秋津島における魔導師の存在は新しくもあり、同時に旧態然とした古色豊かな兵科でもあるらしい。戦史の上から言えば、ライヒが明確な技術体系としての魔導というのを世界で初めて投入したのは事実だ。そして、その帝国にとっても魔導師とは漸く運用体系が確立し、戦技の発展が著しい兵科という位置づけになっている。魔導師を古式豊かな兵科として運用している国家は、列強と雖も新参の秋津島程度だろう。では、単純な既存の列強によって秋津島の歴史が脇に押しやられたがための史観か?といえばそれも異なっている。秋津島においてさえ、帝国の技術供与と連合王国式ドクトリンの採用によって初めて近代的な意味での魔術師という兵科は運用が始まったばかりだ。砲兵・歩兵・騎兵という古典的兵科に魔導・航空という近代的兵科を融合しての近代軍構築。それは秋津島が血眼を挙げての富国強兵政策の一環として押し進めているものである。当然ながら、既存列強が試行錯誤の果てに作り上げたドクトリンとは一朝一夕に習得できる概念ではない。中でも魔導師の運用とは、列強でさえも未だに試行錯誤を迫られている兵科なのだ。無理もない話で、魔導師とは従来の指揮系統とは別次元の指揮系統であり、航空とすらも異なる運用が必要とされている。魔導部隊の士官と、他兵科の士官の認識や行動原理の違いを克服しすり合わせることは未だに各軍の課題だ。それだけに、秋津島においては当然のことながら魔導師の戦力化が最も難航するだろうと各国は観ていた。…そう考えていたのだ。秋津島戦役が始まるその日までは。なにしろ呆れたことに、秋津島皇国は魔導師を近代の兵科としては異例なことに騎兵科として運用している。別段、秋津島魔導師が飛べないわけではないし、機動性に問題があるわけでもない。航空という兵科を国力と工業化の問題で十全には投入しえなかった秋津島と、内政事情から航空・魔導という兵科に関心の乏しかったルーシーの衝突はそれ故に列強の軍当局からは『局地戦』と早々に見做されてしまう。間違ったドクトリンと限定された兵科で技術的には平凡な国家間の戦闘。誰もが新次元での戦争を予感しつつも、一方で予想から大きく逸脱する現象は生じないだろうと考えていたのは無理もない。だが、現地へ派遣された観戦武官らは次第にその認識を否応なく変化させざるをえなくなる。ゼートゥーアとルーデルドルフの二人も又その例外ではない。開戦当初、運用を誤って赫々たる戦果に至るまいと考えていた騎兵と魔導師の混成運用は驚くべきことに機能していた。後方攪乱。連絡線の防御。遊撃戦への積極的な投入。魔導師の運用としては、二義的な任務に投じて恥じない秋津島の運用法だがそれは意外なまでに有効に機能していた。コサック騎兵に比較し、脆弱な秋津島騎兵の援護という必然性が生んだ運用形態なのだと言ってしまえばそれまでだが。だからこそ、到着早々にゼートゥーアとルーデルドルフ両中佐はその意義をめぐり堂々巡りの議論を交わす羽目になっていた。「…つまり、騎兵の支援に魔導師を充てるということは決戦論の否定だろうか。」仮設の幕舎で書きかけの陣中日誌を脇に除け、連合王国連中が巣食っている隣の幕舎から煙草との物々交換で手に入れてきたお茶で喉を潤しながらゼートゥーア中佐はその思うところを述べる。歩兵と砲兵という頑強な組み合わせを魔導師が援護するのが帝国軍の見る最大の戦力発揮だ。騎兵が連絡線をかく乱するという概念は帝国も持ち合わせているが、魔導師は正面における花形と認識して久しい。言い換えれば、魔導師を後方攪乱に投じるという事は決戦による敵野戦兵力の撃滅を後回しにするに等しい。「彼らは、敵野戦兵力の撃滅ではなく勢力圏の確保を優先している…そのように見えるが。」「いや、敵野戦軍の撃滅という目的は同じだ。秋津島・ルーシー共に足りない要素を陣地で補完しているのではないのか。」だが、同じく何処からか仕入れてきたらしいスコッチの杯を傾けながらルーデルドルフ中佐は秋津島の欲するところを鋭く見抜いてみせる。確かに秋津島の兵力運用は決戦を追い求めるようでありながら、じりじりと前進するというものだ。その点でいえば、圧倒的な兵力をかき集め、その兵力でもって大攻勢に出ようとするルーシー連邦の方がよほど正当な決戦論者だろう。一方で、ルーデルドルフ中佐にしてみれば魔導師・航空の支援が足りない分を陣地で補おうとするルーシーと秋津島の発想は面白い工夫だった。延々張り巡らされた塹壕を見れば、双方が決戦を放棄し、敵野戦軍の撃滅ではなく持久戦に突入したかにも見えるが…実際のところはどうも異なるらしい。「つまりは、鎚と鉄床戦術ではないのか?」ルーデルドルフ中佐が見るところ、秋津島の運用は国力の制約を受けつつも如何に敵野戦軍を叩くかという古典的命題への取り組みだ。秋津島は単純に歩兵と砲兵、騎兵と魔導師という火力と頑強生、機動力と即応性というコンセプトに二分し、鉄床と鎚を構築してのけている。対するルーシーは、単純に圧倒的な砲兵と物量という古典的な戦略次元での優位を確保するという点に特化しているのだ。それらは、各国軍当局が想像していなかった新しい次元での戦争を地上に招きつつあるだろう。新しい決戦の方向だ。故に、ある意味において秋津島における魔導師の位置づけは帝国軍人にとって完璧な困惑に値する概念だ。「ゼートゥーア、本質的には決戦に違いない。後方が脅かされればルーシーは否応なく秋津島と撃ち合わざるをえん。」「本気で言っているのか?魔導師の支援もなく、砲兵火力と物量で劣る秋津島が会戦で連邦と撃ち合えば大惨事だぞ。」魔導師とは、歩兵の延長というのが帝国における一般的な理解となっている。すなわち、歩兵よりも早く、頑強で、かつ火力に富むという観点からの発想だ。騎兵に非ず、砲兵に非ず、パイロットに非ず、という点からも魔導師は工兵や観測兵のように歩兵の延長線上の兵科として多くの将兵は考えてきた。ところが、秋津島は歩兵と砲兵、騎兵と魔導師という新しい組み合わせでルーシー連邦との戦闘へ挑んでいる。それが、ルーデルドルフ中佐には新次元の決戦論としてたまらなく面白く、ゼートゥーア中佐には決戦以外の何かに思えて仕方ない。これでどちらかのアイディアが一蹴されるならば、間違った運用の典型例と笑い飛ばせば済むのだが双方ともに相手の言い分をある程度理解できるのだ。「鉄床が十二分に頑強でなければ鎚が如何に強かろうと意味がないのだぞ。」「否定はしないが、考えてみろ。連邦は強大な鉄床かもしれんが鎚を持たない。」「ルーデルドルフ中佐、戦史を顧みるべきだろう。ザマの会戦は、歩兵が機動戦を為した典型例だぞ。」「冗談だろう?連邦の歩兵にそれが為せるとは思えんよ。錬度もそうだが、ドクトリンからして違いすぎる。」実際、消耗戦に陥り決戦の機会をとらえ損ねているのはルーシー・秋津島双方共に同じだ。連邦の実力は、質ではなく物量であり、秋津島は物量を凌駕する質を用意し損ねている。だが、連邦も同様に押し返すだけで秋津島を包囲撃滅できるだけの機動力がないのだ。仮に前線に重圧をかけて突破したところで予備隊に撃退されるだけ。もっとも、これらの戦訓を学ぶことこそが列強各国が多数の観戦武官を派遣していることの原因でもあるのだ。だからこそ、議論が堂々巡りに入りかけていることを理解しているゼートゥーア中佐はお茶を入れ直すべく席を立って、この話題は打ち切る。「まあ、ここで議論しても仕方のないことだ。そもそも、我々はこの疑問に対する答えを模索しに来たのだからな。」「ゼートゥーア、いつも思うが君は疎ましいくらいに学究的だな。この眼前の光景を前にしてさえそれか。」口では不承不承という態ながらも、この点ではルーデルドルフ中佐も同感だったらしい。野戦ストーブに薪を突っ込みつつ、茶を一杯寄越せと空けた杯を差し出していた。結局、議論の肴としての戦術論は棚上げし、彼らは慣れない異国の戦場で一先ず骨休めとばかりに読み終えたばかりの参謀本部返電を苛立ち紛れにストーブに突っ込む。機密保持という措置上、間違ってはいないのだ。自分たちを『極東酔い』したとのたまい、提言を全く無視する上に対する憤りで、少々手荒に投げ込んだことは否定できないが。「しかし秋津島も存外不親切なことだな。我々には一切軍事作戦どころか目的も伝えてこないとは。」話題を変えるべく、ルーデルドルフ中佐が口にするのは観戦武官に対する皇国軍のそっけなさだ。散々自国の戦場での優位を謳い、ご覧あれと誘っておきながら、現地に行ってみれば邪魔者扱いどころの騒ぎではない。戦地である以上、遠慮するつもりではあったが従軍記者と同様に見物客扱いはさすがに苛立たしかった。血の気の多いルーデルドルフ中佐は思わず、我慢の限界だと発作的に前線に飛び込みかけた程だ。そのたびに制止するゼートゥーア中佐としても、ため息交じりなのは同様である。「ああ、そのことなのだが・・どうも受け入れ先部隊で違うらしい。連合王国の軍人が、泥まみれになるまで前線に張り付けたと言っていた。」「何?そんなに違うのか?」「憶測だが、指揮官の性質らしい。秘密主義と、差し支えのない範囲を区別できる軍司令部は割合胸襟を開いてくれるそうだが。」だから、違う方面を見に行ってみないか。気晴らしもかねての提案だった。実際のところ、どの程度対応が変わるかなど確報を持ち合わせていないだけに気長に一手を手配するだけの気分転換。そして、頼んでみたところ幸か不幸か皇国軍の別部隊は帝国軍観戦武官の受け入れを快諾してくれる。問題は、乗り気だったルーデルドルフ中佐が皮肉なことに負傷して苛立たし気に野戦病院で燻っていることだろう。かといって視察の好機を逃すわけにはいかないことも両者ともに熟知している。だから、ルーデルドルフ中佐が渋々とはいえ自分の代りに見てきてほしいと頼んできた以上、ゼートゥーアとしても断る理由はなかった。そんな次第で、秋津島の中でも歴戦の軍人と名高かった辰巳将軍指揮下の部隊に観戦武官としてお邪魔したのだ。それでも、今よりは少しましにはなるだろう、程度の期待しかしていなかったのだが。が、秋津島戦役ではいつも予想が覆されるらしい。夜の帳の中、走っていた。ただ、ひたすら無心に走っていた。暗がりの中、月明かりすら無に等しい新月の夜。しかし、目を凝らせば無数の人影がただまっしぐらに進んでいることが分かる。話し声一つ漏れ出てこない人の波、奔流のごとき進撃。無数の皇国軍人が奔流。そして、ゼートゥーア中佐もまた護衛の皇国軍人に引率される形で戦場を駆けていた。着任以来、久方ぶりの長距離行軍に根を上げるほどではないにしても些か堪えるものがある。皮肉なもので、髀肉之嘆を嘆いてみれば、参謀研修以来の運動だ。だが、上がりつつある息とは裏腹に眼だけははっきりとした意志を保っている。それは観戦武官の矜持であり、同時に帝国軍人としての当然の自己制御。だからこそ、彼の眼は信じがたいものを目の当たりにしつつも状況を理解しようと努める観察者たりえた。「…俄かには信じられん。」闇に馴染んだ眼が、辛うじて捉えるのは人の波。眼が捉えるその数は、夢想だにしたことのない光景である。そう。思わず、自制心を失い呟いてしまうほどに眼前に現れた光景は現実のものとは俄かに信じ難いものだ。「中佐殿、失礼ですが…」「すまない。」秋津島軍人の注意に謝罪しつつも、大地を駆ける兵卒に混じって観戦武官の任に従事するゼートゥーア中佐の脳裏を占めるのは単純な驚愕。そんなことが、できるのか、という疑問。そんなことが、できたのか、という驚愕。そんなことが、現実なのか、という懐疑。眼前を音もなく進んでいくのは、師団規模の皇国兵。秋津島の伝統が、白兵戦を重んじるきらいがあるとはつとに有名な話だ。此処の兵卒にしても、銃剣格闘術に卓越。秋津島魔導師と言えば集団格闘戦をやってのける近接戦の盲信者とまで言われるほどに、近接戦に傾注しているのは有名だった。無論、火力に対する貪欲なまでの増強努力を踏まえての評価だ。塹壕戦で、近接格闘を得手とするという報告ならば散々読んだし、実際目撃して納得している。だが、これはどうだ。夜間進軍とは、本来ならば脱落者を出し統制が乱れざるを得ないもの。加えて、地形の把握が困難な夜間の進軍は本質的に速度も日中の行軍に比べればまず間違いなく劣る。なればこそ、伝統的な教範では例外的な必要性・・・包囲下からの退却など例外な事態を除き夜間行軍を避けるように説かれていた。そして、ゼートゥーア中佐の経験則から言っても夜間行軍の困難さというのは間違いではない。それも、新月に、だ。常識で考えれば、少数の猟兵チームか魔導師のコマンドの徘徊に警戒すべき状況。不思議とルーシー連邦の魔導師が開戦以来確認されていないとはいえ、コサックスの徘徊は存分にあり得る。そのような状況下、敵地で夜間進軍など既存の教本に従えば明らかに論外だ。加えて、目標はルーシー連邦に奪取された丘陵地帯の奪還作戦ときている。要塞とまではいかずとも、陣地構築されたであろう防衛線に対して白兵攻撃は余りにもタブーだ。秋津島の人事に口をはさむわけにはいかないのだろう。だが精神論者ほど肉弾に道が開けると盲信しているらしく、皇国は肉弾の山でもって要塞戦が如何に高くつくかを内外に示して見せた。アルチュール要塞攻囲戦で観戦武官が一様に感じたのは、担当司令部が如何にマズイ戦のやり方をしているかという事だろう。まあ、そもそも要塞攻略戦というのが碌に研究されていないで代替案というものがゼートゥーアらにもないのだが。にもかかわらず、アルチュール要塞に対して皇国軍司令部は白兵戦をやってのけていた。襷、という伝統装束をまとっての白兵攻撃など、論外だろう。結果は、近代で稀に見る規模の虐殺だった。友軍の重砲すら、管轄権と所属の問題で揉めて見せるあたり縦割りの弊害は深刻だなとささやかれたものである。他人事ではないだけに、参謀本部に適切な権限分配と管轄権調整の必要性についてレポートを書いたほどだ。唯一、評価すべき点があるとすれば兵士の異常なまでの忠勇さだろうか。あれ程の損害、あれほどの敵砲火にあって、平然と命令に従うのは兵士に対する要求としては苛烈に過ぎるかもしれない。命令遵守は帝国の伝統でもあるが、ああまでも無神経なほどに無造作な命令にすら服従する兵というのは少々想像が出来なかった。兵卒としてみれば、最高水準だろう。やや、話がそれたが、結局のところ対陣地戦闘は砲兵あってのものだ。歩兵での白兵戦など狂気の沙汰と割り切るほかないのが実態だった。まして、日中ですら困難な近接白兵戦を統制が維持しえない夜間にやるとすれば?常識的には、そんな愚行に師団規模の部隊を投じるなど素人と言わざるを得ない。指揮官が、辰巳将軍でなければ素人と判じているところだろう。そう、問題はそこにある。指揮官である辰巳将軍は秋津島では元反体制派上りと聞いた。秋津島皇国の派閥人事にも関わらず非主流派から抜擢された辰巳将軍だ。能力を買われてのことであるのだろうし、実際その戦術能力・知見はプロと断じるほかにない。なにより、元々は少数の遊撃戦をやってのけた将軍でもある。そんな人間が、師団規模での夜間行軍に付随する諸々の困難さを理解していないはずがないのだ。指揮官の統制が遥かに制約される夜間、戦争をやるのは並大抵の困難ではないだろうに。なればこそ暗がりで、足元がおぼつかない中で、頭をよぎるのはでは“何故”という疑問だ。そう、戦術行動でこの行動を説明するならば中隊規模程度が基本の夜襲。師団単位、という規格外の行動を除けば敵の視界が制限されている夜を活用する行動である。問題は二点。野戦築城の仮設防衛線とはいえ、防御陣地に夜襲が通用するのか?夜襲が有効であるとして、師団規模での統制を保ってなど可能なのか?それも、連日の激戦で損耗しきった半壊の師団で、だ。本来ならば、十分すぎるほど辰巳将軍以下秋津島皇国軍第八師団は奮戦していた。皇国司令部の仕出かした戦略次元での敵情誤認の結果、逐次投入された挙句に自軍に4倍する敵を相手に戦線を維持したのだ。4倍以上の敵を相手に、奮戦しただけで歴史は辰巳将軍とその指揮下の師団を讃えるだろう。それがどうだ。彼我の戦力差を無視したような、夜間襲撃。それも、戦力的に劣勢にある側が、仮設陣地とは言え防御を固めた丘陵地帯へだ。鉄床に脆弱な肉弾が自滅同然に突っ込んで行くも同然。鎚の役割を担うコサック騎兵に後方を脅かされずとも、地面に落ちた卵のように粉砕されるのが当たり前。軍大学ならば、落第どころか放校処分にされかねない蛮勇じみた攻撃。否、そもそも議論に出すことすら憚られる雰囲気だろう。だというのに。闇夜越しに観察するゼートゥーア中佐にしてみれば、信じがたいことにそこにはたしかに成功の匂いが感じられるのだ。散兵戦術の進化、というべきだろうか。秋津島の各級指揮官は、与えられた命令を驚くほど忠実に履行している。…忠誠こそを誉れとする秋津島軍人の真骨頂、というべきだろうか。あとがきゼー中佐、歳不相応な運動お疲れ様。あと、ちょっと出版関連のアナウンスを。秋ごろに、エンターブレインさんから出せそうです。一巻のサブタイトルはDeus lo vultの予定になります。さあ、外伝やら海やら、オトラントやらの更新をがんばるぞー。