10回目にして張り手が飛んできたのである。繰り返すが、決して故意ではない。 むしろ翠はよく耐えた方だろう。そんなわけで、長安へ向かう二人の距離は次第に離れ、見えない防音の壁が出現したかのように会話は無くなった。そうして気まずい二人旅になってしまったが、それも終わりにしなければならなかった。なにせ、これから行う董家との話は、失敗すれば終わりと言っても差し支えないほどのもの。近く行われるだろう郿城での戦よりも、一刀にとっては重要な決戦の場なのである。一刀は意を決し謝罪をして、今後の話を彼女としたいのだ。もちろん、翠だってそれは理解しているだろうし、何よりも自分の家が懸かっているのだから話は出来るはずだ。しかし腰が引ける。 下腹部的な意味ではない。数十回以上に及ぶプルンプルンやボンボーンと引き換えに、一刀は少女へ声をかける勇気を失っていた。『まぁ、起こった物はしょうがない。 とにかく謝り倒して話をしよう』『もう時間もないしね』「分かっている、分かっているんだが……」約十万にも及ぶ人間が命をぶつける決戦の鍵が、少女の柔肌の責め苦に喘いで独り言を繰り返す様を、翠はちらりと肩越しに覗き見た。この男は本当に大丈夫なのだろうか、と。彼女も現状を理解できないほど馬鹿ではない。そりゃあ、難しい事を考えるよりは槍を振るっていた方が万倍も良いと思っているが、母の馬騰が倒れて馬家の手綱を握る事になった少女は出来が悪いと知りつつも、家の事を考えてきた。その結果、韓遂に嵌められたという取り返しの付かない愚を冒してしまったし、言い訳すら出来ない程に董卓軍と『やって』しまった。そんな彼女に救いの手を差し伸べてくれたのは、エロエロ魔人だった。いや、感謝はしているのだ。仮に一刀の思惑が翠自身を対価に求めていたとしても。自分の身体と引き換えに馬家を救ってくれるのならば、これほど安い取引はないだろう。何より卑猥な身体的接触は翠から見ても偶然としか思えず、邪な感情は含まれていないと思えた。しかも、だ。不思議な事に、一刀がエロエロ魔人として接触する度に『女』として扱うその一連の出来事が―――「何故か嫌じゃないってのが……って違う違う、何言ってるんだあたしはっ、馬鹿だほんとにっ!」「……」『本体、怯むな、今のは間が悪かっただけだ!』「いや、でもちょっと興奮してるみたいだし、少し時間を置いたほうが」『せっかく勇気を出したんだろ、声をかけるんだ!』『たかがシールドをやられただけだ!』『まだやれる!』「楽しんでるだろお前らっ!?」人間、会話が無い退屈な時間が生まれれば自然と思考に走るものである。そうなると、必然となって独り言は増える。意を決した一刀が声をかけれない、或いは声をかけようとしてやめてしまうのも、時たま思い出したかのように興奮する翠の独り言が主な原因でもあった。ようやく、と言って良いだろう。一刀が何とか声をかけることが出来たのは、見慣れた荒野を切り裂いて長安の城壁が目視できる距離に到達してからだった。 ―――・ 参った、と一刀と翠は互いに頬を赤らめて、視界に捕らえた長安の城壁を見ながら歩いていた。お互いに顔を直視できない。一刀はもちろん、先に述べた事象のせいでもあったが、同時に胸を突く鼓動には別の物も感じていた。そう、音々音を見て感じるような甘くて苦しい感情が沸きあがるのだ。心当たりは―――ある。未だに目の覚める様子の無い"馬の"の想いが強く本体に作用していると一刀は思えた。ぶっちゃけると、翠を見ていると顔が熱くなって鼓動が高まり、鼻息が荒くなる。こうして大きな未来を賭けた重要な話をしていても、何となく声が上ずるし、集中が出来ない。まるで、病に冒されたかのようである。隣の翠は、そんな一刀を不審に思うどころか同調して頬を染めていた。症状はほぼ似たような物である。一刀の中に居る一刀に愛を囁かれた影響かどうかは分からない。正直、一刀の中とかそう言ってる事は殆ど理解できないし、どういう状況なのか想像もつかないでいる翠だが目の前の男に"愛してる"と言われたことは間違いがなく、また、異性に愛を囁かれたのも当然ながら初めてだ。肌に触れられたことも一役買っているのは間違いないが、本質はそこで在ると翠はぼんやり把握していた。首を振って、一刀は雑談をやめて本題に入った。「え!? そ、それで本当に平気なのか?」「あ、ああ。 俺達は不幸なすれ違いをしただけだろ、少なくとも俺達はそうだった。 大丈夫だよ」「う、う~ん……それで、えーっと、本当に平気なのか?」「あ、っと、そうやって悩むと、態度に出るよ? そっちの方が逆に疑われると思うんだ、うん」翠はそこで顔を顰めた。今出ている態度の原因は、隣で長安を見据える男のせいなのである。なんとなく頼りがいがあるように見えて、逆に悔しい。「わかった、どうせあたしは良い案なんて思いつかないし……一刀を信じる」「ああ、信じてくれ」今は敵地であると言って良い長安に入るに当たって、一刀の出した案は真っ直ぐ城内へ向かう事だった。それはどちらかというと、一刀にしては積極的な案であった。特に、馬家では考えなしと言って良いほどあっさり捕まったこともある。不安がないと言えない。だが、最後の助言として荀攸から授かった"時間を無駄には使えない"という言葉が、頭の中に強く残っているからでもあった。長安へ向かう途上、一刀と翠は官軍が郿城へ向かっているのを見かけている。見間違いでないのならば、孫旗が翻っていることから孫堅であると思われた。一刀は耿鄙から、孫堅が謹慎のような形で宮中に居ることを聞いている。そんな彼女が一軍を率いて来たという事実は、乱が激化した事で官軍が切羽詰っている事を容易に想像させた。或いは天代が参加しているという噂から、張譲達が一刀を滅殺する為に放った牙であろうか。何にせよ、時間をかければかけるほど『反乱軍側についた馬超軍』という構図を延ばす事になりその時間が長ければ馬超軍も官軍も大きな出血を強いることになる。理由はまだある。馬家で捕らえられたように、長安で同じことが繰り返されないとは限らない。呂布や張遼は追撃に出た事から、生きていれば郿城へと向かうはずである。指揮は恐らく、董卓の知恵であり軍師の賈駆が振るっていることだろう。前述の通り、官軍から援軍としてきただろう孫堅は郿城に向かっている。つまり、長安に居るのは董卓と、韓遂や辺章が郿城を無視して長安を強襲する際に備えた華雄将軍のみ。時間をかければ戦況によっては新たに中央からの援軍が来るかもしれない。郿城から長安へ、将が戻るかもしれない。官吏の人間は少なからず居るだろうし、一刀が知らなくても相手が知っている事などザラであろう。で、あれば時間をかけるメリットは少ない。董卓と会う事、その時点でリスクは多大で、自ら危険を増やす為に滞在する利点は何処にもないのだ。「何処も見学できそうにないのがちょっと残念だな」『まぁ、成功したらゆっくり見学できる時も来るさ』『そうそう』「はは……そうだね」ふう、と一刀は気を引き締めるように一度、息を吐き出した。「董卓さん、か……」丁原との関係から親しくなった、洛陽で出会った少女を思い出す。出来れば、彼女と二人きりで話がしたかった。―――・一刀達がもうすぐ長安に入り二人きりでの謁見を望んでいたころ、窓から陽が差し込む城中の長い廊下に長安では見慣れぬ官吏の姿が在った。何進から一枚の書を預けられたその人物は、孫堅と共に入城し、今しがた何進のおつかいを済ませたところだ。「おや、お早いですな、李儒殿。 董卓殿にはお会いしなかったのですか」「ああ」「それでは、すぐにお帰りに?」官吏の一人に声をかけられた李儒は、仕草だけで洛陽に戻る事に難色を示すと、顎鬚に手を伸ばして一つ擦った。李儒の真後ろを付き添うように官吏は背を追う。彼が自ら何進のおつかいで長安へ赴いたのは、彼なりの理由があった。今の李儒の立場は宦官ありきなのだ。その中でも権力を持つ張譲に取り入って地位を手に入れた。張譲から何進の胸に秘めている、宦官の排除の計画を聞き及び、袁紹からそれとなく真実を確認した李儒は何進の企てが本気であることを知ったのだ。張譲との間を取り持つ形で何度か何進と顔を突き合わせて話をした事もある李儒は、巻き込まれる前に距離を起きたかった。大将軍の思惑は袁紹には突っぱねられたが、大陸の混乱は長引くだろうと李儒は見ている。かつての官軍の威容を取り戻す事が出来るのは、果たして何時になろうか。恐らく、大将軍は待てないだろう。今は後援を手に持たない―――出来る事ならば一人で決着を着けたい―――何進も、王朝の膿と言える宦官の排除において諸侯を頼らざるを得ない。その白羽の矢に発ったのが、肥沃な領土を持ち、漢王朝に於いて権威も力もある袁家だ。この目論見は失敗に終わったが、何進は諦めていまい。長く考えていた様子の李儒は唐突に口を開いた。「先ほど届けた書がそうだろう。 袁家が駄目となれば、高官でもあり軍事力もある董卓殿を頼る事は十分ありえるしな」「なるほど」「それに、聞いた話では董卓殿はまだ小娘だという。 何進にとっては袁紹よりも御しやすい存在かもしれん」「では、牽制の為に長安に残るということですかな」官吏の声に、李儒は顔を見られぬようそっぽを向いてから眉を顰めた。目の前の官吏は張譲の用意した人間で、彼の言う通り張譲の目論みはそこであろう。もしかしたら、董卓へと出した書を偽造することも期待されていたのかもしれない。しかし、李儒には別の思惑があった。それに気になる話も出ている。追放された北郷一刀が反乱軍に加担したという噂だ。市井に出回っているこの噂、現状は一笑に付されているが、内情を知る者からすれば十分にありえる話である。仮に真実だとすれば、何進の暴走と相まってゆったりと腐り落ちていた漢王朝が早死にするかもしれない。張譲たちも、こうして自分を長安に送り込んだ事から酷く危うい立ち位置にいることを理解しているはずだった。そこまで考えて、李儒は一つニヤリと笑った。一介の書生であった身分の李儒が、天代追放の思惑を知るに当たり宦官の庇護の下で権力を奮えた事は今までの人生に無い快感であった。一度味を占めてしまったら、二度と忘れられない。近く、漢王朝は潰える可能性が高いのだ。この機にじっくりと腰を据えて、権力者の選定をするのも悪くは無い。「洛陽には戻らない。 暫く長安に腰を落ち着けるとしよう」背後で頷いた官吏を尻目に、李儒は長い廊下を渡り城の中央へと出た。そう、李儒には思惑があった。強い権力下の元で、自身の知を持って謀ることが出来る環境を構築すること。今、自分を雨から守る傘は穴が開き始めて役に立たなくなりつつある。強い雨から濡らさずに、覆ってくれる強い強い傘を彼は求めていた。ここへ来る前に会った袁紹はどうだ?諸侯の中でも、一際強く光り輝く袁家は上手く立ち回れば覇者にもなれよう。天代の追放という一助を成した事は、李儒に強い自信を与えていた。そんな彼の思考を遮るように、大きな声が長安の城中に響いたのはその時だった。「ん? 騒がしいですな」「うん?」官吏の一人が、城の門前で起こった騒ぎに顔を向けて、不審げに李儒へと声をかけた。釣られるように、李儒もまた顔を向ける。声は大きく、それに惹かれるよう門の前で人の環が出来始めていた。李儒の場所から当事者はここからは良く見えなかった。その人の波の中を掻き分けるように、戦斧を背に担いだ少女が入っていく。「どけ! 何を騒ぎ立てておるか! 何事か!」「はっ、華雄将軍! それが……」「華雄将軍、天代様と、その、馬超と名乗る将が現れました」「なに!?」城兵と、数人居合わせた文官が華雄の道を開ける様に脇へと寄せる。一刀と翠を視界に収めた華雄は、眉根を顰めて腕を組んだ。「何用だ」「華雄殿。 董卓殿に会いに来た。 謁見を求める」「敵将を連れて、我が主に会いに来ただと?」敵将という率直な物言いに、一刀の横に居た翠がやにわに視線を地に落とす。それに気が付いた一刀は、周囲に悟られぬよう翠の服の裾を引っ張った。ハッとしたように、顔を上げて、華雄へと目を合わせる。僅かに一刀が顎を引いたのを、翠は見えた気がした。「不幸なすれ違いからぶつかる事になってしまった。 その詫びを兼ねて董卓殿と話がしたい」真っ直ぐに見返されてそう言った翠に、華雄は姿勢を変えず目線だけを隣に立つ一刀へと向けた。「天代殿には妙な噂も立ち上っているが、叛徒と手を組んだというのは真か」「それも含めて、董卓さんに話がある。 勿論、華雄将軍にも聞いていただきたい」「当然だ、月を一人になど出来るわけがない」今、この場の話の流れの決定権を持つのは間違いなく華雄にあった。敵将と断じた華雄だが、実際のところ涼州の雄と呼ばれる馬家が寝返った事には懐疑的だった。と、いうのも、董卓軍が馬超軍に蹴散らされたという話は来たものの、彼女の主である董卓がその事実を疑ったからである。董卓という少女の慎重性が大いに発揮された結果ではあったが、華雄が即座に斬りかからない理由にもなっていた。馬家の寝返りと襲撃の話の出所は自軍の兵からだ。そこに疑いなどは持たない。 馬超と名乗った少女が言った『詫び』という言葉からも伺えた。しかし、馬超だけならばともかく、一刀の存在が彼女の思考の天秤を揺らしていた。華雄は先の洛陽を襲った、波才率いる黄巾の軍と矛を交えており、その戦の指揮を執っている天代・北郷一刀を知っていた。この乱の流れに一石を投じに来たのではないか。あの時と同じように、自分では及びもつかない策を持って我が主に会いに来たのでは?腕を組み、難しい顔をして黙ってしまった華雄に、押し所だと脳内に促されて一刀が口を開こうとした時だ。華雄がしたように、人を分けて現れた顔に、一刀は開いた口を開けたまま喉を詰まらせた。「御久しい顔が見えますな」「っ、李儒……殿」「……顔見知りなのか?」「ええ、将軍。 先ほど手渡した書はどうなされました」「しっかりと渡した。 読んでいるかは知らん」「そうですか」華雄の隣に立ち、そんなやり取りをしている一刀は、この場に現れた李儒という男に冷や汗を流さずには居られなかった。自然、握った拳はぬめり、喉の奥がひりつくように熱くなって一気に乾く。脳裏に走った緊張が胸を打ち、高まる鼓動に息を荒げた。急変といっていい、一刀の様子に気が付いたのは隣で立つ翠だけだった。「将軍、失礼ですが先の話、私も聞こえてしまいました」「む……何が言いたい」「いえ、どうなされるのか興味があるだけでございます。 将軍も知っておられるでしょう、天代のことは」李儒の言葉に、華雄は首を縦に振った。直接見たわけではないし、聞いたのも人伝ではあるが、一刀が洛陽を追放されたことは華雄も信頼を置く賈駆から聞かされたものだ。先ほど、彼の黄巾での一戦を思い出して考えていた事が今度は逆に作用する。噂にあるように天代が叛徒と手を組んだのならば、我々を打ち倒すための一手がこの謁見ではないか?ありえない話ではない。調教先生として、諸侯に教鞭を取り、賈駆という少女を唸らせる程の策謀と軍略に秀でた男。そういう認識が華雄にはあった。この華雄の逡巡の最中、翠は先ほど自分がされたように、一刀の服の背をそっと掴んだ。一刀は傍目にも分かるほど、ピクリと肩を跳ね上げた。この話は董卓という少女と会って話すことが心臓部である。翠のさり気無い援護が、一刀の鼓動をゆっくりと平坦に押し戻していた。華雄の思考が複雑に絡まり始め、面倒くさいから斬ろうかなと思い始めたと同時、一刀もようやく立ち直る事が出来た。「華雄将軍、董卓殿と話をする機会を下さい。 で、あれば叛乱軍をなぎ払う機も得ましょう」「なっ―――!?」一刀の言葉に、周囲がざわりと動揺した。華雄も一刀が今しがた放った言葉には、思わず短い呻きが出てしまった。ただ一人、李儒を除いて。「なるほど……興味深い話です」「この地に参った事、お分かり戴けたでしょうか李儒殿。 残念ながらこの場で全てを話す訳にはいきません」一刀が言った言葉は、董卓軍の力を得れば大軍を擁する叛乱軍など敵ではないと言い切ったに等しい。実際のところは成功してもなぎ払えるかは、郿城での戦の行方如何である。とはいえ、この釣餌はしっかりと全員が美味しいものだと理解したはずだ。「……良いだろう、月に会わせる。 真正面から乗り込んできたのも肝が太くて気に入った」「よろしいので? 噂にも上っているでしょう、ここに居る全員の顔から判るでしょう、疑念の塊を抱え込むと?」「構わん、もし天代の胸の内に何かあるならば、その瞬間に斬り捨てるだけだ」「華雄将軍がそう思ったなら、斬り捨てて良い。 馬超殿も当然そのくらいの覚悟は決めている」「ああ」「付いて来い。 案内しよう」踵を返し、華雄は振り返る事無く歩きはじめた。慌てて傍に居る兵が駆け寄って、一刀と翠は武器を預けその背を追う。李儒の真横を通り過ぎるとき、一刀の耳朶に彼の声が飛び込んで来た。「自分の立場は弁えているだろう、説き伏せることが出来ねば分かっておろうな」僅かに立ち止まり、一刀は横目で李儒を見た。同じように目だけでこちらを窺う横顔に、一刀が頷くと、そのまま追い去るようにして華雄の後を追う李儒の背が見えた。董卓との話には同席させてもらう、そういうことだろう。しかし、今の言葉を逆に捉えれば、だ。一刀が董卓と、李儒を説き伏せれば彼は干渉しないと言ったに等しい。『……ま、月との会話に支障は無い』『だな、長安は董卓の管轄で涼州の乱は軍部の話だ。 直接的な障害にはならないだろう』「それでも、可能性は下がった」『そうだな……』『とりあえず行こう、華雄が不審がる』中央からの官吏が居ることはともかく、それも張譲に近しいだろう李儒が会席することは一刀にとっては予想の外の事だった。何より、董卓も官吏の目があることから一刀に対して立場的な問題もあって、本音を晒すことは難しくなるはずだ。「一刀」「ああ」「信じてる」「……行こう」李儒から遅れること数歩。その背を追って一刀は翠の力強い目に勇気を貰い、董卓との謁見の場に向かった。---・謁見の間。その奥の部屋から現れた董卓は洛陽で見た姿とは少し違う、華美な装飾が多く施された儀礼的な服装であった。ゆったりと座り込むと、武器を携えた華雄がやや後ろ、副官よろしくピッタリと直立した。それを確認してから一刀は、馬超と調子を合わせて礼を取る。うっすらと目を開けて、普段から要人との謁見に用いられているだろう場所を見回す。恐らく此処、長安に勤める文官と華雄の兵が幾人か、左右に立ち並んでいた。一刀に程近い場所には、先ほど出会った李儒の姿も在った。そこそこに儀礼的な挨拶を交わすと、董卓は一瞬、ふっと優しげな笑みを見せる。僅かに目を見開いた一刀だが、その表情は一瞬の出来事で気がつけば真面目な顔をして見据える董卓の姿が在った。一つ間を置いて、彼女は静かに口を開く。「大まかなところは、華雄将軍からお聞き致しました」「あ……はい。 しかし、その話の前に謝罪をしなければなりません」「馬家との件、聞き及んでおります」「……不幸にも、その一件は董家への痛打となってしまいました。 馬家には貴家はもちろん、王朝への反逆の意志はありません」そこで一刀は口上を切り、馬超を促す。馬超はそれを受けて、一歩前に出ると頭を垂れた。「お目見え光栄です、董卓殿。 我が名は馬超。 馬家の代表として謝意をする為に参りました」声を出す代わりに、董卓が一つ頷く。「涼州の乱は我ら馬家の者にも憂慮する物であります。 官軍、そして諸侯の軍と手を取り合うことあれど 叛徒共に加担する意志は一切ありません。 此度の一件は、全て叛乱の賊徒共が仕組んだものでございます」「仕組む? そうは言うが、報告を聞く限りでは我が董家の受けた痛打は見過ごせないものですぞ」「我が軍は叛徒共を追撃していた最中であったはずだ。 馬超殿の横槍があったせいでみすみす賊を逃したばかりか 軍としての機能を奪われたとあっては、納得できるものも出来ますまい」文官達だろう、左右に並ぶ者から声があがる。一刀はこの時、李儒の顔色を窺った。心なしか目を細め椅子に座る董卓を見つめつつ、僅かに口を開いて傍観している。ふと気がつけば、董卓も彼の視線に気がついているのか、チラリチラリと李儒へと目線を向けていた。自分達の話を聞き終えてから口を出すつもりだろうか。少なくとも、今の時点では邪魔をする気は無さそうだった。確認を終えた一刀は、文官達の声を遮り続きを引き受けた。「追撃していた董卓殿の軍と、馬超殿の軍が当たったのは敵の誘引が原因でした」「それがどうしたというのだ。 そのまま馬軍と一緒に賊を追えばよかろう」「いえ、それは出来なかったのです」一刀はここで、一枚の書を取り出した。丁寧に折りたたまれた書に視線が集まる。一刀は全員の視線がしっかりと集まったのを確認すると、口を開きながら董卓の下へゆっくりと歩きはじめた。「今回の董家と馬家の不幸な一戦が、何故行われてしまったのかはコレを見ればわかります」「そこで止まれ。 受け取ろう」一刀は華雄に言われた通りに立ち止まり、恭しくその手に書簡を渡した。綴じていた紐を解き、華雄は書の内容を確認すると、僅かに眉を顰め一刀を一瞥し董卓へと渡す。董卓も同じように書簡に書かれた文と印を見て、眉をひそめた。「その印は、朝廷の勅を示す印であります。 私は天代として洛陽で政務を行っていましたので見間違えることはありません。 押印された印の横には、大将軍である何進殿と、董卓殿の名が入っております」「何!?」「それは真でございますか、董卓様!」「天代様が言われた通りです……この書簡は、誰の下に届けられたのですか?」「涼州の刺史であった耿鄙殿です。 耿鄙殿は、この書簡を持ち馬家……武威の地へと赴いておりました」涼州の乱の激化を見て、何進大将軍から馬家に協力を仰ぎ、叛乱軍に当たる事。もしそれが出来なければ中立を貫く馬家に警戒し、謀反の意在れば要人の暗殺を含む妨害を行うこと。大雑把に書簡の内容に触れれば、こうある。董卓には当然、この書簡に心当たりは無い。「敵軍の、謀略ですね……」「その通りです。 耿鄙殿にこの謀略を看破することは出来ませんでした。 筆跡はともかく、使われた印は間違いなく本物です。 "二つと無い"物ですから」少しばかりの皮肉を込めて、一刀は董卓から僅かに顎を引いて、李儒へと視線を向ける。顎髭を擦り、李儒はそのくどい顔を歪めてニヤリと笑っていた。胸中で深呼吸し、一つ小さな息を吐き出して一刀は続けた。「耿鄙殿は忠実に、これを実行に移しました。 敵の思惑通りに動いた耿鄙殿に合わせる様にして 同時期に涼州の叛乱軍でも中心人物と噂される韓遂が武威に訪れたのです。 当時、馬家を引っ張る名声高い、馬騰殿は病により伏しておりました。 それによって少なからず混乱をしていた馬家は、耿鄙殿の協力要請に応じるには時間が掛かると即答していなかったのです」一刀のこの言葉には若干の嘘が混じっている。最終的には、耿鄙は看破したとまで行かなくても、きな臭い物を感じ取って書簡の内容を忘れて馬家からは去ろうとしていた。あの毒の一件が、彼女を武威の地に縫い付ける韓遂の一手であったのは間違いなかった。また、馬家が協力要請に応じなかったのも真実だが、否、と即答していた。耿鄙が亡き者となり、口を出せない今となっては誰もその真実にたどり着けないだろう。「事情は分かりました、しかし今の話と我が軍との一戦が、どう関係するのか分かりません」「董卓殿、耿鄙殿は書簡の命令に忠実でした」「それは?」「食事に猛毒を仕込んだのです」ざわり、と周囲が騒がしくなった。特に、董卓を主として仰ぐ者達の顔色は変わった。敵対しているかも知れない馬家とはいえ、現在はあくまで漢王朝を支える諸侯の一つだ。叛乱軍の謀略であることが分かっていても、書簡という物証なりえる物が存在し、なおかつ署名がされている。洛陽で動きを見せない大将軍の何進が、黄巾の乱で揺れる今、涼州での乱を潰しに焦るのは客観的に見ても説得力がある。漢王朝へと弓引こうと思えば、たった今、一刀から董卓に手渡された書簡一つで大事に成りかねない。仕えた主が利用された事、その一点に華雄が怒気を露にし、馬超へと問う。「本当のことなのか」「……身内も巻き込まれ、賊将の韓遂も重態となった」「毒に犯された者はみな死んだのか?」「居合わせた医者の処置が的確で、死者は少なかった。 韓遂も助かっている」喧騒の止まない謁見の間の中、李儒は一人茫洋とたたずんでいた。手を組んで、ゆらりと左右に動いて。一刀と董卓に向けて、胡乱な視線を向けていた。『なんか、不気味だな……』『ああ、突っ込むならそろそろ来てもおかしくないが……』『確かに静か過ぎるね』踊らされるでない。 書簡は本物かも知れぬが、その書簡こそ天代が作った物かも知れんぞ。それこそ"二つと無い"物を何度もその手で使ってきたのだから、ありえぬ話ではあるまい?などと突っ込むなら今が好機だろう。まぁ、李儒の内心はともかく、突込みが無ければ無いで嬉しいチャンスである。一刀は喧騒収まらない今、畳み掛ける事にした。「毒の件は馬超殿の尽力もあって、すぐに納まりはしました。 耿鄙殿はここで馬家の者に処され、書簡もこの時に発見しました」「つまり、書簡から我らを敵だと断じ、一軍を持って当たったというのか」「結果的にはそうです。 この書簡を発見したものの、馬家は慎重を持って真偽を確認するべきだと判断しました。 同時期に出立をしていた官軍への援軍を控えるよう、将兵の下に直接伝えるべく馬超殿が赴いたのですが 折り悪く、貴軍と接触してしまい、馬家の内情を知らない董卓軍将兵と、疑いの晴れない馬超軍で口論から始まったのが 一戦交える事になってしまった全容でございます」言い切って、一刀は一拍置いて馬超へと目だけで訴えた。事前に打ち合わせたとおりに、馬超はその場で傅いた。「董卓様、我が家に敵対の意志は無い。 謀略に巻き込まれたとはいえ、同じく王朝を支える諸侯の一人として 董家の大切な民、兵を奪った我らを憎むのは当然! 浅はかにも挑発に乗って戦ってしまったのは地に頭をつけて謝るより他は無い!」「……馬超殿」「董卓殿、馬家には謝意を示す為の軍馬3千を初めとした貢物をすることを私に確約してくれました。 どうか今の時勢の状況を鑑み、寛大な心を持って赦して戴けませんか?」結局のところは、此処に居並ぶ人間がどれだけ納得できようと出来まいと、董卓の決断一つで決まる。自然と喧騒は消失し、謁見の間に静寂が戻ってくる。董卓はこの場に集った全員をゆっくりと眺めた。まるでその静謐の瞬間を待っていたかのように、彼女は静かに口を開いた。決して大きな声ではない、董卓の声が部屋の隅々にまで響く。「馬超殿」「はい」「今回、私はどのような理由であろうとも、王朝に弓を引いた形になり、黄巾から続く我が民の苦しみの一助となった貴軍の話は 突っぱねるべきだと……漢に仕える諸侯の一人として、心を鬼にして接するつもりでいました」「それでは!」「貴女の……馬家の謝罪を受け入れます。 貢物も此度の乱が鎮まるまでは結構です。 今は一刻も早く、元凶たる叛乱を協力して抑えましょう」董卓の声に、馬超はもう一度深く、頭を下げた。 ■ ささやかな復讐謁見が終わると、一刀は翠とその場で別れることになった。と、いうのも翠の用件は董家との和解が終われば、この地に留まる必要は無く郿城へ向かう馬超軍の下に駆けつける必要があったからである。つい先ほど謁見の間で、董卓へと直接に一刀が策を話したことから容易く受け入れられ、挨拶と感謝もそこそこに颯爽と馬を駆って翠は長安から離れた。一刀が翠と共に行動しない理由はもちろんある。謁見の間で一刀も叛乱軍に付いたという噂は払拭され―――あくまでも洛陽を追放された件は別としてだが―――叛乱を鎮める為に協力することになった。ある程度、董家に信用はされた一刀は、馬超からは遅れて出立することにしたのである。一つの大きな戦いを終えて、一刀は無意識に安堵の息を吐き出した。結果だけ見れば完璧だ。悔いが残るとすれば、董卓個人と話が出来なかったことだろう。これ以上は望むべくもない……こんな落ちが無ければだが。「ふんっ、城中に残ったのが賈文和でなくて良かったな、北郷一刀」「……そうですね」一刀は別の意味で溜息を吐きたくてたまらなかった。翠と別れ、彼女を見送った直後の事だ。あの場ではユラユラと口を開けたり顎を擦ったり、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた李儒が、一刀を食事に誘ったのである。市井で出ている店について、カウンターの様な場所に陣取り、自分を追い出した者の悪人顔と一緒に酒や杏仁豆腐を突いていた。なんなのだろうかコレは。どちらかと言うと、こんなチョビ髭の親父よりも董卓と杏仁豆腐を突つきたい。この場所を選んだのは、こっそりと話すよりも堂々と話した方がバレにくいという定説から来るものと想像は出来るのだが。「いいか、ハッキリ言わせて貰うが戦況を覆す一手になるとは、良くも豪語できたものだと言わざるを得ぬわ」「はぁ……いやまぁ……」「こう見えて私も書生であった時代から、色々と勉強した身だ。 突っ込もうと思えば幾らでも突っ込める」「まぁその……戦は水物ですし」「例えば、皮肉交じりに良い放った、勅印のある書簡の事も貴様が作った可能性があるとな!」ブハッと一気に飲み干した容器とカウンターに叩くように置いて、李儒は顔を顰めて一刀へと顔を向けた。吐き出した酒の匂いが鼻に付く息が、一刀の顔面に吹きつけられる。思わず口をひん曲げて、顔を歪ませた。「なんだ、その顔は。 貴様、己の立場を良く分かっていないようだな。 密告すればどうなる? うんぅ?」「いや、それは助かってますけど……」『うぜぇ……』『なんか、むかむかするな……特に顔』『本体の強い思いが俺達を捕らえてるんだな』『本体じゃなくてもうざいだろ、これは』『結論が出たな』『顔はうざいってことだな』好き勝手に言い合う脳内の言葉も、面と向かって相対する本体には何の慰めにもならなかった。同情するような声に、脳内に交代を望むがマッハで却下される。「ふん。 まぁいいだろう。 ところでだ、北郷一刀。 話は別にある」「なんスか……」「ナンスカ? 天の言葉という奴か? 貴様、私を罵倒しているんじゃなかろうな」「そんな事は無いです」杏仁豆腐を掬い上げて口の中に放り込む。目の前の男と一緒でなければ、舌鼓を打ちたくなるほど美味しかっただろう。呼び出された直後の張り詰めた空気は、李儒の予想外な―――言うなれば親父臭い―――態度に霧散していた。とはいえ、ようやく一刀への言葉攻めを止めて本題に入るようでもある。酒を仰ぐ李儒に、一刀は食器を置いて口を開いた。「で、李儒殿。 謁見の場で言及を避けた理由をそろそろ聞かせてください。 その為に呼び出したのでしょう」「警戒する貴様にわざわざ合わせて話しやすい空気を作ったというのに、せっかちだな。 良いだろう、お前と飲む酒も美味くはない」酔いどれた姿から一転、皮肉をかましつつ李儒は真面目な顔を作った。勢い良く飲んでいたせいか、若干頬に赤みが差している。張譲の下に付くこの男が、ノコノコと現れた殺すべき人間を見逃す理由が、一刀には分からなかった。頼りにしている脳内達も揃って首を傾げたのだ。及びも付かない何かが在ることだけは確か。「よく聞け。 二度は言わぬ」「……分かった」細まった視線に射抜かれ、一刀は重々しく頷いた。ありえるとすれば、張譲との絡みで宦官に関わる話か。そうであれば、何時爆発しても可笑しくないと聞かされていた何進の、宦官の静粛が始まろうとしているのかもしれない。それとも、予想以上にこの地の叛乱に大きな裏があるのか。一刀は一言一句、聞き逃さぬように李儒の言葉に耳を傾けた。その李儒は、顎鬚に手をやって落ち着かない様子で息を吐き出した。たっぷり、おおよそ30秒はかけて、ようやく薄暗い笑みを浮かべながら口を開く。「董卓様を見た瞬間、この女(ひと)しか居ないと確信したのだ!」「……え?」李儒の放った力強い宣言に一刀は混乱した。目の前の男が何を言っているのか、言葉を理解できてもその内容が理解できなかった。最初に理解できたのは"一刀"だった。『おい、殺していいかコイツ』『落ち着け"董の"』「今までの生で、あれほどの衝撃を受けた事は一度たりとて無かった。 いや、これから先の余生でもありえぬだろう!」「……」「貴様が心配しているだろう張譲など宦官は最早どうでも良い。 あんな奴等はあの少女に比べればゴミクズ同然だ。 柔らかな表情に愛らしい瞳、潤った唇、瑞々しい肌にきめ細かい毛髪。 ぬっふっふ、貴様には分かるまい、至高とは、ああいう物だと言うのが」「……」『ふざけやがって! 大体同意できるのがムカつくっ!』『落ち着け"董の"』「おっと、思わず熱くなってしまったようだ。 仕方あるまい、あれだけ可憐な生き物は見たこと無いのだからな……それでだな、北郷」『落ち着け"董の"』『まだ何も言ってねぇよっ!?』一刀はただ、杏仁豆腐を食する事にだけ注力することにした。なるほど。今はもう記憶が混ざり合ってあやふやではあるが、李儒は董卓の下に居るという歴史があったはずだ、多分。何かが巡り巡って、きっとこの男は董卓の下に辿り着くようになっていたのだ、恐らく。どちらにせよ、一刀はこの時点で深く考えるのをやめていた。ひたすら手を動かし、プルンプルンの食物を口の中に投げ込む作業に没頭する。音々音と一緒に食べてみたいなぁ、などと思いつつ、興奮する隣の中年男性の声に適当に相槌を打った。「貴様のことを見逃したのはつまり、これだ!」「これですか」「そうだ! ここ、長安に来るに当たって董卓様という人物の情報は集めていた! 西園八校尉の件で、貴様には董卓様と接触しているはずだな? 良いか、勘違いするんじゃないぞ。 私の思いというのは好意から出る忠誠というものだ、分かるか?」「なるほど……で、何を仰りたいのです」「貴様を見逃す対価として、董卓様の事を教えろ。 どんな些細な情報でも良い。 趣味嗜好、好物、何でも良い。 これから私は張譲から貰った官職を捨て彼女に仕えるのだ。 初手から下手は打てまい」顔を上気し、片膝を立てて酒を食らう李儒に、一刀は胡乱気な視線を向けた。仮に、この話を蹴ったらどうなるのだろうか。気持ちとしては彼の想いに負けないくらい、いや越えているだろうほどの愛しい人と引き裂かれた一刀は目の前の男に協力しようなどと思う気持ちは欠片もわかない。沸かないのだが、しかし、これを断ったら見逃してくれないという言葉。荀攸が指摘し、一刀がずっと警戒していた張譲達が用意したであろう『罠』という奴にずっぽりと嵌るかもしれない。そもそも、酒に酔った男の言葉を信じていいものか。これが演技である可能性だって……いや、どうだろうか。一刀は分からなかった。今、彼は混乱の中でものすっごい複雑な気分であった。『本体、俺に任せてくれないか』『"董の"、お前平気なんだろうな』『非常に気の抜ける話だが、生殺与奪を握って居るのも李儒なんだってことを―――』『分かっているよ。 本体、俺を信じてくれ』『なんか、凄くカッコいい台詞なだけにこの状況だと浮くな……どんまい"董の"』『五月蝿いって! 俺はマジだぞ!』(……任せるよ)既に考えるのをやめていた本体は、渡りに船とばかりに"董の"へと主導権を任せた。「聞いているのか、北郷」「聞いてる。 一ついいかな、李儒殿」「なんだ?」「これはさ、本人から聞いたとても貴重な証言なんだけど……見逃してくれるなら教えるよ」「ふへ、当然だろう、貴様が物分りの良い男で少し安心したぞ」細まった目をたらし、気味の悪い笑みを浮かべる李儒に、一刀は言った。「彼女は実は、李儒殿のようなチョビ髭と、李儒殿のような薄い髪が大嫌いらしい」「……なん……だと?」驚きに目を剥いて、李儒は顎鬚をやんわりと擦った。実は"董の"は知っていた。かつて自身が駆け抜けた乱世の最中、反董卓連合の直前だ。李儒という男と出会い、大きなミスを犯して賈駆から丸ハゲに髭剃することを強要されたという事実。これを受けて、李儒は賈駆へと深い恨みを抱いたのである。その後、確執から李儒は董卓の下を離れて色々と問題が起きたのだが―――今、重要なのは彼の大事な髭と髪の事だった。「偶然、洛陽で話している時に哀れな毛髪とチョビの髭の人を見て、董卓殿が呟いたんだ。 ああいうのは、見ていて可哀想ですし、いっそさっぱりと切って貰った方が良いですね、キャピってね。 今のままじゃ、ゆ、董卓殿には良い印象を持たれない」李儒は、先ほどまで赤みを差していたとは思えない真剣な面持ちで重く尋ねた。いや、少し顔が青くなっている。「……切らねばならぬのか?」これまた一刀は深刻そうに、コクリと頷く。周囲の客が、先ほどまで騒がしかったはずの一刀達の変化に、居づらそうに視線を向けていた。一刀も李儒も、当然そんな視線は眼中に無かった。というのも、李儒はショックを受けていたからだが、一刀……いや"董の"はこの機をチャンスと見たのである。故に、月に会う為に真剣なのだ。「それと、他の件は、幸い俺と董卓殿は面識があるからね」「ほう……間を持つ積もりか?」「双方に取って重要なことじゃないかな? 正直、口約束だけじゃ俺も安心ができないんでね。 李儒殿には董卓殿に関しての望む情報を。 上手くいけば李儒殿が仕える前に俺を追い出した能力の高さを前もって紹介できる。 それに、李儒殿がこのまま彼女の前に行くよりも段階を置くことで、髭や髪を切ることを決断する時間も出来る」「むぅ、なるほど、悪くは無いな。 宦官共の"網"から守るのが要求か? それより髭と髪はやはり切らねばならぬか」「ああ、切らなくちゃ駄目だ、間違いない。 一つ付け加えるなら、李儒殿が持ち込んだという大将軍の書というのも見てみたい」「強欲だな。 だが良いだろう。 あれはもう、なんの意味も為さない書簡だ」一刀と李儒は、そこで話を打ち切った。周囲は完全に、高官であることを示す衣服を纏った李儒と、長安で知らぬ者のない領主様の名を口にした一刀のきな臭さ全開の会話に黙り込んで居た。喧騒の中での会話作戦は見事に失敗していると言えるだろう。二人共、店内の妙な静けさに気がつくと隠すように注ぎあって酒を飲み干し。「信じて良いんだな」「愛おしい董卓という少女の為ならば、裏切らないと誓おう。 血で誓約してもいい」「っ……分かった、親指で」「よかろう」立ち上がり、一刀と李儒はお互いの親指を小さく切って、李儒の懐から取り出された筆と紙面に押印し署名する。その紙面を李儒は一刀へと手渡した。「ああ、そうだ。 一つ有益な情報を教えてやろう」「なんです?」「近く劉弁様が即位する、10日もかからんだろう」「……そうですか、随分と突然ですね」李儒の説明では、今まで難航していた後継者の問題が一気に進んだのは、ここ数日であったという。中心となったのは大将軍何進の行動だ。何進が劉協の下に直接出向いた一件で、流れは劉弁に傾いていたが、宦官の排除の目論見を掴んだことによって劉協を仰いでいた張譲達が、一気に劉弁派に傾倒したのだ。劉弁の即位が決まれば、帝となった劉弁は宦官を重用するだろう。当然、何進の思惑は達成できなくなる可能性が増す。「大将軍の思惑……」「賢しい貴様なら大体分かるだろう、だから意味のない書簡だと言ったのだ」「……それでも、一度拝見させてもらいますよ」「ふん、好きにしろ」「ええ、好きにします」そう言って席を立った一刀は、素早く店を後にした。李儒へ酒と杏仁豆腐の料金を押し付ける為に。---・『上手く利用したな、"董の"』『月に会いたいって思ったら自然にね。 話してて李儒が月に本気だってことも分かったから』『形だけの約束ではあるが、信頼して良いってことか』『まぁ、本気そうではあったな……ある意味、俺達にとっては在りがたい話だが……』『まぁ、良かったな。 月に会えそうで』『ありがと』「大将軍の思惑は、宦官のことかな? やっぱり……」『だろうな』劉弁の即位は本当の事だろう。彼が今、王朝の後継者の件で嘘をつくメリットはどこにもない。物思いに耽る本体を他所に、“仲の”が口を挟む。『なぁ、董卓の言う、髪と髭ってのはマジなのか?』『ああ、あれ? あははっ、嘘に決まってるじゃん』『大事にしてたのか、あいつ?』『そうだよ。 髪と髭に関しては、本体のちょっとした仇って奴かな?』そう愉快そうに笑って、"董の"は李儒を嵌めていた。今は何も手が出せない、本体の為のささやかな敵討ちだった事にツルッパゲの李儒が気付くのは、少し後の話になる。 ■ 外史終了 ■