clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~clear!! ~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編1~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編2~☆☆☆ ■ 天険突破 いくら何でも、少し考えが甘すぎたか。そう後悔するのはそう遅くなかった。金獅を売り飛ばされて、一刻も早く取り戻そうと蜀へと向かう足を早めたが、険難峡谷をすぐに乗り越える事は難しかった。天から鉈を振り落とされて山が割れたかのように深い谷。一歩踏み外せば、そのまま谷の底まで落ちていきそうなほど高い場所。だというのに、通れそうな道は自分の体躯の横幅よりも狭く細い間道しか無い。「くっ、これなら近道なんかしない方が早かった……」「だから、忠告したのです……」『だから言ったのに』 息を切らせて歩く郭嘉と脳内の声を意図的に無視して、一刀は頭を掻いて後悔した。分かれ道に差し掛かった頃、山を登る道と迂回して大回りする道に別れていた。脳内の自分達と郭嘉、あわせて九人中、七人が迂回する道を支持したが一刀はより都に近い横断の道を選んだのだ。使う人間が少ないとはいえ、通る人が居るのならば通れない筈は無いと考えたからだ。ちなみに、無回答どころか話にも参加しなかったのは"肉の"で、通れるんじゃないかと支持したのは"南の"と、初めて蜀の地を踏む"白の"であった。どちらも楽観的に見た結果である。で。『本体、いい格言を教えよう。 急がば回れだ』『"白の"が言うと説得力があるな』『文末に(笑)をつけてあげよう』『……"俺"はともかく、郭嘉さんが居るんだ、性急すぎたんだ』『もう何も言わないよ……』 好き勝手語りかける脳内の声を追い出して、一刀は一歩間道に踏み出した。向かって右側はほぼ九十度の断崖がそそり立っている。左側はもちろん谷の底だ。踏み出した一歩目、一刀の足が接地すると同時に細い通路から小石が弾かれて谷の底にパラパラと落ちていった。乾いた音がいやに耳朶に響く。後ろで、ゴクリと唾を飲み込む音がはっきりと聞こえてきた。「一刀殿、本当にここを渡るんですか?」「う、うん。 今更引き返せないし……」「ですが、これは……っ」 姿は見えないが、谷底をおそるおそる覗いているのだろう。小さく息を飲み込む声が聞こえてくる。「下を見ちゃ駄目だ。 なるべく早く焦らず急いで正確に行こう」「は、はぁ……」 一刀もチラチラと視界の端に映る崖下の光景を無理やり追い出して、二歩目を踏み出す。その背を追いかけるように、腰を引かせつつ郭嘉も後を追った。前を見据える一刀は、ぎこちなく、時に地面から離さずにすり足で着実に歩いていく。足場の細い険難峡谷の道は僅か数百メートル。慎重にならざるを得ない場所だからか、一刀と郭嘉の掌にはじっとりと汗が滲んでいた。お互いに歩き始めてからは一言も喋らなかった。全神経を集中して足を踏み出し、右手の断崖に手をかけ、時に腰を落とし、前だけを見て進んでいた。そんな二人の精神を揺さぶるように、強い風が土埃を伴って吹いてくる。耳の奥を揺さぶる風の音、その風圧。二人共、進めていた足を留めて右手の崖に背を預けて、突き出た岩地を力を込めて握っていた。すぐ隣の少女の荒い息づかいが聞こえてくる。チラリと様子を窺えば、今の風のあおりを受けて、崖下を捉えてしまったのか。顎を持ち上げて呼吸を落ち着けるように胸元を手で押さえながら、目線だけは下を向いていた。一刀も郭嘉の視線に釣られるように、崖下をあおぐ。背筋を震えが走っていった。『郭嘉さん、なんか……』『ああ、なんかエロイな……』『確かに』『おい、やめろ』『はは、まぁ、この調子なら渡れそうだね』『一度渡れれば、次も大丈夫だろうし』(つ、次……?)『あと4箇所くらいかな。 ここ以外に後一箇所だけ長い崖道があるんだ。 そこから下り道になるよ』 一刀は脳内ナビゲートには常に助けられてきたが、今の情報は出来れば聞きたく無かった。「か、一刀殿、早く、早く進んでください」「ご、ごめん、分かった」 それから一刻半ほどの時間をかけて、本体は脳内に励まされ、郭嘉は一刀に励まされて無事に広い道へと足を付けることが出来た。情けない話しだが、一刀の膝は震えていた。このまま腰を落ち着けて、一心地つきたいところであったが、今のような道がまだ続くのかと思うと憂鬱となる。もしも足を休めてしまったら、今日はもうこのまま動けなくなってしまいそうだった。郭嘉もまた、思わずと言った様子でへたり込み、顔を伏せて安堵の溜息を漏らしていた。それを見て、一刀は思う。この先も同じような場所が後3箇所あるんだよ、と教えるべきか。だが、そんな事を口走れば地勢を知っているのに、どうして迂回しなかったのですか? と問われるかも知れない。一刀だってこんな場所だと知っていれば、避けていた。一刀はしばし悩んだ末、脳内に相談することにした。『やめた方がいいね』『だな』『なんで?』『郭嘉さんはほら、俺に会う為にわざわざ曹操の下を離れて来たんだろ?』『そう言ってるね』『彼女の事だから、"天の御使い"の噂はほとんど拾っていると言っていい』『あー、稟ならそうだろうなぁ』『で、つまり、何が言いたいんだ?』『ドS疑惑が……』(……) そんな噂もあった。いたいけな少女を虐めて下卑な笑みを浮かべているという、一刀からすれば噴飯物の苦い思い出が。すっかり一刀も忘れていた話だったが、"天の御使い"の噂話は、良し悪し問わずに天下を駆け巡っている。金獅の馬を盗んだ、あの小さな邑でも伝わっているほど。後世に名を残すほどの智謀の士が、その噂を知らないはずがない。この険隘(けんあい)の道を選んだのが、反応を見て楽しむ為などと思われては溜まった物ではなかった。「ふぅ、すみません……お待たせしました」 汗を掻いたのか、胸元のあたりの服をパタパタと引っ張りながら立ち上がる郭嘉が言った。口元に僅かに達成感を得たような笑みを浮かべ、泰然と佇む一刀の下に歩み寄ってくる。「はは……行こうか」「はい、行きましょう」 結局、一刀は何も言わなかった。―――・「ほ、ほら、郭嘉さん」「……」 都合四度目の渓谷の細道。一刀が身振りで促すも、郭嘉の足はビタっと大地に根を張ったかのように動かなくなってしまった。それも仕方が無いことだろう。一刀自身、"南の"に飛んで渡ってもらったのだ。崖の道は非常にも、半ばで崩れており約一メートルほどとはいえ、道が無くなっていたのだ。一刀が大股で一歩踏み出して、ギリギリ届くか届かないか。深い谷底へと落ちるかもしれないという恐怖が、その一メートルの溝を長大な物にさせていた。「っ、あはっ……」 人間、感情が膨れあがると、最終的には笑うものだ。 郭嘉は崖道の途上でそんな風に思った。ぬか喜びも二度、三度と続けば、四度目もあると覚悟は決まる。そうだ、崖の道を歩く覚悟は決まった。 だが、道が無いとは聞いていない。何度か風で揺られつつ、崖の道の上で虚しく響く、くぐもった郭嘉の笑いが中空に消えていった。 確かに、一刀が大切にしていた馬を盗まれたのは自分が行き倒れたせいもある。それは分かるし、一刀を間近で見極めようと決めたのは自分である。"天の御使い"であることを差し引いても、何処か惹き付けるお方だとも。しかし、何故自分はこんな場所で強風に煽られ、崖道に立ち竦み、地味に命の危険に晒されているのだろうかと。素直に迂回していれば、こんな目に会わずに済んだはずだ。急いでいたのは理解できるが、馬と人間の足では速度に天地の差があるではないか。どうせ追いつけないのなら、回り道をした方が安全だし結果効率は良かっただろう。 目の前で自分を安心させるように笑顔で手を差し伸べる一刀を見て、やにわに顎を引いて崖下へと視線を落す。おかしい。こんなに深い谷の上、人の足二つ入るかどうかの細道で、どうしてそんな風に笑っていられるのだろうか。堕ちたら終わりではないか。天文学的な確率でよしんば命が助かったとしても、寝たきりになるに違いないのである。もしかして、自分を虐めて楽しんで居るのだろうか。邪推だと頭の中では分かっていても、感情はそう思わずにはいられなかった。"天の御使い"だというのなら、いっそ自分の身体を抱えて空を飛んでくれれば良いのに。いや、やっぱ怖そうだからそれは断ろう。郭嘉の思考が彼女らしからぬ益体の無い考えに及んだ時、一刀は口を開いて提案を持ちかけた。「分かった、じゃあ手を掴んで。 たとえ踏み外しても、俺が絶対に引っ張り上げるから」 今日何度か分からない、恐怖に身を縮ませる郭嘉の耳に一刀の力強い声が入ってくる。そんな彼に恨めしそうな視線を送る一方で、頼もしい声に期待を送る。ゆっくりと差し伸べらた手を掴まれた。「合図を送ったら跳んでくれ」「は……」 震えた声は、言葉にならなかった。しっかりと肯定を返そうとしたのに、脳の命令を体が上手く実行してくれない。ぐっと掴まれた腕が痛むほど、一刀の手に力が篭る。一刀もまた、突き出した岩肌で身体を支えるように腕に力をこめていた。どちらにしろ、このまま一生を過ごすわけには行かない。郭嘉は覚悟を決めたのか、目を硬く瞑りながら宣言した。「分かりましたっ、い、行きますっ!」「来い!」 動かない足を叱咤して、深い谷底へと繋がる溝を飛び越える。腕を伝って一刀が引っ張りあげる力が強くなったのに気がついた。身体は空を舞って、地面に着地―――できずに異様な浮遊感を感じて数瞬、重力に引っ張られて堕ちていく。目を瞑りながら飛び出したのだから、着地などできるはずが無かった。「ぎゃああああああっ!」「か、郭嘉っ!」 少々、はしたない悲鳴を上げながら体が中空をさ迷った。一刀に腕を捕まれて、堕ちていく身体が止まった。勢いがついていたから、ぶらりと足が揺れていく。恐怖にたまらず郭嘉の閉じた瞼が上がった。視界に広がるは険難峡谷。岩肌と太陽。耳の奥を揺らす風と木々。そして、中空で重力に引っ張られている己。郭嘉の思考能力はぶっ飛び、真っ白に塗り替えられた。「かかかかかか、一刀っ殿、落ちっ、しにしにっしに死にますっ! 九分九厘死にますっ! 空を飛んでっ、飛んでくださいっ一刀殿っ」「無理だって! 飛んだらそれこそ死ぬからっ! 落ち着いてっ掴んでるから暴れないでくれっ!」「そら、空がっ、堕ちてっわわわ」 途中からはもう、言葉にならない悲鳴をあげて、とにかく身体を振り回した。丈の短いスカートが断崖に引っ張られ捲りあがり、眩しい白い肌を曝け出す。一刀はたまらずバランスを崩しそうなところ、"南の"に支えられて必死で郭嘉の腕を掴む。言葉はもはや通じなかった。なんとか無理やり引っ張りあげて、包み込むようにして郭嘉の背に手を回す。震えて目尻を潤ませる彼女を落ち着かせるように、耳元で大丈夫だと囁く。「ハッ……ハァッ……ヒッ、はっ……か、一刀殿……」「大丈夫だ、もう平気だから。 もう少しだ」 郭嘉は背中から胸の下にかけて回された一刀の腕を掴み、痛いほどの抱擁を受けて冷静さを徐々に取り戻すと同時。じんわりと感情を揺さぶられて、眦をとろんと下げた。胸板に体重を預けて顔を寄せると、力ない拳をペシペシと当てる。一刀は片腕だけでも抱え込めるほど華奢な郭嘉の身体に抱きつつ頭を振った。「ひ、酷いです、こんな道……死んだら終わりなんですよ、う、恨みますから」「ごめん、でも大丈夫。 もうすぐ終わるから……」 ようやくその身の震えが収まり始めた頃、郭嘉は冷静さを取り戻し始めていた。これほど焦燥したのは郭嘉自身すぐには思いだせ無い程、久しぶりの事であり、それがなんとも恥ずかしい。顔を赤くした彼女は、一刀に抱かれている事実も相まって照れを隠すようにまくし立てた。「い、意地悪な人ですっ、変態です……こうやって、どうしようもない状況から頼らせるだなんて、あまつさえ抱き込みどさくさに紛れて胸を揉みしだいて…そのまま一気に行こうと―――」「あ、いや、これは事故で、別にそんなこと……」『やばいっ、止めろっ!』「え?」「押し倒されて文字通り後の無い崖の上、身動きをすることすら許されず……はっ! 既に服の裾まで捲ってっ何と言う手の早さっ、まさか前戯もなしに貫通して破瓜を楽しもうと―――ぶはぁっ!?」「うわあああああっ」 吹きすさぶ峡谷の空に、赤い花が舞った。狭い険難の道。不安定すぎる足場から、抱えられたまま昏倒した郭嘉を支えようと一刀の身体が泳ぐ。ゆらりと二人の身体が空に投げ出された。 ああ、西陽が綺麗だ。そんな思いを抱く一刀の状況に気付いた"肉"のは、無言で主導権を奪うと郭嘉を器用に手繰り寄せて抱えると垂直に立つ崖を地面にしたかのように力強い足取りで、絶壁を伝うように"駆け"抜けた。物理法則に従って谷底に落ちていたかと思えば、ぐるりと視界が回って物理法則を捻じ曲げて中空で方向転換する。しかも速い。レールの無いジェットコースターに乗り込んだようにも思える。崖には一刀の足跡がクッキリと残され、踏み込んだ形跡を残すように、砕けた岩石が音を立てて谷底に吸い込まれていった。第三者が目撃していれば、一刀が空を走っているかのようにも見えただろう。郭嘉が持病の発作を噴出してから僅か二十秒足らず。ついに、二人は険難の崖を踏破することに成功したのである。―――・ 渡りきって一刀は一様に押し黙り、主導権を奪っていた"肉の"は言いづらそうに頬を掻いてぼそりと呟いた。「ごめん、寝てたんだ」 申したいところは其処ではなかったが、改めて聞くのも怖かった。『……ハハハ、こやつめ』『ハハハ……』(……) 乾いた笑いで誤魔化す脳内の声に、本体は今度こそ腰を落としてへたりこんだ。誰かが、もうお前一人で良いんじゃないかな、などと呟いていた。本体は心中で同意して、そのまま大の字に寝転んだ。その日、郭嘉の血にまみれた一刀がそこから動く事はまったくなかったという。 ■ 血の防波堤 自然の要害を抜けた一刀達は、一人分だけ道ができている細い間道を縫って峡谷を抜けた。気兼ねなく歩くことが出来る大地がこれほどありがたいとは、と感動しながら歩く。まだ陽はあるものの、道中で小川を見つけた一刀は、振り返って後を歩く郭嘉に声をかけた。「今日はこの辺で休もうか」「……」 郭嘉は無言で了を返した。あの渓谷を越えてから目に見えて口数が減った事に、少し心配になってしまう。川のほとりまで降りると真夏の厳しい暑さが嘘のように、涼やかな風を運んでくる。さっそく野営の準備に取り掛かり、獣避けの焚き火を囲い、粗末な食事を取る。大陸の各地を巡って慣れているはずの郭嘉が、食事を取り終わるやいなや、船を漕ぎ始めたのを目にして一刀は小さく息を吐いた。言ってしまえば、金獅を盗まれてしまったのは歓待を受け入れ油断してしまった自分にもあるのだ。道行拾ってしまった彼女に無理をさせていると、罪悪感のようなものが擡げてくる。一刀は物音を立てないように立ち上がり、流水の音を奏でる川辺の流木に歩み、腰を降ろした。「蜀の都はどのくらい先かな」『徒歩だと四、五日くらいかな』『南蛮が近づいてきたなぁ~』『はは、"南の"は嬉しそうだな』『だねぇ』 こうした旅路の中で、戻ってこない"董の"や"馬の"の事。そして本体が翠や月に音々音の想いと重なるような、情愛の念が溢れている変調。これらは脳内でも話し合いが既に成されており、一刀達の結論としては華佗の忠告もあって『消えた』と判断していた。一刀達は"董の"や"馬の"が辿った外史を聞いている。どちらも死を迎えたことによって終わりを告げ、本体の中で眼が覚めた。彼等だけでなく、それぞれ差異はあれど本体の中で眼が覚めた経緯は同様だった。誰かが言った―――『案外、幽霊になって本体に憑いたのかもね』 ―――なんて話は、オカルト染みてはいたが、既に超常現象と言って良い自分の状態に、一刀達にとって納得できそうな論であった。長きに渡って考えていた自分達の状況は、"董の"や"馬の"が消えてしまった以上、答えの一つが出来たと言っていいだろう。本体が自分達の影響を受けて、自分の愛する者を愛するというのは、ちょっと思うところが無いではない。だが、どちらかというと迷惑をかけて居るのは脳に住んでいる自分なのである。もしも本体だけでこの外史に落ちてきたのであれば、どうなっていただろうか。たらればを考えても詮の無い事ではあるのだが。 本体はそっと円形の小石を選んで拾い、川に向かって投げ入れた。水しぶきを幾つかあげて、転々と水上を歩いて、やがて落ちていく。空は赤く焦げて、今にも夕闇に染まりそうであった。 本体は投げた体勢のまま、動かなかった。自分が土地勘も常識も持ち合わせていないこの場所で生きてこれたのは、脳内の自分達が支えてくれたからだと思っている。同じ北郷一刀であっても、経験のない自分を引っ張り上げて導いてくれた先輩みたいなものだ。感謝している。その感謝に報いるためにも、ねねを愛した自分のように、彼等の愛した物。いわば、恋姫と言える彼女達へ会わせてあげたい思いを持っている。それは今も変わらないが、しかしと思うところもある。(みんなの想いが流れ込んできたら、俺の本当に大切な人を忘れてしまうかもしれない) 一刀が触れ合うことで恋姫達の感情を揺さぶるように、自分にも影響が出てしまっている。それは、すごく漠然としていて明瞭に出来ない心の奥底から沸く感情だ。正直、扱いがたく、怖い。心底、一刀はそう思っていた。それだけで翠や月を含め、一刀が触れ合った人たちの強さを見た気がした。二人共、こんな不可思議な現象を受け入れるだけじゃなく、前を見て歩いているのだ。『……それ、なんだけどな』 ふと、脳内の誰かが呟いた。『俺達は良い、ただ、物凄い重要な問題があると思うんだ』『……ああ、そうだな』 しみじみと、他の誰かが頷いた。『頼むから"肉の"は本体から最後まで消えないでくれないか』『消えるとしても本当に、最後にしてくれ』『ああ、最重要事項だ』『もしも俺達より先にお前が消えたら、本体が大変な事になる』『乗じて、俺達まで大変な事になる』『そうなると頭がおかしくなって死ぬ』『つまり、本体が詰む』『詰んでるというか、詰んでた、になる』『みんな酷いな。 貂蝉は見た目はともかく良い奴なんだよ』「俺は見たこと無いから、なんとも言えないけど……そこまで言われると会ってみたくなるなぁ」『本体ェ……』 なんだか万感の思いが篭る声色で、自分を哀れんでいるのか羨んでいるのか本体は判らなかった。『いや、分かってるんだ、俺と同じお前が言うなら信じるよ』『俺も"肉の"は信じるよ、でもそれとこれとは話が別だよね』『そうだね、身体能力がおかしいとかそういう問題は細事だよ』『ああ、別だな』『次元が違う』『……』『いや、俺も貂蝉が嫌いな訳じゃないんだぞ?』『ただ、その、荷が重いというか、なんというかだな』 全員が声を揃えて言うものだからか、"肉の"はやがて押し黙り、なんか気まずい雰囲気が立ち込め始めた。怒っているのか、それとも聞く耳を持たない話だと断じたのか。結局、"肉の"を慰めるのもそこそこに、本体が会わなければ良し。会っても逃げれば良しという事で決着はついた。少なくとも、最後の最後までは、そのスタンスを貫いてくれという嘆願に、本体は曖昧に頷いたのである。「まぁ、まずは金獅を取り戻さないとね」『そうだな、ただ―――』「ただ、問題はありますね」 まるで脳内との会話を聞いていたかのように、水面を見つめる一刀の背に声がかかる。振り向けば、眠っていたはずの郭嘉が眼鏡の居住まいを正しながらこちらに歩いてきていた。「おはよ」「ええ、うとうとしてました……不覚です」「はは、疲れてたんだ、仕方ないよ。 それで問題って?」「気付いているとは思いますけど、黄忠は金を出して馬を買い取っていますから。 ただ会いに行って返してくれでは納得はできないでしょう。 名馬とあれば尚更、手元に残したい欲はあるはずです」「そうだね、俺もそう思うよ……郭嘉さんは良案でもある?」「ありません、と言いたい所ですが、一刀殿は"天の御使い"ですから、そこから光明は見出せますよ」 そこで言葉を区切ると、一刀の腰掛けている隣に座り込む。流木がバランスを欠いて、僅かに揺れ動いた。わざとらしく、拳を作った手を口元に寄せて咳払いを一つ。郭嘉はそのまま握った拳から指をピョンと一本伸ばして口を開いた。「黄忠は益州牧の劉焉に仕えていると聞きます。 "天の御使い"の噂も知っているでしょう。 清廉な者なら、事情を知れば返してもらえる事も可能だと考えます。 ただ、一刀殿は王朝からは追放されていますから、馬を欲せば見逃す代わりに譲ってくれと言うことも考えられますね」「ああ、その辺は黄忠さんや劉焉さんが俺の事をどれだけ知っているのかで変わってくると思う」 一刀も勿論、急いで金獅の背を追う一方で、取り返す方法を考えていた。金を払って手に入れたという、れっきとした大儀が向こうにはある。加えて"天の御使い"は中央から追放されていることも一刀の弱みだ。買った金獅をどう扱うつもりなのかも分からない。主である劉焉へ献上したとなれば、非常に難しい問題になるだろう。最悪、諦めることも視野に入れるつもりだった。いかに戦場を供にした相棒だとはいえ、馬一頭で自身の夢を捨てるわけには行かないからだ。「まずは黄忠と直接会えるように窓口を築くのが常套かと思われます」「うん」「それと、一刀殿は付けられた値段に納得はいきますか?」「値段?」 郭嘉の言葉に、一刀は一瞬視線を交わして自問するように口を開き、両手を併せて考え込んだ。千金で即決されたという話である。寒村ひとつからすれば破格の値段と言えるが、一刀は金獅を金銭で考えたことなど一度も無かった。いや、屋敷がどうのこうのという部分にはぶったまげはしたが。金に代えられない大切な相棒であると考えているのだ。同じ金額を一刀に差し出されても、金獅を譲ることは無かっただろう。黙った一刀に、彼女はなおも言葉を続けた。「相手が買ったのだと主張したら、強気にふっかけるのが良いかと思います」「そんなことしたら、怒らないかな。 それが切っ掛けで捕らえられるのは困るんだけど」 武威の地でやらかした失敗、何度も繰り返すわけにはいかない。「対外的には追放を知らない民草から見れば、一刀殿は無二に英雄です。 殺すことは風評を気にして劉焉は避けるでしょうし、手元に於いておくのも王朝の目を気にして忌避するはず。 馬一頭諦めることで問題がなくなるのなら、よほどの馬鹿でない限り躊躇はしないでしょう」「馬鹿だったら?」「その場合は逃げましょう。 愚者の相手は疲れるだけです、諦めてください」「……」「ふふ、でも私は劉焉は馬鹿ではないと思ってますよ。 この地に足を運んだのは初めてですが、風聞は聞き及んでいますから」「なるほど……でもさ、馬騰さんのように捕らえる事はありえるだろ?」「それでも、拘束が長引くことは無いでしょう。 一刀殿をどんな形であれ抱え込む事。 王朝の者にとって、現状は不吉の始まりと考えるはずですから、臣下の反対も多いと思います。 それでも、わざわざ捕らえるとなれば、腹の底に別の企みが眠っていると推測できますね」「うーん」 つまり、捕まりそうになったら何が狙いなのかを問い質せば良いと郭嘉は言っていた。一刀の命は名声が守ってくれるから心配ないとも。最後に、一刀ならば及んでいた考えではあると思いますがと謙虚に締めくくって。一刀は頷いた。馬騰に不用意に近づいて投獄された経験もあって、最悪の事態を考えていたのである。黄忠と接触し、その主の益州牧の劉焉と会うことになる可能性はあるかもしれないと。そうなれば、追放された一刀にとっては困った事態になるわけだ。脳内から、黄忠の人となりを聞いている一刀は彼女とだけ話を進めたいし、それがベストだと思っている。「ありがとう、もしもそうなったら試してみるよ」「あくまでも今手元にある情報だけでの最良ですから、都で内情が探れればもっと良い方策はあるかもしれません。 不測の事態を考えて、一応話しておこうと思ったまでです」 一刀は郭嘉の言葉に喜色を含みつつ頷いた。最悪の展開を思い浮かべることは出来ても、具体的にどうすれば良いのかまでは思い浮かんでは居なかった。売れている名を持って強気に出れば良いと背を押してくれる声は、一刀にとって頼もしい物であった。ふいに、隣に座る郭嘉の体が揺れた。すっかり暗くなった星空を見上げて、両手をつっかえ、息を吐いていた。雲はあるものの、満天と言って良い星空だった。今では流石に見慣れた物の、この世界に降り立って圧倒された星が降りそうな夜空には感動したものである。「一刀殿」「ああ」「曹操殿のように立つことは考えないのですか?」「……封殺されるから止めろって教えられたよ」『超必殺技・ミコトノリがあるからなぁ』『3ゲージぶっぱされちゃうもんな』『ガー不だし』『しかもぴよる』『立った瞬間、賊に向かう矛先が逆賊になる俺達に向けられるんだよねぇ……』「えっと……それに、俺の志は現王朝の存続に拠っているんだ」 そう言う一刀に、空に向けた視線を落として郭嘉はその横顔を見つめた。「……なるほど、曹操殿とは相容れぬ訳ですね」「はは、やっぱり郭嘉さんの目から見ても、そうなるのか」「正直言いますと、曹操殿を見た時は背から龍が生まれてくるような錯覚を覚えました」 国を龍と例えることはこの時代の常である。郭嘉は言外に曹操の背に新たな国の兆しを見たと言っていた。なまじ三国志という知識を持っていた一刀には、郭嘉の言葉は胸に刺さった。誰に聞いても、一刀が知っている知者は口を揃えて言うのだ。漢王朝はもう駄目だ。乱世になる。それは正しいのだと一刀だって思える。それでも諦めないのは、同じように漢王朝を支えようとする志を持つ人が居るからだ。劉協、音々音、桃香や何進だってそうだ。「郭嘉さんは、どうするんだ?」「私は……」 一刀の問いかけに郭嘉は目を閉じて、小さく溜め息のような物を吐いた。曹操も一刀も主と仰げば龍の産声を見る事ができると感じた。間違いなく言えることは、一刀も曹操も志は違えど傑物だと言って良い。あの邑の一件だけではない。黄巾決戦、西涼平定、どちらも天運だけでは決して成し得なかった実績が一刀にはある。数多の噂に上るように、大陸の人間は一刀を見て歓声を上げている。英雄だ、と。しかし、民が本来見上げて敬い、歓呼して迎えなくてはならないのは帝なのだ。郭嘉はこの事から、龍の産声となれども、古龍の息を吹き返すには足らぬと判断している。「一刀殿の志は立派だと思います」「そうか」 それは漢王朝の存続を目指す一刀にとっては皮肉を含む返答に他ならなかったが、郭嘉の言葉は続いた。「ですが、一刀殿が立ち上がるのならば私は……」 郭嘉はそこまで言って口を噤むと、首を振って俯いた。そうなる事は無いだろうと気付いてしまったからだ。惜しい、と思わずに居られなかった。まだ間に合うだけに、もしも立っていれば曹操よりも一刀に仕えてみるのも面白いのではないかと思えたからだ。郭嘉も勿論、仕えるからには支えがいの在る者を主君に仰ぎたい。曹操の下には既に荀彧や風が居るのだ。自分の認めた数少ない一人"天の御使い"の下で、天下を賭けて知を競うのもそそられる話である。例えば、一刀が今立つとすれば、自分なら―――そんな眉間に皺を寄せて押し黙った彼女を見て、一刀は笑った。「ははっ、そんな顔するなよ。 悩むのはいいけど、顔を歪ませて選ぶような事でもないさ。 郭嘉さんの思う心根に従って出した答えが、君にとっての自然な回答だと思うよ」「はぁ……意地悪な人ですね、相変わらず」「え? なんでそうなるんだ……」「分かりました、もう少し悩むことにします」 郭嘉はふっと笑って、膝に手を置く一刀に掌を重ねた。突然触れられて、一刀はビクリと肩を震わす。「峡谷ではありがとうございました」「……いや、俺の方こそ、つき合わせてごめんよ」「いえ……でも、これで二度目です、ありがとうございます」「郭嘉さん……」 そっと触れられている手に、一刀を真っ直ぐに見つめる瞳。一刀の胸中が騒ぎ始めた。なんというか、良い雰囲気である。小川の流れる森の中、満点の星空の下で志を語らい、触れ合う男女の掌。一刀の脳裏に音々音の顔がふっと過ぎった。ダーイ、とか言いながら親指を首下に当てて切り裂いている。浮かび上がった映像を掻き消すように首を強く振った。「あ、すみません……」「いや、ごめん……嫌じゃないんだけど、急にその、どうしたの?」「えっと……自分でも良く分からないんですけど、一刀殿に触っていると何だか落ち着くんです」「……そうなの?」『あー、心当たりあるかも……』『"魏の"?』『いや、持病の歯止めの一助としてさ……鼻血と生涯を添い遂げるとか言うから』『あー、なるほど』『"魏の"、やはり特殊な性癖が……』『鼻血プレイとか……引くわ』『違うって、だからその鼻血を抑えるためにしょうがなくというかだな、華琳の事もあったし』『でも、確かにあれだけの出血量ではいずれ命に関わるだろうし。 鼻血の心配が無くなるなら、手伝うのは吝かではないけど』『え?』『え?』『これだから"無の"は……』『とはいえ、俺もあの出血量は心配だけどね』『まぁ、それは確かに』『おいおい……』『ここは一皮剥くのも手ではあるよね……』「一肌脱ぐじゃないのか」 思わず突っ込んだ本体の声に、郭嘉はパッと身を離した。ついでに腰ごと引いて後退り、両手を交叉させて頬を赤らめていた。脳内から溜息半分、茶化すような笑みが半分響き渡ってくる。ともすれば、すっかり脳内の会話で毒気を抜かれた一刀は、素晴らしく冷静であった。「か、一刀殿、いきなり何をっ何処を脱ぐっていうんですかっ、逸物自慢でも始めるおつもりじゃ……脳がおかしいんじゃないですかっ」「ああ、うん、脳はおかしいかも知れないけど、何でもないから落ち着いてくれ、血が出るよ?」「っ、突然そんな事を一刀殿が言うからですっ、からかわないで下さい!」「ほら、最近水浴びもしてないから、身を清めようかなって」「……まさか、そう甘言をして覗く気では、それを機に劣情を一気に―――」「そんなことはしないよ、血が出るよ?」「っ、くぅっ、まるで風のように私をからかって、やっぱり一刀殿は意地悪な人ですっ」 もう付き合ってはいられないとばかりに立ちあがって、パタパタと駆けて去っていく。その顔が真っ赤だったことから、なんというか申し訳ない気持ちが沸き起こる。確かに雰囲気は良かった。一刀も実際に事を起こすつもりなんて無いとは言わないが、いや、勿体無かった。じゃなくて、無かった。ただ、あれだけ脳内が騒がしいと冷める。ナニがとは言わないが。『……作戦成功だな、うん、音々音が怒るもんな、うん』『ああ……危ないところだったな本体、"魏の"の機転がなければ即死だった』『さすが郭嘉だな、稀代の賢者だと言える』『などと、脳内が意味不明の供述をしており……』『うわ、ずっこいぞ"無の"!』『落ち着け"仲の"』 馬鹿らしい話に突入した脳内を無視して、一刀はとりあえず郭嘉に疑われぬように水浴びをすることにした。嘘ではあったが、水に浸した布だけで身体を拭いていただけなのも確かだ。都に入る前に川で水浴びするのも悪くないだろう。明朝、一刀達は金獅を取り戻す為に蜀に向かい始めた。この道中、ある事実が判明する。「なぁ」「……なんですか」「そろそろ治まりそうかい?」「もう少しお願いします……」 一刀の腕をとって寄り添うように歩くのは郭嘉だ。ペタペタと肌に触れて、赤い顔を俯かせながら歩いている。微妙に当たる胸の柔らかい感触に、一刀の鼻の穴が僅かに広がった。これだけ触っているのだ。感情を揺さぶる素振りこそ見せなかったが、郭嘉は例の感情の揺らぎを抱いている事だろう。其れはいい。そもそも、崖の道を通る時には致し方なかった部分も大きかった。だが、こうしてペタペタとさわりに来る未来の軍師殿には、もっと別の理由があったのである。 一刀に触ると鼻血が止まるのだ。これが、この道中最大の発見と言っていいものだった。もはやトントンを越えた止血方法および、暴発防止装置として一刀は郭嘉に触られていた。そこに甘い空気は勿論ない。無いのだが。一刀にとってはこうして肌を合わせようと付き添う彼女の姿は、言うまでも無いだろう。若い、男なのだ。つまり、生き地獄である。「……もういいかい?」「まだちょっと……」 離れようと腕を振る一刀に、郭嘉は足を早めその腕に縋った。傍から見れば彼女が一刀に甘えてるようにしか見えない。「……そろそろいいかな……」「だめです、まだもうちょっと……」 郭嘉の縋るような声に、一刀は妙に荒い息を押し隠し唾を飲み込む。実は、郭嘉にとっても生き地獄ではあるのだ。確かに、良く分からないが一刀と触れ合うと鼻血は出ない。なるほど、それは喜ばしい事だ。この体質は幾度となく改善しようと対策を並べてきたが、どれも効果は薄かった。一刀に触れると止まること、出ないことに気がつけたのは素晴らしい発見だとは思う。少なくとも、年中撒き散らす事がなくなるのは良い事だろう。だが、異性に自分からぺたぺた触りに行き、逃れようとする一刀を追いかけて触り続けようなどとする自分には羞恥しか沸いてこなかった。当然、そんな事をしている事実から妙な妄想が鎌首を擡げてくる。つまり、鼻血は止まるがすぐに出そうになるのだ。もう鼻から血が出たり入ったりしてるような物である。腕を離した途端に血飛沫を上げる己の姿が、容易に想像できた。だから、一刀を離せない。でも、恥ずかしいから早く離れたい。これを生き地獄と言わずなんと言おうか。四日後、二人は乳繰り合っているとしか思えない様な形で、蜀の入り口に当たる梓潼の都に辿り付いた。一応、どちらの意味でも無事に。 ■ 煩悩転じて 宿を取って、郭嘉からようやく解放されると、一刀はぼんやり都の住人を道の片隅に座ってみていた。ジリジリと照りつける太陽が眩しい。頼んでも居ないのに体からは代謝に従って、じんわりと汗が滲んでくる。唯一マシだと言えそうなのは、割と乾燥していて纏わりつくような暑さでない事だろうか。ここ最近、雨が降っていないことを考えると、日照りが続いているのだろう。「あー……」 腰にかかげた竹の水筒をあおいで、街行く人々を観察する。別に目的があるわけではない。ただ、これ以上宿に残してきた少女と接触していると一刀の頭が爆発しそうだったのだ。理性の警鐘が野生の本能に飲み込まれそうだったのである。四六時中腕や背中に張り付く少女が横に居れば興奮しない筈が無い。ましてや、美少女と言える整った顔立ちを赤らめていれば。決して、この夏の日差しだけが体の熱を生み出している要因ではなかった。 やがて、一刀はおもむろに立ち上がると街の中を当ても無くぶらつき始めた。前を歩く女性が、夏の日差しからか少々刺激的な格好で歩いていた。濁った視線が臀部の辺りに注がれていく。「……」 無言で方向転換。煩悩が鎌首を擡げ、じっとりと心中を犯していくのが自覚できていた。これはもう、何処かで一発いっとかないと駄目だろうか。男性特有のどうしようもない催しに、一刀が地味に苦しんでいたときに、それは現れた。曲がり角を過ぎた直後、視界を埋め尽くす紅碧色の髪と巨乳。 掻き揚げられて簪で止められている壷惑的なうなじであった、あと巨乳。艶かしい体躯に不釣合いとも言えそうな肩当と巨乳。 腰に徳利のような巨乳を携えた巨乳。そして巨乳が、目の前にあった。「……oh...」『あー、桔梗かぁ……まずいなぁ』『ああ、まずいなぁ……』 一刀の口から見事だと褒めるような感嘆の息が漏れる。道に突っ立ってボーっと妙齢の女性を眺めていると、視線に気付いたのか、彼女は企むような笑みを浮かべて一刀に声をかけた。「おう、そこの儒子(こぞう)。 わるいが手伝ってくれんか」 一刀は茫洋と頷くが、すぐには近寄れなかった。子象とは遺憾である。いや、そうではなく。顔を二度三度振って、終いには水筒を頭から被り、気合を入れるように顔を叩く。気合を入れなければ、煩悩に流されそうだったのだ。下手すれば、顔ではなく胸と会話しそうである。女性に指で指し示されたのは、まだ十にも満たない小さな子供であった。どうやら家屋の尾根に遊具が飛んでしまったらしい。それを取るのを手伝え、という事なのだろう。一刀は察すると、何処に道具を飛ばしたのかを教えてもらい、その場で屈みこむ。女性は暖かな目で子供を安心させるように声をかけると、一刀に声をかけた。「では、失礼する」 肩に圧し掛かる重みに小さく呻く。白い太腿が服の裾から飛び出し、一刀の顔の横から突き出てきた。後頭部に何か柔らかい物が押し付けられている。甘い匂いが鼻腔をついた。一刀の喉が鳴った。「……」「おい、はやく立ち上がらんか」「あ……ああ、すみません……」 僅かに蹈鞴を踏みながら、女性を肩車のようにして歩き始める。顔を太腿で挟まれ、時に女性の腰が上下し、手を伸ばして居るのを視界にぼんやり収める。どうも絶妙な高さのようで、なかなか取れないようだった。焦れたのか、一刀の頭が手で押さえつけられたかと想うと、彼女の太腿が視界を通り過ぎて肩に足をかけた。急な加重に、一刀も流石にバランスを崩す。「しっかり立て、男だろう! もう少し右じゃ」「っ……」 上から叱咤する声に、気合で踏みとどまる。女性が落ちないようにと足首に手を回し、ガッチリと固定した。煩悩が僅かに吹き飛び、一刀は意識して足に力を込めて歩き始める。人を肩に乗せて歩くことは、鍛えている一刀であっても中々に辛い物があった。早く終わらないかと、胸の内で密かに願って顔を上に上げた。視界を埋め尽くしたのは、手を伸ばす女性の姿ではなく壷関であった。「wow...」『本体、わざとじゃないよな』『いやまぁ、眼福ではあるが』 脳内の声が終わるか否か。目的の遊具は取ることができたようで、飛び降りるように彼女は地に降りた。一刀を無視するように横を通り過ぎて、子供の下に向かっていく。快活な笑みを見せて頭を撫でる女性を一瞥して、一刀はその場を颯爽と去っていった。礼を言おうと女性が当たりを見渡した時には、彼の姿が消えていたのである。しばし首を傾げたが、彼女はまぁ良いかと肩を竦めて踵を返した。―――・ 翌日、一刀は眼が覚めると朝一番に町に繰り出て、女性の下を訪れていた。彼女は一刀を見ると、すぐに昨日会った男であると気がついたが、それよりもまず驚きに眼を剥いた。その顔(かんばせ)はとても凜とした物であった。淀んでいた目は光を取り戻し、キラキラと輝いているようにも見える。真っ直ぐに延ばした背中が、精悍さを増していた。爽やかな笑みを浮かべる目の前の男が、昨日手伝ってくれた男の表情と打って変わって、まるで別人のように感じたのだ。「昨日は用事があって話もせずに辞した事を謝ります」「お、おう。 それにしても、随分と男前になったではないか」「はは、まぁ一つ悩みが解決したと言ったところです」 そんな前置きを挟んで、お互いに名乗りあう。一刀は目の前の女(ひと)が厳顔であることを知っていたが、勿論そ知らぬふりである。「陳寿殿、わざわざ会いに来たということは、何か用があるのだろう」「ええ、実は厳顔殿が黄忠殿と知己であることを聞きまして」「いかにも。 なんじゃ、そんなことか」 本題はもちろん、金獅のことだった。邑での出来事を隠さず、馬を盗まれて勝手に売りに出されたこと。その大事な馬を黄忠が買って行ったこと。なんとか話し合いの場を作りたいことを、若干大げさな演技を交えて厳顔に伝えると、彼女は抑揚に頷いた。全面的に一刀の言葉を信じた訳ではないが、豹変と言っていい一刀の様子から八割がた事実だろうと感じていた。「よかろう! わしと紫苑は友人だ……そうじゃな、今から時間はあるか?」「ええ、ありますよ」「では今すぐ行くか。 お主も大事な馬ならば早く会いたいだろう」 最後に豪快に笑い、一刀の肩をベッシベッシと音が鳴るほど叩く。ふっと厳顔の鼻腔を付く匂いに、彼女は眉を顰めた。一刀は苦笑を浮かべつつも、心の内で第一関門は突破したとほくそ笑んでいた。先を進む厳顔の背を追うように、追随する。街の中心に向かっていく中、突然一刀の背を衝撃が襲った。「っ、と、郭嘉さん!?」「す、すみません、一刀殿……危ないところでした……ふがっ」「なんだ? 連れか?」「え、ええ」「ふはっはっはっはっは! なるほど、儒子の豹変振りに納得がいったわ! 隅が置けぬな、このこのっ」 茶化すように背の郭嘉を見据えて、厳顔は肘を一刀の腹にぶつけていた。一刀は誤魔化すように笑いながら、郭嘉の耳元にそっと口を寄せる。厳顔から黄忠を尋ねる窓口が出来たことは彼女も知っていた。「あのさ、鼻血、出そうなんでしょ?」「は、はい……申し訳ないです」「どうせだから、一緒に行こうか?」「え、ええ。 しかし、この体質だけは本当に侭なりません……っ」 耳打ちする一刀と頬を染めて頷く郭嘉へ、暖かい眼差しを送りながら厳顔が口を開いた。「ふふっ、中々のスケコマシじゃな。 一緒に行くのは構わんぞ。 儒子は運が良い、政務の関係で劉焉様と同じく黄忠もこっちに顔を出していたのだから」「な、なるほど、それは確かに運がいいですね」「す、すけこま……むむむっ……」 出たり入ったりして唸る郭嘉と、そんな彼女に苦笑する一刀を見て肩を震わせながら、厳顔は屋敷を過ぎ、官舎の集る府内に足を向けた。厳顔の背を追いながら、一刀は少し不安になった。蜀と一言に言っても、その範囲は広い。最悪、厳顔と会えなければ一周巡ることになっただろう。それは幸運だと言える。だが、まさか、このまま府内へ行って直接に会わせるつもりなのだろうか。身分を隠している一刀は、できれば官吏の立ち寄るような場所は避けたい。黄忠と会うのも、今すぐではなく夜になって個人的に会えればそれでよかった。何でも無い様に黄忠へ会わせると言ったので、わざわざ職務に当たっている最中に突撃するとは思ってもいなかったのである。今から断ろうにも、一般市民を装う一刀から言い出せば、厳顔への侮辱となる。彼女は好意から案内を申し出ているのだ。身分を考えれば、一刀の方からやっぱり止めます等とは言えなかった。そうして辿り付いたのは、その不安を証左するかのように、益州牧が身を置いた官舎の前となる。「奥に紫苑……儒子が探しておる黄忠がおるはずだ。 ふふっ、そう不安そうな顔をするな、誰も取って喰おうなどとは思っておらんよ」「は、はは、そうですね。 行きましょう」 引きつった笑みを無理やり引っ込めて、郭嘉に腕を取られながら一刀は官舎をくぐって行った。同時、今更引き返せないと考え、腹を括ったのである。金獅を取り戻しに来たのだ。"天の御使い"であることは今のところバレてはいないようだし、例え気付いても隣に郭嘉が居る今、そう畏れる事もあるまい。少々予想とは違った形になったが、対応策は授かっているのだから。官舎に辿り着くまでの腰を引いたような歩き方が、目に見えて変わった。そんな一刀を横目で見ながら、面白い儒子である、と案内を買って出た彼女の顔に笑みが浮かんでいた。ちょっとだけ、強気になったり弱きになったり、色を好んだりと、短時間で妙な変貌を繰り返す一刀に興味が出てきた厳顔であった。 ■ 退却 一刀が不可抗力で官舎に案内されていた頃、上党に一つの報告が届いていた。「官軍が退いていきます」 その報告を聞くやいなや、裴元紹は燃え盛る家屋から飛び出すように走り出した。 洛陽での決戦で敗れた波才と馬元義の下から、張角や張宝を救えたものの、三女の張梁だけは曹操軍に捕まってしまった。この情報は、もちろん雑兵には塞いでいるが姉である二人には隠しとおせなかった。致し方なく裴元紹は張梁が拿捕されたことを伝えた。本来、彼は波才の失敗した直後から北に逃げる準備を進めてきたのだが、張梁が捕まった事によって水泡と帰したのだ。決起に利用したとはいえ、彼女達が居なければ黄巾が立ち上がることは不可能だった。まして、軍として働く兵のほとんどが、元は鍬を持つ農民で構成されているのだ。電撃戦以外に取る道は無かったと言っていい。負ければ逃げるだけしか道は残っていないのだ。だが、もともと大道芸人であった少女達にその道理を理解しろというのも無理だった。三人揃わない限り、逃げたくない。裴元紹は諦念めいた息を吐きつつ、頷いたものだ。決起に利用されたと言っても、いや、だからこそ彼女達は黄巾の首謀で、主旗なのだ。逃げないと言ったからには、戦うしかないのである。ではどうするか。裴元紹は悩みに悩んだ。彼女達を生かす為に上党に集った大量の軍勢は、皮肉にも官軍の大きな膿として注目が集る。賊徒の討伐を掲げて精鋭が差し向けられるのは時間の問題だ。これをまず、何とかする必要があった。その対処は、西に眼が向けられた。裴元紹は洛陽に潜む官吏との連絡を取り、印をくすねると、軍備を整えている西涼の者へと書簡を届けさせた。それも一度や二度ではない。必要があれば、金や糧食も送りこんだ。それが功を奏したのかは分からないが、西涼に大規模な叛乱が巻き起こる。この時に上党の包囲が緩む事を期待していた。ところが、包囲は緩むどころか西から袁紹の軍勢が討伐を名目に攻め入ってきたのである。加えて、あまりに速すぎる西涼の叛乱鎮圧の報告。"天の御使い"はどうも黄色い天は嫌いらしい。こりゃだめか、と舌打ち一つ。官軍はともかく、諸侯の軍閥は手ごわい。袁紹と言えば大陸に轟く名家であり、財力も飛びぬけている。裴元紹はこの報告を持って決定的な敗北となることを悟った。「敗軍にもやりようはあるってもんさ、なぁ? 周倉」「……」「幽州の奴等じゃ公孫瓚にやりこめられちまって期待はできねぇな。 西の奴等も囮にもなってくれんとはふがいねぇって。 袁紹はどうにもならねぇから、やっぱ官軍ってとこだねぇ、まったくもって上手くいかないもんだって、なぁ」 周倉は頷いた。何にせよ、無駄に大軍となった上党の黄巾は兵糧の問題もあって限界が来ている。西の動乱が長引けばいいが、駆逐されれば後が無くなるのだ。動くにはこの時機しかなかった。裴元紹は大げさに髪の無い頭を掻いてから、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって声をあげた。「おい」「はいっ、ここに」「兵糧なぁ、あるだけこっちに全部持って来い」「は? いやしかし、袁紹とぶつかってる我が軍の―――」「おーいっ、いやあっはっはっは、二度も言わせんなって、なぁ? あるだけ全部持って来いって言っただろうが」「……は、はい……」「行け」 手を振って追い出すと、周倉は無言で立ち上がった。裴元紹は両手を開いておどけたように肩を竦める。「行ってくる」「おう、達者でな」 何処かへと物凄い速さで走っていく周倉を見送り、裴元紹は張角の下に向かった。三女を取り戻して逃げる。それが出来れば上等、出来なければ……まぁ、仕方ない。我が子とそう変わらず、気がつけば首謀者に祭り上げられた少女達は出来れば助けてあげたかったが、世の中にはどうにもならない事も在る。例えば、そう。漢王朝のような腐りきった国の趨勢のように。一応、保険として青洲に周倉を走らせたが、そもそも逃げ切れる保証は何処にも無い。少女達が過ごす上等な部屋の前に立つと、彼は懐から異様に長い帽子を被って扉を開いた。「裴元紹さん……」「ちょっと、急に開けないでよっ!」「いやぁ、申し訳ねぇですって。 けれども、情勢が動きそうなんで、報告に来たんです。 近く張梁様の救出の目処が立ったんですわ。 ええ、ええ、もうそろそろ三人で逃げれますよって」「本当に!?」「わぁっ、良かった! ありがとう、裴元紹さん」「いいってことです。 皆で移動するんで、ええ、ええ、荷物は最低限にして逃げましょうや」「……う、うん、でも」「天和姉さん、ちぃ達、もう逃げるしかないんだよ」「そうだよね……しょうがないよね」「曹操から人和取り戻したら、南にでも逃げよ、ね?」「うん、分かったよ地和ちゃん」「そいじゃ、準備に行きますんで。 ええ」 こうなったからには忙しい。張角達に構ってる時間も多くは取れない。裴元紹は急ぎ次の仕掛けに入った。書簡をしたため、すぐさま洛陽へと数人の囮と共に人を放つ。後は―――「果報は寝て待てって、なぁ」―――・ 上党へ向けて官軍が徐々に北へ押し上げていた。この軍勢を率いる将軍は盧植と朱儁である。西を朱儁が、中央を盧植が抑え、袁紹が東から黄巾を叩いていた。こうして抑えとして甘んじているのは、単純に兵力が少なく弱卒だったからであった。西の大規模な決起から、何進は敗残となっている黄巾よりも危険であると判断、皇甫嵩と孫堅を援軍に差し向け、大多数の官兵を任せていた。盧植の手元には残らなかったため、徴発も已む無しとして、現地で徴用したのである。このような兵は発奮する材料に乏しく、士気は低い。その上装備は貧弱で寡兵と来た。もはや三重苦を背負っていると言ってもいい。それでも、黄巾は洛陽の敗北を知ってから士気が落ち込んでいるせいか、戦術を用いて跳ね除ける事は容易ではなかったが出来ていた。袁紹が動くまではひたすら我慢が続いていたのである。ようやく袁紹が動き始めると、盧植は朱儁と共に天幕で話し合い、主街道を抑えるだけという消極的な案でまとまった。本拠地から遠く布陣し、盧植と朱儁の天幕を開けすぎず閉じすぎず、絶妙な距離を保ちどっしりと掎角とした。大軍が攻め入ってくれば即座に撤退。少数で来れば、双方で援護を。後は袁紹軍の奮起に期待という奴である。そうして二十日が過ぎた頃。動きがあった。朝廷からの使者が、盧植の天幕に入って来たのである。「盧将軍はおられるか」「はっ」「ただちに兵を引けとの勅である。 洛陽に戻られよ」「は?」 盧植は黒髪を揺らして、猜疑の目を傾けた。形式上、上座に立つ官吏は頭を下げる盧植の手に、書は手渡された。中身を確認すれば、確かに兵を引けとの旨が書かれている。それも、玉璽印つきと来た。「……拝命いたします」「よろしい。 では疾くそのように」 こうして後退を余儀なくされたが、それに納得しなかった者が一人居た。朱儁である。陣を引き払う準備を進める盧植の天幕に、噴飯やる方無い足取りで朱儁は入り込んだ。怒気も隠さず、盧植に近づくと、外に聞こえるまでの声量で詰問する。「盧将軍! すぐに兵を引けとはどういう事だ!」「勅命が出たのだ、逆らえぬ」 この朱儁の様子を予見していた盧植は、溜息と共に卓に置かれた巻物を指し示した。朱儁は剛直な男である。道理に反する事であれば徹底して糾弾する、一本気の入った者だった。それだけに、嘘やおべっかを嫌い、武人肌の男でもある。勅書を読み終えた朱儁は、地団駄を踏んで悔しがった。「もう少しだというのにっ、何故このような命を帝は出したのだっ!」「はっ、大方思い当たるだろう?」 嘲笑を含む嘲りに、朱儁は音が鳴るほど自身の手で額を叩いた。戦況は有利であると報告している。このような命が出るのは不自然を通り越して明らかに作為を感じた。つまり、そういうことなのだ。「くそったれっ!」 怒りに任せて、朱儁は卓を蹴飛ばした。天幕の名からに筆や書簡が乱れ飛び、墨が大地を濡らし黒く染めた。即位したという話を聞いてから、朱儁には漢王朝が力を取り戻す兆しを見ていた。いや、見たというよりは、望んだと言った方が正しい。漢という国に住む一人の男として、その禄を食む武官として、仕える王朝の未来を憂いて。だというのに、目の前で賊との癒着を証左されて朱儁は歯を剥いて怒りを露にしていた。帝の近くに在る大将軍は何をしているのか、と。周囲はこの勅を止めなかったのか。肩で息を吐く朱儁の疑問には、盧植が腕を組んで答えを聞かせていた。「おそらく、我等の出した報告は届いておるまい」「なに!?」「何処かで差し押さえられたのだろう。 或いは、偽造されたかだ。 そうでなければこの命令は出せない」「……っ、盧将軍っ! 気付けなかったか……っ!」「ああ」 盧植の握りこんだ拳からは、赤い物が伝って地に落ちていた。よく見れば、彼女の目は赤く腫れている。朱儁がここに来るまでに、同じような感情を抱いて憤っていたのだろう。「陣を引き払ってくれ、朱儁殿」「……っ分かった」「自分の無能が恨めしいよ……まったく、急に郷里が懐かしくなった」 朱儁は盧植の、半ば独白のような言葉に同意を示すようにして頷き、目尻からは涙が零れた。蹴倒した卓を自ら建てて、散らばった書簡を戻しながら、鼻をすする。本当に恨めしいのは、漢を売る汚職に塗れた者達だ。目の前の盧植は官職を辞すかもしれない。朱儁は声こそ上げなかったものの、その頬を濡らす滴を途切れさす事は無かった。無念であった。 盧植の天幕を後にし、退陣の準備に入った折、朱儁の顔は精悍だった。ただ、悔やむだけで終わるなら誰にでも出来る。そうしないのは、ひとえに自分が将軍であることと、漢を憂う一人の士である事を自負しているからだ。出来ることはしなくてはならない。最悪の中でも最良を手に入れなければ、徴用されて戦っていた者の御霊が浮かばれないだろう。慌しく陣払いを始めている喧騒の中で、朱儁は一人の若い兵を呼び寄せた。鋭い視線を向けられて、青年は思わず目を泳がした。「来たか」「はい!」 この若者は徴用された者の中でも一等士気の高い民の一人だった。若さからか、その溌剌さと誠実さは朱儁の好むところである。天幕の中に現れたその青年に、朱儁は卓の上に置いてあった紐でまとまった銅銭を掴むと、そのまま手渡した。「将軍様、これはいったい……?」「お前はこの軍中において一際精力的であった。 憂国の士だと言える。 そんなお前に、私から頼みがある」 官軍においても皇甫嵩に並び勇名を馳せる朱儁に、真正面から見つめられて青年はゴクリと唾を飲み込んだ。金を渡し、そのような前置きを本題におくからには、よほど重要な話に違いないと気付いたのだ。だが、その本題に入る前に、朱儁は外の兵に某かを呼びかけた。入って来たのは兵に連れられた一頭の雄馬であった。口を受け取ると、朱儁は兵を外に出し、それを確認してから口を開いた。「お前が馬に乗れることは分かっている。 こいつは軍の中では一番の駿馬で俺が乗っていた」「将軍の馬……私は、私は一体何をすればよろしいのですか」「この戦いには何の意味があったと思う?」「……意味、ですか?」「そうだ」 青年はしばし黙考し、朱儁に賊徒を討つ為だと答えた。考えている間に朱儁は筆を手に取って竹簡を広げると、手馴れた様子で書き込んでいた。「目的はそうだ。 だが、ここで撤退するという事実はな、我々が戦った意味という物を失わせたのだ」「……そんな」 朱儁の答えは青年にとっては無情の物であった。命を賭けて戦ってきたというのに、意味の無い物だと言われれば、その衝撃は凄まじい。徴用された者達の中で、何もしてくれない国の為に働く事は無いと汗を垂らす若者を馬鹿にしたことがある。その人は、翌日居なくなった。嘲りを受けた直後は憤ったものだが、居なくなってしまうとなんとも言えない虚無感を抱いたものだった。そうした事は数多くあった。その全てが無意味だと言われたのである。朱儁は書簡を作る手を止めずに、青年が理解するのを待ってから口を開いた。「この戦いを意味のあるものにしたくはないか」「……将軍、分かりました、命を賭けて成し遂げます」「良し! 良く言った! これを持て!」 書き上げたばかりの書簡を、若者の腕を取って強引に握らせた。青年は渡された書簡を一瞥し、朱儁の顔を見上げる。真っ直ぐに見据えられて、しかし、今度は目を泳がせる事無く朱儁と合わせて下知を待つ。瞳の色に覚悟を認めた朱儁は、一気にまくし立てた。「我等が撤退した後、賊徒共はその後を追うようにして南下するはずだ。 これを持って奴等が向かう先に居る者に知らせろ。 信用できそうな名は書簡に書いてある、それ以外の人間は無視しろ。 できることなら仲間を装って向かう場所と軍勢の目論見を暴くのだ。 信憑性が増す。 私の印と血で証明された物だ、誰に憚ること無く事を自信を持って進め。 道中は他人に声をかけられても全て無視しろ。 責任は全て俺が取る。 良いか、それが出来れば俺とお前の勝ちだ。 出来なければ負けだ、命を賭けろ!」「は! お任せ下さい、必ず全うします!」「夜になってからこの駿馬に乗って走れ。 馬を休ませる以外に休憩も挟むな。 行け!」 朱儁の言葉が終わると、両手を重ね深く礼を一つ。青年は馬の口を引っ張って朱儁の言葉を忘れないように、呟きを繰り返しながら陣を後にした。朱儁はそれを最後まで見送って、椅子に座ると深く背を預けてから、天井を見上げて大きな息を吐き出していた。―――・「官軍が退いていきます」 裴元紹は伝令の言葉に嘘が無かったことを自身の目で確かめると、ニヤリと笑みを浮かべた。劉宏帝が崩御され、劉弁が即位したという話だったが、いやはや。何にせよまだ、中央にも繋がりが保てた事は僥倖としか良い様が無かった。「金ってのは他人を動かす為にあるもんだってな。 元から自分の物じゃあねぇんだから、懐も痛まねぇって。 嬉しい事実があったもんだ、なぁ」「伝令です! 袁紹とぶつかっている者達から、援軍と糧食の催促が来ています!」「あぁ、そりゃほっとけ。 俺達には張梁様を取り返す使命があるんだってば、な?」「は、はい……」 周囲に居た兵の一人に朗らかな笑みを浮かべて肩を叩く。兵は曖昧な笑みを浮かべて、裴元紹に同意した。帽子を仕舞いこんだ懐に手を伸ばして、裴元紹はその場から立ち去る。まるで、歌でも歌っているかのように首を揺らして。「曹軍は精鋭だろうなぁ。 一当てして駄目なら、後は天運に任せろってところかい」 ほぼ、敗北は見えているような物だ。用意できる糧食は二万の規模と考えても二十日が限度だろう。上党から陳留の距離では、強行軍でギリギリだ。他は残念だが、帯同は叶わない。精々、袁紹相手に頑張ってくれる事を願うだけだ。それに、帯同するのも良し悪しと言うものだ。行けば戻って来れないだろうし、既に袁紹に敗北を喫するこちらに戻る必要もまた無い上、向かう先は乱世の奸雄と名高い曹操である。始まる前から諦めるのも難ではあるが、張角と張宝は曹軍に捕まるだろうと裴元紹は想定していた。考えようによっては、"三人一緒"になる事は出来るので、その意味で違いは無い。この辺が自分の限界であることも自覚できて、裴元紹は上手く立ち回った方だと自賛した。彼女達の希望には答えることは出来たと言って良い。自分自身も逃げることが出来るかは、敵とぶち当たった時に分かるだろう。黄巾決起を決めた時から、最悪は常に考えてきた。やるだけの事はやったし、負けを自覚できたのも周囲より客観的な視点を持って来たからだ。国家が転覆するまでは不退転に挑む、その途中で投げ出すくらいなら初めからそのまま野垂れ死んだ方が心根に沿う。そういう気概で取り組んできた大事は今、歴史の露に消えようとしているが、裴元紹はまたそれも良いだろうと考えていた。人事を尽くした。後は、まさしく天命を待つだけなのだ。 そこまで考え、酒の入った徳利を手に取ると、ここ上党で知り合ってから意気の合う友人が脳裏に浮かんだ。気を許すまでは無言、気を許した相手にも殊更無口だが、表情豊かで義侠心を持つ男であり裴元紹そんな周倉を気に入っている。足の速い奴は、こういう時に得をするものだ。周倉が無事に逃げ果せる場面がありありと想像できて、裴元紹は酒の力も相まって豪気に笑い飛ばした。数日後、黄巾党は裴元紹の予想より遥かに超えて、総勢6万余の軍勢となった。裴元紹の思惑が見透かされ、袁紹と矛を交えていた部隊の多くが勝手に合流した為だった。それは兵糧の問題から、勝機は確実に潰えて行く予兆だと裴元紹は認めた。それでも、時期は来たのだ。この瞬間から、陳留だけを目指して一挙に進発することとなる。 ■ 覇 朱儁からの書簡が届けられたのは陳留、そこに治むる曹操であった。正確には汗だくになって走り込んで来た、不審な男性を夏候惇が警邏中に目撃した事から事態を知るに至った。若者が馬を潰し、昼夜を駆けて届けさせた書簡の出した名に目を剥くと一つ褒め、共の兵に若者を休ませるように沙汰を出し夏候惇自らは曹操の下へと一直線に駆けて行った。曹操が夏候惇から貰った書簡を一瞥すると、すぐに主だった諸将を集めて突発的な軍議の様相となる。荀彧の声から始まったこの軍議に駆けつけたのは凪を除く全員であった。彼女だけは調練で出ていた為、すぐに戻る事が出来なかったのである。「黄巾の賊徒が向かっているわ、総数は6万ちょっとよ。 でも、実際に戦えるのはその五分の一と行ったところだと思われるわ」「華琳様、すぐに編成して討伐に向かいましょう」 両手を鼻頭と顎で支えるようにして目を瞑る曹操は、夏候惇のその声には無反応であった。その余りの無反応っぷりに、また、何か妙な事を言ったのかと不安に陥って周囲を見回した。が、周りはいたって平静で、むしろ曹操の様子を怪訝に思っているようであった。自信を取り戻した夏候惇は、アホ毛を揺らして力説した。「昼夜を駆けて報せてくれた者は、徴用された者で、戦っていた意味を取り戻したいと言っておりました。 私は彼の義心に答えてあげたいと思ってます。 どうか私に先鋒を! 一挙に食い破って見せます!」 それでも曹操は上下に揺れてるだけで、体勢を崩す事も目を開くことも無かった。どうやら再び不安に陥ったのか、夏候惇が周囲を見回し始めたのを見て曹操の隣に控える荀彧が口を開いた。「昨年は豊作に恵まれ、今年も問題は無さそうです。 相手と同数の兵でぶつかっても兵站は余裕があります」「敵を打ち破り投降した者を食わすくらいは問題無いでしょう」 補足するように夏候淵が口を開く。そこでようやく曹操が目を開いた。「黄巾の残党とぶつかり会うのはこれで三度目。 しかも此度は相手の方から来たわ。 これはどういうことかしら?」 諸将がお互いに顔を見回した。その様子を一瞥した曹操は、再び目を閉じてやはり動じなかった。偶然だ、と言うことも出来そうだが、曹操の問いかけには別の意味が含まれていると推察できよう。夏候淵は一度息をついて、腕を組みなおして考えた。荀彧もまた、曹操の真意を探るような視線を向ける。夏候惇は即答気味に答えた。「はっはっは、偶然でしょう! まるで猪のようなやつらです! 何も考えず精兵揃いの我が曹軍に向かって来たに違いありません!」「……」「姉者……」「あ、あれ……?」「そうね、春蘭の言う事は的を得ているわ。 奴等には脇目も振らずに此処に来る目的があると言うことね」 周囲が呆れた視線を向ける中、曹操だけは夏候惇の言葉に頷いていた。そこで荀彧はやはりか、と曹操の懸念に思いあたる。北郷一刀から張梁を生かせとの奇妙な書簡が届いていた。ご丁寧に、玉璽印まで押された物だ。黄巾の余波が続く大陸の事情から、曹操からは将以外に口に出す事を禁じられていた話であった。そこから推察できるのは、曹操が 『張梁は黄巾の首魁の一人』 であると認めたことにある。まだ獄中にある張梁が自決できないように見張られ、首を斬り落としていないのは扱いを決めかねたからである。天代が中央から排された今、この玉璽の印がどれほどの意味を持つのかは分からないが、少なくともこれが在れば生かして居るのに名文が立つのだ。生かす利点は順当に考えれば、黄巾から恨みを買わないことにある。黄巾の乱は民の不満から噴出したものであり、民の恨みを買うということは風評に繋がっていく。さらに、三人もの首魁が居ると言う話を信じれば、張梁を斬ったことにより残った二人に目の仇にされかねない。大陸全土の黄巾が一斉に襲い掛かってくることは無いだろうが、余計な敵を増やす必要は無いのだ。逆説的に、彼女達を懐柔できれば労せず"民望"を増やす事に繋がる。恐らく、爆発的に人口は増えよう。富国強兵の基本である、人口の増加というものが目の前にぶら下がっている訳でもあるのだ。「桂花、持ってきなさい」「分かりました」 書簡を取りに行く間、荀彧はその頭脳を回転させる。上党の包囲を形はどうあれ突き破った黄巾賊が、陳留へ一直線に向かっている事実。張梁の存在が黄巾の目標であるのも明白だ。飛び込んで来た朱儁の便りからも裏が取れている。一度目は洛陽からの余波と見て疑いなく、これは偶然であった。二度目は上党に向かう黄巾党の人の流れの中で、偶然を装いつつも作為的な侵攻の意図が見えていた。そして、三度目となる此度はなりふり構わずと言った様相である。疑う理由はもう無いと言っていい。北郷一刀がそう言ったように、張梁は敵の首魁の一人だ。 それがハッキリとした今、曹操の立場からすれば張梁は火種に過ぎない。 自室に入って目的の竹簡を持ったところで、荀彧は曹操の奥にある懊悩に気がついた。重要なのは黄巾との戦ではない、と。当然、敵意を持って突っ込んでくる火の粉は振り払う必要がある。ここまで来たら戦は必ず起きるし、当然負ける訳にはいかない。重要なのは、その中に他の二人の首魁が居るのかどうかだ。もし居れば、大きな判断を迫られる事になる。殺すか否かといった単純な物だが、目に見える情報よりも黄巾首魁の事実は余波が広がるだろう。黄巾、すなわち農を中心とした民から絶大な支持を集める張角、張宝、張梁の三人を斬ることは民の恨みを買うことになる。温情を与え生かすことは、黄巾の者達から感謝を―――すなわち、民からの民望が集うことを意味した。これは、曹操にとって最後の判断を下す転換点と定めているのだろう。漢に拠るか、己が立つか。そうだ、其処が曹操の胸中で鬩ぎあっているのだろう。荀彧は一人きりになったことで、曹操の頭の中を直線文字にして読んだかのように確信した。「……」 そんな荀彧の視線が、手に持った書簡に吸い込まれていた。―――・ 書簡一つを捜すには些か時間をかけすぎている。曹操は荀彧が自分の悩みに気がついた事を察していた。一刀が洛陽を追放されてからも、漢復興の手を何度か考えることはあった。が、彼女の出した答えは付き合い切れないという物だった。何より、朱儁が徴発した兵を用いて報せた中央の腐敗が如実に分かる此度の経緯は、曹操を心底呆れさせるに足りた。これまでも我慢を重ねていた方であると自負するが、いい加減に限界である。荀彧に命じたとは言え、本音ではそのまま書簡を持ってこないで欲しかった。曹操の心中を察することが出来る彼女には、それを期待していた。―――果たして、戻ってきた荀彧の手に書簡は無かった。「おい、どうしたのだ」「まさか見つからなかったのか」「それは……」 周囲の声に、状況を察した曹操の腹は決まった。気がつけば、荀彧に向かって口を開いていた。「三回目となる黄巾の中に首魁が居る可能性は?」「は、十中八九は居るかと思います」「何故?」「官軍と袁紹に挟まれた賊が中央との関係を利用して作り出した好機、これを陳留に向けた事から、奇襲を持って張梁を救出する腹積もりだと思います。 そもそも、情勢から考えれば黄巾党に勝利はありえません。 自棄になって一か八かの勝負に出るなら、天子の居られる洛陽を急襲するべきです。 そのことを考えられないほど、馬鹿ではないでしょう。 そして首魁の張角・張宝が居ると断じれるのは、袁紹軍の規模です。 上党には数十万の兵が居ますが、決して錬度が高いと言えない袁紹軍六万五千の軍勢に成す術無く総崩れになっているそうです。 それと、まだ確かな情報ではないですが上党に残された兵糧が全く無いとの話も出回っています」 すらすらと諳んじる荀彧の声に、曹操は頷いた。目は開かれ、両手も下ろされる。全員が居住まいを正して曹操に注視した。「春蘭、真桜」「ここに」「はいな」 夏候惇と李典が一歩前に出て礼を取る。「前軍先鋒として六千の兵を率いなさい。 副将に真桜をつける。 陣を敷いて相手を威圧せよ。 攻撃は私が着くまで控えなさい」「御意」「了解」「沙和」 踵を返す夏候惇とすれ違うように、于禁が前に出た。「はいなの」「凪が戻り次第、五千の兵を束ねて後軍となりなさい」「了解!」「桂花、兵站を整えてちょうだい。 "民"が腹をすかせているはずよ、身に染みるでしょう」「首はどうしますか」「適当に用意しなさい、現地でも構わないわ」「御意です」 中軍には自分が着き、四千の兵を連れて行く事を宣言する。荀彧の言った首とは、張角達三人の偽者を用意することを意味していた。黄巾党に守られずっと秘匿されている首謀者の顔を見た者は居なかった。つまり、そういうことだ。「此度の戦は撃退や殲滅ではなく、懐柔よ。 相手は碌に食事も取れずに疲弊した賊、鎧袖一触にすることは容易でしょう。 一当てした後、投降を呼びかけるわ。 逃げた者は追わなくて結構、追撃するくらいなら残った敵兵を一人でも多く降らせなさい」 黄巾の決着は、恐らく今回で迎えるだろうと予感させている。絶大な支持を得ている頭が消えれば烏合の衆になるのは見えているからだ。迅速に命を遂行するべく、諸将が散って行く中で一人、軍議に参加しながらも発言することなかった少女が居残った。姓を程、名を昱。ぼんやりとした少女が今、曹操の視線に気付いたかのように顔を上げた。荀彧の推挙から文官として取り立てたのだが、果たして如何なる物か。わざわざこの場に一人残ったのだから、提案があるのだろう。「風、此度の件で何かあるのかしら?」「いえいえ~、大した事はないのですよ~」「ふふ、わざわざ残って言うという事は、重大な事のようね」「そですねー、まぁ、それなりにはー」「聞かせて欲しいわ」 不敵に笑む曹操の視線を真っ向からぼんやり見返して、程昱は口元に手を寄せて笑った。「張梁さんは敵首魁の一人のようですから、戦場で見れば皆さん驚くかも知れませんねぇ。 牢中で暮らしていたのに、綺麗な姿を見れば尚更ですねー」「なるほど、面白いわね」 彼女の言葉から考えをほぼ知った曹操は良い手だと素直に心の中で賞賛した。荀彧の推挙は間違い無さそうだ。不倶戴天の敵に牢に繋がれていたはずの頭領格が、身綺麗にして現れたとなれば混乱するだろう。少なくとも、敵は遮二無二突っ込んでくる事を控えるはずだ。助ける筈の相手を乱戦で殺めたと在っては笑えない。「採用しましょう。 気をつける点はあるかしら」「相手の士気が一時的に高揚する可能性はありますが、大勢に影響は無いと思うのですよ。 上党から脇目も振らずに突っ込んでくる無茶な行軍ですから疲れているかと思うです。 それと、張梁さんに逃げられてしまったら本末転倒なところですかね」「そうね……どうせなら馬車も用意して春蘭の前軍に配置しましょうか」「華琳様」「なにかしら?」「転じて懐柔という事は―――」 程昱は途中で言葉を噤んで、礼をした。曹操が言い終える前に頷いたからである。大陸を震撼させた黄巾党の首魁が十中八九居ると聞いて、斬り捨てる名よりも懐柔という実を取った事は、言外に曹操の決意を表していた。程昱が退室した後、曹操は椅子に座って考えに耽るように足を組んだ。椅子の横に並べられた幾つかの武具に手を掛け、ゆっくりと鞘から剣を引き抜く。刀身が燭台に灯る炎に照らし出され、赤く鈍い光が曹操の瞳を焦がした。「北郷、交わることは無かったわね」 完全に引き抜けば、甲高い抜刀の音が響く。勢いを殺さぬまま、曹操は床にその刀身を突き立てた。見えない何かを、断ち切るように。「残念だわ」 その反動を利用するようにして立ち上がり、一言だけ残すと曹操もまた部屋を去っていく。残された剣だけが、静謐となった玉座の椅子の前で、鈍い光を返していた。―――・この十日後、曹操は兗州。その陳留と濮陽の間にある草野にて迫る黄巾党と相対する。先鋒の夏候の蒼旗の前に、これみよがしに相対した自軍の目的である少女が立たされていた事に、動揺が広がると後は速かった。攻撃を控えるように張角が叫び、まるで呼応するかのように曹操軍の先頭で張梁も叫べば、もう成す術は無くなった。裴元紹ですら、彼女の口を塞ぐのを止めれないほど、思考に空白が生まれていたのである。「オォオォォオォオォォォオオオォォォォォオオオ!」こちらの動揺が伝わっていたのか、曹操の軍勢が威圧するように鼓を鳴らし、銅鑼の音を響かせて雄叫びを挙げる。まだ戦っても居ないのに、総勢6万の黄巾党が相対する約2万の曹操軍相手に、その足が退き始めたのである。完全に隙だらけになった黄巾党の前曲へと、その盛大な雄叫びを続けたまま突っ込んでくる曹操軍の一撃。それは戦意すら消し去る死神の鎌であった。武器を落す者まで現れたのだ、勝負にすらなっていない。敵将の裴元紹は、無茶な行軍と疲労、加えて糧食が持たずにすきっ腹である自軍の瓦解を一瞬で悟ると、高らかに笑った。騎兵を豊かに持つ夏候の軍を見れば、逃げ切る事も叶わぬだろう。彼は張角に全面的に投降することを促して、裴元紹は自らを縄で絞めると曹軍に向かって視線を見つめた。「裴元紹さん……」「はっは、いやまぁ、こうなっちまったなら腹を括るだけですって。 一応考えはあるから、ええ、ええ、まぁ見ててくれってな」心配そうに見やる張角に笑みを浮かべつつ、そう答えて両の足で歩き出す。既に曹操軍の攻撃は止まっているようだった。戦意を持たないと判断したのか、それとも命令が下ったのかは分からないが、裴元紹には都合が良かった。そんな彼の、縄で自らを縛った神妙ないでたちに、曹操が飛び出すと、夏候惇は彼女の隣を守るように並び立った。「貴様が張角か!」曹操の大きな声に、裴元紹は目を剥いて驚いた。彼女の言葉を脳が理解すると共に、裴元紹の喉奥から爆発的に笑いが蒼天に響き渡った。初めから、曹操は張角を手札に残すつもりだったのだ。助けようと考えていた自分が滑稽にすら思えてくる。ああ、天下の英雄の一人と言われる曹操と、同じ考えが出来たのだから、まぁ悪くは無いか。そんな事をぼんやりと頭の片隅で考えながら、腹の底から笑いが突き上げてくるのを、裴元紹は止める事が出来なかった。礼を失すると感じたのか、夏候惇は腰の獲物に手をかけたが、曹操はそれを手だけで制す。一頻り笑った裴元紹は、真っ直ぐに曹操を見つめ、笑みを浮かべたまま首を伸ばした。まるで、首を献上しているかのようであった。「いかにも! 我こそ張角、黄巾の首魁ぞ!」「良くぞ名乗った! 苦しまぬように一撃で首を刎ねてやろう!」裴元紹のしゃがれた特徴的な声は、まるで全軍に聞こえるように大きな物だった。それは、意図して自分が首魁であると公言しているようだ。曹操は裴元紹の言葉に深い笑みを浮かべて、兵に仕草で示した。そのそっ首が刎ねられる瞬間まで、張角を名乗った男は爆笑し続けた。類を見ない手応えの無さ、ともすれば、茶番と思えてしまうほど呆気なく戦は幕を閉じた。夏候惇には欲求不満な様相が窺えたが、裴元紹の潔さには大いに感服していた。まぁ、彼女だけは裴元紹が張角だと本気で思いこんでいたのだが。ほぼ無傷で手に入れた6万の"民"と、張梁が見つけたことによって合流を果たした張三姉妹は、曹操に手厚く保護されることになったのである。 ■ 外史終了 ■