その日、プリシアナ学園では生徒の多くが大聖堂に詰め掛けた。
元々冒険者養成学校の生徒は、学園に在籍しつつも校外に出て単位を稼ぐ者が多い。
しかし今回珍しく、三学園交流戦で出た同率一位による優勝決定戦。
それが一日置いて行われたということもあり、一部の生徒は観戦の為に帰参していた。
「……見知った顔が多いことです」
うんざりした表情で、心底嫌そうに呟いたのはこの戦いの主役の一人。
優勝パーティーのメンバー、堕天使エルシェアである。
既に大聖堂には関係者が勢ぞろいしており、一番最後に現れたのがこの少女。
ディアーネとティティスの視線に微笑して頷き、真紅のカーペットを静々を歩いてゆく。
歩きながら周囲を見渡し、場所と状況を確認する堕天使。
礼拝用の椅子は全て片付けられ、相当に広いスペースが用意されている。
両サイドの壁際には、観客たる生徒達がかなりの人数で犇いていた。
エルシェアが見る限り、その中の大部分が自分と同じ年に入学した同期生である。
入場してきた堕天使に、大きな歓声と声援が掛けられた。
「……」
驚いたように足を止めたエルシェア。
しかし一つ息を吐いて再び進む。
奥の壁には巨大なステンドグラスと、壁に埋め込まれるように設置されたパイプオルガンがある。
オルガンの前には校長のセントウレアが静かに佇んでいた。
その表情からは、少なくともエルシェアに読ませる情報はない。
直ぐに視線を巡らせ、奥の一角に集まった教師陣を見つける。
エルシェアが探すのは、その中で唯一人。
この学園で自分の師と認めて慕う教師、ディアボロスのドクター、リリィである。
「……」
「……」
本人を見つけても視線は止めず、その姿を一瞬流し見るだけに留めた堕天使。
居ると解ればそれで良い。
正面を見れば仲間の姿。
英雄学科首席のディアーネが居て、最近盗賊に染まった賢者のティティスが居る。
そしてその二人と向き合う形で対峙している三人の生徒。
中央には生徒会長……『プリンス』であり『弟』のセルシアが、瞳を閉じて佇んでいた。
左にはその『執事』にして『光術師』のフリージア。
そして右には『格闘家』でありながら『パティシエ』の単位も納めたバロータが居る。
「やぁ、よく来たね」
「お待たせしてしまいましたか?」
「いや……うん、そうだね。待ったよ」
堕天使の視線を受けた時、其れを待っていたようにセルシアの瞳が開かれた。
遂にエルシェアが仲間達と合流する。
この時、ディアーネとティティスは極自然に左右に割れた。
その隙間には堕天使が収まり、正面から対峙したセレスティア。
今日の戦いの中で、主役を勤めるのはこの二人。
どちらのパーティーメンバーも、その事は良く知っていた。
「二年半か……本当に、君の卒業前にこの機会が訪れたことを、神に感謝しないとね」
「私に祈る神などありませんが……君には感謝していますよ。貴方に堕とされ、飛べなくなった私は始めて仲間に恵まれた」
「……そうだね。僕にはフリージアとバロータがいてくれた。だけどあの時、君には誰もいなかったね」
セルシアがこの堕天使と共にあったのは、出会ってほんの三ヶ月程。
常にセントウレアの背中を見てきたセルシアにとって、初めてその視界の中に割り込んできたのがこの少女だった。
彼女に勝てれば兄に近づける。
其れまで歩んできた道が、間違いでなかったと確信できる。
そう考えて努力し、そして彼自身がもっとも強くなっていく実感に恵まれた期間であった。
「アレから僕達は違う道を進んだけれど……駄目だね僕は。どうしても、成果を君で確認したくなる」
「迷惑なことですね。私は貴方など、今となってはどうでもいいのですけれど?」
「君は君自身に拠って立ち、そして歩んでいけるからね。本当に凄いよ」
誰にも拠らず孤独に、しかし自由に飛ぶことが出来たエルシェア。
誰も追従できない高度で飛び回る少女の足を、初めて掴んだのがこの少年だった。
彼に勝てれば、あの時の自分を超えられる。
ディアーネと出会い、ティティスを拾い、胸に抱いた想いが間違いでなかったと確信できる。
そう考え、生まれて初めて努力を惜しまなかったこの三ヶ月であった。
「セルシア君、一つ教えてください」
「なんだい?」
「私を追い抜くまでの三ヶ月……どんな気持ちでした?」
「とても一言では語れないな……とにかく楽しかった。本当に、楽しかったよ」
「……なるほど」
戦術の引き出しの数が桁違いだった当時。
セルシアがエルシェアから学んだ技術は数多い。
その技術を模倣し、更に昇華して自分の新たな技巧を構築した。
そしてエルシェア自身に試し、初見のはずなのに破られる。
自分の技巧が通じるか、想像もつかない手段で堕天使が其れを打ち破るか……
この少女の反応一つ一つが、本当に楽しみだったのだ。
「僕からも、一ついいかな?」
「どうぞ」
「君がそちらの二人と出会い、歩き始めたのもほぼ三ヶ月だ。君にとって、其れはどんな時間だったのかな?」
「其れこそ、一言では語れませんが……私は強くなりたいのだと自覚したのは、この時期でした」
「そうか……」
セルシアが肩越しにフリージアに見向く。
執事の少年は懐から懐中時計を取り出し、蓋を開けて主に差し出した。
九時五十八分。
天使の少年は一つ頷き、その翼を大きく広げる。
セレスティアの固有能力である浮遊技能が、その身体を重力から解き放つ。
「ディアーネさん、あの脳筋蜥蜴男……お任せしますね」
「うぃっす」
「誰が蜥蜴か……」
「あながち間違ってもいませんがね」
「眼鏡、後で覚えとけよ!」
「ティティスさん、あの陰険モヤシ眼鏡……お願いします」
「も、もやし……?」
「……本当に、口が悪くなりましたね貴女は」
「いや、的確だろうよ」
「……」
見下ろす少年。
見上げる少女。
セントウレアが無言のまま、パイプオルガンと向き合った。
椅子に腰を下ろし、白く細い指が鍵盤に据えられる。
「エルシェア君。前回勝ったのは僕だ。この位置が、今の二人の構図になる」
「……」
「だけど、今の僕達に差なんてあってない様なものさ。そう……後、階段にしてほんの一つで、君は此処まで届くんだ」
「……」
「僕は此処に居るよ。さぁ早く、此処まで昇っておいで」
少年の右手が差し出され、見上げる少女を空へと誘う。
その手はとても美しく、そして暖かいだろう。
微笑して自分を誘う天使の隣は、きっと居心地がいいだろう。
それが分かっているからこそ、彼女は其処へ行く気が無い。
「敗者を見下すのは勝者の特権です。だからこの構図に文句はありません」
「……」
「ですがしばらくお会いしない内に、女性の扱いが更に随分不味くなりましたね? 誘いに女性の足労を請うというのは、正気を疑います」
「……」
「私は此処に居ます。だから、貴方が堕りていらっしゃい」
少女は右手を指し伸ばし、見下ろす少年を地へと誘う。
この堕天使の隣は、本当に居心地が良い世界だった。
既に道は分かれているが、その記憶が色あせることは無い。
だからこそ、彼は自分から其処に堕ちる事は出来なかった。
「僕は、其処にはいけないんだ」
「私も、其処にはいけませんよ」
天使の差し出した右手に、眩い光が握られる。
堕天使が指し伸ばした右手に、仄暗い闇が絡みつく。
その両脇に控える二人の仲間も、それぞれの武器を解き放った。
遂にセントウレアの指が鍵盤を奏でる。
壮麗な音色の賛美歌が、広い大聖堂を吹きぬけた。
「其れならば……引きずり昇げて上げるよ、黒翼天使!」
「では、引きずり堕ろすしかありませんね、光翼天使!」
空の天使と、地の堕天使。
二人の放った光闇の魔術が中空で激突する。
三学園交流戦優勝決定戦の火蓋は、こうして切って落とされた。
§
光と闇を引き裂いて、先陣を切ったのは竜と悪魔。
悪魔の武器はリリィから授かった大剣『オルナ』。
竜の武器は両の拳を覆う燐光『オーラフィスト』。
武器の間合いから先に射程に捕らえたのは、ディアーネの方である。
彼女は剣を頭上から、殺すつもりで振り下ろす。
「……良い剣だ」
「腕を褒めろよ」
頭上から落ちかかる魔剣を、右の拳で止めたバロータ。
完全にかみ合った両者の手応えは互角であり、武器の優劣は殆ど無い。
ディアーネは剣を手元で繰る。
不意に跳ね上がった切っ先は中空で弧を描くように、右からの逆袈裟に変化した。
後方に飛び、剣の間合いから退く竜。
悪魔の剣は逆袈裟から急静止し、バロータの正面から突きに変化して追い縋った。
「っ!?」
両手剣のような大型武器は、振りぬいた後の戻り動作が遅くなる。
バロータは空振りさせる心算だったが、ディアーネは相手の回避行動を確認してから切っ先を選択して来る。
剣の軌道からは右方向に身を逃し、突きに合わせて踏み込む竜。
しかし悪魔の切っ先は三度変化し、間髪居れずに横薙ぎの一閃へ。
同じショートレンジの武器とは言え、両手剣の長さは拳武器の比ではない。
剣の中ほどで捉えられたバロータだが、とっさに左手を挟み込む。
同時に膝から力を抜き、足を地面から一瞬浮かす。
振りぬいた魔剣はバロータの身体を吹き飛ばすが、彼女の手元には切った感触が皆無であった。
「っとと……あぶね」
「おお、すごいっす」
魔剣に接触した竜はまともに宙を飛ばされるが、彼は空でバランスを取り、何とか足から着地する。
オーラフィスト越しとは言え、オルナに触れた左手は少々の痺れを感じていた。
だが、振り抜かれた両手剣の腹部分から捕まったダメージとして考えるなら、破格どころの騒ぎではなく無傷と言っても過言ではない。
ディアーネは遠きタカチホ義塾で立ち会ったエルフの事を思い出す。
必殺と思われた斬撃は何故か手応えが無く、平然と戦闘を続行してきた少女。
竜の少年からはその時と同じ、柔らかい防御の技巧を感じる。
力任せのスタイルを予想していたディアーネは、苦笑と共に甘すぎた戦闘プランを修正した。
「バロータ先輩、実はこっそりと強かったんすね……」
「実はこっそりってどういう意味だよ。俺の扱い酷すぎねぇか?」
賞賛したディアーネは魔剣を正眼に構え、切っ先の延長線が竜の喉に向けられる。
バロータは右の拳を引き、左を前に残した半身に構えた。
現状では。ディアーネの斬撃は全てバロータを退かせている。
もしも先読みで避けられた後、その踏み込みを剣の軌道変化で封じられれば、このまま勝負は決められる。
お互いに魔法技術はなく、武器と身体が資本である。
リーチ差がそのまま、それぞれの勝敗因になるだろう。
ディアーネは迷わず踏み込むと、最短距離で相手に届く剣技を披露する。
「それで突きかよ!?」
舌打ちするバロータは、半歩退いて剣を避ける。
両手剣のような大型武器は、その自重を生かして叩き斬ることで真価を発揮する。
先が尖っているとは言え、突きは動く部位が少なく大きさを生かした威力が得難い。
実際にバロータは特に苦労した様子も無く、その剣をいなしている。
しかしディアーネも当てる心算で振っていない。
彼女は得物の切っ先を突き出すことにより、武器の長さを最大限利用する。
先端での攻撃を避けたとき、剣の本体との距離が自然と作られてしまう。
踏み込んで拳を当てなければならない少年にとって、この距離は非常に厄介な防壁として機能した。
「……」
更に追い縋るように突き出される悪魔の魔剣。
今度は左に軸をずらせど、少女は手元で魔剣を操り、常に武器の正面を相手に向けてくる。
触らせないが、踏み込めないというこの状況。
一見互角のようであるが、遠い間合いでは剣を振り回すディアーネが有利である。
その間合いに釘付けにされている現状は、バロータにとって少なくないストレスになった。
「……成る程、おめぇ態と二刀流してねぇのか」
「うぃっす」
「両手で剣を握るから、そこで梃子を使えるんだな……いや、振りも返しも速いこと速いこと」
「……」
「得物だけで悪かったわ。おめぇ普通に強かったんだなぁ」
バロータは再び右手を引き、左半身に構える。
ディアーネは腰をやや落とし気味に、重心を低く身構えた。
竜が右を引いたのは、利き腕に貯めを作る動作。
悪魔は視線でバロータの瞳を捕らえ、視界はその全身を納めるように意識する。
やがて竜が引いた右足が震え、次の瞬間少年の身体が突然少女に近づいた。
「むっ」
今度の先手はバロータ。
しかし初動を予期した悪魔は、間髪居れずに踏み込むと魔剣を再び突いて出す。
バロータの狙いは、ディアーネの振るう魔剣の先端。
双方が得物の有効範囲での接触にも関わらず、蹈鞴を踏んたのは悪魔の少女。
純粋な腕力と、何より身体の重さが違う。
ディアーネは平均よりも高めの身長を有するが、肉のつき方は華奢に分類される少女である。
バハムーンの平均値を持った少年には身体能力では大きな差があり、両者の衝突ははっきりと明暗が分かれた。
速度をなくして泳ぐ魔剣。
少女が武器の重心を自分のうちに取り込む間に、バロータは再び動き出す。
無理なく一歩を踏み込むと、左拳を鋭く振るう。
ディアーネは剣の根元で受け止めつつ、大きく後ろに飛び下がる。
しかしもともと、退き足よりも追い足の方が速い。
バロータはディアーネに倍する速さで踏み込むと、再び剣の内側に入る。
「っぐ、先輩少し加減する!」
「わりぃな。無理だわ」
至近距離を取りながら、鋭く細かい連打でディアーネの行動を封殺する。
其れはタカチホでの留学中に、ウズメに散々やられた事。
身体の小さなクラッズなら兎も角、大きく鈍重なはずのバハムーンに同じ事をされる現実が信じられない。
まるでウズメと戦っているかのような錯覚を覚えたディアーネ。
しかし直ぐに苦笑すると、その妄想を打ち消した。
相手がウズメであったなら、この時点で自分が無傷なことがありえない。
バロータの攻めは厳しくとも、今のディアーネなら対応出来るのだ。
「負けないよ!」
「おう、来いや」
不利な攻防の中、しかし有効打は許さずに剣の根元で捌く少女。
苦戦の中でも善戦を続けるディアーネに、バロータは不敵な笑みで答えた。
§
大聖堂の一角が、真紅の炎に包まれる。
煉獄の繰り手は妖精賢者。
その中から平然と歩み出るのは、エルフの光術師である。
多種多様の属性魔法を叩きつけるティティスに対し、執事の技法『魔法壁』で押さえ込むフリージア。
ある意味において最も分かりやすく、そして派手な攻防が繰り広げられていた。
「流石はティティスさん。相変わらず底なしの魔力をお持ちですね」
「……もう少し反撃とか試みていただけませんか?」
「貴女の攻勢に曝されながらの魔法行使は効率的ではありません。今少し大人しくなっていただかねば」
フリージアは右手で眼鏡を抑えつつ、左手で繰るのは『マリオネット』
本来は両手で扱うものらしく、その動作はややぎこちない。
しかし未だにこの少年は、人形を介した魔法行使を見せていなかった。
彼はティティスの要求を平然と却下し、自身を魔法の壁で覆う。
其れを見た妖精は、溜息と共に『ヘイルの杖』を放り出す。
代わりに腰のダガーホルダーから抜き放ったのは、保険医リリィから授かった短剣『パリパティ』。
古の預言者が使用していた武装であり、強力な魔法媒体としても使用できる一品である。
青白い魔力を火花の形で撒き散らし、派手な抜刀と共に身構えたティティス。
フリージアの瞳が感嘆に染まる。
「その短剣……以前はお持ちでなかったが、相当の武装のようですね」
「今の私には過ぎたもの……ですが、此処は使わせていただきます」
「ご自由に。いやはや……まさか手加減していただいていたとは。気を使わせてしまって、申し訳ありませんでしたね」
フリージアは出来の悪い妹を嗜める口調と共に微笑する。
丁寧な物腰の中に、隠そうとしていない毒を感じた妖精賢者。
ティティスは短剣に魔力を流し、詠唱と共に解き放つ。
『ナイトメア』
其れは彼女が慕う堕天使が好む、闇の魔法。
しかも賢者たるこの少女が扱う闇は、堕天使の其れを凌駕する。
強力な媒体を通して生み出された暗黒の波動は、華奢なエルフの少年をいとも容易く飲み込んだ。
魔法とは術者が認識した破壊対象と接触したとき、手応えとして術者に帰ってくる感覚がある。
ティティスの放った魔法は、威力に相応しい強力なフィードバックを両の手に返してくれた。
それにより、少女は魔法の直撃を確信する。
対策無しでまともに喰らえば、パーティー単位で殲滅を掛けられる大魔法。
たった一人の少年に行使するには、いささか過ぎた威力である。
しかし尚、ティティスは手を緩めない。
『イグニス』
少女から放たれたのは、古の炎魔法。
大聖堂の真紅の絨毯が、そのまま炎を生み出す母体と化す。
下方から伸びる炎の舌が、今だ消えない闇ごと少年を飲み込んだ。
使い手の著しく少ない、古代魔法。
その連続使用という離れ技を行使したティティスは、一つ息をついて三度目の詠唱を開始する。
周囲で見守る生徒達から、小さな悲鳴が漏れる。
彼らは教師陣が張った結界の内部で守られている。
しかし実際に戦っている者達は、当然その加護は無い。
二つの古代魔法を受けたエルフの少年に対し、更なる魔法を叩き込む心算のティティス。
その行為は行き過ぎたダメ押しに見えたのだろう。
ギャラリーの一部が青褪めた視線を送る中、賢者の魔法は完成した。
『トール』
其れは雷の古代魔法。
三学園交流戦本戦において、タカチホ義塾の式神の多くを飲み込んだ神の槌。
大聖堂の天井を撃ち抜き、巨大な音と光を侍らせて降り注いだ雷は、闇と炎を引き裂きながら圧倒的な破壊力を撒き散らした。
「……はぁ」
一つ息をついたティティスは、今だ荒れ狂う雷に目を凝らす。
その瞳に油断は無く、勝利に驕った様子は無い。
やがて雷が収まった時、其処にいたのは無傷の少年。
フリージアは何事も無かったように、古代魔法の三重奏を三度の魔法壁でいなし切った。
周囲から感嘆と驚愕のざわめきが起きるが、当事者達はそれ程穏やかな心境ではない。
「……殺す気ですか?」
「そんな心算は無いんですけど……壁を重ねられると、困るんです」
「ふむ……おや?」
フリージアは返答しようとし、その台詞の途中で糸が切れたマリオネットを支え抱き上げる。
賢者の大魔法は執事の魔法壁を崩し、その破壊力を極々僅かながら通したのだ。
「これはこれは……」
フリージアの戦闘スタイルは非常にシンプルである。
コストパフォーマンスの良い魔法壁を只管重ね、持久戦に持ち込んで相手の戦闘意欲を削り取る。
相手が魔導師である限り、この方法で完封する自信が少年にはあった。
ティティスの様に、魔法壁を一度の魔法で破壊してくる相手には、制圧までに時間が掛かる場合もある。
しかしこの調子で攻防を続けた場合、必ずティティスが先に力尽きるという計算も立っていた。
「ふぅ……はぁっ」
ティティスは深く静かに息を吸い、再びパリパティに膨大な魔力を流し込む。
生半可な魔法では壁は壊せず、破壊出来なければ、次に重ねられた壁は更に強固になってゆく。
少女としては、一発で必ず壁を壊さねばならず、消耗戦に引きずり込まれたとしても手を緩めることは出来なかった。
先の見えない泥沼の予感に心が揺らぐが、諦めるという選択肢は最初から存在しない。
「……」
視線を送る余裕すらないが、彼女の先輩達は今も頑張っているだろう。
フリージアの二人の仲間が、今だこの戦線に参加してこないのだから。
ならばこそ、最初に自分が脱落するわけには行かない。
ティティスにとって、憬れの天使と悪魔と共にあること。
決してその歩みを妨げず、お荷物ではなく仲間として傍にありたかった。
ディアーネが英雄になりたいように、エルシェアが強くなりたいように、ティティスはこの二人と一緒にいたい。
歓迎の森で一度死んだ彼女にとって、今を生きる理由はたったの此れだけ。
だからこそ、必ず実現しなければならない願いだった。
「いきますよ、モヤシさん!」
「まぁ、筋力に恵まれた体躯では無いのは確かですがね」
口の悪い台詞が、全く似合っていない少女。
慕う者の口調を真似て、自分を奮い立たせているのが少年には良く分かる。
嘗てバロータがそうだった様に、無理だろうが無茶だろうが必死に足掻くこの少女の姿は、相手の心に響くのだ。
なりふり構わず背伸びするティティスを微笑ましく感じたフリージアは、敬意を込めて全力で叩き潰す事を胸に誓う。
手加減は……しない。
『セイレーン』
『魔法壁』
指向性を持った水が濁流と化して、少年と人形を包み込む。
ティティスが攻めて、フリージアが守る。
この流れが一度でも変わったときに勝負は決まる。
光術師の最秘奥『イペリオン』。
光の古代魔法究極奥義は、既に収めている少年である。
その破壊力は他の古代魔法の群を抜く、正に必殺技だった。
華奢な妖精賢者の止めとしては、些か過ぎた代物だろう。
妖精の魔力を削りつつ、エルフは最強の逆撃を叩き込む瞬間を狙っていた。
§
それぞれが最初に放った魔法を追いかけるように掛けた追撃。
セルシアが腰の鞘から抜き放ったのは、彼が昔から愛用する魔法仕掛けの細剣である。
堕天使の頭上から天使の刃が降り注ぐ。
エルシェアは『シックル』で細剣を遮り、至近距離から少年と睨み合った。
「ん?」
セルシアの刺突はエルシェアからすれば軽かった。
恐らく全身筋力では堕天使に大きく分がある。
しかしエルシェアは天使を押し返すことはせず、むしろ自分から退いて距離を作る。
セルシアは追わず、一度足を地に着けた。
「……」
エルシェアが退いたのは、衝突時に感じた違和感である。
固い金属同士でぶつかった筈なのに、手の中で鎌が妙に頼りなく、歪むような感触を持った。
堕天使の扱うシックルは、良い品ではあるものの既製品。
セルシアの扱う『魔法のレイピア』と比べたとき、見劣りするのは致し方ない。
エルシェアが見た限り、セルシアの細剣は刀身が百センチには届かない両刃の作り。
握りを保護する大きな鍔と、手の甲を覆う湾曲した金属が付けられた、標準的なつくりである。
右手に剣を携えた少年は、左手には何も持っていなかった。
細剣は相手の攻撃を受け流し、隙を作って急所を一突きするための武器である。
その為に攻め込まれたときの受け方は多岐に渡って研究されているが、其れを実践するには生半可な努力と才能では不可能。
しかしこの少年が其れを修めていることは、既に少女は知っていた。
エルシェアは右足を引いて半身になると、左の『アダーガ』を相手に突きつけるようなシールドスタンスを取る。
セルシアは両肩を脱力させ、最速の剣を披露した。
「行くよ」
掛けられた声すら追い抜いて、セルシアの細剣が迸る。
突き出されるレイピアの軌道へ、正確に盾を割り込ませる堕天使。
セルシアは自分の剣が止められると、更に剣速を上げて再び突く。
目に近く庇いやすい顔と上体を集中的に狙いつつ、意識を其処にひき付ける。
エルシェアが盾の位置を変えなくなってくると、レイピアを翻して足を狙う。
とっさに飛び退いて避けるが、彼女の右腿には一筋の傷が刻まれた。
「っ」
堕天使は今のフェイクは読めた。
その上で回避行動を取りながら、尚間に合わなかったのである。
これこそエルシェアの想像を超えて、少年が強くなった事を証明する傷であった。
エルシェアは一つ息を吐き、自らセルシアに向かってゆく。
しかし傷が重いのか速度は乗らず、右足の踏み切り時に傾くように前傾になる。
セルシアが眉を潜めたその瞬間、送った左足で跳躍を仕掛けた堕天使。
彼が気づいたときは、眼前に魔力刃を形成したアダーガが突き出されていたのである。
「っく!?」
セルシアは咄嗟に右にステップし、エルシェアの盾の外側に回る。
その瞬間、彼の頭上を襲うシックルの刃。
例え片手鎌とは言え、柄の長いその武器はミドルレンジに分類される装備である。
相手が武器の無い左側面に居ようとも、柄を長く持てば十分届く。
天使が真後ろに下がったとき、少女はアダーガを前面に構えたまま向き直る。
常に盾を構えられ、その盾から刃を突きつけられているというのは、対峙する者からすると途轍もない圧力になる。
少年は一つ意識を引き締め、堕天使に立ち向かう。
両者は同時に地を蹴るが、先に相手を間合いに収めるのはエルシェアの鎌。
彼女は鎌の柄を最大限長く持ち、しかも持ち手の指先でペン回しの様に旋回させる。
変幻自在な上、少年にとって初めて経験するその太刀筋に、セルシアは不本意な守勢を強いられた。
「流石だね」
「……割と粘りますね」
盾の魔力刃を突きつけられ、その外側から襲い掛かる片手鎌。
形状がL字の為、盾の後ろからでも相手を刈り込む事を可能にしている。
非常に厄介な一人連携だが、セルシアは今だその刃に触れていない。
盾は正面からポイントで突いて牽制し、間隙に滑り込む鎌は剣身で最も硬いフォルトで受け止める。
更に高速のフットワークでエルシェアを揺さぶった。
速度ではセルシアが有利。
しかし翻弄できるほどの差は無かった
現状でエルシェアは鎌の間合いを維持しつつ、セルシアに後、半歩の間合いへの進入を許さない。
最も盾と鎌で繰り出される波状攻撃を、細剣一本で凌ぎ切る技量である。
二人の戦力は拮抗し、攻守は一方的なれど膠着した状況が続く。
「……」
均衡が崩れ始めたとき、その異常に気がついたのはギャラリーの……少なくとも、生徒達の中には居なかった。
気づいたのは其れを仕掛けたセルシアと、攻め続けていたエルシェアのみ。
堕天使の鎌を剣の根元で受け続けて居た少年は、初めて中腹部のミドルセクションを使って受け流すことに成功したのだ。
徐々にエルシェアの鎌の軌道に慣れてきたセルシア。
受け止めてしまえば、力で勝る堕天使に対し、一瞬でも動きを止められる。
しかし受け流すことが出来るなら、剣の動きは取られても体の動きまで縛られることは無い。
少女自身最初の太刀合わせで武器強度の違いを理解し、本気で振り回せていないという事情もあった。
「……」
更に数度を切り結んだとき、セルシアはレイピアのカッティングエッジを合わせて来た。
鎌は細剣の刀身を沿うように滑り、天使は自然に踏み込みながら鎌の持ち手を斬りつける。
咄嗟に手を引きつつ、至近距離からアダーガの刃で切り返す少女。
セルシアはリーチの短い盾の間合いから、高速のステップで身を逃がす。
双方の刃は互いの身体には届かない。
仕切り直しになった時、周囲の観客から割れんばかりの歓声が送られる。
しかしその対象たる二人のセレスティアは、最早相手のことしか頭に無い。
「良いタイミングで切り込めたと思ったのにな」
「あの切り返しは、昔も見せていただきましたよ」
「ああ、そうだった……じゃあ、此処からは未体験だね」
セルシアは一つ息を吐くと、緩く脱力した自然体になる。
剣を構えることも無く降ろしたその姿勢は、次の初動を読みづらい。
其れが決して油断や慢心の類から来る構えではないことは、少女が背中に感じる寒気が証明していた。
エルシェアは踏み込むと見せかけ、重心を一瞬前に傾ぐ。
その動きだけ見せ付けると、間髪居れずに魔法を放つ。
『ダクネスガン』
『シャイガン』
堕天使の声に半瞬遅れ、天使の声が追いかける。
舌打ちしたエルシェアは、両者の中間で炸裂する魔法から退いた。
多少のフェイントでセルシアの隙は作れない。
今の彼と剣の間合いで勝負したくなかった故の魔法攻撃だが、両者が扱う魔法には威力的な差異は殆ど無い。
迎撃されてしまえば、例え先撃ちしようともダメージは通せないだろう。
エルシェアが次手を構築した時、光と闇を切り裂くように疾駆するセルシア。
彼はこれまでで最速の踏み込みで少女の間合いに侵略する。
盾を突き出した堕天使に対し、少年はサイドステップで右回り。
其れまでと同じように盾の外側に回りこんだ天使に対し、反射的に振るわれた堕天使の鎌。
セルシアに会心の微笑が閃き、右手のレイピアが迎え撃つ。
その太刀筋が生み出した銀光は、三本殆ど同時であった。
「あ!?」
三つの光速剣は全て少女の鎌に吸い込まれる。
耳障りな音と共に、斬り飛ばされたシックル。
武器強度の違いを意識していたのは、セルシアも同様であった。
少女の武器が脆いのなら、その優位性を生かして破壊するのは定石。
開幕でその事に気づきつつも此処まで為し得なかったのは、エルシェアの力量がセルシアの過去の対戦相手よりも飛び抜けていたためである。
少年は手を緩めることなく、再び細剣を翻す。
エルシェアは反射的に退きそうになる足を止め、高速で迫る刃に左の盾を合わせて凌ぐ。
彼女にも狙いがあったため、此処で引くことは出来なかった。
攻撃を完全に放棄し、負けない事に徹した少女。
アダーガは攻撃能力を有する盾だが、その刃は一尺程であり、拳武器程度のリーチしかない。
片手剣、しかも距離の長い突きを得意とするレイピアと、これだけで対峙するのは難しかった。
「……」
攻守は逆転し、一方的に切り刻まれる堕天使。
セルシアは優位に立ったにも拘らず、決して油断することなく細剣を小さく早く操った。
細かい連撃でエルシェアの防御を揺さぶり、どうしても生まれる隙をレイピアで突く。
少年の剣は遂に少女の身体を捕らえ始める。
しかし堕天使が着込んだ白衣は意外な強度を見せ、掠った程度では切り裂けない。
「なに?」
「飾りで着込んではいませんよ」
その素材に対刃繊維を使用しているらしい少女の白衣は、セルシアの細剣を凄まじい摩擦で絡め取る。
速度を奪われた刃は、切る能力を減殺されて繊維を破壊することが出来なかった。
堕天使は致命になる突きを盾で止め、滑り込んでくる斬撃は身体を逃がして白衣で凌ぐ。
天使の刃は未だ、少女を服の上から撫でているに過ぎなかった。
「君は、強いな」
「余裕ですか?」
「いや。本当に、心からそう思うんだ」
その年にしてはやや幼げで無邪気な微笑。
少年はこの堕天使を心から認め、その力量を純粋に楽しんでいる。
相手の武器を折り、魔法攻撃も相殺した。
高威力の盾は残されているが、最早その間合いにセルシアが踏み入る必要は無かった。
彼の細剣はエルシェアを翻弄し、捨て鉢な反撃を試みる以外に少女に出来る事は無い。
そう考えたセルシアは、凄まじい違和感を覚えて背筋が凍る。
何か思考の落とし穴に嵌っている気がした。
「……っ?」
攻める天使と守る堕天使。
現状で圧倒的有利を確保した少年。
エルシェアの徹底防御は、仲間の到着を待つための時間稼ぎだと説明できる。
実際に少女は攻めの一手も返せず、成す術がないではないか。
堕天使に自分を打倒する術は無い。
……本当に?
「う……おぉおおおおお!?」
少女が足を止めたのは、自分を囮にセルシアの足も止めるため。
セルシアは常の余裕をかなぐり捨てて、床に飛び込むように身を伏せる。
間髪入れずに堕天使の蹴りが打ち込まれ、脇腹で受けた天使は鈍痛で息が詰まる。
それでも彼は動きを止めず、床を転がって避難した。
優雅さも華麗さもない無様な逃走だが、それが少年の命を救う。
彼が先程まで立っていた場所には、身の丈大の黒球が揺っている。
遠目から見ていたギャラリー達は、それが天井付近に出現して、ゆっくりと降りてきた存在であると気づいていた。
堕天使が好む闇系魔法ではない。
この闇は仄暗い暗黒ではなく、虚無の漆黒。
すなわち……即死魔法。
――『デス』
エルシェアは再び黒球を生み出すと、少年に向けて解き放つ。
セルシアは動揺を抱えたまま跳ね起きると、二つ目の死を何とか避けた。
黒球の速度は人が歩く程の速さしかない。
回避は比較的余裕を持って行われたはずであるが、天使の背中は冷たい汗で濡れている。
畏怖の視線を相手に向ければ、艶然と微笑む堕天使と目が合った。
無手となったその右手に、魔力で編まれた黒い球体が二つ。
手の中で弄ぶように回しつつ、少女は無邪気に問いかける。
「どうしたの? もう、笑えないの?」
「君は……流石に洒落になっていないだろう」
「そうですか? 即死魔法でしたら、遺体を損傷させずに決着できます。リリィ先生もいらっしゃいますから確実に蘇生出来ますのに」
「あぁ……成る程ね。それが君の慈悲の示し方なのか」
セルシアは苦笑の発作を、深い溜息と共に吐き出した。
現在は蘇生魔法の技術革新が進み、ロストする危険は激減した。
しかし遺体そのものが消し飛んでしまえば、蘇生魔法など掛ける余地が無い。
その意味ではティティスとフリージアの戦いは非常に危険で容赦の無いものである。
だがティティスは先日も、ジャーナリスト学科の生徒を大魔法で吹き飛ばしつつ、その全員を軽傷で済ませていた。
恐らくこれこそ、自分の命の限界を見届けた少女が会得した、神業とも言える魔法技術。
相手によってそれぞれに異なる生死の境界を見切り、ギリギリの手加減で命を奪わずに戦闘不能にする奇跡の呼吸であったろう。
エルシェアにはそんな事は出来ない。
だからこそ、彼女は『即死』を選択した。
「少し甘く見ていたよ。そうだね……僕と君の戦いは、どちらかの息の根が止まるまで続くのかもしれない」
「ああ、やっとその気になってくださったんですね?」
「うん。すまなかったよ。僕が、本当に甘かった」
セルシアの表情から笑みが消える。
それだけで対峙する堕天使は、少年の中身が入れ替わったのを理解した。
此処から先のセルシアは、プリシアナ学園生徒会長では無い。
生まれた時から兄という、未だ超えられ無い巨大な壁に挑み続ける、病的なまでに不器用で一途な少年。
エルシェアを地に堕とした最強のセレスティアが、彼の内面から浮上する。
快感に近い寒気が背筋を伝い、堕天使がその身を震わせた。
後も先も存在しない。
お互いに今を勝つため全力を尽くす。
「此処からは死に物狂いさ。行くよ、エルシェア!」
セルシアは腰のダガーホルダーから一振りのナイフを抜き放つ。
細剣を操る者が本来持つべきものは、守備力を重視した左手用レイピアとも呼ばれる短剣である。
しかし少年が手にした得物は、凶悪な破壊力と石化の効果を備えた『ゴルゴンナイフ』。
セルシアの両手が翻り、少女を襲う三刺三斬。
「先輩とか、様とかつけなさい、年下のセルシア君」
堕天使は三筋の斬撃を盾で防ぎ、三つの刺突を足で避ける。
それぞれに慕う教師が見守る中で、二人の第二ラウンドが始まった。
§
後書き
戦闘描写等という自分に過ぎた代物をどう扱うか。
迷いに迷った挙句やってみる事にした第十五話を此処にお届けいたします。
遅くなって真に申し訳ありませんでしたorz
実は書きながら、表彰式まで何事も無かったかのようにスキップして逃げようかとかずっと考えておりました^^;
セントウレア校長先生が何食わぬ顔でサブ学課の説明をしてくれる絵までは浮かんでいたんですが、二人のセレスティアの直接対決をテーマに此処まで引っ張ってきた話で其れをやったら負けですよね魂的にorz
因みに本編では難しいことはありません。
いちごミルクを適当にぶっぱして何時の間にか勝っていましたw
そしてこれ、まだ終わっていません。
前編に当たる話になるので、後編も同時に出したかったのですが前回から時間が掛かってしまったので先に上げさせていただきます。
とりあえず此処で撒いた伏線の回収を頑張らないと……
戦闘の中でティティスさんが水魔法を使っています。
四話辺りで氷系使っておりましたが、その後覚えなおしたということでお目こぼしを(*/□\*)
いや、水辺でもない限り相手を殺傷出来るほどの水を何処から確保するんだという部分で納得行かなかった過去の自分でしたが……まぁいいか、魔法世界のファンタジーだしと少し大人になったりふぃです。
あ、ごめんなさい石投げないで石。・゚・(ノД`)・゚・。