無慈悲な深みのお月さま。 あなたは遥か遠くから、残酷なまでに明るい光を送り出し、 広い世界を移ろいながら、 人の住みかを見つめている。 おおお月さま・・・今しばし、そに留まりたまえ! どうか教えておくれ!いとしい敵はいずこ?・・・教えておくれ!いとしい敵はいずこにありや? 伝えておくれ・・・無慈悲な銀のお月さま。 伝えておくれ・・・どうか私はあの敵を いつもこの手で抱きしめたい。 たとえ、つかの間だとしても、夢を見るように。 安全な闇夜の帳をどうか遍く照らしておくれ。 ああ、伝えておくれ!伝えておくれ!私は、ここで待っていると! どうか、伝えておくれ!ここで待っていると! ああ・・・人のこころが、私の姿を夢にも見れば、 きっと誰もが目を覚ましてくれるでしょうに! ああ、消えないで・・・ ・・・お月さま・・・消えないで! どうか、どうか私の獲物を隠さないで。東部戦線にて記録。『悪魔の唄集第七編 東部の狩人』未明の強行突破。遭遇戦は極力回避することが望ましいものの、突破するためには速度と火力が不可欠だ。忌々しいエレニウム工廠製95式試作演算宝珠と、エレニウム工廠製97式演算宝珠は分解清掃済み。基本的に、速度を出すために95式により飛行を制御。これを使うと、使用直後に毎回自分の頭を吹き飛ばしたい衝動に駆られるが、命あってのものである。人間の尊厳といえども、緊急避難的に捨てざるを得ないとは。戦争とはなんと過酷な次元の闘争だろうか。今回は、逃げるのが目的だが突破もある程度想定しなければならない。そこで、防衛火力は97式によってえることを想定している。本来であれば、一瞬で魔力が枯渇するだろうが、今回ばかりはため込んだ魔力を95式に封入済み。やりたくはないが、貯蓄を切り崩せば突破に必要な速度と火力を両立しうる。ただし、地上戦や魔導依存以外の戦局も十分に想定されるだろう。そのためにライフルの弾とポテトマッシャーは持てるだけ吊り下げる。医療キットとヨセフグラード防衛司令部からの書類を胸元のポケットにくくりつけ装備を確認。銃剣以下、各種ナイフは艶消しを確認し問題のないことを直接目視で調べた。医療キットの内訳は鎮静剤といくばくかの標準的な薬剤。以前、右肩をやられた時に造った疑似神経の調子は良好。医療理論の応用だったが、やってやれないことはないらしい。固定化してあるので、魔力が切れた時は最悪これを解いて魔力源にしうるだろう。航法図は頭に叩き込んであるが、念のために再度確認。最も手薄な敵部隊の警戒線を蹂躙しさえすれば、突破し得るはずなのだ。全てが十全に手配されていることに安堵し、一呼吸。最寄りの友軍まで駆け抜けるだけだ。魔導師の機動力を持ってすれば、簡単なフライト。やってやれないことはない。そうとも。やって、やれないことなど、何もない。「・・・御武運を、中佐殿。」「なに、軽いハイキングだ。貴様も壮健でな。」チャンバーに魔力を装填。最大戦速を達成するために、核を最大同調。欺瞞術式を起動しつつ、酸素供給式を並列起動。敵情を把握するためのパッシブ系索敵術式は極力反応が無いことを祈りつつ起動。後は、魔力の大枠をつぎ込む飛行関連術式。つまるところ、魔導師の小隊が何故最低でもツーマンセルなのかと言えばそこに限界があるからだ。97式ですら、飛行関連術式と酸素供給術式でかなり限界に近いのだ。欺瞞術式とパッシブ系索敵式はそれぞれ分担しなければならないのが、実態。その制約を突破できるのは、さすがに95式は技術的には卓越しているのだろう。これで面倒な厄介事が無ければ、賞賛に値するのだが。「高度12000、隠蔽術式は堅調。悪くない。」それどころか、精神汚染も現状乏しいのはいつになく喜ばしい誤算だ。あの精神的にまともな判断力を喪失した状況で戦闘空域を突破するのはやりたいことではない。下手をすれば、狂信者のように自決する羽目になる。「・・・今日ばかりは、95式には感謝したいな。」しばし、平穏なフライト。重砲で抉られた大地は、でこぼこで景観を損なうのだろうが全体としては景勝地にも勝るとも劣らない。これが戦場でなければ観光ビジネスを興そうかと思うばかりだ。まあ、コミーの地でビジネスを思える程度に冷静かつ経済人として健全であるという事を喜ぶべきだろう。ともあれ、状況が許すのだ。しばしの平和を楽しむのは、人間性回復にとって有意義なのかもしれない。むしろ、戦争のある世界に私を放り込んだ存在Xこそが、自由と尊厳の敵とも言えるのだろう。「第三ラインを通過?・・・そろそろ哨戒部隊とコネクトしかねない域だが。」時計で時刻を確認。パッシブで確認している限り、こちらを指向する索敵系の術式等はなし。未明の視界で限られているとはいえ、敵部隊の陰も見えない。事前に図上で見た限りでは、かなり大規模な攻囲軍の存在が予期されているべきライン。直近には熱源反応すら感知されないことを勘案すると、上手く穴に潜り込めたと見るべきだろうか?いくつか、パッシブにて放たれている魔力反応を検知するも魔導師部隊の哨戒部隊は遥か彼方。おまけに、こちらに向かってアクティブ系索敵式を放とうとはしていない。・・・こちら?少し引っ掛かり、頭に配置を思い浮かべる。連中は、攻囲軍だ。しかし現在の状況は、帝国軍の増援如何。・・・コミー共は、ひょっとすると来援阻止に気を取られている?ありえる話だ。つまり、連中が探しているのは脱出しようとする私ではないのだ。暗闇にまぎれてこっそり補給物資を運ぼうとする鼠輸送部隊でも探しているのだろう。「・・・だとすれば、奴らに追随すれば警戒線を突破し得るな。」悪くない。欺瞞式が見破られない限り、こちらをこの暗さで視認するのは至難の業。まして、哨戒部隊の背後を通っていれば多少の魔導師反応はノイズ扱いだ。連中に誘導してもらい、警戒線の最外周部から加速。そのまま、最大戦速で離脱を図れば離脱可能性は十分だ。コミーの連中は、数が途方もなく多い。それは現実に大きな脅威だが、逆に言えば小回りは別問題だ。首都の広場にある国際空港に着陸された時もそうだった。我々が、首都を直撃した際もそうだったのだろう。つまり、連邦軍を破るのは難しかろうとも連邦兵を破るのは容易いのだ。針路を修正。高度と、ベクトルを先行する連邦哨戒部隊に同調させる。距離は少しあるが、魔導師反応はノイズと処理される程度。一方で、不慣れな連中は警戒をヨセフグラードと反対側に指向している。発見される恐れは限定的だ。不味くなれば、地上で潜伏してもよいだろう。そう思い定め、しばし緊張の時が流れる。いざという時のことを想定し、97式と兵装は即応できるように維持。とはいえ、誰にとっても運の良いことに平穏無事に連中について警戒線外周部に到達。事前に航空写真で得ている情報によれば、連邦警戒線外周部は比較的手薄。さすがの連邦も、三重に取り囲んだ上でさらにその外周に地上部隊を配置できるほどの兵力はないらしい。即座に、降下。周囲に気を付けつつ、森に潜り込む。装備を確認。装備状況は良好。パッシブで調べる限り、連邦軍魔導師部隊は離脱中。あとは、遠ざかっていく部隊の探知圏から出た瞬間に友軍部隊まで一直線に飛んでゆくだけ。さらばだ、ヨセフグラードの諸君。できる限り、コミーを殺してくれたまえ。叶うことならば、諸君も無事に離脱してくれることを祈念する。アディオス!諸君の武運長久を祈る!B集団司令部の雰囲気は、重かった。急ぎ部隊を再編、取り急ぎ派遣した救援部隊を派遣したところまでは良い。だが、ルージエンフ突出部にて力戦した第七師団を先鋒とした救援部隊ですら。連邦軍の構築した重囲の前に二の足を踏んでしまう。再編したとはいえ、部分的な戦力を差し向けているだけでは突破は困難。誰もが、嫌々ながらその事実を認めて頭を抱えてしまう。「ヨセフグラードとの連絡は?」そして、駄目押しとばかりに通信状況が完全に悪化。これまでは断続的ながらも確保できていたヨセフグラードとの連絡手段が完全に途絶している。強行突破を意図して、なんどか中隊規模で魔導師や機甲中隊による威力偵察を試みるも全て失敗。手痛い損害を出すばかりで、打開策は一向に見当たらず。ついには、技研に掛け合って『追加加速装置』(秘匿名称V-1)を引っ張り出させることすら検討。最も、使用するにはかなり平坦な滑走路と機材の移送という難題が立ちふさがっていた。一応、近い将来に数基が搬送される予定ではあるものの現状では空手形。結局、使用できる長距離無線を最大出力で使用するほかにないが妨害されているのが実態。「駄目です。通信兵には呼び続けさせていますが、かなり強力な妨害電波を受けています。」通信将校の顔色は、連日の疲労でやつれ始めていた。包囲されている部隊からの信号をなんとか拾おうと神経の張り詰める日々が続き過ぎているのだ。すでに、通信兵の疲労はかなり限界に近い。それでいて、辛うじて拾える電波はノイズだけだ。「有線の回復は絶望的です。」工兵隊が密かに有線の回復を試みているものの、こちらも手つかず。いくつか秘密裏に秘設したはずの地下回線も、砲弾の雨で途絶しているらしい。有線の復旧可能性を命じられた工兵隊としては、首を横に振るしかない状況だ。「・・・では、どうす」どうするべきだろうか?そうウィルヘルム上級大将が口を開きかけた時だ。自分の副官に遮られる事となった。「閣下、伝令です。ヨセフグラードから将校伝令が参りました。」副官から耳打ちされた情報に思わず振り返る。「なに?あの包囲を突破できたのか?」散々突破を試みさせて、悉く失敗した重囲だ。部隊だろうと、個人だろうと突破は至難。辛うじて、高高度を飛ぶ高速の戦闘機によって通信筒を送ることはできるが、それとて一方通行。作戦に必要な情報が手に入るという事実は、歓迎すべきものだった。「はっ、その・・・俄かには信じがたいのですが。」「どうした?構わん、続けたまえ。」「サラマンダー戦闘団のデグレチャフ中佐殿が、単騎で突破してきた、と。」そして、その偉業を為した人物の名前。耳にした時、よくもまあと思う一方で奴ならそれぐらい平然とやれるのだろうなともどこか納得していた。X論文、卓越した野戦指揮官、恐るべき魔導師。どこか、どこか常人には計り知れない何かを持っているとしか思えない人材。アレなら鼻歌交じりで突破してきたと言われても違和感がない。「・・・恐れ入るな。すぐにここへ。」どちらにしても、このような難局に当たっては一つの変化をもたらし得る好機だ。確かに、デグレチャフというアレは劇薬。しかし使いようによっては、毒も薬になりえる。初めて。初めて、デグレチャフ中佐があの地にいたことにウィルヘルム上級大将は感謝した。「デグレチャフ中佐、入室いたします!」「・・・御苦労、デグレチャフ中佐。通信筒は?」そうして、呼び出されたデグレチャフを見るとあの重囲を突破したというのに特にいつもと変わりがない。高揚も安堵もなく、ただいつものように淡々とした瞳。人形だと言われれば、よほどそちらの方が信じられるような無感情。「こちらになります。」差し出された通信筒を受け取り、開封。眼を走らせてみる程度でも、包囲された部隊の困難さは予想ができた。状況は加速度的に悪化しつつある。誰でもその程度の認識だが、認識よりも現実はもっと過酷だ。「貴官の見る現状が聞きたい。兵站状況は?」「食糧の欠乏が深刻であります。弾薬は辛うじて持ちえるでしょうが市街地での極近接戦で消耗が激しい。」淡々と口にされる現状。お家でままごとでもしている方が似合いそうな子供が、戦慄すべき現実を淡々と語る?それだけでも、このデグレチャフという人間の異常さがわかるというものだ。そう思う。そう思わざるを得ない。だが、その違和感に構うよりも現実に切迫した問題がある。だから、ウィルヘルム上級大将以下全ての将校はその点について沈黙するほかにない。「医療品の払底は時間の問題、加えて迫りつつある冬への備えがありません。」「具体的には?」「冬用の外套に燃料が欠乏しています。機甲部隊用の乏しい燃料が流用されたとしてもそれほど多くはないでしょう。」語られるのは、過酷な現地の実情。B集団自身、防寒具の手配を慌てて行っている状況なのだ。包囲されたヨセフグラードで十分な防寒着が確保できるとも思えない。また、機甲部隊や各種発電機に必要な燃料という問題も深刻だ。蓄電池ならばまだ何とかなるが、燃料は空中から投下することすらおぼつかない。「・・・来援なしでどの程度持ちこたえうると見るかね?」士官学校出の若い少尉ですら、このような状況に追い込まれた部隊が独力で抵抗し得るとは思うまい。そうなれば、必然的に問題となるはどの程度持ちこたえうるかという点だ。包囲された部隊が抵抗を続けられるまでのタイムリミット。それ次第で、救援部隊にとって作戦の難易度も格段に違ってくることになる。例えば、再編中の部隊が完全に集結し得る程度の時間が見込めるのであれば容易だ。「一月以上は厳しいでしょう。冬が来れば、疲労と損耗が加速度的に跳ねあがります。」だが。無情にもデグレチャフ中佐が語るのは、B集団司令部にとっては最悪の想定よりもさらに短い想定だった。おそらく、時間があまりにも少なすぎると誰もが感じる。なにしろ一月では、現有戦力でしか救援作戦に従事できないだろう。「・・・そうなれば、崩壊は時間の問題です。」「厳しいな。来援しようにも、軍に突破力がない。」崩壊は時間の問題。その事実をいっそおぞましいまでに平然と告げる中佐。現実問題として、兵力不足の問題はB集団の手足を縛っている。決戦に動員した部隊の再配置は今だ未完了。ここでヨセフグラードを包囲している部隊を再度殲滅するには数が足りないのだ。それどころか、救援部隊すら満足にかき集められずにいる。「閣下、来援なしでは全滅あるのみです。ここは、脱出を検討すべきかと。」咄嗟に誰もが思い浮かべるのは、ヨセフグラードを放棄というプラン。「だが、そうなればヨセフグラードを放棄することになる。」「軍が全滅するリスクに比べれば、まだマシです。」幾度も議論された問題だが、忌々しいことに帝国のお偉方はこだわりが御有りらしい。参謀本部中央や東方派ですら、一致してヨセフグラードの放棄を望んでいるにも関わらずだ。遅まきながら、機動戦の本領に帰りたいという東方派。これ以上の戦力消耗を避けたい参謀本部。だが、肝心の帝国では状況があまり理解されていない。故にこうして時間が浪費されていく。その躊躇を断ち切ったのは、無遠慮なしかし思慮深い声だった。「失礼ながら、猶予はあまりありません。脱出しようにも、ヨセフグラード駐留部隊は限界なのです。」外界の醜態に呆れたのだろう。つい先ほど、包囲下に置かれているヨセフグラードを脱出してきた中佐の顔に浮かんでいるのは侮蔑の表情だった。現場の苦労を知りもしない後方への憤りを通り越して、理解しがたいと言わんばかりのそれ。・・・だが、実際問題としてデグレチャフは正しい。こんな子供ですらわかる事実が、何故後方にいる連中が理解できないのか、それがウィルヘルムにも理解できない。「・・・認めよう。つまり、これ以上では自力で打って出ることもできなくなるのだな?」「はい。例えば、私の戦闘団は今ならば衝撃力があるでしょうが、一ヶ月後で突破しようにも跳ね返されるかと。」じり貧。そして、救援を行おうにも手元戦力は十全とは程遠い状況。誰もが認めることだが、このままでは手詰まりである。しばし、こちらを糾弾するかのような瞳で睨みつけてくるデグレチャフ中佐と見つめ合う。驚いたことだが、少なくとも中佐は人形ではなく意思は強固らしい。いや、やはり、狂っているのかもしれないが。「中佐、今ある救援部隊はそれほど有力ではない。しかも、参謀本部はともかく首脳陣は固守をお望みだ。」いわんとするところは、明瞭だ。軍は、命令が無ければ動けない。それは、帝国軍人として最低限の矜持だ。命じられれば、如何なる艱難とて耐え忍び遂行しよう。だが、命じられたことには叛けない。ウィルヘルムとて、帝国に忠誠を誓った軍人なのだ。その誓いを破るというのは、心中ただならぬ葛藤を伴う。「さようですか。・・・では、しかたありませんな。」だが、では、仕方がない。そんな口調で呟かれて、ウィルヘルム上級大将は愕然とした。これは、この中佐は伝令だ。そう、この知らせを持って帰るのだ。帝国のふざけた話を、命がけで持って帰らねばならないのだ。それを、淡々と言ってのけるという事は軍人でなければ理解し得まい。聡明でなくとも、誰でもわかるような絶望的な知らせのために命を賭ける。それを、わずかな溜息で引き受けるという悟り。諦めているのだろうか?それとも、仕方がないと力の及ぶ限り最善を持ち場で尽くすのだろうか?「・・・っ、いや、ヨセフグラード駐屯部隊が突破を図れば我々も呼応する。」その時。ウィルヘルム上級大将の頭に浮かんだのは、悪魔じみた思い。離脱許可は、出ていない。だが、今のところヨセフグラード部隊は通信が途絶し、それを知りえていないのだ。ならば。ならば、仮に困窮した駐屯部隊が離脱を図れば。離脱する友軍を救援するために、動くことはできる。救援部隊が、離脱を支援しヨセフグラードの重囲から逃げ出させることは可能だ。そこまで気が付いた時、ウィルヘルム上級大将は自分が何を呟いているのかをようやく理解する。「すまないが、貴官はここに『来なかった』。離脱は偶発的に行われねばならない。」文字通り命がけで敵中を突破してきた軍人に言うべき言葉ではない。口にしているのは、誇り高い軍人に偽れという教唆。だが、ヨセフグラード司令部は、離脱許可を欲するだろう。「貴官が、一言、一言過てば全てが上手く行く。」そこで、仮に。そう、仮にだ。伝令が誤った知らせを持ち込めば。その行為に理由などいらない。ともかく、許可さえ出れば軍人は動く。まして、勇猛無比と名高い軍人が持ち帰った後退の許可なれば。誰が、それを疑いえよう。それに呼応する形で、救援部隊が動けば。「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小官に、それを行えと?」だが、それが意味するところは明白すぎる。事実、示唆されたデグレチャフ中佐は表情を失っていた。能面を張り付け、何を考えているかわからない茫洋とした視線。それが、こちらに向けられているという事実に背筋が凍りつく。そしてデグレチャフ中佐の口から吐き出される言葉は、苦悩の発露だ。誇り高い、それも名誉と義務感の高い魔導師。それが、軍全体のためとはいえ抗命し、軍令を偽れと唆される。能面の表情だが、そこにはどこか苦渋の感情がウィルヘルム上級大将には感じられた。「小官一己の名誉にかけて、」「いや、軍集団司令部にかけて事後は約束する。頼む中佐、軍を救ってくれ。」だから。次の瞬間には、居並ぶ高級将校がほとんど嘆願せんばかりの勢いで中佐に縋りついていた。「・・・小官は、軍人です。服従の義務があります。」苦虫をダース単位で噛み潰したような苦渋の解答。彼女の立場に立てば、簡単だろう。許可を得ることができるか、救援さえ得られれば良いのだ。だが、それが叶わないばかりか国家の失敗を個人で背負わされている。「中佐!貴官ならば、ここで、ここで全滅する戦略への影響を理解できるはずだ!」幸か不幸か、デグレチャフ中佐には状況が理解できてしまうのだろう。狂った戦闘狂であるにせよ、冷静な戦略家としての顔を持つのだ。このような状況を予見していた人材であるだけに、なおさら事の重大性を理解できているに違いない。だからこそ、彼女は苦悩せざるをえない立場に追い込まれている。統制を重んじ、服従の誓約に殉じるか。戦略上の必要性に殉じるか。「・・・理解致します。ですが、軍令を歪めることの危険性をご理解ください。」「軍集団司令部の総意にかけて、貴官の名誉は擁護する。頼む、デグレチャフ!」だが、これらの状況を理解できているデグレチャフ中佐だからこそ。いや、デグレチャフ中佐にしかこのような状況は打開できない。しばし、苦吟しつつもデグレチャフはその事実を噛みしめるように最終的には頷く。「・・・しかし、小官とて戻れるかどうかすら、定かではありません。」言葉にされるのは、実現可能性について。実際、デグレチャフ中佐が重囲を再度潜り抜けられるという保証は何処にもないのだ。最低でも、それを成し遂げないことには何も始まらない。だから、ウィルヘルムは即座に手持ちの予備兵力を一つすり潰すことを決断する。「我々が威力偵察を試みる部隊を出す。盾として使い潰してくれて構わない。」ちらりと、横を見れば参謀長ら以下参謀らも同じ腹。誰もが済まないと思いつつも、彼女に委ねる他にないと諦めた。「部隊長にいい含めておこう。だから、何としても突破してくれ。」「・・・ぜひもありません。」あとがきルサルカってよくね?(・ω・)?オペラとか、結構深いなぁと。あと、中佐殿を無事に離脱させてみました。ええ、無事に。後は、パウルス元帥モドキが無事に離脱を決意すれば全て平和に。次回、雷鳴作戦。追伸誤字修正しました。+ZAPZAP