clear!! ~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~clear!! ~都・名族・袁と仲、割れ目の中で四股が捩れるよ編~今回の種馬 ⇒ ★★★~都・洛陽・入念な旗立てであの子の湿地帯がヌッチョレするよ編~★★★ ■ 無意識下の幻少女は儚げに湖面の周囲を見つめていた。湖面の周りには多くの兵士と思われる者が、そこかしこで炊き出しの準備をしている。煙揺る紫煙が何本も空へと溶けていき、何かを炊き込んだ甘い匂いが鼻腔を衝く。そんな様子を忘れぬようにと、少女は眼に映る風景を眺め続けていた。「月、こんなところに居たのか」「……あ、ご主人様」「天幕に戻らなくていいのか? 水辺に居たら冷えるだろうし詠も心配するよ」一刀に気がついた月は、彼の言葉に頷く。しかし、肯定を示しながらも彼女は動かなかった。首を再び湖面にめぐらす。そんな月に、一刀は頬をかきつつ彼女の隣に腰を落とした。しばし二人で景色を眺めていた。陽が紅く染まって地平から隠れようかという頃。月が俯きながら一刀に尋ねた。「これから、どうなるんでしょう……」「……」一刀は答えない。もう、彼が知る流れは完全に逸脱してしまった。月が呟いた不安は、そのまま一刀の不安でもあるのだ。「この先、どうすればいいのか分からないんです。 ただ流されて、流されてここまで来てしまった。 こうして私がここに居ることが、本当に皆の為になっているのかも……」そこで元々消え入りそうなほど声量を抑えた彼女の言葉は途切れた。俯く月とは対照的に、一刀は星がちらつき始めた空を見上げていた。「それを言ったら俺だってそうだよ。 でも、正しいと思うことをしてきたって思いはある。 だってそうだろう。 月は何も悪くなかったんだ」「……」「反董卓連合を打ち破ったことで、乱世で頭一つ飛びぬけた俺達は もう殆ど取れる選択肢は少ないよ。 だからこそ月は悩んでるんだろうけど……」そう、彼らの選べる道は殆ど無い。持ってしまった権力が、時の時勢が、なにより今駆け抜けている時代が許してくれないのだ。「ねぇ空を見てごらん、今日は満月みたいだよ」「……ご主人様」「これから先、俺達は長い夜の中を駆け回ることになると思う。 詠も恋も霞も華雄も……俺達だけじゃない、曹操や劉備、袁紹達だってそうだ。 この大陸が、今まで以上に深い闇の中を駈けずり回ることになる。 ……将兵だけじゃなく、商人も、兵士も、平民も、全員が闇の中だ」何かを伝えようとしているのを感じたのか。月は天空を見つめる一刀を、見上げるようにして視線を向けた。彼の視線の先には、既に宙空へ上った丸い月がポッカリと浮かんでいる。夕焼けと闇宵の狭間で浮かび上がる月は、ある種の幻想的な雰囲気があった。「闇の中を歩くのに必要なのは光だ。 月は闇を優しく照らして、道を示してくれる。 そして……いつか夜が明けて陽が差すんだ」一刀が言わんとしていることに気がついて、月は慌てたように俯いた。流石に、月にとって彼の言っている事は過大な表現すぎたのだろう。一方で一刀の方も、言葉にしてから何が言いたかったのか訳が分からなくなり始めてとりあえず月に向かって真正面に回ってみた。「そんなこと……」「……ちょっと大げさかもしれないけれど。 月はそうやって悩んでいても良いって言いたかったんだ。 つまりまぁ……闇の中に居る人間は勝手に光を目指すから、あんまり気にしないで気楽にしてよって事だよ」「へぅ……無理ですよ……」「無理じゃないよ、月が光っていられるように、俺も頑張るよ。 先の事に不安になるのも分かるけど、結局人間って出来る事を一つずつやっていくしか 出来ないんだからさ」「じゃあ……ご主人様……夜が明けて大陸を照らす陽になるのは、 天の御使いであるご主人様ですね」「はは、そう、だね。 ……闇の中は君が照らしてあげて」「……ご主人様」「月……」そして二人の影は重なり……「こらぁあああ! 変態ちんこぉぉぉ!」出来つつある影を引き裂くようにして突然の怒声と衝撃が一刀に走った。もんどりを打って倒れ、その拍子に湖まで転げ落ちて、盛大な水音を響かせてしまう。顔を上げた一刀が、肩を震わせながら襲撃者―――董卓軍の最大の頭脳である詠に憤慨しながら詰め寄った。「いってぇ……何するんだよ、いきなりっ!」「ちんこ、あんたね、慰めるならもう少し上手く慰めなさいよ! 訳の分からない詩に酔って月に負担かけるようなことばっか言うんじゃないわよ!」「うぐ……わ、悪かったよ、でもなんかこう、上手くいえなかったんだよ。 ていうか、人を指差してちんこを連呼するなっ!」「うっさい、あんたなんて、のっぴきならないちんこで十分なのよ! ったく、任せてみようと思って見守ってれば意味不明の戯言を呟く上に月を混乱させて襲うなんて! やっぱりあんたは油断ならないわっ!」ビシリと再び指を指されて一刀はうろたえた。別にそんなつもりは無かったとはいえ、思わず良い雰囲気になったのは一刀も認めるところだったのだ。とりあえず助けを求めるように月を見上げた。助けとなるはずの月は、何やら頬を紅くして両手で押さえ「へぅ……」とか言いながら慌てている。どうやら詠の抑止力として今は期待出来なさそうだ。水の音を聞きつけたのか、気がつけば周囲には恋や霞がこの場に駆けつけていた。「なんやー一刀、狼さんになってたんか」「……狼さん?」「ちょっと待て、俺は別にそんなことは「ちんきゅ~~~~~~~」 ハッ!?」「キーーーーック!」「ぐはぁっ!?」「強姦魔が居ると聞いて飛んできたのですぞ! 悪は滅びたっ、なのです!」側頭部に見事な蹴りを入れられ、何か叫んでる音々音の声を聞きながらもう一度水の中に落とされる一刀。顔から突っ込んだ水の奔流が、一刀の視界を覆う。視界は暗転した。次に顔を上げれば、そこは雄大な大地が広がった荒野。隣に馬を合わせるのは長い髪をポニーテールで結い上げた美少女であった。「今度の戦いは大きな物になるな、軍師殿としてはどう見てるのかな」「軍師殿って、別に俺は軍師を名乗れるほど頭は良くないんだけどなぁ」「何言ってんだ。 瞬く間に中原を食い荒らしたじゃないか。 謙遜も度が過ぎると厭味になるんだからな」「はは、確かにそれは事実だけど……でも食い荒らしたのは俺じゃなくて翠だろ」翠と呼ばれた少女は、褒められているのに慣れていないのか馬鹿を言うなと言いながらも頬をにやけさせていた。今度の戦は大きな物になる。華北を制した曹操との決着をつける為の戦だ。「場所は、やっぱり官渡あたりになりそうなのか?」「ああ、そうなると思う」「そうか……厳しいものになるかな、やっぱ」深いため息を吐いて翠は馬上で呟いた。一刀も同意するように頷く。官渡の戦いでは、どうしたって水軍が必要になってくるだろう。西涼を拠点とする馬騰軍は、騎馬の扱いには長けていても水の上ではその実力は発揮できない。一方で、袁紹を水上決戦で打ち破った曹操軍は水戦を一度、二度は経験していた。この差はでかい。「母さんも、あんまり体調が良くないみたいだし、出来れば今回は戦いたくないんだけど」「そうだね……」翠の母親である馬騰は、今体調を崩していた。そして恐らく、曹操軍はそれを見越していた。攻めてきて欲しくない時期に、どんぴしゃで合わして来たのだから、そこは疑いようが無い。もちろん、馬騰軍も準備は怠っていない。曹操の取る、このタイミングでの侵攻は予測の範囲の中であった。一刀は考える。こうした情勢の中で翠は弱気になっていた。改めてこうして二人で顔を合わせて、それは確信に変わり。そして、彼女を励ます為に出てきた言葉は、結局当たり障りの無い言葉になってしまった。「翠、頑張ろうな」「なんだよ、突然」「例え何があっても、(気兼ねなく戦えるように)俺がお前を支えるよ」「へ? はぁ!?」短くそう告げて一刀は逃げるように馬を走らせる。一瞬、頭が真っ白になってしまった翠はしばし呆然と遠ざかる一刀を見ていたが何かに気がついたかのように自分を取り戻すと、頬を染め手を胸に当てたり顔に当てたりとわたわたし始めたのである。「おいこら一刀、今のって……お前……こ、こ、告白……?」「聞い~ちゃった、聞いちゃった!」「うわっ、蒲公英っ!? 一体何処から!?」「くふふふ~、良かったねお姉さま、これでお母さんも安心するでしょ」「何言ってんだ!? 今のは、あれだ! きっと私が暴れるための舞台を整えてくれるとか そういった意味で言ったんだ、多分!」 ←正解「何言ってるの? 話の流れから考えて一刀がお姉さまを欲しいって意味に決まってるじゃん」 ←不正解「う……やっぱ、そうなのかな……」「うんうん、たんぽぽも一刀とお姉さまの事を応援してた甲斐があるってものだよ」「蒲公英……」自分を落ち着かせる為だろうか。翠が胸に手を当てて大きく深呼吸を繰り返す。そんな自身が姉と慕う翠を見て、蒲公英こと馬岱は柔和に微笑んだ。「さぁ、お姉さま! 一刀と祝言を挙げるためにも、まずは邪魔者の曹操をぶっちめにいこうよっ!」「あ、ああ、そ、そうだな! よぉーし、見てろ曹操! あたしの正義の槍の餌にしてやるっ!」翠は乗せられるようにして気炎を上げると、馬首を巡らして一刀の後を追いかけるように駆け出した。それを見送りつつ、自分も馬に乗ると蒲公英は小悪魔のようにニヤリと笑う。「作戦成功~、一刀にお願いした甲斐があったね」戦の前、弱気になる姉を励ましてくれとお願いした蒲公英だったが面白い方向に話が転がったので、非常に満足げに頷いていたのであった。翠から一里ほど離れた場所で馬を走らせていた一刀は、気がつけば深い密林の中に居た。「兄ぃ、これが蜀の奴らから貰った手紙にゃ」「ありがとう」一刀は手紙を受け取ると、その中をその場で開く。挑発とも受け取れる文面を最後まで読むと、苦笑しながら書を戻した。「何て書いてあったのにゃ?」「こちらを誘い出す為の招待状だったよ。 蜀としては周囲の足固めとして 南蛮……この辺の地理は無視できないだろうからね。 急激に纏まりを見せている俺達を取り込めないかと考えているんだろうな」挑発した理由は、これで怒って手を出してくれれば良し。手を出さず招待に応じれば、蜀との国力差を考え萎縮した、と考えることだろう。どちらにしても、南蛮を手に入れる為の足がかりになると思っている。書を出した人の名前は諸葛亮孔明とある。三国志を知る人間ならば、いや、三国志を詳しく知らない人でも知っているだろう。超有名な三国一の天才からの手紙。狙いは深く考えなくても、南蛮を征して蜀の力を伸ばそうというものだろう。南蛮を征することによって交易による国力の増加や、単純に周囲に対しての威嚇、蜀という国の存在感を知らしめる意味も含んでいるかもしれない。「美以、こっちも蜀に対して手紙を出そう」「兄ぃが言うならそうするにゃ。 でもなんて書けばいいのか分からないのにゃ」「大丈夫、俺が言うとおりに書いてくれればいいから」蜀の狙いであろう物を頭の中で纏めて、それら全てを文面に興した。この時の一刀の狙いは幾つかあった。美以達はこの南蛮を治めているが、一刀が把握している限りで見れば事情は良くない。自分達の暮らす場所を守りたいだけの美以達に、蜀の介入という余計な物を背負わせたくは無かった。それを牽制したかったのである。勿論、三国志に出てくる諸葛亮孔明という天才に、自分の浅知恵が通用するなどとは思っていない。ようは孔明という天才の“彼”の思惑を、少し外して対応に迷わせる時間を作ればいい。そう、時間稼ぎが出来れば上出来だった。「諸葛亮孔明が史実や演義のように聡明ならば、手紙の内容には驚くだろうし、こちらを警戒して出足は鈍るはず。 蜀が警戒している間に、南蛮の勢力を纏め上げることが出来れば、蜀も手を出すのに多くの躊躇いが生じると思うんだ。 その時に交渉の場を求めれば、話は悪くない方向に転がるはずだ。 いっそ、呉へと密使を立てて同盟を組み蜀を警戒させてもいい。 うん、案外といい案かもしれないぞ」「良く分からないのにゃ」「はは、美以はそれでいいよ。 さぁ、食事にしようか。 今日はミケ達がお酒を持ってきてくれたよ」シャムに手紙を預けて、一刀達は食事を始めた。この手紙の行く末がどうなるのかを、考えながら……「元気になぁぁぁぁれぇぇぇぇぇ!!!」衝撃と共に場面は変わる。そこは月夜の森の中。一刀は、背を向けて肩を震わしている金髪ミニドリルの少女に向かって優しく微笑んでいた。彼女は慟哭を思わせる声色で、願った。「逝かないで」胸を打つ。それでも一刀にはどうしようもなかった。声を震わせ背を向けて涙を流している彼女に、最後の時まで声をかけることしか出来ないだろう。「ごめん……でも、もう無理かな」「一刀……!」「いかん、気が乱れている。 一度安定したはずなのに……! 負けるものか……こうなったら、もう一度打ち込むまでだ! うぉぉぉぉぉおおお! 気よ高まれぇぇぇ!」ブラウン管の砂嵐のような視界に覆われ、場面が変わる。「五湖の連中が攻めてきた!?」「数は?」驚くように振り返った先で、星が冷静に伝令から詳細を聞いていた。険しい面持ちで、朱里と雛里も耳を傾けている。五湖は数多の部族が集結しており、その数は50万を優に越えているという。とんでもない大軍であった。「ようやく、これで民の皆も安心して暮らせる世が作れたと思ったのに……」「桃香様……」「桃香……」「……ご主人様! 戦いましょう! こんな事で我々の夢を崩させる訳にはいきません」力強い愛紗の目を受けて、一刀はしばし黙考してから頷いた。どちらにしろ、放っておく訳にもいかない。相手の狙いは、間違いなくこの大陸を横から浚うことなのだから。「分かった、桃香や愛紗、朱里達が築き上げたものを、横から奪うような奴らは―――」変わる。「麗羽様! 左翼、崩れました!」「ちょっと一刀さん!? どういうことですの! 早くなんとかしなさいな!」「大丈夫だよ、麗羽。 左翼はむしろ崩して欲しかったんだ。 味方に崩れて欲しいって思うのは、ちょっと気分が悪いけれどね…… あそこに、左翼に居るのは獅子身中の虫、いわば排除したかった連中が居るんだ。 田豊さん、予定通りでいいよね」「はい、一刀様。 後曲を動かし、これからはそれを左翼と扱います。 兵数から考えても問題はないかと」「どういうことですの?」「これから相手を優雅に倒すってことだよ、麗羽」「あらそうでしたの? なら、そういたして下さいな」余裕のある顔に戻り、取り繕うような形で扇をはためかせ始めた麗羽を見て一刀は苦笑しながらも微笑んだ。 変わる。「雪蓮……誇り高き王……君の意志を継ぐ子はここにいる。 ここに居るよ……」「な、一刀……こらっ、離せバカッ……」「蓮華……」「皆、見てるぞ北郷」「……ごめん、蓮華、冥琳。 つい、感極まって」「やれやれ―――「はぁぁぁ!! 一鍼同体! 全力全快!!」変わる。「いよいよだな、一刀」一糸纏わぬ姿ではにかみながら微笑む白蓮。その横で柔らかに笑みを浮かべて彼女の髪を梳いている一刀。「ようやく、ようやく最後だ。 全部終わらせる時が、来たんだな」「違うよ白蓮、ようやく始まるんだよ。 終わった後の方が、俺達にとって厳しい戦いになるんだ」「そうか……そうだったな」「ああ、きっと、ね」「必察必治癒!!!」変わる。「俺は! 俺はこんなところじゃ死ねない……死にたくない……■■■っ!」「元気になぁぁあああれぇぇええぇ!」黄金の光が、視界に広がったような気がした。 ■ 医者王との出会い最初に眼に映ったのは、何処かの部屋の天井だった。重い頭を振り切るように、ゆっくりと左右に首を巡らし、周囲を確認する。何時だったか、自分がしていたように足元で身体を沈める小柄な身体が視界に映る。「ねね……」「ん、起きたか……経過4日目で眼が覚めるとは」一刀が声の方向に振り向くと、赤毛の青年が水桶を持ちながら見ていた。凛々しい顔立ちに、白いマントのような物を羽織り、黒い布地の服を着ている。張るような筋肉は、彼の身体を大きく見せていた。まだ若い。殆ど一刀と歳は変わらないだろう。「えっと、貴方は……」「俺は華佗。 ゴットヴェイドーを広める為に大陸を歩く流れ医師だ。 陳宮殿に一刀殿の治療を頼まれて伺ったんだ」「そうだったのですか、すみません」「気にしないでくれ、人の病を治すのがゴットヴェイドー、俺の使命だ」深く頭を下げた一刀に、華佗は苦笑しながら頭を上げるように体で伝えた。口を開けて寝ている音々音を見て、自身の状態を確認すると一刀は自嘲した。迷惑ばかりを、この小さな少女にかけてしまっている。「起こさないでやってくれ。 死ぬほど疲れてる。 陳宮殿は一刀殿を必死に看病していた。 寝るときもこの部屋から離れないくらいでな、逆に彼女を心配するくらいだったんだ」「そうでしたか。 華佗さん、重ねてお礼を」「なに、気にしなくていい。 それより体の具合はどうだ?」「もう大丈夫ですよ。 すこし体と頭が重いですけど」立ち上がろうとした一刀であったが、それは華佗に止められた。なんでも華佗が最初に一刀を見たときは、手遅れかもしれないと思った程だそうだ。こうして体が快方に向かっているのは、ある意味奇跡だったとも言っていた。それを聞いて本体は体を震わせた。脳内の一刀達が自分の身体をどう動かしたのか。というか、瀕死になるってどういうことだよ、と。「あれ?」「どうした?」そこで気がつく。本体は脳内で何時も何かしら話している自分達が沈黙していることに。自分の脳内に自分達が住み着いてから約3週間。それまで常に自分を励まして、時にイラつかせ、騒がしかった彼らがみな一様に沈黙していた。「いや、なんでも……」「そうか? 身体になにか異常があれば言ってくれ」「ええ、ありがとうございます、華佗さん」「それじゃあ、俺は行くから。 今日一日はゆっくりと床についていることだ」「あの、華佗さん、一つ聞いていいですか?」「なんだ?」「俺って、どんな状態になってたんですか?」その言葉に、華佗は眉をすぼめて難しい顔をした。言おうか言うまいか、少し悩んでから何かに頷くと、教えてくれた。「君は上半身と下半身が真逆を向いていて口からは泡が、鼻と眼からは血が吹き出ており 背骨は砕け、腰が捩れ、筋が断裂し、一目見て8箇所から骨が皮膚を突き破るのが確認できて、内の臓が―――」「分かった、ありがとう。 もういいや」「そうか……いや、実際あれは目の当たりにすると、本当に生きて話せるのが不思議なことに思える。 生命力が強いんだな、一刀殿は」感心するように褒められたが、一刀は全然嬉しくなかった。むしろそれほどの重症であった状態をマッハで治した華佗が異常に思えた。何の補正だよ、と思わず心の中で突っ込んだほどだ。その後、華佗は今日一日は絶対に何処にも行かずに床の上で安静にすること。暫くの間、経過の観察をしたいので華佗がこの家に通うこと。それらを一刀と約束し、他の病人の元へと華佗は出かけていった。「……皆?」華佗が出て行ったのを確認してから、本体は脳内の自分達に声をかけてみた。ところが、やはり自分の脳内から答えが返ってくることはなかった。この世界に来てから、確かに居た存在が消えた。一刀は首を捻ったが、ある意味正常に戻ったとも言える。もしかしたら、華佗は脳内の治療まで行ったのかもしれない。「いや、そんなまさか。 脳内くちゅくちゅされたとかないない」この現象やゴットヴェイドーについて深く考えるのはやめて華佗の持ってきた治療食に手をつけると、忘れるようにしてもう一度床についた。 ■ 駄目だ一刀は華佗の診察を受け、意識を取り戻してから3日後。ようやく外出の許可が下りた。一刀としては身体に異常らしき異常も無く、自由に動けていたので床についているのは苦行でしかなかったのだが実際に治療を受けるよう懇願する華佗と、そして何より音々音を無碍にするわけにもいかず大人しくしていたのである。3日間、暇な日々を過ごしていたが、2日目辺りから脳内の彼らが一人、一人と本体に戻ってきていた。おかげさまで最後の一日は彼らの議論をBGMに出来たので、そこまで暇ではなかった。本体が知らぬところで、華佗が眉を顰めていたのに本体は気がつかなかった。とにかく久しぶりの外だ、と一刀は早速家を出ることにした。後ろから音々音がついてくる。「そういえば一刀殿。 お礼のことなのですが、相談したいのです」「お礼? ああ、そうだよなぁ。 華佗にもお礼をしなくちゃ……」「華佗殿もそうですけど、この家に運んでくれた方にもお礼を言うべきですぞ」「彼が運んでくれたんじゃないのか?」話を聞くと、音々音が一刀の死体らしき物を見かけて泣き喚いていた時に一刀を安静に出来る場所へ運んでくれた候が居るとのことだ。「あの時は、恥ずかしながらねねも気が動転しておりまして、名を伺うのを怠ってしまいました。 一刀殿が寝ている間に調べて、ようやく分かったのです」そう言って音々音は懐から書を取り出した。書と言っても、大層な物ではなく、どちらかと言えばメモ帳のように乱雑に情報が書かれている物だった。そして、音々音の口から飛び出した名前には本体も、脳内の一刀達にも驚いた。「そのお方の名は公孫瓚伯珪殿です」「公孫瓚!」『『『白蓮!?』』』『ああ……あの子か、あの普通の』『おい、普通とか言うなこら』『実際、騎馬の扱いは普通なんてレベルじゃないけどな』『“馬の”が言うと説得力があるな、なんか』『一度ぶつかったんだよ、その時公孫瓚は曹操のところに居たんだけど』『興味深いが、その話はとりあえず後だ、後』『っと、すまん』「一刀殿は知っておられたのですか?」「いや、名前くらいはね。 そうか……でも何でそんな地位の人が」「そうなのです。 問題はそこなのですよ」ため息を尽きながら音々音は肩を落としたように言い捨てた。何でも、礼を言うべきだと進言したのはいいが、は公孫瓚は幽州遼西郡の太守である。現在、洛陽では賊の横行に対する軍議が開かれており、当然ながら公孫瓚も出席していた。そして、軍議は宮内で行われている。一般人である一刀も音々音も、宮内にはおいそれと入ることなど出来ないのだ。「ついでに言えば、一刀殿を襲った不届き者も諸侯の……しかも手を出すことなど不可能な程の大物だったのです」音々音が調べたところ、一刀を襲ったのは袁紹と袁術であることが分かっている。実際には彼らに襲われたのではなく、ただの意識群の暴走で自滅しただけだったのだが憤慨する音々音に、なんとなく本体は真実を告げることが出来なかった。「そうか、それじゃあお礼を言うのは難しいね」「しかし、ねねとしては世話になった方に何も言えないのはもどかしいのです。 なんとか会う方法があれば良いのですが」「うーん、そうだなぁ……」本体は顎に手を当てて唸った。本体が音々音と一緒に過ごして分かった彼女のことだが責任感が強く、礼儀を重んじる。一刀を主君と仰いでいるため、臣下の分を越えるようなことは絶対にしない。しかし、かといって一刀を甘やかすだけではなく、異世界に慣れていない一刀の間違いを見かければやんわりと諭して、行動の是非を教えてくれたりもするのだ。音々音の気質は、実直で素直。弁では正論を振りかざす音々音は、見る人が見れば頑固者で頭が固いというかもしれない。柔軟な発想をする人間からすれば、音々音の正論が時に疎ましく思うことだろう。彼女を一刀が助けた時が、良い例ではないだろうか。そんな彼女だからこそ、礼を言えないことは心の内にわだかまりが残るのだと一刀は思う。一刀は、感謝してもしきれない彼女に報える事があれば、それをしてあげたいと思っている。とりあえず頭を捻って考え出したことは、宮内に身一つで入れないのならば入っても良い人についていこうと言う物だった。「よし、じゃあ宮内に入れそうな卸店に就職しよう」「一刀殿、しかしそれは……」こういった結論に辿りついた音々音はしかし、顔を顰めてしまった。一刀の答えを聞くまで、彼女の頭にすら思い浮かばなかったのだが音々音が言ったことにより、一刀の選択を誘導してしまったのではないかと気付いたからだ。一刀が悩んだ選択肢に、助言をするのはいい。しかし、今回は一刀がそういう選択をするように導くような発言を先手で打ったように思ってしまったのである。「良いんだ、どっちにしろ働く場所で悩んでたら事故にあったんだし。 それに、卸店で働くことで今の世の実情と経済観念が身につく。 俺としては、候補にあった就職先のどれを選んでもメリット……良い点しかないんだから、ねねが気にする事はないよ」「そう言われるのでしたら、良いのですが」「うん、それじゃあ就職しにいこう」こうして意気揚々と一刀と音々音は卸店に向かい、店主に話をして店主から次のお言葉を頂戴したのである。「駄目だ」「え? どうして、この前は雇ってくれると……」「いやな、こっちも人手が欲しかったからよ。 四日も顔を出さなかったから、こりゃあ他の場所で同業の働き口を見つけたかなと思って 別の人間を何人か雇っちまったんだよ」「そ、そうだったのですか……」「つーことで悪いが駄目だ。 また縁があったら、その時には頼むわ」仕方なくその場を後にし、別のお店で取り合えず足がかりにしましょうと諭され飲食店と本屋にも足を運んだが、どちらも似たような理由で却下されてしまった。肩を落として膝を抱え込み、広場の中央で地面にのの字を書き始めて絶望に覆いつくされた一刀に音々音は肉まんやら饅頭やらを差し出しては必死に慰めた。 ■ “気”がそぞろ洛陽へ訪れてから2週間が経った。職は未だに見つかっていない。丁度、一刀たちが洛陽へ訪れた時分が一番、人工の掻き入れ時だったようで一刀が働いてみようと思える場所は片っ端から断られてしまった。いよいよ選り好みをする時ではないな、と思いつつ、今日も街の広場でブラブラしている。変わったことと言えば、診察という名の雑談を華佗がしてくれることだろうか。むしろ華佗の元で働いてみようかな、と、ある日一刀は思いつく。現代でも医学に特別興味があったわけではないので、医者としては働けないだろうが医学の発展した現代から、一刀はやってきているのだ。助手、いやそれも難しいかも知れないが、栄養食くらいはギリギリ行けそうな気がする。「華佗、俺をゴットヴェイドーの助手にしてくれ」「いきなりだな……ふむ、助手か、俺も考えたことがあるんだが」どうも反応が芳しくない、せっかくの友人に倦厭されるのも嫌なのでスパっと諦めた。「分かった、すまん、忘れてくれ」「いや、こちらこそすまない。 人を雇うとなると、お金が必要だろう? 俺は余り裕福ではないからな……人を雇う責任というものを果たせないかもしれないから」そうだった、と一刀は頷いた。華佗はあまり客から金を貰わない。これはちょっと、驚いたことなのだが、基本的にゴットヴェイドーの医者は儲からないそうだ。なんでも、医者が人の命を救ったり病魔を払ったりするのは当然のことで人を助けるのに余分な金銭を分捕ったり、医術を私腹に肥やすために使うのは家畜にも劣る所業だと言われているらしい。ゴットヴェイドー。 考えてみるとドMの人でないと務まらない、と一刀が思うほど過酷な職業だった。「悪いな、華佗。 俺、断られて良かったかもしれない」「そうか? まぁ一刀はどちらかというと、助手というよりも患者だからな」「何を言ってるんだ、もう治ったんだから患者じゃないだろ?」「……それ、なんだがな」突然、声を落として華佗は言いにくそうに腕を組む。ちょっと困ったような顔をしながら、彼は口を開いた。「一刀の治療が終わって、起きてから数日は、確かに完治した。 俺もそれは疑っていない」「なんだよ、俺どこか悪いのか?」「身体が悪いというわけじゃない、身体の中に在る気が安定していないんだ」「気……? ゴットヴェイドーで言うところの、気が?」「ああ」「そうなのか……」『気が安定してないだって?』『どうなんだ、“肉の”』『うーん、俺が本体の身体で気を練った時は、違和感無かったけれど』『“馬の”と“白の”はどうだ? 気を使えたんだろ?』『まぁ、少しはね。 でも俺も違和感は無かったよ』『俺も無かった。 自然に気を扱えたけどなぁ』『華佗が間違ってるとか?』『華佗は名医だ。 それは俺も保障する。 間違ってるとは思えないな』『じゃあなんで気が安定してないなんて事になるんだよ』『『『知らんがな』』』脳内の動揺に耳を傾けつつ、一刀は華佗を仕草で促した。「治療をしていて気がついた。 一刀は……そう、気が特殊だ」「人とは違うってことか?」華佗は頷いた。その表情は、茶化しているともふざけているとも思えない程真剣だ。一刀は知らず喉を鳴らした。「普通、人が持つ気は安定しており、無闇に動いたり騒いだりしない。 けど、一刀の中に眠る気は少なくても7つ。 多ければ10を超える気を抱えているんだ。 一刀が強い生命力に溢れているのも、この事が原因になっているのかもしれないな」『おい、これ俺達のことじゃないか?』『あー』『意識を気として捉えてるってことなのか?』『ありえない、普通は気は一人に一つの気質しか持ち得ないし意識に宿るなんてことも無い筈だ』『いや、状況から見ても、これは俺達の事だろう』『本当かよ、“肉の”』『ああ、“魏の”が言ったように気というものは原則、一人一つの気質だが、 実際気質は同一人物でも変化することがある。 俺達が本体の中に入って気質が変わり、それが幾つもの気として感じることは在り得る話だ』「原因はお前らかよ、ていうかお前ら病気かよ」「病気だって? 何の話だ? この辺りに病を患ってる人が居るのか?」「いや、なんでもないよ。 でも、華佗の心配事が分かったというか……」まさか目の前の頭の中が病気扱いだったんですよ、などと言えない。それって、目の前の人の頭の中がおかしいんです=俺って頭おかしいんです。という公式になりかねない。華佗、ゴットヴェイドーのことだ、きっと頭に針を刺して来るはずだ。頭クチュクチュは嫌だ。「まぁ……とにかく、正直言ってゴトヴェィドーを学んできた俺でもこれは初めての病状でな。 気を幾つも内包する一刀は、何時その身に異変が起こるのか分からないんだ。 現状は回復の促進や、たまに漏れる覇気のような気を纏っているから害は無く、むしろ有益なんだが。 しかし、危険性があることには違いないからな、だから毎日一刀に会いに来ているんだ」その言葉は本体にとってちょっとショックであった。友人として会いに来てくれてるのかと思っていたので、何時発症するか分からない患者として会いに来てくれていたとは思わなかったからである。まぁ、本体がこう思ってしまうのは仕方ないのだが、どちらかというと気になる患者だからと心配して毎日見に来てくれる医者が友達ではないという結論にはならないのだが。ともかく、一刀としてはもっとこう、なんかこう何時の間に呼び捨てにされてたりしたし、アレだったのである。とはいえ、知らなかった事実がここで一つ分かったのは嬉しかった。脳内に居る自分が、自分の身体に良い方向での副作用が働いていることに気がつけた。デメリットは、頭の中が騒がしいことだろうか。それにしたって、助言を貰っていたりもするので頭の中から消えてしまえ、と思ったりはしない。邪魔なことも、多々あるのだが彼らもその辺は理解を示してくれているせいか許容できる範囲であった。「そうだ、一刀。 俺も君の目的という物に同行していいだろうか」「え?」「俺も根無し草の旅をしている。 患者を求めて。 一刀も旅の目的は聞いていないが、色々と大陸を回る予定なんだろう? 別々に行動したら、一刀の中にある気の様子が気になってしまうと思うんだ」それは、華佗の偽りない内心であった。気を複数もち、気質が騒いだり揺れたりするのを目の当たりにすると一刀自身の容態も気に掛かってしまう。更に一刀の病状は、華佗の短くないゴトヴェイドー暮らしの中で初めて見るものであったのだ。言い方は悪いが、興味が沸いてしまうのは仕方が無いことだろう。「まぁ……俺は構わないよ」「そうか、ありがとう……改めてよろしく、一刀」「ああ、よろしく、華佗」お互いに握手を交わすと、華蛇は患者の下に行ってくると言い残し立ち去った。素晴らしい医者である。病魔と真正面から向き合い、自らの気を用いて苦しむ人々を無償(に近い)金額で救うのだ。なんという出来た青年だろうか。「一方、俺は未だに無職であった」口に出してみれば、陰鬱な気分が少しは和らぐかと思ったが別にそんなことは全然なく、むしろ深いため息となって一刀の心は更に沈んでしまった。余り考えるとよくない方向に行きそうなので、一刀は現状の自分の立場を首を振って無理やり振り払うと思考を切り替えた。経緯はともかく、これからは華佗も共に旅をしてくれるというのだ。気になる患者という立場ではあるが、良き友人にもいずれはなれると思う。実際、華佗はいい奴だと本体は思っている。“魏の”や“呉の”、“肉の”も同意してくれていた。洛陽で、自身の怪我が発端とはいえ、一刀は音々音以外に気の許せる友人が増えたことに素直に喜ぼうと思ったのであった。 ■ 脱ニート一刀華佗と知り合ってから2週間が経過した。無職である一刀は肩身狭い思いをしながらも、ひたむきに職を探し求めて歩きついに運搬業へと就職することができた。落陽へ訪れて、実に1カ月後の出来事だった。どうしてこんなに仕事にありつくのに遅れたか、という疑問に答えてくれたのは意外な事に就職先の店主であった。一刀としては、働けるなら何処でもいい、働きたい、ねねの脛をかじって暮らしていくのは嫌だ。せめて音々音に負担をかけなくらいには、自立がしたい。そんな思いで必死に探しまわっていたのだが経営者側から見ると、あちらこちらに声を掛けている一刀は特定の職にこだわらず、働き始めてもすぐに別の職種に目移りしてしまうんじゃないか、と映ったらしい。実際に、店同士の経営者達にとって、最近の一刀の行動は話題の種の一つとなっており似たような会話を交わしていたらしい。同業の店で必死になるのならば自然であり、話題になるようなことは無かったろうが一刀のようにあっちにふらふら、こっちにふらふらと情熱を振りまく人間はかなり特殊だった。「そういうわけで、お前をパッと雇って見るのに尻ごみしていた。 せっかく仕事を仕込んでも、すぐに職を変えるような奴に自分の技を教えたくはないからな」『『『『なるほど』』』』「って、お前らも知らなかったのかよ!」『すまん、俺達は基本的にすぐ、宮仕えに……諸侯に仕える事になったようなもんだから』『一応、市井の流れとか市場の規模とか、そういうことは考えていたけど』『俺の時は本体みたいにトラブルなんか無かったし、一発採用だったから……』『俺もその日の内に働き始めたから、知らなかった』『まぁ店というよりは自給自足しか出来なかった』口々に理由を説明されて、本体は呻いた。「とにかく、雇い入れたからにはしっかりとこなして貰うぞ。 一ヶ月間、仕事を探し続けたお前さんの根性を見せてくれ」「はい、一所懸命、頑張らせていただきます」「おう」運搬業とは、勿論品物を運搬する仕事だ。食品、衣服、雑貨や工具、あらゆるものが集積され、出荷されていく。一刀の仕事は、集積された様々な物品を、指定された箇所に運搬する業務だ。本格的に仕事が始まり、毎日汗を流す中で、運搬業につけたのは一刀にとっても実のある仕事だと実感し始めた。この時代、道具を運ぶのは基本的に馬車か馬を使う。しかし、どちらも無ければ人の手で運ばなくてはならない。基礎体力、筋力は当然メキメキとついた。働き始めてから数週間は死ぬほど疲れて、仕事が終われば即睡眠の生活であった。扱う品物は多岐に渡った。当然、それらを届ける場所は個人から商店まで幅広かった。中には、手紙を渡す郵便のような事もしたりもした。この運搬業務を何度も扱う商店も存在し、そこへ毎日顔を出す一刀の顔は覚えられ何人かの知り合いや友人を作ることに成功している。また、商品を運ぶという形態上、一刀はこの世界で扱う道具に詳しくなった。それは日常品から刀剣などの武器、或いは防具、装飾品や壷などの著好品。子供のおもちゃから大人のおもちゃまで、ありとあらゆる品物に自らの手で触れることになった。運搬業の店長から、それらの扱い方、値段、所縁なども聞き出せて一刀にこの世界の基礎知識を現在進行形で学ばせてくれている。勿論、人気商品や余り売れない商品もチェックした。一時はどうなるかと肝を冷やした一刀であったが、総じて結果は満足行く職種に付けたと思えた。そうして日々を、汗水垂らして過ごす一刀はある日の夕方に本屋へ訪れていた。 ■ アレがアレになってやばいよアレが「こんばんは、おやっさん」「おう、北郷じゃねぇか。 どうした」「どうしたって、ここは本屋でしょ。 本を買いに来たんですよ」「本を? そっか、意外だな、本を読めるのか北郷は」「ああ、俺が読むんじゃないんです。 日頃の感謝をこめて、プレゼント……贈り物を上げようと考えて」「なるほど、あの小っこい嬢ちゃんだな。 北郷と違って利発そうな子だし、納得だ」「ちょ、ひでぇ、おやっさん!」「あっはっはっは、わりぃ、今は客だったな! こりゃ失礼」この本屋には、運送業の中で何度も足を運んでいる。店主とは顔見知りだし、一刀が知っている本屋の中では一番質がよく、広い店だった。そして、店主が言うように、一刀は音々音に日頃の感謝を込めてプレゼントをしてあげようと思ったのだ。最初の給料から、音々音に贈り物をすることは半ば一刀の中での決定事項だったのである。「おやっさん、何か良い物は無いですかね?」「そうだな、あの子頭が良いだろう?」「ええ、政治や経済、軍学にも精通してます。 でも、あまり軍学書や経済書は持っていないそうなんで」「へぇ? そうだったのか?」この世界の本の価値は、結構微妙な値段であった。宮仕えならば、それほど苦もなく手に入れることが出来るし商人ならば、購入するにはちょっと高いという認識であった。ところが庶民が買おうとすると、ちょっと迂闊には手を出せない値段なのだ。音々音の所持する本が少ない原因はここだ。彼女も決して、裕福というわけでは無かった。基本的に質素な生活であり倹約できる性格と、無駄使いをしない性質のおかげで音々音も幾つかの本を購入することが出来た。しかし、何冊も買える程貯蓄があったわけでもなく、また生活を捨ててまで本を買い求めるような、猪突な性格でもない。何故か一刀の事になると熱くなってしまい、一刀が驚いてしまうほど反応を示したりするが。それはともかく、音々音は基本的に公共で読めるように手配された本などで勉強し、暗記して帰ってくるのだ。彼女が書士達と交友を深めようとするのも、ここが大きな要因の一つとなっている。「ってわけでさ」「そっか、関心するなぁ」「だから、最近入荷したもので、何か良いのは無いかい?」「そうだな、ちょっと待ってろ」そう言うと店主は店の奥、本を積み重ねてる部屋へと歩いていく。一刀は待っている間、手持ち無沙汰を誤魔化すように、カウンターに置かれた本を何気なくめくった。途端に視界に映る、男女のまぐわい。丁寧に図解入りで、様々な体位が描き出されて陰とか陽とか、恥部とか剛とか書かれてた。正直言って、現代で写真に見慣れてる一刀にとってはインパクトこそあったもののその本の内容はお粗末な出来栄えに見えた。全然関係ないが、本郷 一刀は高校男児である。この世界に落とされてから、一度もアレはしていない。自分とはいえ、自分とは違う意識の自分が何人も居るのだからそんな全編公開状態、びっくりするほどユートピアな感じでアレとか出来ない。つまり、異世界3ヶ月目にして飛び込んできた、突然のアレを実感できる物質を脳が処理した時一刀のアレはアレになった。「うぉ……やべぇ、こんなところで」『おいおい、本体、アレがアレになってるじゃないか』『いくらなんでもこれでアレになるのは悲しいね』「五月蝿ぇよ」『いや、しかし気持ちは分かる。 俺も三ヶ月目くらいのときはアレだった』『ああ……“董の”、お前もか』『うんうん、一日中アレになってたもんなぁ』『辛いよな、アレは、何よりアレになると周囲の視線が困るし』「よし、お前ら、俺の身体を今だけ乗っ取っていい。 こんなアレになって苦しいのは久しぶりで辛い」『すまん、辞退する』『『『『俺も』』』』『アレになるのは一回だけでいいよ、もう』『ははは、皆やっぱ懲りてるんだな、実際目の前に美少女が勢ぞろいしてるのに堪えるのは アレだったもんな』『本体、諦めた方が良いよ。 それに乗っ取ってもどうせ7秒くらいだけだし』「ブフォ!」「わっ、なんだおやっさん!?」店の奥で、隠れるようにしながら(尻だけは見えている)店主の身体は震えていた。しばらく咳き込むような笑い声を上げた後、ひょっこりと顔だけだしたおやっさんは物凄く苦しそうな表情でニンマリと満面な笑顔をしていた。「……おやっさん」「ああ、なんだ、ブフッ、すまんすまん。 しょうがないなまったく」口元に手を寄せて、それでも押さえきれないように息を漏らしながらニヤニヤと微笑みつつ一冊の本を手に持って一刀の近くへと店主が近づいた。「何処から見てました?」「うぉ、やべぇこんなところで、からだな……」一刀はくだんの艶本を広げた体勢のまま、アレがアレになっている状態で固まっていた。そんな固まったまま話しかけてくる一刀に、店主は視線を持ってきた本と何度か巡らせる。そして、ちょっと言いづらそうに聞いてきた。「こっちにするか?」「……おやっさん」「何だ」「そっちをくれ」「分かった……なんか、すまん」こうして一刀は音々音のプレゼントを手に入れた。当然、艶本ではなく店主の持ってきてくれたお勧めの本である。その本の表題には、青い文字でこう描かれていた。“孟徳新書”と。 ■ 忠誠には報いるところがなんたらかんたら「か、一刀殿~、申し訳ございませぬ、遅れまし……たぁ」慌てた様子で音々音が家に飛び込んだが、彼女が部屋を見たときには一刀の姿は既に無かった。一刀が贈り物を買った日、音々音は書士の知り合い達と酒家で飲み明かして朝帰りになってしまった。ぶっちゃけ、途中からペースが上がってしまい酔いつぶれたのである。気がつけば朝。既に日が昇り始めており、毎朝一刀の朝食を用意していた音々音は慌てて戻ってきたところであった。ところが、部屋には誰も居ない。「うむむぅ、昨日は夕方から一刀殿の顔を見ていないのです。 居ないというのなら、おそらくは仕事に出かけたのしょうが……」一刀が運送業について仕事を始めてから、音々音と共に居る時間は格段に減った。主が精力的に働くのを見て嬉しくはあるのだが、会える時間が少なくなってしまったのは彼女的にちょっと寂しかったりした。「ううう、なんたる失態。 ねねは自分を許せそうにないですぞ」そんな貴重になりつつある主君との会話の時間を、自らの失態で逃した音々音は悔やんだ。だって、好きなのだ。一刀と一緒に話す時間が、あの穏やかで心地良い時間が好きになっていたのだ。日々の活力の糧になりつつあると言っても過言ではない。こんな気持ちになってしまうのは初めての事で、音々音は戸惑ったのだがそんな気持ちも一刀と共に過ごしているとどうでも良くなるくらい好きになっていた。肩を落として、とりあえず自分の朝食を取ろうとダイニングらしき部屋へと向かう音々音。そして見つける。引き千切ったようなメモ紙(一刀がメモと呼んでから音々音もそう言っている)が置かれそのメモ紙の下に置かれた小奇麗な小包が。手にとってメモを眺める。それは、音々音ならば見間違えようも無い。まだ漢文に慣れていない一刀の、たどたどしい文字の後であった。『ねねへ。 何時もありがとう。 直接渡したかったけど、仕事の時間になってしまった。 日頃の感謝を込めて、この本を贈ります。 北郷 一刀』そのメモを何度か読み直してから、音々音は震える手で小包を手に取った。中には新品の本が入っている。それは、今、巷で若い書士を中心に評判になっている兵法書であった。陳留を収める曹操が、兵書“孫子”を編纂した言う話題の書。ぶっちゃけ、かなりの高額で、飛ぶように売れている為に入手困難な一品でもあった。庶民の市場に出回っているのは、稀である。孟徳新書は孫子を習って13篇に編集されていると噂されており、これはその中の第4篇に当たるようだった。一刀の贈り物、という一文で、既に音々音の感情は昂ぶっていたがその内容物は音々音にとって喉から手が出るほど欲しいと思っていた一品が飛び出したのだ。更に、その贈り主が仕える主、北郷 一刀からの物であると気が付けば胸に熱い物がこみ上げてくるのを、感情のまま込み上げてくる涙を音々音は止めることが出来なかった。「一刀殿……」自身の瞳から流れる涙で濡れぬよう、音々音は孟徳新書を胸にかき抱きしばし心を落ち着かせるまで時間を要した。「きょ、今日は書生との討論はお休みにするのです。 今日一日は、この本の全てを吸収するために使うべきだと、ねねは思うのです。 賛成1! 反対0! 可決しましたので決定なのです!」テンション高めで朝食を掻きこみ、部屋の奥にある書斎へ駆け込むと音々音は音読しながら孟徳新書を読み始めたのであった。洛陽での日々は、紆余曲折を交えながら、概ね軌道に乗った一刀と音々音であった。 ■ 外史終了 ■