終わりの色は空の青。
崩れ落ちた身体と視界。
不思議な熱を感じながら、倒れた時には凍えていた。
地面が熱い。
身体が寒い。
音が遠かった。
意味は全く分からぬ悲鳴。
恐らく意味の無い、怒号。
聞き流しながら空を見て、やがて何も見えなくなった。
始まりの色は翼の白。
世界に擁かれて見た視界。
動かない身体と回らない心。
夢の中にいる様で、現が無慈悲に降りてきた。
肩が、身体が、凄く、痛い。
終わりは痛くなかったのに、始まりは痛みで狂いそう。
抗うように、私も世界へしがみ付く
私を擁く天使の胸。
此処が私の世界だった。
此処が私の世界になった。
それは、小さな少女の記憶。
死神の愛撫に身を委ね、苦痛も無く逝けた日のこと。
天使の抱擁に身を委ね、苦痛の中で生きた日のこと。
―――
§
復学した少女は、ちょっとした有名人だった。
決して名誉ある部類の名ではない。
歓迎の森の悲劇……その唯一の生き残り。
表立っては慰撫すら掛けられる彼女。
その実、誰もが侮蔑しているのが少女には分かる。
転入生として学園に入り、最初のクエストで躓いた。
そして最悪の全滅。
誰でもこなせる筈の一歩を、少女は踏み外したのだった。
「……」
金髪を背中まで伸ばした碧眼のフェアリー。
種族的特徴として、彼女の背丈は四尺に達していない。
それでもフェアリーの平均身長は百センチ程であり、同属内では長身に分類される少女である。
端正な顔立ちの美人だが、その表情は暗かった。
未だ校章の無い制服。
その胸元を握り締めるように掴み、少女は廊下を浮遊する。
彼女は止まり木が欲しかった。
それまであった優しい世界は、目を覚ましたら消えていたから。
「……」
揺蕩うように飛翔を続け、辿り着いたのは北校舎。
死神先生こと、ドクター・リリィの保健室があり、その他には何も無い。
心無い生徒達が廃校や人体実験棟等と呼び交わし、プリシアナ校内でもあまり人気の無い場所である。
彼女が自分の意思で此処に来たのも、この日がはじめて。
先程声を掛けてきたディアボロスの少女が、この場所を教えてくれたのだ。
人の少ない此処なら、多少落ち着くだろうと苦笑しながら……
英雄学科所属だというそのディアボロスは、復学と無事の祝いを述べるとそのまま颯爽と行過ぎた。
名前を聞くことすら思いつかなかったのは、この妖精がよほど滅入っている証拠だったかもしれない。
「此処が……保健室?」
スライド式の入り口に、保健室と書かれたプレート。
プレートの書式は手書きの丸字であり、文字から感じる印象が可愛らしい。
少女はリリィの、物静かだが鋭い雰囲気の美貌を思い出し、文字とのギャップに苦笑した。
「……其れでは、お願いしますね」
「はい。お任せください」
中から聞こえたその声は、妖精少女の呼吸を止めた。
誰か居る。
それだけで、今の彼女は身を竦ませるのに十分な威圧感を持っていた。
軽く対人恐怖症に陥りかけている少女が逃げ出す間もなく、扉が内から開かれる。
「あっ」
「あら?」
鉢合わせた二人は、顔見知りだった。
プリシアナ学園の保険医、ディアボロスにしてドクターのリリィ。
そんな彼女の手を最も最近煩わせたのが、この妖精の少女である。
全滅から奇跡の生還を遂げた少女は、当然ながら保健室で目を覚ましたのだ。
傷を完全に治してくれたリリィの腕も然ることながら、真剣に心身を案じてくれた人柄が、少女の印象に深く残っている。
リリィは膝を曲げて視線を少女に揃えると、何時もの無表情で声を掛ける。
「お身体は、もう大丈夫?」
「はい……お蔭様で」
「そう……では、此処に来たのはサボりかしら?」
「あ、えっと……」
時刻は九時と、本来は一時限の講義が始まる時間。
言葉に詰まる妖精に、悪魔の保険医は口元を緩める。
それなりに近しい者でなければ、それが苦笑だとは気づけない変化。
「貴女の周りは、今それなりに騒がしいですからね。少しなら多めに見ましょうか」
「……」
リリィは一つ呟くと、少女の制服の襟元とスカーフを正す。
身嗜みを整えたリリィは少女の頭を一つ撫で、やがて徐に立ち上がる。
「私はこれから、臨時の職員会議に参ります。後のことは保険委員にお願いしてありますので、彼女までお願いします」
肩越しに振り向くリリィに釣られ、少女は保健室を覗き込む。
本来保険医が座る椅子には、セレスティアの女生徒が座っている。
薄桃色のウェーブヘア。
穏やかな物腰の美人だが、その顔には気だるげな表情が浮いていた。
天使の少女は自分を見つめる二つの視線に一礼する。
リリィは一つ頷くと、本校へ向かい歩み去った。
妖精の少女は何をするでもなく立ち尽くしていると、やがて中から声がかかる。
「入って、戸を閉めてくださいますか? 魔法で冷房効かせてるので」
「あ、はい……すいません」
本来なら、一人になるために……
居たとしても保険医と二人になるために保健室に来た妖精である。
見知らぬ他人が居る時点で帰りたくなったほどなのだが、此処まできては回れ右は出来なかった。
おずおずと入室し、彼女にはやや重い扉を閉める。
間が持たないのだろう。
入ってそれ以上どうするでもないフェアリー。
そんな少女を一瞥し、天使の少女は向かいの椅子を勧めた。
「妖精は浮いていても疲れないかもしれませんが、少し目障りでもありますので座りませんか?」
「ご、ごめんなさい」
反発を覚える前に、思わず萎縮して謝る妖精。
そんな様子を観察し、セレスティアの少女は溜息を吐く。
「大人しい方なのですね、もう少し反骨精神が強く無いとこの先苦労いたしますよ」
「反骨……精神?」
「あ、反骨精神というのはですねぇ」
「えっと、言葉の意味ではなくて……何でかなって?」
「直に嫌でも理解しますよ」
微笑と共に話題を切った天使に、妖精の少女は俯いた。
丁度その時部屋の片隅で火に掛けられていた薬缶が自己主張を始める。
天使は一言断ると席を外し、ややあって二つのカップを持ってきた。
二人の鼻腔を優しく刺激したのは、淹れたてのホットチョコレート。
椅子に戻った天使はカップを片方妖精に手渡す。
「カカオには、気持ちを落ち着かせる効果があるそうです」
「え?」
「貴女はメンタルケア希望でしょう? 身体はもう治っていると、自分でさっき言いましたし」
微笑してカップを口に運ぶ天使に、妖精も釣られた。
口内を甘く溶かす液体に息を漏らす。
妖精の表情が緩んだことを確認すると、天使は内心ほっとしていた。
傷心の少女を優しく慰める等という繊細な芸当は、彼女の不得手な分野であった。
恐らく様々な外圧でボロボロになっているであろう妖精の少女。
彼女がカップの中身を半分まで減らしたとき、天使の少女は再び口を開く。
「少し前後してしまいましたが、始めましてお嬢さん。わたくし、エルシェアと申します」
「あ……私、ティティスです。その、賢者学科を専攻してて……知ってるかもしれませんけど」
「はい。貴女のことは学級新聞で、大よその事は」
冒険者養成学校の新設校、プリシアナ学園にはやや特殊な学科も存在する。
その一つにジャーナリスト学科という情報戦術担当部門があり、其処の生徒が周期的に学級新聞を発行しているのである。
今回、妖精少女ティティスを主役とする大惨事は、其処が号外として大々的に取り上げてくれた。
その結果、怪我から復帰して保健室のベッドから出た直後から、彼女は同級生の中でも一躍有名人になってしまっていたのである。
「人のうわさも七十五日、取って代わる話題が見つかれば、その内収まることでしょう」
「……はい」
「今回に限って言えば、もう少し早く収まりますよ」
「え?」
言うだけ言ったエルシェアは、それ以上の追求を微笑とカップを傾ける事でかわしてしまう。
それ以上言うことも無いらしいエルシェアに、ティティスは取り合えず気になった部分を問うてみる。
「この学校に、保険委員とかあったんですか?」
「定席として保険委員という役はありませんよ。私は臨時をやっています」
「あの、私が言うのもなんなんですが……お勉強は?」
「わたくし、現在は光魔術学科を専攻しておりまして」
「はぁ」
「単位が五十以上の生徒への授業が、今日の午前中は無いのですよ」
事も無げにそう言ったエルシェアに、ティティスは思わず絶句する。
転入間もない妖精は、未だに賢者学科を選択したところと言って良い。
にも拘らず目の前の相手は、既に別学科とはいえ半分の単位を収めてしまっている。
「優秀な方だったんですね」
「ええ。近所のおばちゃんには、昔から飲み込みが早いねって評判のお嬢さんでした」
「……」
思わず俯いたティティスは、既に空になったカップに視線が落ちる。
そのまま固まった少女の頭上から、天使の声が降りてくる。
「『私なんかと違って?』」
「え?」
「なんとなく。分かりやすいリアクションをありがとうございます」
やや意地悪く笑む天使の顔だが、其処から邪気は感じない。
ティティスはこの時、何故か普通に会話が出来ていた自分に気がついた。
自分の失敗を知っている相手。
それでも、エルシェアは普通だった。
慰撫するでもなく、揶揄するでもなく、今のティティスの反応にのみ受け答えをする天使。
最初に目障りと言われたときすら、反感は持てなかった。
戸惑いはしたものの……
「少し気になっていたのですが、伺ってもよろしいですか?」
「あ、はい」
「新聞によると貴方達のパーティーは、全員転入生だったんですよね?」
「そうですね……この時期に転入してきたもの同士で、パーティー組もうって話になりました」
「なるほど。それでこの時期の校章探しだったのですね」
得心したと言う様に頷くと、エルシェアはカップを空にする。
そしてティティスからもカップを受け取ると、流しで丁寧に洗い始める。
余談だが、ティティスのカップはリリィが用意していた外来用。
エルシェアのカップは自ら此処に持ち込んであるマイカップだったりする。
「……」
ティティスは洗い物をしている天使の背中を何とはなしに眺めていた。
純白の翼が揺れている。
妖精は自分を救い出してくれた相手のことを覚えていなかった。
ただ、虚ろな意識で白い翼に包まれていた様な……
そんな曖昧な記憶が残るだけ。
その手に、心に今一度触れたい。
リリィに相手を尋ねたことはあるのだが、本人は名を告げられることを拒んだと言う。
お礼すら言えないという事を気に病んだティティスだが、完治して復帰したときには相手の真意を理解した。
好奇の視線にさらされる自分を鑑みた時、自分を助けたその生徒も、こんな視線で見られる危険を回避したかったのだろうと。
「ティティスさん?」
「あ!? すいません」
いつの間にか俯き、黙考に沈んでいたらしい妖精少女。
エルシェアは既に洗い物を終えて戻っており、ティティスに不思議そうな視線を向けていた。
命の恩人を恨む心算はない。
そんな資格が無いことは、ティティスも十分承知している。
ただ、今自分が辛いから、優しさに縋りつきたいだけ……
堂々巡りする思考の行き着く先は、何時も同じ答えに辿り着く。
そんな自覚が、いっそう少女を惨めに感じさせるのだ。
エルシェアは溜息を吐くフェアリーを、興味深そうに見つめている。
「ティティスさん。今後、何かご予定は?」
「え?」
「もし宜しければ、お昼でもご一緒いたしません?」
突然の誘いに目を瞬かせるティティス。
エルシェアとしては彼女に予定など無いことは予測している。
転入間もない身で仲間は壊滅。
新たに中の良い友人など、作る間もなかったことだろう。
しかしこのフェアリーが誘いに乗ってくれるかどうかは、この時点でエルシェアにとっても未知数であった。
最も逃す心算は無く、断れば自身の制服の内ポケットへ仕込んだ乙女の七つ道具……
常温で気化する睡眠薬の小瓶と、ハンカチーフの出番である。
「実はですねぇ、この学園の先輩として貴女の快気祝いをしたいと思っておりまして」
「はぁ」
「私のお友達と、貴女をお招きしたランチをセッティングしておりました」
「そ、其処までしていただくわけには……」
反射的にそう応えたティティスだが、ふと違和感を感じて首を傾げる。
エルシェアは既に昼食を用意していると言っている。
つまり今日、この場所に自分が来ることを知っていたのか?
ならば彼女は、午前の講義が無いのを良いことに、此処で自分を待っていたのか?
疑問は少女の中で収まりきらず、質問の形で口をつく。
「エルシェアさん?」
「母音が重なって呼びにくいなら、お姉さまとかご主人様と呼んでくれても結構ですよ?」
「エルシェアさん、どの辺りから企画してくださったんですか?」
此処までくれば、ティティスとしてもエルシェアの性格の一端は把握している。
戯言を丁重に無視しつつ質問を続けた。
エルシェアは気を悪くした様子も無く、微笑で質問に答えていく。
「今日、貴女をお誘いする事は私と、もう一人の友人で相談して決めました。これは昨日のことですね」
「……」
「私は本日、所用でリリィ先生にお会いする事が決まっていました。友人はそれを知っていたので、貴女を此処へ越させたのだと思います」
「あ、じゃああのディアボロスの方は……」
「……あの子は貴女に自己紹介もなさらなかったのですね」
あきれた様に呟く天使に、ティティスは苦笑の発作に駆られた。
恐らくあのディアボロスの少女は、ティティスの事を知っていたに違いない。
相手のことを良く知るが故に、相手も自分を知っていると錯覚してしまったのだろう。
この時二人は同じ予想をし、相手の表情からそれを悟る。
顔立ちは違えど近い表情を互いの顔に確認し、エルシェアは一つ咳払いして続ける。
「友人が失礼いたしました。今回のお昼は全部あの子のお財布ですので、それで許してあげてください」
「もう、用意してくださっているんですか?」
「はい。なので是非、お付き合いくださると嬉しいのですけれど」
微笑を浮かべて語る天使に、ティティスはやや考え込み……
やがてしっかりと頷くと、参加の旨を相手に示す。
「態々私の為に、本当にありがとうございます。其れでは厚かましいですが、ご一緒させてください……先輩」
「先輩……良い響きですね」
エルシェアは一瞬だけ虚を衝かれたような表情を浮かべたが、直ぐに笑みを戻してティティスの頭を一つ撫でる。
(え!?)
それを行ったエルシェアは、意識した行動ではなかったかもしれない。
しかし受けたティティスは自分の劇的なまでの変化に混乱した。
動悸が、治まらない。
自分に何が起こったか理解せぬまま、呆然と相手を見つめ続ける。
天使はそんな少女の変化には気づかず、既に手を引いていた。
(何これ……なに?)
未だ早鐘を打つ心臓に振り回されるティティス。
原因となった天使は、七つ道具が活躍する機会が無かった事に、安堵と無念さを同時に感じて溜息を吐いた。
§
結局、昼時まで保健室でボイコットを敢行したフェアリー……
ティティスはエルシェアに伴われ、北校舎の廊下を歩いている。
利用者が殆どいない北校舎では誰かとすれ番うことも無く、ティティスはエルに着いて行った。
途中エルシェアに質問した所、既に用意は出来ているという返事を聞けた。
「食堂じゃないんですか?」
「プライベートなモノですし、あまり人が多いところへ行くのは……私もご勘弁願いたい所です」
エルシェアは苦笑してそう答え、全く同感であったティティスも頷いた。
ティティスにとって初めて歩く北校舎だが、案内役の天使は迷いもせずに歩いてゆく。
「先輩は、よく此処にいらっしゃるんですか?」
「ええ。私も、友人もよく保健室を根城にしておりますよ」
「リリィ先生は、何もおっしゃらないんですか?」
「良く来たって褒めて下さいますけど……私達が行かなかったら、たぶん誰もあそこには近づきませんしね」
二人は共にリリィを慕っていた事と、出会った場所が保健室であったが故に、集合は其処という暗黙の了解が出来ていた。
エルシェアは相棒となったディアボロスの少女と組んで、まだ日が浅い。
互いに時間の許す限り会うようにし、時には話し時には手合せし、それぞれの戦術や癖を覚えあっている間柄である。
それは相手を縛る意図ではない。
むしろ実践に出た際、お互いの個性をありのままに発揮しつつ、二人になったメリットを生かして最大の戦果を挙げる……
個性とチーム戦術を同時に使うというコンセプトの研究過程なのである。
何しろ双方がアクの強い性格であり、フリーハンドを取り上げたらギクシャクする事が明らかであったのだ。
「さて、着きましたよ」
「屋上……ですか」
「はい。私達、良く此処でお昼を取っているんですよ」
二人の目の前には鉄製の扉があり、エルシェアはノブに手を掛け……止まる。
「どうしました?」
「今日は貴女と、もう一人のお客様を招いております」
「あ、リリィ先生ですか?」
「……だったら良かったんですけどね……恐らく貴女が、今一番会いたくないであろう人種です」
そう断りを入れたエルシェアは、肩越しにティティスへ振り向いた。
やや苦い笑みを浮かべるエルシェア。
その顔に嫌な予感を覚えつつも、ティティスは首を傾げて続きを待った。
「ジャーナリスト学科の生徒を、一人此処に呼んでいます」
「え?」
「受け答えは、主に私が行います。それで、今後貴女が煩わしい想いをすることも減るでしょう」
エルシェアはそれだけ言うと、ティティスから視線を戻して扉を開けた。
夏の日差しが降り注ぐ野外は、相応の暑さで二人を出迎える。
「あ、エルー、ティティスちゃーん。遅いっすよ」
「やー。どうもこんにちわ皆さん。本日はお招きに預かりありがとね!」
屋上で二人を出迎えたのは、プリシアナ学園の女生徒が二人。
それはエルシェアはもちろん、ティティスにとっても見覚えのある少女だった。
一人は今朝、保健室行きを進めてくれた英雄学科のディアボロス。
今一人は、ティティスの目下最大の悩み、ジャーナリスト学科。
同属のフェアリー、名をチューリップと言った。
反射的に顔が強張り、竦みそうになるティティス。
エルシェアは小動物のような後輩の手を取る。
「参りましょ?」
「あ、はい」
エルシェアと手を繋ぐ。
それだけで震えも、そして硬さも収まった事が不思議なティティスだった。
「ディアーネさん。もう用意終わってしまいました?」
「うん。今煮込んでるところっす」
屋上にはどこから用意したものか、プリシアナ学園指定の学習机と椅子が四つ。
机の上には炎の魔法を封印し、上においた物を熱する鉄のプレートが配置され、その上に鎮座していたのは……土鍋。
円形の土鍋はプレートの上でコトコトと音を立てており、炎天下の体感温度をさらに底上げしてくれている。
十号はゆうにあろうかと言うかなり大型の鍋であるが、その蓋を押し上げてやや収まりきっていない蟹の足が、さらなる存在感を発揮していた。
「な、鍋?」
「うぃっす。やっぱり皆で囲むなら、鍋っすよね」
絶句したティティスだが、ディアボロスの少女は宇宙絶対の真理を説くかのように迷い無く言い切った。
もはや、何処から突っ込めばいいか分からない。
なぜ真夏の炎天下でよりによって鍋なのか、学園に土鍋と蟹まで持ち込んで鍋を始めるとか正気なのか、それを見て止めないこの学園の生徒は、一体全体なんなのか……
「う、ふふっ」
「お?」
「あはっ、あはは!」
ついに耐え切れなくなったティティスは、人前であるにも関わらず大声で噴出してしまう。
それは本人も含め誰も意識していなかったが、少女が上げた久方ぶりの笑い声だった。
そしてディアーネが釣られて笑い、チューリップも笑っている。
それを見ていたエルシェアも、きっと笑っていたのだろう。
一頻り笑いあったところで、本日の主役が自己主張を始める。
置き去りにした鍋が吹き零れかけ、存分に不満を顕にした。
「おっと」
チューリップは即座にプレートの火を落とす。
直ぐに吹き零れは収まったが、プレート自身に篭った熱の為にしばらく熱いままだろう。
食べごろである。
「さて……それじゃ取り合えず、食べながらお話ししましょうか?」
「うぃっす。あっと……その前に」
ディアボロスの少女はティティスに向き直ると、やや照れたように挨拶する。
「今朝はすいません。少しこの用意に気が急いてて……ちゃんと挨拶出来なかったっすね」
「あ、いえ……」
「私はディアーネ。英雄学科所属は……言ったか。そっちの性悪セレスティアの相棒を勤める、天使のごとき慈悲を備えた美少女です」
「私は賢者学科専攻のティティスです。ご心中、お察しします」
「ディアーネさん、ティティスさん。後で体育館裏に来てくださいな」
二人が自己紹介を進める間にも、蟹は食欲旺盛な思春期の少女達の集中砲火を受けていた。
既にその足はエルが二本、チューリップに至っては三本目の甲羅を粉砕しに掛かっている。
「てめぇ! 鍋はまず箸をおいてから用意ドンがルールでしょう!?」
「そりゃすき焼きだってーの……んー、蟹足とってもジューシー……」
「昆布の出汁が素晴らしいです……海産物を煮るには海産物の出汁ですね」
「チューリップ……そんでティティス、あんたまでっ」
いつの間にかティティスまで戦列に参加しており、一人完全に出遅れたディアーネ。
半泣きで鍋に向き合うと、既に半壊している蟹さんと目が合った。
その眼前で最後の足を、天使の少女がもぎ取った。
「ちょっとエル! 私まだ一本も食べてない」
「蟹味噌は進呈いたしますよ?」
「私蟹味噌好きじゃないって、最初に言ってあったでしょう!?」
猛然と講義するディアーネの罵声を涼風のごとく聞き流し、エルは器用に剥き身にしていく。
どうも先程の性悪セレスティア発言にご立腹らしい。
そんなやり取りをしている間に、ティティスは醤油と昆布ベースの出し汁に舌鼓を打ち、チューリップは蟹味噌を堪能する。
「あぁ……アァ……嗚呼ぁ……」
絶望に打ちひしがれるディアボロス。
その双眸からは滂沱の涙が零れ落ち、世界最後の日を目の当たりにした様な虚ろな瞳で空を見ている。
「……」
そんな相方を見かねた天使は、苦笑しながら自ら剥き身にした蟹を差し出した。
「ほら、ディアーネさん。あーん?」
「あー……んむぅ」
エルに剥いてもらった蟹足を頬張り、幸せそうに頬を緩ます少女。
その変わり身の早さに、フェアリー二人も顔を見合わせて苦笑していた。
ディアーネの表情は豊かで、嬉しそうなその顔は見る者までも心を暖かくする魅力がある。
「ほーらディアーネ? 白身魚美味しいよー」
「ディアーネ先輩、ツミレどうぞ」
「お? おぉ?」
突然のモテ期到来に困惑しつつも、小皿に盛られる具材を攻略するディアーネ。
その様子を見ていたエルシェアは、予想以上に和やかになった食卓で一人笑んだ。
今のうちに三人で、仲良く腹を満たしあってくれるといい。
お鍋の王道、卵雑炊投入のタイミングを図るエルシェアは、一人控えめに蟹の無くなった鍋を突くのであった……
§
「さーて」
雑炊を平らげ、食後の杏仁豆腐まで攻略した少女達。
和やかな食後の雰囲気の中、口を開いたのはチューリップだった。
「そろそろ本題に入ろうか? こんな美味しい鍋で接待されちゃったら、唯でゴチって訳にも行かないよね」
「ええ、もちろん下心あってのことですよ」
炎天下の鍋会の場は、その二人の言葉で家族会議のような雰囲気になる。
先程よりも空気は硬化したものの、この程度で済んだのは先程の食卓が楽しいものであったからだろう。
エルシェアはチューリップに正面から向き合うと、単刀直入に言い切った。
「ジャーナリスト学科の皆さんは、次の一枚の新聞を最後にティティスさんへの接触を控えていただきたいのです」
「うん?」
「彼女は現在、学生生活に支障をきたす程に校内で有名になりました。通常であれば、校内に居辛いならば実習に出て単位を稼げばいいでしょうが……彼女は転入早々に躓き、それをクローズアップされた為にパーティー編成も難しいでしょう」
「そうだね」
エルとチューリップのやり取りを、ディアーネとティティスは見守った。
いつの間にか俯いていたティティスの肩に、ディアーネが手を置く。
其処から伝わる、一種の波動めいた感覚がティティスの気持ちを落ち着けてくれた。
「私も今回の報道は行き過ぎたものだったと思ってる。仲間を悪く言うのは嫌だけど、大衆が醜聞へ食いつくときの恐ろしさをまるで分かっていないって思ったね」
「貴女が良識のある記者である事を確認できて嬉しく思いますよ」
「お世辞は良いって。後でもっと言ってね。そんで、貴女達には現状を打開する方策があるのね。私は何をすれば良い?」
予想以上に物分りの良い返答に、エルシェアとディアーネは視線を交わす。
その様子を観察したチューリップは、この二人が自分に対して付けていた評価が、非常に厳しいものだったことを悟って苦笑する。
それは恐らく、ジャーナリストという人種に対して一般大衆が抱く、自己のプライバシーへの警戒感をそのまま表していただろう。
誰かを傷つける報道はしないと、己のルールに恥じる事はしていないつもりのチューリップ。
しかしジャーナリスト全体に対するイメージと、チューリップという個人の人格の差は、相手にとって関係ないのである。
それは彼女がこの学科を専攻してから、思い知った現実だった。
ややほろ苦い笑みを持って、チューリップは口を開いた。
「これは身内の不始末だからね。火消しには協力する」
「……ありがとうございます」
「でも解せないねー。二人は何で、この子にこんなに肩入れするのか、聞いて良い?」
「それは……放っても置けないでしょう?」
そう言ってエルは立ち上がり、一つ息をついてティティスに寄る。
そしてディアーネと挟むようにティティスに寄り添い、反対の肩に手を乗せた。
(あ……)
ティティスはこの時、モノを考える機能を喪失した。
胸からこみ上げる暖かいものが瞳からあふれ出し、気がつけば大粒の涙が頬を伝う。
身体と、心が理解した。
次に天使が語る言葉を。
「私達が、拾ってしまった命ですからね?」
逸れた幼子が母親を見つけて安堵するように。
常闇の地平に一筋の光を見出したかのように。
涙腺を決壊させて泣き尽くす妖精を、両側から天使と悪魔が抱きしめる
この瞬間、この光景こそが、チューリップの……
そして、ジャーナリスト学科の仲間達が本来目指したはずのスクープだった。
いつの間にか主旨を見失って暴走した仲間と、それを止めることが出来ずにティティスを傷つける一端を担ってしまった自分。
それぞれに対する複雑な思いが、チューリップの双眸にも光るものを滲ませた。
「貴女達だったのね……」
「はい。恐らくジャーナリスト学科の方々が最も知りたかったのは、これでしょう?」
「そうね。本来なら、美談を紹介する企画のはずだったんだ……」
しかし美談のもう一方の主役は表に出ず、焦れた人々の一部が執拗にティティスを追い回した。
それが今回の事件の事情であった。
複雑な表情で一度だけ涙を拭ったチューリップ。
「私からのお願いは二つです。まずは、この事を最後にすること。そしてもう一つは、今日半日だけ、この件を貴女の胸の内に秘めておいて欲しいということです」
「え……なんで?」
「私は今朝リリィ先生にこの件を相談し、職員会議で抑止を呼びかけてくださるとの約束をいただいているのですよ」
「おお?」
「これ以上は生徒の心身を損ない、悪影響を与える事は明白でした。間違いなく承認され、明日の朝一で周知されるかと思います」
「なるほど……分かった」
チューリップはエルの意図を汲み取れた。
最初の段階でティティスを救った事を名乗り出なかった以上、二人はあまり目立つ事を良しとしていない。
こうして名乗り出たのはあくまでティティスの急を救うためであり、そうでなければ決して二人は表に出なかったに違いなかった。
「私は今日の夜、朝が来る前に学科メンバーに真相を触れ回る……」
「そして皆さんは朝一で新聞作成に取り掛かろうとするでしょうが……」
「それは先生に止められる」
「新聞は差し止められて表には出ません」
「だけどうちの連中は真相を知れる。好奇心を満たせるなら、先生の差し止めにあえて逆らおうとする連中も殆どいない」
だから、エルは手を打った。
一部の者に敢えて顔を晒し、それ以上には知られないように。
その一部というのがジャーナリスト学科というのは不本意だが、彼らも情報を扱う学生である。
熱病が覚めれば、守秘義務やプライバシーの保護の重要性への自覚を取り戻してくれる……と、思う。
エルシェアとしては非常に不安であったのだが、事がこうなった以上選択の余地が無かった。
自身の思考で事態を制御する限界に差し掛かり、エルシェアは一つ息をついた。
腕の中では未だ泣き崩れそうな妖精がいる。
相棒と苦笑しつつ、しかし抱きしめるその手は離さない。
そんな二人に、ティティスも必死にしがみ付く。
「ブーゲンビリアさんに、よろしくお伝えくださいな」
「は? 何でアイツが出てくるのよ?」
「私がこの件で最も苦慮したのが、誰に真相を伝えるかです。彼……本人の意思を尊重して彼女か……に、貴女を紹介していただけたのですよ」
「ああ、なるほどね」
エルシェアは以前の仲間から求められるままに転科を繰り返していた過去があり、ブーゲンビリアとの接点はアイドル学科在籍時の友好関係だったりする。
其処までは、チューリップも知らないことだが。
「さぁ、貴女の悪夢もこれでお終い」
「今まで良く頑張ったねー」
それぞれに慰撫をかけるエルシェアとディアーネ。
嗚咽によって声が出せない妖精は、その暖かい言葉に何度も何度も頷いた。
その時、丁度昼休み終了五分前の予鈴が……
正確にはそれを伝えるパイプオルガンが学園に響き渡る。
チューリップは一つ息を吐いて立ち上がった。
「良いもの見せてもらって、ありがとうね」
「いいえ、チューリップさんと面識が持てて良かったです」
敢えて名を呼んだのは、エルシェアにしては珍しいサービス精神によるものだった。
それは、彼女を個人として認めたということ。
チューリップも珍しく真剣な表情で頷くと、この信頼は裏切れないと胸に誓う。
打ち合わせた事の協力を確約しつつ、本校舎へ向かい去っていった……
§
放課後のこと……
北校舎の屋上に、二つの影が寄り添っていた。
セレスティアの少女とディアボロスの少女。
「どうだった?」
「学生寮に送ってきましたよ」
「そっか」
チューリップが去った後も、しばらく泣き続けていたティティス。
少女はやがて憑き物が落ちたかのように眠りに落ちた。
それは妖精の少女がここ数日、殆ど寝つけていなかったであろうことを予想させた。
二人はティティスを起こすことも躊躇われ、しかも両手でしっかりと制服を握り締められていたために動けず、添ってこの時間まで途方に暮れていたのである。
先程ようやく目を覚ました少女は、赤面して礼を述べた。
そしてディアーネが此処を片付け、エルシェアがティティスを送り届けた。
エルシェアはその後、ディアーネを手伝いに戻ったのだが、既に粗方片付けも終わっていたのである。
「ディアーネさん」
「ん?」
「貴女は、きっと最初から名乗り出たかったのでしょうね」
やや躊躇いがちに言った天使に悪魔の少女は苦笑した。
今回の件は、決して両者の意志が一枚岩であった訳ではない。
ティティスを救うという根幹では完全に一致した二人だが、その前段階では両者の意見は完全に正反対だった。
エルシェアはこれ以上ティティスに関わらない事を主張し、ディアーネはティティスに真実を告げ、仲間に迎え入れることまで主張した。
どちらにも言い分はあり、それは両者共に理解していた。
しかし現実は、二者択一を迫って来る。
そして今回、折れたのはディアーネのほうだった。
「今回の件は、ディアーネさんにとって美談になったでしょう。公表していれば……」
「でも、エルは目立ちたくなかったんだよね」
「はい」
「うん。なら、それでいいんだよ」
ディアーネは夕日に一つ背伸びすると、横に座ったエルの肩を抱き寄せる。
この天使は捕まえておかないと、ふらふらと何処にいくか分からない。
今確かに、此処にいるのに。
「私は今まで、きっと焦ってたんだと思う。誰かに認めて欲しい、誰かに振り向いて欲しいって」
「……」
「でも、そうじゃなかった。私はエルに、見ていて欲しかったんだって気づいたの。だから私はもう焦らない。エルが居てくれれば、私はきっとぶれないから」
そう言って笑うディアーネに影は無い。
本心からそう思っているらしいディアーネに、エルシェアも気持ちを切り替える。
笑い合える、競い合える、譲り合える、そして許し合える。
お互いがお互いを貴重に想い、心の一部を預けあっている存在。
それを確認する事が出来た。
きっとこの先も、意見を異にする時がくる。
それは当たり前で、二人は互いに別人なのだ。
でもきっと、何とかなるだろうという思いを、この時二人は共有できた。
「あっついっすねー……」
「夏ですから」
「今度、北の方にいってみよっか?」
「それもありかもしれませんね。ローズガーデンの方まで行けば、かなり涼しくなりますよ」
「あ、いいね! 私、歓迎の森の先はまだ行ったこと無いよ」
「その先は雪原でしてね……あれ、確かクエストも出ていたような……」
「それ受けて行ってみようか。 ここしばらく、ばたばたして外出られなかったしねー」
楽しげに語る少女達。
未来を語る二人を、夕日が赤く染めていた。
§
後書き
NPCキャラ初登場。
脳内では少女達が華やかにはしゃいでいる場面なのですが、私が書き起こすともっさりしますorz