§
階段を下りると、其処は地獄だった。
「エル! 生きてる?」
「かろうじて」
「ティティス! 着いて来てるね?」
「はい!」
ディアーネが円錐状の岩の塊に切り込んだ。
しかし唐突に剣の間合いの直前で方向を代え、足を駆使して右に飛ぶ。
その背中から後衛の妖精によって放たれていた火球が岩の塊……正確には岩の化け物に迫るが、怪物は機敏に宙を滑りって回避する。
回避方向を読みきっていたディアーネが、間髪いれずにサーベルで薙ぐ。
魔物は慣性を無視したような動きで方向を変え、悪魔の刃から遠ざかる。
それはエルシェアの方向への追い込み。
ディアーネのサーベルを避けた瞬間、エルシェアのサイズの間合いに飛び込んでしまった魔物。
天使の一刀で切り伏せられ、半ば砕かれて地に落ちた。
「こいつら……つえぇよ」
「ティティスさん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……」
最後までいえずにふらついたのは、金髪碧眼の妖精の少女。
先程の岩の化け物は、すばやい動きで前衛を翻弄し、魔法攻撃でティティスを直接狙ってきた。
これまでのようにディアーネの一振一殺で敵の数を減らせない。
エルシェアが前衛に残ることによって戦線の崩壊はしていないが、一つ一つの戦闘が非常に厳しいものになっている。
三人の調子は悪くない。
つまり、敵が強いのである。
「エル、さっきの敵……見た事ある?」
黒髪のディアボロスの少女は、相棒の天使に尋ねてみる。
その回答は予想通り、天使は薄桃色のウェーブヘアを揺らして首を振った。
「始めて見ます。このフロアに入ってから、出てくる敵は全てです」
「そっか……これは、締めて行かないと」
天使と悪魔は頷くと、後衛を一手に引き受ける後輩を見る。
やや息が上がっているが、その顔色もしぐさも、特に苦しそうなところは無い。
「ティティスさん、貴女の今の状況を、なるべく正確に教えてください」
「少し疲れていますけど、あの位の戦闘ならもうしばらく続けられます」
「ん、じゃあ進もう。ティティスちゃんが潰れたら、速攻で帰還符だね」
ディアーネがまとめ、他の二人が頷いた。
エルシェアは上のフロアでティティスに精神温存を指示していた。
しかしこのフロアに下りて二戦目で、そんな事は言っていられない事に気がついた。
見たことも無い敵が、群れを成して襲ってくる。
それまで必殺であったディアーネの斬撃を耐え、エルシェアの鎌を避け、ミドルレンジ以上の射程でティティスを直接狙ってくる。
迷宮内ではフロア一つ降りただけで、劇的に魔物が変わることがある。
それは三人とも承知していたことであるが、この変わり様は異常であった。
同じ迷宮の中であれば、フロアをまたいでも生活環境はあまり変わらない。
ならば生息域が変わろうと、必ず其処にはある程度の共通項が魔物の中にも在るものだった。
「巻貝を被った変質者に、イカに、鏡に、岩の化け物に、ドラゴン(笑)に……動くトーテムポールもいましたか」
「共通点、無いっすね」
「しかも敵、すごい強いです」
三人は探索を続けながら地図の空白を埋めていく。
このような地味な作業は、極自然とエルシェアが担当していた。
冒険者にとって、未知の相手と戦うことは非常に危険なことである。
迷宮探索は其処に現れる敵を把握し、その攻撃方法を理解し、攻略法を確立させて挑むもの。
それが分かるまで何度も同じ迷宮に挑み、少しずつ未開拓の部分を埋める地道な作業……
本来の迷宮探索とはそういうもの。
しかし今回、人命救助という制限があったために、ある程度の強行軍が必要であった。
それ故に、このクエストは受けられる生徒に実力制限まであったのだ。
「これは、大当たりを引いちゃったっすかねぇ?」
「可能性はありますね」
エルシェアは地図を描きながら、ディアーネの背中を追う。
彼女がこうしている以上、その前後を警戒するのはディアーネとティティスの仕事である。
このような、戦闘時以外の部分の連係が非常に上手いパーティーだった。
特に後衛を締める妖精賢者、ティティスの成長はめざましい。
正直この少女の加入と成長が無ければ、天使と悪魔は早々にリタイアを決めていただろう。
「……」
ティティスは前を歩くエルシェアの背中を見つめる。
稀に周囲を確認し、手元の地図に地形や罠を書き込んでいる。
ワープゾーンのポイントを把握し、道具袋を整理し、戦闘と支援をほぼ同時にこなして行く天使。
ティティスには一つ、エルシェアに対して疑問がある。
学科を七つ、パーティーを四つ跨いでいる天使。
彼女はエルシェアを手放すパーティーというのが信じられなかったのだ。
「……あの、エル先輩?」
「はい?」
エルシェアは地図に記入を止めず、振り向きもせずに答える。
少女はやや逡巡し、しかし此処で何も言わないほうが不自然だろうと積年の疑問をぶつけてみた。
「先輩は、どんな学科を転々としてらっしゃったんですか?」
「あ。それ私も気になるなぁ……正確なところって聞いてないし」
「今此処で聞いてきますか貴女方は」
足を止め、呆れたように呟く天使。
それは決して話題を嫌がっているためではなく、いつの間にか気を張り詰め、雑談すら出来なくなっていた自分に気がついたからである。
集中のし過ぎで視野が狭くなっていた事を自覚したエルは、一度周囲を警戒して敵の気配が無いことを確かめる。
「そうですね、まぁパーティーメンバーの戦力を把握するのは有益なことでしょう」
エルはそう前置きすると、やや開けた通路の一角に簡易結界を張った。
小休止である。
三人は結界の中で円に座った。
ディアーネが買い込んだおにぎりが配られ、魔法瓶から紅茶を入れる。
「もうこの食い合わせに慣れてしまいましたね」
苦笑するエルシェアに、ティティスが笑って頷いた。
一方ディアーネは、とりあえずおにぎりがあれば飲み物には拘らない。
時を置かず妖精と天使が一つ、悪魔が三つ目のおにぎりを攻略する。
エルは一つ紅茶を含むと、ややあって仲間の疑問に答えだした。
「私が経験した学科は七つ。始めは堕天使を自発で選び、その先は光術師、アイドル、狩人、ナイト、ダンサー、盗賊の順に渡りました」
「改めて聞くと、エルって凄かったっすね」
「なんというか……転科の方向性が見え無いんですけど……」
ティティスの率直な意見に、苦い笑みを浮かべるエルシェア。
方向性が無いのは当然であり、それは別の相手から求められたからである。
「七つの学科を渡る間に、パーティーは四つ跨いでます。今ので五つ目なんですよ」
「あの……どうしてお辞めになられたのか、伺ってもいいですか?」
「それ程面白い話でもありません。主義主張の不一致もあれば、私の失敗でくびになったこともありますね」
その発言に、悪魔と妖精は顔を合わせた。
少なくとも二人が見る限り、この天使が大きな失敗をする所を知らない。
そんな雰囲気を感じたエルは、苦い笑みを浮かべて続ける。
「ディアーネさんと初めてお会いしたとき、私ボロボロだったでしょう?」
「うん」
「あれ、当時の仲間だった子から苛められたんですよ」
「え?」
やや重い溜息をつくエルシェア。
ディアーネもティティスも、そんな天使にかける言葉が無い。
硬くなりかけた雰囲気だが、それを壊したのもエルシェア自身。
彼女は唐突に噴出すと、堪え切れないと言う様に笑い出す。
「あれは本当に、神様に嫌われたんだろうなとしか思えない出来事でしたね」
「ほぇ?」
「ほら、私盗賊だったでしょう? 当然、こういうところで宝箱を開けるの、私の役目になるじゃないですか」
「うん」
因みに、現状彼女達に盗賊技能の所有者がいない。
エルシェアは経験者ではあるが、盗賊力検定合格に伴い配布されるピッキングツールを、転科に伴い返却してた。
そんな事情により、このパーティーは此処まで、宝箱の総スルーという冒険者に有るまじき蛮行を平然と行っている。
「あの時、比較的順調に進んだ探索で……宝箱の罠解除に失敗してしまいました。三回連続で、全部メデューサの瞳」
「……はぁ!?」
「ありえないでしょう? ええ、私もありえないと思いました。あの日から、私は神の存在を信じるようになりました。神は居て、高みから私を嘲笑っているに違いないと」
エルシェアは神を信じている。
それは縋るためではない。
必ず自分が殺す為に、居てくれと切に願うのである。
「何故か私だけ一度も石化せず、しかし探索も続行できませんから町に戻ってみんなの石を治して……後はまぁ、お前ちょっと屋上か体育館裏に来いと……」
「あー……それはなんというかもう……弁護できねぇ」
「でしょうね。私も怒りのやり場がありませんでした。そしてギスギスした気持ちのまま貴女に会ってしまい、不幸な事故が……」
「あの暴言? あれはエルの素だから、過失は認められられないっす」
「先輩……運だけは、悪かったんですね」
「完璧な私に唯一無いものが、それですからね」
冗談を言える程度には、エルシェアも前を向けるようになった。
しかし口にしなかった思いもある。
即死トラップを引き当てたのは運であるが、解除に失敗した事自体は自分のミスだと言う事を。
それを理解していたから、エルシェアは利と理に拘る傾向がある。
自身に欠けた運の要素が、出来るだけ絡んでこないように。
「まぁ、そのおかげで今があると言っても過言ではありません。何がきっかけでどんな縁が繋がるかなど、私達には分からないものです」
「そっか、そう考えると、エルがフルボッコにされたのも私に出会うため、運命だったんだね!」
「拒否権があるのなら、間違いなく行使していたでしょうね」
「ひどっ!」
涙目になってすがり付いてくる悪魔にエルシェアは自然と笑みになる。
相変わらず打たれ弱い悪魔は彼女の格好のおもちゃであった。
それは、ある意味においての『惚れた弱み』を自覚していたが故の、彼女の最後の抵抗だったりするのだが。
「さて、ディアーネさんがおにぎり食べ尽くす前に、地獄の旅路を再開しますか」
「そうだね、後三十五個しかないっすからね」
「私が一つ、エル先輩が二つ……ディアーネ先輩が……!?」
因みに、探索開始当初は六十個あった。
初等部の子供でも出来る計算を、何度も呟いては絶句するティティス。
この調子で進んでいけば、本当に兵糧切れを起こす事も考えられる。
「私の魔力が尽きるのが先か、先輩のおにぎりが尽きるのが先か……」
「負けないよティティスちゃん?」
「お願いしますから自重してください!」
三人はゴミを纏めて片付けると、簡易結界を解いて探索を再開した。
§
内部に進行するにつけ、だんだんと激しくなる魔物の出現。
既に幾度戦ったかは、ブレイン役のエルシェアですら覚えていない。
彼女が覚えているのは敵の種類。
そしてその傾向と対策である。
「慣れてきましたね」
不敵に笑う天使に、悪魔が神妙に頷いた。
初見の敵はディアーネを中心にオーソドックスな各個撃破で仕留め、同種の敵が来た場合は既にエルシェアが対策をとっている。
最初に苦労して倒した魔物達だが、今では彼女達にとっては対応を間違えなければ事故も起こらない範囲になった。
探索のペースが上がり、既に幾つかの……教師だか生徒だかも判別できない人型の遺体も発見した。
「そんなに数が居ないのかな?」
「こちら側には、あまり人が来なかったのかもしれませんね」
「敵が強いのは、降りた時すぐに分かっていましたし……」
「確かに……敢えて此処を進み続けるメリットは、普通ならありませんよね」
状況を確認しながら、三人は共通の思いを抱いていた。
この先に人は居ないのではないか?
そして居たとしても、既に生存者は居ないのではないか……
「この先、生存者が居る可能性は低い気がするのですが……」
「私もそう思うんだけど、居ないとも限らない……よね」
天使と悪魔は顔を見合わせ、溜息を吐く。
ティティスは気休めに要救助者のリストを確認するが、セルシアや教師達がどの程度保護をしているか分かっていない。
咥えて彼女達が此処で発見した遺体は損傷が激しいものが多い。
はっきり言ってこの遺体が、プリシアナ学園の関係者のものかどうかも分からない有様である。
三人は簡単な打ち合わせをすると、探索続行を決める。
エルシェアが魔物対策をかなり早期に確立したため、ティティスの魔法の消耗が最小限ですんでいたのだ。
「鏡と竜がエルの鎌で急所狙い、円錐岩は連係で追い詰め、トーテムポールは私が耐えてちまちま削って……」
「巻貝女は『スリプズ』を多様しますから、逆に誘って無駄撃ちさせます」
「あの……食らってしまったら……」
「ディアーネさんが蹴り起こしてくれるでしょう?」
「うぃっす。今宵の鉄骨補強ブーツは血に飢えておる……」
「ひぃぃっ!?」
ティティスが納得いかないのはこの二人、何故か自分が状態変化魔法を受ける可能性を微塵も考えていないこと。
そして実際に食らっている例も無く、妖精少女としては不条理を神に嘆きたくもなるのである。
「絶対何か、不正を行っているんだと思うんです……」
「イカサマはばれない限りイカサマにはならないのですよ」
「まだティティスちゃんには難しいっすよ」
二人から同時に頭を撫でられ、頬を脹れながら表情はふやけるという高等技術を披露する。
再び歩き出した少女達。
その地図はかなりの空白を埋められ、既に残りも三分の一は残っていない。
ディアーネは相棒の手元を覗き込みつつ、フロアの余白を確認する。
「このフロアの探索が終わったら、どんなに余力があっても一回戻ろう」
「賛成ですね。この地図を先生方にお渡しして、出来ればその先はお任せしてしまいたいところです」
既にかなり奥まで来ているという実感があった。
本来であれば一パーティーではなく、最低三パーティーで連係して地図を埋めたい広さである。
そもそもこれは先に進めばいいというものではなく、生存者を拾う事が目的の探索。
地図の余白を残さないように全てを埋め尽くさねばならず、当然魔物との遭遇頻度も馬鹿にならない。
更に此処の魔物……
エルシェアの対策によって事故無く狩れているものの、地上では見かけない程の強敵である。
本来ならばこの時点で引き返しても良かった。
彼女らが探索続行を選択したのは、優れた能力の証明と言えたかもしれない。
―――此処で引き返していれば……とは、後に彼女達が口を揃えて語った事である。
「おろ? 扉っすね」
「人工物が出ましたね……地図だとこの先にはまだ、それなりの広さの余白があります」
「こういうの見かけると、初見だと行っちゃうのが冒険者っすよね」
「……あ、つまりこの先に……」
「はい。もしかすると、要救助者が居る可能性があります」
扉はかなり大きなもので、簡易魔法で施錠されている。
この魔法は単に扉を勝手に閉めるものであり、解除は誰でも可能である。
ディアーネが扉を開けると、三人は中に踏み込んだ。
悪夢の、それが始まりだった。
§
「え?」
原因は、幾つかあった。
まず、彼女達が此処まで来れてしまったこと。
此処の敵はかなり強く、本来なら早期撤退を選んでいてもおかしくない迷宮だった。
しかしティティスの成長によってパーティーの継戦能力が飛躍的に上昇したために、三人とも撤退を主張しなかった。
人命が掛かった探索で、戦闘続行できる状態なら撤退は基本選べない。
未知の魔物に対しても、エルシェアが早々に対策を立ててしまった。
効率よく弱点を突き、致命になりえる攻撃を避け、作業のように敵を狩るパターンを構築した。
そんな戦闘を、此処まで相当数こなしてきたのである。
慣れが行動を単純にした側面は否めない。
これ以上更なる新種が現れるという可能性を、一時的ながら意識から外してしまっていた。
そして、何より……
何より、これまで常にパーティーの先頭で魔物と対峙してきたディアーネが、一撃で沈む相手と始めて遭遇したのであった。
「え……え?」
ティティスは扉を潜った所から数秒の記憶が無い。
扉を開け放たれた瞬間、彼女はエルシェアによって抱きかかえる様に身を庇われた。
天使の胸の中に在り、彼女はその脇から覗くように前を見た。
ディアーネが立っている。
違和感を感じたのはその直後。
悪魔の背中から、何か生えている。
それは何か、吸盤のついた触手の様な……
「こふっ」
「あ?」
妖精の少女は、崩れ落ちるディアーネを見つめながら戦慄する。
その時、ティティスは自分の髪に滴る液体に気がついた。
繰り人形の様に手が動き、髪を触り、そして見た。
赤い血?
「え?」
それはやはり、悪魔と同じように触手に貫かれた天使が吐血したものだった。
恐慌寸前の妖精の耳に、場違いなまでに平静な声が割り込んだ。
「ティティスさん、回復」
エルシェアは簡潔に指示すると、激痛に崩れ落ちそうになる身体を気力で支える。
部屋に入ったとき、完全に待ち伏せされたかのようなタイミングで魔物に襲われた少女達。
不意打ちに対して、取れた行動は最小限のものだった。
ディアーネは仲間の為にとっさに動きそうになる足を止め、エルシェアは自分の身体を敵と妖精の間に割り込ます。
自分より後ろの仲間を守る。
この時、天使と悪魔の思考は完全に一致した連係になった。
成功報酬はティティスの無傷。
代償は瀕死のディアーネと、エルシェアの大怪我。
既に扉の入り口をから半包囲された三人である。
背後では、開け放たれた扉がゆっくりと閉まる。
その扉には、開けられた後勝手にしまる魔法がかけられてある。
閉まること自体は不思議ではないが、その音は大きく響き渡り、聞くものに退路を絶たれたかのような絶望を感じさせる。
「……」
エルシェアはパニック寸前の後輩から回復魔法を受けながら、現状の最善手を模索する。
この状況での戦闘続行はありえない。
先ずはディアーネに回復魔法をかけて応急措置する事が第一。
その為には、ディアーネが倒れ付した位置までティティスを連れて行かねばならない。
要するに、其処まで戦線をエルシェアが一人で押し上げなければならないのである。
素早く視線を走らせば斧を持った縫い包みが四匹と、見たことも無いイカの化け物が二匹。
開幕で前衛を打ち抜いた触手のようなものは、恐らくイカの足だろう。
「ディアーネさん……生きてます?」
「……っ」
エルシェアの声に応える様に、悪魔の少女が床でもがく。
自身の血溜まりで溺れるかのようなディアーネの姿に、ティティスは震えが止まらない。
天使も震えているのだが……これは怒りによるものだった。
「ティティスさん、『サンダガン』」
常に無く簡潔にエルシェアの指示が飛び、その声だけが妖精の理性をかろうじて繋ぎとめている。
ティティスの魔法は巨大な雷を作り出し、敵前衛を巻き込んだ。
『ファイガン』
その雷が消え去る前に、天使は雷に被せる様に生み出した炎の壁を押し付けた。
室内の空間で酸素を消費する炎は使いたくないエルシェアだが……
魔物に対する効果は高く、雷がイカを、炎が縫い包みをそれぞれに怯ませた。
相手が退いた空間にエルシェア本人が飛び込み、戦線を一気に押し上げる。
ディアーネを背後に庇い、賢者たる後輩に癒させるために。
「ティティスさん! ディアーネさんの出血だけ止めてください。それが済み次第帰還符を使って離脱します。本格的な治療は外で!」
「は、はい!」
ティティスは天使に群がる魔物を見た。
妖精が憬れた白い肌がイカの足に穿たれ、縫い包みが斧で切りつけている。
世界が壊れていく音を、この時聞いた気さえした。
それは彼女の大切なものが、魔物によって蹂躙されていく光景。
悲鳴を上げたかった。
しかし、今取り乱したら腕の中の悪魔が助からない。
泣きながらも、妖精は『ルナヒール』を止めない。
止める事が出来ない。
ティティスは自身の半分を預ける悪魔を癒しながら、眼前でもう半分を預けた天使が嬲りモノにされるのを見続ける。
発狂しそうな悪夢だった。
「……調子に乗らないでいただけますか?」
天使は絡みつくイカの足をサイズで切り裂く。
拘束が緩んだ隙に懐から放った投げナイフ。
それはイカの眼球に命中し、さらに間を詰めたエルシェアがナイフの柄を蹴りこんだ。
『サンダー』
間髪居れず、ナイフに雷を纏わり付かせ、イカを内側から焼き尽くす。
生命力の強い軟体生物もこれには堪らず、焦げたにおいを上げて絶息した。
同時にエルシェアも喀血して倒れそうになるが、サイズを杖にして立ち続ける。
肩越しに一度振り向けば、妖精の少女が袋から帰還符を取り出しているところ。
「……厳しいですかね」
後輩の行動からして、後一度……
後一度は、敵の集中砲火を耐えねばならなかった。
今のエルシェアには距離を取る事も出来なければ、一度退くことも許されない。
全ての縫い包みとイカに対してその身を盾にし、ティティスを守らねばならないのだ。
それは全員で生き残るための最低条件。
エルシェアは特に射程の長い、残ったイカの化け物を牽制する。
「っ!」
しかし化け物は一切構わず、エルシェアの四肢に足を巻きつかせて動きを封じる。
張り付けにされた天使に、縫い包みが好き勝手に切りつけて来た。
避けることも出来ずに刻まれる天使……
その時、ティティスが帰還符を準備する。
「え……?」
それは呆然とした絶望の声音。
ティティスはディアーネを抱えて動けず、エルシェアも敵に絡まれて動けない。
そして天使と妖精の間隔はやや離れ、帰還符の有効範囲がほんのわずか、届かなかった。
「い、嫌ぁっ」
ティティスは既に帰還符を使ってしまっていた。
効果が発動しているアイテムを無理にキャンセルしようとすれば破損して使えなくなる。
今、一枚しかない帰還符が使えなくなればどうなるか。
「エル先輩!」
「行きなさい!」
悲鳴の応酬。
片や意味の無い逡巡であり、片や単純な計算だった。
全滅よりは、二人でも生き残るほうが良いに違いないのだから。
絶望の表情の妖精と、安堵した表情の天使。
エルは後輩のくしゃくしゃの顔が正視に絶えず、一度目を瞑り又開く。
その時には、既に二人は脱出を完了していた。
「ぁ?」
頭上から影が差し、縫い包みの斧が落ちてくる。
反射的に首を捻り、頭を庇って右肩で受けた。
皮製の鎧を打ち抜いて、刃が苦痛を塗りこんでくる。
エルシェアは悲鳴を噛み殺し、左手の盾を構えた。
最早片手しか使えぬ状況で、彼女が選んだのは武器ではなく防具だった。
この状況下であっても、彼女は生還を諦めていない。
残り少ない魔力でイカの足を焼き払うと、縫い包みの斧を盾で受け止めて吹き飛ばされる。
それは半ば計算ずくの行動だった。
既に背後に仲間の姿は無く、足を止めて盾になる必要は無い。
「う……ぁ……」
出血が酷く、意識が遠くなりかける。
徐々に壁際に追い詰められながらも、致命傷だけは凌ぎ続けた。
壁伝いに逃げ続け、やがて最初に入った扉まで来た。
しかし、其処まで。
最早呼吸すら苦痛である少女に、簡易魔法を解いて外にでる余力は……無い。
第一、扉を抜けたところで逃げ切れない。
扉を背に、自身の身体を支える天使の少女。
既に殆どの抵抗が不能になった彼女がまだ生きていたのは、魔物がわざと嬲り殺しにしているからだろう。
今もさっさと襲っては来ず、徐々に包囲を狭めるように少女の心を折に来ている。
「……」
エルシェアは虚ろな瞳でそれを見つめ、微笑を浮かべて歩みだす。
前へ。
絶望が魔物の姿を借りて天使の命を喰らいに来る。
そんな状況の中に在り、彼女は前に進むのだった。
「いいですよ……お相手しましょう?」
虚ろにかすむ意識と、焦点の合わない瞳。
しかし凄絶な微笑を浮かべた堕天使。
幽鬼の如く進む彼女だが、精神は最後まで折れずともその肉体が先に限界を超えた。
崩れ落ちる視界の中で彼女が最後に見たものは、何故か怯えたように退く魔物の姿。
そして彼女が意識して最後に吸った息には、消毒用のアルコールの匂いがしたような気がした。
§
リリィは、其処に居た。
「……」
化け物が突然の闖入者に驚き、その瞳に射抜かれて更に怯む。
常の無表情に静謐な怒りを込めて、魔物の群れを眺め回した。
驚愕すべきであったろう。
彼女の視線を浴びた魔物は、明らかに竦んで動けなくなる。
リリィは自分がどんな顔をしているか気になった。
「……」
彼女が一つ歩みを進めれば、魔物は二歩退く有様。
しかし彼女が興味を示すのは、地に伏した少女唯一人。
プリシアナ学園で、リリィを慕っていた数少ない生徒である。
そんな生徒が、今、瀕死で……
「エルシェアさん?」
呼びかけるが応えはない。
常ならば鈴が鳴るような美声で皮肉を聞かせてくれた天使が、応えない。
やがてプリシアナ学園保険医は、生徒の下へ辿り着く。
抱き上げたその身体は失血で体温を失い、徐々にその鼓動と吐息が細くなっていくのを感じた。
『メタヒール』
リリィは得意とする回復系上位魔法を仕掛けるが、失血の多い天使は直には目を覚まさない。
しかしその呼吸が穏やかになった事に、万感の想いを込めて安堵の息を吐いた。
少女の命が宿った身体を、リリィは優しく抱きしめる。
少しだけ逡巡し、天使の薄桃色の髪を手で梳いた。
間に合って良かった……
「……」
リリィが此処に来れたのは、間違いなくエルシェア自身の功績であった。
ティティスの帰還符は、学園の臨時ベースに向けて発動した。
その中にはリリィの受け持つ救護施設もあり、彼女は瀕死のディアーネと半狂乱になって泣き叫ぶティティスと再開する。
ティティスの状態から何があったかを悟り、しかしやはりその状態から冷静な話は聞けぬものと諦め、頚動脈を指で押さえてあっさりと失神させてしまう。
そして妖精が持ち帰った道具袋からエルシェアが作成した地図を抜き取り、そのもっとも奥へ向かって転送符を使用したのである。
冒険者にとって、地図とは正に命綱であり商売道具。
何せこれさえあれば、進むも退くも自由自在。
最初の一度さえ乗り越えて地図さえ作ってしまえば、魔法なりアイテムなりで其処へ簡単にいけるのだから。
自分が踏破した迷宮の地図は、自分の利益を保証する門外不出の貴重品になるのである。
それ故に、世の中に完成した地図というものが出回ら無い。
しかし今回、エルシェア自身が非常に精密な地図を作っていた。
ティティスが脱出に成功してその地図を持ち帰ることが出来た時、数分の間すら置かずに救援を送り込むことが可能になったのだ。
もっともこれはティティスは勿論、エルシェアすら意識していなかった事であったが。
「……」
リリィは慈しむ様に生徒の髪を撫でる。
しかしその時、頭上から無粋な音が聞こえる。
恐怖から脱した縫い包みの一体が、斧を振りかざして襲い掛かる。
振り下ろされるハンドアクスを、冷めた瞳で見つめる保険医。
流れるような動作でその右手が翻り、いつの間にか手にしたメスの軌跡が斧のそれと交差する。
音も無く切断されたのは、縫い包みの得物。
片手用とはいえ斧が、ナイフにも満たない小さな刃物で切り裂かれた。
更にリリィの右手がぶれると、縫い包みは切り飛ばされた斧の一部が地に落ちるより早く解体された。
「……楽に死ねると、思わないでくださいね?」
リリィは一つ呟くと、残りの魔物を無機的な瞳で睥睨する。
先程までエルシェアを嬲り殺しにしていた魔物たちは、その数倍の残忍さを持って切り刻まれる事となった。
プリシアナ学園の生徒がもしその光景を見たのなら、恐怖と共に奇妙な納得を覚えたろう。
学園の保険医リリィ。
生徒達がつけた二つの名は『死神』である。
§
後書き
夜勤明けに⑤投稿して、お風呂入ってふと気がつく。
前後編は両方あって一話だろうとorz
きっと書き溜めた分を全て使い切る行為に、作者のビビリ回路が恐怖信号を発したのだと思われます。
グロリアス・ロード後編、別名『ほぼ事実に基づいた悲劇編パートⅡ』をお届けします。
物語では格好いい、憬れの女教師が颯爽と助けに来てくれますが、現実は甘くありません。
ドールソウル×4とデビルケトラ×2の組み合わせは、作者に命の尊さをきっちり仕込んでくださいました。
このゲーム初見殺しが結構あって、ぬるプレイヤーの私には……。・゚・(ノД`)・゚・。