clear!! ~都・洛陽・先走り汁を抑えきれずに黄色いのが飛び出たよ編~clear!! ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編1~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編2~☆☆☆ ■ 虎がニヤついている「ではこれより軍議を始めるのです」“天の御使い”の隣に居る女性、陳宮という者の声から始まった軍議だが、思ったよりも積極的な意見は出ずにそろそろと始まった。題目は、近頃といっても既に半年が経過している賊の横行についてだ。4ヶ月以上も前から諸侯が集まり件の軍議を幾度も開いてきており話し合って来たのだ。彼女がこの軍議に参加し始めたのは片手で数えられる程度であるが雰囲気や諸侯の様子は普段と別段変わりない。違うのは“天の御使い”である男が居ることだけだ。話し合いは続くが、特に目新しい対策が出るわけでもなく、かといって良い意見があるわけでもない。一刀や音々音にとっては重大であると感じているこの軍議。諸侯にとってはそれほど重要な物である感じていなく、むしろ面倒だという空気が出来上がってしまっていたのだ。今回、こうして一人の欠席も無く諸侯が全員揃ったのは、“天の御使い”であり“天代”である北郷一刀という人間を一目見てみようかという野次馬的な物が多分に含まれているからに他ならない。そうでなければ、何時ものように集まっても実のある意見が交わされる訳でもなくそのまま軍議は終わったことだろう。「ふっ……」「ん、どうした、堅殿」「いや、面白い展開になったと思ってさ」「うん? わしにも分かるように説明して下さらぬか」「……私には、前の軍議と変わらないように思えますが」孫堅は祭の言葉に肩をすくめながら、真面目な顔をして鋭い視線を向ける周瑜に薄く笑った。性を周、名を瑜、字を公瑾。誰が見ても美しいと言えるその美貌は、美周朗と称えられて久しい。朗とはどういうことか、とか、余り持ち上げられるのも、とか本人は思っているのだが。今日は長い髪をまとめて、掻き揚げており孫堅と黄蓋と共に軍議に参加させてもらっている立場だ。並ならぬ知を持つ者と幼少の頃から評価されて、今もまだその能力は伸び盛りであるという。吸収できそうなものは全て吸収しようと釣りあがるくらいに上がった目を見ていると本人には失礼かもしれないが、孫堅にとって微笑ましい物を感じずには居られなかった。それに、周瑜の言うことは実に正しいのだ。何もなければ、これは何時も無為に時間だけが消耗される実のない軍議だ。だが、常と違う点が一つだけある。上座に座る人間が、大将軍として何進が座っているのではなく“天代”という謎の役職を貰った北郷 一刀なのだ。「変わるかどうかは、天代様次第。 面白いじゃない? こういうの」「うぅむ……わしの目にはただの儒子にしか見えませんがのぅ」「同感です、“天の御使い”という名声も眉唾物です」「ふふ、私は期待しているわよ、彼に」「はぁ……」特に根拠も無いだろうに、何故そんな自信満々に期待できるのかと周瑜は思った。自分の仕えている主、孫堅が“天の御使い”という名声に踊らされることなどは無い。どんな偉い肩書きを持っているからといって、その人の人となりまで保証する物ではないということは知っているはずだ。孫堅がそんな物に振り回される人間ではない事は共に生活していく中ではっきりと分かっている。「けど、彼に期待しているのが私だけってのも何か釈然としないわね……」そう呟いた孫堅の顔を見て、黄蓋も周瑜もぎょっとする。そして二人は同時に孫堅の口を押さえようとして、失敗した。この笑顔は、良い事を思いついたという様な表情であり、彼女の危険信号なのだ。面白そうな事と見れば場を引っ掻き回す事に躊躇いの無い、それは孫堅の悪癖といっていい。口を塞ぐのに失敗した二人は、孫堅の口から飛び出す言葉がせめてまともであるようにと願った。「皆よ、今まで同じような眠たい話を繰り返していても仕様があるまい。 此度は天代殿も参加されておるのだ」諸侯の視線が孫堅へと集まった。何人かは顔を顰めて彼女へと怪訝な視線を突き刺していたが臆することもなく、周囲をぐるりと見回してから孫堅は一刀の方に視線を向ける。「さて、言い出しっぺであることだし、私から一つ訊かせて戴こう。 天代殿、軍議の内容が今までの物とは違い、明確に討伐という文字が追加してあるが これは如何いうことなのか」この言葉が飛び出して、諸侯には僅かなどよめきが広がり、黄蓋と周瑜は顔を顰めたり頭を抱えたりしてしまった。孫堅の尋ねた事は、殆どの諸侯が気がついていた事である。そして、討伐の二文字が踊っている以上は、この軍議が後の軍事行動に繋がる事が確定しているのは間違いなかった。どこの陣営も、自らこの“討伐”という物に突っ込んでこなかったのは下手に手を出して余計な苦労や責任を取りたくは無い、という思いがあるからに他ならない。先に言して追求してしまえば、言い出しっぺである者が率先してやればよかろう。そう言われてしまうのは目に見えていたからだ。「今まで軍議に消極的であった孫堅殿が、いやに積極的ではないか」孫堅の丁度隣で座っていた齢30を超えたかという感じの男がそう呟いた。彼――劉表はこの時分は、何進の部下であったはずなのだがどういう訳か既に荊州刺史として着任している。彼を見た一刀は、イメージとはやや合わない程ワイルドな風貌だと思ったが実際はこんなものなのか、と上座で一人、納得もしていた。「おや? 別に消極的だったわけではない。 今までの軍議は諸侯が揃って欠伸が出そうな世間話で終始しておったではないか。 それに、言いたくない事を私が率先して言ってやったのだ。 感謝される覚えはあるが、厭味を言われるとは思わなかったな」「む……」孫堅の挑発的な物言いに、劉表はやや顔を顰めたが、それだけで何も言い返さなかった。話の腰を折られたからか、それとも別の理由かは分からないが孫堅はやや不機嫌になりながらも、もう一度尋ねた。「天代殿、討伐とあるからには戦になるのでしょうな?」「はい、なります」「一体何を根拠にそう言っておられるのですか」「本拠地も分からぬ賊を討伐しに行くというのか」「まさか捜しながらとは言うまいな、時間と労力の無駄でありますぞ」「賊の活動は大陸の全土と言っても良い、それを根絶やしにするとでも?」「今までのように諸侯がそれぞれの賊を押さえつければ良いではないか」などなど。短く答えた一刀を切っ掛けにして、一斉に周囲から声が上がる。一刀と音々音は、事件の当事者であるのだから襲ってくる事は疑いようのない話なのだが帝が倒れられた真相を知らない諸侯にとっては仕方のない事だろう。世に横行する賊が、各地で一斉に蜂起して漢王朝を打倒しようなどとは考えてもいないのである。この辺りは事前に話し合っていたので一刀は冷静に音々音へ続きを促した。「根拠はあるのです。 これをご覧下さい」音々音が提示したものは密書を写植で移した物である。一通り、諸侯が目を通したのを確認してから一刀は口を開いた。「これは賊……ここでは黄巾党と呼びますが、彼らと宮内に居る宦官との内応の証です」彼の言葉に、周囲がざわめいた。それが本当ならば由々しき事態であるからだ。宦官の腐敗が進み、賄賂などの悪行が蔓延しているとの噂を耳にしていたがよりによって賊と通じるとは信じ難い話であった。ざわめきが収まらぬ中、それに負けないような大きな声が飛んでくる。「この情報は確かな物なの?」凛々しい声が、董卓の傍に居た少女から聞こえてくる。彼女は賈駆という。人によればキツイとも取れる眼を、ことさら上げて一刀に鋭い視線を投げている。「当然、確かな物でなければこの場所に挙げることなど出来ません」「……そう」「今回、討伐と銘打ったのはこの為なのです。 ご納得いただけましたか、孫堅殿……うっ!?」音々音に言われた孫堅は、実に満足そうな笑みを浮かべて頷いていた。その顔は、酷く獰猛である。猛禽類に似た視線を受けて、音々音は思わず顔を引きつらせた。「まったく、地位ある者として情けないですわ。 賄賂を受け取ったことでさえお馬鹿の極みだというのに」「まったくじゃ。 小金で喜ぶ神経が分からぬのじゃ」「まぁ、袁家ならば小金と言えるでしょうがね」「子供のお小遣いにも満たないですわね」「うむうむ、これについては不本意じゃが麗羽と同意見なのじゃ」さも当然と言う様に頷く袁紹。何故かふんぞり返る袁術。諸侯の反応は、概ね微妙な目を二人に向けていた。一部……いや、何人かはそんな二人を更に煽てていたりしたのだが。「コホン、とにかく今までと違い消極的対策ではなく討伐することが加えられた理由は以上なのです」「良く分かった。 これだけの大事、見逃すわけにはいかん。 この情報が何処から来たのか聞くのは無粋かな?」孫堅の言葉に、一刀は首を振った。言って特に困る事ではない。「俺が現場を押さえました。 内密に出会っていたところを偶然通りかかったんです」「やはり面白いな、天代殿は」「へ?」関連性の無いことを言われて、一刀は思わず間の抜けた返事を返した。そんな二人の様子を気にせずに、袁術の隣に座りそれまで静観していた皇甫嵩が密書の写しを眺めながら短く告げる。「写しではなく、実物を見たいのだが」細身である彼だが、その体躯は意外とガッシリしており見た目以上に大きく見えるその容姿は威のある人物であると言えた。一刀は頷いて、音々音へと視線を投げる。彼女も頷いて、箱に入れられた密書を取り出すと時計回りに諸侯へと手渡すよう話してから皇甫嵩へと密書が渡る。手渡した写しではない密書が諸侯へ渡るたびに、彼らは近くに居る部下、或いは諸侯同士でひそひそと会話が繰り広げられた。「……内応した者の名の下に血判、ついでに字の癖が皆違う、確定じゃな」「確かに、間違いなく本物の様です」祭と周瑜がこそりと後ろで話しているのに満足そうに頷いた孫堅は劉表へと密書を手渡し後ろに振り返ると面白そうに顔をゆがめて言った。「ほら、面白い子でしょ?」「堅殿、楽しそうですな……」「だってほら、天代様を胡乱な眼で見てた諸侯が一様に驚きに眼を剥いてるのよ。 たった一枚の紙で、面白いじゃないの」「不謹慎です、孫堅様」「相変わらず頭固いわね冥琳は……」全ての諸侯の確認が済み、音々音の元まで密書が戻ると彼女は一刀に目線で問う。頷いたのを確認してから密書をしまって口を開いた。「討伐の名目がついた理由は分かってもらえたかと思うのです。 つきましては―――」「あいや待たれよ。 その前に確認したことがあるのだが……」それまで発言らしい発言をしなかった何進が手を挙げて話を遮った。隣に座る何進の部下も、同じように手を挙げている。どうやら、洛陽で官軍を取りまとめる、大将軍に任命されていた男から待ったが入ったようである。「一つ不穏な噂を聞いておりまして、それの事実確認を天代にしていただきたい」「不穏な動きとは何なのですか?」「失礼だが、陳宮殿は黙っていて下され」「なっ!」何進の声に、音々音は声を荒げそうになった。皇甫嵩はそんな何進を見て顔を顰めたが、彼は気がつかずに待ったをかけた皇甫嵩より前に出て身振りを交えて口にした。「天代は、その、黄巾党でしたか。 その幹部であるという噂があるのですが、どうなのですか」「何進殿の言は私も思っていたところです。 流れている噂だけならば天代である貴方を疑うことのない話でありますが、実際に目撃者がおります 本物の密書を持っていることで、いっそう疑いは深まりましたな」「そうだ、皇甫嵩殿の所に居る儒子が見ておったのだ! これはどういうことか説明して頂こう!」(来たか……)『『『『来たな』』』』皇甫嵩と何進の言葉に、室内の空気が下がった気がした一刀であった。 ■ ちょっと待って、今、北郷が何か言った此度の軍議にあたり、一刀も何も考えずに参加した訳ではない。むしろ、“天代”などという帝の代わりのような、良く分からない役職を与えられてしまった一刀はこれまでに無いくらい、この軍議に参加するに当たって頭を捻ってきた。何進の言を信用すればだが、現場を目撃した少年は皇甫嵩に近しい人間だという。やはり、あの逃げた少年は細部まで彼らに告げ口したのだろう。実際に密書があることで疑いを深めたという皇甫嵩から信頼を得るのは難しいかもしれない。一番、数の多い官軍を取り纏める何進や皇甫嵩から信を得られないのは厳しい。“天代”にとって正念場である急所だということは分かっていた。故に、彼は脳内に住む自分とも相談してどう対応するかを決めていた。(うん、決めてる……後は俺が頑張れるかどうかだ)「さぁ、答えて戴こうか。 納得出来るものであれば良いですが」問い詰める何進を一瞥してから、一刀は諸侯を見回した。一刀の答えに期待している者、疑いの眼差しを向ける者、興味だけで目を向ける者。実に様々な反応を示していたが、誰もがこの答えに注目している。一刀は一つ深呼吸すると、考え込むように顎に手をやってから口を開いた。「良いですね、それ。 採用しましょう」「はぁ?」「その噂があるのは、何進殿や皇甫嵩殿の言う通り事実なのでしょう。 それなら、俺は黄巾の幹部ということで行きます」「認めるのか!?」「何だと、天代殿は何を言っておられるのか分かっているのか!」この言葉に諸侯はおろか、話を通していない音々音までもが目を剥いて驚いていた。帝に信用され、帝の代わりとして置かれた“天代”が黄巾党と繋がっていますと宣言したに等しいのだ。室内は驚愕に染まり、一刀以外の全てが思考停止に陥ろうとしていた。混乱覚めやらぬ中、それに構わず一刀は続けた。「俺は今から密会に赴いた馬元義という男の名を騙ります。 この噂が広まれば黄巾党は動き出します」「ば、何を馬鹿なことを! 今すぐコイツを捕らえて処刑すべきだ!」「何進殿、落ち着いて」「天代様……貴方はその、黄巾党では無いということを否定していないわ」何進の怒声が響いた。そうだ、一刀は黄巾党であることを否定していない。それは勿論、誰もがわかっている。「わかってます、賈駆さん。 俺は黄巾党ではありませんし、噂が間違っていると言い切ります。 ただ密会の現場に偶然居合わせたことも事実だし、皇甫嵩殿の儒子に見られたことも事実。 命惜しさにあの場では黄巾党の幹部を名乗ったことも事実です。 ならば、この事実のような嘘を戦略に組み込んでしまおうと考えました」これが、本体、脳内共に話し合って決まった事である。身の潔白を示す方法はある。簡単だ、劉協に願ってこの軍議に参加して証言してもらえばいい。それだけで一刀は疑われていようとも、ある程度の信頼をこの場に居る全員から得られる筈だった。劉協の言葉を賜れば、疑っていても手の出しようが無くなる。一刀の安全面でも、彼女が出張れば完全にとは行かないまでも解決する事だろう。だが、一刀は劉協に出張ってもらう事は止めてもらった。何も知らない人間が一刀に下す評価は、帝の命を救って権力を得た得体の知れない男である。誰に聞いても何者なのか知らない、“天の御使い”などと不遜な事を自称している変人。民草ならばともかく、諸侯ともなれば簡単に“天の御使い”を信じることなど出来ないのだ。その考え方が間違っていないのを一刀はこの場の空気で確信している。そんな男が劉協を使って言い訳をしてしまえば、劉協という帝の娘はそんな男を妄信する愚者に見えてしまう。それは、今後自分の力を伸ばして漢という国を正そうとする志を持った劉協にとっては不利だ。宮内の人間に味方の居ない彼女が、外の……つまりは諸侯に悪印象を持たれる事は避けなければならない。劉協が味方にしなければならないのは、ここに集まる諸侯しか居ないのだから。そして、一刀が諸侯に自分の存在を納得させるには、最早この道を選ぶしかなかったのである。ようやく動揺が収まったのか、何進の席から声が上がった。「戦略に組み込むと言うが、そんな必要はあるのか。 討伐の為の軍をすぐに結成して、賊を叩き潰しに行けばそれで終わる話だろう」それを契機に次々と諸侯の反応が立ち上がる。「そうだ。 それに大陸の至る所に存在する賊に対して、天代殿が賊の幹部を名乗る事が どうして戦略になるのかをご説明していただきたい!」「効果はあるかも知れないわ。 黄巾党が一つの組織として成っているとなればだけど。 幹部が朝廷軍に紛れ込んでいることを知れば何かしらの反応は出るわ」「仮定の話で戦略を練っても意味がなかろう」「いや、しかしこの仮定はかなり真実に近いと私は思う」「この反乱の話は、漢王朝に対する不満が原因だろう! 組織として纏まっていることなどあるものか! 各地でそうした不満が爆発しているに過ぎん」「断定するのは如何なものか。 ここまで朝廷に食い込んだ、あまつさえ洛陽の官に内応の約束までさせる規模だぞ。 組織で纏まっていなければ不可能ではないか」「何なのじゃ! 何をいきなり盛り上がってるのか訳が分からないのじゃ、七乃、わらわにも分かるよう教えるのじゃ」「はいはい~、今は他の方に頑張らせておけばいいんですよ~美羽様~、蜂蜜水でも飲みますかー?」「まてまて、まず現実として天代殿が黄巾党であることを否定できなければ、我々は賊に踊らされるだけだぞ!」「確かにその通りだ!」「天代殿は今言ったとおり、戦略に組み込み賊の動きをこちら側から制御しようと言っておられるではないか 一応、黄巾であることは否定していたが」「内を疑いながら外と戦うのはご免だと言っておるのだ!」「天代殿は帝に認められた者だ、そんなお方が黄巾党に繋がっているとは思えん」「怪しいのは間違いなかろう」「ああ、もう……子犬のようにキャンキャン吠えないで下さらないかしら? 頭が痛くて叶いませんわ」紛糾する言葉の応酬の切れ目、絶妙な間を縫って特徴のある声が室内に響いた。まさしく、此処しかないと言った発言のタイミングである。その声の主は袁紹であった。「天代さんが黄巾党であるのかどうかなど、現時点で証明する方法を我々は持ち得ませんわ。 そうではなくて? 誰か証明できるというのなら証明しなさいな。 とりあえず天代さんに従ってみて、その動き方で賊かどうかは判断すればいい話ですわ」「む……」「手遅れになってからでは遅いのだぞ」「ならば、手遅れにならないよう監視すればいいんですわ。 勿論、認めてくださいますわね、天代さん?」袁紹が一刀へと振り向いて微笑みながら尋ねる。それは現在進行形で信用を疑われている一刀にとって、断る術を持たない提案であった。じっとりと手に汗を掻いていた一刀は、ゆっくりと頷いた。(さすが、三国志でも存在感がある袁紹だ……ここは頷く事しかできない)『『『『馬鹿な、あの袁紹が普通に会話している……だと……!?』』』』『『監視か……』』『あ、皆、これ多分……』「これでよろしいですの? 田豊さん」「はい、ご苦労様です麗羽様。 ご覧下さい、麗羽様の今しているご確認が微妙過ぎて誰も何もいえないようです」「おー、姫さすがー」「わー、さすがですれいはさまー」「おーっほっほっほっほ、当然ですわっ、この袁本初のこの場における発言力は―――」「確認を取らなければ完璧でした、麗羽様」「あら、何か言いました田豊さん?」「いえ、もう手遅れですので、だいたい完璧でしたので問題ありません」「そう? 良く分かりませんが問題は無いんですわね」(……えーっと、今のは田豊さんの差し金だったのか)『『『『なんか安堵した』』』』『『『俺も』』』『……相変わらず可愛いなぁ、麗羽』『ええー……』今の一連のやり取りを、呆然と見送っていた諸侯であったが、いち早く復帰した皇甫嵩がコホン、とわざとらしい咳払いをして周囲に響かせ彼に注目を集める。皇甫嵩は全員の視線が自身に向いたのを確認してから口を開いた。「ここで言い争っても天代殿の言を証明できないのは袁紹殿の言う通りだし、真実を追究するのも時間の無駄だ。 密書が本物であるのならばなお更のこと、この様な事で時間を潰すわけには行くまい。 監視を受け入れるというのならば、とりあえずは天代殿を信用することにしよう」「馬鹿な、内に火種を残したまま進むというのか……」劉表の言葉に数人の人が頷いていた。微妙な雰囲気が室内に流れ始めていた。「天代として皆様を統括する立場になった以上、裏切る事はありません。 今はそれを信じてください。 それから、今後は黄巾党の幹部が朝廷の官軍に潜りこんだという噂を流すようにお願いします」(今後、諸侯の信用を得るのは大変だろうなぁ……)そう言って無理やりとも、強引とも取れるように話を打ち切ってから誰にも気付かれないよう短いため息を吐き出した。諸侯の不安は、自分が黄巾党と相対した時、全てに勝たなければならないだろう。負けて良い戦がある筈ないが、必ず勝たねばならない立場は精神的に負担が大きい。一刀は、この時代に胃薬があることを本気で願った。 ■ 話しているのは一刀“達”室外から怒鳴るような声が聞こえると同時に、扉を開いて一人の兵士が飛び込んできた。「何事か! 今は大切な軍議の最中であるぞ」「申し訳ありません! 火急な報告がありましたので失礼致します! 許昌の方面から多数の粉塵を確認しております。 関所を突破して、物凄い勢いで洛陽へと近づいているようです!」「何だと!」「まさか、黄巾党か!?」この言葉に誰よりも青ざめたのは一刀である。同時に得体の知れない寒気が背中を走っていた。確かに、音々音の言うように黄巾党の洛陽襲撃の可能性が早まるかも知れないという話は聞いていたが幾らなんでも行動が早すぎた。此処に居るすべての人間の眉間に皺がよった。「規模はどの位なのですか」音々音が尋ねると、おおよそ4万だと答えが返って来た。その数字に、殆どの人間は絶句した。「そ、そんなに居るのか? 見間違いではないのか?」「報告では少なくても3万の規模だということです。 途中ある関所も鎧袖一触で打ち破られたとか……」「仕方なかろう、関所に配備していた官軍の数は少ない」「むぅ……」「すぐに、軍備を整えて対応しなければ……しかし4万とは」立ち上がり、口々に話し合うのを尻目にして、一刀は音々音へとこっそり近寄って耳打ちした。「ねね、どうする?」「そうですな……考えるまでも無く、兵士を集めて官軍に当てるしかないのです。 ただ、ねねの予想の通り、黄巾党の勢いは怒涛のようなのです」「勢いを削ぐ事が第一か。 けれども兵数で負けてるよね?」「負けてるのです」そうなのだ。今、すぐにでも出陣することが出来る兵士は少ないだろう。報告によれば3万ないし4万はあるだろう敵軍。しかも、士気は高いだろうと予測される。こちらが無防備であるところに万を越える敵の奇襲に当たるようなものだ。とてもじゃないが、普通に野戦を挑んで勝てるとは思えなかった。『軍備が整った順に出陣するとか、そういう風に下手に戦力を投入しても逆効果だ。 専守防衛できる拠点は無いか?』『そうだな。 手っ取り早く数の差を埋めるなら関所のような場所で篭るしかない』「そうだね……何処かに篭れる場所は?」「残念ながら、小規模な関しかありませぬ。 一番適している場所は長社の辺りですが 其処まで向かうには距離と時間の関係で難しいのです。 他の場所では、黄巾数万の賊を押さえきれる場所は無いですぞ」『ないなら作るしかないな……』『馬鹿、砦なんかを作るのに何ヶ月かかると思ってるんだ』『陣でいい、絶対に避けて通れない場所に陣を立てればいいんだ』『普通に陣を迂回しちゃうんじゃないか? ちょっと洛陽周辺は平地が多すぎて逆効果だ』『そうだ……周囲を使えないかな?』『! なるほど、良い考えだ“魏の” 本体、ちょっとねねに確認してくれ―――』こうした会話を繰り広げている間も、時間は進む。やがて、我慢の限界を迎えたかのように、何進が言った。「とにかく、このまま黙って見ている訳にもいかんのだ。 出陣の用意が整い次第、迎撃に当たらねばならん」「……では私の部隊だけでも先行しましょう。 何進殿が預かる兵は、今洛陽を出て演習を行っているのでしょうし」皇甫嵩がそう告げて、部下の朱儁に声をかけて部屋を飛び出そうとした。音々音と対策を話していた一刀が、彼に気がついたのは偶然だ。慌てた様子で彼は皇甫嵩へと声をかけた。「待ってください、皇甫嵩さん!」「む……天代殿、なにか?」「今動かせる官軍の数は?」「……」振り向きながら答えた皇甫嵩は、僅かに逡巡して、黙った。彼も……いや、むしろ彼が何進と同じくらい、北郷 一刀という存在を疑っていると言ってもいい。兵数を聞きだそうとするのは、上に立つ者として当然のことなのだろうがその当然の事が、皇甫嵩をして教えるのを躊躇わせたのだ。「教えてください、皇甫嵩殿が黙する理由は無いのです」「皇甫嵩殿、貴方が先ほど信じると言ったのは嘘だったのかな?」「むぅ……今すぐ出陣できるのは六千ほどだ。 四千は休息を取っている」音々音と孫堅に言われ、短く呻くと皇甫嵩は数を告げた。それを聞いた一刀の反応は、やはりこの場に居る全ての人間を驚愕させた。皇甫嵩に対して、頭を下げたのである。「なっ……一体何を……」「すみません、少しで良いのです。 俺の話を聞いてもらえませんか」正直言って、一刀の立場はこの軍議の中で一番高い位にある。そんな男が頭を下げたのだ。皇甫嵩は否を言えるはずが無かった。ゆっくりと頷いた皇甫嵩は、一刀の元へと歩み寄り一刀もまた皇甫嵩へと近づいて耳元に囁いた。「洛陽から最短の道で100里ほどのところに兵五千を用いて防衛陣地を築いてください。 敵と当たるのは騎馬兵のみ、千だけでお願いします」「……っ、馬鹿な事を。 四万の賊を千で相手にしろと!?」 「要はゲリラ……えーっと……遊撃戦、かな。 足止めや警戒以外では下手に手を出さないで下さい。 中途半端でも何でも、足止めの防衛ができるくらいの兵数の確保と陣地の構築を最優先で取り組んでください」「っ、分かった。 天代殿の言う通りにしよう」飲み下すように、皇甫嵩は大きく息を吐き出して一刀の提案に頷いた。資材の準備や援軍の話を一通り終えると、足早で軍議の場を離れていく。その話を隣で聞いていた董卓軍の軍師、賈駆が疑わし気な様子で聞いた。「平野部の多い洛土地で陣地を構築? 洛陽が狙いだというのに、相手に迂回されないとでも思っているの天代様」「迂回はしないのです。 黄巾党の目的は洛陽の陥落。 最短距離で一直線にこちらへ向かってくるはずなのです」「ですが陳宮殿。 築かれつつある陣を見れば、迂回の選択肢は馬鹿にだって出来るわよ」 「そうはならないのです」やけに自信のある回答に、賈駆は激しくその中身を聞いてみたい衝動に駆られた。性格から、彼女は自分からそれをするのに躊躇っていると自身の隣にいつの間にか来ていた袁紹の田豊と名乗る女性が声を挙げていた。「“天の御使い”、そしてそれに仕える陳宮殿の打ち出した策を聞かせて欲しいですね」渡りに船とばかりに賈駆も頷いた。孫堅の席の奥に座す、周瑜も耳をひくつかせている。「そ、そうね。 聞かせて欲しいわ」「問題ないのです。 これから共に黄巾党へと当たるのですから、全てお話するのです」「ねね、話し合いはもう少し後で。 とりあえず皆さんは自分の席に戻ってください」「―――っ、分かったわ、後で必ず聞かせて貰うわよ」「はいなのです」賈駆に限らず、殆どの人間が何かを尋ねたそうな顔をしながら自分の席へと戻っていく。その様子は、さながら国会中継で見た委員長へ詰め寄る議員を連想させた。全員が席に着き、喧騒が止んだのを確認してから一刀は口を開いた。「今から俺と音々音が考えた洛陽へ向かう賊への対応を話すので聞いてください。 質疑応答は話し終わってからお願いします」この一連の出来事の最中、地味に“蜀の”や“無の”、“呉の”などと交代していた本体は突く言葉を淀みなく口にした。 ■ 夕が射す廊下軍議が終わり、様々な事が取り決められた。皇甫嵩への援軍は何進と袁紹、袁術から軍を出すことになった。これは単純に、数字の上で多い順であった。この援軍が辿りついても官軍は2万強にしかならず、それで黄巾党の猛進を止めなければならなかった。資材の運搬は劉表と孫堅が対応することになっている。陣地構築の為に、取り急ぎ軍を纏めて皇甫嵩の造る陣の場所まで物資を運ばなくてはいけない。劉表に物資を運んでもらい、孫堅軍でその護衛を頼んでいる。兵糧なども此処で一気に運んでしまうことになっているので兵站を担当することになる。とても重要な役回りであった。一刀としては、孫堅と劉表を一緒に行動させるのは嫌だったのだが今はそれほど不仲でもないのか、協力して事に当たるのに反対するような素振りは見えなかった。あの二人は、史実で争っているため出来れば別行動をさせたかったのだが。物資が届いて、陣地を構築している間に黄巾党はどれだけ距離を詰めて来るだろうか。何進将軍の援軍が間に合わなければ、皇甫嵩は数的不利により為すすべなく討ち取られてしまうだろう。援軍が合流に間に合っても、数の差が覆る訳じゃない。諸侯の出陣の準備が終わり、本隊が辿りつくまでにどれほどの損害が出るか。二階建ての渡り廊下から落ちる夕日を眺めながら、一刀は苦笑した。半年前は部活の準備はとか、明日はテストだ、とか悩んでいた自分が今では人の命を預かる問題で頭を悩ましているのだ。歴史的な人物を相手取って、陳宮という智者と持論を展開し、それを今から実行しようとしている。兵士が軍議に乗り込んで黄巾党が襲ってきたという話を聞いた時。背筋に走った悪寒と、何とも言えない感情は“恐怖”であることに今更気がついた。命を奪う、或いは奪われるという行為が眼と鼻の先にまで来ているという実感。それに理解が至った瞬間、何もかも放り出して逃げ出したかった。そも、自分は何のためにこの場に居るのか問われれば、全ては生きて帰るためだったはずなのだ。どうして此処に居るのか。生きる為に歩いた道は、酷く場違いな場所に辿りついてしまっていたのだ。時代がそうさせたのか、それとも自身が時代に関わりすぎたのか。「考えるほどの頭なんて持ち合わせていないってのに」「悩み事ですか、天代様」「いや……まぁ悩みといえばそうなんだけどね それと、公の場以外では天代様じゃなく、北郷とか一刀とかで呼んでいいよ」後ろからかかる声、その主は顔良であった。黒い髪に柔和な顔立ちをしており、動作の節々から女性らしさを感じる。礼儀も正しいので、一刀は彼女が監視につくことには安堵していた。厳つい筋肉ムキムキの男が傍に居るよりも、彼女のような暖かい印象を与えてくれる人のほうが心に優しい。いや、彼女も彼女で見た目がこれでも大仰な武器を振り回す怪力少女な訳なのだが。今のところ武器を振り回す顔良を見たことが無いので、可愛らしい女性と一緒に居るというのはまぁその、純粋に嬉しかったりする部分もある。顔良は“天代”の見張り役に選ばれてこの場に居る。ようするに、一刀の監視役になったという訳だ。単純に、他の陣営が武将を回す余裕がないので、袁紹軍が派遣したのだ。「あ、そういえばさ。 玉璽のことなんだけど」「ぎっくぅ……」「……」『分かりやすい子だね』『うんうん』『声に出して言う子は初めて見た』『素直なんだよ』「あの……御免なさい。 ちゃんと返します……」「それよりも、すぐに使う事になるかも知れないから準備してて欲しいんだけど」「え!?」驚きをそのまま、怪訝な視線に変えて顔良は一刀を見つめた。その顔にはどうしてなのか、とありありと描かれている。一刀は微妙に自信の無さそうな顔をして答えた。「さっきの軍議でも話したけど、今洛陽に居る戦力だけでは心許ないから。 ここに来ていない諸侯にも援軍を呼びかけようと思っててね。 この策が今回の戦の要になるだろうから、多分、恐らく」「それは……えっと、つまり玉璽を使って?」「そう。 勅令として二人に動いてもらおうと思っているんだ」顔良は聞いて絶句した。つまり、玉璽を使って二人を援軍として呼び出そうというのだ。距離的に、確かに微妙ではあるが黄巾本隊とぶつかる時に曹操や丁原が援軍に来るには間に合う、だろう。どちらも私軍を持っており、それなりに大きな規模を保有していることも顔良は知っていた。援軍が間に合えば、数の差を埋めるという大きな助けになることは間違いない。「し、しかしそれは職権の濫用になるのでは。 帝の許可無しに玉璽を押すなど……」『その帝が、俺達に丸投げしてるんだからなぁ』『まぁ顔良さんが躊躇うのは無理ないよ』「……まぁ、そこは“天代”であることを利用させて貰おうと思ってるから」『ってことだな』「うわぁ……あ、でもじゃあ、やっぱり玉璽は返して置いたほうが良いですよね?」「いや、別に持ってても良いよ。 ていうか、俺が持ってるよりも 顔良さんが持ってた方が盗まれなくていいんじゃない?」張り付いた笑みを浮かべていた顔良の笑顔が引きつった物に変わった。恐らく、彼女も玉璽を持ち歩くのは心身に負担をかけたのだろう。というか、諸侯に見つかればどう言い訳していいのか分からないに違いない。本心ではきっと、持ち去ってしまった事に引け目を感じていたのだろう。街中で捨てるに捨てられず持ち歩いていた一刀には良く分かる話だ。実際、一刀の監視の名目で一緒に居るのならば、考えようによっては顔良は一刀の護衛みたいなもんだ。だって、自分よりも余裕で強い筈なのだ。諸侯から猜疑の目を向けられているし、史実で宦官とも繋がっている何進も居る。一刀がこの洛陽で襲われる可能性はゼロではない。ならば、玉璽を持ち歩く事は一刀にとっても新たな火種になりかねないのだ。つまり、一刀は顔良に玉璽を丸投げした。ただでさえ黄巾党の乱に深く関わる事になってしまった一刀はこれ以上余計な負担を背負うのは嫌であったのだ。「今も持っているのは、それを利用したいからじゃないの?」「ち、違います……多分」問われた顔良は慌てて首を振った。彼女としては玉璽とは早く手を切りたかったのだ。一刀から玉璽を持ち去ったのは、単純に在るべき所へ返そうと思ったからに過ぎない。仮に玉璽を悪用しようと考えれば、彼女は自分の主である袁紹に隠していたりはしないだろう。では何故、今もまだ彼女が持ち歩いているかと言えば、それは袁紹軍の軍師、田豊の言葉にあった。「何かに使えるかもしれないから誰にも言わずに持っておきましょうなんて言うから~」「そう……なんだ。 なんていうか、あの人も黒いね」「黒いって……でも、そうなのかなぁ」「じゃなきゃ帝に即刻返すべき物を返さないでおこうなんて言わないさ。 まぁ有名な軍師だし、きっと先を見据えてたんだろうな……」「有名な軍師? 確かに袁紹様はある意味で有名ですけど……彼女が有名って?」「あ、いや、忘れてくれ―――っと」「あっ」前を見ずに歩いていた一刀は、ちょっとした段差で躓き転びそうになった。傍に居た顔良が彼を支えて、転倒することは防がれた。腕を掴まれて体勢を立て直すと、一刀は礼を言おうとして「ごめん、ありが……とう」言葉尻が萎んで言った。「いえ……あれ?」何故か顔良が泣いていた。自分では気付いていなかったのか、一刀の様子を見てからハッとしたように手で目元を拭っていく。「ど、どうしたの突然、もしかして玉璽のこと? 泣くほど嫌なら、俺が持ってるけど……」「い、いえ違うんです、おかしいな、別に悲しくもないのに」「えーっと……」「あはは、変ですね。 なんか急に気分が盛り上がっちゃって、何だろうこれ」『……』『なんか、あったな、前もこういうの』『最初は桂花の時だったよね』『なぁ……もしかして、俺達のこと』『馬鹿いうな、そんなこと現実であるかよ』『でも、だって他に説明できないじゃんか』『普通に考えてないだろ……彼女達本人だって分かってないんだ』『う、うん……』泣き止むまで律儀に待つと、顔良は落ち着いたのか恥ずかしそうにはにかんだ。頬を掻きながら舌をだして、てへへと笑いつつ言った。「人前で泣いたのって久しぶりです」「そう、すっきりした?」「はい、あの……なんだか北郷さんとは初めて会った気がしないですね、何でだろう」「俺も、顔良さんとは話がしやすいよ」「……なんか」「え?」「あの、北郷さんは黄巾党の人間じゃないんですよね」やや首を傾げて尋ねる顔良に、一刀は苦笑した。証明する方法は無いのだ。「黄巾党じゃないよ。 今は物証が何もないから、俺をが言うことを信じてもらうしかないけどね」「分かりました、私は北郷さんを信じます」「ええ? いきなりどうして?」「それは、なんででしょう……」「えー……」人差し指を顎にあてて眉を顰めて考え始める顔良に一刀は気のない返事を返してしまった。OK,お前の話は信じるぜ、自分でも良く分からないけどな。こんな感じで言われても、何がなんだか分からないのが本音である。いや、信じてもらえることは嬉しいのだが。そんな一刀の微妙な反応に気がついたのか、顔良は慌てて口を開いた。「あ、なんというかその、信じられるかなって。 北郷さんは嘘をつくような人に見えないというか 賊の幹部になるほどの悪意が見えないというか……うーん、言葉にすると難しいんですけど」「無理に信じなくてもいいさ。 信じてもらえるまで、誠実にやっていくしか無いからね」「じゃあ、私の真名、北郷さんに預けます」「ええ!? そんな理由で真名を預けていいのかい?」「私が信じると言っても、北郷さんは確信できないと思うんです。 自分自身でも、良く分からない理由で北郷さんを認めてしまったのに…… だから、私の真名……斗詩って言うんですけど、それを預けることで信頼の交換をしようかなと」 「……君がそれで良いと言うなら、分かった、受け取るよ」その言葉にコクリと頷く顔良……いや、斗詩に一刀は短く返事を返して彼女の真名を受け取った。同じように、一刀も下の名前で呼んでいいと言ったのだが、それは遠慮されてしまった。一刀にも、公の場で真名を呼ぶのは控えてもらうようにと釘を刺される。諸侯の居る前で親しげに名を呼び合うのは、自分の主である袁紹に不利になるかも知れないからと。「それもそっか。 俺って皆から疑われてるしね」「ごめんなさい。 真名を預けておいて公で言うななんて、変ですけど……」「立場があるからね。 仕方が無いよ」それから、袁紹の事や田豊の事。顔良の親友である文醜のことを一刀は聞きながら、時に質問を交えながら世間話をしていた。親しげに話す様子を見つけた虎が、凄い笑顔で近づいていたのにまったく気がついていない二人であった。 ■ 家の娘をファックしていいぞ「うぐっ―――!?」バシっと肩が抜けるほど勢いよく叩かれて、一刀は声にならない悲鳴を挙げた。叩かれた場所を空いている手で押さえて振り向いた。虎が居た。「久しぶりだな、北郷殿! 覚えているか?」「そ、孫堅さん、覚えてますよ、いきなり肩を叩かないで下さい!」「なんだ、普通に叩いただけだというのに」「……普通? 滅茶苦茶痛かったんですが」覚えているかと尋ねられたが、そもそも覚えているに決まっている。さっきまで軍議で諸侯と共に話し合っていたのだ。その強烈とも言える彼女の弁は、良くも悪くも印象に残る。忘れているとしたら、それは余程の馬鹿か軍議にまともに参加していないかのどちらかだ。「それで、何か用ですか?」「なんだ、急に不機嫌になって……ううん? ははぁーん」「うっ、何でしょうか孫堅殿っ」「言っておきますけど、彼女とは世間話をしていただけですよ」呆気に取られている顔良を視線で追った孫堅に、ようやく肩の痛みが引いた一刀は先手を打った。言いながら、一刀は孫堅に視線を合わせると、目線が自然に下へと向かっていく。なんというエロさだ。胸を覆う面積が、最早上だけという露出度である。「……それで、何ですか孫堅さん」「人の胸を見て話を進めようというのか、北郷殿は」「あ、いや……その、それは私服で?」「そうだが、何処か変か?」「変じゃ……」否定しようとして言うことが正しいのかどうか不安だった。だって変だ。少なくとも、現代日本で下乳丸出し、下腹部まで露出している薄地の服など無い。あるかも知れないが、少なくとも一刀は知らない。ぶっちゃけると、微妙に肌も透けているのでじっと見ていると活火山が活動を始めてしまいそうになる。ついでに言えば、きっと背中はおっぴろげされているに違いない確信がある。「別に変じゃないですよ、北郷さん。 というか鼻の下が伸びてます」何故か突っ込んでくる顔良に苦笑を返して、一刀は改めて孫堅へと向かい合った。斗詩が変じゃないというのだ。きっと変じゃないのだ。 此処では間違っているのは自分の方なのだ。そんな事を言い聞かせながら一刀は真面目な顔で孫堅の顔を見ると今度は彼女も、茶化すような真似はせずに真剣な顔つきになる。「で、なんでしょう」「実は北郷殿に頼みがある」「それは一体?」一刀は劉表と何かあったかと勘繰った。一応、軍議の場では争いのような物は見えなかったが、終わってから何かあったのかもしれない。やはり史実の事を考えると二人の仲には不安があったのだが孫堅の口から飛び出したのはまったく別の事であった。「私の陣営に、周瑜という者が居るのだ。 その娘に経験を積ませる意味を含めて、陳宮殿や賈駆殿との会話に参加させてあげたい」「なるほど……周瑜、ですか。 もしかしてあの髪の長い女性ですか?」「そうだ。 なんだ、良く見ておるな。 凄く可愛い子だろ?」「そうですね」「そうですか」「あの、と……顔良さん、何か目が据わってるんですけど、何ででしょう」「いえ、ちょっと女性関係にだらしないのかなって。 そう思っただけですので」「誤解だって……」「ははは、なるほど、手が早いのか北郷殿は。 伯符や公瑾にはその辺を言い含めておいた方がよさそうだな」「勘弁して下さいよ」「ち、違いますよ、私は北郷さんに呆れてるだけですって」何故か孫堅はクスクスと笑い出して、非常に気まずい思いをした一刀である。周瑜の参加は、現状マイナスになるような事でもなく軍師の間でも良い刺激になるだろうと、一も二もなく一刀は許可した。だって、“孫堅”が加えて欲しいと言ったのは、恐らくあの周瑜である。赤壁の戦いで超有名な呉の大督、周公瑾だ。その事実を知る一刀は、この話を断ることなど愚の骨頂であった。陳宮を筆頭軍師として、賈駆、田豊などの主だった諸侯の軍師が参加してそこに周瑜という三国屈指の智者が加わったこの官軍。そう考えると、負ける要素が無いのではないかと一刀は思ってしまうくらいだ。勝たねばならない戦だが、一刀が何もしなくても何とか勝ってしまいそうな面子でもある。武将として見れば、顔良・文醜の袁家二枚看板に加えて董卓陣営から華雄などが参加し孫堅や黄蓋がおり、主だった有名武将だけでこれだけ名前が挙がるくらいだ。某光栄的な三国志ならばゴリゴリ領地を増やせそうな布陣である。ここが三国志の世界であり、この世界に降りてから現実が甘い物ではないことを散々味わってる一刀ではあるが、こうした考えが浮かぶと何となく安堵してしまう。なんとかなるんでは無いか、と。少なくとも、先ほどまで張り詰めていた一刀の心は顔良との会話と孫堅の提案で気持ちは幾分か楽になったと言ってもいいだろう。「ありがとうございます、なんだか行けそうな気がしますよ」「あれはまだ表舞台にさえ出ていない雛だがな。 そう言われれば、こちらも提案した甲斐があったというものだ」「母さん!」「孫堅様!」丁度その時であった、やや高い声が響いて一刀と孫堅が首を回すと孫堅に良く似た格好をした女性と、先ほど話題にあがっていた周瑜が居た。『雪蓮……!』(……もしかして、孫策?)『ああ、そうだよ、孫策だ。 ……真名だよ、雪蓮っていうのは』『“呉の”』『分かってるよ……二人きりだったら良かったんだけどな……』(仲良くなれるように頑張るよ)「二人とも遅いぞ。 何処で油を売っておったのだ」「申し訳ありません孫堅様。 雪蓮が駄々をこねて……」「ちょっと冥琳、速攻で親友を売らないでくれる、冷たいわよ」「事実を捻じ曲げて報告するつもりはないぞ、特に孫堅様の前ではな」「頭固いんだからも~、ってわけで遅れちゃった、ごめんね母様」「ふ、まぁいいさ。 北郷殿」「へ? 何?」「それで、どっちが良い? どちらも味は良いだろうから好きな方でいいが。 ああ、ちなみにこっちの馬鹿そうなのは私の娘で孫策という」「は、はぁ……」「馬鹿って酷いー、ぶーぶー……で、ねぇ冥琳、これ誰? 何の話?」「立場は私達よりも遥か上のお方だ。 天の御使いである北郷一刀様だ。 ちなみに何の話は分からんから私に聞くな」「げっ、これが天の御使い!?」「あの、聞こえてるんですけど……」流石に『これ』呼ばわりされるのはご免であった一刀である。思わずそこに突っ込んだのは、孫堅の言ったどちらを選ぶという不穏な言葉を忘れたかったからかも知れない。当然、彼女は見逃してはくれなかった。「ちゃんと答えを返してくれないと私も困るではないか、天代殿。 それとも、二人ともにするか?」「あの、孫堅さん。 えーっと余り聞きたくないんですけど、何の話でしょう」「だから、どちらとまぐわうのか聞いておるのだ」「「「はぁ!?」」」「あの、そろそろ私帰った方がいいですか?」一刀、孫策、周瑜の声がはもって間抜けな声を挙げてそれまで静観していた顔良が笑顔でそう一刀に尋ねてきた。こめかみに青筋まで立てている。一刀は経緯はどうあれ真名を預かった、彼にとって二人目の女性にいきなり嫌悪されそうになって焦った。が、とにかく彼女の事よりは、まず目の前に居る孫堅相手に断りを入れねばならなかった。そもそも、一体何がどう繋がれば孫策や周瑜とアレしろという話になるのか。理解不能であった。「あの、何でいきなりその、行為をしろと?」「当然だ、我が陣営に天の御使いの血を入れようというだけの話でな。 まぁ私の希望としては娘の伯符だが、別に公瑾でもいい」「いや、だから何故……こういうことって本人達の希望もあるでしょうに それに、言っちゃなんですが、俺って黄巾の回し者っていう疑いがまだ晴れてないんですよ?」「安心しろ、北郷殿。 私は北郷殿を気に入っている。 もしも賊であるというのなら、苦しまぬよう殺してやるさ」「……」堂々と、そしてハッキリと悪びれも無くそう言われて一刀は絶句した。何なのだろう、この人は、今何と宣言したのだろう。本人に対して、賊だと分かったら殺してあげるなどと言うだろうか普通。心で思っても、本人にそんな事言うものじゃない筈だ。少なくとも、一刀の価値観ではそうであった。「と、とにかく、本人達の心を無視して、その話は出来ませんよ」「そうなのか?」孫堅が怪訝な顔をして孫策と周瑜を見ると、彼女達は頬を染めつつ頷いていた。ガクガクと頭を縦に振りまくっている。何処かのロックバンドのライブに参加したかのようだ。髪が振り乱れて大変な事になっていたが、あえて一刀は其処には気にしないようにした。「まぁ、こいつらの事は別にいいさ、私が決めたんだから問題ない。 北郷殿が胤を注ぎ込みたい方を選んでくれればいい」「そ、そ、孫堅様、本気なのですか」「ちょっと待ってよ、いきなり呼び出されてこんな事言われる身になってよ母様」「何という殿様状態」『しゅ、雪蓮から孫堅は滅茶苦茶だと聞いていたが、本当にその通りだな……』『“呉の”は種馬扱いだったという話だが』『いや、だってお前、雪蓮はまだ相手の心に配慮してたもん、これは強引すぎるじゃないか』(本当だよ……)珍しく本体が愚痴を一発。心の中で呟いてから口を開いた。「悪いけど、その話は断らせて貰いますよ。 嫌がる人に欲情のまま無理やり組み敷くような人間でもないし」「そうか……残念だな……」凄くがっくりした、と身体全体を落としながら呟く孫堅。どうやらこの話、本気も本気、マジであったようである。違う意味で一刀の体は震え上がっていた。「まぁ、いいか。 そうだ雪蓮。 お前はこのまま御使い様と共に過ごせ。 冥琳は軍師会議に参加の許可を貰ったからそれに出ろ」「え、本当ですか、孫堅様!」「えー、なんで私がこんな男と一緒に居なくちゃならないのよ」「礼なら天代殿にするのだな、冥琳」「は、はい、ありがとうございます! 天代様」「ちょっと、無視しないでくれる!?」眼を輝かせる周瑜とは対照的に、孫策は頬を膨らませていた。子供のように顔を膨らませ、やさぐれる彼女は容姿に比べて随分と年幼い印象を抱かせた。まぁ、年甲斐も無く目を輝かせる周瑜にも似た印象は抱いたのだが。「何故か天代は黄巾党だという疑いがかかってな。 それの監視が名目になる。 一緒に過ごして隙を見て一気に襲って食え」「本人の前で言わないで下さい、孫堅さん」「なに、知らなかろうと知っていようと襲うのは決定事項だ。 正々堂々と行こうじゃないか」「決定事項なんだ、そうなのか……」彼女にとって、これは最早一騎打ちの類の話になっているのだろうか。だとすれば、彼女を止める役目が必要である。一刀は真剣に孫堅という豪快な女性の対策を考えようとしていた。「それでは失礼する、劉表殿の護衛をさぼる訳にもいかんからな。 ああ、そうだ」一度言葉を区切った彼女に、かなり身構えていた一刀であったが今回は真面目な話だったようである。「皇甫嵩殿が、追放された党人らが黄巾に流れないよう党錮の禁を解してほしいとのことだ。 自分から言う暇が無い為に、取り急ぎ伝えてくれとのことだ」「党錮の禁、か」「確かに伝えたぞ、ではな!」散々、場を騒がせた孫堅が力強い言葉と共に早足に遠ざかっていく。一刀は皇甫嵩からの伝言に頭を巡らした。党錮の禁、これは宦官の圧力で排除された集団の事を指している。詳しい話は省くが、朝廷……というよりも宦官に排除された党人達は、かなりの不満を宦官達に抱いていた。黄巾の乱に彼らが黄巾へ味方をする可能性は確かにある。この事は完全に知識から抜け落ちていたため、皇甫嵩の助言はすぐさま実行しようと考えた。敵を増やす必要は無いし、現状でそんな余裕もある訳が無い。とりあえず其処まで考えて、所在無さげに突っ立っている孫策に顔を向けた。「で、えーっと孫策さんはどうするの? 襲ってこないよね?」「襲わないわよ、気にしないでいいわ、ちょっと母様って頭がおかしい所があるの」「……えっと、ついては来るの?」「ついていくしかないわよ。 あの状態の母様に逆らったら鼻責めされるかもしれないし もう、やんなっちゃうわ」「……」詳しいことを聞くに聞けない一刀は、最終的にはこの件については全てを忘れ自然体に任せることにした。顔良、そして孫策と共に一刀は軍議をしていた屋を離れて、まずは劉協へ事の顛末を話す為に離宮へと足を向けた。脳内で一人、“呉の”がニヤついてはいたが特に影響は無いので放っておくことにしたようだ。 ■ 小さな背中夜。既に皇甫嵩は6千の兵を率いて出陣した。今は夜を徹して陣地構築の為に進軍していることだろう。もしかしたら、兵を割いて夜襲を仕掛けるために別働隊を作って、早速黄巾党と当たっているかもしれない。一刀は布団からムクリと起き上がった。眠れない。これから先、今日のように非常に慌しい日々が過ぎるはずなのだ。寝なくてはいけないと思うのに、いざ横になってしまえば様々な考えが頭を過ぎってしまい寝るに寝れない。それは根拠の無い漠然とした不安だった。「……水が欲しい」緊張することなどない。自分は担ぎ上げられて何故か諸侯を率いる立場に居るが、歴史上は黄巾党に滅ぼされた事実など無いのだ。戦術的に負けることはあっても、戦略的に負けることは在り得ない。この世界が、一刀の知る三国志と同じ歴史を歩むのならば。形や経緯はどうあれ、脳内の自分達も黄巾党に負けた経験は無いと言っている。そうだ、負けるはずが無いのだ。どんな形であれ、黄巾の乱の後も漢王朝は残るはず。この一戦で潰えることなどは、無い。「それを一番疑ってかかっているのは、俺か……」「眠れないのか?」隣で眠っていた華佗が、顔だけ向けて一刀へと尋ねた。彼は苦笑して、水を飲んでくるとだけ言い残した。歴史の通りに勝てる。本当にそう思っているのならば、眠れるはずだ。一人自嘲して、立ち上がると水を飲むために寝室から出た。桶に溜まっている水を、柄杓のような物で掬い上げて口に含もうとした時にふと気がつく。隣の部屋の扉の隙間から、僅かな光が漏れ出ているのを。一頻り水で喉の渇きを癒した一刀は、覗くようにして部屋を垣間見た。そこでは音々音が机に向かって、何かを考えるように腕を組んだ姿が視界に映る。一度戻ってから茶の葉を取り出して、容器に注ぐ。二つのコップを持って、一刀は静かに音々音の部屋へと入り込んだ。背中を向けて机に向かっている音々音は彼が入室したことに気がついた様子を見せなかった。こうして改めてみれば、随分とその体躯は小さい。今日一日、精力的に動いてきた彼女が起き続けているのは何故か。きっと、彼女も一刀と同じように不安があるのだろう。だから、こうして夜も更けているのに机に向かっているのだ。勝手な推測ではあったが、一刀はごく自然にそう思っていた。時折肩を揺らして首が落ちるのはご愛嬌だろう。「……うなぁー、駄目駄目なのですっ!」「はは、お疲れ様ねね。 少し休んだら?」集中力が途切れたのか、音々音は頭を抱えて机に突っ伏したのを見て一刀は後ろから声をかけた。「か、一刀殿!? い、何時の間に……」「少し前からね。 なんだか集中していたみたいだから、声は掛けなかったんだけど」「別に全然良かったのです。 文面は一行も進んでいなかったのですから」肩を落として俯く彼女は、ただでさえ小柄な体躯が随分と小さく見えてしまう。「賈駆殿も、田豊殿も、周瑜殿も、皆素晴らしい知を持っているのです。 三国一だなどというつもりは無くても、多少なりともあった誇りが少し傷ついたです」「刺激にはなったでしょ? 軍師の顔してる時のねねは楽しそうだもん」「それは……まぁ、一刀殿の言う通りなのです」恥ずかしそうにはにかんだ音々音に入れた茶を手渡しつつ一刀は書面に視線を落とす。そこには大まかな戦場のような図解が描かれていた。一口、茶を口に含みつつ書を手にとって尋ねた。「これは?」「我々が候補に挙げた陣地設営の場所なのです。 皇甫嵩殿には既に手渡されていますので、それは防衛図を書いたものでもあるのですぞ」「そっか……寝なくても平気なのかい?」「……眠れないのです」筆を銜えて唇を尖らせる陳宮に、一刀は微笑んだ。「俺もそうなんだ」「ん……一刀殿もですか」「分かってはいるんだけどね、寝なくちゃいけないって」「ねねも同じなのです。 なんというか、余計な事ばかり考えてしまって」「そうだよな、ねねもこうして軍の手綱を握るのは初めてなんだろ?」「うう、情けないのです……周瑜殿も、手綱を握る経験が無いというのに あんなにも堂々としていて。 ねねはどうしても消極的に見える意見しか出せなかったのです」そう言った音々音の体は震えていた。それは他の陣営の軍師に劣っていたという悔しさからではないだろう。勿論、それも含まれているだろうが、言葉の内容とは裏腹に音々音の声に険は含まれて居ない。それは、同じ境遇に身を置いた一刀だからこそすぐに分かった。恐怖だ。意味の分からない恐怖感が、胸を突き上げてざわめくのだ。それは、余計な事を考えさせて、安静を保たせない。彼女の背中を見ていた一刀は思った。この小さな背中に大きな物を背負ってしまった音々音。そんな彼女の震える体を止めてあげたいな、と。自分の体ですら言うことを聞かないというのに、何を思っているのかと思ったがそれでもこれはどうやら、自分の本心だったようだ。なるほど、黄巾党と戦う理由は、なんだかんだと言っても、今この自分の目に映る人であったのか。この世界で初めて自分に真名を預けてくれた人。しばらくの生活は音々音に頼りきりだった。何も知らないこの世界の常識を教えてくれて間違えば、諭してくれた。この世界に訪れた自分が苦しいとき、常に傍に居て支えてくれたのはこの小さな背中であったのだ。一緒に旅をして、嫌なことも楽しいこともたった半年といえども共有し一緒に過ごしたこの世界で間違いなく自分にとって大切だと言える人。命の恩人であるから一刀と共に居ると彼女は言うが、一刀からすれば音々音こそが命の恩人だ。「なんだ、居たじゃないか」「ん、何か言いましたか、一刀殿」「……ううん、なんでもないさ」そうだ。ありきたりで古臭いと言えばそうかも知れない。そんな映画や漫画でありふれた言葉が、今ではとても尊い物に聞こえる。“身近な人を守る為”それならば、今の境遇にも、今の立場にも、不満は抱いても納得はいく。この漠然とした不安感にも、負けないくらいの勇が沸く。何処にでも転がっていそうな理由が、一刀にとっては一番身近に在った。それだけの話だ。「ねね」「なんですか?」「黄巾なんかに負けたりしないさ」「……? 勿論勝つつもりですぞ」「ああ、勝とう。 俺は寝るから、ねねも早く寝なよ」「そうですね……なんだか煮詰まってしまいましたし、今日はもう終わりにするのです」ようやく机から離れて、音々音は凝りをほぐすように左右に首を振って肩を回した。ふぅっ、と息を吹きかけて蝋燭を消してしまえば、月明かりだけが室内を照らす光となった。「ああ、今日は満月だったんだな」「あ、ほんとなのです」「はは、それも分からないほど根をつめる事もないよな」「ん、そうなのかも知れないですな」お互いに視線を交わして、二人は笑いあった。部屋に戻ることを告げて、一刀は音々音の部屋を後にした。「寝れそうか?」「華佗、まだ起きてたのか?」「実際、あまり睡眠は必要じゃない。 一刀に貰った気が充満しているからな」「……そうなんだ」一刀は、どれだけ自分の意識体の一人が気を注ぎ込んだのかを思い出そうとして止めた。何か不穏な映像が呼び起こりそうで怖かったのだ。この恐怖感は黄巾の様には拭えそうになかった。「それにしても、良い顔になった気がする」「え?」「眼が変わった。 何かあったのか?」「……ああ、あったさ」それだけ会話を交わして、一刀は布団の中へ潜り込んだ。何があったのかなどと、無粋な事は聞かない。華佗は暫く布団に潜り込んだ一刀を眺めてから、自分も同じように布団に包まった。しばらく、二人の寝息だけが聞こえていたが、ふいに華佗の耳を一刀の声が打った。「見つけただけだよ、守りたいものが」(そうか……)心の中で華佗は呟き、一刀は先ほどまで眠れなかったのが嘘のようにストンと睡魔に身を委ねることが出来た。この翌日の早朝から、一刀は皇甫嵩から送られて来た報告を受けて慌しく動くことになる。 ■ 外史終了 ■