プリシアナ学園女子寮の一角に、セレスティアが多く当てられた区画がある。
その一室を当てられているエルシェアは、久方ぶりの自室の空気に息を吐く。
「……」
タカチホ義塾の校長の呼びかけにより受けた、侍学科履修許可免状試験。
深読みした挙句、盛大に遠回りした堕天使は凄まじい疲労を抱えて今しがた帰り着いたのだ。
一人になった少女はまとわりつく倦怠感を隠そうともせず、ベッドに腰掛け首を回す。
内部から響く破滅的な音を聞きながら、エルシェアは今一度ため息をついた。
「んー……」
そのまま眠ってしまいたい堕天使だが、留守から帰ったならしなければならない事もある。
主に掃除と、手紙類の整理。
疲労からくる怠さと眠気に抗いつつも、備え付けのポストまで身を運ぶ。
中身がカラだったことは、今までの経験上殆どない。
本人の希望に反して比較的目立つこの少女は、疎ましがられる相手から熱狂的なファンまで事欠かないのである。
例によって例のごとく、二十近い手紙の束があった。
「ファンレターが五枚……あ、この子は綺麗なエルフの女の子でしたね……時間が出来たら口説いてみようかな……ラブレターが四枚……全部男……面倒な」
エルシェアはライディングデスクの引き出しから新品の封筒と便箋を取り出す。
便箋にはあらかじめテンプレートで纏められたお断りの文面が書かれている。
そのまま封筒に入れて蝋で封をし、明日にでも差出人に送ることにした。
因みにエルシェアは告白のお呼び出し系の手紙は完全に無視すると決めている。
過去一度、行った先で闇討ちされているので当然といえば当然だったが。
「呪いの手紙三枚……破棄。カミソリレター四枚……購入履歴と目撃情報で身元割り出せる相手はお礼しないと失礼ですよねぇ……キープ」
ある意味でファンレター等よりよほど楽しそうにカミソリレターを区分ける少女。
こういう事をする相手は基本的に、身元まで調べて逆襲されることを想定していない。
そんな相手の虚をついて手紙を返し、その場で二度と人様に迷惑を掛けない様に体と心でお勉強。
稀にやりすぎて教師から呼び出しを受けることもあるのだが、基本的には先に手を出されたエルシェアが厳しい処分を受けることはないのである。
それなりに敵も多い少女だが、同様に味方も多いため探せばかなりの目撃情報を集められる堕天使。
特に自室の周辺の部屋主達とは意識して良好な関係を保っているため、早い時はそこに聞くだけで誰が手紙を置いていったか割れる場合もあった。
「……」
それらとは別に、三枚の手紙をまとめる少女。
差出人は同じであり、封筒も全く同じもの。
エルシェアは既知である差出人の名前とその筆跡が一致することを確認して封を解く。
それはドラッケン学園で知り合った友人からの手紙だった。
エルシェアがタカチホに赴いたのは、約二週間程である。
その間に三枚。
外部からの手紙が届くのは平均して五日に一度なので、かなりのハイペースで書送られたものになる。
堕天使は残り二枚の封も解いた。
恐らく内容は同じなんだろうなと予想しながら。
「ふむ、クラティウスさんの様子がおかしく、お姫様が癇癪気味と……ウチの会長に交流戦でボコボコにされたせいだから責任取れ? 責任取るのはセルシア君本人でしょうに迷惑な」
セルシアとキルシュトルテが性格的に合わないだろう事はエルシェアも承知している。
恐らくセルシアは正しいことを、しかし暖かくも優しくもない正論を言ったのだろう。
精神的に未成熟なキルシュトルテに取っては、セルシアの正しさは毒にしかならない。
ドラッケン学園で展開されたであろう、大陸の二大名家の修羅場は居合わせたもの……
特に教師陣の心臓を凍らせた事は想像に難くない。
キルシュトルテのパーティーではメインメンバーであり、間近でその様子を見てしまったシュトレンに同情する堕天使だった。
「さて、どうしたものかな……」
本来は他人事である。
セルシアの様に正論で語るなら責任を取るのは本人であるべきだし、もっと言うならおそらく悪いのはキルシュトルテ自身だろう。
何故エルシェアが、そもそもそう親しいわけでもない男のしでかした事の責任など取らねばならないのか?
そう考える堕天使だが、シュトレンはそんなエルシェアの性格をよく知っている少女である。
堕天使の思考回路をしっかりと把握しながら、上手い落としどころも持ってきていた。
シュトレンはご機嫌取りを丸投げにせず、ちゃんと方法まで指定してくれたのである。
しかもその方法はエルシェアにも興味深い。
「プリンス、プリンセス学科の生徒募集……王女様がお金と権力に任せて無理やり開講した学科でしたか。でも確か、セルシア君も今受講はしてるんですよねぇ確か」
セルシアに負けたとはいえ、キルシュトルテの実力は非常に高い。
精神的にムラがあるため実践の出来には差が出るが、低い方でも各学科の上位陣と勝負出来る。
絶好調なら勢いでセルシアや自分すら押し切るかもしれない。
『ノレば出来る子』を地で行く王女様である。
そしてセルシアも高い実力を持っていることは十分身にしみているエルシェア。
今のところ身近に二人しか受講者がいないにも関わらず、その二人共が高い実力を持った生徒なのである。
しかし生まれがモノをいう学科なだけに、受講生が全く続かず廃講の危機に瀕してもいた。
キルシュトルテはそれが非常に不満らしく、シュトレンはご機嫌取りの一環として、其処にエルシェアやその仲間をねじ込もうとしているのだ。
「何となく……受講者のセンスに頼り切った学科な気がするんですよね……でももし、万が一誰でもあそこまで強くなれる、画期的な講義内容だったりしたら……」
エルシェアは微妙な表情で唸る。
非常に面倒くさい。
でも講義それ自体はちょっと覗いてみたかった。
こんな機会は滅多にないと分かっていながら、徒労に終わる可能性の方がはるかに高い事も予想がつく。
この時エルシェアにも事情があり、キルシュトルテと近いうちに個人的面会をしたい心情はあった。
しかし話の内容は一発勝負になる為、出来るだけ王女の機嫌がいい時を狙っていきたい。
乗るか反るか、行くべきか行かざるべきか。
堕天使は今自分が何をすべきなのか考える。
「あ、お掃除……」
取るべき選択を見出した少女は、手紙を種類別にしまい込むと掃除用具を取りに向かう。
そして掃除が終わる頃にはシュトレンの事など頭からすっぱりと抜け落ち、ファンレターをくれたエルフの少女を如何に堕とすかを考えていたのであった。
§
翌日のこと、受け取ったラブレターのお断りを全て投函してきた堕天使。
男子寮を出て自室に戻る途中で後輩に呼び止められた。
自分を呼ぶ声に振り向いたエルシェアは、高速ですっ飛んでくる妖精の姿を捉える。
百センチ程の身長と、長い金髪のストレート。
青い瞳は興奮のためかやや血走っていて、エルシェアは反射的に退いた。
「エル先輩! お姫様ですよお姫様!」
「分かりました。分かったから少し落ち着きなさいティティスさん」
顔を引きつらせる堕天使だが、飛びついてきた後輩は避けずに抱きとめる。
事態は唐突であったが、ティティスの手には見覚えのある封筒があったのでエルシェアの理解も早かった。
「そのお手紙は、シュトレンさんから?」
「はい。お姫様になってみないかって」
堕天使は根回しのいい友人に苦笑するしかない。
どちらかというと舌打ちしたくなる類の苦笑だったが。
「ティティスさんは、今でも私達のお姫様でしょう?」
「その……お姫様と書いて役たたずと読むポジションはそろそろ卒業したいので……」
「何を馬鹿な」
自信なさげに俯く後輩が、自分達にとって如何に重要かは身にしみて理解している堕天使である。
先日の失敗も、ティティス不在の穴を上手く補おうとした結果空回ったものだった。
其処まで考えたエルシェアは、この後輩の異常なテンションの高さの原因に思い至る。
ティティスはタカチホで倒れて探索に参加できなかった。
自分一人が寝ている間にエルシェアと、その相棒のディアーネがクエストを達成してしまった手前、普段眠っていた劣等感が一時的に表に出ているのだろう。
後輩の自信回復のためにも、此処は一仕事こなすべきか?
堕天使の中でシュトレンの依頼に対する比重が、やや受ける方面に傾いた。
「貴女は強くても弱くても、冒険の役に立っても立たなくても、私とディアーネさんの傍に居てくれれば、それで十分なんですよ?」
「……ありがとうございます。でも、出来れば強くて役に立った上で、傍に居たいと思いまして」
「王学を学べば、強くなれる?」
「わかりませんけど、キルシュトルテ様も会長もとっても強い方ですから」
「……」
エルシェアはそう言って俯くティティスの、小さな頭を見つめていた。
あの二人はきっと、別の学科をとっても相応に強い事。
プリンス・プリンセス学科はなり手が少なく、恐らく個人の才能に依存した強さしか望めない事。
昨日自室でたどり着いた推論を喉で飲み込んだ堕天使。
ティティスがやってみたいなら、それで満足するなら遠出もいいかと考え、微笑してその頭に手を置いた。
「それでは、ディアーネさんを誘って行ってみましょうか?」
「はい!」
そう言ったエルシェアは、自室に向かいかけた足を返して相棒の部屋へと向かう。
ティティスはそんな堕天使の手を勝手に掴むと、遅れないようにやや早めに歩き出した。
「ティティスさんは、シュトレンさんとお知り合いでしたっけ?」
「はい。前ドラッケン学園にお邪魔した時、先輩へのお手紙を預かってくださいました」
「あぁ……あれシュトレンさんが対応してくださったんですか」
意外なところで知り合いが多いらしいシュトレン。
当時の様子を楽しそうに話す後輩に頷きながら、相棒の部屋へと歩いてゆく。
ディアボロスであるディアーネは、当然その種族が集まる区画の一室が当てられている。
現在地からやや遠い目的地を目指しながら、二人のおしゃべりは続く。
「そういえば、シュトレンさんってお花が好きみたいですね? 私も取次を待っている間に、一輪頂いたんですよ」
「あら、どんなお花を?」
「えっと……確か孔雀草だったと思います」
「……ナンデスト?」
思わず片言になった堕天使の少女。
彼女は慕う保健医の影響もあって花好きであり、当然花言葉も知っている。
孔雀草の花言葉は、『一目惚れ』。
因みにエルシェアはドラッケン学園に留学経験があり、シュトレンがしょっちゅう彼女を作っては、長く続かず別れている事を知っていた。
「冗談なら許しますが……」
本気なら相応の試練を受けてもらうことになるだろう。
堕天使が課すティティスに相応しい相手の必要最低条件は、自分とディアーネに勝つ事である。
急速に和やかさが無くなったエルシェアをフォローしようと、ティティスが慌てた様に継ぎ足した。
「あ、でも会長さん達もお花もらってましたよ!」
「……どんな?」
「えっとあれは……弟切草?」
「っ!? ふふっ。シュトレンさんナイスですよ」
先程の態度を一変して笑い出した堕天使。
夏に一日だけ咲く花を保存していた手間も然ることながら、そんな貴重な品を皮肉に使う友人に親近感を覚えたエルシェアである。
花に造形などないであろうセルシアは兎も角、フリージア辺りはどう思ったか。
怒ったかと予想した堕天使だが、素知らぬ顔でスルーした可能性も否定できない。
そうやって皮肉が空振りした事を教えてやると、この手の皮肉屋は手が出しにくくなるのである。
「そうだ、ティティスさんって『ラグナロク』使えましたっけ?」
「アレですか? 一応使えますけど息が続かなくて……」
各術師系学科での秘法の一つとされている大補助魔法。
その効能は凄まじく、不利な戦況を一瞬で覆すことすらあると言われている。
反面消費する魔力が尋常ではなく膨大なことと、同じ構成と詠唱でも発動効果が安定しないといったデメリットもあり使いどころが難しい魔法でもあった。
現状ではティティスとしてもラグナロクに頼らない立ち回りを考えているし、エルシェアやディアーネも同様である。
「後でで構いませんから、一度私に見せていただけません?」
「勿論構いませんけど、先輩も使えますよね?」
「使えると思っていたんですけどね……どうやら何かを盛大に間違えていたらしいのでお勉強し直しです」
「それは……お疲れ様です」
何をどう間違っていたかは語らず、失敗のニュアンスだけを強調して伝えた堕天使。
ティティスは先輩の発言と態度から、それが使えないのだと誤解した。
確かにエルシェアは一般的なラグナロクが使えない。
彼女がラグナロクだと思っていたのは、同名の別魔法であったから。
「お?」
「あれ?」
会話を続けるうちにディアーネの部屋の前までたどり着いていた二人。
しかしその扉はお出かけ中の掛札がかけられ、念のためノブを回してみても鍵がかかっている。
昨日三人で帰還し、其々の居室に引き取った。
ならばディアーネが此処を空けたのは、昨日戻ってすぐから今日の朝までということになる。
「こんな短期間でお出かけ……? ティティスさん何か……知りませんよね」
「はい」
知っていればここへ来る前に言い出したことだろう。
するとディアーネは何処へいったのか。
「……なるほど」
「先輩、何かわかったんですか?」
「えぇ。まぁ色々と」
エルシェアはディアーネがどこへ、何をしに行ったかは分からない。
しかし彼女は、自分にもティティスにも何も言わずに行ったのだ。
何か思うところがあるのだろう。
そうでなければ、必ずあの寂しがり屋は自分達に声をかけた。
「ディアーネさんもお年頃ですからね。色々あるんだと思いますよ?」
「いいのかなそれで……」
「学園の中で別れたのですから、そう危険もないでしょう。私にも貴女にも、何も言わずに行ったということは……」
「言うことは?」
「きっと何か、言えないことがあるんです。少し悔しいですが、こういう時支えてあげるのは私達ではないんですよ」
距離が近すぎるからこそ支えられない時がある。
ディアーネが敢えて二人を避けたというのなら、むしろ自分達ではダメなのだと思う堕天使だった。
「こういう時は待ってあげましょう。そして帰ってきた時にはお帰りなさい。と言ってあげればいいのです」
「……」
「納得行きませんか?」
「……少し」
「お優しいことですねぇ」
堕天使はティティスに向き直り、腰を落として目線を揃える。
反射的に息を飲み、妖精は身構えた。
自分と目線を合わせるときは、この堕天使が大切なことを伝える時。
それを今までの経験から知っていたから。
「貴女の優しさはきっと多くを癒すでしょう。ですが人の心を折るのは、悪意よりむしろ優しさの方が多いということも、忘れてはいけませんよ」
「……」
「んー、悪意より優しさで心が折れるというのは、私の偏見かもしれませんがね。私の経験では、その方が多かったというだけで」
「先輩にも、あるんですか……そういうの?」
「――良かれと思って成した事が、相手の最後のプライドを踏みにじる行為でした」
ほんのわずかだが確かにあった空白が、堕天使の心情をティティスに伝える。
思い出したくない出来事だが、繰り返さないためにエルシェアが自ら心に焼き付けた思い出である。
不安げに揺れる後輩の瞳を見つめ返し、堕天使は意識して眼光を緩めた。
「今回がそうだ、なんて確信はありませんよ? でもそういう可能性もあるということです。誰だって、偶には一人になりたい時があるでしょう?」
「はい」
エルシェアは立ち上がると、ティティスを連れて歩き出す。
形式的なものとは言え、職員室に外出届けを出さなければならない。
「さ、ディアーネさんが戻る前に、立派なプリンセスになってびっくりしてもらいましょう?」
「はい!」
「そういえば、二人で何処かに行くってありそうでなかったですねぇ」
「……っは!? そういえばそうですよね。これがデートというんでしょうか!?」
「何言ってるんですかねこの子は」
テンションの上がった後輩を適当にあしらいながら歩く堕天使。
返答は素っ気無かったが、繋がれた手が離されることはないのであった。
§
「と、言う訳で図書室にやってまいりました」
「何がどういう訳だか説明せぬか」
ティティスの『スポット』でドラッケン学園に飛んだ二人は、エルシェアの案内で真っ直ぐ図書室に向かっていた。
例え直ぐに会えなくとも、図書委員であるキルシュトルテはいつか必ず此処に来る。
待ち時間を読書に当てるつもりだったエルシェアは、寧ろキルシュトルテがいた事を内心残念がっていた。
「初めまして、キルシュトルテ様。プリシアナ学園で学んでおります、ティティスと申します」
「うむ? プリシアナの生徒か……」
ティティスの挨拶に憂鬱そうにため息を吐く王女様。
制服を見ればどこの学園の生徒か分かりそうなものだが、そんなことも頭に入らないほど上の空に見える。
ノレば出来るキルシュトルテ的には、最高にノっていない状態と言えるだろう。
「何の話かは知らぬが、妾は今忙しい。用なら後日にして帰るがよい」
「……」
これは相当に滅入っている様だと苦笑する堕天使。
何処から攻めるかと思考を巡らし、はじき出した回答を実践する。
注意力が散漫になっている王女の意識の外でティティスに目配せし、口を挟まないように指示を出す。
出来のいい後輩がしっかりと頷くのを確認し、エルシェアは外行きの仮面をかぶり直した。
「王女殿下に置かれましては、我々庶子には理解の及ばぬ悩みも多かろうことと存じます」
「うむ。分かっておるなら――」
「『交流戦』から日も浅く、お疲れの様子とお見受けします。本日はお目通り頂き、誠にありがとうございました。出直す事に致します」
交流戦という単語を聞いて、一瞬肩を震わせた王女。
しかし堕天使としては反応の小ささが意外であった。
シュトレンからの手紙には、従者との仲がおかしい事とセルシアに負けたことが書かれていた。
その観察が正しいと仮定して原因を二つに絞るなら、今の反応でどちらの比重が重いのかを理解した堕天使。
読み違えたと内心焦る。
キルシュトルテとクラティウスは相思相愛。
性別を超えた愛情の絆が確かにあった。
故に二人の仲違いが長続きする筈もなく、へこんでいるならセルシアとの敗戦だと読んでいたのだ。
キルシュトルテが交流戦の結果を知らないはずがない。
この堕天使が優勝したことは知っているはずであり、多少あざとくても交流戦の単語を聞かせれば、直接対決の詳細を聞きたがるはず。
エルシェアはそう思っていたのである。
内心で舌打ちしながらゆっくりと、しかし決して止まらずにティティスに手を差し伸べる。
嬉しそうにその手を握るどころか、両腕を絡めて抱きついた妖精賢者。
その姿に、キルシュトルテは胸の奥にざわつく違和感を押し殺した。
「……待て」
「帰ります」
釣れたと内心で歓喜を上げつつ、そっけなく切り返す堕天使。
内心ヒヤヒヤしながらもゆっくりと出口に向かう二人。
一度待てと口にしてしまった以上、その発言をなかった事には出来ない。
キルシュトルテは上に立つモノとしてのプライドに掛けて、エルシェアを静止させなければならなかった。
「待て」
「……」
重ねて、今度ははっきりと告げられた命令に足だけ止める。
冒険者養成学校にいるならば、キルシュトルテといえど一介の生徒に過ぎない。
エルシェアが畏まっているのは、あくまで面倒ごとを回避する以上の意味はなかった。
その気になればいくらでも辛辣になれるこの少女は、前言を翻した王女を肩越しに振り仰ぐ。
冷めた視線で切りつけるつもりの動作だが、それが実行に移されることは遂に無かった。
堕天使の視線の先に傲慢な王女はいなかった。
どうしたらいいか分からずに途方にくれる、年下の少女がいるだけで。
「……」
肩越しに振り向く動作に合せ、身体ごと向き直ったエルシェア。
同時にティティスは腕から離れる。
堕天使は右足を左足の斜め後ろに引くと、スカートの端を摘み、軽く持ち上げながら深々と頭を下げる。
同時に膝も深く曲げ、丁寧な礼をとって見せた。
「……」
キルシュトルテはエルシェアの態度が擬態と社交辞令である事を誰よりもよく知っている。
化かし合いの様に本音を隠し、美辞麗句を交換する事にかけて、王女は堕天使よりはるかに慣れているのだ。
全て偽物。
だがしかし、このカーテシーは好きだった。
キルシュトルテが見てきた中で五指に入るほど美しいこの礼を取ったとき、エルシェアは必ず自分に従ってきた。
ティティスを見れば右手を左手で握り、その手を膝近くまで真っ直ぐ下ろしたお辞儀をしている。
幼くとも愚かでは無い王女は気遣われたことを察したが、それは丁重に無視することにした。
「エルシェアは交流戦で、ウチの生徒を救った事があったの」
「……そのような事までご存知でしたか?」
「功績に報いるのは上に立つものの義務じゃ。聞くだけは聞いてやろう」
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
異口同音に感謝を口にし、図書館奥に戻ろうとする二人組み。
それを手で制した王女は、自分からカウンターを出る。
「面倒だから部屋に来い。あまり他人に会いたくない」
「……此処はどうなさるのです?」
「こうすればよい」
プリシアナ組みを追い出したキルシュトルテは、入口に鍵をかけると『臨時休館』の掛札をした。
「今日図書館が使えないばかりに、卒業単位が取れなくなる生徒がでないと良いですね王女殿下?」
「一日の誤差で単位を落とすような無計画な輩は、ろくな冒険者にならん。あと一年此処で修行できるのが妾の慈悲というものよ」
「其処までお考えでしたか……考えが及びませんでした」
「うむ」
皮肉に対して意外にもまともな返答を返すキルシュトルテ。
明らかに虚を突かれたエルシェアは、この時心から称賛した。
ただ一人残った常識人である妖精だが、此処でツッコミを入れる勇気は無い。
基本的にはへたれなティティスは、長いものに巻かれる事で大人の階段を上っていくのであった。
§
キルシュトルテは王家の人間であっても、今はまだ学生の身分である。
国王である父からは重ねて自重を課せられているし、学校側に特別扱いしないようにも通知が来ている。
しかしそれでも、一国の王女の学園での私室が一般生徒とほぼ同じというのは違和感があった。
角部屋であり、本来は二人部屋に出来る所を一人で使っている辺りは配慮されたようであるが。
「ふむ、このケーキはなかなかであるな」
「お気に召していただき、光栄ですわ」
「エル先輩、いつの間にこんな仕込みを……」
三人が囲んでいるのはドライケーキ。
冬の貴重な甘味であるドライフルーツをふんだんに盛り込んだ贅沢な逸品である。
堕天使は留学中にこのケーキを複数仕込み、冷暗保存が効く学生に割り当てられた倉庫にしまいこんでおいたのだ。
「痛んだりしないんですか?」
「倉庫程暗い冷所に、しかも冬に置いたわけですから二ヶ月は普通に持つケーキなのですよ」
「そもそも、コレは作った直後に食べていいモノではないからな」
たっぷりと洋酒に漬け込み、ハーブを加えたドライフルーツを混ぜ込んだ生地。
しっかりと表面を溶かしたバターで油膜を作り、更にシュガーコーティングでバターの劣化を抑えた丁寧な作り。
それは劣化というよりも寧ろ熟成を促し、奥深い味わいと風味を生むのである。
エルシェアは調度いい機会とばかりに自作を振る舞い、味を確認するのだった。
「ふふ、ディアーネさんとリリィ先生に、良いお土産ができましたね」
「そういえば、お主の番はどうした?」
「今日は別件で出ておりまして、一緒には来られなかったのです」
肩を竦めた堕天使は、王女お薦めの葉で入れた紅茶を味わう。
ゴールデンルールに則って入れられた紅茶は風味を損なうことなく、素晴らしい芳香で部屋を彩った。
エルシェアの趣味からするとやや香りが強すぎるが、味は高い葉だけあって悪くない。
「それで、話とは?」
「私とティティスさんそれぞれ一つずつございます。先ずはこの子のお話をお聞きください」
「ほぅ」
「えっと、プリンセス学科という学科があると伺いまして」
「ふむ、冒険者養成学校初の王族たる妾が、後進たる他国の王族を導いてやるために作った、我が校独自の学科じゃな」
「今回シュトレンさんのご紹介に預かりまして、是非その学科を体験してみたくお願いに伺いました」
「ほぅ……」
シュトレンの名を聞いた王女は難し顔で考え込んだ。
なり手が少なく廃講の危機に瀕してるとはいえ、この学科はキルシュトルテなりに考えて作った学科である。
好奇心が強く学ぶと決めたら手を抜かないこの王女は、本来様々な学科をこなす優等生。
そんな彼女が、自身の特性を存分に振るう事が出来るように単位スキルと魔法を吟味した万能学科。
それは入学前から学べる環境を持つ貴族や王族が、入学してから一々基本学科を学び直さなくても済むように纏めた上級学科のはずだった。
生徒不足で廃講になるというなら、生徒を増やせば良い。
キルシュトルテとしても、学問としての成果が出ないならともかく人不足で潰されるのは納得がいかない。
ならば有望な生徒を取り込んで学科の質向上と、何より人手を確保すればいいというシュトレンの考えも分からなくはなかった。
「じゃが断る」
「あの、なぜです?」
「だってお主ら、王族ではなかろうが」
そんな事に拘わるから潰れかけるのだが、キルシュトルテ的に譲れない部分らしい。
ツンとそっぽ向いた王女様に、顔を見合わせるエルシェアとティティス。
エルシェアとしては、このまま話が終わってくれても構わなかった。
元よりあてにしていなかったし、よく考えればキルシュトルテに借りを作ると後が怖い。
しかしティティスはそうもいかないらしく、なんとか説得しようと言葉を探す。
短い沈黙が降りる中、それを破ったのはキルシュトルテの苦笑だった。
「まぁ、王家と言っても無数にあるし、ご落胤騒ぎの心配がない王等、歴代に三人とおらんじゃろうがな」
「お世継ぎは多くても面倒ですが、いなければ困りますものね」
「おう。なので少しテストしてやろう。それに引っかからなければ諦めるがよい」
首にかかる髪を肩の後ろに送りつつ、ティーカップを傾けるキルシュトルテ。
生徒が生徒を試すというのも傲慢な話だが、この王女の性格を知る者からすれば凄まじい譲歩に唖然としたかもしれない。
実際に堕天使もそのクチであり、寧ろバッサリ無理だと行ってくれた方が楽だったのではないかと今更思う。
これでは自分達が頼んだ手前、試験とやらを回避する事が出来ないのだ。
表面上はにこやかに、しかし内心でげんなりしているエルシェアを、キルシュトルテが流し見る。
薄い微笑みを投げた王女に、堕天使は踊らされていることを自覚した。
頼み事をしている手前優先権は相手にあるが、キルシュトルテの方もそれを自覚して自分の優位を手放さない。
ここまで来たらエルシェアも、王女の気まぐれ試験に付き合う他ないのであった。
「『ノイツェハイム』の街付近から、『水に守られし宮殿』という迷宮に入れる事は知っておるか?」
「存じております」
「かつて世界中の王家の家系を研究していた学者がおった。そいつは自分の研究を本に纏めて、そこに封印したらしい」
「王家の系譜等余すことなく研究されたら、困る人も多いのではありませんか?」
「うむ。王位継承権の低い王族は自国の貴族に降嫁する場合も多いから、結局王家のみならず、貴族の系譜まで手が行くからの。正妻愛人妾嫡子私生児出るわ出るわ……」
「あの、それって研究した人もよく調べられましたよね……」
「無駄に優秀だったらしい。更に貴族の醜聞は平民には良い娯楽じゃからな。ヤバイと思ったら民の中に紛れて、匿われてしまう事も多かったらしい」
結局捕まって殺されたがなと笑う王女。
キルシュトルテは学者が如何に凄惨な拷問の末に殺されたか語ろうとし、ティティスの手前自重した。
小動物を思わせるこの少女に、血なまぐさい話を聞かせるのは躊躇われた。
「妾も見たことはないのじゃが、非常に詳しく書き込まれたモノらしい。それにお主らの家系があったなら、王学というものを授けてやろうではないか」
「なるほど、ありがとうございます!」
勢いよく返事する後輩を尻目に、内心だけでため息を吐く堕天使。
そんな貴族に都合の悪いものが、場所までわかっているのに放置されているのは何故なのか。
簡単に手が出せなかった理由が必ずあると思うエルシェアは、面倒事に心の翼が萎れていくのを感じていた。
「ティティスさん、購買で必要な物を買い揃えておいてください。内容はお任せします」
「はい。行ってきます」
「ノイツェハイムで一泊し、探索は明日の朝からです。前に使った宿で落ち合いましょう」
「あれ? 先輩は……」
「少しこっちの知り合いに挨拶して回ります。前来た時は錬金室だけ借りて帰ってしまいましたから」
「あ、分かりました」
そう言って立ち上がったティティスは、エルシェアとキルシュトルテに会釈して出て行った。
キルシュトルテより先にエルシェアに頭を下げたのはティティスの確固たる価値観によるものだろう。
王女と堕天使はしばし無言で向き合っていたが、やがてエルシェアから切り出した
「……キルシェ様」
「うむ」
「何があったか、お聞きしても?」
「……」
不貞腐れたようにそっぽを向いた王女だが、何でもないとは言えなかった。
エルシェアはふと思い立ち、キルシュトルテの座るソファに隣り合って座る。
傍にいることは感じてもお互い視界に入らないように。
「……言ってはならない事を言ってしまったら、謝らなければならない。そうだな?」
「その通りです」
「何も皆が見ている前で無くても良い。二人きりの場所で構わない……よな?」
「はい。そう思います」
「そうか」
キルシュトルテはソファの背凭れに深く身を預け、天井を見上げて息を吐く。
その様子を見たエルシェアは、自分の相棒の事を意識せずには居られなかった。
ティティスの手前余裕を見せたつもりだが、閉ざされた扉に思うところがなかったわけではない。
ディアーネは何を思って一人で行ったのか知りたかった。
きっと近いうちに教えてくれることは疑っていなかったが。
「なんで」
「……」
「なんでたったそれだけのことが、妾には出来んのかのう……」
天井に向けて呟いた王女の独白に、自分達の出会いを思い出す。
「視界に入らないでいただけますか」
「む?」
「薄汚い悪魔を見ていると、蕁麻疹が出そうです……。初めてお会いしたとき、ディアーネさんに私が言った言葉です」
「鬼か貴様」
「ヒドイですよね。私、土下座して謝ってしまいましたよ」
「土下座のう……」
生まれは誰にも選べない。
エルシェアは何も持たずに生まれる事が出来たから、ディアーネに対して直ぐに頭を下げられた。
しかしそれが出来ない、してはならない類の人種もいるのだ。
キルシュトルテはその典型であり、彼女が頭を下げれば遠まわしに死人が出る。
迂闊に本音も話せず、人の腹の中を探り、自分が悪いと思っても簡単に頭を下げられない。
間違えたこと、失敗したこと、誰かを傷つけたこと。
それを謝罪したいと思ったことが、キルシュトルテに無かったはずがないのである。
隣に座る王女の横顔を見つめつつ、エルシェアはやや戸惑って手を伸ばす。
キルシュトルテの頭には、王族の証である王冠が輝いている。
それが今は疎ましく、非礼を承知で指で弾く。
こんなものがキルシュトルテを縛っている。
何となく、それが恨めしいと思うエルシェアだった。
「ノイツェシュタインもウィンターコスモスも、亡くなってしまえばいいのに」
「不穏分子め。国家反逆罪で処刑するぞ」
「みんなみんな、まっさらになったら素敵だと思いません?」
「……」
「種族だって、そう。エルフとドワーフ、フェアリーとバハムーン、そしてセレスティアとディアボロス……何時から嫌いあってしまったんでしょうね? 何時まで嫌いあっているんでしょうね?」
透明な無表情でつぶやくように語る堕天使から、目が離せなくなったキルシュトルテ。
端正な顔立ちの美しい少女だった。
彫像のように精気の抜け落ちた様子は、薄暗い部屋にいるせいだろうか?
キルシュトルテはディアボロスであり、冥界の悪魔の血統である。
神の存在を身近に感じたことはなかったが、今エルシェアが語っている言葉は神聖な響きを感じてしまう。
それは善悪の領域ではなく、魅入られる感覚。
自分の意思と思考を停止して相手にのめり込む危険な兆候だとキルシュトルテは知っていた。
「歴史と民を背負わぬ、根無し草の夢想じゃな」
「お堅いお姫様には妄言に聞こえますか?」
「うむ。お主の発言とも思えぬ綺麗事じゃ。神がセレスティアの口を使って、語る事でもあるのかのう?」
「あったとしても、堕天使の口を使う神は邪神でしょうね」
「っは、違いないの」
二人は同時に笑い出し、先程までの雰囲気を一蹴した。
気分転換に紅茶を入れ直そうとしたエルシェアを、キルシュトルテが制す。
代わりに立ち上がり、王女が棚から取り出したのはブランデーだった。
「初めて学園で冒険に出たとき、仲間内で回し飲みする行為に躊躇ったものよ」
キルシュトルテは栓を抜き、一口含んで瓶を渡す。
エルシェアも習って口を付けると、二人は再び向かい合う位置に座り直した。
「それで、貴様の話をまだ聞いておらんかったの?」
「そうですね……それでは、単刀直入に伺います。キルシェ様は、貴女のご実家とセルシア君のご実家の伝承が食い違っている件について、どうお考えですか?」
「ふむ……その件か」
「はい。私は留学中、こちらの歴史を学んでよりずっと不思議に思っていたのですよ」
「なるほど。妾の意見で良いのだな?」
「はい」
キルシュトルテは正面からエルシェアを見つめる。
エルシェアも同様だった。
互いに目を反らすことなく、真っ直ぐに意見をぶつけ合う。
「妾はノイツェシュタイン王家の姫として、王家の伝承を信じているぞ」
「……」
「……そして、恐らく妾と同じ程度には、ウィンターコスモスのボンボンも自分の祖先を信じておるだろうな」
「はい。そう言っておりました」
「大昔、アガシオンと名乗る魔道士がいた、そして誰かがそれと戦った」
キルシュトルテは空になったティーカップにブランデーを注ごうとするが、瓶はエルシェアに攫われる。
視線を上げると、瓶をもって微笑する堕天使がいた。
王女がカップを差し出すと、琥珀色の液体が注がれる。
「アガシオンが本当に巨大な力を持った悪の魔導士だったとしたら、その邪心を阻もうとしたのが、たった二人であったはずはあるまいよ。多くのものが戦い、そして死んでいったはずじゃ」
「伝承は、そうやって散っていったものの数だけ存在すると?」
「違う。それを語り継ぐ連中の数だから、もっと多いはずじゃ」
散ったら何も語れない。
何かを語り継ぐのは、常に生き残ったものである。
「我が王家とウィンターコスモスの伝承は、その中で最も大きく、有力なものじゃ。しかし、そのたった二つの伝承にすら矛盾と綻びが出ている始末じゃ」
「……誰かが意図的に歪めている?」
「口に載せるのも憚り多い事じゃがな」
エルシェアは一つ頷くと、期待以上の回答をもらえたことに満足した。
あまり長居して此処の保健医に会いたくない堕天使は、そろそろ辞そうと立ち上がる。
「ありがとうございました。大変有意義なお話を聞かせていただけました」
「うむ。もし何か分かったら、聞いてやるゆえ知らせに来い」
「もう追いかけませんよ。面倒ですもの」
白々しい嘘だが、聞き流してやる王女様。
それぞれが使ったティーセットを片付けようとする堕天使を制し、さっさとティティスの後を追わせる。
「さっさと行け。そして王家の証を立ててこい」
「そんなもの有る訳ないじゃないですか……」
追い出されるままに退室した堕天使。
キルシュトルテも、そんなものに期待はしていない。
あの二人がどんな家系であろうとも、学科は開放してやるつもりであったのだ。
キルシュトルテは私物のハンドベルを鳴らすと、一人のメイドが入室してくる。
クラティウスではない。
彼女は今日、体調不良を理由に休んでいた。
「侭ならぬものよのぅ」
一人呟いた王女の声は、彼女自身にしか聞こえなかった。
後書き
ほぼ一年ぶりの投稿になります、プリンセス開放編の始動をお届けします。
いろいろありましたねー。
ファイナル発売に寂しい思いをしたり、新ととモノ。が始まって歓喜したり忙しい一年でした。そんなにいろいろあれば、きっとこの子達も忘れられていたことでしょう、うん。
実際ほんと……お待たせして申し訳ありませんでしたorz
実は一旦前後編でほぼ書きあがり、後はプレイしてたファイナルがきりついたらだそうというところまで書けてたんです……が、ファイナルで無魔法がなくなる事への整合性が取れない内容だったため完全没。虚脱状態から立ち直って一から書き直すのに時間かかってしまいました……最初に書いた話には、ディアーネさんもこのクエスト参加していたんですorz
それでは、後編の完成までしばしお待ちください。
此処まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。