1
ポケットに突っ込んでいた携帯が震動し、メールの着信を知らせた。
授業中にうつらうつらと舟をこいでいた浩一は、思わず体がビクリとなるのを何とか抑えながら、初老の教師に気づかれる前に手を無造作にポケットの中に入れて固い長方形の物質の外側についているボタンを適当に押した。震えが止まる。
一瞬で覚醒した意識で黒板の前でなにやらよくわからない単語や公式を吐いている白髪混じりの教師を確認し、見つからないようにこっそりと携帯を取り出して机の中に入れた。
再度今教師が立っている位置と自分の席との位置を確認し、死角になったところで音がしないように注意して二つ折りの黒い携帯を開く。
女子が授業中に好意を伝えてくる、あるいはそれに準ずるものでないかと淡い期待を寄せるが、すぐにそれは無いと自分で突っ込みを入れる。女子と何の接点も持たず、携帯のアドレスすら交換していないのにメールが届くはずは無い。友人という選択肢もほとんど無いに等しかった。自分は人付き合いが苦手で友人と呼べる人間が数人しかおらず、その数人もこんな時間帯にメールを寄越す程非常識ではないからだ。
考えられるのは迷惑メールだけだったので内容を確認せずに削除しようとしたが、どうせ聞いているだけで眠くなる授業だったので、退屈しのぎに新着メールのアイコンに決定ボタンを押した。
一瞬にして液晶がメール画面へと変化し、差出人とメールの題名が表示される。
【差出人 : GM RE : ゲームへの強制参加のお知らせ】
これだけを見るとどこかのゲーム会社の宣伝のようだった。ゲーム、という単語に興味を惹かれた浩一はもう一度決定ボタンを押して本文を開いた。
【貴方はゲームへの参加を強制されました。このメールを確認されましたら、空メールを返信ください】
ひしひしと感じる送り主からの策略には嵌るまい、と一旦顔を上げた。空メールを送れば間違いなく更なる広告の数々が殺到してくるからだ。
しかし削除を実行しようとした親指はその意に反した行動を無意識的にとっていた。画面を見ていないので結果はもう一度下を向かないと確認できないが、今頃携帯は空メールを返信している最中のはずである。
脳内でこんな古典的な手にまんまと引っかかってしまった自分を罵りながら、これから何が起こるのか心の中で期待が膨れていく。どうせ大した事はないだろうが、刺激を与えてくれればそれで十分だった。迷惑メールや宣伝メールが送られてきた時はアド変をすればいいだけだ、と楽観的に考える。
世の中は自分が想像している以上に退屈で窮屈だ、と感じ始めたのは中学生の頃だった。ナンバーワンよりオンリーワンという言葉があるが、それが通じるのは一般的な能力を持つ人の間だけだ。腕力や運動神経等といったものが先天的に備わっていないとスポーツは楽しいとは思えないし、顔のつくりや体格などの容姿が良くなければ異性に話しかけることはおろか同性にすら馬鹿にされてからかわれる。それが十年以上生きてきて、スポーツをすれば落胆され、友達を作ろうとすれば苛められかけた経験のある浩一が出した結論だった。
授業の終了を知らせるお決まりのチャイム音がスピーカーから教室全体に響いた。携帯を開いたまま机の奥に押し込み、《個》から《集団》へと姿を変えるクラスに溶け込む。起立した後、やる気の無い声で挨拶をして下げたくも無い頭を周りに合わせて下げる。
昼休み前最後の授業を受け終えたクラスメイトが楽しそうに駄弁りながら各々の昼食を取り出す。その中に自分が加わっている妄想を刹那の間だけして、虚しくなりながら閉じた携帯と自分の持ち物が入ったバッグを持って一人教室を後にした。
決して高いとはいえない背を猫背のようにして丸め、出来る限り存在感を消した浩一が向かったのは屋上だった。気候が暖かくなれば絶好の昼食スポットなのだが、初冬で木枯らしが容赦なく吹き付けるこの季節では滅多なことでは人が来ない。特に浩一がいる校舎ではその風を遮る物がほとんど無いため、冷えた鉄のノブを回して開けたドアの向こう側には案の定誰もいなかった。
最近は掃除の生徒もサボるようになったのか、それともこの時期清掃をやっていないかは定かではないが、冬限定の浩一の隠れ家は汚れが目立つようになってきていた。コンクリートの上に直接座り、バッグの中からコンビニ弁当と銀色の保温ビンを取り出し、昼食の準備をする。
温かな熱を持った蒸気をあげながらコポコポとコップに注がれていく紅茶に反射して、見たくも無い自分の顔が歪んで目に映った。
自分と同じ嫌そうな表情で向こうから見返すその顔は、生まれてからずっと付き合ってきたものだ。他人からは貶された事しかないのだが、自分で見ると特徴の無いどこにでもいる平凡とした顔に見える。他人との意見の食い違い。それだけで自分の美的センスの無さがわかってしまうというものだ。
一時はこの顔をどうにか変えていこうと、顔面マッサージやテレビで紹介された方法などを藁にも縋る思いで実行してみたが、どれも目に見えた効果は出ずに断念していった。逆に悪化したような気がしないでもなかった。
だから浩一はこの現実で何かを得ようとすることへの積極性を失っていったのだ。
紅茶をちびちびと時間をかけて一杯飲み干して息を吐くと、白い息が雲のようにふわふわと漂い、すぐに霧散する。それを何度か繰り返して、馬鹿らしくなった浩一は頭を掻いて割り箸を手にした。
「いただきます」
癖になって抜けない言葉を独り言のように呟いて、冷めきってしまっている弁当に手をつける。父から毎日のように貰っている少ない食事代で買えるものはあまり無かったので、必然的に質・ボリュームともに貧相だった。質は我慢すればどうとでもなるが、ボリュームが足りないのは非常に困る。どうせろくに聞いていない授業だが、授業中に腹の虫が鳴り響いたら大変なことになるからだ。
しかし結局どうすることも出来ないので、中身の無くなった弁当箱をビニールに入れて口をきつく縛り、紅茶をゆっくり飲みながらぼんやりしていると、不意に鳴らないはずの足音が聞こえてきた。よりにもよって近づいてきている。どうしたらいいかわからずに呆然としている間にも足音は大きくなる。
パニックになって隠れるところを探すが、障害物の無い屋上に隠れる場所など有る筈が無く、反射的に荷物を抱えて出入り口のドアから一番距離がある隅に走って座った。無論誰が来るかを見るという愚行は犯さない。しっかりとドアに背を向けている。
がちゃ、とノブが回される音がする。寒さとは関係なく手が震え、平然を装って飲んでいる紅茶が一滴零れた。頬を伝わって、やがてコンクリートに染みをつくる。
だがドアを開けて入ってくる気配は無い。もう一度ノブが回される――が、やはりドアは動かなかった。
ノブを回している人が何をしたいのかわからず、丁度良いBGMを聞きながらまだ半分ほどもある紅茶をコップに注ぎ足した。
やがてノブを回す音はドアの上半分に取り付けられているガラスをノックする音へと移行した。遠くからなので聞き取れなかったが、何かの呼びかけが聞こえてきた。
「あ…………誰…………か?」
誰が聞いても好印象を受けるかわいらしい女声だった。それは浩一も例外ではなく、コップを置いて立ち上がって導かれるようにドアへと歩いていく。身の程を弁えろ、と冷静な部分の随分現実的な警告に一瞬足を止めるが、それでも不思議な力に引き寄せられているように凍えている足を音も立てずに動かした。
「すいません、そこに誰かいますか?」
近寄った為に今度はその声を正確に聞き取ることが出来た。だが、そこで重大な問題が発生した。この声に答えていいのか、という問題だ。
もし自分が俳優顔負けのイケメンであれば何の躊躇いも無しに返事をしていただろう。しかし自分がそうでないことの自覚を嫌というほどしてきた。
この声から浩一が生み出したイメージは綺麗な美少女である。そんな美少女に自分の顔を見られて幻滅してもらいたくない。いくら自覚していようが、コンプレックスを抱えている身としては辛いのだ。
そんなことを一々気にする人が少ないのはわかっている。だからこそ、万が一が恐い。その万が一を経験したことがある身としては尚更のことだ。
葛藤していると、またガラスがノックされた。どうしたらいいかわからずに自棄になって、気がついたら声を出していた。
「は、はい。はい、はい、はい」
動揺が思いきり言葉に出てしまったのか何度も返事をしてしまい、こんなときぐらい落ち着いて対処できない自分に腹が立つ。
「あ、ごめん。開けてもらってもいい?」
「わ、わかった」
ドアが開かなかったのか、と納得してさして重くも無いドアを開けた。浩一からすれば自分の方に引く型のものだったので、無駄だと知りつつもドアの陰に隠れた。
実際それは完全に無駄だったようで、ドアを回り込むようにしてその人物は現れた。不覚にも目が合ってしまったので、後は端正な顔が歪むことの無いように祈るしかなかった。
「開けてくれてありがとう。二年の浩一君……だよね?」
「は……はぁ……」
突然こんな所に来た、ニコニコと陽だまりのように微笑む少女に生返事しか出来なかった。見とれて頭が働いていなかったといってもいい。イメージとは違ったが、美少女に違いは無かったのだから。
長いストレートの髪を颯爽と靡かせ、その間から垣間見ることが出来る白い肌。その瞳はどこまでも澄んでいて、一瞬で彼女に魅了された。
「私も同じ二年の優奈。よろしくね」
「えっ……よろしく? それになんで俺の名前を知って……」
「同じ学年だもん、接点は今まで無かったけど名前ぐらいは知ってるよ」
「そ、そうだったんだ……。ごめん」
「別に謝らなくてもいいのに。私のクラスと君のクラスは別校舎にあるから面識が無いのは当然だしね」
いつの間にか離していたドアが音を立てながらひとりでに閉まった。一段と強い木枯らしが吹きぬける。浩一はもう随分と前に慣れてしまっていたが、優奈にとっては身を切るような寒さだ。実際、凍えて微かに震えているのに目ざとく気づいた。
いつかドラマで見たときのように学ランをそっとかけてあげるべきかと考えたが、こんな男が着ていたものをこんな美少女に渡すのは酷かもしれないと思いとどまった。
「紅茶、飲む? 体、温まるよ」
「え、いいの?」
「勿論。ちょっと待ってて」
端に置いていたバッグの中から紙コップを一つ取り出すと、中が汚れていないかを確かめて紅茶を注いだ。それを手が触れないように優奈に渡す。
優奈はその紙コップをやわらかそうな両手で包んだ。そのまま口元にもっていって傾け、小さく開けられた口に熱を持った少量の紅茶が入っていく。口に入れた紅茶を飲み、気持ちよさそうに息を吐いた。
「温かい……。ありがとう、君は優しいんだね」
「……え……?」
優しい、久しぶりに聞いたその言葉はすぐにきちんとした意味で頭に入ってはこなかった。戸惑いの言葉が口から漏れる。そんな言葉を最後にかけられたのは、中学のときのいじめっ子からパシリにされていた時に皮肉で言われたときだっただろうか。
優奈は紙コップに入った紅茶が無くなった後も屋上から出る気は無いようだったので、端に放置されていた荷物と一緒に保温ビンも掴んで優奈のそばに丁寧に置いた。手からは汗がにじみ出ている。
「ここは冷えるから、座ったほうが寒さをしのげるよ。汚れてるけど、払えば落ちる程度だから」
出すぎた真似かもしれなかったが、それでも声をかけた。神様の気まぐれで一度だけ面識が許されたのだ。別校舎で接点が無い、という点が浩一に勇気を与えていた。
「そうだね、寒いから座っちゃおうか。横、お邪魔するね」
「え……あの、その……」
優奈は浩一の隣に来て、手で足を組んで座った。その目に映っているのは、屋上から見える風景ではなく、まだ立っている浩一だった。鼓動が高鳴りを始める。
「紅茶、もう一杯もらってもいいかな?」
「あ、うん。たくさん余ってるから、好きなだけいいよ」
自身も覚悟を決めて同じように座り、空になった紙コップに再び紅茶を注いだ。ついでに自分のコップにも入れておく。
望めば肌が触れ合える距離にまで接近している優奈に体が熱くなるのを自覚して、それを誤魔化すように紅茶を一気に飲み干した。焼けるような熱がじわりじわりと体の中を侵食していく。
「浩一君。君に一つ聞きたいことがあるんだ」
紅茶をすすりながら優奈が尋ねてきた。その対象が自分だということに疑問を抱くが、それでもこうして並んで話せることに嬉しさを感じる。ただ気恥ずかしくなって顔は逸らしてしまった。
「聞きたいこと? 答えられるかはわからないけど……、それでもいいならいいよ」
勉強のことを聞かれたところで見るからに頭がよさそうな優奈の質問に答えられるわけが無いし、ファッションのことを聞かれても美的センスという才能が備わっていない浩一には答えようが無い。しかし質問は危惧していた類のものではなかった。
「さっきの――四時間目の授業中にさ、メールが届かなかった? 宛名がGMのメール」
「届いたよ。ゲーム参加の強制、だっけ」
「…………届いてたんだ……。もしかして、空メールもしちゃった?」
「……うん。もしかして、したら不味かった?」
「……………………」
答えは長い長い無言だった。対応を間違えて怒らせてしまったかもしれないと、おそるおそる優奈の顔を視界に入れる。表情は微笑んでいなかったが怒っているというわけでもなく、読み取れない複雑なものをしていた。
気まずくなった雰囲気を和ませようと頭をフルに回転させるが、でてくるのは下らないものだけで妙案は一つたりとも浮かばない。何故こんなことになったのか理解できない以上、動きを待つことにした。
ほどなくして優奈は無言のまま立ち上がった。つられて浩一もそれに続く。二人はそのまま正対した。
優奈の口が開かれる。そこから言葉が出てくるかと待ち構えたが、深く呼吸しただけだった。深呼吸を何度も繰り返した後、決意が宿った瞳で浩一を見た。
「……浩一君」
「え~と、どうしたの?」
「……浩一君、ごめん」
「俺には事情がわからないけど、謝る必要は無いよ」
「駄目だよ。これから私は身勝手なことを言っちゃうんだから」
半歩足を踏み出した。もともと遠くない距離は、密着といっても遜色ないくらいまで縮まった。空気を読まずに一層音を大きくした鼓動が彼女に聞こえてないか、本気で心配する。
優奈は真剣そのものだった。浩一はそれを見て姿勢を正した。
「浩一君、私と一緒に――巻き込まれてくれない?」
「…………」
何に? なんで俺にこんなことを? 巻き込むってどういう?
という疑問が次々に生まれてくるが、驚愕の所為か言葉として紡がれることはない。
「初対面なのにこんな事を頼んでごめんね。でも、君にしかお願いできないんだよ」
「俺にしか?」
「そう、君にしか。あ、もちろん断ってもいいから。でも――」
もし、その気があったら、明日の昼休みに図書室に来て。
それだけを言い残して、優奈は去っていった。
彼女が浩一の視界に現れて、話した時間は十分にも満たなかっただろう。自分の頭がやられてしまったか、いっそ幻覚を見ていたのだとすら思える、とても非日常的な出来事だったが、しかし、バッグの中に常備している紙コップは確かに一つなくなっていた。
昼休みは後二十分近く残っていたがここには居る気がせず、屋上から出た浩一は教室に戻ってぼんやりと椅子に背を預けていた。頭の中では、屋上での五分間が途切れることなく連続再生されていた。全てを包み込んでくれるような雰囲気を出しながら優しく微笑んだ少女。あの美貌と性格だ。ここから東に位置する校舎ではマドンナ的扱いを受けているに違いない。いや、人付き合いをしてこなかった浩一が知らないだけで、このクラスでもなっているかもしれない。
午後の授業はいつもに輪をかけて身が入らず、いつの間にか今日の授業は全て終了していた。それに気がついたときには既に教室には自分ひとりしか存在せず、緩慢な動作で机の中にあった教材をかばんの中に入れ込むと、ふらふらとした足取りで学校を出た。
帰路に着いている時も半覚醒状態で、何度も知らない間に立ち止まってしまった。寒さが無ければ夜になるまでずっと突っ立っていたかもしれない。
学校からそう遠くない自宅に帰りつくと、浩一は真っ先に二階にある自分の部屋に向かった。家からは誰の気配もしない。物心つく前に母は他界してしまったので父との二人暮しだが、父は仕事でいつも遅く、帰ってこない日も頻繁にあるのでこの家に誰かが居るはずが無い。
隅に置いておいたビニール袋の中からインスタント食品を取り出して、学校に行く前にあらかじめ用意しておいたお湯をかけ、出来上がったものを炭酸飲料と一緒に胃の中に入れた。ゴミを片付けて制服のままベッドに横になる。
いつもなら今からパソコンの電源を入れて登録してあるサイトを巡回し、その後は廃人クラスにまでやりこんでいるオンラインゲームをプレイして、余韻に浸るように宿題を適当に終わらせるのだが、今日は何かをする気力が湧いてこない。
睡魔はいつまで経っても襲ってこない。ボーっと、あの屋上での夢のような出来事が頭の中でグルグルと回り、夢と現実の境界線に立っているような心地だった。
私と一緒に――巻き込まれてくれない?
その言葉の真意を推測することなど不可能だった。だが、何度も何度も耳の奥で反響するように残っている。
何の刺激も無く、だらだらとゲームに現をぬかしていた浩一には、それが現実世界で記憶に残る久しぶりの出来事だった。だから余計に心に強く残っている。
ようやく眠気が出てきた頃には既に十一時を回っていた。帰って来たのが七時だったので、あれから四時間もこの状態でいたことになる。
目をつぶって夢のなかにダイブすると、そこではゲーム世界の住人のような格好をした優奈が浩一と背中合わせになっていた。制服姿しか見たことが無いのに、その優奈は妙に様になっていた。そして、二人で何かに立ち向かっていく中で浩一に囁くのだった、一緒に頑張ろう、と。
2
夢だったのかもしれない、いや、あの昼休みの出来事は夢でないほうがおかしい。
翌朝、いつもより遅い時間に目を覚ました浩一は、くしゃくしゃの制服を着替えることも寝癖を直すこともせずにそう思いながら登校通路を走っていた。
毎日うんざりするほど見ている風景は今日も変わっていない。ここ一帯は比較的人口密度が高いほうだが、浩一は人ごみの中を縫うように移動する。途中コンビニによって今日の昼食を買って、また駆け出す。毎朝のことだけあって学校までスピードを落とさずに来ることができた。教室に駆け込むと、ギリギリのタイミングでチャイムが鳴る。
遅刻しなかったことに胸を撫で下ろし、一番後ろにある自分の席についた。クラスメイトの若干の視線を集めるが、すぐに飽きたのか前に向き直る。
今授業をしている教師は怠けているとしつこく説教をされるので、周りに合わせてノートだけはきちんととっている。黒板を書き写しているだけで内容は頭に入っていないのは言うまでも無いが。
昨日は十分に睡眠時間が取れたので机に突っ伏すことなく最初の授業を終え、その後も集中していない間に次々と時間が過ぎていく。頭が働いたのは昼休み前最後の授業の終了を知らせるチャイムが鳴ったときだった。
通常通りいそいそと教室を出て行くが、その手には何も握られていない。昼食が入ったバッグは机の横に掛けたままだった。
向かったのは屋上ではなく、四階、生徒会室に隣接する図書室。
この学校に入学してきてから一度も利用したことは無かったが、他の学校とは比べ物にならないほど大きいということは知っていた。人を知性的にするためには本を読むこと云々等という、説教じみたものを週一である全校朝礼の度に聞かされているだけあって金を相当つぎ込んでいるようだ。
音を立てないようにドアをスライドさせて中に入ると、見るからに上等そうな長机が手前に、仕切りがしてある個室テーブルが奥に配置されていた。左右の壁に沿うように設置されている巨大な棚に膨大な量の本が入っていることは言わずもがなだ。
昼休みが始まったばかりということで図書室にいる人数は少なかったが、その中でも口を開いて喋っている者は少数で、内容も勉強のことか本に関することだった。確かにこれなら図書室に足を運ぶ度に頭がよくなりそうだったが、それよりも先に発狂してしまう自信があった。
浩一は中央まで歩きながら辺りをキョロキョロと見渡したが昨日の少女はいなかった。個室のほうまで歩いていき、一つ一つ覗いていく。
「……いないじゃん」
やっぱり、昨日は幻覚を見ていたんだ――そう確信した、そのときだった。
司書が本の貸し借りの為にいる長机側とは反対、つまるところ個室が配置されていた方の奥のドアがゆっくりと開いたのだ。そこからにゅっと細く綺麗な手が出てきて、こっちだよ、と言っているような仕草で誰かを手招いている。数秒間の後、手が引っ込んでドアが閉まる。
あれが優奈の手であるという根拠は全く無かったが、躊躇せずにそこへと進んだ。例え違ったとしても一言謝ればそれで済むからだ。幸いなことにまだ疎らにしか人がいないので注目を浴びる恐れも無い。ドアを軽くノックする。
「浩一です。優奈さんはいますか」
「いるよ。今開けるね」
その部屋は図書部に所属している人だけが自由に使える空間なのか、飲料物や食べ物の持ち込みが原則として禁止されている筈の図書室だが、机の上にあるバッグから弁当がちょこんと出ていた。その代わり本は一冊も置いていない。ここは本を読む場所ではないようだ。
部屋の中にはもう一人図書部だと思われる女生徒が瞑目していた。寝ているのだろうか。関係ないか、と無視しているとその女生徒から声をかけられた。起きていたようだ。
「あんた誰? なんかここに用?」
「え~っと……」
どう答えようか考えていると、浩一が何か口にするよりも先に優奈が答える。
「彼は浩一君。……レイ、お願い。席を外してくれない?」
レイと呼ばれた女生徒は何かを感じ取ったらしく、いいよ、と答えて荷物を纏めた。その間アクションを起こすわけにもいかず黙ってみていると、去り際に耳元で言われた。
「優奈に変なことしたら……コロスからね」
ドスがきいていた。優奈がクラスのマドンナ的存在だという予想は正解だったようだ。
完全に出て行った後、鍵を二重に閉めた優奈が引いてくれた椅子に座ると、彼女も浩一の正面に座った。
「残念だけど、まだ答えは決まってない。今日は話を聞きに来たんだ。巻き込まれるとか言われても何のことかさっぱり分からないから。選択を決定してからじゃないと教えられないってことなら諦めるけど」
「……そうだね。ちゃんと説明しないと、決められないよね」
昨日の口ぶりから話してくれないかと思っていたが、優奈は小さく首を縦に振って、うん、と呟いた。顔には寂しそうな表情が浮かんでいる。
「浩一君は【VRMMORPG】って知ってる?」
「仮想大規模オンラインロールプレイングゲームの略、だよね」
彼女には似合わない、二次元の専門用語を耳にして、浩一は不審に思った。
VRMMORPG。そのワードを知ったのは、オンラインゲームでPT狩りをしていたときだった。PTメンバーの一人が、これまでに無いほどスケールが壮大なゲームが開発されているという情報を教えてくれたのだ。
「でもそれって結局製造中止になったって聞いたけど」
興味を持ってネットを漁ってみた所、どうやら開発中のものは【精神をそのままゲームの中に飛ばす】というものらしく、科学の進歩に脱帽していたのだが、発売日の三ヶ月前――今から半年前に無期延期という名目で発売を中止したのだ。理由は明言せされず、ゲーマーに期待を持たせるだけ持たせて肩透かしをくらわせたのは懐かしい出来事だ。
「公式的には開発の中止ということになってたんだけどね。実は……製品は出来上がってたの」
「それは売り物に出せるレベル程度にはってこと?」
「そう。いや、そうじゃないのかも。だって製品には欠陥があったから」
「開発費も相当高くついただろうから、出来上がってるなら売り出せばよかったのに。修正ファイルを出せば多少の欠陥なんて不満は出ないと思うよ」
「多少、じゃないの。致命的な、欠陥」
「…………?」
「そのゲームを一度プレイしたら、クリアするまで止めることが出来ない。それが、致命的な欠陥」
「止めれないって、どういう――」
「君は知ってると思うけど、そのゲームは専用のヘッドギアを使って意識をそのまま中に入れるんだよ。つまり脳から送られてくる命令の対象を体からアバタ―へと強制的に変換する。だからゲームの中にいる自分のアバタ―を動かそうとしても自分の体は動かないし、逆に言い換えればどう足掻いても本当の自分の体は動かせない」
話を聞いていて、ある一つの予測をしてしまった。もしその予測が当たっているなら、それこそ国が総出で動かなければ対処できない問題。
「…………」
「…………今話しているゲームの正式名称は《アナザー・ワールド》」
そのゲームには――ログアウト機能が失われているんだ。
あまりにも突拍子の無い話だ。語っている人がこんなに真面目な顔をしていなければ信じることも出来なかっただろう。思わずごくりと息を呑む
「じゃあ、入ったら絶対に出ることは出来ないってこと?」
「……どんなゲームにも終わりがあるように、《アナザー・ワールド》にもゲームをクリアするっていう終了できる唯一の方法があるの」
「……? 売り出すつもりでいたんならクリアできないほど難易度が高いわけが無いと思うよ」
「普通のゲームだったら上手くいくだろうけど、《アナザー・ワールド》ではデスペナルティがとてつもなく重いんだよ。だから、二千人のテストプレイヤーは今まで誰一人クリアできていないの」
「デスペナルティが?」
通常、オンラインゲームにおけるデスペナルティはきついものから緩いものまで多々あるが、その大抵が経験値や所持金・アイテムの喪失、スキル値の減少などである。その程度では二千もいるゲーマー達の障害にはなりえない事が浩一にはわかっていた。自身も廃人並のプレイをしたことがあるから分かるが、後半になって成長していくにつれて死ぬ回数は大幅に減少していくのだ。勿論無茶をすればすぐに死んでしまうが、上級者は死なないための保険をいくつか用意している。回復アイテム然り、転移アイテム然り。玄人であれば、一死もせずにゲームをクリアできることもある。デスペナが酷いと知っていれば簡単には死なないだろう。
そう高を括っていたからこそ、次の優奈の発言に動揺を抑えることが出来なかった。
「《アナザー・ワールド》のデスペナルティは精神の拘束。つまり、一度でも体力が0になると他の誰かがクリアしない限り一生動くことが出来ない――やり直しのきかないゲームオーバーになっちゃう」
「なっ……!?」
「今ゲームの中で活動しているプレイヤーは……五百人前後。それ以外のプレイヤーはゲームの中の囚人になってる。」
「そ……んなことが……?」
「現実の世界にある体は国がまとめて保管して生きながらえさせているけど、精神が戻ってこないから植物人間になったのと一緒。だから考えたんだよ、新たにゲームの中に人を送り込んで、なんとしてでもゲームをクリアさせようって」
「……………………」
「それでね、《アナザー・ワールド》には……本当はそんな設定なんて無かったんだけど、シンクロ率っていうパラメータがあるの。ヘッドギアから出る波長と装着している人の脳波がどれだけ一致、シンクロしてるかでその数値は決まるんだけど、シンクロ率が高ければ高いほど基礎パラメータも高くなる……。ステータスが強さを決めるゲームだから、いくら弱いキャラを入れてもクリアには繋がらない」
「……………………」
「最終的に出た結論は、シンクロ率の高いプレイヤーを《アナザー・ワールド》の中に入れてゲームをクリアさせようっていう無謀にも近い決断だったんだよ。今から一ヶ月前に擬似的な電気信号を全国各地に流して、急遽開発した専用の装置を使って日本にいる人間全員を調べたみたいだけど……」
「…………悪い、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
浩一は強制的に話の流れを断ち切った。彼女の話が信じられないわけではなかった。理論的には否定できる証拠も材料も自分の中に無かったのだから。だが、どうしてもわからないことが一つだけあった。
「優奈……さん、は何でそんな事知ってるの? 話を聞いた限りだと国家・警察・科学者の上層部か、開発社での機密事項のようだけど」
「…………」
こういってはなんだが、一介の高校生である彼女がこの話を知っているのはおかしい。報道もされていない情報を掴むことは、凄腕のハッカーといった特殊な技術を持っている人物でないと難しい。
優奈は暫く口を開かなかった。泣きそうな顔で、涙が出るのを必至に堪えているように見える。とても演技には思えない。
やがて、優奈はぽつぽつと語り始めた。
「私のお父さんがね……《アナザー・ワールド》の開発責任者だったの……。テストプレイヤーが仮想空間から現実空間に返ってこないっている苦情がね……何件も来て、それで……お父さんは私に全部《アナザー・ワールド》 のことを……話してくれたの」
その声は悲哀や苦痛といった負の感情が乗せられていて、聞いていた浩一にも優奈の心情が分かるような気がした。
「無数にやりとりされる信号を通して現状を知ったお父さんは、何とかデータの改変が起きていることに気づいて修正しようとしたんだけど……根本から変えられていて修正できなくなったって……。これ以上ゲームの中を変化させたら、中に入っている人がどうなるか分からないって……。だから……お父さんも中に入って…………」
馬鹿じゃないのか、という言葉を、僅かに残っていた理性と重い雰囲気を最大限活用して押しとどめた。
ゲームの開発責任者ということは例え改変されていたとしても《アナザー・ワールド》について一番多くの情報を有しているはずだ。だったらその責任のとり方は、その情報と技術で遮二無二囚われている人を救う手はずを考え、外から救出するために奔走するべきだ。絶望して、己がゲームの中に入ってしまっては、それこそゲームの外から中の人を助け出すことが困難になる。
「…………………………」
「…………………………」
無言。
優奈は何もいえず、浩一は何もいわない。壁に掛けられたアナログ式時計が奏でる秒針の音だけが場を支配していた。
一秒……二秒……三秒……四秒…………………………。
「にわかには信じがたいんだけどね……。冗談じゃないみたいだし、信じるよ」
無限に続くかと思われた静寂を破ったのは、苦笑混じりの発言だった。
「信じて……くれるの?」
「うん。悪戯にしては手が込みすぎてるし、俺に悪戯を仕掛ける必要性も無いしね」
「……ありがとう。いくら君でも絶対信じてくれないと思ってた」
「いくら君でも、っていうのは買いかぶりだと思うけど。昨日のメールもこの件のこと……だったんだよね?」
優奈は頷いた。
話自体よりも、このゲームへの参加が任意ではなく強制というのが信じられなかった。話を聞いたからある程度の覚悟をすることが出来るが、基本的人権はどこにいったのだろうかと不満を感じずにはいられない。形振り構っていられないのと他人を巻き込むのは全くの別問題ではないだろうか。
そして携帯からのメール。もし携帯を所持していなければ、連絡なしでいきなり拉致されていたのだろうか。いや、優奈は全てを知って近づいてきたようだから、やはり国はこの展開まで予想済みだったのだろう。
昨日の台詞――巻き込まれてくれない――は、強制的にゲームの中に飛ばされる浩一にクリアへの意欲を駆りたてさせる為に発した言葉だろう。つまり優奈は浩一を釣るための撒き餌兼ガイド。
浩一はそう、自己完結をした。浩一はそう、勘違いをした。
「このゲームに参加したら色々現実問題が生じるけど、その分、国からの補助を受けられるらしいから……」
「それを聞いて安心したよ。国からの補助がでるんなら、これからの将来安泰だしね」
重い空気を追い払おうと浩一はふざけて笑った。
これが浩一の人生を完膚なきまでに破壊した出来事の始まり。
人を救うという重大な使命を受けた少年が彩る物語の序章。
それは誰に対して幸運なことなのか。誰に対して不幸なことなのか。
三日後。浩一は命がけのデスゲームに足を踏み入れることになる。
==============================
デスゲーム……なのか?
まぁ似非デスゲームということで。
誰もクリアできなければ精神が「死」ぬので。