clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~☆☆☆ ■ 月に酒 友と名よ 郿城の戦いが終わりを告げて、三日が経った。 その日、敵の糧道を絶って寡兵での勝利を収めた江東の虎が、郿城に凱旋を果たした。 大いに称えられたその戦功に、郿城に集う者達は戦勝の宴を開き、主な将兵達は心行くまで酒と踊りを楽しんだ。 そんな、勝利の美酒に酔った郿城の夜。 主役である筈の孫堅が一足先に戦勝の宴の席を辞し、城壁の縁に腰を掛けて空を仰いでいた。 雲ひとつ無い、美しい満月であった。「……」 夜を徹して、城砦の修復に取り掛かる兵の声と、新たな門を打ち付ける槌の音が風に乗って聞こえてくる。 右手で酒の入った盃を円を描くように転がして、酒の水面に映りこんだ黄色い満月が左右に揺れた。 目を細くして、孫堅は一つ盃を煽る。 スッと水のように入って行き、喉を通るとほのかに熱が染み渡った。 郿城の中でも一等の美酒であろう。 しかし、不思議と美味しくは感じなかった。 溜息のように息を吐き出して、酒瓶を傾けて盃に満たす。 孫堅の鋭敏な感覚が、人の気配を感じ取って目線だけを投げると、頬を赤く染めた皇甫嵩が酒を片手に歩いていた。 「主役がこんなところで一人酒とはな」「……なんだ、皇甫嵩殿か。 何か用か?」「天の御使い殿が気付いて探しておりましたぞ」「月を見たくなったんだ。 それに、あの場は少し私には居づらい」「ほほう、孫堅殿も苦手な空気というものが在ったのですな。 これは新たな発見だ」「茶化すな」 そう言って皇甫嵩は孫堅と対面するように、城壁に背を預けた。 片手に持っていた酒を一人で注ぎ、先の孫堅と同じように小さな盃を掌で回す。 そこで初めて、皇甫嵩は気付いたかのように空を見上げた。 煌く星々の中、天に浮かぶ満月が夜の郿城を優しく照らしていた。「なるほど、見事だ……」 見入るように酒も呑まず、天空を見上げる皇甫嵩を孫堅はじっと見つめた。 戦の最中にも思ったことだが、この男はやはり変だ。 この郿城の戦に大将軍からの命を受けて、孫堅はもとより、皇甫嵩もまた董家を助けるための援軍という形で入り込んでいる。 洛陽で黄巾との決戦以前から、常に最前線に出て指揮を続けてきた目の前の男は、挙げた戦功と地位が両立していない。 勿論、褒章を受け取っていない訳では無いのだが、他人に譲っているような振る舞いをしていると言えた。 其処に突っ込む事は野暮なのだろう。 様々な思惑や思考が彼の中にも在るだろうし、朝廷にもあるだろう。 だが、本来、人は欲が深い物であることを孫堅は知っている。 どうせ酒の席だ。 そう心中で呟いて、苦笑のような笑みを浮かべて彼女は未だに月から目を離さない皇甫嵩へ尋ねた。「尋ねてよいか」「うん?」「皇甫嵩殿には出世欲が無いのか」「……」 尋ねられた皇甫嵩は、そこで初めてこの場に来てから盃に口をつけた。 酒を飲み干し、空いた器に注ぎ足す事はせず、掌で廻してぼんやりと見やる。 黙した皇甫嵩に構わず、孫堅はぼやくようにそう呟いた。「実を言うと、私は此度の戦で余り大きな戦功は欲しくなかったのだ」 突き刺さる視線に構わず、彼女は続けた。「今の私は他人がどう思っていても、実の娘から孫家を追い出されて大将軍に拾われた者となっている。 孫家の未来は我が娘に託されているのだ。 だが、アレは自分の立ち方をまだ知らない雛なのだよ」「孫策殿ですか」「ああ……私を捨てたというのに我が娘は、何故か私の背を追うことをやめていないのだ。 聞けば江東はやにわに乱れ、その平定に苦心し、劉表殿がちょっかいを掛けているそうではないか」 皇甫嵩は黙って彼女の言葉に頷いた。 その話は、耳に齧ったことがあるからだ。 孫堅という一家の大黒柱を失った孫家は、江東一帯で起きた豪族の反乱に手を焼いていた。 孫家が予想していたよりも、心から伏していた者は少なかったという事実が垣間見えていた。 そして、劉表は江東の乱れは漢王朝の未来を憂う物と見て援軍を申し出たという。 だが、孫策はこれを突っぱねた。「あそこで差し出された手を払うのは、劉表の腹に何かあろうとも下策だった。 一気に乱を畳んで江東に我在りと叫べなければ、虎と呼ばれた私に比べ甘く見られる。 家の舵取りに必死で、大局を見失っているのだ。 公瑾ならば分かっていたはずだが、伯符にはとんと甘いからな。 この郿城の戦で私の挙げた功は、すぐに風の噂になろう。 伯符は江東の人間に舐められる、虎は功を上げたがその娘は虎ほど強くは無いぞ、とな」 江東には荒くれ者が多いのだ。 半ば実力でねじ伏せていたところもあり、弱みを見せればすぐに反旗を翻そうとする豪族も多い。 こうして孫堅が戦功を手に入れた分だけ、孫策に重圧と焦りを与えてしまう事になる。 酒の力も手伝ってか、皇甫嵩の相槌すら待たずに口上が乗る孫堅。 盃に酒を満たしては飲み込み、舌が乾かぬ内から言葉が突き出た。 こうした戦で自分の勇名が轟くほど、孫家を委ねた娘には苦労をかける事になる。 武人であるはずの孫堅が、戦功を挙げたくなかった理由はこれだ。「本心を申せば、北郷一刀には少しは恨みもある」「子は幾つになっても可愛いものだからな」「ああ、何も劉協様に忠礼に赴き、曹操を挑発した直後に追い出されなくても良いだろう、と笑ってしまったわ」「孫堅殿は、我が家に心を砕いておる」「……そうだな、認める」「たらればはともかく、孫家が今の王朝に尽くす事は難しくなったという事か。 少なくとも江東が落ち着かない現時点ではそうなのだろう」 酒瓶をひっくり返し、無くなった酒を横に置いて、孫堅は苦笑した。 美酒が旨くないのは、大将軍に、いや孫家の人間として漢王朝に仕えていないことに満足していないからだ。 大雑把に見えて、孫堅も人の子だ。 悩みもするし、不安にもなる。 一家の長として、最善を選んだつもりであった。 一刀の下で諸侯が団結を見せることに漢の生きる道を見た彼女が聞いた天代追放の報せ。 それは、あまりにあっけない夢の幕切れであったのだ。 皇甫嵩は今、孫堅にその事実を突きつけた。 彼女としてはズバリと切り込んできた彼の言葉に、笑うしかなかった。 だが、次に彼が言ったのは、孫堅の予想外のものであった。「実を言うとな、北郷一刀には私も思うところがある」「意外だな……そうなのか?」「私は天子に忠を誓った。 帝こそ、主上であり、私の信念だ。 凡人である私にとって、それは掛け替えの無い物。 今、反賊と成った者達の大半は、もともと我等の仕える漢王朝の民であった。 信念が無ければこうして賊と、かつての民と向き合って戦えないというのも在る。 物事に自分の掲げた信念を持ち込まねば、何も出来なかったのだ。 その信念もまた、借り物。 迷う私の背を押し、在り方を教えてくれたのは、私の伯父であったのだ」 皇甫嵩はそこで言葉を切った。 孫堅の盃に、持って来た酒瓶を傾けて満たしながら、自然に隣に腰掛けていた。「家を想うそなたと、そう変わりは無い。 立ち位置が違うだけだろう。 孫堅殿が漢王朝に於いての孫家を想うように、私は帝と天下の人心のために身を粉にしている。 知って居るか? 孫堅殿と同じような立場に立たされた、劉備という少女が居た」「聞いた事が在る、天代の傍仕えであったとか」「いかにも。 正確には劉協様の下であったようだし、交わした言葉も少ないが、彼女もまた天代を通して漢へ、天子へ忠を尽くしている。 天代追放のおり、その場には劉備と黄巾の乱で朱儁殿を陥れた軍師の少女達が、まったくの無事で姿を見せた。 何進大将軍はその場で彼等を見逃し、そして朱儁殿と言い争った」 孫堅は得心したように頷いた。 何進と朱儁が仲違いをした事は知っていたが、細部までは知らなかったのだ。 天代追放の件で、どちらかが食ってかかり喧嘩になったのではと予測はしていたが、真相は一刀を取り巻く者が原因であったか、と。「その時、私はどうすればよいのか判らなかった」 月を遠い目で見やって、皇甫嵩はそう言った。 諸葛亮の罪、鳳統の罪。 それは決して白紙には出来ないことだが、彼女達をそうさせたのは、漢に、すなわち天子に在ると皇甫嵩は考えている。 あの時、何進は天代が話した彼女達の事情、一刀自身から頼まれた事情、蹇碩と溝が出来た事情。 己の立場、宦官への不信感、王朝での地位、そして劉備の意志。 そこから搾り出した答えが、見なかった事にして放逐することだった。 朱儁も同様、知らなかった様々なこと、知っていた情報、立場と義理、人情や自分に与えた屈辱。 葛藤が混ざり合い、激昂となってあの場に噴出した。 それを横で見ていた皇甫嵩は、どうすれば良いのか判らなかった。 漢王朝の為に天代を失うべきではないと思っていたが、天子はそれを良しとせずに捨て去った。 一刀が追放された後、帝は倒れ、諸侯の輪は乱れ、各地で黄巾の乱の余波が広がった。 皇甫嵩は諸侯の人心が漢王朝から離れる中、その中心に立って戦場を駆け巡ることになる。 「武辺者に過ぎない私が、漢王朝に出来る事は何であるかを考えれば、武器を持って乱に当たる事だけ……それだけの話だ。 戦功は後からくっ付いてきただけに過ぎず、それは私の信念にとっては在っても無くても変わらぬ物。 出世をしてもしなくても、私は何も変わらないだろう。 己に掲げた心に従って天子の意を汲み、これからも矛を持つときは持ち、声に出すべきところは言葉にし、何もしない時は何もせぬ」 それが凡人である自分に出来る、精一杯の帝への忠義である。 皇甫嵩はそう言ってグイっと酒を飲み干し、空になった酒瓶を叩くように真横に置いた。 彼にしては珍しく、酒が回り興奮をしているようであった。 大きく溜息のように息を吐き出す。「ふぅ……孫堅殿、私は望まずに英雄になった男を知っている。 その人物は敬意に値する青年だ。 個人的に謙虚な姿勢も好感が持てる。 だが、この戦では天子でも無いのに天命を騙った。 今までもそうであったが、越えてはならぬ一線を越え、天命であると高らかに豪語したのだ。 それが虚名を利用した策だと、どれだけの兵や民が気付けるか。 天の御使いは漢王朝に必要だと思っているが、もしもあの青年が戻ってくれば、民は近く即位する劉弁様と見比べるのだ。 民がどう言う反応が帰ってくるのか、その光景が浮かぶ。 それが私には歯がゆい。 宦官共が追い出した理由が、今になってようやく分かった。 良くも悪くも、漢にとって北郷一刀という男は劇物なのだと」 落ち着きを取り戻すように大げさに息を吸い込んでは吐き、膝に肘掛けて座る皇甫嵩に孫堅は恥じた。 嬉々として戦場を駆け巡る者は、戦功を、勇名を求める者だけだと思っていた。 だが違った。 戦の最中で何を考えて居るか判らない男の本心を聞いて、孫堅は皇甫嵩の在り方に純粋に敬意を抱いた。 同時に、心に淀んでいた物が晴れていく。 信念によって軸がぶれる事無く先を見据える姿は、現状の自分の感情を吹っ切る契機となっていた。「出世の欲は無いかなど、そなたには愚かな質問だったな。 許してほしい」「はっはっは……いかんぞ、酒が巡っている。 大した話ではない、凡人の独り言だから忘れてくれ」「よく言う。 そんな話は誰も信じないだろうに。 それに、今のは、お主の本心だ、違うか?」「だから酒が入ったと言ったのだ」 苦笑いを浮かべて手をぞんざいに振って首を振る皇甫嵩に、孫堅は肩を竦めた。 劉備と自分を重ねた下りで、彼は判らなかったと言ったが、当然だ。 分かるはずが無い。 根本的な考え方が違う上に、その人間の抱えている信念など、相手から聞かされなくては分かる事などできないのだ。「礼も言わせてもらおう。 私もまた、己の信念に基づいてこれから行動することにしようと思う」「残念だ、孫堅殿なら凡人だと信じてくれると思ったのだがな。 それで、孫堅殿の信念とは?」「そうだな、まずは娘のケツを蹴っ飛ばす事にした。 ついでに公瑾もぶっ飛ばそう。 後は……一度、劉表の下に顔を出そうかと思う」「なるほど」 皇甫嵩は苦笑ひとつ、空になった酒瓶を手に取って、そのまま戻した。 酒も無くなった。 お互いに思いの丈を吐き出して、楽になったような気分であった。 孫堅はその皇甫嵩の仕草を見て、胸の谷間から新たな酒瓶をスポッと出した。 顔を顰めて皇甫嵩は唸った。「何処から出しておるのだ、破廉恥な」「いいじゃない。 固い事は無しで。 それより皇甫嵩殿、私の真名を受け取らない?」「真名を? それは光栄だが、突然だな」「友と認めた相手に、堅苦しい言葉は使いたくないのよ。 それが今後、漢王朝の名の下に戦友になる友人なら、尚更ね」「漢王朝の?」「疑わないでよ。 私の胎は、あなたのおかげで決まったわ」「……分かった、受け取ろう」 お互いの真名を交換し、新たに取り出した盃に酒を満たすと、皇甫嵩は一気に煽った。 飲み干すと同時、盃を返し、今度は酒瓶を受け取って注ぎ返す。 孫堅が同じように飲み干すと、階下から小気味の良い肌を打つような乾いた音が響いてきた。 二人して、音の鳴った方角へ首を向ければ、一刀が膝を突いてうな垂れる姿が視界に入り込む。 ふっと、孫堅の隣の空気が揺らいだ。「あらら、どうしたのかしらね……って、ちょっと、もう行っちゃうの? もう少し呑んでいかない?」「そうしたいが、若い者の恋沙汰を覗く趣味は無いのだ。 昔、酷い目にあってな」「色恋の話ほど面白い物は無いのに、枯れてるわねぇ。 今度聞かせてもらえる? それ」「酒の肴くらいにはなると思うが、気に入るかは分からんよ」「むぅ、動じない……つまらないわ」 手首を返して皇甫嵩を追い払うと、孫堅はこの場に来た時と同じように盃を持つ掌を廻して酒を揺らがせた。 相変わらず雲の無い空は、綺麗な満月を夜天に浮かべて。 孫堅は一人ごちた。「ねぇ祭……白状するとね、たまに貴女と呑みたくなっていたのよ。 このまま腐るだけかもしれなかったし、周りに相談できる相手が誰も居なかったから、少し寂しかったのね。 横にずっと居た祭が居なくなって、実感したわ。 貴女もそうでないと良いけれど……」 酒をぐいぐいと煽る。 新たに取り出した酒瓶は、すぐに底をついて無くなった。 水のようだった酒の味が、今ではしっかりと舌で感じ取れた。 うむ。 美酒である。「久しぶりね……今日の御酒は美味しいわ。 ちょっとね、やる気出てきたかも。 やっぱり、持つべきものは酒を飲んで愚痴りあえる友人よね」 今後、漢王朝が潰えたとき。 或いは漢室に変わる皇帝が立ち上がった時。 彼はどうするのだろうか。 酒を仰いで、喉を鳴らして満月を見る。「その時は孫家に行くよう薦めてみようかしら」 言って、それは在りえない未来であると孫堅自身が認めていた。 友人としては、死なせたくないが、あの忠義を見るに王朝が潰えた瞬間、自分を簀巻きにして川へと身投げしそうである。 誰とも無く呟いて、月に盃を伸ばした腕を落す。 酒で火照った身体を覚ますように、両腕をつっかえ棒に目を閉じて空を仰ぎ見る。 やがて首だけが肩に向かって曲がり、薄目を開けて別の少女に慰められている一刀を見た。「に、しても。 あの子ってホント……」 呆れるように呟いて、孫堅は相好を崩した。「よくよく女子に囲まれるわねぇ。 噂だと種馬ってか……ブハッ! あっはっはっはっはっはもぉやだぁーはっはっはっはっはひーーっ」 ぐでんぐでんとなっている孫堅の口から、割と身も蓋もない言葉が一刀に掛けられ、何故か彼女は爆笑した。 アルコールが駄目な部分に回ったのだろう。 翌日、かつてない頭痛にうめきを上げて、軍部においての仕事を完全放棄した彼女に対して 何処から取り出したのか、皇甫嵩の手に持つ竹のハリセンが小気味良い音を立てて炸裂した。 ■ 天国と地獄 一刀は、酒宴の最中に荀攸に呼び出され、彼女を探しにそっと酒宴の会場を辞した。 孫堅が消えていたのも気がついていたので、見かけたら声でもかけようと思いながら。 少し早めに宴席から出ていた為、部屋や会場の付近をゆっくりと散策しながら時間を潰して足を伸ばした。 中庭に差し掛かり、綺麗な満月に目を奪われてしばし。 一刀を呼ぶ声に彼は振り向いた。 声の主は、待ち合わせをしていた荀攸ではなく賈駆だった。 あれからずっと、一刀も賈駆も戦後の処理に追われて、終ぞ会う機会が無かったのだ。 勿論、酒宴の席では顔を合わせてもいたし、仕事でも声を交わすことはあった。 しかしそれは、怪我をした兵の具合はどうだとか、郿城の修繕に関しての話し合いだとか、プライベートの物とはかけ離れていた。「どうしたの?」「はぁ……」 呼び止められた一刀が尋ねると、賈駆の盛大な溜息に思わず眉を顰めた。 一体何事だろうか。「ねぇ、アンタ」「ああ……」「極めて重大な話があるわ」「え、ああ……何かな?」 賈駆は何度か眼鏡の居住まいを正すように、指で弄くり、腰に手を当てたり、腕を組んだり忙しかった。 言おうか言うまいか、悩んでいるような様子だ。 どうやら、自分に何かの悪意がある訳ではないように、一刀は密かに安堵する。 手持ち無沙汰になって、一刀が徐に本来の目的である孫堅と荀攸の捜索に戻り、周囲を見回し始めた頃、ようやく賈駆の口から声が発された。「あの!」「あ、うん。 どうしたの?」「つまり……あー、その……ゴホッ……」「うん?」「メイド服って何!?」「ぶっ!」『うはっ』『何故!?』「っ、知らないのよ! どうしても用意しなくちゃならないから、恥を忍んでアンタに聞いてるのっ!」 予想しようの無い彼女の言葉に、一刀は思わず噴出した。 その噴出した一刀の様子に、賈駆の眦が僅かに釣りあがり、頬に赤みが差す。 馬鹿にしている。 そう賈駆は感じてしまった。 同時に、やはりこの男はメイド服が何たるかを知っていると。 実は、戦の顛末を書いた竹簡が届くと、董卓は自ら郿城に赴いて視察をしたいと申し出ていたのだ。 更に、戦に於いて勝利を決定付けた天の御使いと話をしたいとも。 賈駆は複雑な気分でしかし、主の意志を尊重し受け入れる事にした。 問題はここからだ。 書状の最後に 『メイド服』 を用意せよと書いてあった。 賈駆は必死に知恵を絞り、董卓が言う 『メイド服』 という物が何なのかを調べた。 だが分からない。 まったく分からないのだ。 恥を押して董卓軍の文官武官で会議を開き、『メイド服とは何か?』を議題にして、2刻に渡って話し合っても謎だった。 だが、誰に聞いても、冥土の土産的な答えが返って来る。 つまり喪服みたいな物なのだろうと。 一時は賈駆もそれで納得した。 そこから連想し、大罪人となっている北郷一刀を亡き者にするつもりかと考え 途中で冷静になってそんな訳ねぇだろ、と一人で突っ込みを中空に繰り出していた。 そんな経緯があって、賈駆は一刀が宴会を抜け出す姿を見つけ、これ幸いと後を追いかけたのである。 「正直言って、もうお手上げよ。 知ってるなら教えてちょうだい。 メイド服って何!?」「賈駆、落ち着いて良く聞いて欲しい。 凄く良い質問だよそれは……例えばそうだな……言うなれば、奉仕の為の覚悟の鎧だ」「鎧?」「いや、違う、そうじゃないんだ。 何ていうか説明が難しいけど……」『待て、本体!』『どうした"仲の"』『いっそ俺達で作るというのはどうだ』『なるほど、実物を用意すれば一目瞭然だな!』『咄嗟に閃くとは……やはり天才か』『桃香……可愛かったなぁ……糞っ、何故あの時俺は意識を失って―――』『今度は俺にデザインを任せてくれないか』『待て、俺もずっと考えてた案がある』『落ち着け、本体の判断を仰ごう』(ああ……やってみる価値はある!) 忘れかけていた情熱が燃え上がっていた。 久しぶりと言って良いほど、若干一名を覗いて一刀達が団結した。 微妙に両手を広げて、口が止まった一刀に、賈駆は不審気な視線を送った。 そもそも、賈駆はメイド服という物が何なのかは知らないが、月の事に関しては誰にも負けない自信が在る。 わざわざ書状に書いて、メイド服という者を用意せよと言うのだ。 これは、彼女にしてはもう、それはもう珍しいくらいの命令であった。 基本的に控えめな性格のせいか、率先して誰かに命令を下そうとはしない。 だから、この一文を目にした時から、賈駆はある危惧を抱いている。 一刀が郿城に向かう前に、月と二人きりで密会していたという事実。 そこがどうしても引っかかるのだ。 メイド服というものが天の言葉であるのなら、その時に月が知っても可笑しくはない。 思考に耽っていた賈駆の目の前に、一刀は真剣な表情で相対した。 思わず、その力強い目に押されて賈駆は仰け反った。 「賈駆……そのメイド服、俺に作らせてくれないかっ!」「っ……ちょ、何いきなり!? それにこの重圧はっ!」 一刀の視線が、獰猛な猛禽類のようにぎらつき、賈駆の体の全身を舐め回した。 バスト、腰のくびれ、ヒップ、太腿。 順繰りに目線は足の踵まで下り、ねっとりとした視線は再び上に昇っていく。 表情は真剣そのもの。 一箇所も見逃すまいと、気炎が一刀の背から立ち上っていた。「ちょっとっ! 厭らしい目で見ないでよっ!」「いっっ!」「ちょっ―――!」 怪我のために拵えた移動用の杖が、一刀の足の甲を打ち抜いた。 前のめりになっていた一刀は、釘を踏んだかのように足を跳ね上げて、賈駆に向かって倒れこんだ。 杖を使って移動している脚の踏ん張りが利かない彼女に、成人男性を抱えるような力は無く、抵抗空しく地に転がった。 衝撃にうめき、文句を言おうと顔を上げた時、一刀の顔がドアップで映りこむ。 瞬間、息が止まる。 異性の顔が少しでも動けば触れ合うような距離は、賈駆にとって初めての経験だった。 むっと立ち上る雄の匂いが、鼻腔を擽る。 重力に引かれて少し伸びた一刀の前髪が、賈駆の額と触れ合い、吐き出す吐息が耳にそっとかかる。 背筋を走るような寒気が、賈駆に走った。 良く分からないけどこれはまずい!「っ……」「任せてくれ、完璧に把握した、メイド服はちゃんと作ってくるよ!」「いやっ! 駄目っ!」「そんな! メイド服には定評があるんだ! 桃香も喜んでくれた、俺に任せてくれ!」「やっ、やめてっ!」「なぜだっ!」 怒鳴り声に近い大声を出した一刀の叫びが郿城に響いた。 周囲には修繕のために土を穿ったり、槌を振るったりする兵達が居たが、男女の濡れ場に突入するほど野暮ではなかった。 むしろ、一瞥をくれただけで、僅かに嫉妬と羨望の混じった視線を一刀に投げただけで、ガン無視である。 混乱する賈駆に一刀の声は通じず、組み伏せられている事実のみが彼女の思考を支配していく。 拒絶の言葉を繰り返す彼女に、一刀も必死になって嘆願する。 更に最悪なのは、脳内の一刀達は若干客観視できるため、悪循環に陥っている原因に思い当たっていたが 自分達に負けず劣らずな、本体のメイド服に賭ける激情が、彼等の交代を押し留めていた事実があることだった。 そんな二人の浪漫の欠片もない、取っ組み合いに近い言い争いは唐突に中断された。 横合いから突き飛ばされて、一刀が地面を転がることによって。 数多の戦場を駆け抜けた経験が、一刀を咄嗟に立たせることに成功した。 見上げた一刀の視界に、腰に手を当ててふんぞり返る猫耳娘が怒気も露に立っていた。「てて……」「度し難い……度し難いです! まったくもって度し難いです! 何で目撃する度に別の女性を襲い掛かっているんですか貴方は!」「違う! 誤解だっ! ただ俺はメイドが欲しくてっ」「誤解? ふっふふ、な、なるほど誤解ですかこの状況で? ふふ……」 一刀に肩を掴まれて揺られる中で、荀攸は今に至るまでの経緯を思い描いていた。 郿城の戦いの最中、韓遂相手に根も葉も無い恥ずかしい事を、目の前で言い訳を並べてる相手でくっちゃべる羽目になり 戦の後も一刀は見かける度に、荀攸の目の前で他の女性とイチャイチャとしていた。 その度に、別れを告げるのを引き伸ばして来たのだ。 ようやく良い機会が訪れたのは今夜。 満月となって雲ひとつ無い綺麗な星空を見た時、彼女は今日こそ告げようと決断した。 酔い覚ましと称して、宴席の場を抜け出すことも不自然ではない。 時間を置いた事によって、一刀を見ただけで赤くなった羞恥も収まり、冷静に呼び出す事に成功すると 喧騒の少ないこの時間、この場所を選んで雰囲気良く別れることが出来ると満足気に頷いたものである。 完全に離縁するならば、挨拶など必要ない。 とっととやる事を終えて郿城から去れば良い。 こうして一刀に挨拶を残すのは、彼が洛陽に残してきた大切な人へと伝言したいこともあるだろうと考えたからだ。 想い人とまともに連絡すら取れないのでは、可哀想だ、という彼女なりの心遣いであった。 そして中央に戻ったとき、朝廷の様子を窺って、此度の叛乱を鎮めた功を持って、洛陽に帰ってこれるかどうかを見定めてあげようとした。 そうでなくても、外部で得た味方が出来ることは一刀にとって大きな利益であり、その一助となってあげるのも、荀攸としては吝かではなかった。 維奉とは少し違う、夢を、彼に見ていたからだ。 荀攸にとってその夢はまだ、捨て去るには惜しい物。 大事な話になると考えたからこそ、彼女は我慢を重ねて機を窺っていたのである。 だというのに。 この目の前の男は、郿城の戦いを終えてから何をしていたのだろう。 呂布を押し倒していた。 わざわざ荀攸が雰囲気の良い場所を選び、指定した場所で、明らかに嫌がっている賈駆を組み伏せていた。 それは全て誤解だと言う。 荀攸はもはや我慢の限界であった。 せっかく良い別れにしようとわざわざ気を使ったのに、一刀がこれでは。 忸怩たる思いであった。 ここまで僅か1秒で思考した彼女は、鼻の奥が急激に染みた。 全身の血液が顔に集ったかのように暑くなり、頼んでも居ないのに目尻が潤む。「っ!」 ここに来て一刀は荀攸の変化に顔を青ざめさせた。 一刀の手は荀攸の肩にかけられていた。 頬が赤くなり、肩は震え、目尻が潤んでいるのをハッキリと目撃してしまった。 彼女の感情を大きく揺さぶってしまったのだ。 ある意味で正解である答えを導き出して、一刀はうろたえる様に荀攸から手を離した。 鼻を啜る音が響き、ガチ泣きしそうな荀攸を前に、一刀は搾り出すように口を開く。「ご、ごめん……そんなつもりじゃなかったんだ……」 この謝罪に、荀攸は歯を食いしばって手を振り上げた。 それをしっかりと視界に収めていたが、彼女の感情を弄くったと思いこんだ負い目があった一刀は、敢えてそれを受け入れた。 肌を打つ音が郿城の中に響き渡る。 耳の奥に甲高い残響を残し、一刀は謝ろうと頭を下げて。「大っ嫌いです! あなたなんて、大っ嫌いっ! この変態色欲魔っ!」 力の限りと言わんばかりに怒鳴りつけて、荀攸は踵を返し猫耳を揺らしながら走り去った。 一刀はその言葉に大きな衝撃を受けた。 面と向かって嫌いだと言われることは、たまにあったが、荀攸という少女と付き合ってきて、あそこまでの激情を見たことが一刀は無かった。 そうなのだ、一刀から見て、荀攸というのは常に落ち着いた少女であった。 だというのに、彼女に触れて感情を揺さぶった瞬間、荀彧の罵詈雑言を連想させるような、豹変振りである。『おい、誰だ、あそこまで怒らせるような事をしたのは』『俺は、曹魏には関わってなかったぞ』『"魏の"?』『違うよっ! 俺、この世界で初めて見たよ!?』『他に関係ありそうなのは、"袁の"とか?』『いや、確かに荀攸は居たけど男だったはずだが……』『おい、誰か名乗り出ろよ』『知らないし』『俺も』『本当に?』『待て、落ち着け、これは冷静になる必要がある』『"白の"、まさかお前か?』『そうじゃない、推測だが、男でも嫌われたらこうなる可能性はあるんじゃないかと……』『おいちょっと待て"袁の"お前まさか―――』『違う! 断じて否だ! 変な事言わないでくれよっ!?』 脳内の喧喧囂囂とした会話を聞きながら、一刀は失意に膝を折った。 今まで助けてくれた彼女が、こうまで嫌々に付き合ってくれていたとは知らなかったのだ。 しかも、自分の醜態を振り返るとまったくもって言い訳ができない。 荀彧、荀攸。 性格は違っても、旬家の二人にこれだけ嫌われるとは。 この世界に降り立ってから旬家とは少なからず関係を結んできた一刀だったが、圧倒的に相性が悪かったのだろう。 膝を折ってうな垂れる一刀の頭に、コツリと木の杖が当たった。 へこみ、見上げる一刀に賈駆のジト眼が突き刺さる。「あんた、さいてーね」「うぐっ……」「もしかしなくても、馬鹿?」「……そうかもしれない」 一刀と荀攸の修羅場らしきものの一部始終を目撃していた賈駆は、逆に冷静さを取り戻し明察な思考が回復していた。 様子から察するに、一刀は元々彼女を此処で待っていたのだろうと推察できたのだ。 わざわざ夜中に、こうして逢引するくらいだ。 恋仲のようなものなのだろう。 洛陽では陳宮との仲が邪推されていた事を賈駆は思い出していた。 目の前で荀攸との修羅場を見せ付けられ、少し前には元々は天代と共に在った呂布の抱擁を目撃している。 噂にあった 『異性にふしだらである』 と言うのは、どうやら間違いないようだ。 目の前の男の女性関係を問い詰めるには、賈駆もまた多少は自分のせいでもあるという罪悪感から出来なかった。 思えば『メイド服』という単語を発してから、一刀の顔は一変していた。 きっと、本当にあるというのならば、彼にとって深い思い出のある品なのだろう。 とはいえ、あのように不躾に身体を覗かれて、不快感を催さない女性は居ない。 少し、いやかなり、一刀という男は馬鹿なのではないかと思ってしまうのだった。「はぁ……」 大きな溜息を吐いて、一刀の目の前にしゃがみ込む。 顔を伏して落ち込む一刀の肩に、そっと手をかけた。 自分が足を痛打したことで一刀と荀攸の仲を引き裂いたとあっては目覚めが悪い。 何より、落ち込んだこの男が何故だか放っておけなかった。 可笑しいとは思う。 月以外に、こんなに気になる他人など居なかったのに。 こうして触れても嫌悪が無いとは。「荀攸殿にはボクから説明しとく。 メイド服は、分からないからアンタに任せるわ。 説明するのも難しいみたいだし」「賈駆……」「動揺してるからだろうけど、さっきから敬称が抜けてるわよ」「……そう、だね。 すまない」「ったく、世話の焼けるっ。 とっとと立ちなさいよ! "天"の御使いなんでしょうがっ、地に伏せてみっともない! っ!」 強引に肩の下に手を滑り込ませ、持ち上げるように一刀を抱く。 その際、怪我が響いてバランスを崩し、立ち上がった一刀の胸で身体を支えられた。 受け止められて、咄嗟に見上げた一刀の驚いた顔が視界に入る。「っ、ご、ごめん、まだ足が痛いのよ」「いや……」 短く息を漏らし、一刀は首を振った。 絶対に竹簡で頭を叩かれたり、頬を叩かれたりすると思っていただけに、賈駆が励ましてくれたのは予想外であった。 離れようと身を引こうとした一刀だったが、賈駆が袖を引いた事に気がついて、その場で立ち止まる。 伏せていた顔が上がり、至近距離で視線が交錯した。「……助けてくれて、ありがとう」「え?」 言い終わるが早いか、器用に片腕で杖を持つと、サッと離れる。 呆けた顔をして、一刀は賈駆を見た。 照れてそっぽを向きながら、彼女は口を開いた。「ずっと伝えたかったけど、会えなくて言えなかったから、メイド服の件と一緒に言おうと思ってたのよ」「あ……ああ、良いんだ。 俺がしたくて、やったことだから」「それでも、恩を受けたのに礼を返さなくちゃ仁義に欠けるわ」「……賈駆さん、いや、良―――」「それとっ!」 賈駆はわざとらしく、大きな声を上げて一刀の声に重ねた。 今でないと、言えそうに無かったというのが彼女の心情の大半を占めていた。「それと、ボクの事は詠でいい。 どうせその内、勝手に真名を呼ばれそうだし……」「い、良いのかい?」「その代わり、ボクも一刀って呼ぶから」「あ、ああ!」「じゃ、私は行くわ。 荀攸の事はボクに任せて、メイド服の件は頼んだわよ」「あ、待ってくれ、賈駆っ、じゃなくて、詠!」 踵を返した賈駆を一刀は呼び止めた。 流石に、怪我を押して郿城の戦後処理に奔走している彼女に、このような細事を任せるのは一刀の気が引けた。 なにより、直接的には関係ないはずの彼女は、一刀の暴走に巻き込まれたと言って良い。 しっかりと面と向かって、彼女には今までの苦労も含めて謝らなくてはならない。 そんな一刀の足を止めるように、賈駆は手を振って制止した。「荀攸さんには俺が行かないと!」「分かってないわね、一刀が行くと拗れるから間に私が入るって言ってるの! それとも、ボクのことは信頼できない?」 口を尖らせて目を細めて指を突き刺され、一刀は自然と口元が緩んだ。 静かに首を左右に振って、感謝の言葉が突いてでた。「そんなことない、ありがとう。 荀攸さんのことは……うん、詠に任せるよ」「ボクも、まぁ、一応原因の一端だしね……」「……じゃあ、俺も行くよ。 メイド服、楽しみにしててくれ!」 気を取り戻した一刀は、詠の姿を納めながらゆっくりと後退していき、やがて踵を返して走り出した。 その姿を最後まで見送って、詠は腰に手を当てて頭を掻き毟った。 なんというか、そう。 これは、あれだ。「これじゃボクも、月に何も言えないわね……むしろ、笑われそうだわ。ったく」「―――……ブハッ! あっはっはっはっはっはもぉやだぁーはっはっはっはっはひーーっ」 直後、階上から響く爆笑に詠は驚いて、その場で盛大にすっ転んだ。 ■ いつかの逸話 終戦から4日。 郿城の中にはまだ、この地で戦った全ての軍勢が逗留していた。 皇甫嵩と孫堅は、既に引き上げの準備に入っており、馬超軍も同様だ。 董卓軍は下より、郿城に兵を置いていた。 こうして、多くの勢力が集った軍勢は、問題が起きないようにと、大まかに居場所を振り分けられるのが常であった。 特に、董卓軍と馬超軍の二つは、官軍を挟んで置かれるなどの緊急処置がとられている。 これは禍根の残りうる両者に、無駄な諍いをさせない為のものだ。 そうした『上の配慮』も、時には効果を失くす時はある。 それは朝に起こった。 給水場として使われた広場で、董卓軍と馬超軍の兵等がすれ違った。 普段ならば、なんら気を使う場面でもない。 お互いに道を左右に開けて、通り過ぎればそれで終わりだった。 だが、気の荒い面子の集った双方の兵等は、お互いに道を譲らずに、肩同士がぶつかった。「っちっ!」「あ?」 まるでチンピラのような掛け合いを経て、両端に居た両軍の兵が睨み合う。 その声と、ぶつかった鎧の金属音に、周囲の兵までもがガンを付け合う始末。 「おい、何ぶつかって来てるんだ、道を譲る知能すらないのか」「ふざけるなよ、辺境の蛮族が。 裏切り者のお前らが道を開ければいいんだ」「はっはっはっは……おい、聴いたか。 俺達に助けられた軟弱者が、何か喚いていやがる」「はっ、馬家の兵はまるで、鹿の集りのようだ。 馬ばかりでなく、鹿も集めているとは」 僅かに沈黙が走り、給水場から持って来た器が地に弾けて割れた。 途端、周囲の兵が食いかかるようにぶつかりあった。「なんだとっ!」「やるかっ!」「ぶっ飛ばしてやるぞ!」「おぉ~おぉ~、やれるならやってみろっ!」 次第にその喧騒は広がって、ついには激昂した兵が口だけでなく手まで出すことになった。 振りぬいた一撃が顎を打ち抜き、脳を揺らされて一人の兵士が地面に倒れ伏す。 「うおおぉぉぉっ! 隊長がやってくれたぞ!」「やろぉ! よくも手を出しやがったな!」「強い相手にフラフラ擦り寄る蝙蝠野郎どもがッ! その喧騒に最初に気がついたのは一刀だった。 やけに大きな巻物を抱えて、郿城の廊を走っていたところ、騒ぎに気付いたのだ。「ま、待て! 落ち着け皆! どうしたんだ一体!」「っ! 天の御使い様!」「おい、待て! やめろっ!」「それで、何があった!? 教えてくれないか」「こやつらが! 我等を侮辱したのです!」「いえっ! やつらが先に我等を辱めたのです!」「あ、ああ……まぁ、大体分かった。 とりあえずこの場は俺が預かる! 解散しろ!」「はっ! 命拾いしたな、辺境の田舎者が!」「ケッ! 死に損なったな、軟派野郎ども!」 一刀が駆け寄って声をかけると、殺し合いにまで発展しそうな集団はピタリと争いを止めたのだった。 "天の御使い"の名声は非常に大きな影響を与えるようになっていた事が分かる一幕であった。『うわぁ……根深い』『だなぁ』「はぁ……メイド服なんか作ってる場合じゃないかもなぁ……」『本体、お前にはがっかりだよ』『一応、詠に頼まれた事だからな、これも』『大義名分はこちらにあるぞ、本体』「……作るけどさ」 本人は、わりと暢気であったが。―――・「あー、つまりなんや。 道開けなかったんが争いの原因なん?」「はい! 馬家の奴等、なめくさっております!」「俺達は、あの賊が我等の領地である郿城の土を踏みしめて居るのが、我慢なりませんっ!」「そうだ!」「張遼将軍! 我々は仲間を殺されているのですぞ!」「やつらは天の御使い様が郿城に来たから、急に立場を変えて叛乱軍を攻撃したのですぞ! 蝙蝠のような奴等です!」「そんなん言われへんでも分かっとるっ! ウチかて、仇を取れるなら取ったるわ! せやけど我慢しぃ! あんな阿呆ったれ共でも、一応は仲間っちゅう事になっとんねん!」 ――― 「あー、つまりなんだ? 道を塞いでたのが原因なのか?」「そうです! あの瓢箪野郎共、我等を賊軍と詰ったのですぞ!」「誰のおかげで郿城を守り通せたのか、やつらは分かってないのです!」「馬超将軍と御使い様は義に篤いお方! それを蝙蝠野郎などとっ!」「我等は我慢がなりません! 何故こうも侮辱されなければならないのですかっ!」「辺境に住んでいるからって、馬鹿にしやがってぇ!」「分かってる! お前らの気持ちは、アタシだって同じだ! でも駄目だ! こうやって喧嘩していたら、馬家の顔が潰れるんだ! 悔しいだろうがもう少しだけ我慢してくれ!」 ―――「と、まぁ、こんな感じだったんだよ」「そう、深刻ね……」 一刀は長い巻物を机の上に広げながら報告し、疲れたような声で彼女は答えた。。 一刀がメイド服のデザインを不眠不休で執筆し、詠が何故かその確認を強要されている最中であった。 黒と白、アクセントとして茶色を混ぜた洋服の図が卓の上に広がる。 「で、本題に入るけど…… ここは多分、既存の技術じゃ再現が難しいと思うんだ。 最悪、截ち切ってしまっても良い。 あと、ヘッドドレスと呼ばれるこれは絶対に作ってくれ。 エプロンもだ。 あ、エプロンってのは此処……レースっていうのはこの部分だ。 特にエプロンには力を入れて欲しいんだよな、これが無いとやばい」 一体何がやばいのか。 詠はぼんやりと肩肘を付いて、しゃかしゃかと筆を持って図に大小さまざまな部分に注文が入る様を見つめていた。 胡乱気な視線を向けて一刀の様子を見、欠伸を一つ。 力説している一刀の言葉を聞き流しながら、一刀の持って来た報告について考えていた。 詠の立場から見ても、正直言って馬家の兵がこの郿城に居るのは心地の良い物では無い。 今となっては敵の韓遂の謀略に巻き込まれたと知っていてもだ。 だが、詠は軍師だ。 人を、軍を駒に見立てて計算し、動かすこともある。 人情を斬り捨てて合理的な判断を優先する、必要があればそうする覚悟を持っている。 だから、恐らく、詠は董家において馬超軍をもっとも憎んでいない人間なのだ。 しかし、実際に剣を結び合った兵卒には詠と比べ物にもならない無念が、胸中に渦巻いているはずだ。 これも、全ては韓遂に手玉を取られた不明が原因。 郿城から撤退する敵軍を追撃する事に、僅かな違和はあったのだ。 あの時、もっと深く考えていれば、自軍の兵を損失することもなく、馬家との協力が容易になったはずだ。 とはいえ、今はもう過ぎた事でもある。 後悔を引き摺るよりも、現状の改善に努めるべきだろう。 今は小競り合いに過ぎない諍いも、何かあれば殺し合いに発展しかねない可能性を秘めている。 仲間割れで貴重な兵、引いては民という人的資源に損害を被るのは馬鹿馬鹿しい。 準備を急がせて、馬家にはとっとと武威に帰ってもらうのが最良だろう。「よし、だいたいこんなもんだけど、メイド服の事は分かった?」「一刀、アンタやっぱ馬鹿だわ」「ちょ、いきなり酷くないか!?」 気楽に服の解説に精を出している天の御使いを見て、詠は確信した。 見ていると、これが本当の郿城の戦いで大号令を発した男と同一人物なのか、自信がなくなってくる。 無造作に机の上に広がっている一枚の紙を持って口を窄める。 別の人間では無いのか、と。 当たってはいる。「メイド服の事は全部任せるって言ったでしょ。 一刀の好きにしても良いわよ。 そもそも、月はどうしてこんな服を作れだなんて急に……」「あ、そっちの紙にあるのは詠の分だから」「は?」「大丈夫、丈は完璧なはずだし」「ハァっ!? なんで一刀がボクの服の丈を知ってるのよっ!」「い、いや、昨日見ただろ!? それで、だ、大体の丈を計算したんだよ!」「っ、それも天の御使いの御力だーなんて言うんじゃないでしょうね」『確かにあってるなぁ』『俺も月と詠のは作ったし』『まぁ大体把握してるもんな』「あー……ははは」 結局一刀は笑って誤魔化した。 詠も一刀の曖昧な笑顔に透かされるだけだと思ったのか、深く突っ込むことはせずに、盛大な溜息を吐き出すと 懐から一枚の書を一刀へと投げた。 机の上を滑って一刀の手元に届いた書状を見て、一刀は不思議そうに詠に顔を向ける。 彼女は肩を竦めただけで、声を出そうとはしなかった。 封を切って、中身を覗くと、一刀は差出人の名に僅かに目を開いて、文面を視線で追った。「……そうか」「荀攸から預かったわ。 誤解はもともと、そんなに気にしていなかったみたいよ」「もう、行ったのか」「朝にね。 心配はしなくても長安までの護衛に兵を数人つけたわ」 荀攸は洛陽に戻った。 その際、洛陽の状況を詳しく調べ、武威の馬超の元に送ると書かれていた。 更に、定期的に一刀に情報が届くように、彼女の伝手で人を雇ってみるとも。 聞かされていた劉協様や音々音とも実際に会ってみたいと書かれて手紙は締められていた。 完全に見限られた訳ではないと知った一刀は、喜色を隠さずはにかんだ。 丁寧に書状を畳んで、胸の内に抱えて一礼をする。 「良かったわね。 寄りを戻せて」「? ああ、結局、荀攸さんには最後まで良い所を見せられなかったな」「……さて、一刀。 そろそろ出てって」「え? あ、ああ。 ごめん、邪魔だったよな」「そうよ、ボクにはやる事が沢山あるんだから!」 机の上にある無数の紙を一つに纏めながら、一刀は腕の良い職人の居場所を聞くと 礼を言って詠の部屋から退室した。 一刀は詠から聞き出した職人の下に足を運ぶ途中、視線を巻物に移した。 メイド服のことを知っているのは、桃香や劉協など、離宮で一緒に過ごした者達だけだ。 先ほど詠が呟いたように、どうして月はメイド服の事を知っていたのだろう。 恐らく、長安で出会った折に触れた際、思い出したのだろうと思えるが、それだけではわざわざ詠に命じて作らせる理由が無い。『もしかして、さ』『うん』 予感めいた物はある。 脳内の声に、本体はその場で歩みを止めて頭を掻いた。『本体、どうした?』「いや……情けないけどさ」 窓から差しこむ光が郿城の二階の廊を照らしていた。 そこから見える景色に、一刀は目を細めて小さく呟く。「少しみんなが羨ましいんだ。 ねねに……会いたい」『会えるさ』『そうだって、俺達だって楽しみにしてるんだ』『本体には頑張ってもらわないとな』「……ははっ、前も、こんな話してたような気がするな」『そうだったか?』『ま、まずは月と詠のメイド服だな!』『最重要事項だな』『ああ』「よし、先輩の言葉に従って頑張るか!」 自らに気合を入れるように、声を出して歩きはじめた一刀の視界の端に、馬が飛び込んだ。 ここは二階である。 馬が鳥のように飛ぶような事でもなければ、ここから見えるはずが無かった。 思わず二度見して、馬の嘶き―――というよりは、悲鳴だった―――が一声上がり、窓に駆け寄る。 土煙を上げて地に落ちた馬は、奇跡的に生きているようで、よろよろと立ちあがっていた。 思わず一刀は安堵の息を吐き出して、馬が射出されただろう場所に視界を移す。 朝と同じように董卓軍と馬超軍がにらみ合っていた。「や、やばい!」 全力疾走で現場に急ぐ。 何がやばいか、それはあの場に馬を飛ばせるような力を持った人間が居るという事実だ。 しかも、凄く良く見知った顔だった。 兵達が円を描いて囲んだ中央に、馬超と張遼がにらみ合っていたのだ。 今までとは比べ物にならない、未曾有の大災害の予兆を一刀に感じさせて焦っていた。「どぉぉしてくれんねん! ウチの偃月刀の"角"が折れたやんかっ!」「角がなんだってんだ! よくも苦心して育てた西涼馬をぶっ飛ばしてくれやがったなっ!」「強引に柄を引っ掴むから制御を誤ってぶつかっただけやっ! 余計な事して、己で被害を増やしてたら世話ないで!」「はっ! 自分の獲物もロクに扱えないで人のせいにするなんて、大した事ねぇな!」「……そうかい、よぉ分かったで」 ピシリ、と音を立てて中空を待っていた葉が割れた。 一刀が息を荒げて走りこんで、額に血管を浮かばせた張遼と馬超がにらみ合う。 一瞬の呼吸を置いて、二人の武具が翻った。「一騎打ちや!」「上等だぁっ!」「ちょっと待ったぁあぁぁっ!」 一刀の静止は若干遅かった。 お互いに獲物を振り上げており、一刀の声に気がついても、途中で止める事は出来なかった。 強引に二人の間に滑り込んだ一刀もまた、急には止まれなかった。 結果、張遼の『飛龍偃月刀』と馬超の『銀閃』の最中に、一刀が一夜を当てて作り上げたメイド服の図版が引き裂かれることになった。 とうぜん、手の中に持っていた一刀も柄の部分に顔を挟まれた。 途轍もない衝撃が、頭を揺らす。「っ! か、一刀! おまっ、大丈夫かよ!?」「あー…すまん、止まらんかったわ」「い、良いんだ……二人が争っちゃ、だ……」 ここで本体の意識は限界を迎えた。 ガクリと人形のように体が沈み、張遼と馬超が二人して一刀の身体を抱え上げようと近寄って 本体が倒れないようにと交代した"魏の"が身を起こすと、後頭部に強烈な衝撃が走った。 三人共に、ぐらりと身体が泳いだ。 まさかの一撃に、"魏の"はどうすることも出来ずに気を失う。 馬超も張遼も、勢い良く起き上がった一刀の一撃を避けることは出来ず、顎と鼻っ柱をひったたかれて蹈鞴を踏む。 急遽、代打となって"袁の"が、痛みを感じさせない様子でさっと立ち上がる。 周囲に何とも言えない沈黙が降りていた。 一刀は一つ咳き込み、顔を手で押さえて呻く馬超と張遼の二人を見回すと、苦笑を零して告げた。「……えっと、喧嘩両成敗、ってことで」「お……おお……! 一瞬で両将軍の喧嘩を止めちまった!」「流石、天の御使いだ! 俺達に出来ない事を軽々とやってくれるぜ!」「あの後頭部には鉄が入ってるに違いないぞ!」「それよりも、馬を飛ばす張将軍の攻撃を、身体で防いでたぞ! なんてタフなんだ!」「馬超様の一撃に耐えるなんざ、普通じゃねぇぜ!」「えーっと、いいから、解散っ! これ以上騒ぐと厳罰に処すぞ!」「はっ!」「了解でありますっ!」 この一件は後世、天の御使いの逸話の一つに数えられた。 左右から迫る豪傑の一撃を身体一つで受け止め、なおかつ頭突き一発で両将軍を怯ませ、喧嘩を裁いたという話だ。 険悪であった兵達は、天に裁かれては溜まらない、と喧嘩をすることがなくなったという。 そんなことはともかく、兵が一刀の命に驚くほど素直に従って解散する中、馬超と張遼は居づらそうにそっぽを向き合っていた。 喧嘩の原因を聞くと、馬の足の様子を心配した馬家の兵に、一度乗って具合を確かめていたところ 急に現れた張遼が、驚いて武器を構えてしまったそうだ。 馬超もまた、人にぶつかると思い、強引に馬首を曲げて接触事故を防ごうとした。 そこで不幸が起こった。 張遼の飛龍偃月刀は馬具に絡め取られ、武器を取られまいと力を込めたときに、引っかかっていた"角"がポッキリ逝ったのだ。 馬超は突然現れた張遼を罵って、飛龍偃月刀を掴んだ。 "角"が折れたことで激昂した彼女は、強引に馬超の腕を振り払い、運悪く近くに居た馬を吹き飛ばしてしまったという話だった。 一刀は、運悪く馬を吹き飛ばしたという下りに少し突っ込みたかったが、我慢した。「話は分かった、でも、ここは二人とも我慢してくれ。 将同士が争ったら、兵が止められなくなるよ」「分かった、分かってる……一刀に頼まれたんじゃ、アタシは断れないし」「ありがとう、翠、先行ってて良いから」「ああ……その、悪かったよ」「ええ、しゃあない。 事故やったんや、わかっとる」 罰が悪そうに頬を掻いて、踵を返す馬超。 ようやく気絶から回復した一刀は、手元にある引き裂かれた巻物を見て顔を引きつらせた。 そして残った一刀と張遼は二人して顔を見合わせると、お互いに盛大に溜息を吐き出した。「はぁぁ……ウチの角ぉ……」「渾身の……一作が……」 情けない声を二人で出して、張遼も一刀も自然に力の無い笑みを浮かべあった。 騒ぎを起こした事に謝罪を一つ。 ついでに一刀の持っていた巻物を刻んでしまったことに謝罪を述べて、一刀は首を振って大丈夫だと答えた。 どちらともなく、廊の柵になっている木の上に座り、ポツリと張遼が口を開く。「自分、やるやん。 武器も持たずに突っ込んでくるなんて、大した胆力やで」「必死だっただけさ。 怖がる暇も無かったってのが本当のところだよ」「せや。 そいでも、馬超とウチの間に飛び込めるような気ぃ入った奴はそう居ない」「はは、それなら、稽古をつけてくれた君のおかげだな」 一刀は張遼の言葉に薄く笑って頷いた。 なんだか、改めて褒められるのがむず痒かったのもあったが、もっと他のところに彼女の真意がある気がした。 どこか、一刀を認めるような声色。 武威の地で出会ってから、まともに会話をしていない筈の彼女が、どうしてこうも柔らかい態度なのか。 その理由に、一刀はなんとなく察しがついていた。「……聞いたのかい?」「ん、荀攸に全部聞いた。 馬超を助けた理由も、一刀があの場で逃げた理由も、全部」「……すまなかった。 俺がもっと早く気付いていれば」「ええ、過ぎた事を何時までもボヤくほど、ウチはしつこい女や無い。 そりゅ悔しいし、腹の底じゃ納得してない部分もあるんやけど……今は乱世や」 結局、最後の最後まで荀攸には世話をかけっ放しであった。 ここまでくると、もう見返そうだとか気張る方が馬鹿らしくなってしまう。 今はまだ、そこまでの男ではないのだ。 最初から分かっていたことだが、本当にこの世界の人達には頭が下がる思いだった。 辛いときに頑張れるのは、自分を支えてくれる人が少なからず居るからだ。 もしかしたら、韓遂の周りにはそんな人が誰も居なくて、孤独だったのかもしれない。 自分と重ねて、音々音が居なかったらと思うとぞっとする考えであった。 一刀の思考を打ち消すように、飛龍偃月刀が刃を返して、かすかな金属音が郿城の廊に響いた。 視線が自然と張遼の偃月刀に向かった。「その角さ、直せるかも」「え、ほんま!?」「腕の良い職人の場所を詠から聞いたんだ、絶対とは言えないけど、もしかしたら」「かずとぉー! 金なら惜しまんでっ! 頼んでもええの!?」 一転、張遼の眼がキラキラと輝いて、一刀の腕に絡みつくように抱きついた。 甘い香りが一刀の鼻腔を擽って、腕から柔らかい感触が伝わり、思わず鼻の下を伸ばしそうになる。 一刀は鉄の意志で煩悩を吹き飛ばし、精神力を総動員した。 若干引きつった笑みを浮かべて、一刀は張遼に答えた。 「はははっ、当たり前だろ。 でも、直せないって言われても職人さんに文句を言うなよ」「あったりまえやんっ! ほな一緒に行こ! 今すぐ!」「ああ、ところで腕を離してくれると嬉しいんだけど」「ええって、ウチの感謝の気持ちってことで。 一刀も嫌やないやろ?」 一刀も男だ。 喜ばしく無い筈がない。 口には出さなかったが、身体が勝手に頷いてしまったことで、結局腕を離さずに並んで歩くことになった。 目的地へと向かう最中、無言であったが、郿城の正門近くまで近づくと、ふいに張遼が口を開いた。「一刀ー」「ん?」「んー……ようやっと思い出したっちゅうか」「なんだよ?」「うんにゃ……一刀ー」「ああ」「ええ顔になったやん」「別に俺は変わってないと思うけど」「そやね」「何なんだか……」「これで気付かないんかい」 くっついた腕の中で、張遼は一刀に聞こえないように愚痴った。 もう随分前の事、一刀が天代として権威を得ていた時。 公孫瓚と共に酒宴を開いた時にも、こうして気の抜けた話をしていたような気がした。 正直なところ、張遼はあの頃の記憶は酒のせいか、盛大にぶっ飛んでいて余り覚えてない。 ただ、三人で馬鹿みたいに笑い合い、酒を呑んでいた。 その時に言った自分の言葉を思い出したのである。 それが分かった。 それまで離そうとしなかった張遼が、パッと離れて一刀の前に立った。 不思議な顔をして首を傾げる一刀に、彼女は頭を一つ掻き、口を開いた。「なぁ、一刀。 これからどうするんや?」「これから? うーん……とりあえずは、武威に戻るかな。 それから先は、荀攸さんの連絡を待ってから決めると思う」「そか、長安には寄らんの?」「ああ……洛陽に近いし、官吏の往来も多い。 気分が落ち着かないだろうからね」「月や詠が心配っちゅうことか?」「そんな事無いよ、二人は信用している。 信じられないのは、周りのほうさ」 長安に居る李儒は、もう董卓と接触を試みているはずだった。 書状をしたため、約束にも応じたが、一刀は自分を洛陽から追い出した李儒を信用はしていなかった。 異民族と隣接している武威の地の方が、同じ諸侯でも静かに暮らしやすいと一刀は思っている。 "天の御使い"の名は大陸中に広がっており、その影響も大きくなった。 西涼の叛乱軍決起に利用されたように、漢王朝に対して私怨を抱えた連中の出汁にされることも、ありえないとは言い切れない。 一刀の置かれている立場は傍目には大陸の乱れを鎮める命を受けた、大将軍の上に立つ将と言える。 その実、中央政権から排された男に過ぎない。 こうして西涼の敵軍を打倒し、叛乱を鎮めた事は戦功として広く知られるだろう。 しかし得たのは勇名だけで、それは都合の良いように朝廷を牛耳る宦官に利用されるだけだと確信できる。 兵や民にとっての英雄として扱われる今はまだ良い。 しかし、その声望を失った時、下手に実績を積み上げてきた"天の御使い"という英雄は扱いずらい物となる。 排される時はいつか必ず来る。 それまでに、一刀は洛陽に戻り力を手に入れる必要があるのだ。 先ほどのあげたように、一刀は名声以外には何一つとして得た物は無い。 かろうじて、韓遂には協力をするよう約束したが、信じられるかどうかは別問題である。 だが、今はそれで十分であるとも思っている。 "天の御使い"の名声は、自分を生かしてくれる大事な物だからだ。 そもそも郿城の戦いに負けてしまっていれば、一刀に未来など無かった。 今は自分を支えてくれる人たちの為にも、我欲を伏して時機を待たねばならないのだ。 一刀は快活な性格である張遼に、自分の考えを告げてそう締めくくった。 すると、彼女は何度か頷いて、一刀の腕を取って再びくっついてきた。「そっか……分かった。 そんなら、ウチはもう少し一刀に甘える!」「ちょっ、何でいきなりそうなるの!?」「何で? 嫌なん?」「嫌じゃないけどっ、でも、ほらっ! 兵が見てるしっ」「そんなんもう手遅れやん。 噂も上ってるもん」「ええ?」「噂や噂。 昨日の夜、詠を押し倒して組み伏せたーって皆言ってたで」「あー……」 確かに真実に近い誤解であった。 下手な言い訳は余計に首を絞めそうな辺り、この噂を否定するのは難しそうだ。 「それに一刀、さっきからずっとウチの名前呼んでくれへんもん」 口を窄めて拗ねたように言う張遼に、一刀は頭を掻いた。 意識していた訳ではないが、名を呼ばなかったことに不満があったとは思わなかった。 ただ、あの邑から彼女が出て董家に仕官しに行った時の言葉は覚えている。 彼女の嫌いな顔が治ったら、真名を預けると。 かつて、公孫瓚と共に開いた酒宴の席で彼女の真名を受け取っていた一刀であったが それを忘れているようであった張遼に真名を呼ぶことを避けていた。 「張遼さん?」「ちゃう」「霞?」「ん、それでええ」「最初から言ってくれれば良いのに……」「だってなんか、改めて預けるのも恥ずかしかったんやもん」「改めてって……もしかして」「うん、思い出した。 酒の席で預けてたの。 アホみたいやん」「ああ……そっか」「……羅馬の事も」「は?」『え?』「なぁーんもない。 さ、とっととウチの"角"を直してくれる職人さんを探すでっ!」 一刀に覚えの無い言葉に、脳内の自分が反応した。 霞に腕を引っ張られて歩き出そうとする中、一刀は何のことかを問おうと開いた口は、しかし、兵の一人に遮られた。 茶化すように笑みを浮かべて、詠の指示を受けて一刀を探していたと頭を下げる。「申し訳ございません、服のことでご相談があるとか」「あ、ああ……えっと……それと別に、急で申し訳ないんだけど、張将軍の武器の修繕もして欲しいんだ。 鍛冶に明るい職人さんは居るかな?」「鍛冶ですか。 ええ、一人心当たりがありますよ、邪気眼-終焉工作室-という店をご存知ですかな?」「いや? 初めて聞くけど何だそれ」 一刀は何とも言えない表情となって尋ねた。 そんな強烈すぎる名を付ける店が、この時代にあるだろうかと。「元々は洛陽に店を置いていたそうなんですが、ここのところ売り上げが順調のようで。 長安にも店を開かれました。 知る人ぞ知る鍛冶職人の集りなので、そちらに持ち込めば将軍の武器も必ずや修理できましょう」「ほんまかっ! 良かったー! 一時はどうなる事かと思ったで!」 その言葉に、霞は指を鳴らして喜んだ。 くっついて離れなかった腕を離して、兵の背中をバシバシと叩き心の底から安堵している様を見て 一刀は問いかけを噤み、苦笑のような物を浮かべて言った。「はは、良かったね、霞」「うんうん、一刀のおかげやっ!」 そうして兵は地図のような物をさっと書くと、張遼にそれを渡して一刀を促した。 霞もまた、飛龍偃月刀の"角"が治ると聞いて、貰った紙片を懐に入れて満足気に踵を返していく。 脳内の言葉が兵に背を押されて歩く本体に聞こえてくる。『良かったのか"魏の"』『ああ、良いさ……』『それなら良いけどな』『後悔するなよ?』『う、そう言われると悩むだろ』『はは』「……」「あー……その、御使い様?」 戸惑いながらも声をかけてくる兵に、一刀は首を振って答えた。「ああ、ごめん、なんでもない。 実は不幸な事故で設計図とも言うべき物が亡くなってしまったんだけど―――」 結局、口頭とその場で書き出した、ちょっとしたイメージ図のみでメイド服の作成は行われた。 この服は董卓からの命令であったのも幸いし、職人達が集って僅か二日で完成に至るという離れ業を見せる。 実物を見た詠が、頭を抱えて机に突っ伏す事になったが、対照的に一刀は何かをやり遂げたかのよう 誇らしげな笑みを浮かべたそうである。 ■ 西からの騒乱 洛陽、離宮。 劉弁の即位が終わって6日目の、少し宮中が落ち着いた頃であった。 荀攸は長旅を終えて宮中に戻ると、さっそく墨を作って筆を走らせ、信頼できる人物を呼び寄せるとコレを託した。 チビという、自分の名を捨てたその男を使えば、劉協様やそれに仕える陳宮という者と接触できる。 そう一刀に聞いていたのだ。 が、荀攸の内心は穏やかでは無かった。 その信頼できるというチビという人物の風体はなんというか、その辺の山河を調べればすぐに見つかりそうなほど粗悪な物だった。 彼の働く運搬業者は、ここ洛陽では知らぬ者が居ないと言えるほど有名だそうだが。 そんな荀攸の心配は、僅か5刻後に解消され、彼女は驚き戸惑う事になる。 しっかりと手紙が届いた事もそうであったが、返書が5刻後に返って来たのだ。 いくら洛陽の宮中であろうとも、この速度は異常であった。 一刀から事前にチビの存在を聞いていなければ、疑いを持つだろう速さだったのだ。 「感心しますね」「へっへっへ、心づけがあれば、今後も最優先にさせてもらいますぜ」「はぁ、見事です……」「あ、いやっ、もちろん、アニキや御使い様の物なら、言われなくても最優先ですけどね、ヘッヘッヘッヘ」「では、これを」 両手を捏ねて、笑みを浮かべる姿は明らかに下品だ。 下品だが、この速度と正確さは荀攸から見ても優秀と言えた。 市井の中にも、これだけの者が居るのだなと感心露に、懐から金子を取り出して手渡す。 想像していた以上に使えると思えたからか、少し色を増して。 中身を確認すると目を剥いて、更にへらへらとした笑みを深めてチビは言った。「そうだ、荀攸殿でしたか。 実は最近、妙な噂があるので、お教えしますよ」「妙な噂ですか?」「へへへ、ええ。 最近、壷や陶器や窓などが、宮中で急に割れることがあるんですわ。 大陸が乱れて、漢室の嘆きが引き起こしてるんだそうで。 怪我人も出ているので気をつけてくだせぇ」「なるほど、不思議な現象ですね」 「それじゃ、まだお得意様への仕事が残ってますんで……今後も贔屓にお願いしやす、へっへ」 颯爽と去っていくチビの後姿を見送る。 また使わして貰おうと考えながら、荀攸は手渡された書をペラリと捲った。「っ! これは大変です!」 受け取った書を即座に暖炉の中に放り込んで書を燃やすと、外套を引っつかんで飛び出した。 劉協の名の下、指定された場所へと散歩を装って、今日中に速やかに来るようにと書かれていた。 要約すると、待ってるからちょっと離宮裏までとっとと来いや、という物だ。 相手は皇族である。 荀攸はやにわに緊張しながら、周囲から目立たぬようにと細心の注意で散歩しながら目的地へ向った。―――・ そうして荀攸が劉協との接触を持とうとした頃、宮中では何進が平伏していた。 玉座に座る劉弁帝の前で跪き、地に伏す事三回。 何進は顔を上げると、立て膝を突いて手元の書簡を百官に手渡した。 恭しく官から書簡を受け取ったのを確認して、口を開く。「陛下。 徒に騒がれていた西涼の大乱は、天の御使いと董卓が見事に指揮を取り、鎮めたとの報せが参りました」「なるほど……これは良い報せだ」「即位直後にこのような吉報が参るとは、これも帝の威光の賜物でございます」「まさしく。 変事を収めた董卓には恩典を与えるべきでございましょう」「はっはっは、そうか。 確かに大乱を治めた王朝への忠義に報いねばならない。 董卓を前将軍とし漦郷侯(たいきょうこう)に封じよう」「は、そのように致します」 百官の一人が礼をし、玉座の間からいそいそと離れていくのを見ながら、劉弁は呟いた。 張譲がその声に応じるように、一歩前へと踏み出した。「しかし、天の御使いとな。 あの者は大罪を犯して放逐されたはずだが」「先帝が崩御なさる前に、任じられていたのです。 小人が機嫌取りをしている様なものでございましょう。 帝が案じることはありますまい」「うむ……そうかも知れぬが、父を侮辱したのだ。 許せぬぞ」「ご安心を。 今は名声が高く手が出せませぬが、いずれ排すれば良いでしょう。 それに、野で果てる可能性もございます」「おそれながら、帝が気になさるような者ではございませぬ」 その言葉に納得し、劉弁は何度か頷いた。 話が落ち着いた頃を見計らって、何進は一歩前に出ると、頭を下げて口を開いた。「……畏れながら陛下。 申奏したき事がございます」「うむ、申せ」 「西涼の乱は治まれど、未だ災禍は過ぎておりません。 私は大将軍として軍部を司っておりますが、大陸の禍を取り除くに一つ考えがございます。 倍以上の敵を滅し、弾き返した董卓軍はまさに大陸有数の精兵でしょう。 これを遊ばせるには勿体無いものです。 そこで都に呼び、帝が沙汰を下されば、一気に乱を鎮めて大平を得ることができます」「おお……素晴らしい案だっ!」「畏れながら」 何進の言葉を聞き終えた劉弁は、笑みを浮かべて腰を浮かしたが、すぐに落すことになった。 張譲が止めるように手を挙げて制止を促したのだ。 劉弁の前で立つ何進の周囲を巡るようにしてゆっくりと歩きながら、口を開く。「陛下……大将軍の申されたことは、はっはっは……少々性急ではないかと思われます。 いかに董将軍の将兵が精強であろうと人でありますれば、大戦の直後に慌しく命を下す事は配慮に欠けております。 そも帝は今、漢の皇帝に即位なされたましたが、先帝が崩御されてから長く政が滞っておりますれば。 劉弁帝が此処に座られるまでに、朝廷は混乱をしておりました。 内憂を抱えていてどうして外憂に対処できましょうか。 何より、備わるを一人に求むるなかれと言うように、董将軍のみに頼るというのも情けない話ではございませんか」 張譲は何進の目の前に立つと、そこで言葉を切ってから続けた。 まるで、強調するように。「まるで大将軍は今の漢に人は無しとでも仰られたいと、私には聞こえましたが如何ですかな? 私の目の前に立つ何進という者は漢室への忠義に篤く、その豪胆さで帝の即位を後押しし、数々の大乱を治めてきたお方。 他にも、四世三公と賞賛される袁家は兵も多くこれも忠に足りており、漢を支えた優秀な名家も多く、外憂を鎮める力もありますれば…… 確かに、漢には外患いがございますが、大将軍の憂慮は些か過大ではないかと。 劉弁様。 戦は莫大な資源を消費するものです。 董卓にはしばし休まれるよう心配りをされた方が良いかと」 そこで言葉を止め、歩む足も止めると何進の隣に並び立つようにして張譲もまた、頭を深く下げた。 何進は張譲へと向けていた視線を、劉弁へと戻す。 表情は戸惑いを含み、目線の泳ぐ劉弁に、何進は背を押すように言葉を投げかけた。「劉弁様が帝となられた今、内憂は治まりを見せて来ております。 これも帝の威光があれば。 今こそ長引く乱に終止符を打ち、漢の尊厳を取り戻す時かと」「即位された今こそ、内憂を完全に取り払うべきです。 根幹がしっかりと根を張っていれば、強風にも揺られる事はあれど、倒れることはございませぬ」 二人に頭を下げられた劉弁は、落ち着かない様子で視線を惑わした。 そして張譲は、頭を垂れながら、隣で同じように頭を下げる何進に目を流して見やった。 思惑は見て取れる。 宦官を悪としている何進は、その排除を目論んでいた事を張譲は知っていた。 何進の言に否やを唱えたのは当然ながら、その思惑を潰す事が一つ。 論語に一文を引っ張り出し漢に人在りと答えてやることで、今後の牽制として一つ。 先帝崩御から政が停滞したという、皇帝としてと言うよりは劉弁個人の良心に訴えたのが一つだ。 何より、最初に言った通り何進は時機というものが見えていない。 張譲から見ても明確に、焦りという物が見て取れた。 この男は判って居るのだろうか。 宦官が居なくなれば、今より更に朝廷が荒れることになるというのを。 永きに渡る権謀の経験から、張譲は確信に及ぶ。「畏れながら。 私も張譲様が仰られた通り、内をしっかりと固めるべきかと思います」「大将軍の言葉はもっともですが、帝は即位なされたばかり。 今は張譲殿の言葉が正鵠を得ているかと」 そんな彼の思惑を後押しするように、何人かの宦官と高官が劉弁へと頭を下げる。 それを見ると、やがて、何度か頷いて劉弁は口を開いた。「その通りだ。 大将軍、朕も長引く大乱には心を痛めておるが、今はまだ動くべきではないと思うぞ」「……はっ! 過ぎた事を申しました」「良い! 漢は歴史を長く歩み疲弊している。 焦りは目を曇らせるという。 朕もそなたのおかげで心が焦れているのが分かった。 今後も忠を尽くしてくれ」「はっ。 ありがたき御言葉。 至言でございます」 何進は口を一文字に結び、頭を下げて踵を返した。 静々と退室し、宮殿を出ると何進は深呼吸するように深く息を吸い込んで、陽光に目を細めた。 肺に溜め込んだ息を吐き出して、目を瞑る。「焦りは目を曇らせるか」 あの場では表情にこそ出さなかったが、劉弁の言葉は何進に衝撃を与えていた。 劉弁が即位した今だからこそ、宦官という膿を吐き出して朝廷に清涼を齎す機であると断じていたが、そうでは無いかも知れない。 張譲の言葉には一理あり、内外が騒がしい今、片付けるべき問題は山ほどある。 後継者の問題が何進の行動で解決を見せ、一時の緊張から解き放たれている今。 宦官の排除を急ぎ、自ら内を乱すことも無いのではなかろうか。 たとえ、何時かは排さねばならなくとも急いて事を仕損じては元も子もない。 それに、自分の企みは上手くいっていない。 袁紹に断られ、董卓に声をかけたものの、大きな戦の後だ。 色好い返事は期待できまい。 それならば、今は時期を待ち、宦官を討つ機を得るまで待つのが得策かも知れない。「帝は聡明であらせられるな……」 何進は肩越しに後ろを振り返って、宮殿を見返す。 やがて自分を納得させるように頷いて、視線を外すと、宮内を後にした。 その足は、袁紹の下に向かっていた。 また、張譲と趙忠の二人も、劉弁の下から辞し宮中の廊を歩いていた。 そろそろ初夏となるからか、実をつけ始めた木々が美しい景観を演出している。 美しい景色の中で舞う、くまの人形は、片腕が取れていた。 話題は先ほど何進が申奏した内容であった。 もっぱら、張譲は黙って聞いており、時に頷くだけで喋り手は殆ど趙忠であった。 「むっつりした顔見た? 袁紹に蹴られたからって焦りすぎだよ。 あんな方法でボクらを殺そうなんて笑えるね」「うむ……」「袁紹も言うほど天の御使いに懸想してなかったのかもね。 もっと恨んでると思ったけど、乙女心ってやつ? 良く分からないや」「……うむ」「譲爺~、さっきからうんうんって、それだけなんだけど」「……趙忠、よくこの爺の耄碌を止めてくれた、礼を言うぞ」「へ? なに?」「曇っておったのだ、ワシとしたことが、とんだ失態だ」 考え込むように立ち止まった張譲を不審気に覗き込む。 何時の間にか張譲の掌の上に二つの玉が乗って居るのを見て、彼は肩を竦めた。 そんな趙忠に、声が降る。「何進は何故、ああも焦っておった?」「そりゃ、袁紹に断られて切れちゃったんじゃないの? 変なところは無かったけど」「うむ、そうだ、確かに。 何進は絡んでおらぬな……奴は我等の目を引く為の餌となったのか」 その通りだと、張譲は頷いた。 彼から見ても、なんらおかしい所は無い。 宦官の排除をするに、見込んだ袁紹に断られて、今度は董卓に頼ろうとした。 ここまでで可笑しな所は一箇所も無い。 何進の心内は透けて見えるのだ、よもや演技が出来るほどの腹芸を身につけたわけでは無いだろう。 ころり、ころりと掌の玉が回された。 おかしなところは無い。―――あるとすればそれは何進ではなく。 「……そうか、袁紹かっ!」 袁紹が洛陽に入り、何進と密通していたのを段珪から聞かされた。 その場で袁紹が何進の提案を蹴ったという話だが、あの時引っかかっていた物が見えた気がした。 何故、袁紹は何進の話を蹴ったのか。 どちらにしろ宦官を排除しようと目論んでいると分かれば、視線は否応にも何進に向けられる。 事実、張譲も含めこの話を知っている者は、何進の動向ばかりに眼が向いており他人を気にしなかった。 袁紹が自身の判断で何進の誘いを断ったことも考えられるが、趙忠の言うように追放された北郷一刀との仲は良好だった。 程度の差はあれど、一刀を追い出した事実は、彼を慕っていた諸侯に怨嗟を残した。 例を挙げれば、勇名を馳せる孫堅が孫家と切り離された事。 孫堅にとっては面白くない物であり、宦官を恨んでも可笑しくない話である。 究極的には宦官さえ居なければ何進は帝に頼られる。 権力を握ることができ、一刀を呼び寄せるも放逐するも自由だ。 後継者争いが長きに渡ったのは、一刀を抱えていた劉協が、その権力を欲したからだ。 袁紹があっさりと切って捨てたのは、胡散臭さが漂っていた。 少なくとも、張譲にはそう思わせるに足りたのだ。「趙忠よ、確か袁紹はまだ、洛陽に留まっているな」「うん。 何進のおっさんが引き止めてるみたいだけどね」「そうか、よし、裏で通じている誰かが、まだ分かるかもしれんぞ。 おう、急げ、背後を調べなければならん」「放って置いても良いんじゃないかな? ボクらを生かしたい人かも知れないよ?」「違うっ! 何進に死んでほしくない者が居るのだ……趙忠、思い出せ。 何進は劉協様を説得したこともあって帝との仲が非常に良い。 下手をすれば妹を失っていたと、何進に涙して礼を言ったのだぞ。 こうして宮中に現れて上奏することもできる……まるで先帝と天代の関係のようではないか。 そうだ、何進はむしろ消えてしまった方が我等に都合が良いのだ……ええい、見誤った! なんと狡猾な! 袁紹の影に大魚が悠々と泳いでおったとは!」 枯れた腕を忙しげに動かして、張譲は早足に歩きはじめた。 その背を追う趙忠は一度頬を掻いて息を吐くと、張譲の前に回りこんでその足を止める。 常の数倍、眉間に皺を寄せた張譲が、焦れた様子で趙忠に口を開き、その機先を制して彼は口を開いた。「譲爺、別にもう出てくって決めたんだから、時期だけ選んで雲隠れしちゃえば?」「趙忠、何故止める。 分からんのか? 劉弁様が即位されたばかりの今は、我等も簡単には動けん」「動かない方が良いと思う。 "誰か"が要じゃなくて、"誰が"動くかが要でしょ。 何進を抑えておいて、いざならば殺せば良い話、違う?」「それでは足らぬっ! お主には分からぬかも知れぬが、ワシには分かるのだっ!」 取り付く島も無いと言った様子で、興奮を抑えきれないように張譲は趙忠の脇を抜けて今度こそ廊を駆けていく。 張譲がこうまで焦りを見せたのは、何進を警戒しすぎたが為に皇帝の即位を早まらせ、自身の首を絞めた事にある。 そう、皇帝を支える十常侍であるのだ。 それも、張譲は長年に渡って漢に仕えて来た。 数ヶ月は政と人事に追われ、例え彼が願い出ても、辞する事は叶わず引きとめられる事だろう。 つまり、動けないのだ。 宦官を兵馬で排すると見せかけて、その裏で謀りの刃を突きつけていた。 残された趙忠は、つまらなそうに口をすぼめ、柵に人形を叩きつけた。 糸が切れる、嫌な音が耳朶を打つ。「いつもボクの話を無視するんだからさ……」 不満そうな声が、瑞々しい緑葉と実をつけた木々の隙間に消えていった。 ―――・「荀攸とは、そなたか」「は。 性は荀、名を攸、字は公達と申します。 劉協様にご拝謁できるとは、この身に余る光栄でございます」「我が名は陳宮です。 荀家の高名はかねがね聞いておりますぞ」「こちらこそ、陳宮殿の活躍は耳に良くしております……と、ところで、一つ質問を許して戴ければ……」 荀攸は流れる汗を一つ拭き、周囲を見渡した。 というよりも、この部屋は非常に狭いので左右にさっと首を振ればそれで見終わった。 散歩をしながら目的地へと辿り着くと、たった今紹介された陳宮に手を引かれてこの場に来たのだ。 その場所を示されたとき、荀攸は冷や汗を掻かずにはいられなかった。 まさか、殺されるのでは? とも思ったが、その理由が見当たらない。 促されて開いた扉を現れた顔に、血の気が引いて汗が吹き出たのである。 「その、何故、このような場所で……」「ああ、そのことか……仕方ないのだ。 人通りも無く、誰に聞かれる心配も無い場所は宮中に少ない。 狭いかも知れぬが厠の中では広い場所を選んだつもりだ、我慢してくれ」「は、はい、劉協様がそう言うのならば勿論……」「まぁ、でも確かにこの匂いはねねも答えるのです」「それは、私も同じだ。 仕方あるまい」「……古今、暗殺や密談は確かに厠の中で致すのが多い物です。 それを思えば、納得できます」「うむ、それより早速本題に入ろう。 一刀と共に過ごしていたらしいな?」 何故か一段、声が低くなった劉協の声に荀攸は頷いた。 その頷いた様子を見て、劉協と陳宮は、お互いに顔を見合わせて視線で話し合っていた。 二人の様子に違和を覚える荀攸であったが、何がおかしいのかは判らなかった。 ただ、真剣な眼差しを荀攸に送っているのだけは確かで、厠を選んで会話をするという事実を考慮すれば "天の御使い"が漢王朝に戻る為に、重要な話があるというのだけは分かる。 荀攸は、まず二人の質問に嘘を交えず答える事を、心がけることにした。「一刀は元気であったか」「はい、病も無く、賊を打ち倒し、それはもう、盛んでございました」「盛んだと?」「やはり、ねねの言った通りですぞ劉協様」「……それで、誰と、そなたの他には誰と共にしていたのだ」 荀攸は質問されるごとに、時に滑らかに、時に思い出すようにして答えていく。 邑での出会い、韓遂の謀略、郿城での戦い……質問は時に何度も繰り返され、細部にわたって報告していった。 だいたい一通りの質問を終えたのは一刻後。 劉協と音々音は、あらかた一刀の辿った経緯を聞き終えると、二人して頭を下げた。 荀攸はこの行為に狼狽した。 皇族である劉協が一臣下である自分に頭を下げるなど、あってはならない過ぎた事であるのだ。 だが、止めてくれと頼む荀攸の声を劉協は首を振って遮った。「感謝とは、言葉と態度で伝え、誠意を示して意味を成すもの。 一刀は漢にとって稀有な者なのだ。 荀攸、そなたは一刀を守り、引いては漢王朝を守ったと言えよう。 私が感謝をするのは当然だろう」「劉協様のお言葉は、礼節において真と理なるもの。 荀公達、感服いたしました」「そうですぞ。 荀攸殿が居なければどうなっていたか。 一刀殿はああ見えても案外とお馬鹿なのです」「あ、馬鹿というのはそうですね……確かに目を離すとすぐに女性と戯れて―――ひゃいっ!?」 バキンっ! と物凄い音が厠の隣の中から響いた。 その余りの大きな音に、荀攸は両手を合わせて跳ね飛んだ。 宮中では"天の御使い"が追放された事を知らない者は少ない。 むしろ、扱いは逆賊だ。 劉協や陳宮がこうして、誰も通らず使っていない厠を選んだのも納得できるほどに。 もしや、誰かが隣で聞き耳を立てて居るのではと、今の物音に不安になってしまったのだ。「あ、あの、今……」「気にせずに。 最近身の回りの物が突然に壊れるのです」「早く続きを申せ」「し、しかし……調べた方が」「劉協様は、荀攸殿に一刀殿の事を一切合財、聞いておかねばならないと仰っておりますぞ」「ねねの言う通りだ」「は、はい」 隣に誰か居るのではと思うと、心中穏やかではいられない。 荀攸は、胃の辺りが何かこう、締め付けられるような痛みを感じていた。 だが、目の前の二人は物音に気付かなかったかのように冷静だった。「ゴホンッ、荀攸。 私はそなたのような漢に忠高い者を知り、嬉しく思っている」「は、はっ。 ありがたき幸せです」「それで、その……一刀はふしだらであったか?」「は? そ、そうですね、私が知る限り……」「知る限り、どうなのです?」「馬家では入浴を覗きましたねぇぃ!?」 パリィン! と玉が地に落ちて割れるような音が外から響いた。 荀攸の声は上ずり、猫のように背筋を震わす。 「離宮の窓がまた割れたぞ!」「これで何枚目だっ!」「どうなってやがる!」「おい! 怪我しているぞ! 医者を呼べっ!」 外から聞こえた怒声に―――恐らく、離宮にて働く存在だろう―――劉協様や陳宮が居ないことに気付かれるのでは無いかと気が気ではなかった。 この厠は人通りが少ないかもしれないし、まさか劉協様が居るとは思われないだろうが、不安なのは不安だ。 加えて、心の片隅で宮中の窓や壷が突然ぶっ壊れるという話は、チビから聞いていたがこうも頻繁に起こるとは思ってもいなかった。 所詮は噂と流していたが、これは駄目だ。 心臓に悪い。 漢室の嘆きと無念の宮中を震わしているとの噂が流れ、人々が恐怖を覚えるのも分かる気がした荀攸だった。 ある意味で、その噂は当たっていたが。「それで、他には?」「えっと、その、劉協様。 顔が近いのですがっ」「仕方あるまい、狭いのだ。 ねね、狭いゆえそちらに詰めよ!」「それよりも早く続きを聞くほうがよいかと存じます!」「その通りだな、他には何があった。 荀攸、包み隠さずに答えよ!」「は,はぁ、えっと、他には、そのっ」「早く申せっ!」 額がくっつくほど、いや、くっついて怒鳴られた荀攸は勢いに押されて一歩退いていた。 背中が厠の出口の扉を叩いて、ミシリと蝶番が悲鳴を上げた。 荀攸は何故こうも怒鳴られ、問い詰められているのかが判らなかった。 皇族に大声で詰問されているのだ。 混乱の一つもしよう。 声は上ずり、半分涙目となった荀攸に、劉協はおろか音々音も混乱しているのに気付かない。 いや、むしろ三人揃って混乱していたと言ってもよかった。「は、はっ! 申し訳ございません、董家の呂布殿や軍師の賈駆殿に……馬超殿も、そ、そうです確か名言がございます!」「名言だと!?」「一刀様を指してその、え、えろっ、ろ、エロエロ魔人と!」「なんですとっ!?」「他には!? 荀攸っ!」「は、はいっ!? 申し訳っ」 劉協の超至近距離での怒声に晒され、荀攸は腹部の痛みを押して両手を重ねて喚くように返し、勢いに押されたせいか謝罪が口を突いて出た。 「そなたは魔人に何もされなかったのか!」「は、はっ! 劉協様! 私は止むを得ず卑猥な行為を連想させ―――っ!?」 押されに押され、悲鳴をあげていた蝶番が弾けとんだ。 押していた劉協も、押されていた荀攸も、蝶番にせき止められていた自重で堕ちていく扉と一緒に転げ出る。 離宮の裏手に盛大な音と土煙が舞い、咳き込む劉協を見て、音々音はようやく自我を取り戻した。 同時、劉協たちが使っていた厠の隣の扉がスパァンと開かれる。 金髪ドリルが何故か居た。「劉協様、大丈夫ですかっ!?」「げほっ、荀攸が下になったおかげで大丈夫だったっ」「お怪我はしておりませんのっ?」「ない、平気だ……?」「袁紹殿っ!? 何故こちらに!?」「あらっ? おーほっほっほっほっほ、奇遇ですわ、劉協様!」 突然の珍客に、劉協も音々音も揃って唖然とする。 話は全て聞かしてもらった、と豪語し、劉協を支えるようにして笑顔を振りまく。 何故居たのかと問われれば、高笑いをかましつつ、チビに聞いたと堂々と言い放った。 普段から基本的な連絡の手段に陳宮はチビを用いている。 曹騰とは子供たちを利用していたりと、連絡の方法も一本化せずに絞られないようにと気を使っていたのだ。 チビとも、直接会って利用するのではなく、定期的に送られる離宮への生活用品を隠れ蓑に書簡を混ぜている。 一刀が残した絆の一つを、有効に使っているのだ。 袁紹にチビを紹介したのも音々音からである。 宦官の排除を何進から求められて洛陽に入った際、勝手に暴走しないようにと釘を刺すために連絡を取り合う必要があった。 彼女が此処に居るのは、そのチビが荀攸へと書簡を届けた後、袁紹にも知らせていたからである。 もちろん、チビは袁紹が金払いの良いお客であるから最優先で色々と得た情報を回しているに過ぎない。「むぅ、少し口止めを考える必要が……少し利用するのを控えた方が良いかもです……」「おーほっほっほっほ、それはともかく、荀攸さんでしたっけ? その方の話はまるっと聞かせて戴きましたわ」「袁紹殿で幸いだったというべきか」「うぅ……」 下から聞こえる呻き声に、三者の視線が荀攸へ向かった。 劉協と一緒にもつれ合って外に飛び出した時、彼女は混乱に陥りながらも劉協を怪我させまいと身体を張っていた。 話し合いの半ばから痛む腹。 下敷きになって衝撃を全て請け負ったせいで、頭を打ち、脳は揺れて立ち上がることもままならない。 青い顔をして腹部を押さえ、舞う土埃に咽そうな口を覆う。「荀攸、大丈夫か? いかん、私のせいだ……」「頭を打ってるかもなのです……みだりに揺らしてはいけませんぞ」 至極真っ当な心配をする劉協と音々音に、袁紹は斜め上の反応をした。「まさかっ!」「な、なんなのですか袁紹殿っ! いきなり大声を出してっ!」「陳宮殿っ! 荀攸殿は最後に仰いましたわ! 卑猥な行為をなんたらかんたらと!」「そ、それが何なので―――」「まさかっ!」 袁紹の必死な形相に陳宮は意味が判らず首を傾げたか、何かに気付いた劉協が手を上げて彼女の声を遮った。 そして、劉協はまるで幼子に聞かせるように分かりやすく、淡々と語った。 いきなり現れた金髪ドリルが言う様に、目の前で倒れる少女は言った。 一刀とは卑猥な行為をしたと。 更に、荀攸は何故か謝っていた。 そして、心なしか顔色を悪くし、腹部を押さえて呻いているのだ。「つまり、これは妊娠悪阻と袁紹殿は言いたいのか」「は?」「その通りっ! ああっ、なんということ……これは一大事、たたた、大変な事になりましたわ! 早急に対策を取らねばっ! 申し訳ありません、袁本初これにて失礼させていただきますっ!」「ち……ちがっ……」 未知なる恐怖から逃げるかのように、大声を上げながら踵を返して走り去っていく名族。 勝手に勘違いして膝から地にくず折れる皇族。 事態の推移に置いてけぼりにされた音々音は、困ったように頬を掻いて呆然とし…… そして、荀攸はそのまま意識を手放して気絶することにした。 色々と、心の中で諦めて。 そんなひと悶着を経て、荀攸を介抱した劉協達は、場所を離宮の中に移して話し合いを続けた。 厠の前で大声で喚いていれば、誰だって気付く。 少女達の姦しく甲高い声であれば尚更だ。 周囲に気づかれ、密談という体を成さなくなった為、劉協達は開き直って意識を取り戻した荀攸を離宮に運び込んだのである。 確かに、この場に招かれてからは一刀の名前を出していないのだ。 密談はあの場で終了した、そう自分を納得させて部屋で茶を啜っていた。「それにしても、荀攸のような知者が手を貸してくれるとはありがたい。 "アレ"もそなたが居て心強かったであろう」「いえ、私は微力を尽くしただけです」「お待たせしたのです。 荀攸殿、薬は呑まれましたか」「ええ、先ほど戴きました」「ふ、"アレ"の扱いには苦労をしたのだろうな」「劉協様、お口が過ぎますぞ。 まぁ、あちらこちらで手を出しているのが"アレ"らしいとは、ねねも思うのですが……」「劉協様や陳宮殿もそうでしたか」 話題は"アレ"扱いされている一刀の事に終始されていたが。 もちろん、妊娠などという不名誉な誤解は解いている。 戻ってきた音々音の腕の中に、勅書のような物が抱えられているのに気付いた荀攸は、居住まいを正す。 彼女の様子から、自然と劉協も音々音を見やって少し真面目な顔になった。「ねね、持って来たのか?」「はい。 荀攸殿は信頼できるお方でしょう。 我々の事も話しておくべきかと思うのです」「そうだな……荀攸」「はっ」「これを見てくれ」 音々音に手渡された書簡を、荀攸は恭しく受け取るとその場で開いて中身を覗く。 それは、勅書であった。 玉璽の印が押されており、今はもう亡くなった先帝の名が記されていた。 内容は、宮中への立ち入りを禁ずる物。「……これは?」「かつて"アレ"が追い出される際に先帝が出したものと仕組まれた、偽の勅書なのです。 宦官を辞した曹騰殿が抑えて、協力して手にいれました。 宦官の謀略を示す証拠の一つとなります」 音々音の声に、荀攸は喉を鳴らして勅書を見ていた。 張譲の目の前で破るように頼みこみ、曹騰が隠し持っていた偽の勅書。 音々音は子供たちを通じて手に入れていたのである。 そう頻繁に連絡を取り合うことはしていない為、随分と時間がかかってしまったが、動かぬ証拠の一つを得た事は大きい。 劉協は勅書を見る荀攸を見据えたまま、音々音から小さな欠片を受け取って卓に置く。 木が木とぶつかりあう、乾いた音が室内に響いた。 勅書から視線を外せば、焼け焦げた炭が残る何かの残骸であった。 劉協は、その何かの破片を指で転がすと口を開いた。「これも同様に、焼却処分をしていたところを抑えて手に入れた証拠の一つだ」「……まさか」「張譲によって作られた玉璽の破片だ。 原型は保っていないし、ただの残骸に過ぎないから使えるかどうかは微妙だがな」「そちらは?」「ヒャクエンダマというそうなのです。 玉璽を作った職人の家から出ましたぞ。 そこから使われた木材を卸している業者に当たりをつけて、彫職人の名も判明しているのです」 が、その者は既に洛陽には無かったどころか、一家揃って消えたという。 順当に考えれば、証拠を隠滅するために皆殺しにされたのだろう。 だが、生きている可能性はあるし、その親族となればこの広い大陸の中の何処かに居るかも知れなかった。 ここまで話されれば、荀攸は予想がついた。 維奉がそうであったように。 自分が垣間見たように。 二人もまた、一刀に漢王朝存続の夢を……いや、一刀と共に歩いているのだろう。 こうして追放に当たって謀略が仕組まれた証拠を集めているのであれば、狙いは明白。 帝へと上奏し、宦官の中でも膿となっている者達を排する為に違いない。「チビ殿を通じて袁紹殿と連絡を取り合っていると言ってましたね……」「つい先頃、何進は袁紹を呼び出した。 表向きは軍事の物とされているが、実体は違う」「何進殿はこの離宮に来られて、劉協様の兄である劉弁様に帝位を譲るよう、命を賭けて嘆願しに参ったのです」「内憂外患を抱えていながら、権力を手に入れようとする争いは王室を腐らせます。 大将軍は権力を巡って右往左往する宦官を見限ったということですね」「如何にもです……そして、大将軍は袁紹殿を洛陽に呼び、力で宦官を排そうと企んだ」 なるほど、と荀攸は頷いた。 劉弁と劉協、この二人の間で権力争いが長引いた事に得心できたのだ。 張譲などが劉協を皇帝に推したのは、二人にとっては怨嗟を抱える相手であり、監視をされている事を踏まえても好都合だったのだろう。 一刀を戻すには、権力が在った方が都合が良いに決まっている。 隠れて張譲の謀略に加担した職人らを探す必要もなくなる。 少なくとも、帝となれば遠慮をする必要が無い。 外が荒れ、内が荒れれば漢王朝は衰退を早める。 実際にそのような状況下でも、彼女達は何進が言に及ぶまで皇帝になる為に引かなかった。 承知の上だったのだろう。 陳宮ほどの知を持つ少女が、そんな簡単な事に気がつかないはずが無い。 荀攸は茶を口に含み喉を潤すと、静かに問いた。「……宦官は狡猾です。 謀に長けて、宮中を支配しております。 成功するとは限りません。 何進殿と袁紹殿が武を持って俳する事は、お二人にとって好都合であるはずです」「それは我等にとっては不都合なのです、荀攸殿」「何故です?」「この離宮で過ごす我等でも、何進殿の思惑に感づいているのです。 宮中を牛耳し、長年権謀で腹の探りあいをしていた宦官が何進殿の目論みに気付いていないと思うですか?」「……」「それに、我等のこうした動きにも気付いていて、泳がしているだけに過ぎない可能性もあります。 荀攸殿とこうして会った話はいずれ伝わる事になると思われるのです」「ねね、言うな。 もともとこの密談はばれても良いと話したではないか」 劉協に諌められ、音々音は身振りを交えて話していた口を噤み、腰を落とした。 荀攸からの手紙を受けて、二人は厠へ来るように指定したが、それは劉協の悪あがきのような物であった。 直接会えば、宮中の中を歩くのだ。 誰かしらの目に触れるのは道理。 チビを用いての連絡を絶たれるよりも、一刀が外で築いた荀攸という羽を得る事を選んだのである。 荀攸は二人の会話を見て、察する事が出来た。 恐らく、チビを用いる機は今後は激減ないし、使うことを止めるのだろう。 やにわに降りた沈黙に、彼女は疑問を呈する事で打ち破る。「生かしたいはずの何進殿を囮に、袁紹殿へと密を得る。 大胆でありながら効果的かと。 卓見でございます」「私が考えた訳ではない。 ねねにその辺は任せているのだ」「僅かな時でそれを察する荀攸殿こそ、得がたい知者だとねねは思うです」 卓の上で拱いていた指を離し、劉協は溜息を突くようにして息を吐き出した。 つまり、宦官を力で排除する前に何進は殺されると二人は見ている、あるいはその可能性が高いと思っている。 荀攸は爪を一つ噛んで、椅子に深く腰掛けた。 大将軍を生かしたいという言葉に、彼女達は何も言わなかった。 それはつまり、荀攸の推測が正しいことを意味していた。 しばし黙した後、言葉にする。「何進殿に生きていて欲しいという事は、謀略を暴き確かな証を用意し、それをもって宦官の排除を大将軍に上奏させるおつもりだったと」 無言で頷く音々音に、荀攸は小さく何度も頷いた。 袁紹と連絡を取り合っているのは、何進の軽挙に付き合わないようにさせる為だったのだ。 彼女は四世三公の名門であり、諸侯の中でも抜き出た金、地、そして人を持っている。 賛同すれば大きな力を得る事になる何進は勢いに乗って、宦官を排する動きを見せただろう。 だが、何進の申し出を断らせるようにと劉協達は動いていた。 全て、何進を生かす為と言ってもいいかもしれない。 今の帝である劉弁と、軍部を司る大将軍は近しい間柄だ。 宦官や付き従ってきた一部の高官を除いて、帝が信頼する人間である。 彼女達が宦官の行ってきた謀略の確実な証拠を揃えて、先帝を唆したのが誰であるのかを何進が知れば 彼は上奏し、帝はこれを許さぬであろう。 もしも帝が上奏を認れば、その瞬間に一刀の罪は虚偽の物であったとして覆る。「ねね達は、これを持って"アレ"の仇として宦官の膿を一掃し、漢王朝復古の一歩を成そうと考えて居るのです」「しかし、宦官の全てが悪では無く、政を牛耳る彼等は皮肉にも、排する事で漢の命を縮める扱いにくい存在です」「今は"アレ"の名声に隠れています、もともと民の恨みは宦官、その十常侍に集っていた―――つまり、ここです」「十常侍を排する。 実に清廉な考え、私も賛成です。 ですが、証拠は集りますか?」「実のところ……張譲は掃除も得意なようなので、真っ当なやり方では限界があるのです。 荀攸殿、劉協様とねねが貴殿をお呼びしたのは、一刀殿の繋がりから外へ向かう羽が欲しかったからなのです」 室内に沈黙が下りる。 荀攸の目の前に座る劉協は、深く座し、両手を組んで目を瞑っていた。 音々音も、荀攸を呼び出した本音を打ち明け、これが賭けであることを露にした。 腕を伸ばし、荀攸の手を求めている。 彼女達の本音を前に、荀攸が口を開こうとした時。 劉協はその先を制し、眼を瞑ったまま口を開いた。「ねね」「なんです?」「"アレ"を声に出してるぞ」「あ……」 ずずっと劉協の茶を啜る音が響き、手を荀攸へと突き出したまま固まった音々音の頬に赤が差す。 その声に、荀攸は薄く笑みを浮かべた。 一刀が彼女達に信頼を置いた理由が分かったからであった。 忸怩たる思いであっただろう。 屈辱も受けただろう。 それでも耐え、漢王朝の為の最善が何かを追い、監視が強く動けなかったこの場所で、ずっと戦っていたのだ。 それは、荀攸の感を動かすのに足りていた。「劉協様」「ん、ああ」「こうして全てお話戴けたことは、この身に余る信頼でございます。 劉協様には敬念を抱かずに居られません。 荀公達、身を粉にして仕えたいと思います」「私に仕えるだなどと、不遜であろう。 漢のため、我が兄……帝のために良く働くといい」「はっ」 水面下でしか動けなかった劉協と陳宮。 この日、二人の背に荀攸という外を飛ぶ羽が生えたのであった。 ―――・「はぁ~妊娠ですか」「そうです! 英雄色を好むとは言いますけど、余りにかような仕打ちですわっ」 目の前で気の無い返事をしたのは郭図という名の少女である。 色素の薄い青髪を短く刈り上げて、頭頂部をボンボンで縛っており、そこから阿呆毛が一本飛び出している。 切れ長の目の下に黒いぽっちのほくろが特徴的といえた。 体躯は非常に小柄で、成人しているのかと問われても可笑しくない容姿であった。 この少女は何進に呼び出され袁紹が南皮を出る際に、田豊が全てを託して彼女をお守りにと送り出したのである。。 顔良や文醜といった将軍たちは、冀州に詰める黄巾残党と戦っているせいだった。 それはともかく。 こんなにお慕いしているのにと、卓の上でのの字を書きながら頬に手を当てて身をくねらせる袁紹をぼんやりと見上げる。 実際にその場を見た訳でもないので断言など出来ないが、勘違いであるような気がしてならなかった。 なぜなら、袁紹という人物は郭図から見ても北郷一刀という男の事になると見境が無くなる。 それは、彼の為にと猛勉強を始めて、軍師連中が大騒ぎし、家中を揺らし、牛が暴れ、馬が逃げ出した実績が示している。 洛陽決戦の凱旋の時に見かけた、優男の顔を思い出しながら、ポツリと漏らした。「うんうん。 確かに子を授かる可能性が無いとは言い切れませんよねぇ、うん」「郭図さん……」「なんですか?」「い・ま・す・ぐっ! 私が天の子を授かるための策を練るのですっ!」「えぇ……策ですかぁ……」「なんですの、その気の無い返事は」 いやだって、無理だ。 いくら主を支える為に知能を振り絞るのが軍師の役目だと言っても、出来ることと出来ないことがある。 出来る事なら、主君の為だ。 火の中にだって飛び込んでやって見せようと思いはするものの、男の子種を得ることなど出来ない。 もしも自分が男ならば、色々言い包めて差し出すのもやぶさかでは無いが。 その辺の所を袁紹に懇切丁寧に説明したのだが、途中まで聞いていた彼女は卓を強打して立ち上がった。 が、叩きつけた手首を押さえて蹲った。 「何を弱気っ……くぅ……っ」「わっ、袁紹様、大丈夫ですか?」「っ、大丈夫ですっ! 分かりましたわ、こうなったら直接会いに行くしかありませんわね!」「なっ、待って待って! そんなことを許したら出たとこ軍師の郭図ちゃんが身内に殺されますよっ!?」「なんですの、その出たとこ軍師というのは! 離しなさいなっ!」「田豊殿に名付けられましたです! それはどうでも良いので私の為に止まってくださいっ!」 少々涙目になりながら長い金髪を手で凪いで、決意の篭った目で郭図にそう告げ、ドカドカと床を踏み鳴らして歩く。 その真剣な目を見て、郭図はタックルを仕掛けるように袁紹の腰へと抱きついて制止した。 顔良や文醜ほどでは無いとはいえ、彼女と付き合ってきた郭図には分かった。 袁紹はガチだ。 放っておけば涼州に向かって漢王朝簒奪を目論んだ大罪人に向かって馬を飛ばすだろう。 郭図の明察な頭脳に恐ろしい想念が舞い降りてくる。 名門中の名門、袁家の長が罪を犯した犯罪者に直々に会いに行くのだ。 そして逃げ惑う男を捕まえて言うのである。『ちょっと、子種を貰えませんですこと?』 そんなことをさせる訳には行かなかった。「わ、分かりましたよっ! 策を練りますからっ! 私の言うこと聞くって田豊殿にも言いつけられたじゃないですかっ!」「郭図さん!」「は、はいはいっ!」「では十秒です! その間に策を授けなさい! それ以上は待ちませんわっ!」 十秒、という単位が聞こえた瞬間から郭図の頭脳はフルに回転された。 秒読みが進む声がまず消えた。 次に目の前の袁紹ですら脳内から追い出すと、彼女が止まる手段だけを何度も想定する。 問題には原因がある。 これは万物に置ける真理だ。 その原因の根絶が最初の候補に挙がった。 すなわち、北郷一刀の暗殺だ。 しかし、これは距離的に10秒じゃ無理。 くそったれ、涼州の乱で死んでいれば良かった物を、さすれば自分はこんな窮地に立っていない。 そう毒付きながら次案を選択。 原因その二である袁紹。 これを殺す。 いやまて、おかしい。 自分の主を殺そうとする軍師が何処に居る。 ここに居たけど郭図は過去を顧みない主義の少女だった。 次案を選択する。 原因その三、袁紹と一刀の仲を引き裂いた宦官を殺す。 来た! これだ! 個人的に恨みはまったく無いが、歴史は常に誰かの犠牲から動きだす。 それは天意だ、よしっ! いける! 躊躇う事無く郭図は第三案を採用した。 「二ぃー! 一ぃー!」「袁紹様っ! 宦官でございます! 玉無し共ですっ! 奴等を滅せば郭図ちゃんが助かり、大功を立てた北郷一刀も洛陽に戻って来れて、思う存分、袁紹様は精液塗れにっ!」「なるほどっ! さすが私の軍師ですっ! 実に見事で華麗な案ですわね!」「よし殺しましょう! すぐ殺しましょう! 今殺しましょう! 即断速攻は兵家の常! 機を見るに敏、突撃です袁紹様っ!」「おーっほっほっほっほっほ! 流石は郭図さんっ! すぐに殲滅しに行きますわよっ!」 まさに怒涛の如く。 武器を装着し、郭図に急かされながら外へと飛び出した袁紹は、しかし、すぐに止められる事になった。 つい先ほど、帝と相対していた何進によって。「おお、袁紹ぉっ!? お、おいっ! 抜き身の剣を振って何処へ行くのだ!?」「あら大将軍、奇遇ですわね!」「ちょっと急いでいるので早くどいて貰えますかっ!」「マテマテ! 宮中で帯剣するのはおろか、剣を振りかざす奴があるかっ! 急いでいるとは!? 一体、何をしに行くのだ!」「おーっほっほっほっほ、少しそこまで宦官を殺しに行こうかと。 あ、大将軍もご一緒します?」「おおっ、名案です! イケイケな大将軍も一緒なら玉無しなんてだいたい殺せますよっ」「こ……あ……!?」 あまりに斜め上の言動に、あんぐりと口を開けて何進は唖然とした。 外。 外である。 誰が聞いているかも分からないまっ昼間の宮内で、そうだ、一緒に宦官ぶっ殺しに行かね? と誘われたのである。 確実にこの瞬間、何進の時は止まった。 獣のように口を開け広げて固まった何進に、袁紹と郭図は首を傾げたが、本来の目的を思い出して「では失礼致しますわ! 行きますわよ郭図さんっ!」「はいーっ! この郭図、己と袁紹様の為に火の中水の中、血飛沫の中っどこまでもぉ!」 走り去ろうとした瞬間、グイッと引っ張られてそのまま倒れ伏した。 当然、何進がなりふり構わず倒したのである。 むしろ何進からすれば優しい応対であった。 自身の腹の内を宮中の外で思いっきり暴露されて、暴挙に出ようと剣を振る女を。斬ることなく押し倒すに留めたのだ。 もちろん、斬ってしまえば袁家が黙っておらず、己の身も絶望的になるのだが。「いかん! いかんぞ! 袁紹、お前は何を考えている! いや、何も考えていないのか!?」「ちょっ、大将軍! いきなり何をするのですかっ!? この袁本初を押し倒すなどっ!」「いやぁー! 髭がじょりじょり当たりますーっ! そういう趣味は郭図ちゃんには無いですーっ!」「えぇい黙らんかっ! それを聞きたいのは私の方だ! 何故私がお前等を押し倒さねばならん、いやっ、そうじゃなくてこっちに来い!」「ちょっと大将軍っ! 私には子を授かるという義務がっ! 離しなさいなっ!」「浚われる!? 追放された大罪人の前に、大将軍がペロリと味見ですかっ!? 袁紹様はともかく郭図ちゃんまで精液塗れにっ!」「そんなことせんわぁぁぁぁっっっっ!!」 戦場で怒鳴るからのように発せられた何進の大声で、洛陽が揺れた。 袁紹も郭図も、鼓膜を大きく揺さぶられて、ぎゃあぎゃあと騒いでた口がぴたりと止まった。 まさに一喝という言葉が相応しいだろう。 そうして引き摺られていく袁紹と、引き摺っていく何進を、離宮から離れた荀攸は遠目から目撃した。 袁紹と何進。 つい今しがたまで話し合っていた二人の接触を目撃したのだ。 その、ちょっと様子が変ではあったが、確かに二人は通じ合っている。 それも、なかなかに仲が良さそうであった。 もしかしたら、袁紹と何進の結託はありえるかも知れない。 真剣な顔で思案しながら、荀攸は宮中を離れて洛陽の街中に消えていった。 この一連の話は、不思議と他に漏れることが無かった。 何故だか、真昼間の宮中であるにも関わらず、荀攸以外に目撃者が居なかったからである。 何進と袁紹にとっては、心中ではともかく、運の良い出来事であったと言えた。―――・ 「……」 陳留の一室。 猫耳帽子を揺らして、少女が一枚の書面と向き合っていた。 差出人は彼女の親族である荀攸だった。 つい先ほど、この陳留に届いた書状を前にして、荀彧は封を切るのを躊躇っていた。 その理由は、つい最近になって流れはじめた噂が原因だった。 荀家の子女が"天の御使い"の子種を授かったというものである。 これを荀彧が耳にしたのは昨日。 この醜悪で吐き気を催すような噂を、しかし、彼女は馬鹿なと一笑に付すことができなかった。 なぜなら知っているからだ。 彼女が"天の御使い"と一緒に行動していた事実を、随分前に送られてきた手紙を見て知っている。 新たに報せが来るたびに、荀彧は全身精液男に気をつけろと彼女へ何度も喚起していた。 まさかと思いながらも震える手で筆を取り、荀攸へと真実を問う手紙を送ったばかりである。 入れ違いのように舞い込んできた、そんな荀攸の手紙に目を落す。 まさか、とは思う。 しかし、もしも。 もしもだ! 在り得ないことだが、万が一、強引に組み伏せられ野獣の如き勢い腰を打ち付けられ、子種を注入された結果、天から子を授かる可能性はある! 失礼極まりないあの男の事だ。 気が狂って色欲に溺れて襲いかかることなど十二分にありえる。 それはすなわち、恐ろしい未来が見えてしまう。 荀攸は親族であるという事実を差し引いても、自分と容姿が似ているのだ。 つまり、それは、もしかしなくても、"アレ"が自分を見て腐った劣情を抱く可能性を秘めているのであるっ! 「っ……」 脳からの信号が全身にいきわたり、ぶるりと震えて荀彧は喉を鳴らした。 しかし。 しかしである。 読まない訳にはいかない。 最新の手紙では、"天の御使い"と別れて洛陽に向かい、身の振り方を考えるという話であった。 敬愛する主、曹操の下に参ずるとは書いていなかったが、無礼千万不倶戴天、女の敵である男から離れた事に荀彧は喜んだものだ。 思わず、市井に飛び出して一等高い酒を買って来て、一人で呑んでしまったほど。 心配事が一つ消えたと歓喜に咽び泣いた。 そして天が祝福したかのように素晴らしい我が敬愛する曹孟徳は、荀攸を得るようにと自分に命じていた。 まとめると、読まなくては彼女の胸の内が分からない。 どちらの意味でも。 「っ、読むわよ!」 言い聞かせるようにしてひとつ叫んで、彼女は意を決すると封を切った。 文面を速読で追う荀彧の手が震えた。 僅か十数秒。 荀攸から届いた紙が、くしゃりと曲がった。 大事なところだけを抜粋すれば、荀攸の手紙にはこう書かれていた。 曹操の下には行かない事にしたの、メンゴミ☆ それと最近ぽんぽんが痛いんだけど、良い薬はある? と。「……は……」 漏れでた息と共にでた声は掠れていた。 そして次の瞬間、荀彧の部屋に絶叫が響き渡った。「いやぁぁぁっぁぁああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!」「この悲鳴は!?」「桂花かっ! どうしたっ!」 その悲鳴は部屋を突き抜けて廊下にまで響き渡っていた。 聞きつけたのは春蘭と秋蘭であった。 警備の厳しい曹操がつめる府内に、賊が侵入しないとは言い切れない。 よほどの馬鹿が居れば、財貨を求めて侵入する可能性はあるだろう。 素晴らしい身体能力を発揮して桂花の部屋の前にたどり着くと、春蘭も秋蘭も一度顔を見合わせてお互いに頷く。 華麗な連携を見せて、春蘭が扉を蹴破ると、その隙を防ぐように秋蘭が弓を構えて室内の安全を確かめる。 勢いよく入り込んだ春蘭は、背を震わせて蹲る桂花に近寄った。「どうした! 何があったのだ!」「うううっ、いやっ……やだぁ……」「おい! しっかりしろっ! 秋蘭、華琳様をっ!」「しかしっ……いや、分かった」 明らかに異常な震えを見せ、泣きじゃくる桂花に春蘭は華琳へと伝えるよう簡潔に指示を出した。 秋蘭は、事情を確かめるまで手を煩わせるべきではないと考えたが、かつて無い程取り乱す曹軍の知者を見て考えを改めた。 一度決めれば後は早い。 春蘭が秋蘭を見送り、室内の様子を鋭く探る。 異常は見当たらなかった。「どうしたんだ、一体! 何をそんなに取り乱している!」「しゅんらぁぁん……うっ、うぇぇぇぇぇ」「お、おい馬鹿っ、泣くなっ! 私が泣かしているみたいではないかっ!」「うっ、えっぐ……びえぇぇぇ」 恥も体面も無く、醜態をさらして泣き止まない桂花に、流石の春蘭も困ったように表情を和らげた。 幼子をあやすように、背に手を回して優しく語り掛ける。 もはや涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔へ、手ぬぐいを取り出して拭いてあげたりしていた。 正直に言えば、春蘭は目の前の少女の弱々しい姿を扱いかねていた。 だってそうだ。 口を開けば罵詈雑言、猪並みの知能だと馬鹿にされ、華琳に対してだけは媚び諂い、あげく華琳はそんな桂花を気に入っている。 前は週に何度も閨に呼ばれていたのに、最近は随分とその回数も減った。 代わりを務めて居るのは目の前の口悪な女で、それを自慢さえしている恋の仇のような存在だった。 それがどうだ。 子供のように泣きじゃくって、春蘭の胸の中でときおり痛くも無い拳を振り下ろし、駄々を捏ねるように顔を振っているのだ。 そもそも、泣く生物だと思っていなかった。 こんなものは、春蘭にとって未知の体験であった。 春蘭がそろそろ慰める言葉のバリエーションが尽きてきた頃、秋蘭は戻ってきた。「姉者、すまない。 華琳様が見当たらなかった」「秋蘭! 待ちかねていたぞ! もうどうすれば良いのかわからんのだ! えぇい、もう良いから泣くな! 何があったか話したくないのなら聞かぬ。 少しは落ち着け!」「春蘭……っ、ひ、っ、ひっく……」「分かった! 分かったから、な? えーっと……その、ほら、な? 私はお前のアレがその、判ってる、な?」 言葉は意味を成さなかったが、引きつった―――それでもあやす様に暖かな―――笑みを浮かべて、優しく肩を叩く。 すると、ようやく落ち着いてきたのか。 伏せていた顔を上げて、ギッと春蘭を睨み、桂花は口を開いた。「うっさいっ! 脳に猪が住んでる様な人間に私の何が分かるっていうのよっ! 馬に蹴られて死んじゃえ、馬鹿ぁぁぁーーーーー!」 確かに、落ち着きを取り戻していたが、言動まで何時もどおりに戻っていた。 泣きながら罵詈雑言を残し、秋蘭の横を駆け抜けて走り去った桂花を、しばし呆然と見送って。「あ、姉者……」 春蘭の浮かべていた柔らかな笑顔がぐるりと回転した。「な、ん、だとぉぉぉぉぉうっ! 桂花の奴ぅぅぅぅっ、許さぁぁんっ!」「般若っ!?」 一瞬にして変化した顔に、普段から冷静な秋蘭の顔もまた変化した。 部屋に突入した際に床に落としていた七星飢狼を、爪先を弾いて中空に上げ、器用に引っつかむ。 春蘭は流れるような動きで桂花の後を、猛然と追い始めた。 秋蘭はその様子を呆然と見送っていたが、はっとしたように気が付いて焦ったように声をあげる。「い、いかん! 桂花が死ぬぞ! 誰か姉者を止めろぉ!」 その声に最初に気が付いたのは凪であった。 真桜と沙和と談笑している所、桂花が目尻を拭いながら横を駆け抜けて、春蘭が鬼の形相で後を追っている所に出くわしたのである。 何がなんだか分からないものの、命令とあっては聞かずにいられないのが凪という少女であった。「ぬがあああああっっっ!」「春蘭様! お待ちを! 一体何がへぶぅっ!?」「凪ちゃんー!?」「おおおっ! 閃いたでっ! 次はからくり夏候惇やっ! これは来た、これは来たでっ!」「……い、痛い……」 人に当たったはずなのに、全く速度を緩めずに突き進む春蘭。 弾き飛ばされた凪は、沙和をして泣き言を久しぶりに聞いたと言わしめるほどの反応を見せていた。 鼻の頭を抑えてぷるぷると震えて呻いているところを見ると、顔面から地面に落ちたようである。 何処かに旅立った真桜と、轢かれた凪、混乱している沙和を一瞥し、秋蘭は急いで二人を追った。 一応、無事であるようなので問題は無いと判断したのだ。 涙を流して感情を露にする桂花と、怒気を露に追いかける春蘭の追いかけっこは彼女の登場で終息を迎えた。「これは一体何の騒ぎっ!?」「華琳さまぁぁぁあっ!」「ちょ、きゃあっ!?」「華琳様っ!?」 桂花がそのまま胸に飛び込んで来たのが予想外だったのか、華琳は受け止めつつも、体勢を崩した。 その様子に、春蘭の動きも止まる。 びしり、と米神に血管を浮かばせた華琳は、倒れたまま震える声で尋ねた。 その視線は胸の中で泣きじゃくる桂花でも、主の前で武器を構えたまま動かない春蘭でもなく、茫洋と肩を弾ませて立ち尽くす秋蘭に向かっていた。「で。 どういうことなのかしら……?」「はっ……はい、それが皆目見当も付かず……」「華琳様っ、見てくださいっ! これですっ!」「っ、何これ? 手紙……みたいね」 桂花に差し出された手紙を条件反射で受け取って、華琳は眉を顰めた。 と、いうのもすっごい濡れているからだ。 おそらく桂花の涙で濡れそぼったのだろうが、ふやふやで文字も滲んでいる。 華琳は鬱陶しそうに桂花を離すと、なんとか文面を読み進めていった。 そこでようやく、春蘭は武器を持っていたのに気が付いてしまい始めた。「ふむ……ほう、なるほどね」「噂では奴が私の姪にぃっ! もう終わりです! 呪われましたっ!」「分かったわ、桂花。 こっちに来なさい」 言われるがまま近づいて、華琳に何事かを囁かれると、そのまま糸が切れたかのように膝を突いた。 春蘭も秋蘭も、一体何がとばかりに顔を見合わせる。 そして華琳は、腸が煮えくり返りそうであった。 心なしか頭痛もする。 この手紙に書かれていたのは、プライベートな事を除けば二つの事実。 華琳にとってその二つのみが重要で、桂花が泣きじゃくっているもう一つの話はどうでも良かったのだ。 それは、桂花の姪である珠玉の才媛を逃した事。 関連して、北郷一刀が関わっていることであった。 思い返すに、これで自分が横から奪われた人材は三人だ。 陳宮! 関羽! そして荀攸! 誰もが才に溢れて未来の勇躍を華琳に予想させた。 もはやここまで来ると笑えてくる位であった。 曹操という人間は奪う側だった筈なのだが、北郷一刀に関わった途端、愛すべき人材は潮が引くように離れていく。 確かに、桂花の言うように呪いなのではないかと、信じたくなるほどに。 華琳は一つ、落ち着かせるように盛大に息を吐くと、口を開いた。 八つ当たりをするために。「桂花! 今日は寝かせないわよ!」「は、はぁい……華琳さまぁ」「今からよ! 覚悟することね! 来なさい!」 振り返って返事をした桂花の声が、やたらと甘かった。 だらしくなく笑い、恍惚な泣き顔で微笑んでいた。 引き摺られるようにして、襟首を持たれて寝室に消えていく華琳と一転、笑みを浮かべる桂花を見送る。 秋蘭は、結局最後まで何が何だか判らなかったが、主が言わなかったのなら、それは言う必要がないから伏せたのだと察して無理やり納得した。 とりあえず、原因は不明であったが騒動はこれで収まるな、と。 此処に居ても仕方が無い、と姉に話しかけようとしてその口が噤まれた。 春蘭の長い黒髪が、溢れんばかりの闘気によって中空に浮かびあがっていた。「あぁぁぁいぃぃぃつぅぅぅぅ! 華琳様に取り入りやがってぇぇぇぇぇーーーーー! なんと卑怯なぁぁぁぁ! むぉぉぉぉぉぅっ!」「あ、姉者っ―――」 怒髪天を突く。 その言葉の意味を、秋蘭は初めて知った。 まさに、今の姉者の事を差すのだと。 身を持って至言を証明するとは、凡人には不可能な事である。 もはや暫くは収まりそうも無い姉の怒りを見て、秋蘭は笑みを浮かべて言った。「姉者……それ、格好良いぞ……!」 曹魏、最後の砦が破られて騒動の幕は閉じた。 少なくとも、今日に限ってはどうしようもなかったと、後に秋蘭は語ったそうだ。―――・ 「あの、愛紗さん」「なんだ」「お目通りを願いたいのですが」「駄目だ」「何故です?」「今の桃香様に会わせるわけには行かない」「……はい?」 劉家軍は、曹騰から幽州の豪商を紹介されると、その伝手から義勇軍を発足。 公孫瓚の下に寄り添って、賊の討伐に精を出していた。 桃香にとって、数少ない信頼できる諸侯の一人が公孫瓚であり、彼女が幽州に拠点を置いていたのは幸いであった。 戦功を立てて身を起こそうとする彼女達にとって、誤魔化すことをしない白蓮の一本通る性格は"利用"できたのだ。 朱里からその話を聞いた時、桃香はふにゃりと泣きそうな顔を浮かべたものの、その案を採用。 こうして賊を討ち、名を上げるために戦へ出ずっぱりであった。 そんな彼女達が西涼の大乱を、"天の御使い"が鎮めることに成功したとの噂が届くと、大いに盛り上がった。 桃香や朱里、雛里達はもちろんのこと、白蓮や星までもが一緒になって、そのまま宴に突入したほどである。 愛紗もまた、主の笑顔に喜ばしく思う反面、心の奥底で羨望が渦巻いていた。 北郷一刀は、英雄として大陸に名を轟かせた。 一人の武人として、その英名は正直に言って羨ましかった。 そんな内心を、わりとあっさり星に見破られて、酒の席でさんざんからかわれてしまったのも、今では笑い話であろう。 そして、宴が終わっても桃香は非常に機嫌が宜しかった。 まるで自分の功績のように、伝え聞く噂に小躍りしながら皆に話をする様子は、微笑ましいものであった。 だが。「あの、噂ですか……」 目の前の朱里は沈んだ表情で呟いた。 愛紗は桃香の天幕の前で、来訪する人々を全員おっ返している最中である。 今の桃香は、朱里や雛里のような気の弱い者が見たら卒倒する可能性があった。 そのくらいの、凄味があるのを身を持って体験したのだ。 そう、愛紗の胆を持ってして、押されたのである。「やはり……最初から話していれば」「言うな朱里。 我々で決めた事ではないか」「ですが、やっぱり判断を誤りました」「それは……そうかもしれんが」 二人して溜息を吐き出して省みる。 そう、噂が流れていた。 "天の御使い"が、名家の子女を孕ませたという物だ。 根も葉も無い噂だったが、事実は確認できない。 その情報を最初に手に入れた朱里は、動揺しパニックに陥って愛紗へとしどろもどろに説明したのである。 その時、劉家軍は賊の征伐を前にしていた。 要するに、臨戦態勢だったのだ。 目の前の少女の動揺ぶりに、恋慕を抱く我等が総大将の士気に関わると感じた愛紗は、朱里を説得し、その話を隠す事にした。 だが、賊を倒し終えると、桃香に噂を隠していたのがバレた。 そして、愛紗の予想の通り動揺―――することなく、一つ、声を出しただけだった。「ふぅん……」 これだけである。 表情は普段と変わらず、ニコニコと人好きのする愛らしい笑みを浮かべているのだが、違った。 威圧感が。 噂を知っていたのか尋ねられ、愛紗は理由と共に頷くと、やはり一言だけ言った。「私ってそんなに弱く見えるかな?」 惚けたように笑いを交えながらそう語ったものだ。 その時、愛紗は一歩、自然に足が下がった。 関羽とも在ろう物が、その鬼気に引いたのである。 愛紗は誓った。 絶対に、桃香を怒らせないようにしようと。 いずれ、この静かで恐ろしい怒りが、将来になって身を滅ぼす事になるかもしれないと感じたのだ。 それは五感ではない、まさしく、第六感と言えるものだっただろう。「そういうわけで、少なくとも今は駄目だ」「分かりました……では、出直しっ!?」「なに、話してるのかな?」「と、桃香様っ!?」「また私に隠れて内緒話してるんだ?」「いえ、違います! 決してその様な……っ朱里!」「は、ひゃいっ! あの、ご報告したお目どおり桃香しゃまにお願いがっ!」 この静かな重圧は、劉家軍に3日間舞い降りていたという。 西方からの華の芽吹きは、波紋となって大陸に広がっていた。 ■ ありがとう その日の郿城の動きは慌しかった。 朝の一番で、董卓が郿城へと入り、詠は郿城の中を駆けずり回る事になった。 その詠の悩みの種だった馬超軍は、太陽が空の真上に上がった頃、武威に出立。 翠と董卓の面会を終えて、謝罪を受け取り、食事を済ませて、ようやく一息をついたと言ったところであった。 そして、そろそろ夕刻を迎えようかという時に、一刀は郿城の一室でそわそわとしていた。「ついに来たか」 翠と共に武威に戻るかも検討していたが、董卓の到着を知ると郿城に残る事を決めていた。 彼女本人から、一刀に会って話がしたいとの旨を、詠から聞かされたからである。 だが、それは一刀にとっては体の良い建前に過ぎなかった。 董卓の申し出は、ある意味で一刀にとっては渡りの船である提案だったのだ。 せっかく董卓の為に作ったメイド服。 これを見ずして郿城を離れることは、無念としか言い様がない。 両手を組んで座り、どこぞの最高司令官のように口元を押さえ、ゆらりと上下に揺れて座る一刀。 落ち着かない様子ながらも、彼の視線は扉に向かっていた。 待つことしばし、文官が扉を開けて中に入ると、恭しく礼してから口を開いた。 「御使い様、董卓様がお呼びで御座います」「分かった、すぐに行く」 静々と退室した男を見送って、一刀はさっと上着を羽織ると足早に文官を追った。 ところが、彼の予想を覆し、文官の案内した場所は、何時かに涙を流した中庭への道であった。 そろそろ春も終えて、初夏を迎えようかという季節。 中庭に生え揃う草木は丁寧に刈られて、木々には緑葉と蕾が夕暮れに照らされて赤く染まっていた。 その中央に、見慣れぬ傘の付いた席が設けられていた。「あそこにございます」「ああ、どうも……」 頭を下げようとする文官を手で制し、一刀はゆっくりと中央に歩く。 出迎えたのは、正装をではなく、自身が手がけたメイド服を着て一刀へと笑む董卓であった。「あぁ……」 茜色に染まり、設けられた宴席の中央で佇む少女に"董の"の息が漏れる。 一刀は暫し見惚れるように呆然と立ち尽くし、ゆっくりと歩き出して董卓の前に立った。 彼女の目の前で、視線を絡める。 董卓もまた、たっぷりと数十秒をかけて一刀を見返し、やがて両手を合わせて頭を下げた。「御使い様、ようこそ。 宴席の用意を致しました。 付き合ってもらえますか?」「……もちろん。 董卓様も」 返礼を返し、一刀は礼儀に乗っ取って董卓へと席を勧めるように両手を広げた。 彼女また、同じようにして両手を広げる。 二人して並び、席へと向かう足を止めて、董卓はヘッドドレスにかかる髪を揺らして口を開いた。「月です。 私の真名を受け取って貰えますか」「良いのかい?」「この郿城を守り、私の大切な人も救って下さった。 是非、受け取って欲しいのです」 一刀は小さく何度か頷いて、月への視線を外さずに真名を受け取った。 同時、自分の名も預けると宴席の前で視線を離すことなく、二人の距離が近づく。「月」「はい……」 受け取ったばかりの真名を呼び、そっと肩に触れた。 時に俯き、時に上目の視線を送られて、一刀の相好はまるで泣きそうなほどに崩れていく。 眼は細まり、唇は震え、何度も口が開いては閉じ、鼻の穴が広がった。 月もまた、彼の胸に片手を置いて、そんな一刀に閏う視線を送っている。「ゴホっ、ッンン"ッ!」 そのまま放っておいたら、抱擁してしまうのではないか。 そんな空気を引き裂く咳払いが、中庭の何処かから響いてきた。 我に返ったかのように、一刀は周囲を見回すと、隣からクスクスと口元を押さえて笑う月が居た。 一刀も得心する。 何処かで詠が、監視をしているのだろう。 そう思うと何だかバレバレなのに見張っている軍師の姿が脳裏に過ぎって、おかしくなる。 互いに顔を見合わせて肩を震わせると、先に回復した月が促すように口を開いた。「一刀様、どうぞお席に」「ああ、座らせてもらうよ……それにしても、見慣れた景色なのにまるで風情が違う。 君が居るからかな」「一刀様はお召し物に感激されたのでしょう。 詠ちゃんから聞いてます」「そんな、この庭は素晴らしい景色だけど、月はそれに勝っている。 その服、似合っているよ」「ふふ、詠ちゃんに頼んだ甲斐がありました」「ゲフンッ! ゲフンッ!」『傍から見て、こんな恥ずかしい事言ってたっけ、俺?』『"董の"だけだろ』『いや、俺もかなり浮ついてたことを口走ってるよ、自覚あるもん』『あー……"仲の"や"袁の"は仕方ないだろ、アレだし』『お前ら、現実を見ろ。 これが"俺"だ』 "董の"と月が作り出す空間に、遂に詠だけでなく一刀達も口々に言葉を発した。 この郿城の庭に月の姿を認めて、流れるように主導権を奪っていった"董の"が顔を出してから 事態を黙って見送っていたのだが、遂にと言うべきか。 図らずも脳内会議でお互いの邪魔をしないという約定を破ってしまったが 聞こえているはずの一刀達の声を"董の"は見事にスルーしていた。 いや、月しか見えていないのかも知れない。「本当は長安にお呼びしたかったのですが。 季節を外れながら大きな桜が、見事に咲き誇って綺麗です」「月、君が酌をすることは……」 会話をしながら席についた一刀の卓に、月自身が酒を注ごうとするのを慌てて止める。 確かに、一刀はかつて天代という役職につき、権力を手に入れていたが、今はただの浪人である。 その制止の手に、月は自身の手を重ね、絡ませた。 驚きつつも、一刀は離さずに月へと視線を向けると、微笑を称えていた彼女の口がゆっくりと開いた。 「一刀様は、ご主人様でした」「……月、君は……」「在るんです。 ご主人様にこうして酒を注ぐことも、一刀様に背を支えてもらった事も」「……」「手を握られた時に、それが分かりました」 コポコポと杯に音を立てて満たされていく酒を見ながら、一刀は何も言えなかった。 北郷一刀、という存在と共に過ごした記憶がある。 蘇ったと言っても良いだろう。 翠と同じように、本体以外が持っている共有した外史の記憶が。 満たされた杯に手を触れて、一刀の方へ器の口を向ける。 それを受け取って、一刀は無言のままグイッと煽り、耳朶に優しい声が同時に響いてくる。「とても不可思議でした。 私にはそんな経験、一度も覚えがなかったのですから」「っ……はぁ、美味しいな……」「長安の良酒を持ち込みました。 喜んで貰えて何よりです」「月」「はい?」「正直言うと、分からないんだ。 どうして"俺"が君と過ごしてきた事が伝わるのか、"北郷一刀"にも分かっていないんだ。 今まで似たような事は何度も在った。 それこそ俺が洛陽に居た頃から、何度も」 疑問を覚えたのは波才と向き合って、泥だらけの戦場で見せた麗羽から。 はっきりと確信を抱き始めたのは桃香と触れ合ってからであった。 目の前の月のように、一刀へと言及したのは、つい最近に翠と"馬の"が激情を交わした時以来だ。 ぽつり、ぽつりと振り返るように言葉にして、風に揺られてざわめく葉の音と共に、月の耳朶を震わせていた。 赤が黒に塗り替えられようと、星のきらめきが主張を露に天を覆い始めた時。 月は一刀の言葉に耳を傾けながら、そっと立ちあがって歩く。 その様子に、一刀は話を止めた。「一刀様」「月……?」「私と、一刀様と、ずっと燻る胸の奥で、想いというのが共生していることだけは確かです。 それはまるで、夢のようにあやふやで、そして確かに在る」「ああ。 夢想のようだ」「でも、私はこの記憶にある思い出はいりません。 確かに尊い物でした。 経験していないはずの事が自分の中に在り、それは甘く美しくて、どんな美酒よりも酔えそうなほど。 本当の事かもしれない。 未来への予見か、それとも別の何かか。 一刀様が分からないように、私にも答えが出ないものでした。 分かった事は……一つだけ」「……」 月はそこで言葉を切って、くるりとその場で回った。 きめの細かい髪が空を泳ぎ、一刀が作らせたメイド服がひらりと流れ、夕闇に染まる郿城の中庭で華美な蝶が舞う。 揺らめき舞った月の顔に、笑顔が咲き、一刀は時の流れがゆっくりになったような錯覚を覚えて見惚れていた。 両手は慎ましく重ねられ、真っ直ぐに一刀を見据えると、色合いのよい唇が開かれていく。「貴方との関係を、私はここから育みたいという強い思いだけです。 一刀様」「……月」「月ぇぇ~~」 告白とも言えそうな、いや、まこと告白した少女の背後から情けない声を挙げて、泣きそうな顔を覗きこませた詠が居た。 柱の影に隠れ、ひょっこりと覗かせる頭の上には、月と対をなすようなヘッドドレスが。 「詠ちゃん。 おいで」「うぅぅっ……月ぇ、本気なのぉ?」「うん。 ちゃんと言わないと」「うーっ……こんな羞恥をボクが受けるなんてっ……女官じゃないのよ……っ」 月が苦笑しながら詠の下に歩き、引っ張り出すように手を引く。 一刀も落ち着けていた腰を浮かし、立ち上がると、誰かに引かれてもいないのに月と詠の下に歩き出した。 ようやく観念したのか、ブツブツと誰にも聞き取れないような小声で頬を染めた詠が、その姿を曝け出した。 落ち着かない様子で胸元のリボンを弄くり、そっぽを向いてメイド服に包まれた少女の姿が視界に入る。 一刀もやにわ相好を崩して、思うよりも先に声が突いて出た。「かわいいよ、詠」「っさい! 月が着るっていうからボクはしょうがなくねぇっ!」「詠ちゃん、駄目だよ。 これからお礼をする相手に怒鳴るなんて」「月ぇ、ボクはもうちゃんとお礼はし―――」「詠ちゃん?」 にっこりと笑む月を見て、詠はたじろいだように身を引いた。 そんなやり取りの何処が面白かったのか。 一刀は隠しもせずに思いきり声をあげて吹き出していた。 そんな態度が癪に障ったのか、詠が詰め寄ろうと口を開いて、それを月に止められる。 "董の"はもちろんのこと、一刀達が何度も見て来たその様子は、実にほっこりさせる流れであった。 二人並び、一刀を前にしてようやく詠を落ち着かせた月が、彼に視線を送る。 続けて、恨めしそうな、そうでもないような微妙な表情を浮かべた詠も、月に習った。 「一刀様、詠ちゃんを、みんなを助けてくれて、ありがとうございます」「董家を代表して礼を言うわ。 えっと……改めて、その、ありがとう」「……ありがとう」 一刀は二人の少女から礼を受け取って、噛み締めるように返礼すると、表情がスッと消えていった。 ありがとう。 "董の"は月と詠の言葉が、胸に染み渡ると分かってしまった。 口を突いて出た感謝の気持ち。 それは目の前に居る二人の少女にではなく、自分自身へと向けたものだった。 ありがとう。 経緯は分からずとも、彼女を救う機を得ることが出来たことに。 本体に、脳裏に住む自分達に。 万感の思いが沸き起こり、自然と滑り出た口走っていた。 ありがとう。 その言葉を聞いた時に、一つだけ理解した。 経緯は分からない、しかし。 本体に自分達が此処に宿った意味だけは判ったのだ。 一刀は消えていた表情を取り戻し、その顔には戸惑いが宿っていた。「……あ、あれ?」「一刀様?」「なによ、急に呆けた顔をして」 何時の間にか、主導権が本体に戻っていた。 不審な顔を向ける月と、詠に戸惑いを含んだまま曖昧に笑顔を浮かべて何でもないと首を振る。 この夜の宴は人払いを澄まし、三人だけで静かに進んでいった。 時折、少女の笑う声と唸る声を交えて。 この日から三日後。 一刀は金獅に乗り込むと郿城を出て武威へと向かった。 ■ 咲き乱れるよ 武威に戻って数日、一刀は懐かしい顔ぶれと会うことになった。 名を捨て、黄巾を巻き、賊として暴れまわっていた男の一人。 今では一刀の数少ない、信頼を寄せるアニキと共に跋扈していた。 チビと呼ばれており、洛陽での決戦後、一刀が働いていた運搬の職を紹介した者だった。「お久しぶりっすね。 噂はかねがね!」「ああ、こんなところで会うとは思わなかったよ。 元気そうで良かった」「へっへっへ、御使い様のおかげで。 女に恵まれないのが唯一の不満ですが」「ははは。 こっちに来てくれ。 酒と食事を用意させるよ」「こりゃどうも、へへ」 人によって卑下たものだと揶揄されそうな、余り人受けの良いとは言えない笑みを浮かべてチビは迎えいれられた。 再会の話もそこそこに、食事を取る一刀の前に傅くと、チビは懐から一枚の書を取り出す。「荀攸ってお方から預かりやした」「待っていた。 ありがとう」「どうぞ」 竹で作られた箱から丁寧に折りたたまれている書を取り出して、一刀は食事も止めて中身を覗く。 文面を時に指で追いながら。 洛陽に戻った荀攸は、劉協と接触し、その卓見に心を動かされ信服することを誓った。 曹操と荀彧の誘いを蹴り、陳宮が水面下に進める宦官排除の謀略に手を貸すそうだ。 彼女達が推し進めている謀りの内約。 遠い都の噂や現状。 そして、一刀自身の身の振り方に言及した文面に至ると、一層顔を引き締めて読み耽る。 曰く、北郷一刀は洛陽で進む劉協達の謀りにおいて、失くなれば意味を無くす要人。 裏の謀りに気が付けば、源を絶ち禍根を除く動きが必ずある。 すなわち、勅による兵が差し向けられる可能性が高い。 武威は馬家の庇護の下、一刀は手厚く迎え入れられるが漢の臣であり、安住とはならない。 保身を第一に考し、これに処するを進言。 武威を離れ益州へと逃れるが最上。 次善は冀州。 逗留することなく流れ、機を待つべし。「……」 読み終えても、一刀はその文面から視線を外さなかった。 一言一句、逃さぬように何度も暗唱し、手持ち無沙汰になったチビを前にして一刻以上もかけて暗記した。 ようやく、書を箱の中に戻すと、一刀は立ち上がった。「チビさん、どうもありがとう。 これからどうするんだい?」「いえ、これからは一度郷里に戻ろうかと思ってやす。 眼を付けられてる可能性があるってんで……へへへ、死にたくないっすから」「そうした方が良い。 ついでに、この書も一緒に持って行って、道中燃やしてくれ」 チビは差し出された箱を受け取って、数度小さく頷く。 一泊を終えてチビが武威を立ち去ると、一刀は馬房に預けていた金獅を撫で、その背に跨って土埃にくしゃみを一つ放ちながら城へと向かった。 宮内に辿り着くと、近くの官に翠を呼ぶように頼み、一刀もまた馬から下りて中に入る。 わき目も振らずに向かったのは、華佗の下だった。 華佗は、戦中戦後も馬騰に付きっ切りで介抱を続けていた。 医者としてずっと難病に立ち向かっていた。 一刀は何も言わなかったが、華佗から愚痴られるように聞かされた馬騰の病状は、不治かもしれないと思っていた。 体内の気を乱し、悪さをする病巣が治っても、別の場所にまた巣くう。 まるで癌である。 華佗に宛がわれている部屋を訪れて、一刀は何度か扉を叩いて来訪を報せたが、出てこなかった。「……華佗、入るよ」 扉が軋みを挙げてゆっくりと一刀に押し出されて開かれた。 そこには椅子に座り、眼を瞑っている華佗の姿が在った。 髪は伸び、背で一つに纏められている。 最後に見た時は髭も剃られ整えられていたが、今は伸びっぱなしになって首下を隠すように生えていた。 「……華佗」「一刀か」 静かに問いかけたが、どうやら眠っていた訳ではないようだ。 一刀はそんな華佗の近くに腰掛けて、未だに眼を瞑り深く息を吐き出す彼を見やった。「悪いのか?」「……ああ。 だが希望が無いわけじゃない。 治る見込みはある」「そうか」 眼を閉じたまま呟く言葉には、力があった。 一刀は俯くようにして華佗を見て、膝に肘かけ彼の声を聞いていた。「少なくとも、俺の気は馬騰殿に巣くう病巣を殺せる。 何度か意識も取り戻した。 もしかしたら、眼に見える病巣を生み出す根源が、身体に巣くっているのかもしれない。 今はそこに着目して、身体を中から変えることが出来ないかを試みている。 漢方と食、後は人体の陰陽と気を探っている。 現状を維持することには成功しているんだ。 きっと、快方に向かう手立てがある」 一刀はそんな華佗の言葉を沈痛な面持ちで聞いていたが、ふと気付く。 いや、気付いてしまった。 華佗の口元の髭の当たりに、妙な異物が張り付いていた。 妙に長く伸びて、くすんだ色合いのそれは、何処からどう見ても鼻糞だった。 眼を瞑り淡々と語る華佗は、その一刀の珍妙な視線に気付く事も無く。「……」「実はな、恥を忍んで書簡を漢中に送ったんだ。 一刀に話したけど、漢中は俺の郷里でな。 症例が無いかを調べてもらうんだ。 破門された身であっても、ゴットヴェイドーは病人に平等だ。 手がかりは得られるかもしれない」「そ、そうか」「後、噂もある。 万病に効くという神胆。 龍の肝というのを知って居るか?」「……いや」「筋肉隆々なオトメと名乗る者が、その場所に心当たりがあるというのだ。 馬騰殿の状態がある程度安定したら、それを手に入れる方法も考えている。 俺は絶対に諦めない、必ず馬騰殿の病は治すと誓った」 一刀は華佗の宣言に、力強く頷いたが視線は鼻の下に向かっていた。 華佗は大真面目に話している。 それは一刀だって分かるし、茶化すつもりなど全く無い。 しかし、しかしだ。 華佗とて一人の人間であり、男である。 このまま黙っていては、恥をかかせるのではないかと一刀は心配していた。 華佗、鼻くそが出てるぞ。 そう言いたい。 言いたいのだが、そんな事を口走る空気ではなかった。 華佗はようやくそこで、眼を開き、一刀へと向かい合った。 振り向いた時、その風に煽られて髭が揺れる。 鼻くそも揺れる。「それで、一刀。 何か話があるのか?」「あ、ああ……その、実は」『あれ?』『どうした?』『華佗、鼻くそがついてるぞ』『え?』『ホントだ、今気付いた』『本体、鼻くそについてるぞ』『教えてあげようよ』 どうやら気付いていたのは本体だけだったらしい。 真正面を向いたことにより、気が付いた脳内達がいっせいに『鼻くそ』と色めき立つ。 本体はなまじ先に気が付いていただけあって、その合唱に笑いのツボが刺激されていた。「か、華佗、実は俺、武威を」「一刀! お前……」「え?」 突如として一刀の話を遮って、華佗は眼を見開いた。 その勢いに口を噤んで、眉を顰める。 真剣な顔をして、華佗は言おうか言うまいか悩みながら、口を開いた。 「一刀、言いにくいんだが……その」「どうしたんだ、俺と華佗の仲じゃないか」「……よし、なら言うが、一刀」「ああ」「お前、鼻くそがついてるぞ」 華佗の声に、一刀は何を言われたのか一瞬理解が出来なかった。 台詞を頭の中で繰り返し、理解に至ると鼻の近くに指を寄せて、異物が当たる場所で止まる。 指を離し、土埃の混じった茶色い鼻くそがニョイーンと伸びる。 華佗がゆっくりと頷いた。 一刀は限界を迎えた。「ブハッ! アーーーーハッハッハッハッハッハッハッハハ!」「は、ははっ、ははは、一刀、そんな顔で恥ずかしくないのか」「あっはっはっはっはっは!」 もはや華佗の声にも手を振り、突き上げる笑いを抑える事もできず、腰を浮かして立ち上がる。 腹を抱え、指を差す。 一刀の笑いに釣られ、華佗もまた胸を上下に動かして笑みを浮かべた。「華佗っっはっはっは! おま、お前にも鼻くそがついてるんだよっ!」「はっはっは、ははっ、なんだって?」「だから、鼻…ひゃっひゃっひゃっはっはっは!」 華佗は一刀の指が示す場所に徐に手を伸ばし、先ほどの一刀と同じように自分の髭を触り その異物に気が付いた。 一刀の爆笑と既に刺激された笑いのツボを、華佗もまた貫かれる。「ブバッ! だァーーーッハッハッハッハッハッハッハ!」「やめろぉぉーーー! ハッハッハッハッハ、鼻水がっ!」「ヒャッハッハッハッハッハッハッハ! ひぃー! はぁー!」「華佗ぁぁぁっはっはっはっは、治してくれぇぇひっ」「はははははははっ、アーヒッヒッヒ、かっ、いって……一刀ぉぉおっほっほっひっひっひ!」 もう何を言っても笑いしか出てこない。 遂には一刀は床に転がって、腹を抱えたまま頬を引きつらせて笑った。 その際、椅子に躓いたかのように前のめりに倒れ、華佗はその一刀を見て更に笑いを刺激された。 仰け反って腹筋が引きつるように伸び、そのまま数歩後ろに下がって爆笑したまま部屋の壁に激突。 一瞬の痛みに笑顔も曇るが、それがまた自分でも可笑しく、一刀に至っては転がったまま爆笑し、卓上の足を無意味に掴んで揺らしていた。 丁度その頃、爆笑していた一刀の部屋に呼ばれた翠が顔を出したが、部屋の中から聞こえてくる二人の男の奇声に踵を返した。 仲が良くて良い事だ、と頷きながら何も見なかったことにしたのである。 恐怖したと言い換えても良い。 「はぁ……はぁ……華佗、……へ」「は……はっ、一刀ぉ」「いや、やべぇ、マジやべぇよ……死ぬほど笑った」「で、話しって何だったっけ、くふっ……」「おい、もう笑うなよ……っ」「っ……一刀こそ、もう笑うなよ……」 ニヤニヤとしたままお互いに声をかけあい、何度も漏れそうな笑みを必死に抑え ようやく落ち着いた二人は咳払いをかましつつ、倒れた椅子や卓を起こした。 荒ぶる息を深呼吸することで落ち着かせ、水を飲む。 そして、何事も無かったかのように冷静になって、一刀は口を開いた。 「それで、華佗。 俺、武威を出る事にしたんだ。 その別れを言いにきた」「そうか……」「華佗は、馬騰さんを診るんだろ?」「ああ。 ここで投げ出したら、俺はもう二度と立てない」「……」 一刀は頷き、華佗もまた頷いた。 互いに手を伸ばし、肩を掴んで抱擁する。 「元気で」「達者で」 お互いに数秒見つめあい、一刀は踵を返した。 その背を見つめる華佗は、ふと気付く。 扉に手をかけて開いたところで一刀を咄嗟に呼び止めた。 「一刀」「ああ、どうしたの?」「お前、何かあったか?」「え? いや……鼻くそはついてたけど」「鼻くそはもういいさ。 そうじゃなくて……身体に異変は? 悪いところは?」「いや? 特にないけど」 立ち上がって一刀に近づいた華佗が、手を握る。 脈を計るように空いた手で一刀の手首を握った。「なんだよ?」「一刀……初めて会った時と比べて"気"が減っているぞ」「気が?」 もう随分前。 華佗から複数の気が身体を漲っており、怪我の回復も早いという言葉を聞かされた。 その時、気の一つ一つが、脳内の自分達のことだったのではと知ったのである。 華佗の言葉を理解した一刀からさっと血の気が引いた。『……そういや、"馬の"は?』『眼が覚めてない』『待てよ』『"肉の"みたいに、休んでるんじゃないのか?』『そうだよ、きっと』『"董の"も起きてこないよね』『確かに』『……』 本体は脳内の声を聞きながら、思い出す。 翠の顔を見るたびに、愛しい気持ちを抱く自分。 月が相手でもそうであった。 この本体が抱く変調はまだ誰にも話していないが、もしかして関係しているのだろうか。 気は、無くなると人が死ぬという。 在りうるのでは、という思いが本体の心中を騒がせていた。 顔を俯かせて不安そうな表情を見せる一刀に、華佗は掴んでいた手を何度か叩き「いや……すまない、妙な事を言った。 一刀、何か変があればすぐに便りをくれ。 俺が診る」「……分かった、ありがとう。 じゃあ、俺はこれで」「ああ」 何かを深く考えている一刀はそのまま扉を開き、華佗の部屋から立ち去った。 残された華佗は、自分の手を一度たたく。 かつて一刀にも説明した通り、本来、身体の中を巡る"気"とは一人に一つだけなのだ。 それが、一刀には複数の気が巡って構成されている。 明らかに特異な身体構造。 華佗は、最初何か大きな病の前触れではと一刀を心配し、彼に付いて行く事にした。 だが、よくよく考えてみれば、一刀は普通の人間と変わらない生活をしている、 食べ、働き、遊び、寝る。 複数の気が一刀の身体に在るのではなく、一刀の身体が複数の気で在るのではないか? 「ははっ、馬鹿な……そんなことは」 在り得ないとは言えない。 人体の神秘の全てを、華佗は知っている訳じゃない。 もしも知っているなら、馬騰の病もたちどころに治せて然るべきだ。 気が減るということは、その人が弱ることを意味し、気を亡くすとは、死ぬ事を意味する。 一刀は数多に在る気の幾つかを確実に亡くしている。 そこまで考えて華佗は首を振った。 一刀は何でもないと言ったのだ、身体の変調が来るまでは、心配することも無い。 何より、そうした結論を随分前に華佗は出していた。 それこそが、武威に残って馬騰を診ることにした理由の一つでもある。 華佗はとりあえず考えをおいて、顔を洗うと、髭を剃るためにむき出しのナイフを取り出した。 ―――・ 一刀が武威の地を離れたのは、その3日後。 路銀として個人で持つには些か大金過ぎる金子を受け取り、金獅と共にたったの一騎で城を後にした。 その姿を見送った翠は、朝議を終えると馬騰の容態を覗く。 華佗に礼を取り、母を託すと今度は政務に向かうために文官を伴って廟を歩く。 一刀が武威に逗留する前と、変わらない生活であった。 政務が一段落し、昼食を取ろうと食堂に足を運んだ時であった。 ひょっこりと草葉の陰から小さなポニーテールが揺れていた。「蒲公英、何してるんだ?」「お姉さま、いいの?」「何がだ? 調練は終わったのか?」 跳ぶように、柵を乗り越えて廊に躍り出る。 飛び越した柵を背もたれにし、流すように翠を見やると蒲公英は不満気な表情で唇を尖らせた。 そんな妹に、翠は頭を掻く。「なんだよ」「一刀、行っちゃうよ」「……しょうがないだろ。 そうするのが一番だって一刀が言ったんだ」「そうだけどさ」「蒲公英、別れなら三日前に宴を開いて済ませた。 あたし達には母さんが治るまで、武威を守る責任がある」「それは分かってるってば。 でもさ、お姉さまは一刀が好きなんでしょ?」 翠はそこでぐっと言葉に詰まった。 今までも、その話は何度もからかいの種にされている。 だが、真摯に向き合う蒲公英の表情に、常のように怒鳴り散らす事もせず視線を外す。 ああ、認めよう。 この期に及んで、否定をすることも格好が悪い。 確かに、一刀は初めてと言って良いほど気になる異性だった。 一緒に居て楽しいし、話がしたくなる時も、ふいに会いたくなる時も多々ある。 それらは翠に取ってはじめての経験であり、きっと恋心と呼ばれる物でもあるのだろう。「けど、此処を離れる訳にはいかないんだ」「だからっ! 今日は別れの日なんだよ!」「また会える。 一刀は、頭も良いし武だってそこら辺の奴よりは使える。 生きていればまた―――」「むぅー! じゃあ、蒲公英だけでも見送りに行くっ! 蒲公英だって、一刀の事は好きなんだからっ」「あっ、おい!」 踵を返して駆け去っていく妹に、大声をあげて制止するものの、止まらずに視界から消えていった。 あいつっ、と憤る声を隠さず、翠は柵の上に拳を振り落とした。 確かに、蒲公英の言う通り別れを言いたい。 三日前のように、文武官吏を集めて開いたような宴を別れにせず、個人的に一刀の旅の無事を祈りたかった。 けれど、今の自分は馬家の大黒柱として母の変わりに立っているのだ。 決して出来が良いとは言えなくとも、政を疎かにして、私情を優先するわけには行かなかった。 蒲公英が帰ってきたら、厳罰だ。 八つ当たりの感情も多分に含んで踵を返した翠は、その背を兄弟に押されることとなる。「おい、何やってるんだ、鉄! 休!」「何って、竹簡を読んでるんだ姉者」「おい休。 これはなんて読む」「これか、市場の警備に関してだな!」 普段は決して見せる事の無い政務の場。 筆を取って竹簡とにらみ合いながら、己の兄弟が顔を突き合わせて唸っていた。「お前ら、それは私の仕事だぞ」「ああ、そうだ。 姉者。 今日は俺達は夢を見たのよ」「夢だってぇ?」「そうそう、漢の高祖劉邦に仕えたなんとかのような物が、姉の政務を手伝い考に尽くせってな」「漢の高祖劉邦に仕えたのは張良だ鉄兄」「そう、そいつだ」 翠は鬱陶しそうに、手で頭を掻く。 なんとまぁ、分かりやすいことだろうか。「で、下手な三文芝居を打って、お前らも一刀を追えって言うのか?」「そんな事は一言も言って無いぜ。 とにかく、今日は姉者は休むと良い」「そうだ、夢を見て考を尽くすと決めたのだ。 姉者もそうだが、これは母者に考を尽くす事にもなる、なぁ?」「その通りだ」「二人揃って同じ夢を見たってか? ……はぁ、分かったよ……分かった」 大きな溜息をひとつ。 なんだか、意地を張っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。 そんなに行かせたいのなら、行ってやろうじゃないかとも。 未だに説得しようと、下手な言い訳を重ねる愚弟を手で制し、翠は踵を返して馬房に走った。 もう半日を過ぎている。 今から追って、一刀の背に追いつけるかは分からない。 「馬超様、どちらに?」「馬を引いて来い。 少し出かける」「お一人でございますか?」「二人! でしょ?」「蒲公英、お前……」 馬を二騎引き連れて、舌を出した蒲公英が翠の横から現れる。 いやはや、なんとも。 恐らく鉄と休も、目の前の悪戯娘に協力して仕組んでいたに違いない。 帰ってきたら、文句を言わねば気が済まない。「蒲公英も一緒だ! 何かあったら弟達に言え!」「は、はい」「かしこまりました」 昼。 空の真上に陽が昇ると、武威の城から二騎の駿馬が荒野に飛び出した。 黄色の大地に一本の白線を描くように、土埃を舞い上げて。 ―――・「ああ……」 一刀が"そこ"に差し掛かると、思わず感嘆の声をあげてしまった。 荒涼の大地に根ざし、まるで蒼い絨毯を敷いている、その姿は正に自然に愛された地であるかのようだった。 朝露に濡れていたのか、陽の煌きを返して眩く光っていた。 金獅の足を止めて、その背から一望する。 ふいに強い一陣の風が吹き込んで、一刀の目の前で蒼い華が咲き乱れる。 荒涼の空に蒼い華が乱れ咲き、一刀の鼻腔を甘く擽った。 一刀はその光景にしばし見惚れて、やがて金獅から降りると地に咲く華を一つ毟り取った。「綺麗だ……」 初夏の荒野を彩る華。 それは不自然なほどに、この周辺にだけ生えていた。 「……華をつけているよ。 見事に、咲き誇っている」 弔いの時。 一刀はせめてと周辺に亜麻の種を撒いていた。 それが彼女への手向けとなると信じて。 ゆっくりと華の絨毯を踏みしめて、一刀は耿鄙が眠る墓を訪ねていた。 墓と言っても、あの場で用意できたのは石くらいな物である。 小さく、しかし確かに一刀が立てた墓はその存在を示していた。 目の前で座り、毟ったばかりの亜麻の華を捧げる。「……」 一刀が来なかったのは単純な忙しさもあったが、本当のところは罪悪感が在ったからだった。 韓遂を見逃し、仇を討てなかったこと。 そして未だに助ける方法が、あったかも知れないと悔やんでいたこと。 脳裏に耿鄙の顔が過ぎる。 「未熟かも知れないけど……耿鄙さんの志も俺の旅の共にさせてください」 黙祷し、語りかけるように言葉を投げかけて顔を上げると、一刀の耳朶に少女の声が降って来た。 金獅の下に戻って、その背に跨れば、稜線の向こうから騎馬に跨った二人の少女の姿が視界に移る。 両手を振って、馬上で跳ねるかのように声をあげているのは蒲公英だ。「一刀ぉーっ!」 薄く笑みを浮かべ、一刀は手をゆっくりと挙げた。「一刀っ!」 翠の声が蒼天に響き渡る。 「頑張れよっ! 応援してるからなっ!」 その凜とした声に、一刀は上げた手を握り、強く二度三度と中空で振った。 わざわざ時間を割いて見送りに来てくれたのだろう。 遠目で手を振る少女達の応援は、一刀の気持ちを明るくさせていた。 応援してくれているのだ。 二人の気持ちを無駄にするわけには行かない。「そうだよな、金獅」 愛馬は一つ嘶いた。 一刀も何かを吹っ切ったかのように微笑む。 芽吹き咲き乱れた華の中、一刀は金獅の手綱をゆっくりと手繰り寄せて馬首を返した。「……よし、行こう! 長旅になるけど頼むぞっ」 愛馬の首を叩いて、ゆっくりと駈足で去っていく一刀の背を、翠もまた笑顔で見送っていた。 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる蒲公英とは、比べるべくもない快活な笑みだった。「ねぇねぇ、いいの? 好きだーっ! って言わなくってさ」「……」「お姉さま?」「良いんだよ、これで」「そっか……」「よし! 蒲公英、戻るぞ! アタシより遅れたら、夕飯抜きだからなっ! ハァッ!」「え!? ちょっと何それ!? どうしてそうなるのっ? 待ってよお姉さまっ!」 蒼天は突き抜けるように晴れ。 大地は照らされて黄色に輝いていた。 その場を離れる三つの騎影を見送るように。 蒼の花弁は根ざし、力強く咲き誇っていた。 ■ 外史終了 ■