攻略され、掃き清められたアルチュール軍港。その一角を占める軍病院に不本意にも臥せていたルーデルドルフ中佐。そんな彼にとってスコッチを差し入れとして持参した見舞客は、よい話し相手だった。「・・・・・・積極的かつ不断の攻勢のみが、敵防衛線を蹂躙しえる?」「そうだ。それが、報告書の総括だ。どうだね、ゼートゥーア。」「ふむ。」少しばかりの社交辞令を交わせば、あとは必然的に戦術論の議論に至る仲。そんな同窓の戦友の見解を聞いてみようとルーデルドルフが手渡した書類。それを恰も、哲学書でもあるかのように読んでいたゼートゥーア中佐の表情は真剣だった。それほどまでに真摯に読み込んでいたその彼が浮かべた感情は分かり易かった。釈然としないというものだろう。なにしろ実際、それらは参謀本部中枢が纏めた報告書を一読したルーデルドルフも抱いた感情なのだから共感すら覚えてしまう。ルーデルドルフ自身の見るところ、確かに報告書が強調するように意志が重要という点に疑問はない。膨大な犠牲、損耗、そして国家の疲弊。それらを考えれば、それらを乗り越えうる国家の強靭さと意志は重要である。その意味においては、攻勢に際し秋津島が示した断固たる攻勢への意欲と、それを可能にした国民の士気は評価に値する。損耗に対する強靭性、とでもいうべきだろうか。が、同時に両中佐の見るところ、アルチュール要塞攻略に際し戦術次元で見た場合、それらが果たした役割は極々限定的なのだ。要塞への正面攻勢は酷く高くつきすぎる。それが、ゼートゥーアを始めとした観戦武官らの見解だ。ルーデルドルフ自身、負傷して後方で聞き耳を立てた範囲でも損耗の巨大さをいやというほど耳にする。加えて言うならば、野戦病院に運び込まれてくる人数を考えれば損耗の規模は容易に想像できた。だからこそ、彼らは考えるのだ。果たして、これほどの損耗を耐えることを前提に考えるべきなのか。つまりは、これほどの損耗を恐れない意志が勝利を招いたのか、と。実際のところ、職業軍人としてのルーデルドルフは彼我の損耗比率を改善するという発想を抱かざるを得ないのだ。攻勢をやり遂げるにしても、もう少し、やりようがあるのではないのか、と。口さがなく言うならば、これほどの犠牲を出さずとも済むのではないか。つい先日、辰巳将軍が断固として実現した師団規模夜襲はその見解を裏付ける一つの傍証だろう。半壊した師団が、攻勢を行うという事の精神的意義。問題は、これを断固たる攻勢の勝利、と見なすかどうかだ。戦術的な成功は、果たして戦意か、戦術の巧みさ故にか、である。「我々の、というか貴様の報告書がそう纏められたことに対する見解を聞きたいな。」だからこそ、それらを現場で見てきた生き証人が最前線から顔を出したときに歓迎したのだ。久々の議論を楽しんでいるという事もあるだろうが、本質的に彼は知りたくてたまらないのである。果たして、戦術的な巧緻が優越するのか、それとも意志が勝利を収めるのかをだ。ゼートゥーア中佐と違い、後方でベッドに縛られている彼の望みは単純である。彼は、ただ、戦争の現実を知りたくて仕方がないのだ。なにしろ、後方の病院では碌な情報も入ってこない。「こう言ってはなんだが、積極的かつ不断の攻勢で、敵防衛線を破れるというのは事実ではある。」が、問われた方のゼートゥーアにしてみれば答えなど出しようがなく困惑しているのが実情だった。軍事的に見た場合、攻勢は主導権を握るメリットがあり、防御は地理的な優勢を選べる。本来ならば、主導権を握れる側が優位であるはずなのだが、『主導権』が何か、ということは今日定かではないのだ。ゼートゥーアの見るところ、辰巳将軍の奇襲攻撃のような例外を除けば攻勢による『主導権の確保』は高くつきすぎる。その一方で、断固たる攻勢の意志と意欲を除けば敵戦線の突破は望みえない状況だ。延々と攻囲して入れば、今でも前線は膠着状態であっただろう。一方で、ほかに突破する方法が思いつかないというのがゼートゥーア中佐の悩みどころでもある。攻撃しなければ、戦線は突破できないのだ。どう言い繕ったところで、職業軍人としてのゼートゥーア中佐は損耗なしには突破できないという現実に戸惑っている。「自軍の死体の山と引き換えに、数百メートル前進することを『敵防衛線を破る』と表現するならば、だろう。」この点に関する限り、後方にいたルーデルドルフ中佐の見解はより明瞭だ。それほどの犠牲は、攻勢の結果得られるであろう成果には見合わない、というもの。防衛線を蹂躙し、敵戦線を致命的に崩壊させるならばいざ知らず。自軍の死体を積み上げて、数百メートル前進して、新たな敵防衛線に遭遇。これでは、無意味どころか馬鹿げた話ですらあるだろう。なにしろ自軍は消耗し、敵軍はさしたる損害もなく再編を為すのだ。典型的なピュロスの勝利というほかにない「否定はできないが。だが、攻勢にでる意欲がない軍隊では…」「士気を蝕まれ、結局逃げる癖がつくのは間違いないだろう。」陣地戦や防衛戦の危惧すべき自軍の士気という点は、確かに難しい。実際、ルーデルドルフ自身、傷病兵が後方で気を緩めた瞬間に戦意を失うという事を目撃しているのだ。あれほど勇敢に雄々しく戦っていたであろう秋津島の兵士たちが、病床で怯えた個人に戻っている。兵士とは、戦場と規律をかけばもはや兵士ではなくなってしまう。戦闘への意欲を、兵士に維持させる。言い換えれば、タフであり続けられる環境を維持しなければならないのだ。その点には、誰も疑問を抱かないことだろう。「だが、これでは攻勢に出て僅かな土地を奪ううちに出血死だ。」が、だからといって。不味い攻勢を、あれほどの犠牲を出してまで、強攻すべきだろうか?「同意する。だからこそ、あの辰巳将軍の夜襲は一つの解決策だと思ったのだが。」「陣地に拘泥するべきではない、と考えるべきだろう。陣地戦に持ち込まれる前に、敵後方連絡線を叩くのが解決策では?」莫大な犠牲。犠牲に見合わない乏しい戦果。正面攻勢とは、割に合わない取引に違いない。だからこそ、機動戦の可能性をルーデルドルフは考えてしまう。否、職業軍人の義務として模索せざるを得なくなる。陣地戦が泥沼と化すならば、それを回避し、可能ならばより少ない損害で勝利すべきだ、と。負傷し、考え込む時間だけは無限に近いほど与えられているが故の思索。その結論とは、つまるところ損耗を抑制し、敵を翻弄するには機動力という発想だ。「理想論としては、否定しないが。しかし、純粋な機動戦とは概念からして違和感を抱くものだ。」だが、機動戦だけで戦争が出来るか。その一点において、ゼートゥーア中佐はどうしても疑念を抱かざるを得ないという顔で反論を口にする。「なにより、帝国の国防方針は陣地戦での遅滞を前提としたものだぞ?」なにより、帝国の基本防衛戦略は最悪の場合、三方面で陣地戦による遅滞を前提とし、もう一方面での決戦に勝利するという内線戦略。良くも悪くも、遅滞戦闘の結果として帝国は自国国境付近で敵と長く対峙することを前提にしているのだ。これらは、必然的に膠着した戦線を生み出し、副産物としての長大な前線を生みかねなかった。理論的に言うならば、ゼートゥーア中佐は陣地によって前線が埋め尽くされる可能性を否定できないでいるのだ。「三方面での遅滞。一方面での勝利。内線戦略の基本を否定するつもりはないが・・・確かに矛盾だ。」そして、このことをルーデルドルフ中佐も頭では理解できている。例えば、共和国・帝国国境線は既に多数の陣地構築が進められているのだ。そこで双方が対峙すれば、必然的に避けるべき正面戦闘に陥りかねない。「我は陣地戦で敵を遅滞し、一方で敵の陣地は回避。できれば理想だがしくじれば内線戦略は破綻するのはリスクが大きすぎる。」「ゼートゥーア、貴様の危惧は尤もだが些か学術的に過ぎる。我々は、知悉した自国領で敵を誘引できるのだぞ?」が、だからこそ、というべきだろうか。戦術家としてのルーデルドルフ中佐は機動力による可能性を信じている。適切な機動と、適切なタイミング。それさえ、確約されれば。秋津島陸軍が積み上げた死体を、帝国は避けえるのだ。それは、究極的には内線戦略のために決戦しつつ主戦力を温存するという難題の解決策でもあるのだ。ベッドの上に無数に積み上がる将兵。それは、ルーデルドルフ中佐に言わせれば戦術で相当程度に解決できる。間違いなく、無用な犠牲は省けるのだ。これほどの速度と規模で将兵を失えば帝国軍の屋台骨がすぐに傾くという事の危機感があればこそ、それは避けねばならない。少なくとも、機銃陣地に兵隊を白昼突撃させるような真似さえしなければ。奇襲効果がありさえすれば。…戦術家、それも軍大学で精力的と評されるほどのルーデルドルフ中佐。その頭脳に沸きあがってくるのはならば無数の対処案だ。危機感と、新しい可能性への渇望。極東の戦場。そこで、彼は、新たな戦術の萌芽に勘付いている。「確かに、余裕はあるだろう。だが…機銃と魔導師のこもる壕とはそれだけで要塞線だぞ?」「それほどか?」口ごもり、明瞭な解決策を躊躇するゼートゥーア中佐。その慎重さが今は、少しだけもどかしいぐらい。壕が頑強なのは、聞き知っている。そのための対処法を、検討しているのだ。敵の防衛線が頑強と言うのは、ゼートゥーア中佐に強調されずとも理解できている。「重砲の支援のほとんどない状況下、奇襲に成功した辰巳将軍の師団がそれでも3ケタの死者を出しているのだ。」事実としての、損害。「警戒厳重な防衛線ならば、なるほど。仮設でも、十二分な防衛線が構築しうる、と。」問題は、その解釈だ。「確かに、絶対に攻略せねばならない要衝であればその通りだろうな。だが、限定的な環境ではないのか?それこそ、砲兵の集中運用で事足りる。」「アルチュール要塞の件か?」「しかり。まったく、驚いたものだが…秋津島ときたら沿岸砲を攻城砲に転用していた。しかも、驚くほど効果が出ている。」どうしても迂回できない拠点に対しては鉄量で叩きのめせばよい。秋津島が直面した、敵港湾の攻略戦は極々例外的な事象だろう。帝国にとって、海軍が果たす役割は限定的、乃至は補助的なものだ。この点、ルーデルドルフ中佐は幾ばくか開明的とはいえ陸軍第一主義の信徒なのである。「例の280㎜?確かにトーチカには有効と聞いたが、塹壕線にはあまり効力がなかったはずだが。」「徹甲弾ならば、の話だ。榴弾ならばある程度は効果があったらしい。」時間がかかることは間違いないが、砲兵陣地を構築さえすれば。徹底した鉄量の投入より、陣地は粉砕可能だと示されたことをルーデルドルフ中佐は確信している。大砲は、如何なる陣地をも蹂躙しえるのだ、と。「しかし、それでも損害が大きすぎる。第一、砲弾の消費量が異常としか表現できないぞ、これは。」「統計が出ているのか?」「連合王国の連中と交換したが…一門あたり1000発ではとても足りそうにもない。」一発あたり、1000発!秋津島と連邦が示した事実でもこれは、最も衝撃的だ。それだけあれば、要塞すら粉砕しえると列強各国が見做してきた基準量。1000発だ。それが…とてもではないが足りない!鉄量が、あれだけの鉄量ですら。「作戦と戦務が発狂しそうな内容だ。」思わず、口にしたのは兵站への配慮。「全くだな。兵站計画以前の問題だ。これが、極東における例外的な事象であると上は観ているようだが。」「…たしかに、アルチュール要塞戦は例外的な要衝をめぐる攻防ともいえるだろう。」ゼートゥーア中佐の語る様に、確かに軍港をめぐる攻防と言うのは帝国にとっては想像が難しい。なにしろ、自国の防衛が最優先で遠征と言う発想が彼らには乏しい。で、あるならば。「その通り。…野戦では、確かに奇襲や夜戦で砲弾の消費量は抑制できなくはない。」広大な平野部であれば陣地は軽く迂回すれば。或いは、奇襲効果を頼って攻撃すれば。何れも、真正面から要塞を攻略するよりは遥かに損耗を抑制できることだろう。「それだけで頑強な防御線を突破する価値があるか?と言うべきだ。戦術レベルの改善は必須だろう。」同時に。だからこそ、というべきだろうか。ルーデルドルフ中佐の中での結論は明瞭とならざるをえない。突破できない陣地はなく、しかし、突破する価値のある陣地もまた少ないのだ、と。速度だ。速度こそが、唯一の解決策なのだ。「だが、一方で防衛線が強固ということは防衛面で見れば悪い話ではないが。」「矛盾の語源通りだ。」苦笑せざるを得ない問題。そう、盾と矛の理屈だ。スコッチをちびちびとやりつつ、ルーデルドルフ中佐は考える。確かに、ゼートゥーア中佐の言う様に虫のよい話だ。なにしろ、自軍の陣地の強固さを期待しつつ、敵軍の陣地は破らねばならない。最強の矛と楯は、この場合どちらかを信じるほかない。突き破れると信じるか、盾が勝つと信じるか。その矛は、あまりにも脆い。だが、彼我の矛はどちらも同じようなもの。最強の矛と最強の盾ではない。が、脆弱な矛と、頑強な盾ではどうだろうか?解決策は蜂の様に、敵の弱い点を刺す。或いは、矛を何本も用意するかだ。その発想の違いは、二つの発想の違いだ。機動性を信じるか、信じないか。その日、病院の一室でスコッチを片手で酌み交わしながら語られた戦術論。彼らの疑問は、明瞭な形で解き明かされる。残酷なまでに、誤解の余地なく。そして、その時。彼らは、直面するのだ。一人は、消耗抑制論者と化した。一人は、機動戦論者と化した。彼らは、二人とも正しい。そして、二人とも間違っている。あとがき今回の物語は、はっきり言うと解説的な何かを書こうとして失敗した残滓的な何かになります。戦間期の軍機構の対応というか、日露戦争の教訓をどう、第一次大戦までの各国が理解しそこなったのか、という表現を模索しましたが…(・_・;)どうして、そんなことに?というのは上手く表現できませんでした。ある程度、ルーデルドルフ中佐とゼートゥーア中佐のやり取りで語らせたつもりですけど、正直orz追伸いくつか、お問い合わせいただいた件ですが①SDは解説的なページに付くそうです。②表紙の件は担当のF田さんが一応一番最新のやつを出してくれています。たぶん、イメージ通りか、近いものだと思います。③おまけペーパーが付いてきます。(初回分)(追記)対象となるのは下記書店です。アマゾン、アニメイト全店とらのあな全店メロンブックス全店アニブロゲーマーズ全店ebtenと、その他一般書店という感じですあと、同志書記長がお求めの、尋問マニュアル的な薄い本はありません。本作は健全で清く正しい物語なので。