■ 騙って煽って 何処にでもみかけるような、平々凡々とした邑の一つ。山間を縫って東からの暖かな陽光が照らすその場所に、邑の住人達が揃って手を挙げている姿が見られた。一人の少女の旅立ちに、邑ぐるみで送り出す。そんな日。いつまでも振り続けている手を降ろす事ができたのは、彼らの姿が消えて見えなくなってからだった。邑の長を務める老の一人が、県令と古くから知り合いだったおかげだろう。人材不足であることも手伝って、益州僕へ仕えることが殆ど決定している。わざわざ邑で働いている者たちが総出で見送るなんてしなくても、きっと様子を見に来ようと思えば何時でも帰ってこれる。それが、嬉しいか嬉しくないかと問われれば、まぁ嬉しいのだが。ざんばらな黒髪に特徴的な白髪が混じった毛を弄りながら歩く。fこの日の為に誂えた一張羅は、かつて阿蘇阿蘇でも特集された服飾職人の者に頼んで作られた。動きやすいように半そで揃い。 後ろで纏めた赤いひもが、二つ飛び出すのが特徴的である。ひらひらとしたスカートは、やはり動きを阻害する為に半ズボンとなり、結果的に腕につけられた手甲だけが浮いて見えるようになってしまった。邑から旅立つ少女の名は魏延、字は文長。黄巾の大乱、自警団として邑を守る際に周辺で賊徒を相手に大立ち回りを演じた彼女は、この周辺の寒村では、ちょっとした英雄となっていた。「やれやれ、叔父貴も子供たちもまったく。 すまなかったな、文長」「いいんだ、一緒に暮らしてた皆と別れるのが寂しいのは私も一緒だから。 確かに少し大げさだって思うけどさ」「ああ、まったくだよ。 今生の別れってわけでもないのにな。 さて、荷物はこっちにまとめてある。 道中の水、食料と……それに一番大事な紹介状も一緒に馬にくくり付けておくから、失くさないように」 生まれ過ごし、大災といえる黄巾の乱すら乗り越えた郷里を離れる。いざ、この日を迎えると今まで毎日見てきた景色すら、はじめて見るからのように新鮮な気持ちになるのだから、不思議な物だと魏延は思った。自警団として苦楽を共にした青年の一人が準備をおえて馬を引いてくると、慣れた手つきでそれに跨る。「道中気をつけろよな、文長。 お前やっぱり、そそっかしいから」「私より、お前たちの方が心配だ。 里帰りした時に、自警団もやられて家がなくなってるなんて事が無いようにしてくれよ」「ははは、お前がこそこそと集めていた家宝だけは守ってやるさ」「っ、う、うるさいな。 もういい、行くからなっ!」 青年の茶化した言葉に、魏延は頬を染めて反論しそのまま足で馬の腹を蹴って遠ざかる。もう少しちゃんとした別れ方をするつもりだったのに、なんて思いつつも、この方がお互いに『らしい』別れ方かと納得もできた。馬を走らせ、流れる景色の中で魏延は薄く笑う。邑の人達に背中を押されてようやくではあるが、最初の一歩が踏み出せたのだ。本当にようやくだ。魏延は振り返ると、間の悪い時期に起こってしまった黄巾の大乱を恨まずに入られない。官僚候補を育てる『茂才』に推挙された頃、益州にて大規模な黄巾の乱が勃発。魏延を推挙していてくれた人はその最中に戦死し、故郷は賊徒の襲撃に脅かされた。幸い、紹介状だけは手元に残っていたので、落ち着きを見せ始めたこの頃に魏延は出仕することにしたのである。長く郷里で燻ってしまったが、自らの胸に秘める野望に続く道が、やっと拓けた。逸る気持ちを抑えて、馬の手綱を持つ手を緩める。今はまだ、誰何の魏延ではない。益州で、この寒村ばかりが集まる邑の一つで、がむしゃらに武を誇っていただけの一介の武峡に過ぎないのだ。「でも……いつか、きっと」 自らを律して誠実に仕事に取り組めば、彼女の夢は必ず叶う。それを信じているし、それだけの能力が自分には在ると思っている。まずは益州僕の下で、能力を示さなければならない。そして、いつか。「よぉぉぉし、気合が入ってきたっ! やるぞぉ、魏文長!」 ―――・ 日々それぞれ生きている間、人は悩みを持つ。大事であれ小事であれ、それは人が人として生きている以上逃れる事のできないものだ。例えば、体質。人はそれぞれ個性があり、それは人体にも如実に反映される。例えを挙げればいくらでも挙げることができるだろう。 毛髪ひとつ取っても、硬い、柔らかい、縮れていたり真っ直ぐに伸びたり、老いるごとに失われる事や、白髪が余り目立たない者など様々である。これは結局のところ、人によって個人差があり作為的に弄ったりしない限りは本人が産まれて来た時から元来持ちえる資質であるとも言えよう。そして特異な体質は郭嘉にとっての大きな悩みの一つであった。幼少の頃には現れなかったこの鼻血体質。寝ずに働く一刀を遠巻きに見やりつつ、この場所では一度も放たれていない赤いモノに安堵をしつつも、気は抜けない。僅かにずれた眼鏡を支え、位置を整えると郭嘉は座した机の前で体勢を崩し、持っていた筆を置いて頬杖をついた。目の前には劉焉や黄忠から振られた仕事―――竹簡の山である―――が積みあがっている。「ふう……いい加減、一刀殿としっかりと話す時間を設けなくてはいけないのですが」この官舎で働き始めてから既に10日。郭嘉は劉焉のもとで働き始めてからほとんど、与えられた執務室から外に出ていなかった。それはつまり、一刀を主として認め、仕える意思をまだ彼女は伝える事が出来ていないという事である。原因はしこたま働いていた一刀にある。もちろん、暮らしの中で彼とすれ違うことはあったが、まとまった時間を過ごすことがこの10日はまったく無かった。今までべったりとくっ付いてる時間が長すぎて、今の方が正常だと言うのは間違いない話なのだが。郭嘉が長く大陸を渡り歩き、数多の権力者たちの器を見定め、そしてようやく支えるべき主を見つけたのだ。理屈でいえば、中央から排された一刀の臣になるなど馬鹿げているのだろう。いずれは倒れるであろう漢王朝も、今はまだどんな侯よりも力がある。だが、果たしてそれは大した問題であろうか。主君と仰ぐ意思を固めた郭嘉にとっては、むしろこの状況、現況こそ好機と捉えて物事を進めていくべきだ。天の道を歩く北郷一刀と、それを支える自分の手があればこの位の逆境には負けないはずだ。一刀自身にも天代として働いていた頃に築いた強い人脈がある。郭嘉が出会う前に一刀を支えてきた彼ら、彼女らは一歩も二歩も先を行っているし、一刀自身も多いに頼っているに違いないが。しかし、今は一刀の傍には居ない。現況で彼を支えてあげられるのは、傍に居る自分だけなのだ。決して他人に能力で引けを取ってはいないという自負はある。そして、一刀に二番、三番とは言わない。 一番信頼される者として立ちたい。そう自らの道に腹が決まった直後。この体の奥底から滾る思いを我慢する、という事が負担になっているのを時を追うごとに自覚させた。 郭嘉は考える。もういっその事、かつては共に旅をして主君を求めていた仲間である風に、キツく禁じられてしまったエロエロな妄想でもしてしまおうか。そうすれば一刀の傍に行けるし、鼻から赤いモノをぶち撒くことを知っている彼は自分を無視しないはずである。一刀の背中や腕に抱きつきイチャイチャしながら非常に重大な事を話すことになるが、それでも彼は真剣に自分の話に耳を傾けてくれる。仕えるべき主にべっとり張り付きながら申し出る、などというちょっと、いや、かなり礼を失することになるが手段を選ばなければ会話の時間は設けられるに違いない。最悪、鼻血をぶっ放して一刀の気を引くのも一手であろう。一時の恥くらい、自らの志の為に掻き捨てるくらいは構わないに違いない。「くっ……いや、何を考えてるんですか、私は……」 思考が淀んでいる。郭嘉は指の腹で転がしていた筆を投げ出して、椅子から立ち上がると伸びを一つ。鬱屈した感覚を振り払うために、少し身体を動かすことに決めた。思えばずっとこの場所で缶詰だ。一刀ほどではないが働き続けている。たまには身体を動かさなければなまってしまうし、実際のところ窮屈だ。そうして官舎の外にでた郭嘉は、馬の嘶きに足を止めることになった。―――・「紹介状を無くした? ふむぅ……」「本当なんだ、信じてくれ! 街に入る前に旅の汚れを落とそうと思って、川に入ったんだ。 たぶん、着替えを出したその時に一緒に落ちてしまったんだと思う! なんだったら、今からそこに戻って紹介状を探してくるから!」「いや、ええーと、まぁその、信じる信じないはともかくとしてですね、魏延殿。 一旦落ち着きましょう」「いえっ! 落ち着いてなんていられません! ああっ、もう、私は一体なんでこんなことにっ……!」 頭を抱えてそのまま地面に転がりそうな勢いで蹲る相手に、官舎の目の前で遭遇した郭嘉は困ったように眼鏡のふちを指でなぞった。劉焉や厳顔から、今日この時間に人が来る話は聞いていたので、きっと彼女がそうなのだろう。面談を行うとの事だったが、それはほとんど形式的な事であり、推挙の話もあって雇うことになるのは確定していると郭嘉は話されていた。本人だと証明するための物が、その紹介状ではある。他人を騙るなどの虚偽が発覚した場合は、かなり厳しい刑罰が定められているのだ。まともな人間は官職を得るのに、他人を騙って雇われようとはしないもの。もちろん、まったく無いという訳でもないのだが。とにかく一度落ち着かせてから、厳顔が待っている場所に案内すればいいか。そう考えて、魏延の乗ってきた馬を厩舎へ案内しようと近づくと荷物の開口部からはみ出している物に気付く。「む、これは……」 木を掘って作られた人形であった。荷物の中身を覗いてみれば、大小さまざまな大きさの木彫り人形が並んでいる。郭嘉はじっと手に持っている人形を眺めて、ほう、と息をもらした。人形はそれぞれ様々な格好をしており、多種多様なポージングを決めていた。ハッキリ言えば、郭嘉にとって人形は興味の対象では無い。だが、それほど人形の造詣に詳しくない郭嘉でも、素晴らしい、と言えそうな出来合いの物ばかりであった。なにより、この人形は何となくだが、一刀に似ている。きっとこの益州ではこのような人形は広く流通しているのであろう。なんせこの地の天代の評判は大陸を旅して廻る郭嘉からしても、異常な熱気を帯びているのだから。「あ、えっと。 それはその……個人的に蒐集しているもので……」「なるほど、良い趣味かと。 これは確かに集めたくなるのも判る出来栄えですね」「そ、そうですよね! 自慢じゃないけど、けっこう有名な作品を幅広く集めてるんですよ!」 はじめて見た物が直感的に良いものだと思える。郭嘉の正直な所感を述べてしまえば、自分も同じ物が欲しいと感じたのだ。座ってくつろいでいるところ。 剣を掲げて雄雄しく表現されているもの。きっと金獅がモチーフであろう、馬に乗って駆けている様を表しているもの。どれも掌に収まるくらいに小さな人形ではあったが、だからこそ可愛く愛らしい所がある。材料にされた木の型の底には、小さく 『文優』 と名が刻まれていた。恐らく、この木彫り人形の作者であろう。「えーっと、あの郭嘉殿……」「あ、すいません。 つい見とれてしまっていました。 これは天代様を模した物ですよね?」「あ、そうです、天代様の人形ですよ」「やはり……これは、私も欲しいかも知れません」「その気持ち、私も分かります! そうだ、もし良かったら一つ差し上げましょうか。 同じ物は二つ持っているので」「え、良いのですか?」「あはは、良いですよ。 同好の士ってヤツですか? この趣味を理解してくれる人が居るのは嬉しいですし、それにこれから一緒に働く仲間になるかも知れないから、あ、いや、知れませんからね!」 快活に笑って魏延はそう提案した。多少の打算を含んでいるところはあるかも知れないが、これだけ明け透けだと逆に好感が沸いた。初対面ではあったが、彼女の人となりはとても真っ直ぐなのだと郭嘉は思う。あれこれと考えるよりも、先に行動するタイプなのだろう。手に持っている一刀を模した天代の木彫り人形の説明を、嬉々として郭嘉に語る様を見れば素直で明るい性格をしていると自然に思えた。そんな彼女が旅路に必要の無い、木彫り人形を多く持ち歩いてるのだ。 「魏延殿は、天代様が好きなのですね」「え? 好き……ですか。 うーん……というか、憧れ? そんな感じです。 益州で天代様の噂を聞かない日は無いですしね。 色んな話を伝え聞いていく内に、ぼんやり過ごしていた自分も何かしなくちゃ、って思って……とにかく、尊敬しているんです」「なるほど、わかります。 私も天代様の噂が切欠で、この益州に足を運ぶ事になりましたから」「へぇ、詳しく聞いてみたいですね。 郭嘉殿の話」「ふふ、そうですね。 私も魏延殿のお話を聞いてみたいです……それと、きっと魏延殿にとってはとても嬉しい出来事が、きっとありますよ」 木彫り人形を一つ撫でて、郭嘉は官舎の中へと魏延を招き入れた。丁度そんな時だった。この暑い日々の中、かすかに体から湯気を放ち渡り廊下を抜けて歩いてくる人物が一人。帯を締めずに着崩した服装で歩いていた。薄く赤みが差すほてった体がちらちらと見えて、首から布をぶら下げていれば風呂上りなのだと容易に想像がつく。確かにこの渡り廊下は一般の人には開放されていないが、ほど近いこの場所では非常に悪目立ちした。お互いに顔が合い、視線が交わる。「か、一刀殿。 そ、その格好は一体」「ん? ああごめん。 風呂から上がったばっかりで暑くってさ」「……客人も居ますし、風呂場から出歩くのならもう少し身だしなみをキチンとしてください」「それはごめん、謝るよ。 っと、それで後ろの人が客人かい?」 郭嘉の後ろでなんだか固まっている女性を見て、本体は恒例となったざわめきが脳内を駆け巡る。エンヤッ! エンヤッ! とわいわい始まって、まるで祭りのようだった。とにかく彼女も三国志の歴史に輝く名声たかい有名な武将らしい、という情報だけを頭の片隅にとどめて、観察する。なんだかエンヤさんの方も驚いているようで、口を半開きにしたまま茫洋と一刀の顔を眺めていた。「あーっと、郭嘉さん?」「ええ、なんでも推挙されて劉焉殿の下に出仕した方だそうで、魏延という者です」「魏延? なるほど、魏延……これが魏延」「一刀……? 今、一刀って……かずと……」 一刀は魏延の名前を繰り返し、魏延は一刀の名をぼそぼそと呟いていた。お互いに名前を囁きあう二人に、郭嘉は眉根を寄せて首をかしげた。「か、かずと、一刀……北郷一刀!? もしかして、本当にあの天代の北郷一刀っ!?」「あ、えーとまぁ、うん。 そうだけど、もう少し声を落として欲しいかな?」話を進めようと一刀が口を開こうとすれば、突如として魏延が跪き一刀に対して答礼を行う。少しばかり不恰好ではあったが、真正面から相対され、答礼されてしまったのである。それを無視することは失礼になるので、一刀も戸惑いながら魏延の声の続きを待たざるを得なかった。「わわわわわ、わわわ、わわ私はぎぎぎぎ、あああ、いや、性を魏、ななな名を延、字ななっは、ぶぶっぶぶっぶぶ、ぶぶぶんぶん、ぶんぶん」「魏延殿、一旦落ち着きましょう」「ぅいえっ! 落ち着いてなんていられません! こんなことが……信じられない! まさかこんな場所で天代様に直接拝謁することが出来る日が来るなんてっ!」「いや、声が大きすぎます! お願いですから落ち着いてください!」「天代様っ! 私は魏延です! 字は文長です! 真名は焔耶です! 天代様! ふつつつつつかものですが! よろしくお願いします!」「魏延殿っ!!!」 キラキラ、という表現すら生ぬるそうなほど光っている目で魏延は叫んだ。官舎の中に響き渡り、偽名として名乗っている"陳寿"に対して天代様と連呼し始めた彼女に、郭嘉は焦燥も露にして止めようとした。彼女に負けじと、郭嘉も必死に声を張り上げた。だが、ここは真昼間の官舎の渡り廊下である。立ち入りが禁止されているとはいえ、本館からは仕切りもなく丸見えだ。なおかつ、人の往来が激しい正門の付近に程近いとくれば、気付かれない道理は無く。ええ、天代様が来てるって? やら、 陳寿殿ではなかったのか!? やら騒ぎは瞬く間に伝播していった。これはまずい、と一刀が逃げ出そうとするも人の垣根は恐ろしいほどの速さで作られていく。流石に官吏の人間は遠巻きにひそひそと話し合っているだけだが、小間使いである者達は殆どが民と大差ない。多かれ少なかれ色めきたった視線を投げつけ一刀を囲む輪に参加していった。「この御方が天代様なのか!」「おお……ありがたやありがたや」「天代様! こちらに顔を見せてくだされ!」「こんな辺境まで足を運んでくれるなんて、感動です!」「ちょ、ちょっと待ってくれ! うわっ、押さないで!」「ありがとうございます!」「北郷様! ご活躍の噂は聞いております!」「天代様!」 「天代様っ!」 「天代様!」 もはやちょっとしたパニックとなっていた。一刀は押し寄せる人の波に翻弄されながら身を捩って抜け出そうとするが、なかなか上手くいかず。遂に人々は流行している天代の民謡すら謡いはじめる始末である。そんな騒ぎが起これば、官舎の前を通りがかった人も何事かと顔を出し、それがまた加わって大きくなっていった。収拾はもうつかない。郭嘉も魏延も、人の波に押し流されていき、人々が騒ぎ出したせいで厩舎にいた馬たちが盛大に嘶きだし「よおおおしっ、これはもう、祭事だ! 天代様が足を運んできてくれた時に、騒がない道理はないぜっ!」「おぉぉぉおぉぉおぉぉぉ!!」 まるで勝ち鬨のような雄たけびを人々が挙げたその瞬間、音が響き渡った。戦場で使われる銅製の巨大な鐘である。ガンガンと荒く打ち出された音は、その場で狂乱し始めた人々の耳朶を大きく震わして、多少の冷静さを呼びかけることに成功した。その鐘を鳴らしたのは、劉焉の夫であるという賈龍であった。彼の肩には妻であり益州僕である劉焉もちょこんと乗っており、相貌は怒気をこれでもかと孕んでいた。自然と音が鳴る方向へ人々の視線が向いた。それを確認した劉焉が全員を睥睨しながら口を開く。「よくもまぁ! これだけの騒ぎを我が官舎の中で起こしてくれたものだな! 良いか! これ以上騒げば、例え誰であろうと、それが帝であろうともっ! この劉焉が全員地下にある牢にぶち込んでやるぞ! 納得がいかない者、不服者はおるか!? 居るなら、さぁ! 私の下まで前に出ろ! 前に出ろ! 前に出ろ!」 両手を挙げて金切り声をあげる劉焉に、人々は互いに顔を見合わせてバツの悪そうな顔を向け合った。実際、これはかなりまずい問題になり得た。公官の働く官舎で大きな騒ぎを起こすことは、殆どの場所において法度である。さらに祭事は基本的に漢王朝が定める朝廷からの許可と官の認可があって初めて許されることであった。劉焉が叫んだように、全員が牢屋に入れられてもなんら可笑しくない事態になっていたかも知れないのだ。「不服な者はおらぬ様だな! ならば、この劉焉の言葉を耳に刻め! 良いか!」騒ぎが急速に沈静化したのを見計らって、劉焉は賈龍の肩を一つ叩き、彼から飛び降りると人垣に押されまくって尻餅をついていた一刀のもとまで真っ直ぐに歩いていく。劉焉が通ると、そこは見えない力に押されるようにして人が引いていった。『……はは』『"白の"、どうした?』『いや、なんでもない。 ただ、苦労してるなって』『人事みたいに言うなぁ……』 一刀は自分の声を何処か遠くで話しているよう聞こえる。一刀を見詰め、一直線に歩いてくる劉焉に驚きながらも、小さな身体から放たれる威を確かに感じられたからだ。決して彼女を下に見ていたわけでは無い。凡庸な者だと決め付けていたわけでもないが、それでも彼女は乱世の雄であることを一刀に再認識させたのである。一刀の近くまで来ると、劉焉は眦をギンっ! と効果音が鳴りそうなほど曲げて睨んだ。騒ぎの中心になってしまった一刀は引きつった笑みを浮かべて、一歩引こうとしたが、その肩を彼女の両手で押さえつけられる。「………えっと……」「……あー……コホン! 良いか! この男の名は陳寿だ! 例え誰かが天代と呼ぼうが、この男は陳寿! 陳寿は天代かもしれん! だが天代ではない陳寿だから陳寿が天代だというのは違う! 陳寿は陳寿だ! 天代っぽいが、陳寿だ! まさかコイツがもしもがあって天代だとしても陳寿! 仮に万が一陳寿ではなく天代だとしても、この男はただ一人の陳寿だ! 分かったか! 分かったら言え! この男は陳寿! 陳寿だッ!!!」「陳寿……?」「天代ではない陳寿……?」「ただ一人の陳寿……?」 劉焉の怒声が響き渡り、その余りの形相にこの官舎に集った人々は曖昧に頷き、ざわりと声をあげた。何時の間にか劉焉の横まで移動していた賈龍が、鐘を持ち上げて大きく鳴らし挙げた。「つまり! ……つまり~~~~、つまり、あ! そう! こいつは天代騙りの糞野郎だ!」 ガーンッと大きな鐘の音が鳴り響く。絶妙のタイミングで視線を集め、尻餅をついたまま呆気に取られている一刀を賈龍は指差した。そして劉焉は煽る。 とにかく煽った。それはやはり、周りに伝播して徐々に大きな声になっていく。「この男は陳寿!」「陳寿!」「陳寿!」「陳寿!」小柄な彼女からは想像もできないほどの一喝であった。「そうだ! 天代では無い天代・陳寿! 騙りみたいな、いや、騙りをした糞野郎だ!」「天代を騙った陳寿!」「天代・陳寿!」「糞野郎・陳寿!」「そうだ! この男はほら吹き野郎のクソッタレだ! さぁ、声をあげろ! 皆のもの!」「ほら吹き野郎!」「クソッタレ!」「騙り野郎!」「そうだそうだ! さぁ、この劉焉に続け! 頭のイカレタ糞ったれのゴミ虫騙りクズ野郎!! その名は陳寿だ!」「騙り糞野郎! 陳寿!」「イカレポンチ野郎! 陳寿!」「ゴミ虫野郎! 陳寿!」「よぉぉぉし! いいぞぉっ! さぁさぁ! この男・陳寿を血祭りにしてぶち殺せっ―――いや待てっ! それは無しだ! 今のは無しだ! 北郷は殺せない、いや違うっ! そうだ! つまり天代は生きろ! 陳寿は死ね! さぁ! 繰り返せ! 天代は生きろ! 陳寿は死ね! さぁさぁさぁっ! はい! はい! はいッ!」「天代は生きろ! 陳寿は死ね!」 「天代は生きろッッ!」 「陳寿は死ねッッ!」「よぉぉぉおっし! 皆のもの! 解散だぁぁぁぁああーーーー!」「うおおぉぉぉぉぉおおおぉぉぉおおぉ?!!??!????!?」 こうして劉焉が多大に扇動し、煽りまくった口上によって人々は勝ち鬨のような大声を挙げた。ガンガンと賈龍が鐘を打ち鳴らし、官舎は人々の踏み鳴らす足踏みに揺れ、厩舎の馬たちは興奮しながら嘶いた。その後よく判らない盛り上がりを見せた騒ぎは有耶無耶のうちに終わり、官舎から首を傾げながらバラバラと大勢の人達は出て行く事になったのである……後にこの騒動の噂は益州全域に広がりを見せていった。名もなき男が『天代』を騙る。とんでもない糞ペテン師野郎・陳寿が益州に出現し、即座に劉焉によって処刑されたと言う事実だけが、史書の端っこに残されたという。 ■ 信じて送り出した……「こんっの! 本当になんて事をしてくれるんだっ、北郷一刀!」 場所を移して官舎の応接間。騒ぎが騒ぎだっただけに、中心となった一刀と魏延が劉焉の叱責を受けていた。もちろん、郭嘉や賈龍、そして騒動を聞きつけてやってきた黄忠、厳顔も勢ぞろいである。もしもアレだけの騒ぎが祭事となってしまったら、これはもう劉焉にとっての政略において最悪の寸前である。間違いなく他の州僕、王朝からの官吏には天代・北郷一刀が劉焉の膝元に居ることが知られてしまう。そうなれば待っているのは糾弾だ。それで済めばむしろ御の字かもしれない。 いや、人の口に戸は建てられないのだ。既に天代・北郷一刀が益州に居るかもしれない事は確実に噂に上る。この状況で劉焉が取れる手段は、根も葉もない天代に纏わる噂話などをまた工作する必要があるだろう。益州の民は天代と劉焉の繋がりがあると信じているからこそ、そのまま劉焉の民望となっているのだ。王朝から直接糾弾されれば彼女は立場を窮してしまう。「ただでさえ忙しいのに、この騒動の為にまた人と金と時間がかかるっ! ああっ、もう! 私はな、お前が嫌いなんだぞ!いっそのこと何処か遠くでのたれ死にして、くたばってくれれば良いのになーって私は毎日寝る前に夜天の星々に願っているんだぞっ!それなのに、北郷、お前はなぁぁぁーーー」「ちょっと待ってくれ! 劉焉様! 悪いのは私だっ」「うるさい! 魏延だっけ!? 私とは付き合いの深い県令の推挙でなければ、お前も牢にぶち込みたいくらいなんだぞっ!」「私はどうなったって良いんだ! 天代様はなにも悪くない!」「まったく、落ち着かんか魏延、それに焉殿も」 腰を挙げて主張を始めた魏延に、厳顔が足で音を鳴らして喚起する。そっと魏延に近づいた黄忠が肩に手をおいて諌めると、黄忠は口を開いた。「魏延さん? 形はどうあれ、貴女は劉焉様の下に出仕しに来たんですから、もう少し礼儀正しく行きましょう? ね」「それは……っ、でも、私は天代様が、一刀様が悪く言われるのは我慢ならない。 長く続い益州の黄巾の動乱を治めてくれたのは、天代様の名があってこそじゃないですかっ」「うむ、それは認めざるを得ないのぅ」「劉焉様にも色々と考えがあるのよ、魏延ちゃん。 噂を知らないわけでは無いでしょう?」「それは……えっと、劉焉様と天代様が前帝に認められた仲で、誓いの接吻と特別な儀式を―――」「うおおおぉォォッッ! そうだヨッ!! だけど今はそれは忘れて! 問題はそこじゃないっ! いいね!?」「でも、劉焉様は今、天代様のことを嫌いって言ってたし、既に夫は居るし……ってことは……つまりそれは? どういうことなんだっ?!」「いいから! とにかくそれはいいから! 魏延! 座って!」 魏延は必死な劉焉に話を遮られ、不承ながらも一旦は頷いて腰を下す。仕方が無いとはいえ、魏延は一刀の立場を知らない。だからこそ、劉焉の叱責に魏延は納得できなかった。 そして、一刀の事を正式に仕官していない魏延には話せない理由まで存在して、彼女たちの話は平行線となる。まして魏延は紹介状を失くしている。劉焉としても彼女が本当に推挙された者であるのかの確信が持てないのだ。「一刀様は、どうお考えですか?」 郭嘉の声に顔を上げる。一刀は神妙な面持ちで彼女たちの話を聞いていたが、実際には脳内の声に耳を傾けていた。劉焉だけではない、一刀の立場であっても中央に正確な場所を知られる事は避けていたい。そうでなければ偽名など使わない。今や糞ペテン師野郎などという風評被害にあってしまった陳寿殿には申し訳ないが、これからも偽名は使い続けるだろう。劉焉や魏延がたっぷりと言い争いに近い話をしてくれた為に、一刀たちの考えは纏まった。「分かった、騒ぎを起こした罰を受けようと思う、劉焉さん」「なっ!? 天代様?」「一刀殿……」「俺は益州南部に行こうと思う。 もともとそのつもりだったし、それは黄忠さんにも、厳顔さんにも言ってある」「益州南部? あそこは蛮夷の地に近いし……つまり、それは追放か?」 一刀の言葉に魏延と郭嘉は驚き、劉焉はその提案に思案顔となる。劉焉も一刀も、お互いにこの官舎で過ごし続ける事は避けたい。 ここは相互にwin-winの関係だろう。ただ、郭嘉の言うように天代・北郷一刀は天の道を歩まねばならない。金獅を取り戻す為には、劉焉の下で仕事をしなければいけないのだ。『南蛮図』を作成し、献上することで金獅を買う。つまり劉焉にとっても、一刀を益州南部に追放、そして同時に仕事をしてもらうことで此処も条件が揃う。「ふむ、悪くないな。 私にもお前にも利があるし……いや、馬一頭に南蛮図となれば、むしろ私にとっては破格の条件か……」「南蛮図は政事・戦略にも役立つと思うし、未来への投資にもなると思うよ。 それを作成する間に朝廷から、天代についての詰問をされたら罪人の『陳寿』ということにすれば良いんじゃないかな? 実際にその場に居ないわけだし、白を切ってしまえばそれで終わりになると思う」「一刀殿の意見、私も問題ないと思います。 今回の件の尾が引く前に実行できれば最善かと」 郭嘉の言葉に、劉焉は一度頷いて顎先で続きを促す。「ただ、南蛮図を作成するのに必要な物資と人員、それと糧食は最低限でも用意して貰いたいかな」「くっそ、やっぱり金はかかるよなっ! ……蛮夷の地となると、兵士もだろう? 正直言って苦しいが、わかったよ。 北郷に投資してやる、代わりに絶対成功させるんだぞ」「ありがとう、劉焉さん」 話の流れを静観していた魏延は、そこで顔をあげた。騒ぎを起こしてしまった発端は、自分にあるのだ。自分の罪を、このまま一刀に背負ってもらうのはまずい、と気がついたが故だった。「劉焉様、私は一刀様についていきます。 私も南蛮図を作って、今回の一件の罪滅ぼしとしたいと思います」「いや、ちょっと待て魏延。 理屈は分かるけど、それは危険だ。 その、お前は私の下に出仕したんだからな」「え? はい……でも天代であらせられる一刀様に自分の罪を任せたままではいられませんし、畏れ多いんです!」「いやそうだけど、わかるけど、そいつは、つまり北郷はだな……えっとだ……」 劉焉の危惧、それは魏延がそのまま北郷一刀の手管に堕ちて自らの部下にはならずに離れてしまうことだった。益州には有望な人材がまだまだ眠っているのは間違いないが、とにかく今は頭数が欲しい状況である。大陸全土、何処を見回しても黄巾の乱の影響は大きい。不安定な社会状況の中で、今は人手がいくら居ても足りないくらいだ。特に推挙に値する有能な官僚・将兵ともなれば。とはいえ、上手く魏延の提案を跳ねつける言葉が直ぐには出てこなかった。まさか本人を前にして超危険人物の野獣の男だから、などという失礼きわまる侮言を放つわけにはいかない。まぁ、さっき散々に『陳寿』を罵倒できたのは少しだけ気持ちよかった劉焉だったが。「ああっ、もーー、わかった! 認める! でも絶対に無事で返ってくるんだぞ、魏延!」 劉焉は決断した。魏延を信じて送り出すことを。もしも一刀に堕とされれば、推挙した県令、送り出した故郷の大邑、そして劉焉の面子に泥を塗ることになる。そのくらいは、成人して人と付き合う事で常識として身につくのだ。魏延だって承知しているに違いない。彼女は必ず戻ってくる。劉焉は力強く魏延の手を握って視線を合わせ、頷いた。魏延もまた、劉焉の小さな手を握り、力強く頷く。「安心してお任せください! 劉焉様の良人となられる天代様は、この魏延の命に代えても必ず守って見せます!」「いや、そっちじゃないんだけど……まぁもういいかっ! んんっ、でだ、北郷」「ああ」「これでも私はな、見当もつかないけど、腐敗した中央の政の事情の中で天代にまで登りつめた手腕は評価してるんだ。 南蛮図は将来の益州にとって最大の宝物になる可能性を秘めてる物だろうし、北郷に賭けてみる。 いいか、絶対に正確な南蛮図は作るんだぞ! 出鱈目ばっかりだったら、えと、とにかく酷い事をするからなっ!」「分かった、約束するよ」差し伸ばした手に、劉焉は思わず自然に一刀の掌を握った。彼女はハッとして手を放そうとしたが、背筋をぞわりと寒気が走り、頭の奥から天辺まで雷が走ったかのようにビクリと身体を震わせた。ちなみにこの流れも、脳内一刀たちの思惑通りである。実に数秒、お互い顔を見ながら握手をしていたが、劉焉は一刀の手を必死に振り払うと涙目になりながら叫んだ。「し、しまったぁぁっ! 北郷一刀に触れてしまった! もうだめだっ! トロトロ顔になって呪われるっっ!」『しかし騒がしいな、この子は』『劉焉さんは何を言ってるんだろう?』『もしかして、北郷一刀はこの子をトロ顔にしていた……?』『いや、呪術の方かも知れない』『一体何をやらかしたんだ?』『俺じゃない』『俺じゃない』『いや、それもう長くなるから辞めとこうよ』『でもさっきさぁ、肩に自分から触ってたよね?』『言われて見れば……でも、一貫して同じ様子な気はするな』『劉焉さんの反応は変わらないか』『たぶん、ずっと嫌われてたとか、警戒されてたって感じなんだろうなぁ』『やっぱ小さい子に嫌われてると、その、へこむね』『見た目は子供っぽいもんな』「……」 劉焉は狼狽したまま夫の賈龍にダッシュで抱きつき、浄化するんだと呟き始めてしまった。本体は周囲からの視線と、脳内の会話を受けて苦笑する。魏延も呆気に取られた様子で口を開いた。「劉焉様は急にどうしたんです?」「まぁ、いろいろあるのよ。 劉焉様も、ふふふ」「立場のある州僕であるのだから、そうすぐに狼狽を晒すものではないですぞ。 それに、北郷はこう見えて中々の硬派であったからな」 黄忠と厳顔はお互いに深く頷いて、一刀をフォローした。「一緒にお風呂に入ったのに、まさか触れてもくれないだなんて思わなかったわ」「うむ、女としては少し、自信を失くしてしまうのぅ」「清々しいほど相手にされなかったんですから~。 劉焉様も、一刀様をもう少し信用してもよろしいと思いますわ」「もう少し、積極的に誘ってみても良かったかもしれんな、紫苑」「でも桔梗、私は安い女とも見られたくはないから」「ふむ」「ちょっと待って! ちょっと待ってください!」 だがそのフォローは爆弾だった。郭嘉にとって。余りにも突飛で予想できない方向から卑猥な話に移り変わって、脳が認識した瞬間に頭がフットーしてしまったのである。鼻の奥から久方ぶりに突き上げるストリーム(噴流)一刀と出会ってからは一度も爆発していない、最大まで充填が完全に終わっている血液が今こそ力を解き放たんとしていた。突然の危地と焦燥が、狭い室内で郭嘉を走らせた。それは非常に鋭い体当たりとなって一刀へと激突する。普段とは比べるべくもない、予測できない郭嘉の突然の行動に一刀はそのまま押し倒されて椅子から転げ落ちた。「ぐッッはッ!」 転げ落ちた一刀はそのまま吹っ飛び、壁のへりに頭を打ち付けて本体は気絶した。あまりにも突然だった為、受身もまったく取れずに吹っ飛んでしまったのである。そして一刀を押し倒した郭嘉も、吹っ飛んで離れていく一刀を視界に収めたまま視界が赤く染まり、限界を迎えた。頭部をぐらりと落とす一刀に向かって盛大に噴き出し、赤い霧の軌跡を残して一刀に直撃。さながらそれは一条の光線。壁は瞬時に赤く染まり、気絶した本体も真っ赤に染まり"魏の"が身を起こして―――「ギャアアアアアアアアアアッ! 死んだぁぁぁっっ!」「わああああああああっっっっ! 天代様ぁ! 郭嘉ぁぁ!」「なんじゃ! 毒か!?」「襲撃かしらっ!?」『いかん! トントンしなくては!』 応接室は再び喧騒に沸き立ち、赤壁に染まった。 ■ 魏延が…… 翌日になってようやく梓潼の官舎は落ち着きを取り戻した。あまりにも疲れる、それでいて余り実があることも出来なかった一連の出来事を振り返ってそっと溜息を漏らす。南蛮図の勢作に取り掛かることが無事に出来そうなのが、唯一の収穫だろうか。"南の"の意識からは喜びとも興奮ともつかない、浮ついた雰囲気が感じ取れる。一刀は騒がしい事件を振り返りつつ、日課となっている金獅の餌やりに厩舎へと訪れていた。馬の鞍を自分で金獅へと着けるのも、随分と懐かしい。暇ができれば少しばかり遠乗りをしてみようか、と一刀はぼんやりと考えながら相棒の顔をやんわりと撫でた。「ブルルッ」「……」 胸元にぶら下げた宝玉を触りながら、時折しっぽを振って飼い葉桶に首を突っ込み、楽しんでいる金獅をただ眺め続けていた。しばらく食事に夢中だった金獅であったが、何が気になっているのか。普段とは少し違う様子を見せていた。一刀に向かって首を上下にフリフリとして、一方の厩舎の先を見る。しばらくすると同じように首を振ってまた厩舎の先を見る、というのを繰り返していた。時折思い出したかのように、飼い葉桶に首を突っ込んで食事をするが、また一刀の存在に気が付くと首を振って何かを示そうとしていた。「どうしたんだ、金獅?」『本体、あそこ』 金獅が首を向けた方角には、一頭の馬が繋がれていた。栗毛色の馬が、厩舎の外でうろうろとしており、時折地面に生えた草を食んでいる。「あの馬のこと? なんだよ、気になってるのか?」『魏延さんが乗ってきた馬かな?』『手入れの行き届いた牝馬だったね、愛されてると思う』『へぇ、流石に詳しいな』『いやでも、どうやらそれだけじゃないみたいだ』 "袁の"が目敏く、馬の足元で小さくなっている人影を見つけた。一刀が細目で見やると、物陰にすっと隠れてしまったが、あの特徴的な衣服は魏延のものだった。同じように自分の馬の面倒でも見ているのか、とも思ったがどうにも様子が違う。一刀は金獅に視線を戻すと、鼻をふんふんと鳴らしながら一刀の顔を舐めまわした。「うわっっぷ、わかったよ。 ありがとな、教えてくれて」『ブルッ』 ひとつ、ふたつと金獅の鼻面を撫で、一刀は魏延のもとに歩き出す。一刀が近づくと、厩舎の壁で膝を抱えながら上目遣いに一刀を見上げる姿があった。接近していたことには気付いていたのか、なんだか怒られた子犬のように目線を逸らす。「魏延さん、どうしたんだ?」「天代様……」 盛大に肩を落として落ち込む魏延に、一刀は苦笑した。深く考えなくても昨日の騒動のことだろうと当たりが付く。大きな騒ぎになりかけた物だったが、非があるといえば一刀自身にもあるだろう。この益州での『天代』の名声がどれだけ高まっているかは、郭嘉たちからしっかりと聞かされていたのだ。最初から警戒心を抱いていた劉焉だけはともかく、厳顔や黄忠からも高まっていた名声からか非常に良くしてもらっている。この外史、この大陸で北郷一刀は無二の有名人であるのだ。官舎の中だからと無警戒に歩き回っていたのは、あまり宜しくないのは確かだった。一刀とばったりと出会ってしまった魏延は、さながらアイドルを見かけてしまった熱狂的なファンと言ったようなものだ。この世界で例えるならば、張三姉妹に出会った黄巾党といったところだろう。「ん? そういえば黄巾の首魁にはまったく会わなかったけど……」「え? 黄巾?」「いや、なんでもないよ。 それより、何か用事があったんじゃないかな」 曖昧に手を振って一刀は話を逸らした。高さのある石段に、同じように座る彼女の隣へと腰を下す。魏延は数度、一刀の顔を見ては逸らしを繰り返し、やがて意を決したかのように顔をあげて口を開く。「一刀様、私は、天代様に憧れていたんです」 ようやく、と言えそうなほど長い時間をかけて紡ぎだされた言葉を切欠に、訥々と魏延の話は続いていく。それは彼女がこれまで歩んできた来歴を振り返るようなものであった。一刀が天代として成り上がり、劉協と共に離宮で過ごしていた頃に黄巾の余波は魏延の郷里にまで波汲していた。益州全体で争乱が起こったのも、同時期である。劉焉が州僕として中央から派遣されるまで、その争乱は解決の兆しすら見えない闇の中であった。「……恥ずかしい話ですけど、最初は賊徒の黄巾を翻すあいつらが怖くて、邑に篭ってたんです」 邑の中で誰よりも力自慢であった魏延だったが、黄巾賊と初めて相対した時に真っ先に生じた感情は恐怖だった。話を聞いている一刀達は同じように頷く者と、意外そうに感嘆する者とで反応が別れていた。そして本来が共感を得たのは前者であった。武装した組織としては一刀の知識の中で、古今東西を見渡しても最大級の規模である。暴力的な人数と、それを突き動かす激烈な志。ただ生まれ育った邑で平和に暮らしていただけの少女であった魏延が恐れるのは、理解できる話である。本体だって、もしも頭の中に自分達が居なければ右往左往しているだけであったに違いないのだ。 そして、そんな彼女が立ち上がる勇気をくれたのは益州に広がり始めた『天代』の名声である。賊徒に怯えるだけであった邑々の人々が決起する事を決め、その規模は徐々に大きくなっていって、最終的には黄巾賊を討伐したのだ。結局、賊徒を排する大事を成したのは、劉焉を含めてこの益州に住んでいる全ての人達の努力の結果である。「でも、その力の切欠をくれたのは、間違いなく天代様……その、一刀様なんです」 魏延は困ったように笑っている一刀に微笑んで、そう続けた。「その……一刀様。 私は、いつか天代様に仕えることが夢だったんです」「俺に仕えるって……でも、劉焉さんから事情は聞いたんだろう?」「はい、そうなんです。 昨日の夜に聞かされて吃驚しました。 天代様が中央から排斥されていた、だなんて」 劉焉は魏延に対しての引抜を防ぐ為なのか。北郷一刀の現状が如何に魅力が無く、その下で働く事の無益さと乙女として傍に居ることの危険性を大いに語っていた、らしい。らしい、というのは郭嘉から又聞きしたからであったが、魏延の反応からすると事実のようである。「あはは、劉焉様からは色々とお話されました。 最後には私が天代様に仕えるのが夢だったっていう話も、真剣に聞いてくださって……」「へぇ……」「最後には自分の気持ち、心の根っこにある志に従え、と厳顔様に背中を押されました」「それで、俺のところに来たんだ」「はい……」「それで、魏延さんの考えは決まったのかな?」「本当は、まだ良く分からなくて、どうすればいいのか分からなくなっちゃって……! 天代様に仕えたいのは、本当なんです。 劉焉様の下で覚えが目出度ければ、推薦されることもあるだろうって思っていたのに、天代様は目の前に居るし……でもだからって、劉焉様のところに押しかけたばかりで、すぐに他の誰かの下に仕えるだなんて不義理にしか思えなくって」「それは……そうかもなぁ」「そ、そうですよねぇ……」「そうだなぁ……」 曖昧に相槌を打って、一刀はなんとなしに周囲を見回す。厩舎の馬房の中で、金獅がじっとり一刀達を見詰めており、次いで飼い葉桶を鼻先でガコガコと音を立てて何かを主張していた。魏延の連れてきた馬も砂利の上で砂遊びに興じている。太陽が雲に遮られて影を落とし、昼時を知らせる鐘の音が官舎の中に鳴り響いて―――なんともノンビリとした光景であった。例のごとく頭の中で魏延に関する話題で盛り上がっていた脳内も、本体の眺める牧歌的な光景に毒気を抜かれたようである。自然と脳内会議の勢いはトーンダウンしていった。『まぁ、あれだ。 急いで決める話でもないんじゃないの』『南蛮図を作っている間は、劉焉様の下で良いかもね』『それもそうだな』「その間に、魏延さん本人に見極めてもらうって形が自然かな?」「はい?」「ああ、いや……うん、魏延さん。 俺からちょっと提案があるんだけど―――」 南蛮図の勢作期間中は、劉焉配下として。その間に魏延は一刀の下へ仕えるかどうかを見定めてもらい、一刀も彼女を迎え入れるかどうかを判断する。もちろん、この話は劉焉にも通して最終的には談合し決断を下す。この一刀の提案には、悩んでいた魏延も顔を綻ばせて同意してくれた。「分かりました、一刀様。 私はそれで構いません」「ありがとう。 後で一緒に劉焉さんにも話にいこう。 だから、暫くの間は南蛮図の勢作の手伝いに注力して欲しい」「はいっ! 任せてください! 出来うる限り、力になります!」 一刀に差し出された手を、魏延はそれまでの落ち込んだ様子から想像できないくらいに溌剌として握り返して、ぶんぶんと大きく手を振るった。憧れであったという天代から、直接頼りにされているからか。まるで長い間留守にしていた主人を迎え入れたワンコのように、急激な活力の取り戻し方であった。あまりの豹変振りに、一刀は思わず笑ってしまう。「ははっ、魏延さん。 大げさだって―――」「うわああぁっっ!」「グハッ!?」 瞬間、魏延の握っていた手がブレて、一刀の鳩尾を的確に打ち抜いた。直後に魏延は一刀と握手を交わしていた手を、もう片方の手で押さえながら顔を青醒めさせる。自分が何を仕出かしてしまったのか、理解できない表情であった。魏延は何故か一刀と触れ合っていると、何とも言えない感情がこみ上げてきて無償にムシャクシャしてしまったのだ。嫌悪とまではいかず、かといって無視できそうも無い苛々が心中を走り抜けていくのである。まるで憧れていた人を横から攫われた様な、嫉妬とも羨望とも言えそうな不可思議な感情の乱れであった。とにかく一刀に触れると不快になったのである。だが、そんな筈は無い。魏延は天代である一刀を尊敬しているし、敬愛もしている。実際にこうして顔を合わせても好意こそ生まれても、嫌悪を抱いたことなど一瞬たりとて無かった。なのに、何故。そして鳩尾に武将の一撃を叩き込まれた一刀は、横隔膜が千切れそうなほどの痛みと苦しみに、呼気を荒くして地面を転げまわっていた。とにかく呼吸ができなくて苦しい。「ゲホッ……ハッ……ハァハァ」「あっ! てんっ、いや、一刀様! ごめんなさいっ! わ、私はなんてことをぉっ!」「ハァぅ……ウッ……とてもつらい……」「だ、大丈夫ですかっ!?」 魏延は慌てて苦しみ悶える一刀の上半身を抱き上げ「うわあああっ!?」「グッハッッッ!」 迸る感情に任せて、そのまま地面へと一刀を放り投げてしまった。凄まじい勢いで身体が泳ぎ、石段の角に頭蓋を打ち付け、そのまま危険な姿勢で崩れ落ち気絶してしまう本体。すかさず”袁の”が入れ替わり、受身を取って地面に転がる。「うわあああっ! 違うんです! これは違うんです! 天代様っ、本当にすみません! ああっ、こんなにも血が吹き出てっ」「わ、分かった! 分かったからタイム! 魏延っ、俺は大丈夫だから! ね!?」「せめて手当てをさせて下さいっ! こっちに―――いやああああっ!」「グッフッっ!」 一刀の手を取った魏延はそのまま腕を抱きこんで、そのまま見事な 『送り引き落とし』 を決めて一刀を地面に張り付けた。もうもうと砂煙が上がり、近くにいた魏延の連れてきた牝馬が迷惑そうに首を揺らして嘶く。ここに来て流れるように繰り出される魏延の連続攻撃に、一刀達はようやく危機感を覚えた。「わああぁぁっ!」「モルスァッ!」「あああ、天代様ぁぁーー」『おい”白の”も逝っちまったぞ』『みんな、ごめん』『おい、お前が犯人か”蜀の”』『おい、彼女に一体何をした! 言えっ!』『何をしたというか、何もしてなかったというか、桃香が遠因というか……だから、ごめん』『あ、”無の”がやられた』『次はやく行けよ』『どうぞどうぞ』『どうぞどうぞ』『魏延さん、顔面蒼白の上に涙目になってるぞ、早く誰か行けってマジで』『どうする、このままじゃ誰が行っても気絶するだけだぞ』『”白の”や”南の”で駄目なんだから俺が行っても……って、そうだっ、”肉の”!』 一刀達は”肉の”に全てを預けて、この一連の連続攻撃に何とか耐え凌ぐことに成功したが、何度も憧れの天代様を無意識に殴り飛ばしてしまったからか、魏延は混乱していて止める間もなく逃走してしまった。額を切って盛大に血を流し、赤く染まった視界を手で遮り”肉の”は呟いた。「とにかく、一度手当てかな……」『それから焔耶のフォローに行かないと……』『触らないように気をつけないと、また同じことになりそうだね』『ああ、徒手空拳であっても武将の攻撃はやっぱとんでもないな……』『俺が6人ほどヤられた様だな……』『北郷一刀の面汚しよ……』 しかし、どうやって慰めてあげればいいのだろうか。一刀達は首を捻りながら官舎に戻って、宛がわれた自室へと向かった。―――・ そんな様子の一部始終を密かに見ていた者たちが居た。外の厩舎が良く見える場所でお茶とお菓子を片手に、お互いに顔を合わせて口を開いた。「ふむ。 なかなか見応えのある乱取り稽古じゃったな」「手加減の無い格闘戦だったわねぇ。 でも焔耶ちゃんって一刀様に仕えるのかどうか、話をする為に向かったんじゃなかったの?」「そういえば、そうだったの……」「もう、桔梗が焚きつけといて忘れないでよ。 でも、泣いて逃げちゃったってことは一刀様には断られたのかしら?」「いや、紫苑。 仕える相手に格闘戦を仕掛けるなんてことある訳ないであろう」「それは、そうかもねぇ……」「最後の方は焔耶の組み伏せを天代が上手く捌いておったからの、己の武が通じなくて悔し涙でも流したのではないか?」「なんかその発想はズレてる気がするのよね」 茶をふくみ、黄忠は顎に手を当てて考え込む。厳顔は腕をあげて一つ伸びをすると、手を伸ばして菓子を口の中に放り込んだ。そんな二人の気楽な様子を眺めつつ、机の中央に陣取った劉焉は顰め面をしたまま一刀が消えていった方角を見詰め続けていた。「で、焉殿は今のをどう見られましたかのぅ?」 厳顔に問われて、劉焉は上目で一つ彼女を見やる。砂糖菓子を袋に詰め始めた黄忠にも一つ視線を送った。彼女たちが此処に陣取っているのは、単純に仲間となった魏延がどうするのか気になったからである。彼女の夢であった天代・北郷一刀に仕えるのか。それとも義と人情を取って劉焉の下に拠るのか。そんな彼女達にとっても重大な話であっただろう、この魏延と一刀の邂逅の一部始終を見た劉焉は厳顔に尋ねられて率直な所感を端的に述べた。「あいつら一体なんだったの!? 意味わかんないよっ!」 同意するように厳顔と黄忠は胸を揺らして頷いた。 ■ 友に誓う一対の剣 黄巾の乱は洛陽から始まり、それは水が波紋を呼び起こしたかのように円状に広がって反乱の輪を描いていった。まるで示し合わせたかのような広がり方だ。各地で兵を纏める将が多く居たことの証左でもあり、漢王朝の死を如実に実感させるものである。もともと黄巾を纏う者たち以外の山賊、江賊もこの大乱に乗じて漢王朝打倒の為に立ち上がった。それは、大陸の最北東部。漢王朝が治める幽州もまた、例外ではなかった。公孫瓉と劉備は、幽州にて勃発した黄巾賊の討伐の最中、各地で決起した反乱軍が次々に合流した。その中には、かつては漢王朝の官職を持つ者すら居たのである。ただの賊討伐であったはずのものは、段々と激しい戦争へと移り変わっていった。形としては、一刀が巻き込まれた涼州での大反乱に近い。一刀が対峙したのは韓遂と辺章が率いた羌族の反乱であったが、幽州で劉備と公孫瓉が当たったのは烏桓であった。もちろん、異民族にあたる烏桓と公孫瓉は黄巾大乱の以前から抜き差しなら無い関係である。激しく争い、1000を超える死者を出すことも珍しくない、漢王朝の中でも最も異民族との戦闘が激しい場所の一つであった。定期的に烏桓は漢王朝へと攻め入り、敗北や和睦を重ね、それを100年以上も続けてきたのである。公孫瓉は幕舎の中で椅子に座って目を瞑っていた。激化する異民族の烏桓、そして反乱軍との戦闘は半年以上にも及び、国庫も糧食にも、そして幽州そのものにも大きな負担が圧し掛かっている。国力や経済体制を勘案すれば、この戦いに負けることは無い。黄巾賊を筆頭に決起した賊も、丘力居(きょうりききょ)率いる烏桓も、略奪を繰り返さなければ軍威を維持できないほど消耗している。それは諸葛孔明、鳳士元とも一致する見解であった。これから先も戦い続けるとなれば、泥沼の消耗戦だ。賊はともかく、烏桓とはここらが戦としてはお互いの終着点とすべき。その為、公孫瓉は劉備と協議し、烏桓に対しては懐柔策を取る事にしたのである。「……はぁ、頭が痛いな。 異民族との付き合いは」 討滅できるか、と問われれば、その気になれば、と言ったところである。漢民族は異民族に対してはあまり関心を寄せないのが常だ。実際に矛を交える辺境の僕であるならば常に気を張って居なければならない存在には違いない。だというのに、中央はまるで腫れ物を扱うかのように異民族に対しては消極的なのである。実際、どこかの酋長を討ち、部族を丸ごと討ち滅ぼすと、異民族同士の力関係が崩れて混沌としてしまうだろう。更に言えば、何処かの部族を滅ぼせば異民族の間でも警戒と疑心が生まれ、結託して漢王朝に対して一斉に反旗を翻し兼ねない。一つ一つの部族が相手ならば打倒も容易いだろうが、そうなれば大乱の始まりである。まぁ、五胡の脅威が強まれば漢王朝の諸侯たちは足並みを揃える事が出来るかもしれないのだが。とにかく異民族は自らの領地で略奪を行う相手だ。いかに懐が深いとはいえ、公孫瓉でも笑って見過ごすことなどできる筈が無かった。「公孫瓉様! 砂煙が見えました!」「っ!」 幕舎から飛び出した公孫瓉は、すぐさま愛馬の白馬に乗り込んで視界が広い丘の上へと走らせた。遠くに見える荒野から立ち上る噴煙は、砂塵だ。馬蹄の音が響き、人が大地を揺らして歩く。真っ赤に燃えるような焼けた陽を背にして、その一団の先頭を歩くのは劉備である。真朱の髪を揺らし、腰からぶら下げた雌雄一対の剣の金属が触れ合う音が馬蹄の音と混じって小気味よく金音を奏でる。その軍勢の威容は遠目から眺めている公孫瓉からも壮観であり、送り出した軍勢が自分の物なのだとはすぐには判らなかった。劉備に貸し与えた兵馬の数は、どう見ても出発前より多かったのである。騎馬兵の数も、どう考えても多い。だが、先頭で馬を歩かせているのは間違いなく劉備であり、公孫瓉は砂塵に揺れる軍勢の姿を目を細めて追った。劉備の隣には、美しいと呼べるほど綺麗な黒髪を揺らして彼女を守るように関羽が後をおっている。目に見える範囲には二人の将しか居ないようである。その先には公孫瓉が貸し与えた幽州の兵が、長蛇となって視界の奥まで続いていた。「……」「こ、公孫瓉様、お下がりください。 あれは危険かもしれません」「ん? 何言ってるんだ。 劉備たちだぞ」「良く目を凝らしてくださいませ。 我らの兵馬に囲まれているのは、私たちの兵ではありませんぞ」「なに? 確かに少し兵が増えているようなとは思ったが……」 いかにこの時代の将兵たちの目が良いとはいえ、距離の離れた人馬の識別は難しい。あからさまに目立つ将ならばともかく、兵となると殆どの場合は旗印が標となる。部下に言われて暫くじっと見詰めていた彼女が、その言葉が嘘では無いと分かるのは数分を経てからだった。「弓騎兵、それにあの兵装は烏桓の……どういうことだ?」「もしや、劉備様が裏切ったのでは……」「馬鹿言うな、桃香が私のことを裏切る訳が無いだろう。 何かあったんだ」 とは言うものの、どうして劉備が烏桓兵を伴っているのかは判然としない。最悪の場合に備えるのは必要であった。公孫瓉は部下から馬を一頭ひいてもらうと、すぐさま乗り込んで主だった将兵を集結させる。瞬く間に公孫瓉が構えていた幕舎は慌しくなり、劉備たちの目にもその様子は飛び込んできた。「愛紗ちゃん、白蓮ちゃんが気付いたみたいだから、先に行ってくるね」「はい、桃香様。 余計な刺激をせぬよう、烏桓の兵馬はここで留めておきます」「うん。 白蓮ちゃんから借りた兵だけはこっちが持っていくから、よろしくね」「はっ」 公孫瓉が兵馬の陣列を揃え終わると、劉備は兵馬を伴って彼女の元へと近づいた。はっきりと顔が認識できる距離まで相対すると共に、公孫瓉の困惑はいよいよ大きくなり、顔にまで出てしまっていた。劉備と共に歩調を合わせて近づいてくる人馬。その顔を認めたせいである。公孫瓉が奇妙な面持ちで劉備を待っていると、少しだけ先行していた劉備は馬を走らせ会話できる距離まで近づいてきた。「桃香、一体これはどうなっているんだ?」「白蓮ちゃん。 あはは、ごめんね、時間がかかっちゃって」「いや、それはまぁいいんだ。 時間がかかっても桃香たちが無事な方が大事だし、それが分かってホッとしているよ。 でも……」「うん、そうだよね。 ちょっと待って、すぐに準備しなくっちゃ」「お、おい! 桃香!?」「あ、そうだ! その前に顔合わせだよね、直ぐ呼んでくるよ!」「はぁ!?」 そして戸惑う公孫瓉を置いて、彼女をここまで困惑させている人物と共に駆けてくる。一体何が起こっているのかを考えながら、公孫瓉はゆっくりと水を一口含んだ。劉備が呼んできたのは、視線は頬傷がやたらと目立つハゲ頭の男である。親友として付き合っている少女の横で、長く敵対してきた男が轡を並べて歩いてくる光景は、強い違和感を公孫瓉に与えていた。「丘力居(きょうりききょ)……だよな!? 烏桓族の酋長であるお前が、何で此処にいるんだ」「……公孫伯珪、だな。 俺は劉玄徳の説得に応じ、貴様に帰順する」「なるほど、帰順だな……って、ええッ!? そんな馬鹿なっ! 私はお前にとって不倶戴天の敵だろう!?」「それはお互い様だろう……」「そうだけどっ! くっ、色々と行き成りすぎて頭が追いつかないぞっ」 だが、しかしまぁ、使者である劉備が帰ってきて丘力居を連れ帰ったというのは事実なのだ。公孫瓉への帰順は、丘力居にとっては不服に違いないが嘘ではないのだろう。彼女からすれば、烏桓兵は好き放題に幽州を荒らしまくってくれたし、丘力居からすれば異民族の討伐に名を馳せ、幾度も矛を交えた公孫瓉は部族の敵だ。それを自覚しているからこそ、公孫瓉は余計な軋轢を避ける為に劉備を使者にしたのだが。だが、互いに戦線が膠着し、消耗戦に至るからこそ送った使者が、どうして敵大将の帰順などというミラクルCへと転じるのか。公孫瓉には理解できなかったが、劉備が何かをしたのは間違いが無かった。些か混乱が落ち着いてきて、肺に空気を満たしてから吐き出すと、幾分か冷静な自分が帰ってきたのを自覚する。立ち上がっていた公孫瓉はようやく馬の背に座って、丘力居へと顔をあげた。いかなる経緯があったにせよ、帰順を申し出たのならば断る理由はない。幽州僕として取れる選択は是を返すことだけである。「……わかった、丘力居殿。 帰順を受容れよう」「ああ」 そうして丘力居は一度だけ横でにこにこと笑っている劉備を見て、それからまっすぐに公孫瓉の顔を見ると、静かに頷いた。―――・「桃香」「白蓮ちゃん」 帰順した烏桓との細かな折衝も、ようやく一段落した公孫瓉は、本拠地である幽州へと戻ってしばらく。雌雄一対の剣を腰にぶら下げ、旅装を整えた劉備が庁舎の前で待ち受けていた。彼女の肩越しに視線を投げれば、遠くに同じように旅装を整え終えている関羽や諸葛亮、そして劉備を主と据えて付き従う兵士たちが見える。この幽州からも、少なくない兵が劉備に惹かれて勇兵となっていることを公孫瓉は知っていた。それだけではない。もともと山賊であった者も、黄巾として活動していた者たちも。 そして異民族である烏桓からも。彼らの武装は統一されておらず、騎馬を駆る者も歩兵も弓兵の防具も、すべてがバラバラであった。唯一、彼らの間で統一されているものは、劉玄徳という旗印。 それ一つだけである。「そうか……どこに行くんだ?」「うん、今度は冀州常山の方だよ。 張燕って人が率いている山賊が横行してるみたいなの」「む、袁紹殿のところと近いけど……大丈夫か?」「大丈夫だと思う、ちょっと伝手もあるから」「そっかぁ……異民族を帰順させて、休みもせずに山賊討伐か。 忙しいな、桃香」「あはは、確かにちょっと大変だよ。 でも、私は止まれないからね、白蓮ちゃん」 そう言って困ったような笑みを浮かべる劉備に公孫瓉は、彼女が烏桓への和平の使者を買って出た時を思い出す。珍しく朝霧に包まれた寒い日であった。風は無く、陽差しは強かった。友人として深い付き合いを続けていた劉玄徳が、公孫瓉にだけ明かした誓いを宣言したその日。「白蓮ちゃん。 お話があるんだ」「桃香、そんな改まってどうしたんだ?」 自室で寛いでいた公孫瓉の下に、上質な酒を片手に訪れた劉備に椅子を勧める。劉備の境遇を公孫瓉は全て知っていた。中央から訪れる官吏たちからはもとより、劉備本人からも詳細を聞いていたので当然である。「私、白蓮ちゃんのこと……立場と権力を利用しようと思うの」 だから、この言葉が飛び出したときには何を今更、と嘆息したものだった。立場的に天代と同じように罪人であるとされる劉備たちが、こうして堂々と幽州で活動できているのは公孫瓉の力添え失くして出来ないものである。もしもこれが曹操や袁紹の下で同じように劉備が活動しようとすれば、即座に断罪されて良くて義勇軍の解散。悪ければ全員処刑されていることだろう。だから、この言葉を劉備から聴かされるのは今更であったのだ。「まぁ、苦労はしたけどさ。 大切な友人を助けるのに骨を折るくらいの事はやるさ」「それも……なんだけどね。 えっと、その前に本当にありがとう。 白蓮ちゃんが居なかったら私―――」「ああ、もう良いって。 こういうの、照れ臭いだろ?」「う、うん……えっと、それでね。 私、これからやりたい事ができちゃったんだ」「ああ、なんだ。 またなんか凄いことをやらかす積もりなんだな」 突拍子もない発想を実現する為に無茶な提案をするのは、徒学であった頃から変わっていない。諦めにも似た苦笑を一つ、公孫瓉は酒の中身を杯に満たしながら続きを促した。劉備は最初に、洛陽を追放された日のことを語り始めた。途方に暮れていたこと、そして今、烏桓への使者として辿り付いたこの時までのことを劉備は大雑把に振り返ったのである。そして、本題に入った。 一刀から託された一対の剣。 これは一体なんだったのか、と。あの時の状況を考えれば、それは形見であった。 劉備も最初はそう考えた。北郷一刀の志を知る桃香に、託されたものであったと。だが、噂に上ってくる話で一刀が生きていることを知った。 それは嬉しい報せであった。ただ単純に生存していること、そしてその中でも眉城の戦いで更なる名声を積み上げている姿に劉備は自らも発奮する気力を得ていた。 喜んでばかりであった劉備だったが、この一対の剣のことに思いを寄せたときに、この剣の意味を深く考えるようになった。しかし劉備は、この剣を託された意味が分からなかった。最初はすぐに誰かに聞くべきだと思った。 何も分からないまま、この剣をぶら下げていてはいけないと思ったのだ。しかしすぐにその考えは翻すことになった。これは一刀から、劉備へと託された剣であることに気付いたのである。この二本の剣。 劉備自身が見出さなければ意味の無いものであると。 かくして、劉備は烏桓との調和の使者として志願したこの日。 例え一刀が意図したものでは無くとも、劉備はこの一対の剣に込められたであろう意味を悟ったのだ。剣は武器である。武器というものは、宝剣などの類を除けば、人の命を失わせる兵器だ。だが、劉備には武が無い。愛紗・鈴々という武はあっても、彼女自身が矛を振り回して敵を打倒できる武はないのだ。しかし、それを言ってしまえば一刀もそうなのだ。洛陽で彼と一緒に稽古をしていたから分かる。愛紗や鈴々とは比べるべくも無く、一刀の武は突出しているわけではない。知であってもそうだ。朱里や雛里のように戦略や戦術には疎い。 音々音から散々罵倒されるくらいには、酷いものである。比べて一刀も、彼女たちと同じように知に特別優れているわけでもないのだ。 だが、一刀と劉備には深い隔たりがあった。その差はなんであろうか。劉備が気付いたのは、自分の持っている武器がないことであった。この烏桓との和平にあたって、彼女自身もどう説得するべきかを悩みに悩んだ。もともと己の立志は大乱を防ぐ事そのものであり、みなが仲良く平和に暮らしていける事を望んでいた。紆余曲折あって、近づいていた夢はひどく遠退いてしまい、今では大陸全土に渡って争乱の余波は長く続いてしまっている。その目的、目標、夢、そして志を満たすため、劉備は黄巾から続く乱を受容れることを是としたのだ。それは天代を再び漢王室に、天の御使いを漢王朝に据えるために。曹操であれば利と実、或いは虚飾や覇気でもって烏桓に対するだろう。孫家であれば力と損得、或いは異民族であろうと囲って取り込むことすら見据え烏桓に対するだろう。では劉備は。なんの武器がある。一刀と共に中央から排され、実のこと黄巾に組した軍師を抱え、諸侯の温情から下賜している兵馬を率いて戦場を渡り歩き、権力と立場を得ようと醜くもがき歩いている、この劉玄徳には一体どういった力があるのだと言うのだ。勢力として発ちあがる為の軍資金ですら、他人に背負ってもらっている有様の自分に何があると言うのだ。「一刀様が本当に伝えたかった事。 この烏桓との和平の使者として赴くことで、はっきり分かると思うの」「桃香……でも、桃香自身が行くことなんて。 危険だ」「うん……でも私が見つけないといけないの。 今のままだと、劉玄徳には、私には―――」 武器がない。劉備には、大陸の平安を安んじるために必要な、志を達す為に必要な、劉備だけが持つ武器がない。腰に差した雌雄一対の剣に手を当てて、劉備は公孫瓉を真っ直ぐに見据えた。「だから決めたんだ。 私は一刀様が託してくれたこの一対の剣は、私の、私だけが奮える武器を持つようにする為の標にしようって」 劉備は一本の剣を引き抜いた。 銀色に鈍く光る、雲と陽を象った装飾があつらわれた剣。「私が持つこの剣。 天を象ったこの剣は、仁義の為に奮う武器」 もう一本の剣を引き抜いた。 薄く青く光る、大地と花を象った剣。「そしてこの剣は、人心と天理の為に奮う剣」 公孫瓉は息を呑んで二つの剣を掲げる少女を見詰めた。仁と義。 これを貫くことで自らの武器として振るうことを無二の友人である公孫瓉へ約束したのだ。きっとこの仁と義の剣は、劉備の足元に血河を溜めてゆくのであろう。天の御使いが漢王朝に返り咲く為に振りぬくこの剣は、結果的には一刀の敵を屠ることになるのだから。それはすなわち、この漢王朝に大乱を招いている全ての賊、全ての反政府組織である。一度この剣を抜き放てば、誰よりも信頼している義姉妹達を戦場に向かわせることになるだろう。そしてもしも、もしも、北郷一刀が志半ばで倒れてしまったら。彼の道の続きを拓くのは、自分だ。北郷一刀が歩む道は、すなわち劉玄徳が歩いていく道なのだ。劉備が心の奥底に閉まっている野望と言い換えてもいい。この剣は、その道を進むための標である。 そして、もう一本の人心の剣。これを貫く事で天下を安んじると劉備は宣言した。この剣は自らに深く刺され、劉備の血を干からびるまで吸い尽くすのだろう。自らの立志を貫く為に、人心を手に入れようと決意したのだ。いつかは人の心を利用しよう。権力と立場を求める劉備には、決して避けることのできないその時が、何時か必ず来るはずである。卓越した知見を持つ諸葛亮や鳳統ならば、劉備がこの剣を振るう機会を逃す事はないだろう。その結果、いずれ押し潰されるような悔恨と恐怖を抱くに違いない。この剣は劉備が描く夢想の為に振るわれる剣となったのだ。これは誓いであった。劉備の誓いの場であった。愛紗や鈴々ではなく。 朱里や雛里ではなく。公孫瓉へと誓いを立てたのは、誰にも知られたくないから。無茶な道に付き合わせている誰にも自分の弱さを言葉で吐き出したくは無かったから。そして、その弱さゆえに誰かに吐き出さなくては、心胆から決意を持って誓えそうに無かったから。だから、友人である彼女の、公孫瓉白珪の下でしか誓えなかったのだ。「ねぇ、白蓮ちゃん。 私は戦えないんだよ。 きっと戦場に立っても誰にも勝てない。 兵士さんを鼓舞をすることが出来れば上出来なくらいかな? 私が構える陣内で乱戦になったら、せいぜい死んだふりをして脅威が去るまで生き延びることくらいしか出来ないと思う。 私は考えられない。 どうすれば、そうなって、誰が誰を利用しているのか。 利用されるのか。 その結果、戦が起きてしまうことを止められないし、止めようと思っても、争いをしている人に自分の声すらきっと届かせられないと思う。 私は愚直に信じている道を歩く事しかできない。 私は出来ない。 誰かの力を借りないと何も出来ないの」「桃香……そんなことないさ。 桃香は立派になんでもやってるだろ?」 「ふふ、ありがとう白蓮ちゃん。 でもそうなんだよ。 どんなに心の中で隠したって、皆が出来るのに私にはできなくて、嫉妬と悔しさがその度にこみ上げてきちゃうんだ。 仕方ないとか天性の物だとか、諦めることは何時でも、今だって出来ちゃうんだよ。 これでも、自分の 『ぺぇす』 で努力は続けてきているつもりなんだけどね」 あっけらかんと笑う劉備に、公孫瓉は思わずは呆気にとられてしまった。「でも、そんな私の無能を愛してくれて、ありがた過ぎちゃうんだよ」 しみじみと音のない室内に響き渡ったその声は、公孫瓉に向けてのものでは無いとすぐに実感できた。劉備はこの場に居ない、彼女に付き従う少女たちへと礼をしたのだ。長い沈黙が続いた。公孫瓉は友人が見せる秘めていた激烈な志士に黙し、劉備は自らの誓いを忘れぬように黙した。 激烈な印象を残した日であった。公孫瓉は振り返っても身震いするほど、劉備の強い意思に感嘆をしてしまっている。烏桓に帰順を促す方法を聞いた時も仰天したものだが、この誓いの日こそが自分と劉玄徳という少女が新しい友誼を結びなおした日では無いかとさえ思えた。―――・「桃香」「うん」「話は聞いたけど、いくらなんでも、烏桓たちの蛮族の血を飲み干すのはやりすぎなんじゃないか?」「そ、そこまで大げさな表現しなくても……私はただ、お話するために彼らのシキタリに従っただけですぅー」「烏桓の族長たちの前で、おっぱい体操なんて妙なのも披露したって聞いたけど?」「うん! けっこうウケタかなー、他の場所でもやってみたいかも。 あ、白蓮ちゃんにも教えてあげるねっ」「いや、愛紗が泣いて止めるようにわざわざ私に頼んで来たから、それは程ほどにしておいた方が良いと思う」 暴走しがちな友人を前に苦笑を一つ、公孫瓉は咳払いをかまして真面目な顔を作ると、腹を決めて話を切り出した。劉備は友人だ。 きっと人生の中でも得難い、稀有な親友。だが、それだけではない。劉備の志士を認めこそすれ、ただ利用されるだけの間柄ならそれは友人足り得ないものである。少なくとも、公孫瓉は対等な相手であるからこそ友人と呼べる関係であると信じている。だから。 「……異民族を帰順させたのは、私の功だぞ」「へ?」「烏桓の心と兵は桃香が得る。 私は功を得る。 それでいいよな?」「……白蓮ちゃん、うん。 それでいいよ!」 お互いに利用し、旨みを分け合えなければ友では無い。劉備と公孫瓉はスッキリとした面持ちで、手を交わす。握りこんだ掌から、感謝を告げる様に甲に握り返される。公孫瓉からも、逃れえぬ厄介事を拭い去ってくれた友人へ、あらん限りの感謝を込めて劉備の手を握りこんだ。「親愛なる無能な友人よ、武運を祈るよ」「うわわ、やめてよ! 白蓮ちゃんっ、それは格好つけすぎだよぉ~」「っって、桃香、ここで梯子を外すなよなっ! ったくもぅ! 恥ずかしいだけじゃないかっ」「あはははっ、ごめんね! じゃあ、私行くから! またね、白蓮ちゃんー!」「ああ、またな、桃香」見詰め合って一つ。公孫瓉は大きく頷いて手を振り、劉備は満面の笑みを残して踵を返した。 ■ 外史終了 ■