clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編1~☆☆☆ ■ 血溜まりの君を拾う 今、一刀は現実逃避をしていた。一刀が向かった先は漢中、その先に在る要害に恵まれ沃野千里と言われる蜀を目指していた。荀攸から手紙で促されたように、第一に益州、という言葉に従ったのである。一刀は金獅の横に立って一人の少女へと視線を向けつつ、蹄の音を鳴らし深い山谷の道を歩いていた。夏の強い陽射しに隠れるように、木々の緑葉を影にして、水筒を煽って水を飲む。ただ単純に喉が渇いているだけでなく、水そのものが美味しい。空気も健やかで、息を深く吸い込めば、鼻の奥を擽る自然の匂い。ともすれば、一刀は遠い目をしながら口を開いて「気持ちいいなぁ……」 などと呟いた。自然に囲まれて開放的な気分になっていたのだ。この世界に降りて、本体は久しく景色を楽しむという余裕を持つ事が出来ていたのだ。まして、此処は一刀が住んでいた現代からは遠い歴史の1800年前の大地。今まで見て来たのは陳留や洛陽といった、言わば首都と言える場所や荒涼とした土砂の広がる場所であった。森や山が無かったわけではないが、夏を迎えてことさら、山の景色は新鮮な物に映っていた。理由の一つにこうまで、落ち着いて周囲の景観を見る事が出来たのは久しいというのもあるだろう。ただの山の景色である。山道を歩くことそのものを楽しむように、一刀はゆっくりと金獅の口輪を引きながら歩いていた。段差を昇った際、金獅の背に乗った少女がぐらりと揺れる。そこから滴が地面を濡らし、赤い斑点を描いた。『本体、そろそろ下り坂に入るぞ』『ああ、聞いた話じゃ邑まで遠そうだからな』『はやく、屋根のある場所で寝たいね』『同感だな』『この子も居るしねぇ』 本体の現実逃避の時間は、脳内の皆の言葉で掻き消されて、仕方なく頷いた。彼は腰を落ち着けることが出来る場所を探して歩いていたのである。それはつい先ほどの事だった。―――・ 道中に拾った少女。本体は当然ながら見たことが無く、血溜まりに沈む彼女を見た瞬間に、驚き戸惑った。どう見ても致死量としか思えない出血量に、絶命していると確信してしまった程である。ところが、いざ近づいてみれば小さく胸が上下に動き、存命を誇示しているではないか。ある種のホラー現象を見せられたと言ってもいい。慄いて一歩下がる足を、脳内の誰かの言葉が押しとどめた。『稟だ』『郭嘉か』「か、郭嘉?」『ああ、早くとんとんしないと』『とんとん?』『夏候惇?』『いや、春蘭じゃ気絶スパイラルになるな』「ごめん、意味が判らない」『とりあえず"魏の"に任せてみよう』 言われるがまま、主導権を"魏の"に託し、一刀は少女の首筋にチョップを連打した。血の溜まりに沈む、顔を青くした少女へと、割と情け容赦なくベシベシ叩く姿は異様であった。ほどなく、少女は眼を覚ま―――すこともなく、一刀の一撃に息の根を止められたかのように、ガクリと首を落とし身を横たえて昏倒する。止めを刺したのか、と脳内の喧騒を他所に、"魏の"は首を振った。「これは重症だ。 手の施しようが無い……」『"魏の"、特殊な性癖が……』『いやまぁ、そりゃこれだけ血を流してて追い討ちをかければ誰でもそうなると思うんだが』「違うんだ、こうしないと稟は現世に戻って来れないんだ」『現世って……』『郭嘉の首を叩くのは、突っ込みだと思っていたが』「そうなんだ、一度旅立つとなかなか戻ってこなくて、風がこの打開策を教えてくれたんだが……どうやら遅かったようだ」『……なるほど?』『つまり、どういうことだ?』 あんまり納得してないような脳内の声が響いていた。―――・ そうした事情から、一刀は金獅の上に死体のような少女を乗せて自らは徒歩で目的地を目指しているわけだ。今もまだ、完全に止まらぬ流血を横目に、休める場所を求めて。馬上で血を垂らしながら昏倒する彼女の名は郭奉孝、らしい。すでにもうあやふやになってしまった歴史知識でも、名高い叡智を持ち曹操を支えた賢者の一人であることを覚えている。さらに、脳内の証言では郭嘉は現在、名君を求めて流離う在野の士であるという。人道的な部分でも、打算的な部分でも彼女を拾う事は利するものとなろう。本体としては、このまま絶命しないか心配である。何故か、大丈夫だと脳内に太鼓判を押されているが。山間に一陣の風が吹き込んだ。夏の熱地を涼ませ、木々の葉を揺らし、一刀は歩く。それはこの世界に降りて久しい、余裕を持てる旅路の一幕であり、現実逃避に耽る一幕でもあった。 ■ 歓待「見ろ、こっちだ」「ああ」 そんな一刀が歩む山道を覗く人影が居た。小高い崖っぷち、葦の茂る草葉の影からひっそりと揃って顔を覗かせる。弓矢を持ち、粗末な服に身を包む三人の男だ。指し示すは一刀ではなく、その横の血塗れの少女……を乗せている金獅に向かっている。一人の男が指し示すと、その周囲の二人の男も感嘆の息を吐き出した。「おお、なんと見事な姿。 かように雄大な馬体はそうそう見ないぞ」「そうだろう。 どうだ、手に入れないか?」「あの少女は何故、血に塗れておる?」「何かあったんだろう。 従者が口を引いておる。 大方どこかの御偉いさんが逃げているに違いないぞ」「なるほど、確かに血に塗れておるが身なりは綺麗だったろう」「どうだ、やらぬか?」 カチャリと、男の背負った矢筒が揺れて音を鳴らした。その男の真剣さを間近で見て、横の男性は頷いた。どちらも若い。まだ二十を迎えて間もないだろう。一方、すぐには頷かなかった男は壮年であった。難しい顔をして黙りこくり、食い入るように金獅と一刀を見据えていた。「しかし……こんな事をしても良いものか」「叔父貴も分かっているだろう。 昨年は不作、その前も。 野山に出ても弓ではなく鍬を手に取ってきた我等は狩りなど上手く出来ぬ」「こうして弓を持って外に出ても、捕らえたのは蛇一匹のみだ。 このままでは飢えるのだ」「分かっている……だが、人様の物を悪し様に盗むなどと……」 そう言われ、男達は揃って口を締めて俯いた。とはいえ、若者を諌めた男もこのままでは邑に飢餓が訪れる事になるのは理解していた。蜀の地は黄巾の乱が始まると、劉焉という男が中央から牧に任じられて赴任してきた。この当時、既に郤倹(げきけん)という男が蜀を統治しており、黄巾賊の討伐に当たっていたが、その戦ぶりは連戦連敗であった。遂には賊の頭領に命を奪われ、蜀の民は次に略奪の憂き目となるのは自分達ではと、不安に苛まされた。が、郤倹が死ぬと、それまで沈黙を保っていた劉焉が一気に賊を討ちとることに成功した。まさに雷鳴の如く一瞬で全ての片を付けてしまったのである。 それが丁度、一年前。劉焉は租税を緩め、この時勢の蜀の民心を得ていた。この邑は漢中との境に近く、劉焉の行いを間近で見て来たことから、お上である劉焉を称えていた。だが、天は見捨てたか。田畑は乾き、凶作に見舞われた。それが去年だけであればまだしも、その前も、今年もである。蓄えは底を尽き、今食う物にも不足している有様。租税は緩むと言っても、献上する物す無い現状、もはや野山に出て生き残る糧を得なければならなかった。ところが、これにも先立つ物が無いと来た。山に入って大物を狩ろうとも、矢を作る技術も金も無い。やっとこ拵えた弓矢では、精々うさぎを狩れるかどうか。 狼や熊、虎などが現れれば逃げ出すより他にないだろう。冬に入れば動物達はおらず、よしんば蓄えようと考えても肉は腐りおちるのだ。食べる物がなくなってしまう。窮状は既に伝えているものの、山間に住む彼等は険難の蜀の地でも一際ド田舎である。そういう場所は対応が疎かになる事を、彼等は過ごす日々の中で知っていたのだ。 「一人は怪我人。 一人はとても強そうに見えぬ従者だ。 三人ならば」「そうだ、叔父貴。 これぞ飢える我等に与えてくれた天からの贈り物ではないか」 若者二人が両の腕を取って揺らす。眉を曲げて、二人の男を交互に見やり、男は伏せていた顔を何度か上下に揺らした。叔父と呼んだ二人の若者は、お互いに顔を合わせて頷く。飛び出そうとした男達を留めるように、叔父貴と呼ばれた男性は口を開いた。 旅装を見れば、馬に乗る少女は血に塗れているとはいえ非常に綺麗だ。遠目からとはいえ、器量も良さそうであり、乗る馬はこの辺では見かけない雄馬である。恐らく、名のある家の子女に違いない。このような場所をうろつくとは、何事か起きたに違いは無く、怪我を負っていることから面白い話では無いであろう。そんな者を殺したとなれば、何処でどのような恨みを抱かれるか分からない。「だが、待て。 かように襲う事はない。 人を殺めては不吉を呼ぶ、邑は小さい」「叔父貴……では、どうしろと?」「そうだな……幸いにして陽ももうじき沈む。 我等の邑に逗留してもらうのだ」「……それで、どうするのです?」「身なりを見ただろう。 邑の困窮を知れば、きっと助けていただける。 襲うのではなく、頼むか、そうでなければ盗むのだ。 どうだろうか」「頼むなどと……いっそ盗んでしまいましょう」「そうだな……あのような立派な馬、手放すことはせぬか……」 二人の若者は再び顔を見せあった。確かに、叔父の言う事は理に沿っていると頷きあう。そもそも、できれば彼等も人を殺したくなどない。蜀を乱を治めた劉焉は民には優しいが、略奪を行ってきた賊には酷く厳しい。邑に住む子供達や女が生き残れるならば、自分達が罰されて死のうとも構わないが、己のせいで邑に災禍があれば死んでも死に切れない。盗むくらいならば、人情に訴えて許してくれるかも知れない。「分かりました、叔父貴の言う通りにします」「よし、私は一足先に戻って長に話す。 そなたらは狩りの最中に出会った振りをして、お招きするのだ」「分かりました……そうと決まれば、やりましょう」「ああ」 かくして、一刀の前に一本の弓矢が飛んで行き、彼等は森を下りていった。「申し訳ない。 まさかこの様な山道に人がおられるとは」「いえ、気になさらず。 害はありませんでした」「こちらの方は? 怪我をされておられるようですが」「ああ……いや、実は道行きに拾った者なんです」 目の前に弓矢が飛んできて、一刀は腰から剣を引き抜いたが、二人の男は謝罪の声を大きく山中に響かせながら駆け下った。そこで一刀も、どうやら狩りをしていたらしいと気付き、珍しいことも在るものだと一刀は笑った。長い黒髪を揺らして、わざとらしく弓矢を目の前で仕舞うと、男達は声をかけあう。基本的に人の良い一刀と打算があるとは言え友好的な男達の話は弾んだ。「なるほど、そのような事態であったのか。 ならば、驚かせてしまった謝罪も含めて、我等の邑にお招きしよう」「おお、それは良い考えだな、先に戻って報せるか」「嬉しい申し出、渡りに船です。 実は、今日は野宿になるかも知れないと思っていました」「ははは、夏の野宿は虫が煩わしい。 今日、会えたのも何かの縁だ!」「よし、すぐに長に報せよう。 さぁさぁ、私が道案内をするぞ」「ありがとう。 お言葉に甘えます。 感謝を」「何を、長旅でお疲れでしょう。 そこの雄馬にも、邑で一等の馬房を用意しとくぞ、遠慮はなさらず」 男の笑顔に釣られるように、一刀も笑みを浮かべて頷いた。案内に従って、一刀は山間に潜むように作られた寒村に辿り付いた。家屋の数は僅かに七つ。松明がいくつか灯されている以外には、特に目を引くような物が何も無かった。金獅を引いて、思わず一刀は立ち止まってしまった。天水に逗留していた邑と比べて、遜色が無いくらいである。そういえば、と一刀は思う。自分の家を建て、そこに住んでいた時に書いていた手紙を忘れてきてしまったのだ。物思いに耽った一刀に苦笑のような物を浮かべて、男は手を取って言った。「ははは、見た通り、何も無い邑です。 墾をしながら細々と暮らしているのだ……貧相でがっかりさせてしまったか」「いえ、私もこのような邑に住んでいた事が。 その時の事を思いだしていました」「そうか、それならいいのだが」 気分を害したかと一刀は謝った。せっかく屋根のある寝床と食事を用意してくれるという者に、少々失礼な振る舞いではないかと思ったのだ。改めて夜の帳が落ちた邑を一望した一刀は、口を開く。「あの広場は何でしょう?」「あそこは大切な田畑で我等の大事な糧となる。 収穫はまだ先だけどな、ははっ……そうだ、敬語など申すな。 我等は年も近そうだし、こうして会ったのも縁だ。 友になろう」「ははは、ありがとう。 そう言ってくれるなら、是非」「よし! 今日は良き日だ! 新しい友人が出来た、酒を飲もう!」 そんな雑談を交わしながら、邑の中に入ると、一軒の家の奥から白い髭を蓄えた老人が現れ礼を取った。壮年の男性に支えられた笑みを浮かべる老人を、一刀はすぐに長であると判断した。返礼し、近づいてくる老人を待つ。「これは。 旅の方が邑に立ち寄るのは久しぶりの事です。 ゆるりと逗留されるがよい」「ありがとうございます。 軒先を貸してもらい、食事まで面倒を見てもらえるとは思ってもいませんでした。 感謝します」「はっはっは、お連れの方は怪我をされているそうで」「父上、彼女は怪我は無いそうです。 ただ、血は失っているので元気が無いようで」「それはそれは。 妻らに介抱させると致しましょう。 どうぞ、こちらに」「ありがとうございます」「父上、友の為に羊を捌いて来ます。 今日は宴にしましょう」「おお、友か……よい、それはよいぞ。 宴にしよう!」 一刀は長の家に招かれ、金獅は馬房に。そして、郭嘉は邑の女達に連れて行かれ、しばらくしてささやかに過ぎる宴が開かれた。一刀は、暖かく迎えてくれた邑の者に接待され、その歓迎振りにちょっとした遠慮も抱きつつ、その歓待を大いに楽しんでいた。 ■ 産地直送 from ド田舎 一刀が歓待に良い気分になっている頃であった。馬房へと口輪を引っ張っていた男は、突如として立ち止まった。「叔父貴。 うまくいきました。 最後の羊の肉を、叔父貴も無くならない内に食べてください」「ああ……しかし、なんとも胸が痛む。 あの青年は礼を欠かさずにお主の友になったと……」「叔父貴……」「そうだな……仕方ないのだ。 高く売れよ」「はい……このまま漢中に、この雄馬を売り捌きにいきます。 金の鬣に金色の尾、馬格は大きく性格も素直だ。 きっと高く売れますよ」「うむ、そうだな」 下から皺の多い顔を歪ませて、男は頷いた。それを見て、若者も金獅に乗り込むと、蹄の音を立てぬように歩く。一度、馬上に乗ったのが自身の主でないからか、宴の開かれる家を覗くようにすると金獅は嘶いた。「大丈夫、少し離れるだけだ」 その言葉が通じたかどうかは分からないが、金獅は馬首を返すと徐々に速度を上げて漢中へと向かう足を速めた。騎乗し、手綱を振るうと尻の先から痺れるような振動が帰って来る。その素晴らしい手応えに男は目を剥いた。今までに彼が乗ったどの馬よりも速く、普段見慣れている山の景色がまるで違った。馬首を返そうと手綱を引けば、鋭敏に騎乗の主の意思を感じ取り、抜群の反応で脚の手前を変える。頬を打ちつける生ぬるい風に、男の表情は笑顔で満面となった。「すごい! すごい良馬だ! これは西涼の物と比べても遜色は無い! いや、さらにすごいぞっ! はっはっは!」 笑いと共に目尻から零れたのは、涙であった。これほどの馬ならば如何ほどまで高く売れようか。漢中を納める張魯の将軍達も、喉から手が出るほど欲するに違いない。この馬を売り、金を手に入れ、それを元手に冬を越す準備がきっと始められる。邑は助かるのだ。 まさしく天の思し召しだ。一夜を駆け、そのまま休憩すら挟まずに昼には漢中の都へと辿り付いた。速度も去る事ながら、その体力も並外れていた。稀代の名馬であると、男は確信したのだ。男は自身も徹夜で駆けながらも、意気揚々と市井に出て声高に叫んだ。かの"天の御使い"の名馬に負けず劣らず、駆ければ千里、疲れは知らず、大陸一と大いに謳いながら。喧伝してから一刻も経たず、男の前に気品の漂う女性が人垣を越えて現れた。稟として気品あるその女性の佇まいに、男の直感が働いた。これは艶かしい体だ―――とも思ったが、もっと別のところ。言うなれば、貧民だからこそ分かる裕福層の貴女であると確信できたのである。「本当に素晴らしい馬ね。 ちょっと、良いかしら?」「ええ! 失礼ですがご婦人は?」「黄忠と言いますわ」 頬に手を当ててにっこりと笑うその仕草に、男も釣られて笑みを浮かべた。自分の名もさり気無く伝え、馬に見蕩れる黄忠に手を拱いて口を開く。「この馬はまことに天が与えた名馬でございます。 屋敷と引き換えでも後悔はしないでしょう。 この漢中の都まで走らせた匹夫の私ですら、感涙に至りました。 黄忠殿のような者に乗ってもらえればこれ以上の幸せには馬にも無いでしょう!」「そうねぇ。 ……うん、多分、貴方の言う事は正しいわ。 太腿の肉付きがとても良い、軍馬として鍛えれば千金に値するかも知れないわね」「千金! まことでございますか!」 黄忠は興奮するように声を高くあげる男に頷いて、考え込むように顎に手をやりながら天を仰いだ。これまでも良質な馬を見て来たが、トモの強さや利発そうな目つき、早々見られないような馬体の雄大さに名馬の素質は十分であると判断できた。馬というのはどれだけ在っても困る事は無いが、名馬と呼ばれる馬を持つ事は将にとっても自身の誇示の一つとなる。例えば、陳留で賊の討伐に名を上げる曹操には駿馬と名高い『絶影』という馬がある。"天の御使い"は名こそ知らぬものの"天馬"と噂され、金色の鬣と尾を揺らし勇名を馳せているという。「あら?」 そこまで考えて、目の前の馬を見る。これは"天馬"の噂に重なり合うように、立派な金色の鬣と尾を持っている。その発見に黄忠はにんまりと笑顔を作った。良いではないか。"天馬"と似ている名馬となれれば、それはきっと噂に乗って称えられる事だろう。一目見た時から、馬の素質は見抜いていた。これに乗る自分を想像すると、初めて馬を貰った時のようなわくわくとするような気持ちが、むくりと黄忠の胸中に起き上がった。「よろしい、買いましょう。 千金を出します」「おおおおおおっ! 本当でございますかっ!」 商談は即座にまとまった。漢中まで乗ってきた馬を売り払い、さらには羽織っていた絹織まで捨てて不足の金を満たす。金獅を得た黄忠は馬上に乗り込んで走らせると、売り込みの文句が偽りの無い物だとすぐに気がついた。速度は抜群。 力強く大地を蹴る蹄は大きく、少し飛ばしたところで体力に翳りも見せなかった。試しにとわざわざ小さな池のほとりを飛び越えれば、物怖じもせずに騎乗の主の意思を感じ取って跳躍する。度胸も並大抵ではない。「すごい! すごいわ! これはまたと無い名馬になるに違いない!」 張魯への使者として漢中に赴いた事は、幸運であった。このような名馬と出会う事が出来るとは。黄忠はどちらの意味でも胸を弾ませて、上機嫌で蜀へと戻っていった。 ■ 慈雨 しこたま呑んだ。それが一刀が目を覚まして最初の感想だった。こんなに酒を勧められて飲んだのは久しぶりだった。この時代の酒がどれだけアルコール濃度が低かろうと、浴びるように飲めば酔いもする。酷いとは言えないものの、頭に残る鈍痛は一刀に二日酔いであることを報せていた。「くぅ……」「おお、眼が覚めましたか」「っ、すみません」 皺の多い壮年の男性から用意されていた水を受け取って、一刀はぐいっと煽る。飲み干した後も息をつき、揺れる頭を抱えて短く呻く。ちなみに、一刀は歓待された最中も実情は伏せていた。自分が"天の御使い"という者だと分かれば、この気の良い邑の人々を恐縮させてしまうと考えたからだ。自然に接してくれる人物というのは、一刀の中でも貴重な存在だった。「こんなに良くしてくれて、何てお礼を言っていいか」「……は、はっはっは。 お気になさらずに……それより、お連れの方が目を覚ましております」「あぁ……ああ、本当ですか? それなら、会わないと」「連れて来ましょうか。 どうやらまだ酔っておられるようだ」「いえ、こちらから行きますよ。 ははは、甘えてばかりいられません」「では、その、私が案内しましょう」 両の瞼を押さえるように、一刀は手で揉むと立ち上がった。手を引かれて歩く一刀は一軒の家に向かう最中に、荒れた田畑を目にした。はて、と一刀は目を細めた。昨日の話では、収穫がまだだと聞いたはずなのに、どうしたのだろうと。そんな一刀の視線を隠すように、壮年の男性が袖を引っ張った。「あちらの家です」「ああ、わざわざありがとう御座います」「茶とも呼べませんが、後で白湯をお持ちしましょう」 そう言って鍬を取りに行く男を見て、一刀は首を振った。天気予報など無いこの時代、田畑が荒れることもあるだろうし、余所者の自分に話をしなかったのだ。大した問題では無いのだろう。心の中で一刀は納得すると、声をかけて軒先を潜った。飛び込んで来たのは白い肌と頬を染める少女の姿。着替えでもしていたのか、はたと帯を手に取る少女の手が落ちる。一刀は自らの手で視線を隠し、慌てたようにもう片方の手を突き出して口を開いた。「す、すまないっ! まさか着替え中だったとは!」 上ずった一刀の声が響く。瞬間、激昂しているかどうか確かめるために自らの指の隙間から、一刀はチラリと様子を窺った。視界に飛び込んで来たのは肌色の何かである。いや、飛び込んで来たというよりは刺さった。たまらず、一刀は悲鳴を上げて目頭を押さえた。見事な、そして地味に危険な一撃を一刀に見舞ったのは、昨日から郭嘉を診ていた村の女性であった。「おなごの着替えを覗くたぁ、なんたる匹夫か! でてけ、でてけっ!」「あ、いえ、大丈夫です、多少覗かれたくらいで……え、覗いたということは身体に興味が……まさか、昏倒していた私を助ける恩を着せて無理やり……力及ばず引き倒されて毛むくじゃらの胸板を押し付け、そのまま性行の剣で貫こうとぉ……ブバッ!」「ぎゃああああああっ!?」「わああああああああっ!?」『いかん、とんとんしなければ!』 まるで口から吹き出したかのように、少女の鼻から赤い物が飛散した。―――・「申し訳ない、落ち着きました……」「こちらこそ……」 "魏の"のファインプレーで気絶スパイラルを回避した一刀と郭嘉は、ようやく腰を落ち着けて向かいあった。その隣、寝所であろう床には生々しい血痕が残っているが、気にしない事にした。引きつった笑みを浮かべていたものの、村の人達もなんだか遠慮するように納得していたので、深く突っ込まない事にした一刀である。最初の口火を切ったのは郭嘉の方であった。頭を下げて礼をする。「貴方が助けてくれたと聞いて、本来ならこちらから赴いて礼をせねばならぬところを、申し訳御座いません」「いや、道中に行き倒れを見かければ誰でも手を差し伸べました」「どうでしょう、性質の悪い山賊であれば、私は慰み者に……慰み者―――」「ちょっと待った!」「はっ、そうでした!」 コホンっとわざとらしい咳払いを一つして、郭嘉は居住まいを正した。脳内からの忠告が無ければ、再び旅立ってしまうところであった。余計な考えを起こさぬように、今度は一刀の方から口を開く。世話になった邑の家に、これ以上流血沙汰を起こすのは酷く気が引けたのだ。「それで、どうしてあの様な場所で?」「ええ、私は大陸を広く回って仕える主を探している途上なのです」「それは……素晴らしい志かと。 今は大陸の各地に乱が起こっています。 一人でそのような旅をするのは危険だというのに」 一刀は笑みを貼り付けて彼女の実情を探ろうと言葉を投げかけた。既に、脳内からの情報提供で趙雲、程昱と行った名将達と行動を共にしているはずだと聞いていたのである。趙雲と言えば、公孫瓚の下で客将をしているはずだった。張遼と共に飲み明かした時に聞いているのだ、同姓同名などの間違いはあるまい。そんな一刀の言葉に郭嘉は小さく頷く。「ええ、実は私には旅の供がいました。 一人は白馬義従と名高い公孫瓚の下に身を寄せています。 そして、もう一人は陳留にて別れたのです」「おお、陳留といえば噂に名高い曹操殿ですか」「はい、仕官しているのかは知りませんけれど、恐らくは」「素晴らしい友人を持っているようで、貴女様も只者では無いかと」「いえ、そのようなことは」 一刀の言葉がこそばゆい様に郭嘉は微笑んで居住まいを正すように座りなおす。どうやら、彼女以外は身の置き場所を得たと言ってしまっても良いだろう。だが、不思議なのは脳内からの情報提供とは違って、曹操の下に彼女が残らなかった事だ。曹操は英雄だ。実際に会って話をすれば誰だって彼女の持つ覇気に押されることだろう。押されないとすれば、麗羽や雪蓮あたりの同じ英雄の気質を持つ者だけだと、一刀は思っている。目の前の少女は知者であり、曹操を見れば彼女を主として支える自分を想像するに違いない。一刀が口を閉ざしたのを見て、郭嘉が尋ねた。「貴方も志のある一角のお方だとお見受けしました」「はは、そんなことは」「私のように、蒼天の下で旅をしておられると。 かような時代に大陸を巡るのは、志が無ければ出来る物ではないでしょう」「やはり、貴女は只者ではないようで。 白状すれば、私も志はあります」「……実は、一度だけ見かけた事があります。 陳留のすぐ近くでした。 あの時は大地に転げて叫ぶだけの狂人だったと思っていましたが……賢人とは己を隠す者ですね」「……はは」 一刀は乾いた笑みを浮かべ、苦い思い出を突かれた表情を画す為に、卓に置かれた白湯に口をつけた。彼女が言って居るのは、この世界に降り立ったばかりの頃の話なのだろう。「ああ……そういえば名乗る事を忘れていました。 無礼をお許しくだされば。 私は戯志才と申します」「これは光栄です。 私は……陳寿と」「陳寿殿と縁が出来たのは、とても喜ばしいです」「狂人でもですか?」「ふふ、賢人だからです」 お互いに偽名を名乗り合い、笑い会う。一刀は目の前の少女の本当の名を知っている。教えられたのだから当然だ。それでも偽名を名乗りあったのは、彼女が偽名を使ったときはそうしようと決めていたからだ。「戯志才殿、どうして陳留を離れたのですか? 曹操殿は稀代と英雄だともっぱらの噂ですが」「そうですね。 少し思うところが在ってのことです」「なるほど」「陳寿殿も、曹操殿をお見かけしたのでしょう。 志あるのならば何故仕官をしなかったのでしょう」「そうですね。 少し思うところがありました」 ふっとお互いに苦笑を零す。両者の問いかけは同じ答えであり、そこには共通点が存在している。曹操という者の器量を認めて、仕えるに足る主だとお互い認めていた。「陳寿殿も人が悪い。 こうなっては私から話すしか無いでしょう」「まさか、言いたくない事を言わせるつもりなど」「いえ、行き倒れていた私には陳寿殿に恩があります。 志とは無闇にひけらかす物では無いとはいえ、恩人に尋ねられて答えないのは人道に悖ります」「分かりました、では……聞かせてください」「曹操殿は私の理想に近い君子でございました。 もしも一点、世を騒がしている噂が無ければその場で仕官を申し出たことでしょう」「噂ですか」「"天の御使い"です」 一刀は郭嘉の言葉に驚いたかのように身を引いた。その驚きように郭嘉は眉を顰める。こうして話していても、陳寿と名乗った男は見識が高く映っていた。大陸を騒がせる"天の御使い"は、この場で出しても驚くに値しないものである。いや、どちらかと言うとかつての黄巾の決戦、つい近頃の西涼叛乱を鎮めた勇名を考えれば、当然の答えだろう。間違いなく、漢の英雄の一人に数えられるはずだった。まして、郭嘉の立場では今の宮中の真実は知らない。そうした情報を得る伝手を持っていなかったのだから。「随分と驚いたようですが、私の言葉に引っかかりても?」「いえ、ただ曹操殿と比べる相手が"天の御使い"とは意外でした」「確かに、天代として絶大な権力を持つ将軍です。 曹操殿とは比較できない権力を持ち、誰にも追随を許さない地位をお持ちの御方です」「そうですね。 しかし、そんなお方に仕官できるとお考えなのですか?」「無理でしょう。 一介の在野の士が会って話を出来る御方だとは思っていません」「ならば、何ゆえ」「知りませんか、陳寿殿。 天の御使いは西涼の叛乱を鎮めてから都には戻っておらず武威に留まっているとか。 何故、天代ともあろう御方が都に戻らず辺境に留まる必要がありますか。 今や劉弁様は即位し、憂うべき問題の一つは解決しましたが、此処には複雑な内情が隠されていると私は見てます。 天の代わり、すなわち天子の代わりを務めるべき者が傍に居ないというのは明らかに可笑しい措置です」「あー……戯志才殿は何が言いたいのでしょう」「朝廷は天代を疎んでおられ遠ざけている。 或いは、既に天代は追放されていると見ています」 一刀は口を噤んで頷く。郭嘉が卓に容器を置く音が室内に響いた。意味深な表情で頷きを繰り返す一刀を見て、郭嘉も確信する。目の前の男が、自分の意見に同意を示していると。広く知られるものとして、朝廷が宦官の私物化とされている噂がある。巧みに情報を広げぬように隠蔽しているが、人の口に戸は立たない。とりわけ、十常侍を含めて権力争いは今までの歴史を振り返っても幾たび繰り返されてきた。突然現れた天代の絶大な権威に、彼等が納得して付き従うはずが無いのだ。その線から考えれば、都に戻らぬ事実と合わせて想像は容易である。流布する各地の乱の平定の為に、天代は都に戻らないなど、劉弁即位の事実から掻き消せるのだから。「卓見ですね」「ご謙遜を、陳寿殿も同じ答えに至っていたでしょう」 頷く一刀。本人だから当然知っている。「もしも、私の予測が真実を突いているのならば、会って話をすることが出来ると考えます」「では……"天の御使い"と会えたら、何を話すのでしょう」「それは……すみません」「いえ……」 申し訳無さそうに顔を伏せて笑みを浮かべる郭嘉に、一刀は苦笑した。それこそ、彼女が一緒に旅をしていた程昱と別れ、曹操の居る陳留を離れた理由なのだろう。彼女の大志に根ざす大事な物なのだと、気付いた。一刀はゆっくりと立ちあがって窓の傍に近寄ると、見える景色を眺める。西涼では荀攸の知に幾度も助けられてきた。それこそ、一刀が頭を垂れて感謝しても足りないほどだ。一刀にとって足を向けて眠れない、とは荀攸の事を指すだろう。そして偶然とは言え、自分は"天の御使い"であり、彼女が捜し求める人間だ。打ち明け、自分を支えてくれるかもしれない。『信じられないな、郭嘉が曹操を置いて俺に会いに来るなんて』『それだけ、"天の御使い"の影響が大きいってことか……』『そうだね、稟よりは風の方が在り得ることじゃないかなと俺も思うよ』『程昱だっけ』『うん』『打ち明けるべきだ』『俺も賛成』『俺達だけじゃ限界もあるもんね』『それに、"馬の"と"董の"はまだ戻ってこない』『ああ……』「陳寿殿? どうされました?」 一刀が外を眺めて動かない様子に、郭嘉は黙って待っていたが、ついに焦れて尋ねた。一刀達が胸の内で考えを述べ合うように、彼女もまた、陳寿の様子に深く考え込んでしまった。郭嘉は彼の前で志の為に旅をしていると言った。曹操に大器を感じ、また"天の御使い"と会いたいと、そして会えるだろうとも。彼女は半ば"天の御使い"が中央から遠ざけられたと確信しているし、陳寿もまた同意を示した。そこで郭嘉は思ったのだ。自分と同じ考えをしている人物を前にして、心が揺れたのではないかと。例えば、既に彼が主と認めた者が居るとすれば。自分がそのまま曹操の下に仕官をするかどうか、悩んでいた時と同じような板ばさみに在って居るのかもしれない。 陳留を飛び出す前。旅を供にしていた友人と"天の御使い"について話し合った。今、一刀に話したように、郭嘉と程昱は同じ答えにたどり着いていた。天代は中央から官の恨みを買い、政権から追放された、と。それをお互いに確かめあった上で、郭嘉は"天の御使い"を追った。何故ならば、曹操と比べる必要があったからだ。大陸の大半と諸侯の顔を見て巡った郭嘉の出した答えの一つは確実に曹操を導き出した。だが、まだ一人。大陸を揺らす稀代の英雄を見ていない。程昱も、稟の意見に賛同し、"天の御使い"と会ってからでも遅くは無いと同意した。が、程昱はそのまま陳留に残った。太陽が昇り、それを支えるのを夢で見たと言って名を改めると、曹操に仕官すると急に意見を転換したのである。それが故、一人旅となりトントンしてくれる共が消えて行き倒れてしまった訳だが。「戯志才殿」「はい?」 二人して長い沈黙と思考を重ねていたが、一刀が破った。「実は……」 自分が"天の御使い"だと打ち明けようとしていた一刀は、しかし、その言葉を途中で噤む事になった。窓から邑を見ていた景色の中、風に煽られて馬房にかかっていた布が地に落ちたのである。居なくてはならない場所に、何も無かったのだ。思わず、一刀は前のめりになって目を凝らす。邑の人間が、慌てて馬房を覆っていた布を拾い上げて賭け直す姿を目撃する。「……」「陳寿殿?」「ちょっと……待ってくれ……」 首を傾げ、いよいよ不審な眼差しを灯した郭嘉に、緊迫した声が聞こえた。一刀の目には落ち着かない様子で周囲を見回す男が映っている。金獅が居ない。「話の腰を折ってすまない、少し用事ができた」「あっ、陳寿殿!?」 言うなり、一刀は走って馬房に向かった。僅か数十メートルの距離。すぐに馬房の布を引っぺがして、中を確認する。ここまで近ければ流石に見間違いなどと言う事は無い。そもそも、馬房である筈なのに水桶も無ければ藁も無く、柵すら無いではないか。「……何処に行ったんだ?」 一刀は呆然と馬房を見ていたが、しばしして周囲に顔を巡らした。「金獅っ!」 名を呼んでも答える物は無かった。一刀は邑の中を金獅の名を呼びながら探し回った。さほど大きくない邑の中、一刀の叫び声は何処の家屋にも行き届いている。にもかかわらず、家の中に居るはずの邑人は誰一人として現れることが無い。一刀は走る足を止めて、ある場所で立ち止まった。昨日の夜、田畑だと話されて、つい先ほど荒れように口を挟むまいと言い聞かせた場所の前だ。「……収穫は秋? これでか?」 広がって居るのはひび割れて作物の実りを否定する土色の景色。一刀は下唇を噛んで大きな息を吐くと、踵を返して邑の中に戻っていく。この邑の中心近く、一際高い建物につくと、門の閂を投げ捨てるように外して扉を開いた。かつて、一刀も維奉に助けられて逗留した邑で過ごした経験がある。そこでは、倉に収穫された食物を入れて冬を乗り越していた。外れていてくれと内心で思いながらも、扉を開けて入って来たのは僅かな藁と草木。そして、一刀が一気に開け放った光に照らされて、蜘蛛の子を散らすようにして鳴き声をあげて逃げる鼠のみ。「……くそっ!」 一刀は悪態をついて拳を門の柱に叩きつけた。金獅は、あの馬は一刀にとっての相棒だった。付き合いは短いかも知れないし、袁紹からの貰い物でもある。だが、一刀は金獅を大事にしていた。蹇碩の魔手から逃れてからは、より一層と。己の手で世話を焼き、毛を繕い、暇があれば遠乗りに出かけ、戦で何度も助けられた。身体を震わすほどの怒りが駆け巡る。そうだ。よくよく振り返れば昨日は旅人を歓待するにしても、大げさな物では無かったか。村に住んでいた者は全員が人の良い笑みを浮かべていたが、その頬はこけていた。何故気付かなかったのか。肩を震わせて唇を噛む一刀の肩に、手が触れた。「陳寿殿……馬が居なくなったのですか?」「っ!」 郭嘉の声に、一刀は飛ぶようにして離れた。その大げさとも言える行動に、郭嘉は驚いたように身を引いたが、やがて首を振る。「突然肩に手を置いたことは謝ります」「いえ……それより村長に会います。 話はまた今度で」「……わかりました」 一刀が横を通り抜けて駆け去るのを、郭嘉は見送った。一軒の門を潜るその背を見送って、郭嘉は呟いた。「……まさか彼が……しかし、確か"天の御使い"の愛馬の名は、金獅。 "天馬"と呼ばれる名馬……」 郭嘉の目の奥に、鋭さが灯った。―――・「村長……村長、なんで頭を下げているんだ……」「どうかお許し下さい、旅のお方」「金獅はどこです? 何故ここに居ないのです」「どうが慈悲を……見ての通り、作物は育たず食うものに困り申した。 家畜を殺し食い凌いでおりましたが、それは諸刃です。 このように田畑を肥す小さな邑で家畜を食らうのは、自らの首を絞めているのと同じこと。 冬を越せず、飢え死に行くほかありませんでした」 頭を床に突けて許しを請う村長の姿に、一刀の気勢は僅かに削がれた。状況から考えれば、売り飛ばされたか、血肉にするため斬り殺されたかだ。一刀は目を瞑り、苦労して深呼吸をすると拳を握って口を開いた。「馬は何処に」「……」「答えてください。 私と……っ、ずっと旅をしてきた仲なのです」「馬は……漢中へ売り飛ばしに……」 歯を噛む音が室内に響いた。興奮を抑えるように激しく呼気を繰り返す一刀の息づかいだけが、この場に在る音であった。「陳寿殿……この通りっ! お怒りはご尤もです、どうしても収まらぬと言うのならば、私を斬り捨ててくだされ。 私は齢を六十まで重ねました、ここで死んでも邑の皆が生き残れるのならば悔いはありませぬ。 何より、躯となれば私も貴重な糧となりましょうっ」「そんなことっ!」 語気を荒げて一刀は地を蹴った。最早、状況は言われなくても分かっていた。倉に穀が無く、田畑は枯れ、家畜すら居ないのだ。昨日の歓待に肉を持ち出したのは残りの僅かを一刀に振舞った結果だと断言できる。一刀に察せられないようにする為でもあろうが、邑ぐるみで決断した結果でもあったのだ。金獅を黙って売り飛ばしに行かれたのは一刀にとっては許し難い話ではある。だが、だからと言って目の前の困窮に喘ぐ老人を殺すことなど出来る訳が無い。金獅は確かに、傍目から見ても雄大な馬格を持ち、一刀が手入れをしているからか艶も良い。見栄えも明るく、何より屋敷が五つは建つ金でわざわざ袁紹が買った馬である。見る人が見れば、高く売り飛ばせることだろう。ともすれば、邑の一季節を養う事すらできるかも知れない。しかし。「……」 黙して地に頭を擦り付ける事をやめず、震える老人を一瞥する。そして、一刀は震える自分を抑えることが出来ず、目を閉じて視界から追い出した。どれだけの時間が経ったか。一刀はゆっくりと踵を返して家を出た。金獅がおらず、邑の人間に出来る事は無いとなれば、この場に居る必要は無い。この手に愛馬を取り戻す為に、急がなければならない。「お許しくださいませっ! お許しくださいませ!」「どうか、我等の為にお許しを!」 そうして家を出た一刀を出迎えたのは、村長と同じように頭を下げる数十人の男女であった。砂利が額を打つことすら躊躇わず、嘆願するその姿に一刀は思わず見入る。一刀が出た扉から、転げるようにして村長も一刀の前に来ると、同じようにして頭を下げた。口から出るのは許しを請う言葉だけ。その姿に、一刀は一歩、足を後ろに下げた。昨日笑い会って酒を飲み、友だと肩を叩きあった男が居た。それが、一転して自分の大切な相棒を盗み出し、泣き顔に目を腫らしているのである。目の前の事が、一刀は受け入れがたかった。「……頭を」 震える口は、小さな言葉をかけて噤まれた。顔を伏せ、一刀は一つ唇を舌で湿らせると、大きく息を吸い込んで開いた。「……頭をっ、あげてください」「いいえ、それはなりません。 "天の御使い"殿」「っ、か、戯志才殿、何故ここに」「……い、今……な、なんと?」「て、"天の御使い"?」「何を、俺は陳寿だ」「申し訳ありませんが、馬の名を金獅と叫んでおりました。 私は知っています、巷で噂される"天馬"の名が 『金獅』 という名であると。 考えてみれば、武威に留まっているという話も腑に落ちない事です。 偽名を使っていることも納得できます。 もしも"天の御使い"が中央―――」「よせっ! 喋るな郭嘉っ!」 声を荒げ、一刀は少女の口を止めた。今までに無い強い口調で、一刀は鋭く命令のように発したのだ。その姿は邑の人間に少女の言う事が本当なのではと信じさせるに足りた。全員の表情が強張り、口は半分ほど開けられて歯の根を振るわせる。「申し訳御座いません、過ぎた真似でした」 これ見るようにと、郭嘉は恭しく両手を組んで頭を下げる。まるで、王侯に仕えるかのように、その仕草は堂に入っており凜としたものだった。邑の者は彼女のこの行いを見て、ついには確信に至る。目の前の者は大陸を救うべく西へ東へ駆け、腐敗した漢を見かね天より降りた御使いだと。自分達がそのような、帝と同じ権威を持ち天上のような頂に居る者へ何をしたのか。天に逆らい、天馬を盗み、大変な無礼を働いてしまった。それはもう、動かしようの無い事実として露見され、怒りに震える"天の御使い"が居るのだ。「……て、天よ」「お許しを! 浅はかでございましたっ!」「どうかっ! どうか邑の者だけはっ……どうかっ!」「我等にお慈悲をくださいませ!」 口々に叫ぶ老若男女の声に、一刀は鋭い視線で郭嘉を射抜いた。ところが、少女は頭を下げたまま一刀の強い視線には気付かない様子で、そのまま口を開く。助けてくれ、と叫ぶ声の中、静かであるはずの郭嘉の声は一刀の耳朶を確実に震わせていた。「帝から天代という、天に代わる役職を戴いた者が、かように不義を働く者を生かしてはなりません。 ここで許されれば、今後も天が理由さえ在れば悪道を許す事だと世間に知られることでしょう。 そうなれば、馬だけでなく田畑を耕して得た穀物や家畜のみならず、いずれは人を殺める者すら現れます」「郭嘉さん、やめてくれ」「この者達は、飢えを理由に天子の馬を盗む大罪人です。 法に照らし合わせ親、子、親族全てを捕らえて斬り捨てましょう。 もしも許すとなれば付け上がります。 少なくとも邑の人間は全員、処するべきです」「っ」 一刀が我慢ならず、声を荒げようと口を開いたが、不自然に身体が揺れてその口は噤まれた。頭を下げたままの郭嘉が、チラリと様子を窺えば、感情を完全に押し殺したかのように無表情であった。(何で止めるんだっ!)『本体、落ち着け、分かった』『彼女は試してるんだ、天の御使いだと知って、俺がどう出るのかを観察してる』『ここで怒ったら、みすみす逃すぞ』(じゃあどうするんだ!)『それは……待て、考えよう』「……」 郭嘉の袖から覗く鋭い視線に、本体の主導権を奪った"無の"が暫し茫洋と立っていたが、ふっと天を見上げると、暫しして笑った。思わずと言った様子で、下げていた彼女の顔が上がる。身体を震わせ、顔をしわくちゃにして裁可を待つ邑の人間が、その笑顔に惹き付けられるように視線が集まった。一刀はわざと視線が集まるのを待ってから、腰にさした刀を抜く。 甲高い音が響いて、その刀身は天に向かった。深く吸い込んだ息を爆発的な勢いで吐き出す。それは、戦の号令のように山間に響かせていた。 「この地の作物が育たたず、飢えを抱えるのは天意であった! その天の意において、天の御使いである私がこの場に現れたのもそうだと言えよう! では、そなた達の罪は人によって裁かれるべきか!」 そこで一刀は郭嘉を見る。視線を向けられた郭嘉は、驚きに目を開き、一つ唾を飲み込んだ。「天によって罪を犯さば天によって裁かれるべきだろう! これから三日以内に一滴でも慈雨が地を濡らせば私は天意に沿って皆を許すことにする! もしも! 三日経って一滴でも降らねば全員の首を獲る!」 宣言とともに、一刀は天に向けた刀を地向けて突き刺した。金属が地面を打つ音と、甲高い笛のような音を響かせて、一刀の手に地を打った痺れるような衝撃を残す。「あ、ありがとう……ございます……」「己に疚しい事無く、やむを得ずにしたことならば顔を上げて天命を待ってくれ」 その声を最後に、一刀は踵を返して村長の家の前にドカリと座った。郭嘉は、そんな一刀の姿を呆けたように見ていた。彼女の予想では、仁君ならば斬らず彼等の窮状に情けをかけるだろうと考えていたからだった。まさか、天に任せて待ち呆けることを選ぶとは思ってもいなかったのである。それに、あの怒りは並大抵の物では無かった。誰が見ても、一目で歯を食いしばり怒りを封じ込めようとしていたのが分かったはずだ。だというのに、急に表情を消したかと思えば笑みを見せた。郭嘉の言葉は、民に流れる噂と照らしあわせば、邑の人間にとって真実であった。天代への不遜は帝への不遜。 天代に罪を犯さば帝に罪を犯したのと同義なのだ。そして―――一刀の言葉も噂に照らせばまた真実だった。一刀は天の人であり、帝も天の人である。であれば、裁可を下すのは天に任せるべきであり、その理屈は郭嘉の言葉と代わりは無い。天が許したのならば、それはすなわち天の子が許すことであり、御使いが許すことになる。この場に居る人間は僅か数十人。それでも、掛け替えの無い人の命には違いないのだ。天に預け人の生死を決めるなど、普通の人間では出来ない。「……」 乾いてもいないのに郭嘉は唇を湿らせて目を閉じた。これが、"天の御使い"の道なのかと。 そして、この日から一刀はその場を全く動かず空を見上げ続けていた。誰が家の中に入るように促しても、まるで石になってしまったかのように。村長の家の前の段々に陣取って、胡坐を掻いて座っていたのである。―――・ 早くも二晩が過ぎて、三日目の朝日が昇り始めていた。置かれた食事に手をつけて、空になった器を横にどかす。それから、もう見飽きたと言っていい場所から邑の中を見回した。まだ朝日が出たばかりの時間だというのに、邑の人間は全員が起きており、数刻過ぎれば空を見上げていた。金獅を売り飛ばしたという男も既に戻ってきている。謝罪の言葉と涙を前に、一刀はただの一言すら発さずに黙っていた。 太陽が真上に昇る。雲はあるものの、雨の降る気配はまったくなかった。微動だにしない一刀の下に、郭嘉が前に立つ。歩いてくるのを眼を開けて見ていた一刀は当然気付いていたが、やはり口を開く事は無かった。「……御使い様、隣に座ることをお許し下さい」 郭嘉は歩みを止める事無く、一刀の横に腰を降ろして空を見上げた。郭嘉が失礼します、と口を開いたのも、それが最後であった。隣に座り、空を見上げて膝を抱えて、それだけだった。一刀もまた、時に目を閉じ、空を見上げては開き、また閉じるだけであった。 沈黙は長く続いた。赤く染まり始めた頃、郭嘉はついに空を見上げることを止めていた。鳥の鳴き声が響く、夕焼けの陽射しを正面に捉えて、この場に現れてから三回目の言葉を一刀へ投げかけた。「雲ひとつありません。 御使い様……雨は、降りません」 一刀の体がゆらりと上下に揺れた。ゆっくりと瞼を上げる。開けた視界に、郭嘉が跪き頭を下げる姿が飛び込んで来た。「御使い様、お許し下さい」「郭嘉さん、貴女は俺を試していた」 三日ぶりと言っていい声質が郭嘉の耳朶を震わせていた。そうなのだ。天の御使いと知り、どのような判断を下すのか、邑人達の企みを出汁に煽ったのは自分であった。許せば口では甘いと罵りながらも、その懐の広さを良しとしただろう。許さねば、口では同意しながらも、濁を飲み込む芯を持って良しとしたはずだ。怒鳴り散らせば、或いは答えを出さぬようならば、見切りをつけて曹操の下に走るつもりだった。だが、委ねたのは天。答えを出さないという回答に一番近いが、"天の御使い"の名声が虚名でない彼でなければ出来ない采配だった。「天に委ねたのは俺だ。 郭嘉さんが何を言っても変わらないよ」 それだけ言って、一刀は再び目を閉じた。一人、また一人と邑人は家から出てきて、一刀の前に集ってくる。郭嘉は跪いたまま、邑人達の視線を背中に受け止めて頭を下げながら続けた。彼女の凜とした声を聞きながら、一刀は顔を地に落とす。「此度は私の浅はかさが原因です。 御使い様を試すような不遜が―――」「郭嘉殿……」「村長、しかし……っ」「もうよいのです。 我等は天に―――」 村長の言葉も言い終わらぬ内に、一刀が突然立ち上がった。今まで、その場をまったく動かなかった一刀が、何の前触れも無く。郭嘉も邑の人間も、こぞって空を見上げていた視線を落とし、一刀へと向かっていた。一刀は無言のまま歩き三日間、地面に刺さりっ放しであった刀を引き抜いた。山間に響く高い音。―――これで、終わりか。 一刀が刀を引き抜く光景に、邑の人間の全員が諦念めいた顔で頷いた。数十人の頭が上下に揺れ動き、嗚咽が響く。郭嘉が口を開こうと、足を一歩、踏みしめて。一刀は大げさに刀を振って音を鳴らすと、そのまま腰に仕舞った。懐から預かっていた、束になっている銅銭を出すと長に向かって投げ渡しながら口を開いた。「慈雨は来た。 天は赦し、私も赦す。 羊の肉は美味しかったよ、ありがとう」 それだけ残し、一刀は踵を返した。この場に集る全員が、何を言われたのか判らなかった。郭嘉ですら、空を見上げて呆然としてしまった。 雲ひとつ無い晴天。雨が何故、何処に、どうして降ってきた。まるで性質の悪い冗談を聞かされたかのように、全員が困惑していた。 そんな時だ。 一人の邑人の声が聞こえてきたのは。「おおっ! 天よ! ありがとうごじぁい……うあ、あああああああっ!」 途中から言葉にならぬように、悲鳴なような物を上げて邑の男はその顔を両手覆っていた。郭嘉はその男の様子に表情を変えて近づいた。そこは、先ほどまで一刀が座り込んでまったく動かない場所であった。地面には一滴の滴が確かに地を濡らしていたのである。「……まさかっ」 邑人が肩を抱き合い、顔を顰めて号泣する姿すら無視して、郭嘉は一刀を追った。思い出せ。一刀はなんと言ったのだ。邑の人間が集り、謝罪に咽び泣いていた中、郭嘉の詰め寄る声を笑顔で掻き消し、宣言した事を。―――3日たって、"一滴"でも地を濡らせば赦す。 そう言った。間違いない、郭嘉自身もこの身で確かに聞いたのである。雨は降らなかった。だが、地を濡らすのに雨は必要ない。それこそ、ただの一滴であれば。 郭嘉は久しく走りこみ、肩を上下に振って荒い息を吐き出しながら追っていた。一人の男を視界に捉え、呼気の荒い息を吐き出す。最後に、深く口から息を吸い込むと、その背に向かって叫んだ。「お待ちをっ!」 一刀の足が止まる。振り向いた一刀は、郭嘉が必死の形相で追う姿が。「はは……」「御使い様っ! もしや、涙を流されましたね!」「ぶっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはははははっ!」「っ……」 一刀は笑った。それは、馬鹿にするようなものではなく、快活な笑いであった。夕陽で赤く染まる山間の中。一刀の爆笑は山中に響いていた。「酷いお方です……人だけでなく天まで騙そうだなんて」 釣られたように笑みを浮かべ、不満そうに尋ねる郭嘉に一刀は目尻を拭った。 そして、底意地の悪い笑みを浮かべて言ったのである。「天の涙には、違いないだろ?」 その言葉に、郭嘉は溜息のような物を吐き出し、降参だと両手を挙げた。一刀は楽しそうに笑いながら、郭嘉へと声をかけた。「なぁ、郭嘉さん。 俺と一緒に来ないか? 暫くは、見聞の旅って奴さ」「っ……そう、ですね。 分かりました。 見事に一本取られましたので、仕返しするまでは供をしましょう」「それで"天の御使い"はどうだったかな」 一刀は歩きながら、意地の悪い笑みを浮かべていた。郭嘉はそんな一刀の横顔に一瞬言葉に詰まり、足を止めると、両手を振って大声で言った。山彦が返ってきそうなほどの声量であった。「意地悪な人ですっ!」「はは、酷いな」「でも……優しい意地悪ですね」「……ありがとう」「ふふ、目下は何処に向かうのですか?」「金獅を取り戻す。 買ったという黄忠を探そう。 漢中から南に向かったらしい」「蜀ですね」「ああ、そうだ。 俺の事は一刀って呼んでくれ」「分かりました……ところで、何故私の本名を知って居るのです?」「……えーっと、はは」「着いて行く理由が一つ増えました。 一刀殿は隠し事が得意ですね」 この日の出来事は後世にまで逸話となった残った。天の御使いは、天馬を盗まれ激怒したが、慈雨の一滴によって罪を許したというものだ。一刀の足は、肥沃な大地と険難の要害を抱える蜀へと向かった。少女を一人、供に加えて。 ■ 外史終了 ■