霜風が多くの生き物を眠らせる十二月……
留学の最終日を迎えたエルシェアは、間借りしていた学生寮の整理を行っていた。
持ち込んだものは衣類、洗面用具と化粧品一式に筆記用具。
更に現場でお世話になる装備品一式である。
殆どが来たときと同じ荷物だが、違いが二つ。
この学園で新調した片手鎌『シックル』と、制服の上から羽織るようになった『白衣』。
装備以外では、この三ヶ月で溜まった相棒と後輩からの手紙である。
手紙は折れないように、小さな宝箱に入れて鍵を掛けた。
彼女はそれらを私物である、物理的に容量を無視した魔法の道具袋に仕舞う。
「忘れ物って無いかしら?」
「はい。もし何かあったら、取りに参ります」
「そうね。まぁ、今生の別れって訳でもないか」
エルシェアは背後から掛けられた声に、驚くことも無く答える。
声の主は、彼女がこの三ヶ月を師事したドラッケン学園の保険医、カーチャであった。
留学当初のように、この声を聞くだけで身体を強張らせていたエルシェアは、もう何処にもいない。
「なんだか面白くないわ。昔みたいに怖がってくれない?」
「なんといいますか……憎悪が恐怖を駆逐してくれました」
「私、貴女に怨まれるような事した覚えって無いけれど……」
「どの口でおっしゃいますか? ご自分の胸に手を当てて考えてください」
「ふむ」
カーチャは律儀に右手を胸に添えると、瞳を閉じてこの三ヶ月を回想する。
エルシェアを扱いて泣かせて苛めて罵って嘲笑って吹っ飛ばして鍛え上げて……力尽きた所を回復してやった記憶しかない。
「貴女、私に感謝の気持ちが足りないわ。此れはもう絶対」
「……まぁ良いです。今は……今だけは言わせておいて差し上げますっ」
穏やかな微笑の仮面の下……心の中では唇を食い千切るほどに噛み締めていた少女である。
地獄であった。
エルシェアにとってこの三ヶ月は、正に生き地獄と言って過言では無い日々だった。
そんな毎日に耐え忍んだ代償か、彼女は自身の常識を塗り替える。
今ならば、リリィに胸を張って成果を告げることが出来るだろう。
「感謝も、していますよ。わたくしは、少しだけ強くなれました」
「うちの学校の上位陣荒らしまわってくれたくせに、少しだけ?」
「ええ、少しだけ。私、この先も伸ばせそうですから」
艶然と微笑むカーチャに、同質の笑みで応えるエルシェア。
そんな弟子の様子に満足したように頷くと、カーチャはエルシェアを緩く抱く。
特に逃げもせずに抱擁を受けた生徒は、相手の白衣に染み付いた消毒用アルコールの匂いに包まれる。
「正直もう少しこの学園に居るべきだったわ。遣り残したこと多いでしょう?」
「ええ、貴女の息の根を止めずに帰参するのは業腹ではありますが……」
「貴女の挑戦なら、何時でも受けてあげるわよ」
「負けたら所持金半分で再戦させていただけますか?」
「ボス戦闘にそんなものがあると思う?」
「……五年……いえ、三年で追いついて見せます」
「へぇ、随分大きく出たじゃない」
カーチャは女生徒を開放すると、不敵に微笑む相手を見つめる。
後十年は影すら踏ませる心算はないが、前に向かって挑んでくるこの少女の気概は心地よい。
この若い天使に欠けていたモノは、望んだ未来で現実を塗りつぶす意欲である。
今のエルシェアは勝つと決めたなら、万難を排してそうある未来を作るだろう。
カーチャはとりあえず、彼女を自分に預けた相手……
プリシアナ学園で保険医を務める友人に、顔向け出来なくなることは無さそうだった。
「出発前に、先生方やお友達には挨拶したの?」
「はい。昨日、主だった方々にはご挨拶をして回りました」
「……留学中に貴女と仲の良かった生徒が今、軒並み保健室で呻いている件について弁解は?」
「私が売った喧嘩ではありません」
エルシェアは留学中に主だった学課の上位陣と、ほぼ全て手合せして勝利していた。
伝統校であるドラッケン学園の成績上位者である。
彼らは自分の努力と、それに見合う実力に相応の矜持を持っていた。
この留学生に一矢報いようと、躍起になる学生は後を絶たない。
昨日は此れが最後とあって、エルシェアが挨拶に回った生徒はほぼ全員が決着戦を挑んできたのである。
「私への当てつけに、仕事を増やしてから帰ろうとしているのかと思ったわ」
「皆さん本気で向かってきてくれました。応えるなら、私も手は抜けませんよ」
戦術の引き出しが多いこの堕天使は、優れた観察眼で相手をデータ化し、弱点を徹底的に突いてくる。
その戦闘スタイルはこの学園に在籍するセレスティアにとって、新たな可能性に気づかせる結果となった。
彼らの中から堕天使学科に興味を示し、カーチャへ相談に来る生徒も増えている。
カーチャとしては面倒な反面、暇も潰せるとあって複雑な心境は隠せなかった。
「それにしても……今日でこの学び舎を去るとあっては、感慨深いモノがありますね」
「あら、いっそうちの子になる?」
「謹んでお断りいたします。そろそろリリィ先生のお顔が見たいので」
「あ……」
「……何か?」
カーチャはエルシェアの発言に、ある事を思い出す。
ほぼ一月前……プリシアナ学園から数人の生徒がやってきた。
彼らは当時、この学園でコンサートを開こうとしていたエルフに会いに来たのだが、結局会えずに立ち去った。
その時のパーティーで紅一点だったフェアリーが、エルシェアを捜していたのである。
エルシェアはその時、私用で校外に出ていたために会えなかった様だが……
カーチャはそのパーティに対応した学生から、外部生徒から預かったという手紙を渡されている。
そしてエルシェアが戻ってきたときには、すっかり頭から抜け落ちていたのである。
冷たい汗が背中を伝う。
「カーチャ先生。何か?」
エルシェアはこのような時、相手の都合の悪い部分を見逃してくれない。
既に何か隠し事があると勘付いたらしい女生徒は、にっこり笑ってカーチャに詰め寄る。
カーチャにとって都合の悪いことに、この手紙はリリィ本人が、フェアリーに託したモノ。
思い出してしまった以上、手紙を握りつぶすことは出来ない。
彼女は僅かでも身の危険を減らそうとし……更なる墓穴を掘っていく。
「えっとね……怒らない?」
「別に、先生の言動一つで今更理性を無くす可能性は、低いと思いますよ」
「神様に誓って?」
「ええまぁ……今正直に自白してくださるなら」
「…………リリィにも誓える?」
「はぁ!?」
その時のエルシェアの表情は、正に豹変という言葉の見本であった。
普段物腰穏やかな堕天使は、常の余裕をかなぐり捨てて師たるカーチャの胸倉を掴み上げる。
「貴女如き毒婦との口約束に、リリィ先生のお名前を引き合いに使えるとお思いですか!? 私の女神をっ! 信仰を冒涜なさるおつもりか!」
「わ、解った、私が悪かったから指先の『デス』は仕舞いなさい」
「とにかく、そろそろどんな悪事を働いたか白状していただけますか? そうすればシックル一撃で許して差し上げる気になるかもしれません」
「どの道即死判定は免れないのね……まぁ、今回は私が悪いんだけど」
カーチャは指先を一つ振ると、保健室のデスクに保管してある手紙を自分の手元に召喚する。
「ほら、一ヶ月くらい前に、貴女の仲間が此処に尋ねてきたじゃない?」
「ええ……入れ違いになったと聞きましたが」
「その時、私妖精の子からリリィのお手紙預かってたんだけどね……」
「忘れていらっしゃったんですね?」
「いぐざくとりぃ」
「サイズとシックル、どちらの即死判定をご希望ですか?」
「どっちも嫌」
「解りました。二刀流で」
そう言いつつも鎌は出さず、カーチャの胸倉を開放して右手を差し出すエルシェア。
とにかく今は手紙の中身を確認したかった。
カーチャへの復讐は、内容が時限性で取り返しがつかなかった場合に考えればいい。
エルシェアの計算を寸分違わずに読み取ったカーチャは、この場に居ない友に祈りを捧げながら手紙を渡す。
この内容如何によっては、カーチャはエルシェアのみならず、本物の死神先生に狙われることになる。
「……」
「……」
受け取った手紙の封を切り、内容を確認するエルシェア。
わざとゆっくり読んでいるのか、それとも重要な内容なのか、少女はそれなりの時間手紙から目を逸らさない。
その間、冷たい汗を滴らせたカーチャである。
「これ、内容を把握なさっていらっしゃいましたか?」
「いいえ? 流石に読むわけに行かないし」
「ふむ……」
エルシェアはそれきり口を閉ざし、手紙をカーチャに手渡した。
視線で読んでいいのかと尋ねたカーチャに、エルシェアは一つ頷いた。
「此れは……」
それは三学園交流戦の、参加申し込みを促す手紙であった。
リリィは情理を尽くしてエルシェアの交流戦参加を望んでくれていた。
心温まる内容ではあったのだが、締め切りは十一月の末日である。
今の日付は、十二月の三日で……
「さぁ、生徒達に最後のお別れをいたしましょう?」
「落ち着いて? ね? 大丈夫だから、何とかするから落ち着いて」
「さようなら。あの世で私に詫び続けなさい、カーチャ先生」
即死判定持ちの鎌を二刀流で振り回す女生徒に、完全回避で逃げ回る女教師。
狭い部屋の中で行われたリアル鬼ごっこは、エルシェアの留学最後の一日の半分が費やされる事となった。
§
タカチホ義塾所有の、屋内訓練場第一棟。
其処はこの一月程の間、教師のウズメに拠ってほぼ貸しきり状態になっている空間である。
彼女が自分の担当たるアイドル、クノイチ学科を副担任に押し付け、熱を上げている少女を育成するために。
「……」
「ぜっ……ひゅ……っはぁ」
不敵に微笑むウズメに対し、呼吸すら侭ならない少女は、プリシアナ学園から留学しているディアーネである。
本来なら二日前に留学期間を終えているが、彼女は未だにウズメとの修練に勤しんでいる。
「うふふ」
「はっあぅ……ぐぇ」
哀れなほどに荒い呼吸を繰り返す悪魔の少女。
しかし、その表情は爆発しそうな歓喜に染まっていた。
「……あ、あたった?」
「えぇ、有効防御を取れなかった事は認めるわぁ」
ディアーネが大上段から振り下ろした、鉄芯入りの木刀。
右腕の手甲で遮ったウズメは、その剣圧に潰されるように片膝をついた。
ウズメは規格外の力を持っているとは言え、本来非力なクラッズである。
基礎体力が違うディアボロスの、しかも長身のディアーネに上から潰されれば、このような事にもなるのである。
ウズメにダメージは通っていない。
この状態からでも続行すれば、ウズメは幾らでも仕切りなおし、若しくはこのまま逆撃を入れる術があるだろう。
しかしそうしないのは、ディアーネの攻撃がウズメの防御を、瞬間的に上回った為である。
「お見事♪」
「あ、ありがとうございます!」
膝をついたまま、教え子を称えるウズメ。
その言葉はディアーネの緊張の糸を断ち切った。
此処しばらく、彼女はウズメに剣先を掠らせる事すら出来ていない。
高速の体捌きと不規則に揺れるような歩法。
二つを巧みに組み合わせたウズメの出入りについて行けず、一撃離脱で削り倒される毎日を送っていたのである。
ウズメがこの動きを使う様になってから、ディアーネが相手に刀を当てたのは初めてのことである。
倒れこむように床に崩れた悪魔の少女。
「床……冷たくて気持ちいいっす」
「んー……実力以上のモノが出てたわねン?」
「そりゃ、気合も入りますって」
そう言ったディアーネは、訓練場の隅で、一人佇む少女に目を向ける。
薄桃色のウェーブヘア。
年頃の少女にしてはやや高い背。
その背中と側頭部に、漆黒の翼を携えた堕天使。
「やっと当てて見せてくれましたね? てっきり打たれ強さを披露する組み手なのかと思いました」
「ん、エルの皮肉も久しぶりだと快感に感じる?」
「まぁ? お望みでしたら、ドラッケン学園で吐き出せずに溜め込んだ毒を、全て貴女に注ぎ込んで差し上げますが」
「ごめん。私それ、多分泣く」
起き上がりながら、頬を引きつらせたディアーネ。
彼女がタカチホの地に留学後も居座っていた理由が、この待ち合わせである。
エルシェアは冬季に北周りでプリシアナ学園に帰る事を避け、遠い南回りで戻る事をディアーネに告げていた。
その時、必ず通るタカチホ義塾周辺で合流し、此処から一緒にプリシアナ学園に帰る事を約束していたのである。
ディアーネは当初、近場の町で宿を取ってエルシェアを待つ心算であった。
しかしウズメは事情を知るとディアーネを自宅に招き、ロスタイムを追加講習に当てたのである。
ディアーネとしても宿代の節約と、師として慕うウズメの講義を受けたい心情もあり、二つ返事で転がり込んだ。
エルシェアと違い人懐っこい悪魔の少女は、留学先の師と良好な師弟関係を結んでいた。
「しかし、最後の一閃は凄かったです。速すぎて打ち終わりしか視認出来ませんでした」
「えぇ。思ったより速くって、受けるか流すか迷っちゃったわぁ」
迷いが判断の遅滞を招き、やや中途半端に受けたウズメ。
その結果、力に対して技巧を挟む余地を失い、ウズメの足が止められたのだ。
「あれは打ち下ろしより、その前の呼び込みが大本命だったんだよー」
「不意に刀が上段に跳ね上がりましたよね?」
「うん。手元だけで操作してるけど、握り方でああいうことも出来るっす」
得意げに語るディアーネは、木刀を片付けるとウズメに向かう。
正面で一つ礼をすると、そのまま正座に座りなおした。
小柄なクラッズとディアボロスでは、正座をしても目線の高さがそれほど変わらないのだが……
傍で見ているエルシェアにも、存在感の桁が違うのが解る。
その理解こそ、彼女がこの三ヶ月で新しい領域の住人になった証左であったろう。
「ウズメ先生。今日までのご指導、本当にありがとうございました」
「よくついて来たわぁ」
「まだ先生から学ぶことの多い身です。ですが、私も他校在籍の身。それは次の機会に、よろしくお願い申し上げます」
「ええ。また、道に迷うようなことがあればいらっしゃい」
「はい」
「私は生徒の望んだ姿を映す鏡。私の中に何を見出すか、見出したものを貴女自身がどう使うか……貴女の行く末に期待しているわン」
「はい」
「うん。それじゃ、お友達も来た事だし、お行きなさい」
「……失礼いたします」
ディアーネはウズメと握手を交わして立ち上がる。
そして相棒に預けていた『千早』を受け取り、制服の上に羽織った。
「先生、またね!」
「ええ、またねン」
二人は手を振り、其れきり振り返ることも無く歩き出した。
ウズメはタカチホ義塾の学び舎へ。
ディアーネは相棒と共に、タカチホ義塾の正門へ。
「ディアーネさんは、私が来るまでずっと修行を?」
「うん。私物は『トコヨ』で交易所の預かり所に放り込んで、ウズメ先生のお宅にホームステイ」
「それは、貴重な経験かもしれませんねぇ」
エルシェアはタカチホ義塾へ到着すると、通りすがりの生徒からディアーネの所在を聞くことに成功する。
本来はこの学園で、相棒の担当をしていた教師を探していたのだが……
まさか留学期間を過ぎても、ディアーネが此処に留まって居たとは予想しなかった天使である。
彼女は相棒がいつも訓練しているらしい屋内訓練場を探し、念願の再開を果たした。
その後一刻ほど二人の組み手を見学し、先程最後の一本を終了したのである。
「ウズメ先生、お強い方でしたね」
「解る?」
「ディアーネさん、最後以外はサンド……いえ、ミートバックだったじゃないですか」
「……そだね、笑っていいよ」
「……いいえ、笑えませんよ」
トコヨの町へ向かう途中の、『飢渇之土俵』での会話。
二人は同時に深い溜息を吐く。
ディアーネの組み手を見たエルシェアは勿論だが、その様子を見て逆に落ち込む相棒を見た悪魔も、この天使がどのような目に遭っていたのか想像がついた。
「ずっとあんな組み手を繰り返していらっしゃったので?」
「うん。最後の方は、私の歩法の練習だった」
「あの先生、不可思議な動き方を為さっておりましたね……」
「あれを捕らえるには、刀を振る速さより足の巧さが必要なんすよ」
「どちらかと言えば、連撃で追い縋っていたように見えましたよ?」
「その通りっす。その連撃は大雑把に動いてたら速く打てないんだなー」
「なるほど……もう剣においては私の追従できる領域ではなさそうですね」
「ん……もう、エルだって守るよ」
苦笑するエルシェアに、ディアーネは満面の笑みを浮かべる。
最早ディアーネは何があっても最前線を譲る心算はない。
エルシェアとポジションのスイッチが出来てしまう程度であった、それまでの実力では不足を感じていたのである。
決して口外していないが、彼女は最も身近に居た堕天使に、近接戦闘能力で勝つことこそが至上命題だった。
「エルは、あっちで何してたの?」
「地味な基礎を繰り返しておりましたよ」
「魔法? 物理?」
「両方です。私は先生と組み手など一度も……なかったとは言いませんが……」
答えながら、エルシェアはやや自信無さげに言葉を詰まらせた。
別れ際には刃物を持ち出しての大立ち回りを演じている。
その他も、カーチャの挑発に乗る形で起こったリアルファイトは、それこそ数知れず行われていたのである。
エルシェアにとって訓練という印象は無かったが、あれも一応は組み手の領域に入るのか?
言葉に詰まった堕天使は、一つ咳払いして事実のみを告げる。
「殆どが魔法構成のおさらいと、筋トレだったのは間違いありませんね」
「本当にそれだけだったんだ……」
「ええ、先程の貴女方の組み手を見て……正直ちょっと不味いかなとも思いましたよ」
エルシェアは相棒が見違えるほどの向上を果たした事を確認した。
正直カーチャと出会う前の彼女であれば、双方の実力差を自分の物差しで決め付け、お互いの為と信じて離れようとしただろう。
「良いんですけどね……結局、私も貴女もティティスさんも、持っている武器は違いますし」
「エルならどうせ、何とかしちゃうでしょ?」
「はい。なるべく期待に沿えるようにしたいと思います」
他人が言えば自信過剰に聞こえる台詞を、平然と言うようになった天使であった。
話をしながらの道中は、時間の経過を忘れさせてくれる。
トコヨの町を遠目に発見したディアーネは、目を輝かせて活気付く。
「行こ!」
「引っ張らないでください」
言葉の通り、エルシェアの手を引いて走り出したディアーネ。
苦笑したエルシェアが、無意識にその手を握り返した。
「んぅっ?」
ディアーネは繋いだ手の違和感に一瞬だけ歩行を止める。
悪魔は多少つんのめりながらも、足を送ってそのまま歩いた。
「どうしました?」
「あ、ごめんね……なんでもない」
ディアーネの背筋には、この時冷たい汗が浮いていた。
何よりも本人がその事を自覚し、その汗が繋いだ手の平に滲まないように祈る。
「エルさ……手が、硬くなったね」
「……喧嘩を売っていらっしゃいますか?」
「んーん。エルも、やっぱり苦労してたんだなーって」
「どうしたんですか急に……」
悪魔の手が鈍く痛む。
エルシェアに何気なく握り返されたその手は、既に握力の殆どを失っていた。
天使の手は、このまま自分の手を握り潰すことが出来る。
ディアーネをしてそう確信させる握力を、今の天使は秘めていた。
「……」
ディアーネは肩越しに振り返り、後ろを歩く相棒を確認する。
繋いだ手から、腕、肩、そして全身。
見た目のサイズこそ変わっていないが、接触した身体の部分から感じる圧力は、かつてのそれと比較にならない。
「何ですか? ジロジロと」
「エルさ……あっちでどんな筋トレしたの?」
「どんなと言われましても……普通に倒れるまで身体を動かして、魔法で回復してまた倒れるまで動くんです」
「……なに、それ?」
「えっと……筋トレ」
絶対に違うと眼で言う悪魔。
何が可笑しいと居直る天使。
筋力とは、身体を使うあらゆるファクターにおいて有利になる要素である。
エルシェアの師は少女の身体を、内側から作り変えた。
技術面やセンスでは他の追随を許さぬエルシェアに、小細工を粉砕する純粋な力を身につけさせたのだろう。
ある意味においてディアーネより、もっと判りやすい形で彼女は強くなってきた。
「これから、エルのツッコミがこえぇ……」
「ん? 何か言いました?」
「いえ! 何でもありません!」
思わず敬語になった悪魔に、天使の少女は微笑する。
「……はぁ」
「どうなさったんですか本当に?」
剣においては追従できないと言ったのはエルシェア自身。
しかし剣でなければ……
たとえばこの筋力で盾を構えられた時、どうやれば彼女を崩せるか?
自分が近接戦闘でこの天使に完勝する日は、当分先かもしれない。
そう考えるディアーネは、自覚の無い相棒に深い溜息を吐くのであった。
§
トコヨの町で宿を取り、身繕いを一通り済ませた少女達。
ディアーネは久しぶりにお腹いっぱいの食事を許され、幸せを噛み締めている。
相棒の天使としては、悪魔の緩んだこの表情が好きだった。
例えそのことでパーティー内のエンゲル係数が、凄まじい事になったとしても。
生き物としての幸福である食事と、年頃の少女としての幸福である湯浴み……
その両方を満たすと、自然二人の会話はこれからの目標に向けられた。
「ほぇ? エルって交流戦に出ないっすか?」
「ええ……不慮の事故という側面もありますが」
エルシェアはカーチャの凡ミスで登録申請が間に合わなかった。
しかし元から、エルシェアの中で『三学園交流戦』に対する興味は薄い。
カーチャは教師権限で申請を行おうとしたのだが、本人の希望によって取り消していた。
「何で? 出れるよね?」
「ええ。一応私の単位は出場条件を満たしていますね」
「じゃあ出ようよ。一緒に」
「目立つの好きじゃないですから」
「こ、こいつは……」
事も無げに言い放った天使に、悪魔の少女が引きつった。
大陸に三つある冒険者養成学校。
その全てが共催して行う交流戦である。
各学校の成績上位者同士で争われるその交流戦は、いわば一流の冒険者への登竜門。
参加することも難しく、その中で上位成績を収める者は本当にごく一部である。
そんな大会の中で、出れば目立つ成績を収める。
そうはっきりと宣言したのだ。
「ディアーネさんは、参加なさるのですか?」
「うん。ティティスも出るって」
「ん……あの子に会った?」
「うぃっす。エルにも会いに行ったけど会えなかったって言ってた」
「ああ、あの時ですか」
一月程前にティティスがセルシア達と共に各学園を回ったと言う話は、エルシェアも知っている。
その際エルは後輩に会えなかったが、学園でウズメと組み手をしていたディアーネは、ティティスとの再会を果たしていた。
此処で郷愁を刺激されたディアーネは、エルシェアと一刻も早い再会を望み、こうして帰路を共にする約束に至ったのだ。
「成績上位を狙うなら、『スポット』は必須でしょう。ティティスさんは両学園に一瞬で飛べますから便利ですね」
「うん。後は私とティティスを一番上手く使える司令塔が、絶対必要っすね」
「……だから目立つの嫌なんですって」
やや平行線になりかけた話だが、二人は特に気にしていない。
元々この二人は性格が真逆に近く、意見が完全に一致するほうが稀なのである。
この二人の仲に必要なものは、自分の意見を告げる事、相手の意見を聞く事であった。
双方共に、その事はよく理解している。
ディアーネは宿の備え付けの浴衣に着替え、同じ服を着て正座している相棒の隣に座った。
初めて出会ったときから、この二人の間は握りこぶしが一つ分である。
「エルは、今でも結構目立ってるよ?」
「昔はもっと目立っていたんです。貴女が入学してくる、もう少し前ですけど……」
エルシェアは苦笑して当時の事を思い出す。
確かにエルシェアは、それなりに学園で名前が売れている。
かつての名声に咥え、その後堕落した様子。
さらに此処最近では『冥府の迷宮』探索の失敗に、今回の留学の件もある。
「目立つと言う事はそれだけで危険を伴います。私は相手の事を知らないのに、相手は私を知っている……そんな状況が増えるのですから」
「えっとね? それって確かに危険でもあるけど……学校でそういうのは、そんなに悪いことでもないと思うんさ」
「ふむ……ディアーネさんは、目立ちたいのですか?」
「ん……どうなんだろう……」
聞き返されたディアーネは、自分の内面と対話するために俯いた。
彼女は英雄に憬れている。
多くの人々からの尊敬を受け、良好な繋がりを作りたい。
その為に実績が欲しい。
嘗てエルシェアに語った事である。
今改めてそのことを思い出し、自分の中に在る熱意は少しも冷めていない事を理解する。
誰かに認めて欲しい。
その思いは変わらない。
変わった事はその誰かと共に、出来ればエルシェアにも……との一言が加わったことである。
「私俗っぽい女だよ。自分の力を他人の為に使う……そしてその後は、やっぱり『ありがとう、助かったよ』って、喜んで欲しい」
「ごめんなさいディアーネさん。私、貴女の今の発言の何処が俗なのか解りませんでした」
「最初から見返りを期待してるもん。純粋に、好意だけで他人の為に尽くし続けるって……きっと私、出来ないから」
「その英雄観はグラジオラス先生の教えですか?」
「いや、私が何となくそうなんじゃないかなって思ってるんだけど」
エルシェアは相棒の話を聞き、深い安堵に息をつく。
この時点でディアーネと会話し、その考えを聞けた事は幸運だったと思うエルシェアである。
少なくとも今のまま、自分に無頓着なディアーネを世に送り出す事は危険すぎると思うのだ。
「良かった。もしグラジオラス先生が、英雄学科で精神的奴隷を量産しようとしているなら、どうしようかと思いました」
「そんな事ある訳無いっすよ」
「その様ですね。貴女が、自分から成り下がろうとしていただけの様ですから」
「ん……あぁ、でもそうか……何の見返りも無く、他人に尽くそうとしかしないなら奴隷と同じか……」
「その通りです。そして、そんな異端思考保有者は絶対に多数派に理解されません。好意だけで他者に尽くす英雄様は、必ず助けた相手に排除されるでしょう」
エルシェアは隣に座るディアーネの頭を緩く抱く。
天使の胸に抱かれた悪魔は、深い息を吐き瞳を閉じた。
相変わらず此処は居心地がよく、眠くなるのである。
「私は、英雄になって、皆に認めてもらいたい。その為の実績が欲しい」
「そうですね。貴女は始めて会った時から、そうおっしゃっていましたね」
「うん。ちょっと俗っぽいかも知れないけど、誰かを助けて『ありがとう』って言ってもらって、また歩いていける……そんな、英雄になる」
「……私にとっては、それでも欲が無さ過ぎて不気味なんですがね。どうやってそれで生きていく心算なんですか? お礼でお腹が脹れる異常体質なんですか貴女は?」
「むぅ……其処は今後の課題。とりあえず英雄になるためには、自分を養う貯金がいっぱい必要ってことだね」
相棒の答えに噴出しそうになりながら、エルシェアは悪魔の髪を指で梳く。
ディアーネは今まで、英雄になるために歩いてきた。
今後もきっとそうであって、ならば今回の交流戦は、絶対に逃がせない好機だろう。
ディアーネは相方に抱かれたまま身を捩り、器用にその顔を見上げてきた。
至近距離で見詰め合う二人だが、何故か甘い雰囲気に成らないのがこの天使と悪魔である。
「私、この交流戦で一番になりたいっす。その先の進路を少しでも有利にするために」
「まぁ、貴女の行く道は楽ではないようですからね」
「うん。だから、お願いエル……手伝って」
「ん……そうですねぇ」
ディアーネの髪を指で遊びながら、エルシェアは一人思考する。
「……本人で登録していなくても、出場する貴女のパーティーなら参加は出来ましたっけ?」
「出来るはず……というか、出来ないと下の年代とパーティー組んでる上位陣が参加できない」
「なるほど、それもそうですね。それでは、久しぶりに三人でクエストに望んでみましょうか」
「うん!」
満面の笑みを浮かべ、相棒に抱きつく悪魔の少女。
しかし直ぐに顔を上げ、エルシェアの表情を伺った。
その顔に特に無理をしている様子は無く、それがディアーネを安堵させる。
悪魔の気遣いに微笑したエルは、自分の参加の理由を表明してやる必要に駆られたらしい。
「貴女が英雄になりたいように、私にもなりたいものがあるんですよ」
「おお? エルの夢って聞いたこと無い」
「おや……前に屋上で話しましたよ。私は強くなりたいんです」
「強く?」
「はい。他人と比較してと言う事ではありません。私は、自分を認めることが出来れば、それで良いんですけど……」
その答を聞いたディアーネは、内心で悲哀を伴った痛みを覚えた。
エルシェアが抱えるその病気は、自分の英雄願望と同じか、それ以上に性質が悪い。
一片の曇りなく自らを曲げずに、その強さを信じることなど、一体誰に出来るというのか?
ましてこの堕天使は、自分の殻に閉じこもって他人を評価しない娘ではない。
冒険者として生きて行きながらエルシェアの希望を貫くのは、想像を絶する苦痛か、若しくは何処かで妥協が必要なはずだった。
「エル、それは修羅道だよ……」
「ですよねぇ……でも私、自分が弱いって認めちゃったら生きていけない気がするんです。病気だって、ちゃんと解っているんですよ?」
「そっか……」
「なので、交流戦とかしてるくらいなら自己鍛錬しようと思っていたんですよ」
そんな堕天使が、自分を曲げて参加を決めてくれたのは何故か?
答を待つディアーネに対し、エルシェアは一つ息を吐く。
「今更、他人様なんてどうでもいい。だから、拘りと言うのも無かったんですけど……」
エルシェア微笑しながら瞳がスッと細くなる。
ディアーネはその瞳に悪寒を覚え、しかし余りに綺麗なその表情に魅入る。
それは意識してはいなかったが、彼女の師たる堕天使とよく似た笑み。
「機会が在るなら、返しておきたい借りというのもありましてね」
「誰か狙い撃ちにするの?」
「ええまぁ、私達が本気で結束したとき、それを阻めるパーティーなんて最初から一つしかありませんけど」
それはプリシアナ学園の最強メンバー。
生徒会長セルシアを筆頭としたグループである。
ディアーネは口に出すまでも無く相棒の発言の意図を悟る。
「借りは、返しておかないと……だね」
「はい。貴女は単位、私は私怨。それぞれの目標の為に頑張りましょう」
「ん」
話を纏めた天使と悪魔。
ディアーネはエルシェアの腰に抱きついたまま目を閉じる。
「このまま寝て良い?」
「朝まで正座をしていろと?」
「私が、寝たら……動いていいよー」
「……まぁ、再会を祝してサービスしましょう」
欠伸をしながら答える悪魔に、エルシェアは一つ息をつく。
余程疲れていたのだろう。
エルシェアは相棒が昼間もウズメと稽古していた事を思い出す。
しかし彼女が眠りに堕ちる前に、天使は聞いておきたい事があった。
「ねぇ、ディアーネさん」
「ん?」
「今……貴女の道は私と、ティティスさんと、リリィ先生と……ウズメ先生も、全て重なって伸びています」
「そうだね」
「もしも此れが、全て別の方向に伸びだしたとき……貴女はどれを選んでどれを捨てるか、此処で聞いてもいいでしょうか?」
「……意地の悪い質問だなー」
「……ごめんなさい。忘れてください」
睡魔に必死に抗いながら苦笑するディアーネ。
或いはディアーネこそ、この質問をしたかったのかもしれない。
今日、此処で話し合ってはっきりした事がある。
ディアーネが自分の想いに妥協しないように、エルシェアもしないだろう。
何時の日か、二人は話し合いだけでは譲れない思いを抱く。
そうなった時、どうするのか。
自分たちが争う事など想像もつかない天使と悪魔。
しかしそれと同じ領域で、自分たちが道を譲る場面も想像する事が出来なかった。
§
後書き
交流戦に向けてのワンクッションで、第十一話をお届けします。
白衣と千早を装備していただきました。
作者は古く凝り固まった脳味噌の所有者なので、学生=制服という固定観念に支配されております。
なので、服の上から羽織れるこの装備はお気に入りです。
それにしても、アイテムがポツリポツリと出て来ました。
次辺りで、設定に色々追加しようかな……ゲーム中の思い出とかも含めて。
それでは、失礼いたします(*/□\*)