タカチホ義塾……
其れは遠い移民の末裔が設立した、大陸最南端の冒険者養成学校である。
砂漠の中に立つその学び舎は威風堂々たる構えを見せ、其処で学ぶ生徒は厳しい寒暖の差からなる環境に耐えねばならない。
この地方で育つ屈強の冒険者はモノノフと呼ばれ、彼らがこなして来た修練は三学園で最も厳しいとの評価すらあった。
しかし現在、この学園でタカチホの生徒の姿は全く無い。
他二つの学園とは明らかに成り立ちの起源が異なるこの学園は、講義のカリキュラムもやや異なる。
特徴的なのが元旦から七日までを完全休講にする仕組みであり、生徒達は滅多に無い纏まった休みを過ごしていたのであった。
「ごめんねエル。なんかつき合わせちゃって」
閑散とした学園の廊下に、やや沈んだ少女の声が響く。
少女の装いはタカチホの雰囲気にはそぐわない洋風の赤い制服。
その制服の上には巫女装束の一つである千早をはおり、背中には身の丈を超える大剣を背負っている。
一見すると只の細身の少女であるが、その頭部には人あらざる種族の証、二本の角を生やしていた。
「大丈夫ですよディアーネさん。お陰で謹慎を免れたのですから」
ディアーネと呼ばれた悪魔は、にこやかな相棒の答えに苦笑した。
相棒は先日プリシアナ学園で知人のエルフと大喧嘩し、攻撃魔法によって学園の一部を瓦礫に変えた。
喧嘩の原因は当事者達が揃って口を閉ざし、学園側は双方に謹慎一週間を申し渡したのである。
「びっくりしたよ? 学校派手に壊れてるし、エルは保健室運ばれたって聞いたし」
「反省しています。私とした事が……光術師と魔法戦をしてしまうとは、正気ではありませんでした」
「反省点って其処なんだ……?」
「それ以外に見出せません。殴ればよかったんですよ……一方的に勝てる勝負で、共倒れに持ち込まれてしまうとは……」
実質負けに等しいと、エルシェアは溜息と共に肩を落とした。
悪魔と同じ制服の上から白衣を着込み、桃色の長い巻き毛を左手で弄ぶ堕天使。
背には小さな少女を背負っており、その為に右手は背中に回されている。
「ん……先輩、着きました?」
堕天使の背中で弱々しい声がする。
それは百センチ程の身長と、背中に生えた透明の羽が特徴的なフェアリー。
長い金髪と青い瞳が美しい少女だが、今は瞳と同程度に青褪めた顔色が痛々しかった。
「ティティスちゃん。目、醒めた?」
「あ……はい」
ティティスと呼ばれたフェアリーは、悪魔の声に小さく答えた。
「すいません、ご迷惑を……」
「んー。しょうがないよ。ティティスちゃん、砂漠の夜を知らなかったしね」
「いえ……結局私だけ倒れたのは自己管理が駄目だったです」
堕天使は落ち込む後輩を両手で背負いなおす。
妖精は堕天使の首に腕を回し、しがみ付くようにくっついた。
エルシェアの髪がティティスの顔近くにあり、強い日差しによって熱気を孕んでいるのが分かる
「……」
『飢渇之土俵』と呼ばれる砂漠に入ってから、此処につくまで三日。
ティティスが体調不良で倒れたのは初日であり、この堕天使は丸二日分は妖精を背負って砂漠を歩いた。
砂漠を歩く時は、日差しの緩い早朝と夕方を選ぶ。
それでも焼かれた様な堕天使の髪の匂いが、小さな妖精の罪悪感を煽る。
その時、何時の間にかエルシェアと並んでいたディアーネが、ティティスの頭を撫でてきた。
「ティティスちゃんもごめんね? つき合わせちゃって」
「そんな……置いていかれたら、私きっと泣いてますよ」
「うん、そうだね。でも、今回は此処で休むんだよ?」
「はい」
小さく頷いた妖精は、堕天使の背中で瞳を閉じた。
直ぐに小さな寝息が聞こえ、その寝顔に悪魔の頬が自然と緩んだ。
「それにしても、サルタ校長先生直々の呼びかけとは……ディアーネさん、今度は何をやったのですか?」
「ん……三学園交流戦で怪我人を出した位だけど、あれは試合の中での事のはずだしなー」
「他に呼び出される心当たりは?」
「……正直無い。頂いた年賀状に、今月中に顔を出して欲しいってあったんだよね」
「……態々パーティーでと注釈を付けられ、しかも歩いてフル装備で来いと言うからには、予想はついてしまうんですがね」
「修練……私達風に言うとクエストか。それ絡みなのは間違いないかなぁ」
其れはプリシアナ学園を出発した当初から考えていた事ではあった。
ディアーネはこの地へ留学経験があり、タカチホの修練もある程度知識がある。
またエルシェアとしても厳しい事で有名な修練に興味があり、かなり乗り気で此処まで来ていたのだ。
「所で、ディアーネさん……」
「うぃ?」
「今月中と言う事でしたら、態々タカチホの年始休講中に来なくても良かったのではありませんか? 流石にご迷惑な気が……」
「うぐっ……そうなんだけどね? 私ちょっと、此処の生徒さん達苦手で……」
ディアーネはタカチホへ留学した際、何を間違えたのか学園の裏番としての地位を確立してしまった。
既に殆どの生徒が廊下で出会っても壁際に寄ると言う徹底した状況の中、先日の三学園交流戦の事もある。
最早タカチホ義塾の生徒達にとってディアーネの心象は、『非常に怖い悪魔の娘』に固定されているのであった。
例外も無いではないが、自分と関わる事でその生徒まで同じように見られてしまうと言う懸念がディアーネにはある。
結局は会わない事が双方の為になると考えた悪魔は、この時期に用を済ませてしまう事にしたのであった。
「リリィ先生がどんな気持ちでいたか、私分かった気がするよ」
「……お辛い目に遭われていたのですね?」
「留学が結構辛かったのは、きっとお互い様だよ」
「……そうかもしれませんね」
本人の全く意識しないところでマイナス感情を持たれ、其れが修復不能域になっていたと言う点では、プリシアナ学園の保険医と同じである。
ディアーネはため息を漏らし、本来は皆に好かれたであろうリリィの不運に共感した。
気持ちが沈みそうになる悪魔だが、当面の目的地が見えたことで強引に顔を上げる。
「とりあえず其処が保健室っすよ」
「何でしょう……保健室が中央の本校にあるという事に凄い違和感があります」
「プリシアナの保健室は端っこだもんね」
「リリィ先生……不憫な子っ」
そっと目頭を押さえる演技をしたかった堕天使だが、両手で後輩を背負っているため諦めざるを得なかった。
ディアーネは堕天使が本来ならやったであろう演技を脳内で補完し、笑みを浮かべながらその戸を叩く。
「ウズメせんせー? いませんかー」
「どうぞぅ」
ディアーネが軽い声を掛けると、中から甘ったるい返答があった。
其れがタカチホ義塾の保険医のモノである事は、悪魔も堕天使も承知している。
ディアーネは保健室の戸を開け、堕天使は一礼しつつ扉を潜る。
「失礼します」
「ウズメせんせ! お久しぶりー」
「いらっしゃい、ディアーネちゃん。そっちの相棒ちゃんも、お元気そうねぇ」
「ご無沙汰しております、ウズメ先生。この間はろくにご挨拶も出来ず、真に申し訳ありませんでした」
「いいのよぅ。あの時はお互い、あまり時間も無かったしねん」
ウズメはディアーネがタカチホ義塾に留学した際、直接の指導を担当した教師である。
そしてディアーネはこの地でエルシェアと待ち合わせをしてプリシアナに戻ったため、合流の際に一度だけ、エルシェアとウズメは面識を得る事が出来たのだ。
当時は留学期間を超過していた事と、三学園交流戦が終わっていなかった事もあり、双方がそれぞれの事情で忙しかったのだが。
「ディアーネちゃん、エルシェアちゃん、色々とお話したい事はあるんだけど……とりあえず此れだけ。交流戦優勝おめでとぅ」
「ウズメ先生のご指導のお陰っすよー。そういえば、ウチの先生がお手紙書いてくれてたっすよね?」
「グラジオラス先生からは、お手紙頂いてるわん」
交換留学は生徒だけではなく、その生徒を指導する教師同士の情報交換の機会でもある。
今回のグラジオラスの手紙にはウズメの指導に対する丁寧な礼と、ディアーネに関する情報の交換。
そして生徒達全体の風潮や今後の予想、それぞれ良い面や懸念される不安等が記されていた。
生徒が校内での講義より実戦を重視するのは、別にプリシアナに限った事ではない。
タカチホでも同様の現象は見られ、生徒達に中々基礎を仕込めない現状は問題視されているのである。
その意味では、今回ディアーネ達のような留学生が交流戦で優勝したというのは小さからざる出来事だった。
「今回は、私の教え子とカーチャの教え子が同じパーティーにいたでしょう?」
「うぃっす」
「そして優勝したのがプリシアナ学園。三学園全てが指導に関わった生徒のパーティーが優勝してくれて、とっても角が立たない結果になったのよん」
「そういえばそうっすね」
「うん。だから頑張ったディアーネちゃんには、せんせーハナマルあげちゃう」
「ありがとうございます」
しっかりと頭を下げて礼をする悪魔を、目を細めて頷く保険医。
其処でウズメは一度表情を改め、堕天使が背負う少女に視線を投げた。
「砂漠の熱に当たったかしらん? とりあえずお布団に寝かせましょ」
「すいません、お願いします」
ウズメは手際良く寝具を用意し、エルシェアによってティティスが床に寝かされた。
保険医の手が妖精の首筋に伸び、脈と同時に熱感を測る。
「失礼」
ウズメの手が首からティティスの胸元に添えられる。
保険医は瞳を閉じて視覚を遮断し、一時的に聴覚と触覚を鋭敏にする。
触った感触と伝わる振動で肺の雑音を判別した保険医。
触診から少女の身体にやや熱が篭っているのを診て取ったウズメは、氷嚢を取ってティティスの首の裏に宛がった。
「先生、おでことか冷やさないっすか?」
「熱を下げる時は、太い血管を冷やさないと効果が薄いわぁ。おでこも冷えない事はないけれど」
「おお……私てっきり氷嚢ってつるして額にのっけるもんだと……」
「大きな血管が通っているのは、どんな種族でも大体首の裏、鼡径部、脇の下ね。此処を冷やすと熱が取れるけど、脇は肺も一緒に冷やしてしまうから要注意ねん」
「ティティスは、大丈夫でしょうか?」
「多少脈が早くて身体が熱っぽかったけれど……寝息も普通だし肺雑も無い。頭部だけ冷やして、水分をしっかり取って様子を見れば落ち着くはずよん」
「そうですか……よかった」
堕天使と悪魔は互いの顔の中に同じ安堵の色を見出し、深い溜息をついた。
「所でウズメせんせ。私達、サルタ先生に呼ばれているんだけど心当たり無いっすか?」
「あるわよん? というか、こっちの先生の職員会議で決まった事だから教師は全員知ってるわぁ」
「おお、なんす?」
「其れはほら……校長先生の口から、直接伺ってもらわないとねん」
「そりゃそうか……」
「大丈夫。悪いお話じゃないはずだから」
「其れを聞いて安心しました。私はほら……こっちじゃ評判良くないっすから」
寂しげに笑う相棒を見たくない堕天使は、一つ咳払いして話を切った。
ディアーネとウズメの視線を受けても表情を変えないエルシェアは、ティティスの額を撫でながら言った。
「それでは、ウズメ先生。ティティスの事をお願いします。あまりサルタ先生をお待たせするわけにも行きませんので」
「そうね。職員室の場所は、ディアーネちゃん分かるわよねん?」
「うぃっす」
「では、行ってらっしゃい。頑張ってね」
二人のプリシアナ学園生は、ウズメに一礼して保健室を後にする。
送り出された時の最後の言葉は、『頑張ってね』だった。
プリシアナ学園の教師の通例となっている『お行きなさい、プリシアナの子らよ』では無かったことに、少しだけ違和感を覚える悪魔達であった。
§
ディアーネの案内で職員室に到着したエルシェアは、正面に見慣れぬ熊を発見する。
「熊の置物を上座に置くとは珍しい……」
「っちょ!? エル其れ違うっ」
堕天使の真剣な疑問に対し、やはり真剣に静止を掛けてくる悪魔。
ディアーネは目の前の巨大熊のような男が『ドワーフ』である事を知っていた。
そして悪魔が止めに入ったときには、堕天使もソレが置物で無い事には気づいた。
置物と思っていた毛むくじゃらが、のっそりと動いたからである。
「良く来てくれましたね、プリシアナの生徒達」
「初めまして。サルタ校長先生」
「エル! 知ってて熊とか置物とか言ってたの!?」
「いいえ? 知りませんでしたけれど、校長先生がドワーフだという事は存じ上げておりました。当人だと気づいたのは今ですけど」
「はっはっは。物怖じしない娘さんですね。所で今しがた、ウズメ先生から内線がありました。仲間が一人お倒れになったとか……」
既に事情を知っているらしいサルタに、二人は顔を見合わせた。
内線と言うのは念話か、それとも『連絡水晶』のようなものか。
通信手段が気になった堕天使だが、先に正気に戻ったらしい相棒が話を続けていた。
「はい。砂漠の暑気にやられたようです」
「そうですか……彼女には、ゆっくりと此処で養生していってください」
「ありがとうございます、サルタ校長」
巨大なドワーフは温和な笑みを浮かべて頷いた。
堕天使は相棒とサルタの会話を聞きながら、その人柄を観察する。
縦にも横にも規格外の巨体。
大人のドワーフならエルシェアも見たことがあるが、此処まで育った獣人を見たのは始めてであった。
並みの『バハムーン』よりも体躯に恵まれ、しかも堕天使が見る所、アレは全て筋肉で出来ている。
にも拘らず暴力的な印象を受けないのは、穏やかな表情とモフモフの毛並みによるものだろう。
特に顔に刻まれた笑い皺が、この笑みが本物であるという事を教えてくれる。
「しかし、困りましたね……今回皆さんをお呼びしたのは、ある修練を受けていただきたいと思ったからなのです」
「態々お話を持ってきてくださったと言う事は、その修練には受領条件の様なものがあるんですか?」
「はい。心技体を備えた生徒であると私が認め、タカチホの教員の合議でもそう認められた者……ですね。実は、この修練を紹介出来る方はあまり多くありませんでした」
堕天使と悪魔は一瞬だけ視線を合わせ、それぞれの思いを確認する。
お互いに、この修練を受けないという選択肢は持っていない。
「その修練は是非受けてみたいと考えておりますが、具体的な内容を教えていただけないでしょうか?」
「内容は、さる場所に安置されている『武芸百般之目録』を持ってきていただくこと。報酬は、『侍学課』の履修許可です」
「おお……侍学課って有名だけど、どんな学課か知っている人が殆どいなかったっすね?」
侍学課はタカチホ義塾の代名詞と言っても過言ではない。
実際に他校の生徒にタカチホで思い浮かぶ学課と聞けば、侍学課を挙げるモノが殆どである。
それだけ有名な学課であるにも関わらず、その内容を知るものはあまりいない。
存在している事は確かだが、内実が知れない不思議な学課。
ソレが侍学課である。
「その通りです。侍学課は強さのみならず、或いは強さ以上に心の在り様が問われる学課。故に、誰にでもお勧め出来る学課ではありません」
「私達は他校の生徒ですが、構わないのでしょうか?」
「心技体を備えた若者であれば、所属は問いません。侍の武士道は、後世に伝えて行きたいモノ。その能力が認められるのに所属で制限してしまっては、可能性を細く狭くしてしまうだけですから」
「成る程……」
「ですが貴女方は今、仲間を一人欠いた状態。それでこの修練をこなすのは難しいと考えます」
「難しいですかね?」
「恐らくは……」
ディアーネ達のパーティーは三人組みである。
その中の一人が欠けるということは、六人フルパーティーの一人が欠けるのとは意味が違う。
最小限の人数から欠員が出れば、必要最低限の集団能力に支障をきたす。
「目録は『力水之社』と呼ばれる聖堂に安置されています。目録にたどり着くまでには、多くのモノノケの脅威が待ち受けている事でしょう」
「モノノケって言うと……?」
「私達で言うところの魔物っすよ」
「その脅威を退けたとして、目録は屈強な門番に拠って守られています」
「その門番と言うのは、強いのでしょうか?」
「はい。只のモノノケではありません。古のモノノフの魂に拠って生み出された、いわば聖なるモノノケです。貴女方は既に学園生徒の領域を乗り越えつつある優秀な生徒ですが、一筋縄ではいかないでしょう」
サルタは其処で言葉を切ると、今回期待を掛ける生徒達を観察した。
ディアーネの事は留学中に良く知っている。
今時には珍しくひたすら基礎を詰め込んだ、いわば巨大建築の土台とも言うべき素材。
その基礎にどのようなモノを築いて行くかは、これからの彼女の歩む道が決めていく事だろう。
そんな悪魔の相棒の堕天使は、素質が余りに多彩すぎて伸ばす方向性を定めきれずにいた才媛だった。
堕天使である事は自ら求めて決めてはいたが、その基礎を導ける教師には最近やっと巡り会った所である。
そしてこの場に居ない妖精の少女……
まだ直接の面識は無いが、この二人と組めていると言うだけで並々ならぬ素質と努力があったのは容易に分かる。
今が一番延びる時期だろうと思うサルタは、この未来明るい生徒達の一助として侍への道を開いておきたかったのだ。
選択肢の一つとして、恐らく有用であると考えるが故に。
「ティティスさんが回復して、修練を受けられる程に体調を戻すまでは、多少時間が掛かるでしょう」
「二人になっちゃうけど、まぁ最初は二人だったしなぁ……」
「仕方ありませんよね? 最近ティティスさんが頼りになるせいで、少し寄りかかりすぎたかなと思わなくもありませんでしたし」
「便利すぎるんだよねぇ……此処は一つ、先輩のポジションをしっかり確認しておかないと」
「決まりですね」
「うぃっす」
前を見据えて揺るがない若者二人。
そうやって進む事に対して嵌る、落とし穴の存在を知らないと言うわけではない。
実際に躓き、失敗して死に掛けた事もある。
少女達は罠の存在を知らないのではない。
知っていて尚、ソレを恐れていないだけである
本当に二人で修練を受けるらしい生徒達に、サルタは内心で苦笑する。
若さであるが、此れを咎める事は出来なかった。
「本当に、お二人だけで修練を受ける心算ですか?」
「うぃっす。何とかなるっすよ」
「無理そうなら引き揚げて増員を検討します」
「そうですね。一度の探索で全てを明らかにせよと言う事ではありません。時には退き、必要な物と知を整え、確実に攻略する事も大切です」
若者にありがちな、進む事のみに捕らわれた生徒ではない。
この悪魔の爆発力を堕天使が上手く制する限り、二人は最高のコンビネーションで事に当たる事が出来るだろう。
そしてエルシェアとディアーネは、そんな自分達ならこの修練も無謀な挑戦にはならないと考えている。
その事を確認出来たサルタは、たった二人で挑戦すると言った少女達を信じる事に決めた。
「分かりました。それでは力水之社への通行許可を出しましょう」
「ありがとうございます」
「今までの冒険と講義で貴女方が培ってきた知恵と力、存分に発揮して、この修練をやり遂げてください」
「頑張るっす」
力強く頷いた悪魔の横で、期待に目を輝かせた堕天使がいる。
話が終るまで我慢していたエルシェアは、ここぞとばかりに歩み出る。
「所で校長先生? 少しよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「少しだけ、本当に少しだけでいいんですけど……」
「おや?」
「その毛並み、撫でてもよろしいですかっ?」
『はい?』
実は動物好きだったらしい堕天使。
発言の内容が直ぐには理解できず、サルタとディアーネが硬直する。
その間隙に返答は待たず、エルシェアが存分にもふもふの感触を楽しんでいたのであった。
§
タカチホ義塾を出発した二人は、最初に進路を西にとって『トコヨ』の町を目指した。
そしてトコヨから北に向かって『ヨモツヒラサカ』の町へ向かう。
目的の力水之社から一番近いのはこの町であり、ベースは此処に置く事になるだろう。
今回はティティスが倒れているため、早く用事を終えたい先輩コンビ。
堕天使は『テレポル』の魔法を駆使して、同日中に目的の町へたどり着いた。
「地図は私が用意します。ディアーネさん、補給品をお願いしますね」
「了解っす。予算は?」
「五千ゴールド迄でしたら、食べたいものを用意していただいて構いません」
「任せて!」
それぞれの目的に合わせた交易所で、補給品を揃える悪魔と堕天使。
この時点でまだ日は高かったのだが、大事を取ってそのまま宿に向う。
そして翌日の午前までを休養に当てる事にした。
「それにしてもびっくりしたよ? エルってば犬好きだったんだね」
「動物、可愛いじゃないですか」
「でもあれ、一応『人』だよ」
「一応って言うのは流石に……まぁなんと言いますか、毛むくじゃらなモフモフを可愛いと感じる性質なのでしょうね、私は」
風呂上りの事、寝巻き姿で思い出し笑いを堪えたような相棒の横顔に、エルシェアも苦笑する。
この旅の間、二人は常に取り留めの無い会話を続けている。
話のネタが尽きる事は無かった。
久しぶりに二人になった冒険は、お互いに懐かしさと共に新鮮な興奮をもたらしているのかもしれない。
たった二人だからこそ、自分が一人ではない事がより強く感じられる。
そんな雰囲気だったからだろう。
堕天使は珍しく……
本当に珍しく、自分の原点を相棒に明かせて見せた。
「昔、私の誕生日にママがね……犬の縫い包みをくれたんです。毛むくじゃらの」
「おぉ?」
「本物の犬も、好きですよ。あの子達は私が裏切らなければ自分から裏切ったりしませんから」
苦笑が消えない堕天使の横顔を、一瞬だけ流し見た悪魔の娘。
エルシェアが思い出すのは、プリシアナ学園でディアーネと出会う前のこと。
入学して直ぐ、当たり前のように首席でいた頃、小さな子犬を拾った。
子犬はエルシェアに良く懐いた。
セルシアに負けて無気力になっていた頃、子犬は少し大きくなる。
ソレまで自分を褒めてくれた人たちが、初めての敗北と共に離れていった時……
少しだけ大きくなった子犬は、それでも彼女に懐いてくれた。
周りの見る目が変わっていく中で、犬だけが変わらなかったのだ。
堕天使の記憶が、成長して寮に隠しきれなくなった子犬をリリィに預けた事を思い出した時、相棒がやや躊躇いがちに聞いてきた。
「エルさ」
「はい?」
「エルのお母さんって、どんな人だった?」
ディアーネに取って気になる単語は、犬好きよりも此方であったらしい。
エルシェアは相棒の顔を見ると、遠慮したような瞳に出会う。
一つ息をついて回想のチャンネルをシフトした堕天使。
大切な人に大切な人の事を伝えるこの機会。
自身の言語能力を総動員して想いの欠片を伝えたかった。
「どんな人……か……」
「うん……知りたい」
「そうですね……夜勤が多い人でした」
「夜勤?」
「はい。第一印象を申し上げると、最初にソレが出てきます。娼婦でしたから」
「娼婦……」
エルシェアとしては貴族の娘である相棒が、自分の母の職業を聞いたときどう感じるか予想がつかない。
自分が売女の娘である事は、完全な事実であったから。
「エルはさ、お母さんの事大好きだったんだよね」
「ん、そう思われます?」
「うん。さっきの『ママ』って、凄くあったかい顔してたから」
ディアーネとしてはだからこそ、相手の過去に踏み込むような質問をしたのである。
どんな職業をしていたとしても、娘を愛していた事は間違いないと思う。
その事をエルシェアも自覚していたからこそ、あのような顔になったのだ。
だから知りたい。
「……」
そんな悪魔の表情をどう読んだか。
堕天使は微笑と共に過去を語る。
「……私が物心ついたのは、スノードロップの少し北にある、小さな町の貸家の一室でした。四季は無く、一年が雪に支配された世界。父親の記憶は……ありません。母子家庭でした」
「物心ついたのは……っていうのは?」
「母はどうも、外から其処に移ってきたみたいなんです。私は生後半年から後の記憶は殆ど覚えていますが、その前の事となると自信が無いのです。私を抱いて住み着いたのか、そこで私を生んだのか……」
「生後半年からの記憶って……」
「別に、セレスティアには珍しい事ではありませんよ? 中には生まれたときから乗馬や魔法まで出来たとか言う、バケモノまでいるのですから」
「天使すげぇ!」
本気で驚くディアーネだが、エルシェアも初めてその話を聞いた時は似た様な反応をしたものだ。
一般的にはエルシェアも十分に早熟の領域に入るのだが、上には上がいるのである。
一つ咳払いした堕天使は、話の軌道を修正に掛かる。
「物心ついて直ぐに言葉を覚えて……私がそうなると、母は家を空けて仕事に出るようになりました。住んでる町ではお客さんも取れないようで、スノードロップまで行って客を探していたようです」
「エルは、その間どうしてたの? 何処かに預けられていたとか……」
「えっと、私は母の事愛していますが……何事も完璧にとは行かないものです。幼い頃は本当に命がけの日々でした」
「え?」
「なんというか……小さな娘を極寒の地で、家の中に一人にしたらどうなるのか、想像がつかなかったのかな……それともなまじ私が生き残ったから、改善する機会を逆に逃していたのか……とにかく寒かったです。家が、本当に凍えそうになるくらい」
エルシェアの母親は、食い扶持を確保するために本当に良く働いた。
当時なら兎も角、今ならそのことが分かる。
堕天使が育ったのは雪国の小さな町の、しかも裏町である。
母親と同じような娼婦は多くいたし、その中には自分一人の身すら養いきれずに飢える者もあった。
そんな世界で、自分と娘を生かしたのである。
ソレは尋常な苦労ではなかったと、堕天使は思うのだ。
「不満はありませんでしたけどね。それが他から見てどれ程異常であろうと、私に取ってはそんな日常が普通でしたから」
「むぅ……何となく、エルの強かさのルーツを垣間見た気がする」
「はい。自分でも、エルシェアと言う個人の原点ってあそこだと思っています。そして、生きていくために必要だから、私は言葉と殆ど同時に魔法を覚えました」
「魔法?」
「ええ。寒くて死にそうだから、暖を取るために『ファイア』を覚えました。水を飲まないと死んじゃうから、『アクア』を覚えました。アクアで作った氷をそのまま食べるとお腹を壊すから、作った水は一度沸騰させて飲むようになりました」
「……逞し過ぎるよ」
「当時の私はそうやって生き延びて、母を待つのが日課でした。そして五年ほど、無変化の時を過ごしたのです」
堕天使の脳裏に浮かぶのは、綺麗だがあまり愛想の良くなかった母親の姿。
自分は母を愛していたし、愛されている事も感じていた。
愛情を表現する事は、お互いにとても不器用だったけれど。
「時が過ぎて……私の手足が少しずつ伸びれば、出来る事も変わってきます。私は、自分で作った不味い水と母が作り置きする食事の落差に耐えかねて、料理を覚えたくなりました」
「お母さんと、接点が出来たのかな?」
「はい。そんな所です」
―――なにしてるの―――おぼえたい―――そう―――
話した事は、たった此れだけ。
後は母が手際よく調理をする所を、只見ていた。
しかしエルシェアはその一挙手一投足を今でも鮮明に思い出せる。
思い出せるという事は、自分自身でソレを再現する事も出来ると言う事である。
この堕天使にとって、それが最初の学習だった。
「お料理を覚えてからは、随分と生存が楽になりました。母もその頃になると多少は学習してくれたらしく、食料や固形燃料などは多めに家に置いてくれるようになりましたから」
「もう、なんと言っていいか……」
微妙な表情を浮かべる相棒に、苦笑を持って答える堕天使。
この部分はどれだけ語っても理解を得てもらう自信が無かった。
母親の育児が決して合格点に達していない事は、堕天使自身も身を持って知っていたのだから。
そしてエルシェア自身も、自分だけの宝物にしておきたいモノがある。
「……」
娘が少しずつ家事を覚えると、母子の生活時間が決まっていった。
夜に働く母は日が高いうちに就寝する。
母親が眠るとエルシェアは起き出し、母が作り置いた食事を取って、掃除や洗濯を済ませてしまう。
家事が一通り終ると、母の寝室へ行くのである。
何をするわけでもない。
眠る母の顔を、ただ見ていた。
時が過ぎ、日が傾き、少しずつ変わる光源が母の顔を照らすのを、飽きもせずに見つめていた。
夕刻が近くなると、エルシェアは母の額に唇を落として部屋を抜ける。
そして二人分の食事を作り、一人分を食べて就寝するのだ。
入れ替わりに起き出した母は、娘の作った『朝食』を食べて仕事に出る。
朝方に仕事から帰った母は、やはり二人分の食事を作り一人分を食べて就寝する……
毎日が、その繰り返し。
しかしある時偶々寝付けなかった娘は寝たふりをする中で、母が出かける前に自分の額に口付けしてくれていた事を知った。
それは、この堕天使にとって一番大切な記憶の一つである。
「……懐かしいなぁ」
「……」
少し遠くを見る瞳と、口元を彩る無意識の微笑。
その表情を見つめる悪魔は、相棒が普通ではないにしろ、幸せな時間を過ごしてきた事を窺い知る事が出来た。
思い出を取り出す作業の間に、その海に浸ってしまった堕天使。
ディアーネはそっと席を立つと、備え付けのキッチンへ向かう。
エルシェアが戻ってくるまでに、好物の紅茶を入れておいてやりたかった。
§
温かい紅茶で小休止し、その間も二人の話は続いていた。
「……そういえば最初に話した縫ぐるみ、此れを頂いたのも、五歳の時だったです」
「おお?」
「そうですねぇ。そう考えると、五歳の誕生日はある意味での分岐点と言えたかもしれません。私が『親切なおじ様』と面識を持ったのもこの時でした」
「親切なおじ様?」
母子家庭の中に入り込む親切な男。
ディアーネには胡散臭い印象しか沸かないらしく、その表情が引きつった。
そんな相棒の顔を敏感に読み取ったエルシェアは、悪人ではなかった事を付け足した。
「本当に、良い人でしたよ。顔も人柄も家柄も」
「へぇ……良縁だねそれは。でも接点って何処だったの?」
「私が知っているのは、母の一番の上客だったということです。母とおじ様の間には、別の絆があったのかもしれませんが……とにかく、その人は私の誕生日だけ母を買うのです」
「……」
「そして、何もしない人でした」
「ん? 何もしないって言うのは……」
「娼婦を買って抱かないのなら、休めるでしょう? だから、誕生日だけは私……一日中母と過ごす事が出来たのです。本当にささやかながら、お祝いもしていただきました」
「紳士だねぇ」
「本当に、ママもどうやって捕まえたのやら……」
年に一度だけ顔を見せ、母と自分を繋いでくれたその男は、セレスティアだった。
母からのプレゼントが毎年縫ぐるみだったのに対し、その男がくれたのは教科書。
教えてくれる者はいなかったが、エルシェアの生活に読書というサイクルが出来上がったのもこの時期である。
幼い少女への贈り物としてソレはどうかと思う堕天使だが、お陰で一般的な家庭の子供程度の学力は維持できたのであった。
「なんと言いますか……ある意味で娘の扱いがずぼらだった母と違い、気配りが出来て物腰穏やか。今思い返してみても、此れと言った欠点をあげつらう事が出来ない方ですね」
「完璧超人だね。そんな人がいるんだ……」
「はい。ですが、完璧すぎて今の私には、逆に不気味に感じます。人間味が薄いと言いましょうか……作り物めいた印象なんですよね」
「何となく分かるなー。なんか、うちの会長みたいだね」
「……もしかしたらセレスティアにはそういうの、多いのかもしれませんね。確証ってありませんけど」
堕天使は喉の渇きを覚えて相棒が入れてくれた紅茶を含む。
既に湯気は収まっているが、染み込ませるようにゆっくりと飲んだ。
「時は過ぎて……年に一回、縫ぐるみと新しい教科書が増えて……後一週間で六つ目かなぁという時に、また一つの転機が訪れました。母と、ちょっとした喧嘩をやらかしたのです」
「なんでまた?」
「私が母の仕事を手伝うと言い出したからです。おかしいですよね? 自分がやっている事を娘がやりたいといったら怒り出すんですから」
「おかしい……か?」
「どうも、私には理解しづらかったのですが……母は、私を娼婦にはしたくなかったようですね」
「そりゃ、自分の娘を愛しているなら、そういうことはさせたくないって考えるのは普通じゃないかな」
「普通……なの?」
「ん……多分……」
「……なるほど。普通だったんですね」
エルシェアは母を手伝いたかっただけで、別に娼婦になりたかったわけではない。
しかし彼女にとって指針となるのは母親しかなく、その母親が娼婦をしているのだから選択の余地など無かったのだ。
自分の希望に代替を出すわけでもなく、真っ向から否定された事に対しては未だに理解も納得もしていないエルシェア。
だけど、母とディアーネの意見が一致するなら……
ディアーネが、母の気持ちが分かると言うのなら、きっと間違っているのは自分のほうなのだろうと思う堕天使だった。
「そんな喧嘩をしたきっかけは、母に将来の希望を聞かれたからです。正直あれは、困りました。私にとって将来なんて、明日のお夕飯は何を作ろうかと言う所までの事しかなかったので……」
「ずっと、そうしてきたんだもんね」
「はい。ですが漠然とでも答えないといけない気がして、やっと思いついたのが母の真似だったのですが……何時の間にか、喧嘩になってしまいました」
「将来の事で親子喧嘩っていうのは、まぁ良くあることだよ」
「そうですね。でもその途上で相手が血を吐いて倒れるところまでは、私も予想しませんでした」
「あ?」
「珍しい事を聞いてくるなとは思ったんですが……どうも母はその時、既に体を病んでいまして。流石に自分のいなくなった後、私がどうやって生きる心算か気になったみたいです」
「……」
「母はそのまま起きられなくなって……何時の間にか私の誕生日が来て……何時ものように、おじ様がいらっしゃって……」
母の血を見てから、娘はずっと混乱していたのだろう。
時系列では正確に母との喧嘩が誕生日の七日前だと覚えているが、その七日をどうやって過ごしたか記憶が非常に曖昧だった。
母が倒れてから、誕生日に尋ねてきた男の顔を見るまでの記憶が、堕天使自身も当てにならないと感じている。
確かに覚えているのは、自分が母の不興を買った将来について男に相談した事。
そして、男が冒険者養成学校への進学を勧めてくれた事だった。
「おじ様に冒険者養成学校への進学という選択肢があることを教えていただきました。在学中に単位と学費を同時に稼げるという事で、代替案としては申し分なかったと思います。母も、それには納得してくれました」
「そっか」
「その年の……そして、最後のプレゼントは二人とも何時もと違っていました。おじ様は三学園全ての学校の、初等部の紹介状を書いてくださり、母は……魔法を一つ、教えてくれました」
「魔法?」
「はい。一番得意な魔法という事でしたが……実は、まだ使いこなせていないんですよね」
「エルでも使えない魔法かぁ」
「んー……もしかしたら今なら使えるかもしれませんね。教えてもらったのは何年も前で、当時は発動すら出来ませんでしたが……その後色々あったので、あまり試す機会も無かったんですよ」
この魔法が自在に操れるようになれば、誰にも負けないと教えてくれた母。
その言葉を肯定するように、優しい微笑と共に頷いた男。
当時のエルシェアにとって、自分の世界の住人はこの二人だけであった。
その二人が太鼓判をくれたのならば、きっとその通りなのだろうと思う。
「私が一つ年を取って……母が亡くなりました……おじ様が来て下さる日だったのは、本当に運が良かったです。母の埋葬とか、役所への届けとか……いろいろな事をしてくださって。最後には、私を養女に迎えてくださるとまで申し出てくださいました」
「本当に良い人だねぇ」
「はい。ですが私も、其処まで厚かましくもなれずに辞退いたしまして……母の遺品整理して、おじ様に頂いた紹介状を頼りに三つの学校を巡ってみました」
旅を始めた最初こそ戸惑ったものの、野外の生活も乳幼児期の彼女の生活環境に比べれば幾分マシと言えた。
基本的にエルシェアは、寝たまま凍死しない環境であれば生きていけると思っている。
「一人旅というのも、随分私の性に合っていまして。魔物倒してお金稼いで宿に泊まったり、適当に野宿してみたり……」
「小さい時からサバイバルしてたんだもんね……そりゃ野宿なんかも余裕だよね……」
「大陸をぐるっと一回りして……適当にブラブラしながら、だいたい七年くらい根無し草やってたかな?」
「どんだけ流離ってたの!?」
「いやぁ……何となく、このまま旅人でも生きていけそうだなと感じるようになりまして、それなら学校とか行かなくても、別にいいかなって」
「実にフリーダムっすねぇ」
「お家や家族で苦労なさったディアーネさんからすると、逆に羨ましいかもしれませんね」
「うーん……そこまでフリーハンド貰っちゃうと、私は何していいか分からなくなっちゃいそう」
ディアーネは腕組みし、その状態をシュミレートしようと試みる。
どの方向にも踏み出せる状況は、最初の一歩を踏み出すのに強い迷いを抱く。
更に一般的な感覚では裕福な貴族の娘である悪魔としては、この話を聞いたあとで相棒に対し自分の方が辛かったとは言えなかった。
「あっちこっちをフラフラと、でも一応学校付近は目指そうかなって感じで……最後にたどり着いたのはプリシアナ学園でした」
「それでそれで? プリシアナ学園を選んだ切欠って?」
「……おじ様の勤める学校だったから」
「え!? エルの恩人が学校に居たの?」
「いたんですよ……正直嵌められたと思いました」
「はー……ソレは、ちょっと会って見たいかも……」
「お会いしてると思いますよ? 学園行事でもあった時には、大聖堂の壇上で必ず」
誰だろうと考え込んだディアーネは、式典や行事で必ず壇上に上がる人物を脳内でリストアップする。
エルシェアは必ず会っていると言ったのだ。
ならば、重要行事には必ず出席していて毎回壇上に上がる人……そして、セレスティア……
「まさかその人っ!?」
「……お察しの通り、セントウレア校長先生です。いや本当に、当時は何の冗談かと思いましたよ」
エルシェアがプリシアナ学園へ入学を決めたのは、実際は知人が居た為と言うだけではない。
セントウレアは自分がプリシアナの教師であるにも拘らず、全ての学園の切符をエルシェアに選ばせてくれた。
その人柄と行為の公正さが、学園の中でも自分の知る彼と同じである事を見て取れたからこそ、セントウレアの学園で学びたいと考えたのだ。
「一応この事を知っているのは、リリィ先生と貴女だけです。校長先生と個人的に縁があると知られると面倒ですので、その点は御内密に」
「ソレは分かった。誰にも言わない。だけど……」
堕天使は相棒が言いよどんだ言葉の内容が予想できる。
恐らく自分が当時考えた、今思うと嫌過ぎる想像と同じであろうと。
その件でははっきりと回答できる用意があったため、エルシェアは余裕を繕ってディアーネを見据える。
ディアーネもそんな相棒の視線を受けて、躊躇いを振り切って聞いてみた
「ちょっと、気になったんだけどさ……エルのお父さんって……」
「ソレは違います。私も気になったので本人に確認し、その証拠になる校長先生の家の記録や日誌も見せて頂きました。正直、セルシア君を叔父様と呼ぶのは……ジョークとしては笑える気がしますけれど、本当にそんな嵌めに陥るのは嫌でしたし」
ディアーネは貴族としての感性と思考から、その記録や証言の信憑性は五分だと感じる。
しかし相棒が敢えてその先を考えないようにしている事も感じたので聞き流すことにした。
「うーむ……流石にリアクションに困る事聞いちゃったかも……例え血縁無かったにしても」
「おや、聞いた事を後悔なさっています?」
「まさか。そんな事ないよ。エルが教えてくれて嬉しい」
屈託無く笑うディアーネは、いつもと変わらないように見える。
自分の事を明かすというのは、例え相手を信じていても心身に負担を強いるものだ。
恐らく自分が貴族であると告白した時、ディアーネも似たような心境だったのだろう。
「まぁ、私に取っては何処までも『親切なおじ様』なんですよ。母とどんな関係だったのかは気になりますけど……ソレはきっと、あの人がお墓の中まで持っていったことだと考えています」
「そうだね。私もそんな気がする」
一頻り語った堕天使は、既に冷え切った紅茶を干した。
相棒の悪魔も其れに習う。
外を見れば既に日は落ち、陽光は各家庭から漏れる生活の明かりに席を譲りつつあった。
そこで漸く疲労を感じた二人は、それぞれに大きな欠伸を飲み込んだ。
「さて……満足いただけましたか、お姫様?」
「大満足。私きっと今日眠れないよ!」
「寝なさい。明日はクエストです」
笑い合った二人は同時にベッドへ倒れこむ。
本当に疲れていたのだろう。
直ぐに寝息を立て始めたのは、黒い翼の天使だった。
安らかな寝息を立てるその顔に、心の一部が温かくなる悪魔の娘。
しばし相棒の寝顔を見つめて逡巡したディアーネは、一つ息をついて瞳を閉じた。
割と度胸の無いこの悪魔には、堕天使の母と同じ事は出来なかったのである……
後書き
侍学科開放編をお届けします。
今回大半はうちの腹黒セレスティアの過去話でもあります。
自キャラの過去なんて需要が読者のどの層にあるんだろうと悩むこと数ヶ月orz
連作の最初期からこの辺も決まっていましたが、まさか出力出来る日が来ようとは思っていませんでした。
でも興味ない方は本当に興味はないと思います。
次はちゃんと冒険もすると思いますので、今しばらくお付き合いくださると嬉しいです。
それでは、なるべく早く後編でご挨拶出来るように頑張ります><