普段は人気の少ない、プリシアナ学園北校舎。
その中にあって、最も寂れた場所に保健室がある。
一時期は英雄学課トップが送り込んだ、種族学課もバラバラな亡者共の呻き声が絶えなかったが……
その亡者達も今や完治し、それぞれの実家に戻っていった。
悪魔の恐怖を心底から味わった彼らは、トラウマを抱えたまま復学出来なかったのである。
冒険者としての道に挫折して、学園を去る生徒は、年間相当数に上る。
彼らがそうだったからと言って、特に気にするものはいない。
とにかく彼らは去ったのである。
保険医の悪評と言う、置き土産を残したまま。
「……」
「人、来ませんね?」
「保険医が暇なのは良い事です」
「涙、拭きません?」
「泣いていません」
保険医を務めるリリィは、怪我をした当事者達からは感謝の言葉を受け取った。
しかし彼らが生ける屍となっている時、うっかりと保健室前を通りかかってしまった者は、彼らの呻きをリアルに聞いた。
その悲鳴とも呪詛ともつかぬ声は生徒達の不穏な憶測を呼び、元々悪かったリリィの評判を地の底に叩き落したのだ。
真実を語れる当事者達は、今頃実家で農作業にでも勤しんでいる。
リリィとしては嘆かずには居られない。
生徒に慕われる保険医を目指してきたはずであるが、現実は非常に厳しく彼女に歩み寄ってはくれなかった。
元よりプリシアナ学園は、ジャーナリスト学課に代表されるように情報に敏感な生徒達が多い。
その情報には噂話も含まれ、出だしで陰気なイメージを先行させてしまったリリィには、何時までたっても生徒達が寄り付かないのである。
「ティティスちゃんは、良くこちらに来てくれますね?」
「私先生の事好きですよ? それにエル先輩からも此処の事を頼まれているんです」
「なんて?」
「寂しがり屋の先生が、発作で手首とか切らないように見張っていてくださいねって……」
「お腹の黒い天使の言うことを真に受けると、幸せが逃げていきますよ」
「私も先生に会いたいですから」
「……ありがとうございます」
リリィは自分を慕う、数少ない生徒の姿を見つめる。
金色の宝箱の前で腕組みし、開錠に四苦八苦しているフェアリー。
箱と同じ金の髪を真っ直ぐに伸ばした、青い目の女生徒である。
「ディアーネ先輩も、リリィ先生の事気にしてましたよ? この間タカチホから手紙が届きまして」
「へぇ?」
「はい。保険医の恐ろしさが分かったって何回も書いてあったんですが……」
「恐ろしさ?」
「前にエル先輩からいただいた手紙にも、同じ様なことが書いてあったんですよね……」
「さて、どんな目に遭っていることか」
苦笑したリリィは、既に冷めている珈琲を一口。
しかし不意にあることに気がついた。
リリィは留学に送り出した二人の生徒からは、慕われていたと断言出来る。
そんな二人が、他校では保険医を恐れているという。
そして現状、リリィも学園の多くの生徒から『死神』だの『マッドドクター』だの、不名誉な二つの名をいただいている。
「もしかして、保険医って生徒から見ると恐ろしい存在なの?」
「私は、リリィ先生を恐ろしいと思ったことってないですけど……」
「……思い過ごしかしら」
「先生、先輩方が居なくなって少し寂しいですか?」
「そうですね。あの子達は、私の所に来てくれる貴重な子達でしたから」
「……」
「ええ、そうね。本当は、留学になんか出したくなかったのかもしれません」
言いながら、リリィは自分の中に確かに存在した独占欲を自覚する。
あの子達をウズメにもカーチャにも渡さず、自分の手で導きたかった。
才能との出会いは教師の至福。
其れが自分を慕ってくれていたのだから、尚更である。
しかしそれでは、ディアーネは兎も角エルシェアは大成出来ないことも分かっていた。
だからこそ、リリィとしてはこの学園で最も自分を慕う生徒を……
ある意味で一番手元に置きたかった生徒の留学を押し通したのだ。
「手紙が来るということは、元気でやっているのでしょうね」
「だと思います。先輩方……きっと頑張ってます」
「寂しいですか?」
「……」
リリィの返しに、ティティスは微妙な表情を滲ませた。
寂しいことは間違いがない。
しかし、今の彼女にあるのは焦燥感。
「寂しいです。それに、傍に居てくれないと焦ります」
「置いていかれないかと、このまま帰ってこないのではないか……待つ身の辛さですね」
「……はい」
俯きながらも、手は止めないティティス。
彼女は現在賢者学課に在籍しつつ、講義の半分をボイコットしては保健室で宝箱を弄っている。
一応クエストで校外に出ている扱いなので、単位的には問題ない。
そもそも彼女は、先輩コンビの詰め込み学習と『冥府の迷宮』の強敵との連戦により、賢者学課の単位を相当数稼いでしまっている。
本人にその自覚はないが、今のティティスはプリシアナ学園でも有数の魔法使いであった。
「先輩方は、外でもいっぱい頑張っています。私も頑張らないと……」
「いきは買いますが、焦ると転びますよ」
「はい。その時は先生、止めてください」
「そう言うからには、止めた時はちゃんと止まりなさい?」
「うぐ……」
ティティスは常に憬れの先輩の背中を追い続けている。
しかし二人の足はとても早く、邪魔にならないようについて行くには同じ以上の早さが必要なのだ。
自覚は少女を焦らせ、強迫観念に近い思いで無理することもしばしばだった。
一度など、賢者学課三日分の講義を一夜で詰め込み、リリィが止めるのも聞かずに実戦に向かったことがある。
そして案の定、校舎を出た途端に貧血で倒れ、リリィに背負われて保健室へ連行された。
この一件をエルシェアやディアーネに秘する代わりに、リリィはティティスの体調管理の全権を掌握したのである。
「倒れるまで走るのは、努力ではなく自己管理が出来てないだけですからね?」
「……耳が痛いです」
「まぁ、走ろうともしない子が増えている現代社会においては、貴女の様な生徒も貴重ではあります」
そう言って窓を見たリリィは、誰よりも早く走れた天使を思う。
走った先の勝敗に目を奪われ、走ることそれ自体を怖がるようになった才媛。
やっと飛翔を決意した少女がプリシアナを旅立ち、早二ヶ月。
残暑は緩み、秋の訪れが紅葉や風の匂いの中から感じられる季節になった。
「先輩達、早く帰ってこないかなぁ」
「きっと、直ぐ帰ってきますよ」
そう言いながら、リリィは椅子から立ち上がる。
壁際の窓を一つ開け放ち、外の風を部屋に招く。
秋の風が流れ込み、消毒用のアルコール臭を薄くした。
「今度お会いするときは、もう少し背が伸びているかも知れませんね」
其れは外しようのない予言である。
リリィは背後でカチリと音が聞こえた。
互いに背を向けた格好だが、ティティスが開錠に成功したらしい。
「……」
リリィは白衣の内側に手を入れる。
そして振り返ると同時に音も無く、手術用のメスを高速で投擲する。
刹那の間も置かずに即応したフェアリーは、腰のダガーを抜き打ちで振るう。
金属同士が衝突する澄んだ音が響き渡る。
「『警戒』に弛みが減りましたね?」
「風の音消しと、開錠成功の気の緩み……狙われるかなと予想できました」
「これは、一本取られましたね。明日から本気を出しましょう」
「……台詞だけ聞くと駄目人間の其れですけど、先生には手加減して欲しいです」
常の無表情でそう語るリリィに、頬を引きつらすティティス。
彼女は今、この部屋に居る間は常にリリィに狙われている。
不意打ちに対する警戒を日常レベルで行い、敵意以下の微弱な存在感のようなものまで感知する特訓。
初めは怪我をしないような投擲物であったが、最近は殺傷力があるモノまで普通に飛んでくる毎日である。
その甲斐あってと言うべきか、鋭敏化した五感はティティスの中で六つ目の感覚を育てつつある。
特にフェアリー種族特有の半透明な羽を持って、空気の流れを感じる事が新たな特技になっていた。
生徒の成長に満足し、リリィは窓を締める。
「次は、こっちの青い箱を開けてみましょうか?」
「はい、頑張ります」
「集中して、さりとて周囲を観察して」
「はい」
素直な生徒は、与えられた課題に取り組んだ。
順調な成長は生徒本人にも感じられ、彼女の心を弾ませる。
「その青い箱は、ちゃんと中身がありますから」
「え?」
「開ける事が出来たら、貴女方に進呈しましょう」
「はい!」
貴女方と言ったリリィの言葉を、ティティスはしっかりと受け止めた。
自分が頑張れば、帰ってきた時に先輩に土産が出来るのだ。
俄然張り切るティティスに、リリィのメスが再び飛ぶ。
ほぼ無意識の動作で正確に其れを叩き落し、妖精は開錠に没頭する。
その様子を見て苦笑するリリィ。
盗賊のスキルである『警戒』は、申し分ない領域である。
しかしリリィも甘くない。
ティティスは今後一月、この箱一つ開けるのに全てを費やすことになるのであった。
§
プリシアナ学園生徒会長であるセルシアが、保健室を訪れたのは特に意味のある行動ではない。
彼はこの日、知り合いの受けたクエストの付き添いで、ドラッケンとタカチホの両学園に向かうことになった。
その時、現在プリシアナ学園から両校に留学している知人を思い出し、更にこの学園で居残りをしている、彼女達のメンバーがいる事を覚えていたのだ。
戦力的には、彼のパーティーだけでも他校への道のりは容易いだろう。
しかし余裕があるからこそ、彼はティティスが望むならば、彼女をエルシェア達の元へ連れて行っても良いと思った。
最も、特に親しいわけでもない相手であるし、約束を取り付けていたわけでもない。
エルシェア達が溜まり場にしていた保健室を覗いて、ティティスが居れば誘ってみる。
断られても問題は無く、彼としてはちょっとした気遣いの域を出ない行為であった。
「それにしても、彼らの反応は何だったんだろうね……」
セルシアが首を傾げるのは、その考えを告げた時の彼の友人……
バハムーンのバロータと、エルフのフリージアが驚愕したような視線をくれた事である。
バロータは兎も角、フリージアはセルシアと主従関係を結んだ仲である。
既に一流への道を歩み始めた執事であるフリージアが、主にそうとはっきり分かるほど驚くというのは珍しかった。
思い当たる節のないセルシアは、一つ首を振って思考を切り替える。
保健室の扉が見えたからだ。
「失礼します」
天使の少年はそう前置きし、スライド式の扉に手を掛ける。
彼が以前此処を訪れたのは、冥府の迷宮探索前にリリィに挨拶に来たとき。
その時は偶然鉢合わせたエルシェアと、答えの見えない会話を交換したものである。
「あれ……会長?」
「いらっしゃい、セルシア君」
「……貴女方は、何をなさっているのですか?」
セルシアが見たものは、行儀悪く保健室の床に座って宝箱の開錠に勤しむフェアリーの少女。
その周囲には数本のメスが散乱している。
そして彼の目の前で、リリィの右手が鋭くぶれた。
「ん」
間髪入れずに、そしてリリィの方すら見ずに妖精の少女はダガーを振るう。
弾かれたメスは偶然に、セルシアの方へ飛んだ。
幸いにして軌道はそれ、顔の横の扉に突き刺さったメス。
それはリリィの獲物が、間違いなく本物の刃物であることを否応無しに理解させた。
「お気になさらず、どうぞ会長」
「いや、気にするなというのも無理な話だろう?」
「唯の警戒訓練です。宝箱に集中しながら辺り一帯に意識を配るんです」
「今時の盗賊学課は、そういうことを教えているのかい?」
「いえ……私賢者学課辞めてないんで、ちょっと本職の方の訓練は存じ上げないんです」
「……そうか」
セルシアのパーティーに盗賊学課履修者はいない。
それ故に、彼はこの訓練が通常のモノと納得してしまう。
リリィが表情を崩していないこともあり、セルシアは違和感を無理やりねじ伏せた。
「いらっしゃいセルシア君。今日は何処か……悪いわけでは無さそうですね」
「はい。お蔭様で健康です。今日は、此処に来ればティティス君に会えるかと思いまして」
「私ですか?」
小首を傾げ、セルシアの方へ向き直るティティス。
彼女にはセルシアが尋ねてくる理由が思いつかない。
しかしリリィは何かを感じ取ったらしい。
一つ咳払いして間を置くと、やや照れたように尋ねる。
「もしかして、私は席を外したほうが宜しいですか?」
「いえ? 別に構いませんよ」
告白の類かと勘違いしたリリィは、席を外そうとするが止められる。
年頃の少年であるにも関わらず、セルシアには浮いた噂が一切ない。
情緒的にそれもどうかと思っていたリリィは、遂にこの時が来たかと思ったのだが……
リリィの思考を他所に、セルシアはティティスと向き合った。
座り込んで箱を弄るティティスと目線を合わせるため、片膝をついて跪いたのは彼の礼儀に寄るものである。
「ティティス君、ちょっといいかな」
「はい」
箱を弄る手を止め、立ち上がる。
同時に制服の埃を払うと、セルシアも微笑して立ち上がった。
「実は、僕は今日の午後からクエストでしばらく校舎を空ける」
「はぁ……」
「そのクエストというのが、ドラッケン、タカチホの両校に行く用事でね。上手く回るとドラッケンだけで澄むんだけど」
「えっと、どんなクエストなんですか?」
「知人の弟が、その両校でコンサートを開くらしい。彼は弟に会いたいらしくてね。一応他校の門を潜ることになるし、僕も同行を申し出たんだ」
きょとんと小首を傾げるティティスは、小動物的な愛らしさがある。
常にセントウレアの弟であった彼には、下の兄弟を知らない。
或いはエルシェアも、この妖精少女を妹のように思っていたのかもしれないと考え、自然と表情が穏やかになった。
「人を探しながらになるし、あっちについてもゆっくりはしていられないと思う。だけど、もしかしたら……」
「先輩に会える!?」
「可能性はあるよ。最も、あちらに話を通してもいないし、クエストで出てしまっているかもしれないけれどね」
急にそわそわと落ち着かな気に、視線を彷徨わせる少女。
何を考えているか、傍で見ている二人には手に取るように分かる。
その性根にサディストの気は無いセルシアは、直ぐに望む言葉をかけてやる。
「どうかな、もし良かったら僕達と来ないかい?」
「はい! ご迷惑でなければ、ご一緒させてください」
「うん、是非よろしく。僕らのパーティーには盗賊がいないからね。頼もしいよ」
「私は……正式に履修してないから亜流で、しかも俄か仕込ですけど……」
そう言って俯くティティスを他所に、セルシアは青い宝箱と周囲に散乱するメスを見る。
そしてリリィと視線を合わせ、保険医が苦笑して頷くのを確認した。
「君の訓練を見せてもらった感想だと、十分実戦で通用するよ」
「そ、そうでしょうか?」
自信無げに保険医を見上げる妖精。
リリィは無表情のまま頷き、ティティスの髪を撫でてやる。
「此処で学んだことが、外で通じるか試す機会です。通じなかったらそれはそれで、課題が浮き彫りになるでしょう」
「……はい!」
決意を込めて頷くと、再びセルシアに向き直るティティス。
瞳には静かな決意が秘められ、真っ直ぐに少年を捉えた。
「よろしくお願いします、会長さん」
「ああ。出発は今日の午後一だけれど、大丈夫かな?」
「はい……あ、この箱持って行っていいですか?」
「別に構わないけど、何が入っているんだい?」
「まだ開けられないので、分からないんですよ……」
相当に梃子摺っているようで、ティティスの表情が暗くなる。
出先でも練習するに違いないと悟った少年は、熱心な後輩に一つ頷く。
「頑張ってね」
「はい!」
ティティスは元気に応えると、準備をすると言い残して学生寮へ走り去る。
集合場所を告げる暇さえなかった。
唖然として佇む生徒会長に、保険医が苦笑して椅子を勧める。
恐らく羞恥で顔を赤くして、妖精が戻るまでは暫くあるだろう。
リリィはデスクから便箋と封筒を取り出すと、留学している堕天使へ送る手紙を書き始めた。
§
このクエストの依頼人は、アイドル学課所属のエルフ、ブーゲンビリアである。
彼は可愛い路線を目指したアイドル志望だったのだが、何を間違えたか筋骨隆々の逞しい青年へと成長してしまう。
エルフの規格を嘲笑うかの如く変身(としかいえない)を遂げた彼には、同じアイドル志望の弟がいた。
ほぼ一年前にプリシアナ学園を飛び出した、その弟の名をアマリリスと言う。
幸いな事に兄に似ず、見目麗しい美少年の形態を維持し続けるアマリリス。
学園在籍時代は兄弟仲睦まじかった彼らだが、此処最近では音信不通の状態である。
ブーゲンビリアとしては可愛い弟である以上、あって色々と話したいことがあるらしかった。
「そういえば……エル先輩って、ブーゲンビリアさんとお友達みたいでした」
「マジかよ?」
「はい。前に少しそんな事をおっしゃってらして」
現在ドラッケン学園への道のりは、セルシアのパーティーが先行している。
ブーゲンビリアは依頼主だが、彼らのパーティーの一員であるレオノチスに、戦士学科の追試が入ったのだ。
流石に置いて行く事は出来ず、さりとてアマリリスを補足出来ねば意味が無い。
二パーティーの代表は話し合った結果、セルシアが先行してドラッケンへ向かう事になった。
其処でアマリリスに会えれば、ブーゲンビリアの到着まで引き止めておく為である。
「まぁ、ブーゲンビリアはあのなりだが、それ以外はいたってマトモだしなぁ」
「そのなりが、致命的な領域だと思わなくも……」
「ハハ、違いねぇわ」
バロータはティティスの発言を豪快に笑い飛ばし、全身で頷いて同意した。
このフェアリーは道中、よく隣を歩くバハムーンの少年と会話している。
ティティスとしては種族相性からか、ややバハムーンを苦手としているのだが……
バロータには、竜族特有の気位の高さが無い為親しみやすい。
また、セルシアやフリージアが何処と無く近寄りがたい雰囲気を持っているため、自然と庶民的なこの竜族はティティスの精神安定剤になった。
「でもブーゲンビリアさん、やっぱりエルフさんですよね。顔の彫りも深いし、色も白いし……路線変えれば人気出ると思うんですけど」
「お、お前さん通だねぇ。いや、俺もそう思ってんだよ。ビジュアル系のロックとか行きゃ良いのに……あえて茨道行かないでもなぁ」
「弟さんを探していらっしゃるんですよね?」
「ああ。あいつら学園じゃ、仲も良かったらしいんだ」
「今は、良くないんですか?」
「弟がいきなり飛び出しちまって、音信不通だったらしいぜ。今回はやっと見つけた手がかりって奴さ」
ティティスの問いに、口調以外は丁寧に答えるバロータ。
彼は美少女には優しいナイスガイを自称している。
特にティティスは性格が素直な事もあり、バロータにしても好ましい少女だと思える。
少年がちらりと前を行く親友二人に目を向ける。
セルシアとフリージアもそれぞれに話をしているようだが、偶にフリージアがこちらに視線を投げていることに気がついた。
「……」
バロータとフリージアには、共通の興味がある。
それはセルシアが気にかけた、この妖精の少女の事。
二人が知る限りセルシアは、絶対的な価値観をセントウレアに据えている。
そして究極的には彼以外が全く見えておらず、只管に『兄のようなセレスティア』という目標に邁進しているのである。
セルシアにとって学年首席と生徒会長の地位は、その道筋の付属物に過ぎない。
最も高い所を目指しているのだから、途中にあるものを得るのは当然のこと。
セルシアとしてはその様なものに全く価値を見出していない。
しかし何事も完璧主義のセルシアは、与えられた社会的立場を弁えてこなす事も出来た。
プリシアナ学園の生徒会長として―――
この思考法だけが、セルシアの本来乏しい社交性を、非常識の領域からかろうじて救い出している。
かつてエルシェアとディアーネが語ったように、セルシアは他人に興味が無かった。
そんなセルシアが、ティティス個人を認識して気にかけたと言うのである。
幼馴染と呼べる程に長年連れ添ってきた彼らにとって、正に驚愕の事態であった。
バロータは異分子から主を守るように警戒しているフリージアに苦笑する。
ティティスとしても、フリージアから好意的な雰囲気は感じられず、また好意的にする理由も無いので気にしてはいなかったが。
「寒くなってきましたね」
「もう秋だからなぁ……しかし運が良かったぜ? もう少し冬が近かったら南回りでドラッケンまで行かねぇとだったからな」
「その時は、もうタカチホで待ったほうが良かったでしょうね」
「違いないな」
北周りでドラッケン学園を目指す一行。
『歓迎の森』から『ローズガーデン』を経由して『約束の雪原』を抜ける。
更に北上して『スノードロップ』の町から『断たれた絆の道』の先に、目的の学園がある。
彼らの旅路は非常に順調なものだった。
ティティスは豊富な魔力を駆使し、魔物の大半をほぼ一発の範囲魔法で一掃してしまう。
最初はフリージアからガス欠を心配されたが、ティティスは特に息を上げることなく魔法の行使を繰り返す。
フェアリーの消耗が心配ないのなら、効率が良いことは確かである。
初日を余裕でついてきた後は、フリージアも何も言わなかった。
この日もティティスは蜂の大群を『ビッグバム』で吹き飛ばす。
「相変わらず、呆れる程の手際ですね」
爆風でずれそうになる眼鏡を抑え、苦笑するエルフの少年。
フリージアは妖精の、浪費とも取れる魔法に肩を竦める。
大味な一掃は彼の好みではない。
必要な敵に必要な魔法を必要なだけ行使する。
その見極めがこそが魔術師の完成度だと思っているこの少年は、光魔術師学科専攻だった。
「早く着いた方がいいと思いまして」
にっこり微笑む少女は、十数匹の魔物を消し飛ばした魔術師には見えなかった。
セルシアはその様子を見て、顎に手を当てて首を傾げる。
「ねぇ、ティティス君。君ばかり働かせて申し訳ないのだけど、ちょっといいかな」
「はい?」
「うん、君の魔法は見事なものだよ。それを認めたうえでの質問なんだけど」
「何でしょうか」
「……エルシェア君は、今の君より強いのかな?」
反射的に即答しようとしたティティスは、セルシアの目を見て息を呑む。
世間話のような口調で問われた割に、彼の眼は全く笑っていない。
表情も非常に真剣で、ティティスとしては言葉の意味を吟味せずには要られなかった。
「事、魔法の分野においては……堕天使より賢者の方が優れていると思います」
「ああ、そうだろうね」
「ですが、私はエル先輩の影を踏むことは出来ていないと考えています」
その答えを聞いたときのセルシアの表情は、ティティスには変化が無かったように思う。
実際に、天使の少年は眉一つ動かしていなかった。
傍に控える友人二人が、その変化に気がついたのは年季としか言いようが無い。
バロータとフリージアは素早く視線を交換し、互いの胸のうちに抱いた回答を確かめる。
セルシアの内面は、おそらく歓喜。
「そうか。君も強いけど、彼女はもっと強くなったか」
「はい。私の先輩は、強いですよ」
私の、と言う部分を強調した妖精。
そんなティティスの様子に満足したように頷くと、セルシアは再び歩き出した。
「行こうか」
「御意」
「おう」
フリージアとバロータは迷うことなくその背に従う。
ティティスも慌てて後を追った。
種族柄背が低く、少しの遅れが大きくなってしまうのだ。
一度振り向いたセルシアが、ティティスを確認する。
「フリージア、何時までも客人だけに仕事を任せるのも不甲斐ないな」
「はい」
「バロータ、お姫様を頼んだよ」
「任せな」
急にやる気を出したような男性陣により、慌しくなったパーティー。
セルシアは本来、仲間に守られて引きこもるリーダーではない。
彼の本質は、仲間の先頭に立って率いて行くことである。
「私、余計なことしちゃってました?」
「いや……よくやってくれたのかも知れねぇ」
ティティスは不意に活気付いた様子のセルシア達を見つめている。
バロータはそんなティティスの頭を乱暴に撫でる。
特に意味のある行為ではないが、背の低い妖精の頭はバハムーンにとって撫でやすい所にあったのだ。
やや不満げに見上げるティティスに、バロータが苦笑を返す。
「わりぃな。代わりに此処から楽させてやるから勘弁してくれ」
「楽?」
「ああ。まぁ見てな……うちの大将の本気をさ」
ティティスは一人息を飲む。
彼女が憬れる天使と悪魔。
その片割れの心を折ったのは、プリシアナ学園の生徒会長。
セルシア・ウィンターコスモスである。
忘れていたわけではないが……
「お前さんじゃなかったんだなぁ」
「え?」
「いや、セルシアの奴さ……お前に気があると思ったんだよ。フリージアも、だからお前に冷たかったろ?」
「はぁ」
バロータは楽しそうに笑っている。
何が楽しいのか分からず、ティティスはとりあえずついて行く。
その行く手には、先程の爆発を聞きつけたか大量の蜂が現れる。
ティティスは再び吹き飛ばそうかと考え、それはバロータに止められる。
「手ぇ出すな。セルシアの事を良く見てろ」
「え?」
「よーく見て、そんでエルシェアに教えてやれ。あいつは、まだ納得しちゃいなかった」
ティティスは聞き返そうとするが、バロータはそれ以上答えなかった。
いざと言うときは範囲魔法を使う為に意識だけは傾ける。
しかし、彼女の備えは無駄になる。
目の前で披露された少年の剣技は、先程の倍はいようかと言う魔物の群れを切り裂いた。
時間にして一分足らず。
文字通り秒殺したセルシアは、呆然と視線を送るティティスに微笑する。
「さぁ、急ごうか」
ティティスはその笑みが、空恐ろしいものに見えて仕方なかった。
かつてのエルシェア程ではないにしても、同じ畏怖を感じた妖精の少女。
バロータはその小さな背中に、興味深い視線を向けていた。
§
その夜、絶たれた絆の道の途上で最後の野宿をすることになった。
明日の昼前には、ドラッケン学園の校門に着けると思われる距離である。
交代での見張りを立てて仮眠を取る一行。
セルシアはティティスを見張りのサイクルから外そうとしたが、頑として譲らなかった。
少女の芯の強さに逆に感じ入った様子のセルシアは、彼女の意見を取り入れて四交代に決めたのだ。
初めの見張りについたティティスは、震える身体で抱きしめるように宝箱を弄る。
音を立てないように細心の注意を払いながらの開錠作業は、全くと言っていいほど捗らなかった。
「……」
昼間のセルシアの剣技が、彼女の脳裏に張り付いて離れない。
彼女が知る限り最高の前衛はディアーネだが、少なくとも留学前の彼女ではセルシアに及んでいないだろう。
ティティスは自分が見た現実を受け入れられず、さりとて自分を騙し切れずに心の置き場に戸惑った。
セルシアの剣はとにかく速い。
剣の振りがそうさせているのか、または身体の使い方が上手いのか……
ティティスの眼に銀色の光がぶれた瞬間、周囲の敵が二等分にされている。
彼女は遠目ならディアーネの剣も目で追えているのである。
そんな妖精の目にも、セルシアの剣は残像しか捉えきれない。
魔法に寄る集団殲滅の効率を、高速単体撃破によって塗り替えるその手際。
それは神に愛された才の所有者のみが成し得る技巧に感じられ、ティティスの心を重く湿らせた。
「エル先輩……ディアーネ先輩……」
「おっす、交代だぜ」
「あ……バロータさん」
眠そうに欠伸を交えながら、起き出してきたバハムーンの少年。
ティティスはだらしない少年に苦笑しながら、再び青い宝箱に目を落とす。
「まだ良いですよ?」
「どうせ、寝らんねぇか」
「……はい」
隠そうともせず首肯する妖精。
バロータは焚き火の向かいに座ると、深い溜息をつく。
「すげぇだろ、うちの大将はよ」
「はい。何であんなことが出来るんです?」
「そりゃ、がんばって特訓してるからだよ。あいつ才能ねぇからさ」
「あれで……?」
「少なくとも本人はそう思ってる。あんな兄貴を持っちまったら、多少の自惚れなんか吹っ飛んじまうさ」
「……」
セルシアがウィンターコスモス家の次男であり、当主は兄のセントウレア。
プリシアナ学園の校長であることは周知の事実である。
ティティスは敢えてそれには応えず、宝箱の開錠を続けている。
リリィが託した宝箱。
この箱だけが、今の彼女の拠り所なのかもしれなかった。
バロータは小さく震えながら、必死に箱に縋りつくような少女に痛ましげな視線を送る。
やや逡巡し、彼は誰にも語る心算のなかった想いを口に乗せることにした。
なぜそうしようと思ったか、後になっても彼の中で答えの出ない事だった。
ティティスには、人の心の一部を開かせる何かがあるのかもしれない。
「なぁ、お前もう少し起きてるか?」
「……はい」
「じゃ、ちょっと昔話に付き合ってくれや」
「昔話?」
「おう。俺が、この学園に入学したときの話さ」
ティティスは身の丈はあろうかという宝箱を横に置き、バロータの顔を見つめてくる。
その視線から、意外に彼女が真剣に会話に付き合う心算らしいことに驚く少年。
彼としては、開錠の片手間に聞いて欲しいことだった。
顔を突き合わせて語るには、やや精神的圧力が重い話だったから。
「俺がプリシアナ学園に入学したのは、二年前の前期だった。同期にはエルシェアの奴がいてさ……」
「先輩と、同期だったんですか?」
「ああ。入学した時のあいつは、周囲から本当に浮いた奴だったよ。実力は頭一つなんてもんじゃねぇ、桁一つは違ってたからな」
「エル先輩……」
「本当に、凄かったんだぜお前の天使は。その頃には、俺はもうセルシアと長い付き合いでさ……あいつを知ってる俺でさえ驚いたんだ。こんな奴がまだ、世界にはいるんだ……てな」
バロータは目を閉じると、当時の様子を鮮明に脳裏に描くことが出来た。
今よりやや幼げな少女の顔。
まだセミロングだった、薄桃色の巻き毛の天使。
誰よりも高みを羽ばたいていた少女は、しかし直ぐに地に堕ちた。
「もともと、俺らの世代はエルシェアが圧倒的に強かった。だけど、半年後の後期にセルシアとフリージアが入学してきた」
「……」
「後から現れたセルシアは、あっという間にエルシェアを追い抜いていったんだ」
「エル先輩でも、会長には勝てなかったんですか?」
「セルシアが入った時点では、確実にエルシェアが上だったよ。でも逆転するまでに、三ヵ月は掛からなかったな」
バロータの容赦ない返答に、ティティスは一人俯いた。
竜族の少年は、そんな妖精の反応に苦笑する。
彼は決してエルシェアを貶める意図はない。
彼にとって、セルシアが三ヶ月も頭を抑えられた事は驚嘆に値する事実なのだ。
エルシェア自身は、そんな結果に価値を見出すことは出来なかったが。
「セルシアと出会ったとき、俺はまだガキだったしよ……時間と共に、あいつに勝てない自分を受け入れることが出来るようになった」
「負けて……それで良いんですか?」
「仕方ねぇだろ? 勝てねぇんだから。でも、そうだな……お前の先輩は、納得できなかったんだろうな」
「……」
「あいつはなまじそれまで一番でいたから、初めての敗北から簡単に立ち直ることが出来なかった」
深い溜息を吐きながら竜の少年は空を見る。
この世界の空は広いのに、たった二人の天使が同時に舞い上がるには狭すぎるらしい。
そんな感想を抱く少年は、省みて飛ぶことも出来ずに諦めた自分を自嘲する。
しかし口に出したのは、堕天使の過去だった。
「それからのあいつは、ちょっと酷かったよ。学科にも居つけず転々として……あまり評判の良くない連中ともつるむようになっちまった」
「……」
「去年の前期に新入生が入学してきた時には、もうエルシェアの事を特別に見る奴はいなくなってた。セルシアが生徒会長になって、学園でとんでもなく目立つようにもなったしな」
俯いたまま、ティティスは少年の言葉を聞く。
自分の知らないエルシェアの栄光と挫折。
そして迷走……
ティティスは今更、エルシェアへの思慕は揺るがない。
ただ、尊敬する天使の当時の気持ちを考えると胸が痛い。
憐憫も哀惜も沸かない。
只管に痛みだけがティティスの心を揺さぶった。
ふと頭上に違和感を感じ、顔を上げたティティス。
バロータは隣に座ると、昼間のように彼女の頭に手を置いていた。
不満げに顔を歪めるが、バロータはティティスを見ていない。
彼は澄み渡った秋の夜空を見上げている。
常の砕けた表情ではなく、誇り高い竜の顔だった。
「でもよ……やっぱり後輩に追い抜かれるのは、先輩としちゃ……立つ瀬ねぇだろ?」
「はい」
「だけど、セルシアには敵わねぇ。あいつが台頭していく中で、俺らの世代は皆思ったさ……こんな時、あいつがいたら……てよ」
「バロータさん……」
少年は視線を降ろし、横の妖精と目を合わす。
この小さな少女が、彼らの世代で最も輝いていた才能を蘇らせた。
それは彼にとって、決して小さくない出来事なのだ。
「俺はセルシアだって知らない……エルシェアの半年を知っているんだ。誰よりも高く遠くを飛んでいた、黒翼天使をな」
「……」
「もし、あいつが完全に立ち直ったんだとしたら……俺は今度の『三学園交流戦』の本命はあいつだろうと思ってる」
「交流戦?」
「あ? なんだ、知らねぇのかよ」
言いながら、バロータはティティスが、ごく最近の転入生であった事を思い出す。
彼女の実力から感覚が麻痺していたが、この少女は本来ならば、今だ賢者学科の初心者の域を出ていないはずなのだ。
至極身近に、驚くべき素質を眠らせた少女がいた事に少年は驚いた。
「うちと他二つの学校の上位陣が、合同でポイントを競う対抗戦さ。まぁ……冒険者の新人王決定戦ってところかな」
「先輩方も出るんですか?」
「大体この時期に留学する奴は、各学科のトップ級だからな。ほぼ間違いなく、例年は参加してる行事だね」
大陸に三つある冒険者養成学校が共催して行う対抗戦。
それがどれほど大きな催しか、ティティスには想像もつかなかった。
「優勝者を出した学校は、実績の証明になる。勿論、此処で優勝した奴はその後の進路にも影響するぜ? 少なくとも選択の幅は広がる」
「……」
「何となくだがよ、リリィ先生は其処を見据えてお前らを育ててる気がするんだよな」
「あ!」
三学園交流戦は年末を飾る最後の行事。
此れをやり遂げねば、学生達に新年は来ないといわれている。
エルシェアとディアーネが留学したのが九月の頭であり、三ヶ月の期間を終えて帰ってくるのが十二月の上旬である。
「ま、俺が勝手にそう思ってるだけだがね」
バロータは一つ伸びをすると、いつの間にか冷えた身体を焚き火に寄せた。
ティティスは寒そうにしている少年を見て、いつの間にか悴んでいた自分の手に気がついた。
こんな手で、宝箱の開錠などを試みていたというのが信じられない。
火に手をかざし、裏から息をかける少女。
その頭上から、バロータの声が降ってくる。
「あったまったら、そろそろ寝とけ。明日エルシェアに会った時、お前の顔に隈でも出来てりゃ、何されるかわかりゃしねぇ」
「……はい。それじゃ、お言葉に甘えます。バロータさん」
「あ?」
「ありがとうございました」
はっきりと告げ、頭を下げたティティス。
バロータは特に気にする様子も無く、片手を振って追い払う。
しかし自分のシュラフに潜り込んだ妖精に、彼は最後に声を掛けた。
「当たり前だが……交流戦はチーム単位だ」
「……」
「俺も、そんでフリージアも……セルシアとエルシェア以外に負けたこたぁねぇぞ」
「そうですね。貴方達は、ずっと会長の傍にいたんですものね」
「そういうこったな」
彼は誇り高い竜の末裔、バハムーンの少年である。
最強を諦めた男にも矜持があった。
それは遥か高みを目指す天使の友として、恥じない竜であること……
その翼は退化して、飛べなくなった一族。
しかしその爪も、牙も、彼は失っていなかった。
§
後書き
天使と悪魔と妖精モノ第十話をお届けします。
早いもので、この作品も二桁に突入いたしました。
作品内の時間とメインストーリーは遅々として進んでいませんが……
此処まで書き続けられたのも、読んでくださる皆さんのお蔭と頭の下がる思いでございますorz
登場人物が勝手にお話を進めてくれるのは、こういうものを書いてる人間とすると非常に嬉しいものですが、既存のNPCキャラクターが其れをやってくれた場合、私の実力不足部分がキャラ劣化として代償を求めてくる……orz
前回のウズメ先生といい今回のNPCの皆さんといい、原作ファンの方本当に申し訳ありません(´;ω;`)
何かご意見、ご感想などお待ちしております。
それでは、失礼いたします。