■ 二の宝玉が発す打音 コロリ、コロリと掌で宝玉が回るたびに音が鳴る。 おおよそ半年ぶりになるか。ゆっくりと馬を走らせて、眺める景色に洛陽を視界に収めた李儒は心の中でそう呟いた。月……まだ自らの主と仰いだ董卓に、真名を呼ぶことを許されては居ないが、元々文官が不足気味であったのだろう。李儒自身が自負している能力を照らし合わせれば、董卓の勢力で重用される時はそう遠くあるまい。今現在、こうして洛陽へ赴いている事も李儒が築き上げた人脈が無関係という訳ではなかった。張譲に声を掛けられた―――といっても、直接ではなく間接的にだが―――のは、時の権勢の頂点に立っていた男を、中央の政権から排するためであった。趣味であった彫り物が、ああいう形で利用されたのも天運であったのだろう。官吏としては下級も下級。 一介の庶民とそう変わらない立場であった自分が、大きな出世を果している。天代追放、という事件に関われたことで李儒の運命は変わったのだ。北郷一刀が居なければ、せいぜい漢王朝の一地方を任される令になるくらいが精々だったのではないだろうか。「ふん、まぁ柄ではないわ。 おい、返書を」「はっ」 李儒が数人の部下を引き連れて、洛陽へ向かっているのは当然ながら遊びにきたわけではない。大将軍何進が董卓へと送った文書の返事。それのお使いと、張譲からの呼び出しが重なったのである。「さて、あの爺の腹の目論見だが……何進の事だろう。 うまく立ち回らねばな……」―――・ 夕暮れが照らす宮中の裏通り。昼の間でも人影がまばらとなる、人気の無い離宮へ続く道にカン、と高い音が鳴り響いて足を止める。懐から滑り落ちて地面を叩いた物を拾い上げようと振り向けば、一人の中年男性がその書簡を拾い上げていた。ハゲ頭に髭なしのくどい顔。 夕暮れの太陽の光が反射されてキラリと光る。垂れた頬のせいか膨れっ面に見える不機嫌そうな顔立ち。書簡を差し出してふんぞり返る男を見て、陳宮はぐいっと小さな眦をあげた。「あなたは、確か……李儒どの」「北郷一刀の天の軍師か。 いや、こんなにみみっちいとは思わなかったな」「なるほど、李儒殿は確かに噂どおりの御方のようなのです」「ほう、その噂とは?」 一刀曰く、性悪ちょび髭オヤジ。いや、今はもう毛髪は無いようだから、性悪ハゲオヤジと言ったところか。李儒との直接の面識は持っていない陳宮であったが、彼女は愛する一刀から追放に至った経緯を全て聞いている。風体からその正体。荀攸から届けられた手紙や、直接あって聞いた話。遠目からではあるが、陳宮も李儒の姿を収めていたこと。李儒の言葉には答えず、陳宮は書簡を拾ってくれた礼に少しだけ頭を下げ、踵を返した。「ふん、ま、気持ちは判るがな。 わしがお前さんに会いに来たという事をもう少し、その小さな頭で考えてくれんかな?」「李儒殿。 お言葉ですが、一刀殿との関係をねねは知っております」「そうかい。 そりゃ話が早くて助かる。 その北郷一刀の事で―――」「良いですか、李儒殿」 陳宮は両手に抱えた書簡を抱きながら振り向いて相対し、李儒の言葉を遮って帽子のつばを書簡で一度押し上げてから言葉を続けた。「一刀殿は李儒殿と敵対しているのです。 一刀殿の敵はねねの敵」「おうとも、それは認めよう。 しかしこの話は」「話すことなど何もないですぞ」「あ、おいこら、待て……ええい、くそう」 陳宮に、もう会話を続けるつもりはさらさら無かったが、李儒は立ち去る彼女の背を追ってついてくる。どうやら李儒にとっても引くに引けぬ類の話らしい。一刀から届いた手紙や荀攸から齎された話を頭の中で反芻する。特に、一刀の現況を知らせてくる便りは、その一字一句を完全に脳に刻みこむまで読み返している。それは、董卓軍と馬超軍との諍いの経緯や、李儒とのささいな酒場での会話に至るものまで、全てである。そう、血判を押し合ったという話も。離宮の扉の前で忙しく巡らせていた頭脳を止め、陳宮はここまで背中を追っていた李儒へと振り返る。李儒もまた、振り返った陳宮に鋭い目を向けていた。なるほど。陳宮は理解した。どうやらお互いにとって、避ける事は適わない問題があるらしい。この男とて、陳宮との接触など避けることが出来るのであれば避けたいのが本音だろう。張譲との関わりを持っているのだ、政敵と言って良い音々音と密会なんて絶対にしたくないに違いない筈である。わざわざ離宮の裏通りで、彼女が通りがかるまで待っていたのだ。 間違いなく厄介な『報せ』を持ってきている。ちらりと、陳宮は離宮の傍に建っている小さな木造の建物を見る。李儒は極自然な陳宮の振る舞いを目敏く見抜くと、答礼ひとつ。足早にその木造小屋に向かって踵を返した。「一刀殿、ねねにもついに、戦いの時が来たみたいなのです。 ねねは負けませんぞ……一刀殿っ……!」 離宮の扉をあけ、入り口で荷物を下ろすと陳宮はそう口の中で転がし瞼を閉じた。燻っていた胸中の炉心に火が点る。胸元に垂れる髪飾りに使っていた赤い宝玉がひとつ、ゆらりと揺れる。一刀と分け合った髪飾りの宝玉を右手でグッと掴んで、ふぅぅぅっと大きく深呼吸。陳宮は息を吐き出し切ると、眼を開いて李儒が待つ小屋へと足を運んだ。――― コロリ、コロリと掌で宝玉が回る音が鳴る。 弁帝との形式的な会合を終えて、張譲は宮中でも十常侍と皇帝以外の立ち入りが禁止されている一室に入った。その部屋の中には、天代を追放した時に蹇碩を失った穴を埋めるかのように十常侍へと至った一人の宦官の姿。幼少から劉協を支えてきた宦官の一人で、名を段珪。「ご苦労さまです。 張譲殿」「うむ」 段珪の対面の椅子に、張譲は深く腰掛けて懐から宝玉を取り出す。ころりころりと、手の内で回す。段珪はまたぞろ謀を頭の中で働かせているであろう張譲を冷めた眼差しで見つめていた。「段珪よ、お主も長いな。 幼少のみぎりから宦官として働き、漢王朝によくよく勤めてくれているのぅ」「そうですな。 この宮中、宦官として生きぬく為の術を、多少ながら心得ていたのが幸いだったでしょう」「くっくっく、なに。 純粋に賞賛しておるのだ。 途中から腫れ物のようにお主が離宮に押し込まれてしまったのは、運が無かったことよ」「張譲殿、昔話をする為にわざわざ呼んだ訳ではありますまい」「李儒は来たか?」 段珪は端的に告げられたその言葉に、ややあってから頷く。張譲もそれを確認すると、小さく頷いて宝玉をころりと回す。「李儒の部下を買収しました。 何進大将軍の招聘に応える、董卓殿からの返書だそうです」「ほう……ほうっ、何進の奴も本気じゃな。 くっぁはっはっは、結構じゃ! わしに挑む者は後を絶たぬのぅ、老骨を走らせる若者には参るというものだな、段珪よ」「……」 段珪は張譲の鬼気迫る笑みに、一つ喉を鳴らし。 しかし、そのまま何も言わずに張譲から一枚の紙片を受け取ると険しく唇を噛み、しかしその次の瞬間には無貌へと一変させて、そのまま退室する。その段珪の姿をギラつかせた眼で追いかけ、たっぷりと数分の間、閉じた扉を眺めてから張譲は立ち上がった。『報せ』とはそれ一事が全て点である物事を線に繋げるもので、個人から国家に至るまで、全ての者にとって最重要に扱わなければならないものだ。この『報せ』を知る事が、人々に『行動』を促す原動力で在るからだ。段珪から洛陽にやってきた李儒の携えた書簡の内容。この『報せ』もまた張譲を動かすものの一つであり、段珪へ与えた『報せ』もまた、彼を動かすものである。 漢王朝を存続させるに、最早手段を選ぶ余裕は十常侍から消えうせた。逆賊である天代・北郷一刀の足取りは、正確に追えているのだ。天代追放の当時、西涼での大規模な混乱時こそ情報が錯綜して居場所は掴むことが出来なかったが、情勢が落ち着き始めてる今では張譲のもとにその居場所が数多くの人間から密告されている。腐っても200年。それに近く王朝を支えてきた政治的心臓部を牛耳る十常侍、それを取り纏めている張譲である。その人脈は湯水のごとくと言う表現でも足りないであろう。 大海に匹敵と言っても過言では無い。何時の世、どんな時代であろうとも清廉だけでは生きていけない。そしてまた、濁りすぎているだけでも人は死ぬのだ。数多の欲望を抱えて人は生きている。いかに天代と言う名声が眩く輝く光であろうとも、その名声の裏に隠れる影は必ず現れ、そして動くのだ。武威を発った北郷一刀は、漢中を抜けて巴蜀の地に向いた。ここで張譲が取る最初の一手は最もシンプルかつ単純なもの。公的な訪問とは別に、個人的に屋敷に招いて行われた李儒との密談の内容、それは。―――それは、北郷一刀の暗殺。「北郷一刀の暗殺は、わしにとっても防がねばならなくなった」「 『天代』 は李儒殿にとっても邪魔なはずでは?」「ところが、我が主にとっては居なくてはならなくなった訳だ」「……董卓殿が?」 李儒は顎に手を寄せてゆっくりと頷いた。何故ならば、董卓は何進が望む招聘の言葉に了を返したからである。陳宮は李儒からその話を聞くに至って、この密談の最中にまったく動かなかった表情筋がピクリと動く。自然と眉根に皺がよった。 一刀殿と良好な関係を持つ董卓と、卓越した知を持つ事を戦場で知っている賈駆が、劉協を支えている自分の考えが読めないはずは無いのに、どうして何進に明確な武力を与えるのか、と。一刀の暗殺もそうだが、董卓の行動は陳宮にとって想定外の事であり何進をその気にさせてしまう爆弾になり得る。何よりも、まだこの洛陽には袁紹が留まっている。諸侯を見渡しても1,2を争う規模で繁栄している袁紹と董卓が、この宮中で揃うことは十常侍排除をもくろむ何進にとっては好機だ。そして李儒にとっても何進が董卓の協力の下、十常侍を排除することは断じて避けなければならない。その後、一時の権力は手に入れられよう。なんせ世情は十常侍を悪と見做す風聞が根強く残っている。 これには党錮の禁で清流派に属していた者の活動も大きく関係している。しかしだ。確かに中央に確かな権力を手に入れられる土壌は揃いつつあるが、武力に頼って十常侍を排除することは、劉弁帝が即位して間もない今、尚早に過ぎるというのが李儒の見解である。十常侍が排除されるとなれば即位されたばかりの劉弁帝は、大きく混乱し宮中は乱れるだろう。その時に、まるで天代・北郷一刀に成り代わるように弁帝の信頼が厚い大将軍何進が漢王朝の権能を手に入れるのは間違いなく。そうなればどうなる。確実な予想は難しいが、一つだけ判る。どれほどの期間になるかは不明だが、かつて遭った様に劉協との帝位争いが起こる……確実に。現帝の劉弁は十常侍の口誑かしによって北郷一刀は悪しき者と思っている。劉協は北郷一刀を招き寄せる為に、帝位を迫るであろう。理由はそれこそ、十常侍を失う事を御すことが出来無かった件を突くに違い無い。十常侍を排除したのに、今度は帝である劉弁が多いに劉協と董卓の邪魔となってしまうわけだ。そうなると劉弁ではなく、帝位に据えるのには劉協が最善となるが……李儒は唇を噛んで陳宮へと視線を向けた。それは駄目だ。 劉協を帝に戴いた場合、李儒は滅ぶ。自らが陥れた北郷一刀と同じように、政権からは程遠い閑職に……いや、董卓の元からは確実に離されるだろう。それだけは許容できないのだ。董卓は優しすぎる。 賈駆もそうだ、頭は李儒よりも遥かに回転が速いが、しかし性根が甘い。董卓を暗闇の刃から守れるのは、張譲の傍で謀略の鋭さを垣間見た自分しか居ない。 「だが……何進への招聘に頷いたのは我が主君となられた董卓様が決断されたものだ。 大将軍何進との接触は近く必ず在るだろう」「賈駆殿の……いや、董卓殿の本意はどこなのです」「忌々しいことに、北郷一刀だ。 中央で政治的な発言力を高める心積もりであろう。 天代をまた漢王朝の御使いにと最大限の努力をなさる、という所か」「本人の口からは聞いていませんか」「ああ、だが判る。 賈文和の言動や様子を身近で見ていれば、ある程度の推測も信憑性を持つというものだ」「止める事は?」「…………」 押し黙った李儒を見て一つ、杯に注がれた水を一口含む。 渇いた唇を湿らせて、陳宮は腕を組んで唸った。董卓が最も信頼しているであろう賈駆が、李儒に言われるまでもなく説得をした筈である。つまり、董卓の意思は強固であるわけだ。陳宮も董卓本人とは何度か顔を合わせたことがある。過激な思想を抱くような人物には見えないが、巻き込まれると言う事は十分にありえるだろう。そして董卓がそう決断したのはきっと、一刀がそうさせたのだろう。十常侍の立場からすれば、何進を勢いづかせるこの出来事は忌避したいはず。陳宮は十常侍の眼をなるべく一刀へ向かわせない為に、大将軍何進という御するに難しい人物を餌に据えた。袁紹の説得には骨が折れたが、彼女も御するには非常に難しい人物である。何進も袁紹も、いつ何時、感情が暴走して十常侍排除に動いてもおかしくない。天代をこの漢王朝―――具体的にはより抑止力の働く、袁紹の元へ―――呼び戻す為に、という名目があるからこそ袁紹は我慢をしているのである。何進の説得を何度も突っぱねているのは、ほぼこの一点に集約されている。そうして陳宮が裏で手を回したからこそ、十常侍は何進の動向に夢中になっているのだ。「一刀殿の暗殺については?」「……わしが直接に張譲から頼まれたのは、伝言役だ。 交阯を治める士燮(ししょう)殿へと、何者も察せられないようにとな」 一瞬、馴染みにない土地の名に陳宮は顎に手を置いて考えるが、やがて頷く。巴蜀に居る一刀の位置から更に南方。 黄巾の乱のおり、異民族も活発に暴れていたという話を聞いている場所であった。「張譲は士燮殿に少なくない援助と権限を与え、援助を送っていたらしい。 つまり、張譲の息が存分にかかっている。 交州の乱を治めたのは彼だ。 係わり合いの無かった天代などという意味不明の存在を暗殺するのに、躊躇いは無いであろうな」「天代の名声が届かぬ侯ですか。 異民族に近い辺境にも強いコネを持っている者を配置している辺り、十常侍は流石なのです」「おい、おちび。 わしは直接張譲と相対したからわかる。 あの爺は本物の化け物で、今回もこの上なく本気だ。 わしがこうして三日もかけて陳宮殿と顔を突き合わす決意をしたのは、あの爺には届かないと判ったからだ」「気圧されたと」「ああ、悔しいことだが実力では及ばんな。 だが、もう引き返せん。 わしも、主を戴いた臣としてな」 漢王朝の臣ではない。 李儒という男は董卓を『君』として戴いた者。利害が一致している、その一点だけで張譲への負けを認めたこの男は陳宮の元へ足を運んだ。今は敵ではない。 しかしそれだけ。漢王朝の臣ではないのならば、それは一刀にとっても劉協様にとってもある意味で敵だ。手札を頭の中で反芻し、陳宮は続きを促した。「暗殺の内容は伏せて、士燮殿には北郷一刀の足止めを命じるつもりだ。 怪しまれぬように北郷一刀には怪我の一つはさせるかもしれん。 天代の事はコレで良いとしてもだ、この暗殺に踏み切った張譲の裏が読めぬ」「一刀殿の件に関しては後でもう少し詰めるとして……確かに直接的でもあるし単純すぎるのです。 我々の視線を一刀殿へ集めるのが目的の一つではあると思うのですが」「十常侍が何進の暴発を期待している線は無いのか?」「……それは、十常侍に利がないですぞ……」「……爺の裏を読めねば負けるぞ、おちび」 陳宮は即答できなかった。胸元にぶら下げた赤い宝玉を手繰り寄せて、瞼を閉じて……しかし、口は開く事ができなかった。―――などとこのような話し合いをしているに違いない。 コロリ、コロリと宝玉が回る。張譲にとって貴重な 『時』 を存分に使って練り上げた謀り一つ。十常侍が何進に夢中になっていると思わせている間しか、北郷一刀の暗殺は成らないのだから、慎重にもなろう。北郷一刀が直接手を下すことの難しい巴蜀へ向かったのは、間違いなく賢しらな知者がその裏に存在している。李儒は長安で北郷一刀のとの接触を一度持っている。この繋がりを知ってしまえば、連中の思惑が天代暗殺の阻止に傾くのは道理となるであろう。どこまでの繋がりがあるか不透明で、特に李儒は天代の追放に加担しているが、さて。 可能性が挙がった以上、信用などと言う物に天命を託すという事を長く宦官を続けてきた張譲にとっては選択足り得ないものとなる。この張譲の喉元には天代派筆頭とも言える、劉協たちが居るのだ。 李儒は撒き餌だ。 李儒の『報せ』に拘泥してくれれば儲け物。 その『報せ』への対応に使う『時』が張譲に味方する。北郷一刀と李儒が繋がっている場合、董卓の元に身を寄せている李儒は虚偽の命令を士燮へと伝えるだろう。不自然にならない程度に、命令そのものは多少に過激なものになるかもしれないが。なんにせよ此処で張譲の方へと天秤が動いた。董卓が自らの意思で何進と繋がり、朝廷に政治力を高める意思を持っている、これは非常に好材料だ。実際に自身を含めて十常侍が殺されてしまうのは張譲の敗北なので、何進の動向には注意が必要であろう。が、それは張譲以外の十常侍が張り切って見張ってくれるはずである。わざわざ向こうの謀りが此方の人手間を省いてくれたのだ、褒美に宝剣をくれてやるのも良いか。判りやすい繋がりを示すのにも使えるし、十常侍が脅威であるかも知れない董卓を歓迎するとなれば、その『報せ』も敵を迷走させる一手となろう。 張譲は段珪とのやり取りを終えて、一人、自らの持つ屋敷へと戻っていた。木目の粗い廊下を軋んだ音を上げさせながら歩き、予め屋敷へと招いていた数人の運び屋へと小さな袋を投げ渡す。袋の中身から金銀を取り出した運び屋たちは、卑下た笑みを浮かべつつ丁寧に腰を折って張譲へ頭を下げると、そそくさと出口へと向かっていく。張譲が運ばせた荷物は大きな壷だった。それが4つ。「趙忠」「はーい、ってもうさぁ……この呼び出し方やめてよ。 宦官から古く伝わる密談の仕方っていうけどさ、普通でいーじゃん」「何事にもシキタリはある物だ。 約120年前から宦官が密談に用いる方法の一つに指定されておる。 仕方が無かろう」「これは廃止して良い部類の決まりだと思うけどなぁー、っもう……で、譲爺」「うむ」 壷の中からぬるっと出てきたのは趙忠であった。お気に入りのぬいぐるみの頭を毟りながら、詰まらなそうに口をすぼめる。もちろん、趙忠も十常侍である。 張譲の屋敷にわざわざ呼び出されて二人きりで密談を交わすこと。 その意味に気付かないはずが無い。「趙忠、お主は荊州へ今から行くのだ。 劉表の元に行って、この書簡を渡せ」「……なんで十常侍である僕自身が直接行くの?」「一度だけしか言わぬ。 聞き漏らすな趙忠よ。 これは重大な事なのじゃ」 劉表は他の諸侯と比べて天代との繋がりは薄いこと。 仮に何進が暴走した際に最も安全で洛陽から近い場所は荊州であること。治めている荊州は劉表の努力の結果、非常に安定しており肥沃な大地を擁していること。他にも細々と、常人ではとても一度だけでは覚えられそうに無い話を懇々と説明する。趙忠の貌から本格的に表情が消えていったことに、張譲は気付かなかった。「おぬしに渡した書簡は、荊州に向かう道中に読み、内容を頭に叩き込んだら燃やすのじゃ、良いな」「……譲爺、うん……わかったよ」「うむ、頼んだぞ、趙忠。 少なくとも三日以内には此処から発つのだ。 細かい手続きはわしが済ませておこう。 良いか、これは十常侍で最も若く、機微に富むお主にしか出来ぬ」「うん、譲爺。 『漢王朝の為に』 だね」「うむ、漢王朝の為に」 趙忠が表情を無くして外に出る為に屋敷の地下へと向かうと、張譲もまた屋敷の奥へと向かう。足早に移動して机の上に広げられた地図を一瞥。椅子に腰掛けると引き出しから筆を取り出し、手馴れた手つきで墨をひく。「逃げ道の確保と暗殺の依頼は終わった。 北郷一刀を首尾よく暗殺できる可能性は……まぁ、五分もあれば良かろう。 所詮は謀り一つじゃ」 殺害する最大の機会が天代を追放したその日であった事は、張譲も認めるところである。当時は天代の名声が高すぎる事を理由に追放となったわけだが、今となってはさっさと殺してしまった方が良かったのだろう。とはいえ、それはもう結果論に過ぎない。張譲の手ならずとも悉くの殺意を退いて来ている北郷一刀だ。こんな単純な謀略で亡き者に出来るのならば、ここまで苦労する必要も警戒する必要も無い。こうして張譲が派手に動いたことにより、劉協の元に集う天代派は暗殺の阻止に『時』と『人』を使うことになる。これが一番重要であった。李儒という餌に食らいつき、奴らが使う時間と人員。この間に宮中を一気に掌握しなければならない。北郷一刀が洛陽へと舞い戻る余地を全て潰し、劉弁帝の下で十常侍が結束しなければ。十常侍が何進の排除を決断するまで、後どれほどの時間が残されているのか。時間がない。 士燮へと当てる書を認めた後、劉弁帝の下に向かうため、着替えるべく宮中の奥へと向かった。趙忠に与えた策謀を成功させる為に、弁帝には少しばかり動いてもらう必要がある。掌には宝玉。かつて、若かりし頃より下賜した宝。漢の為に生涯を費やす事を決意した、その日。苛烈な眼差しでじぃっと宝玉を見詰めて、張譲は吐き出した。「どこの天かは知らぬが、たかが御使いごときにこの漢王朝を食われてなるものかよ……」 コロリ、コロリと宝玉から音が鳴る――――――汗ばんでいた掌から、宝玉が滑り落ちて音が鳴る。 押し黙っていた陳宮は握り締めていた赤い宝玉が落ちて机に当たった音で、意識を浮上させた。判らない。 自らの不利になることを敢えて行うその利点。持ち得る情報を頭の中で組み合わせて繋げる作業は、必ず何処かで思考の渦の中で暈けて消え去ってしまう。「……ち、まぁ仕方ねぇな。 もう少し張譲の様子を見て―――っておい、此処は誰か来るのか?」 李儒の声に陳宮は首を振ったが、この離宮に程近い場所に立ち寄る人間は数限られている。短い足音に衣擦れの音。顰め面で動揺しているハゲ一人を置いて、陳宮は静かに立ち上がると彼女に失礼にならない程度にゆっくりと扉を開けた。視界に水平線に沈み始めた夕陽を背に、一人の男を携えて現れたのは劉協であった。「劉協様、勝手な判断でこの者と密会しておりました。 名は、李儒でございます」「そうか」「はっ! このような場にてご拝謁賜り、まこと恐縮の極みでございます。 陳宮殿に紹介されたとおり、李儒と申します」「うん、わかった。 後で詳しく話せ。 ところでねね、この男がお前に話があるそうだ」 劉協の後ろで地面に頭をこすりつけている背の低い男性に、音々音は首をかしげた。頭を下げているため、風貌が判らないのである。李儒は突然の皇帝の妹の登場に、得体の知れない小男と同じように跪いて額に汗を滲ませていた。「貌を」「へ、へい。 あの、俺みたいなのが急に、ほんとスイヤセン」「ち、チビさんではないですか。 宮中は危険だからもう使わないと言い含めていたはずですぞ」「いや、それがですね……」 チビはそう言って唯でさえ賊っぽい顔を歪ませて困ったように頭を掻いた。劉協はそんなチビの様子に、くすりと笑うと、その手を取って頭を上げさせる。「大丈夫だ。 チビ殿。 ここまで危険を顧みずに来たということは、何か大きな『報せ』があるのだろう?」「りゅ、劉協様! そのような小人の手をお取りになるなどッ―――」「李儒と言ったな、何も問題は無い。 私の為に働いてくれる者の一人だ。 少なくとも、お主よりは何倍もな」「ぐ……し、しかし、皇族が庶子に……」「黙れ。 李儒よ、今はこの者の話の方が重要だ……さぁ、話してくれ、チビ殿。 ここまで来たのは何の話の為なのだ。 どうしてねねを探していた」 それは『報せ』であった。チビは一刀が昔働いていた伝手から紹介された、運び屋の仕事に従事していた。その運びの仕事は宮中の中に入れるくらいには、この洛陽の都で信頼の厚い大手の業者であった。一度は陳宮や荀攸の言葉に従い郷里へ戻ったチビであったが、生活の為に時たま無断で運び屋の仕事を手伝いにきていたのである。そして今日、その仕事があったのも、こうして宮中の中に届けたのも、まったくの偶然だった。しかし、チビは知っていた。運んでいた壷。その数4つ。その中に、人が入ることがあり、密会することがあるという風習を知っていた。チビの運命を大きく変えた、黄巾の乱の走りを彼は忘れた事がなかった。毒を盛られ、生死の境を天医・華佗に助けられた。黄巾の埋伏の毒として、天の御使いの為に働き、真っ当な道に戻れたこと。あの時、馬元義の元でアニキとデクと共に雑兵として動いていたからこそ、天の御使い・北郷一刀との出会いは、チビにとって忘れられない事だった。陳宮はチビから、張譲の屋敷へ届けられた壷と、その中に人が入っていたという事実を知ると同時に俯いていた顔を上げる。沈んでゆく夕陽を眼に捉えて、その隣に泰然と佇んで拝聴している劉協の顔を見やる。―――繋がった。「餌ですぞ……私たちが……そう、私たちが何進をそうして十常侍に見せたように、李儒殿の報せ事態が罠なのです! 本命は今、張譲の元で話を聞いている者ですぞ!」「な、なにぃ? わしが餌だぁ?!」「チビ殿! 今すぐ宮中から出て荀攸殿の下へ向かってくだされ。 彼女から郭淮(かくわい)と鄧艾(とうがい)という二人の小さな子供たちに、私の認める文を運んで欲しいのです。 危険を承知でお願いするのです! それが終わったら、すぐに雲隠れを! わかったですか!」「え!? へ、へい! わかりやした!」「劉協様。 ねねは少し忙しくなりまする! 今日は早めに離宮の自室でゆっくりとしてくだされ!」「判った。 李儒……だったな。 お前はどうするのだ」「で、でしたらば、私の方から陳宮殿の変わりに事のあらましを説明させて頂きます。 もし、宜しければですが……」「む……そう……いや、今日は良い。 明日、改めて聞かせてもらう」 劉協と李儒の話をおいて、陳宮は離宮の入り口に置いていた書簡の中から白紙のモノを選んで直ぐに自室の机へと向かった。一刀の暗殺は行われる。 しかし交阯に居るという士燮の手では無いだろう。張譲は自分の屋敷に招いて密かに出会った者に、本当の一刀の暗殺を指示しているはずだ。しかし、この宮中、その周辺を見ても一刀を暗殺できるほどの腕前の者は殆ど居ない。居るとすれば何進が指揮を取る官軍の中や袁紹の私兵を纏める将であろうが、あの張譲がそんな者に頼るはずも無い。自らの人脈から掬い上げた誰かに違いないのだ。恐らく、屋敷で密会していた相手は趙忠。名を呼ばせるほどの信頼を見せている彼ほど、今回の張譲の謀りに適任な者は居ないはずだ。 チビには荀攸の元へ走ってもらう。荀攸からは子供達に、子供たちには曹騰の元へ。隠居したとはいえ、張譲と共に長く十常侍であった曹騰は宮中に未だに多大な影響力を持っている。今まで張譲に隠し続けてきた手札を、暗躍し始めた今、切らねばならないだろう。荀攸自身には一刀と繋がりがあり、自由に動ける者へ暗殺の件を知らせ、場合によってはその警護についてもらうように手配しなくてはならない。しかしまだ、手が足りない。チビがもう使えないのならば、アニキと呼ばれていた維奉はどうだ。 デクと呼ばれた大男も居る、彼はどうだ。今は離れ離れになってしまった桃香への連絡も、盧植を頼れば可能なはずだ。それでも足りないならば荀攸の伝手も借りるしかない。 彼女は宮中に詳しい友人を何人か知っているはずだ。張譲は―――動き出せば早い。今この瞬間にも、次の謀の剣を突き入れているに違いない。一刀の暗殺という心臓が飛び跳ねそうになる謀略も、何度も何度も音々音は想定していた事である。そうだ。音々音は洛陽で蠢く張譲から目を離すわけには行かない。それが出来るのは劉協という帝妹に仕えている自分にしか出来ないからだ。張譲の突きつける刃の鋭さは、一刀を失ったときに痛感している。負けない。例え一人では適わなくとも、一刀が築き上げた人脈と絆は、張譲の刃を防ぐに足る鎧になれる。しかし、自力で鎧を身に着ける事ができない一刀に、張譲の腕を見張る音々音はその鎧を着せてあげられないのだから、『人』に頼るしかないのだ。何時かに誓った言葉を欺きには決してさせない。一刀の道を阻む、策謀全てを押し流して見せる。「一刀殿! 必ずねねが、道を作ってみせるのですぞ!」 陳宮の奮った黒い墨の軌跡、胸元の赤い宝玉はそれを辿るように映しながら、中空へと跳ねた。 ■ 胸に灯る志在の玉 洛陽の水面下で大きな動きがあった頃、一刀は与えられた官舎の部屋のベットの上でぼんやりと胸元にぶら下げた赤い宝玉を眺めていた。もう陽が落ちてからかなりの時間が経つ。時刻にすれば、深夜の11時を過ぎた頃ではないだろうか。久しぶりに、ゆっくりと休めたと欠伸をひとつ。ペンダントにしている宝玉の紐を外して、テーブルの上に置くと体を横にして腕を伸ばす。劉焉の元で働き始めてから、郭嘉から無茶振りをされていた一刀は、とりあえず不眠不休で働いてみた。一日目は誰にも気取られることなく。二日目には郭嘉が心配そうになり、三日目にはこの梓潼の官舎で働く全員が異常な働きぶりに眼を剥き始める。四日が過ぎると流石のローテーション一刀戦法にも陰りが見え始め、劉焉はそのまま死ねッ! と熱い声援を送り始めた。そして5日目、6日目と続いて丸一週間が経った頃だ。不眠不休で働き続ける北郷一刀に恐れを抱き始めた全員が、今日は休んでくれと懇願し、今に至っている。 劉焉の抱いた恐慌はかなりの物で、一刀が近づくと目に見えて逃げ始めるくらいであった。『いやー、流石にきつかったね』『寝なくて良いのは確かだが、ちょっときつかったな』『"白の"はちょっとか……俺はへとへとだよ』『劉焉さんに触れないな、どうも避けられているような……何とか触る方法あるかな?』『"無の"、もういいんじゃないのソレ』『いや俺は触りたいぞ』『誰だ今の』『いやもういいでしょ、俺はもう駄目だ、意識だけなのにクソ眠い』『だいじょうぶ、本体よりはマシだ』「ああ、もうやりたくないな……けど、洛陽に居た頃を思い出すよ」 洛陽で努めた政務に忙殺された日々。益州でも乱は収まったばかりだし、治安が落ち着かない日々は続いている。長い日照りの影響から、作物が育たずに飢饉を迎えそうな邑からの嘆願書も日々届いていた。益州南部は殆ど手がついていない有様だ。実際に働いてみれば、劉焉の臣下だけではとても手が足りない状況である。実際に一刀だけが働き続けても意味が無いと思えるくらいには、やるべき事は多岐に渡っていた。それでも、敢えて一刀が働き続けた理由は郭嘉が無茶振りをしたというのあるのだが。実はもう一つ。益州全土と言っても過言では無いくらいに広がっている、『天代』に対しての評判ゆえにである。せっかく、これほど異常な熱を孕んでくれているのなら、そのまま『天代』の名声を維持できるくらい長く続けてもらいたかった。これは一刀が持つ武器である。もちろん、涼州の武威に居た頃のように弱点にもなるものだが、それでもだ。いつか洛陽へ戻れた時に、『天代』が死んでいてはどうにもならない。望まずに得た二つ名ではあったが、今では一刀にとって無くてはならない物の一つだ。その為に、真新しく『天代』としての逸話が増やせないかと話し合ったところ、寝ないで働いてみるか、という結論に至った。どうせ一人の人間に出来ることなんて多寡が知れている。一刀自身が自分の功績を振り返ったときに、幸運に恵まれていたと思うこと頻りである。まずは無理に民衆受けする逸話をでっちあげるよりも、出来ることから始めようと考えたからである。 ベットの上で何をするでもなく、右に左に体勢を変えてはうたた寝したりを繰り返して丸一日休んでいた一刀だが、流石に眠りすぎたせいか寝れそうにない。こんなにも時が深更に及んでいるのに、と思わないでもないが、一刀はベットから降りて外へと向かった。「そういや郭嘉さん、全然こっちに来なかったけど、鼻血は大丈夫なのかな」『あれはまぁ、発作だからね。 こういう日々もあるさ。 来てくれると嬉しいんだけどな』『うむ、暇も潰せて柔肌も感じられて、嬉しいな』『うむ、血が出なければな』『うむ』『うむ』 うむうむ、と全員から同意が返ってくる。全くこいつ等、と思わないでもないが本体も少なからず思っていることなどで脳内の言葉にはしっかりと深い頷きを持って応えておく。『さて、本体もたっぷり睡眠取ったところで皆、準備は良いかい?』『よし、いいぞ』『それなりに考えているぞ』『じゃ、第107回・北郷一刀脳内会議を始めます』 ぐだぐだと始まった今後についての会議に本体は耳を傾けつつ、とりあえずの目的地である厩舎の前にたどり着く。金獅と再開してからは、なるべく時間の空いた時に構うようにしていたからだ。この梓潼の地でも金獅にはまったり代わりがなかった。環境が違う場所でも普段と変わらない食欲に、物怖じしない図太さ。袁紹が屋敷をいくつも建てられる額で買い取ったという話に、最初こそ面食らってしまったが今ではそのくらいの価値は一刀もあると思っている。『次に紫苑さんに送るプレゼントの羽織のデザインについての議題なんだが、俺に提案がある』『いや駄目だ、却下だ』『何故だ、"呉の"!』『俺にも提案がある』『いや駄目だ、却下だ』『何故だ、"袁の"!』『俺にも提案がある』『いや駄目だ、却下だ―――』 脳内が、そんな、ひどい……ループに陥っているようだが、一人そんな会議に上の空でいる者が居る。一刀は厩舎の中をぐるりぐるりと廻っている金獅をぼんやりと眺めながら、ふと気付いた。そうか、と納得もするし、先ほどまで洛陽に居た頃を思い出していたせいか共感もできた。「南蛮物とかだったら、珍しくて黄忠さんも喜ぶんじゃないか? 羽織くらいはあるだろうし、こっちじゃ早々手に入らないだろうし」 そもそも漢王朝は異民族からの貢ぎ物を受け取る事も多かった。当時の皇帝であった劉宏は、異民族からの朝貢で気にいった香や薬を愛用していたし、諸侯の著名人も自らのステータスを高めるためか、或いは知識欲が刺激されたのか、珍しく質の良い品物には大金を気前よく払っていることも多かった。もちろん、天代であった一刀にもそういった多くの珍品は送られてきていたのだが、それらは殆ど恋に"掃除"されてしまっている。『南蛮か……成都からその先ってなると、未開拓地を進む事もあり得るけど』『いや、そうか。 "南の"の事を考えればそうだよ』『あ、そうだな』『あはは、ごめん、何か気を使ってもらっちゃったな。 でも此処に来てからは確かにずっと考えていたよ……美以のことも』 "南の"はそう言って、ここで俺たちが出来そうな仕事に関しても、と続けた。益州南部は漢王朝が支配しているが、実際のところ支配というよりは放置に等しい扱いと呼ぶのが適当だろう。地勢が厳しすぎることもそうだが、何より人口が少ない。それに加えて虎や熊といった相対するに危険な大型獣も多く、益州南部よりも更に南方では漢王朝が蛮人と指定する異民族が数多く存在していた。もちろん、明確な国境線の無いこの時代。 漢王朝が定める益州南部に、異民族が進出し集落を構えていることも少なくない。益州を掌握しようと数多くの官吏が派遣されては、揉め事―――最終的には武力衝突―――となって有耶無耶のうちに撃退されてしまうことが常であった。つまり、南蛮は秘境の地といっても過言では無いのである。『けど、俺ってその南蛮に落ちたことで外史が始まったからね……つまり、その、ズルが出来るっていうか』 "南の"の仕事に対しての提案。 それは未だに混迷極めている益州南部においての『南蛮図』を作成することであった。一刀が居た現代では当たり前のように地図は存在しており、市民が当然のように手にして使用されているものだ。街角を歩けば周辺図が載っている看板もあるし、車に乗り込めば当然のようにカーナビが装備されている。しかしながら、この漢の地では地図そのものの価値は黄金の塊に匹敵すると言っていい。戦略上の要衝である場所が一目で判るし、地勢や地形を指導者が把握することは非常に重大だ。権力者の大半は、自らが治める地に赴くに当たって出来るだけ精微な地図を用意することが当たり前になっている。ところが、この地図の作成というのは非常に手間であった。測量技術の発達していない時代、用いる器材の精度もあまり信用できるものではないとくれば、当然だった。数ヶ月間、地図の作成に数千人規模での人員を費やして、出来上がった物が州の半分も埋まらないなどザラである。金も時間も多大に消費して、間違いだらけの地図が出来上がる事も多い。『でも俺はもう、大まかな地勢は頭の中に入っている。 諸葛孔明に振り回されたおかげでさ』『そういや昔、少し聞いたね。 朱里とやりあったんだっけ、"南の"』『知力100とか、無理ゲーだっただろうなぁ』『いやもう、正直それは嫌な記憶しか……まぁそれはともかくだよ』 "南の"の苦い記憶となっているそれを横において話を戻すと、その時に呉・蜀を相手取って東西奔走したおかげで益州南部から交州西部、その広い範囲に渡って地理を記憶していた。何処に山があり、何処に川があり、そして道があるか。また広く広がる自然の猛威に対しての知識を、蛮人とされている地元の人間から教授されている。昆虫や動植物が持つ数多の毒や習性、それらを材料に使われる生活の必需品や薬。大型の動物の毛皮の利用法など、南蛮の地で戦う為に―――なによりも"南の"自身が―――生き抜く為に懸命になって頭に叩き込んだ知識がある。『劉焉さんはきっと、益州南部の地図が手に入るとなれば、その利に飛びつくと思う』『確かに、劉焉が益州を掌握するためには絶対に必要になるな』『劉焉さんもそうだけど、漢王朝にとっても利益になるよね』『間違いない』 本体は餌のなくなった飼葉の桶を鼻頭で突っつきながら嘶く金獅を撫でながら、頷く。もしも正確な南蛮図を描く事ができたのならば、『天代』の偉業として黄巾の乱や涼州の平定に並んでも目劣りしない物となるであろう。自分達に絶賛された""南の"は南蛮図の作成のメリットを挙げていく。一箇所に留まっている事は、今の一刀の立場には危険が伴うことであった。しかし、目立つ場所で大々的に活動するわけにも行かない。もともと人口が少なく発展が遅れている未開の地での活動は、一刀自身が安全に身を隠せる場所とも言える。また、有力な南蛮人の支配者との交友も築けるかもしれない。音々音と、そして劉協と交わした約束を守るために一刀には力が必要だ。もう一度、中央の政権に戻ったときに自らを支えてくれる諸侯の協力は絶対に必要であった。そして最後に一つ。本体が南蛮での権力者との繋がりを強める過程で、"南の"が大切な人と出会える事だ。「そうなるとデメリットは……時間か、やっぱり」『そうだな』『でもさ、此処でじっとしていても同じように時間は過ぎていく訳だし』『南蛮図、作ってみるのは良案かもね』 脳内の一刀達は賛同を返した。本体も否はない。「よし、作ろう。 南蛮図」『『『おう』』』「金獅、またお前を散々歩かせるだろうけど、よろしくな」『また……やっと会えるな……美以……』 一刀の声に、金獅はちらりと顔を上げると、そのまま一刀の顔を舐めまわした。一刀は笑いながら飼葉を取りに踵を返した。―――・「おう、まだ部屋におったか、北郷」 今後の方針を固めた一刀たちは、朝日が上がった頃に寝なおすとそんな声に起こされる。一刀はのっそりと起き出して顔をあげると、厳顔が苦笑のようなものを顔に貼り付けながら腕を組んで立っていた。「ごめん、寝坊しちゃったかな?」「馬鹿いえ、お主はちょっと働きすぎじゃ。 もう少しゆっくりしていても良い……と言いたいが」「用事?」「うむ。 しかし寝たいのなら寝ていても構わぬ」「もう大丈夫、たっぷり休ませて貰ったから。 少し体のだるさはあるけど、問題ないですよ」「そうか、それなら後でわしの仕事に付き合ってもらおうか」 そう言って両腕を上に向けて伸びをぐいっと一つ。厳顔が扉を閉めたのを確認してから、一刀は用意されている水瓶のもとに向かって手早く身支度を終えるとすぐに飛び出た。彼女が一刀を呼んだのは、人材の発掘―――というよりは、人材不足の為に早急に文官武官を募集していた―――期限の日であり、その面接を行う手伝いをして欲しかったそうだ。また『天代』として活躍した一刀の目利きにも期待をしていると言う。「もう3回に分けて行われたが、そうそう優秀な者というのは見つからんな」「はは、そりゃ厳顔さんや黄忠さんを基準にしたら、そうなりますよ」「なんじゃ、煽てても何もでぬぞ北郷」「別にそんなつもりじゃないですよ。 でも、厳顔さんや黄忠さんはやっぱり飛び切り優秀ですって」 真顔で言い切った一刀に、厳顔は薄く笑う。中央で『天代』であった一刀から、こう高く評価されていると思うと気分の悪い物ではなかった。彼の近くには"飛び切り優秀"な者たちが、それこそ多く存在していたはずなのだ。自らの能力には自信があるし、卑下するつもりも全く無いが、ほかならぬ『天代』が認めてくれるのならば少しくらいは己惚れても良いだろうか。とはいえ、ここまで高い評価を受けるに足る仕事をしていただろうか、とも厳顔は思う。確かに手を抜いて仕事をしている訳では無いが、肩肘張ってガンガン働いていたわけでもない。一刀と共に仕事を手伝ってくれるようになった郭嘉の方が、よっぽど精を出しているのだ。まぁ、なんにせよ。「目利きには期待できそうじゃな。 おし、行くか!」「ええ、行きましょう」 そして辿り付いたのは官舎から少し離れた一軒の山小屋であった。入り口の端に掲げられた看板のようなものに、大きく人材の募集を謳う文が書かれていたため、面接に訪れた者はここまで来ればすぐに判るだろう。一刀は入り口で二つに分かれた場所を通り、そこで初めて一刀の頭の中に疑問符が踊る。いや、まさかな、と思いつつも厳顔に教わった通りの場所を通って面接会場にたどり着くと、一刀は混乱した。そこは少し視界が悪かった。木柵と木板で囲われ、見上げれば開放的な作りのためか青空が広がる。スズメが数匹、ゆっくりと流れる白い雲の上を泳いで鳴いていた。そんな一刀の視界を遮る湯気。鼻腔の奥を擽る、特徴的な硫黄の匂い。足元を見下ろせば、確かに広がる湯の水面。どっからどう見ても温泉である。「……」「なんじゃ、そんなところで服を着たまま立ち止まって。 早う入れば良いのに」「いや、そんなところって、俺のセリフですよ。 どうして人材発掘の場が温泉なんですか」「あら桔梗、ようやく来たのね。 一刀様も、いらっしゃ~い」「うむ、少し遅れたの」「……しかも浸かってるし」 黄忠は既に湯の中にとっぷりと浸かっており、姿を見せた一刀と厳顔の二人にひらひらと手を振っている。もちろん全裸だ。お湯の中に入っているから全貌は覗くべくも無いが、湯の中に白く輝いて浮き出ている大きな双子丘がソレを主張していた。同じように厳顔も当然服は着ていなかった。彼女は堂々たる女性であった。布で隠すこともなく、一刀の横を通り過ぎると湯加減を確かめるように手で掬っている。背中や腰、そしてお尻のラインが眩すぎて、一刀は思わず目を手で覆った。「ほれ、北郷。 良い具合じゃ。 早くおぬしも準備して入るといい」「そうですよ、一刀様。 この梓潼の温泉は、益州でも自慢できる物の一つだと思いますわ」 立ち尽くして天を仰ぐ一刀は、この状況に至るまでの過程を脳内で必死にまとめていた。ちょっと回りが相当煩いが、何とか状況を整理すると一刀は口を開いた。「つまり、ここで面接を行うと?」「うふふ、実は今日は面談するのは一人だけなんですよ。 私の知り合いの県令さんから推薦を戴いた子で、後2刻後くらいに来る予定なんです」「かっかっか、ここにお主を誘ったのはまぁ、労いという奴じゃな」「相手の面子もありますし、雇用するのは決まっているんですよ」「それなりに働ける者だとありがたいがの……まぁその目利きは、北郷を頼るとして。 まぁそういう訳じゃ」 呆然としている一刀に、黄忠と厳顔はイタズラが成功した子供のように笑顔を向けてくる。「なるほど、手の込んだ話です……」「それにのぅ。 なんというか、七日も寝ずに働いてしまう姿を見てしまうと、言葉だけじゃ忍びなくてなぁ……」「体と心の疲れを取って貰うのに、一肌脱ごうと紫苑と話していたのよ」「うむ、しかし北郷はこんなおばさん達じゃ嫌かも知れんなぁ」「なによぅ、私はまだまだ現役のつもりよ~」 首を傾げてそう言う黄忠と、おどけた様に肩を竦める厳顔のキャイキャイとした会話が聞こえてくる。二人の話を纏めると、一刀が働きすぎて少しばかり後ろ位気持ちを彼女達に与えてしまった、という事らしい。つまり、これは簡単に言うと一刀への接待なのであろう。脳内一刀の意見は割れた。 彼女たちの好意を無駄にする訳にはいかないだろう、という意見。何故か音々音を引き合いに出されて、突っぱねるように具申する一刀たち。他にも黄忠や厳顔の湯の中で揺れる豊満な肢体について議論を重ね熱弁していたりしている。本体は冷静であった。多分、脳内の俺たちはこの状況で遊んでいる、と本体は確信を抱きつつ身体はすんなりと踵を返すことに成功する。おや、と思う二人の淑女を置いて、一刀は建物の中に戻ると胸元へと手を置く。そして上着のボタンを外して服を脱ぎ始めた。途端に ヒューッ! 見ろよ本体の筋肉をっ とか言って黄色い歓声を上げる脳内。やかましいわ。僅かに走った頭痛を無視し、腰に布を巻きつけると着た道を取って返す。自分でも驚くほど冷静で居られたのはきっと、まだ記憶に新しい武威の地で覗きをしてしまった事を思い出したからだ。あの時、最初から堂々と事実を話してブッキングした事を判らせて居れば、"エロエロ魔神"などという不名誉な称号を受け取らずに済んでいた。そう本体は思い込んでいる。一刀は確かに黄忠と厳顔の好意を受け取るか迷った。しかし、一刀が二人の女性の好意よりも何よりも先に服を脱ぐ判断に至ったのは。久しぶりの風呂だ! という強い情念であった。普段から布や水で体はしっかりと洗っているが、湯にどっぷりと浸かれる風呂となると話は別だ。湯に体を沈めるという快感を、日本に居た頃から習慣として身に着けている一刀にとって、温泉に入れるチャンスを逃す手は無かった。ついでに美しい女性が隣に居てくれるのだと言う。これで文句を言う者が居たのならば、天罰が下るであろう。腰布一丁で温泉へと戻った一刀は、最初に頭を下げた。「少しびっくりしましたけど、俺の為にありがとうございます」「むう、意外と肝が据わっておったのぅ。 もう少し悩むと思ったがなぁ」「賭けは私の勝ちね桔梗。 うふふ、貰いますわ~」「うむむ、まぁ……仕方あるまい……」 そういってしぶしぶと徳利を渡す厳顔。 ホクホク顔で受け取る黄忠を交互に見やって一刀は降参するように手を挙げたのだった。湯に浸かってしばし、久しく浸かる湯の中で、嬉しいやら恥ずかしいやらの歓待を受けていた一刀はふと口を開く。昨日の夜に自分達と話し合って決めた、南蛮図に関しての意見を貰おうと思ったのだ。「南蛮図、ですか……簡単には言っても、地図を作るのは一朝一夕できるものでは……」「そうですね、でも地図があれば益州……劉焉さんにもそうだし、二人にもかなりの恩恵があると思うんだ」「それは……そうですわね。 正確な地図があれば、益州にも相当な利がありますわ。 ちゃんとした道があるかどうか、判るだけでも相当楽になりますもの」 真面目な話だからか、先ほどまでのにこやかな笑みはなりを潜め、腕を組んで黄忠は思案する。岩場に腰掛けて杯を煽っていた厳顔も、顎に手をやって考え始めた。「でも、一刀様……いえ、天代様は良いのですか?」「え?」「んっ……紫苑が言いたいのはこうじゃろう? その南蛮図を作っている余裕が『天代』にあるか、と」 一刀の状況を郭嘉からも話を聞いているのだろう。「それに金獅といったの。 あれも名馬とは言え所詮は馬一頭じゃ……なぁ北郷。 お主、少し暢気に過ぎるのではないのか?」「ちょっと桔梗、失礼よ」「紫苑、お主だって同じ思いじゃろう。 中央の事は遠すぎて良く判らないのは確かではあるがな。 それでも、中央政権から遠ざけられた者たちが、今までどうなって来たかを考えれば……」「どうなったか……ですか?」「まぁそうじゃな。 わしも漢王朝の禄を食んでいる官吏の一人。 それなりに物事は見てきておる」 中央政権から排されて官職を追われた人の中には、進退窮まって匪賊にまで身を窶した者。下された罪は何かの間違いであり、清廉に職務を果たしていれば返り咲けると信じていた者が急な病や事故で命を落とす。最悪の場合、排斥された彼らの中には官匪となってしまう者すら現れたという。そうした暗い影の部分も見ているからこそ、厳顔や黄忠から見て一刀の今の立場や状況はそれらと重なり映るものであった。厳顔から改めて『時』を指摘されれば、一刀も言葉に詰まってしまう。実際のところ、どれほどの猶予が自分に残されているのかなんて判らないからだ。だからと言って、一刀が今の段階で中央に戻れば混乱を招くだけに終わり『漢王朝』にとって痛恨事となる。劉協と交わした約束を思えば、それは出来ない。難しい顔をして押し黙った一刀の背に、柔らかな掌の感触。驚いて振り向けば、酒に当てられたのか。ほんのりと顔を赤らめる黄忠が一刀の背に手を当てていた。お湯が跳ねた音を一刀の耳朶に残し、その耳元で黄忠の唇がゆっくりと動く。「あまり大きな声では言えませんけど、御立ちになるのでしたら、早い方がよろしいですわ」「北郷、おぬしが立ち上がるに容易い環境は此処では揃っておる。 もし決断するのであれば、わしも協力は惜しまんぞ」「ちょ、ちょっと待ってください。 二人ともどうしてそんないきなり……」 唐突とも言っていい二人の提案。其処にはもちろん理由があった。何度も繰り返すように、益州で『天代』の名声は凄まじいことになっている。洛陽での決戦から今に至るまで、天の御使いの偉大さを民謡で歌うほどなのだ。大なり小なり、虚実を交えているであろう噂は日々飛び交っており、それは黄忠や厳顔の耳に届いていた。漢王朝の降盛の翳りを黄巾の乱で如実に実感してしまった事もある。民たちの見る天は、いまや漢王朝よりも天代に拠ってしまっている。 そう判断できてしまうのだ。 少なくとも、益州では。そして、天代という名声は。「桔梗や私にとっても同じく希望となる物だと言う事ですわ。 私たちは平和を望んでいるのです、一刀様」 黄忠はそう言って空になった徳利を石の隙間に置くと、身体を起こして腰掛ける。平和を望むという言葉、それは暗に漢王朝のままでは―――現政権のままでは乱を迎えるという確信があっての言葉だ。田舎といって差し支えないこんな場所でも、時流を読んでいる聡い者達は今後の情勢に明るい見通しを持っていない。濁った水面に視線を落としていた一刀も、火照りを治めるために岩に腰掛けると、胸元に揺れる赤い宝玉が視界の中に入った。身体からも立ち上る湯煙の中、そっと宝玉を手に乗せる。「……ねね」漢を見限って立つというのであれば、黄忠と厳顔の誘いはきっと一つの魅力ある選択肢だった。郭嘉も同じように、自分が立つのであれば、という話をしてくれていた。国家が衰退に入り、亡くなろうとしている物を生かすというのは、誰が見ても難しいことなのだろう。でも、それでも一刀には洛陽で待ってくれている人が居るのだ。『天代』として戻る事が出来れば、洛陽で築き上げた諸侯との繋がりを保つ事が出来れば、それだけできっと事態は良い方向に動いてくれる。”北郷一刀”にとっての最良は、そこなのだ。その為に劉協が、そして音々音が必死になって洛陽へ戻る道を用意してくれる筈である。「ありがとうございます。 でも俺は、やっぱり漢王朝の天の御使いなんです。 天代となったのも、その上で功績を積み上げてこれたのも、漢王朝あってのものだった。 俺が個人的に交わした約束を破る事にもなります。 だから、気持ちは嬉しいですけど、その話は受けることが出来ないです」 一刀は黄忠と厳顔に向き合って、一つ頭を下げるとそう言った。顔を合わせて意思の強い瞳を向けられて、黄忠は一つ息を吐くと微笑んだ。「かっかっか、いやー、見事に振られてしまったのぅ紫苑」「ふふ、そうねぇー……一刀様をご主人様と仰ぐのも悪くないと思ったのですけど」「そうじゃな。 あの『天代』と轡を並べ、北郷をお館様と呼ぶのも悪くないものだったろうの」「あはは、ありがとう……とにかく、今は俺も雌伏の時です。 洛陽に戻れるその時までは、仲間を信じて吉報を待っていますよ」「うむ、負けるでないぞ、北郷」「及ばずながら応援しておりますわ。 力になれる事があればご相談ください」 一刀は心の中で感謝した。こうして改めて他人の口から、今の自分の立場を再確認できたこと。ともすれば時間と共に薄れがちな、一刀自身の立志を振り返らせてくれたことに。漢を憂う者たちは、この大陸に住む者たち全てなのだ。何処でも、誰もが、漢王朝の今後の動静を見守っている。己が志を胸のうちに抱えながら。その為に、一刀がしなければならない事。 今はそれがはっきりと見える。「……必ず帰って、生かして見せるさ」 自分の大切な人。 ”北郷一刀”が出会った恋姫たちの為に。漢王朝を生かしてみせる。湯気の立ち上る揺れる水面を、胸元に掲げた赤い宝玉は鈍くその光を反射させた。 ■ 薄霧に響く鈴の音 満天の星空となった月が明るく照らす。川の流れの中で揺れ動く小船が立ち並ぶ中、その岸辺にて本来見ることの出来ない馬車が現れたのは、そんな日だった。馬車は3台あり、それらを運用している人数は目視できるだけでも10人は越えている。他の船より少しだけ大きい帆船の一室で、そんな光景を目にした少女は舌打ちを一つ打った。月明かりが明るい為か、こんな真夜中でも場違いな場所に現れた馬車はハッキリと見える。似つかわしくない美麗な装飾に、官吏であることを示す印が施されていた。「姉御」 窓から眺めていた少女は、扉の外から声を掛けられて小さく息を吐く。彼女の名は甘寧。この長江で錦帆賊と呼ばれる江賊の長であった。それこそ甘寧が産まれてくる前から長く長江を根城にし、周辺の要衝である陸路と水路で活動をしていた賊である。産まれた時から江賊として振る舞い、その環境に長年疑問を抱かなかった甘寧であったが、黄巾の乱が起こってからは今の自分達の在り方に悩むことが増えていた。机に置いていた手紙をしまい、気が進まないながらも扉を開ける。歓迎できそうもない来客は、江賊の長である自分が応対せざるを得ないのだから仕方が無い。「何者だった?」「へえ。 姉御の予想通り、官職の者でした。 ですが……」 言葉少なに尋ね、部下が返した言葉は予想の通りでもあり、予想の埒外でもあった。「三つの馬車のうち、一つ。 俺でも知っているような大物の使者でしたぜ。 十常侍・趙忠の使者が乗っていやす」「なに、十常侍だと? ……わかった、何人か部下を呼んでこい。 使者殿に会う」「へぇ、了解です」 甘寧はそう言って、先ほど認めていた手紙に一瞬だけ視線を泳がした。なんと間の悪い事か、と思わずには居られなかった。それはつい最近の出来事である。このまま賊徒として活動していても、先が明るくないであろう事を察した甘寧は、江賊を纏める者として権力者の下に身を寄せる事を考えていたのだ。錦帆賊の根城である江湖に最も位置関係で近い権力者は、袁術。 そして孫家である。袁家と孫家。 勢力としては比べるべくも無く袁術の方が権勢が強かったが、甘寧は孫家の方に狙いを定め、自らを売り込もうとしていた。理由は二つ。袁術の勢力は強大すぎて、賊徒であった錦帆賊の印象は激烈に悪い方へ傾くと判りきっていたからだ。そこで働く者たちから忌避されやすく、多くの厄介事が増えるであろう。そしてもう一つは、現在孫家を取りまとめる孫策、そしてその妹である孫権の二人を遠目から見かけたことが在ること。ちょうど豪族との折衝であろう政事に彼女たちを見かけた甘寧は、人と成りを確認しようと身分を隠して近づいた。それは偶然であったのだ。甘寧が孫策と孫権の二人に接触しようと試みた時、黄巾の残党であった者たちが先に騒ぎを起こしたのである。騒ぎを起こした原因は、豪族たちによる孫家への反発が理由であったが、その矛先となった孫権は賊徒の襲撃を許しただけでなく、行き場の無くなっていた黄巾の残党を一兵卒として召し上げた。甘寧は己の目的を果たすことは出来なかったが、その時に賊である者たちへ投げかけた孫権の言葉と、その姿に惹かれている自分を自覚し、甘寧は賊の身分から足を洗って孫権に仕えることをそんな些細な出来事から夢見始めていたのであろう。しかし、江賊として大きく名を馳せてしまった錦帆賊は、それなりの武名と共に賊として有名になりすぎてしまっていた。少なくとも、長江に近い諸侯へ豪族は間違いなく知っている。かつては討伐対象となって諸侯からも軍勢が押し寄せてきた事があるほどだ。そんな歴史的な動きがあって、今なお存続している錦帆賊を彼らが知らぬ訳が無かった。故に、甘寧個人が孫権と、孫家に惹かれていようと、話は簡単に纏まるはずも無い。 甘寧は錦帆賊の長であるのだから。悶々とした日々を過ごしていた甘寧だが、近いうちに錦帆賊が進むべき船路を定めなければ、いずれ滅びてしまう。自分でどうにもできないなら、何とか渡りだけでもつけたいと思いつき、甘寧は孫権への手紙を認める事を思いついた。その矢先である。宦官―――それも十常侍からの使者。それが一体、甘寧……いや、江賊である自分達にどうして彼らが尋ねてきたのか。浮かべている船の中でも、一等綺麗な応接室に使っている部屋へ使者を案内し、甘寧は宦官からの使者を迎え入れた。「暗殺?」「はい。 我が主の要求は、ある男の暗殺でございます」「それを私に行えと?」「この江湖周辺を鈴の音一つで震え上がらせている甘寧殿です。 その武名に信を託しての事でございます」 甘寧は使者の話を聞くに連れて、その眉根を顰めさせることしか出来なかった。どこの誰かは判らないが、この宦官の使者とやらは錦帆賊の現状と甘寧個人の事についても詳しく調べ上げている。たった一人の人間を屠るだけで、甘寧が抱える問題全てを解決できるのだから、蜜としては甘すぎた。かつては討伐の対象になった賊徒である錦帆賊の安全、少なくない人員のその後の身の振り方。ただの賊徒の長でしかない甘寧に官職を与え、袁家、或いは孫家への窓口を作ってやる事を確約するということ。今、甘寧が押さえている水路から揚がる物品や金銀は、中央が利権として甘寧に対して認めることなど。甘寧個人にとっても、錦帆賊の全体にとっても不利な点がまったく見当たらないと言っても過言では無い条件であった。元から無口であった甘寧が悩めるように顔を歪めていると、使者は密書を広げて、其処に書かれている暗殺対象の名を読み上げた。甘寧の切れ長の目が限界まで広がり驚きを露にした。「甘寧殿の立場を鑑みるに、この提案以上に全てが上手くいく方法はありますまい。 これは甘寧殿にとっても大きな機会となるでしょう」「私が、殺すのか……こんな大物を……」 その男の名、甘寧は自分の人生の中で係わり合いになることなど無いだろうと思っていた。降って沸いたかのようなこの暗殺計画。多大の利があろうとも、甘寧を躊躇わせるに足る名が告げられて、自らの心を律するのに数分の時を要した。「甘寧殿に塞がる障害は、我々の手でできる限り全て排除することを約束しましょう。 手付けとして、馬車に積んでいる荷台の物をご自由にして下さって構いません。 暫く我々は、対岸の大邑で過ごしますので、答えが出たらご連絡下さいませ」「…………」 その場での返答は避けたものの、密談から五日後。霧が薄く広がる長江のほとりで、悩みぬいた甘寧は趙忠の使者へと部下をやり、暗殺計画に是を返した。孫権の元に身を寄せる自分を想像するだけでは、もはや足らず、彼女の手となり足となって支えたいという思い。そして自らの知恵では、宦官の使者が提案した錦帆賊が生き残る道が見つからないと、認めたが故だった。腹が決まった彼女の行動は敏速であった。薄霧が広がる朝靄に、鈴の音が一つ―――リンッと鳴り響くと、江湖のほとりから江賊の長の姿が消えた。その日、甘寧の鳴らす鈴の音は江湖の水路から消えたのである。 ■ 外史終了 ■