統べるモノたちは、常に憂うるべき事態を抱えて止まない。為すべきことはあまりにも多く、彼らは常に憂慮している。「・・・困ったことになりました。」「はて?観測結果は、状況が改善していることを示唆しておりますが。」故にたいていの場合、何かしらの問題を彼らは抱えている。担当者が誠心誠意対応していくうえで、悩むのは珍しくもないだろう。だが、その瞬間において珍しい事態が生じていたことは否めない。「いえ、全体としては良好なのですが。」そう、全体として世界の調和は維持されつつある。傷ついた信仰と、人々の敬虔さも回復基調を示しつつある。各種統計は、調和が取り戻されつつあることを示していた。だが、調和にとって『ある不安要素』が無視し得ないほど巨大化しているのだ。最悪の場合、調和が維持できずに上げ基調が崩壊しかねないほどである。「全体の調和を掻き乱すような個のエラーが生じたのですか?」「しかり。誠に誤算でした。まさか、今代の者どもが使徒を悪鬼と捉えるとは。」調和回復のために、世界にテコ入れを行う。それは、彼らにとって管理し世界の調和を維持するための不可避の方策だった。本来であれば、信仰の要素が不足しているのであれば要素を追加供給すればよい。信仰が過剰となり、行きすぎるようになれば信仰を適性化するべく諭すことも行っている。だが、信仰が不足しているので信仰の要素を追加供給したことでトラブルが生じるとは予想外だ。「はて?以前、オルレアンなる地やそれ以前に各地で使徒を遣わした時は信仰に寄与したはずですが。」経験上、彼らにとってそれは成功していた方策である。理知的な思考で考えれば、過去に成功した要素が失敗しているという事には何がしらの原因があるのだろう。そして、それは担当者をして少々困惑せざるを得ない原因だった。ほとんどあるまじきこととして、想定されてすらいない事態。はっきりと言葉にするならば、矛盾した事態だろう。「どうも、今代の者どもは使徒の力を恐れて畏怖するようです。」「・・・使徒の行いに問題があるのでは?」そう。諸人を導き、信仰へ人々を誘うべき使徒。それが、信仰の言葉を忘れるばかりか、あろうことか改悛しないのだ。本来であればそろそろ自らの責務に目覚めても良い頃なのだが。過去に一番悔い改めさせるのが難しかった時代でさえ、彼らは悟りに至り諸人を導いた。ところが、今代の使徒は明らかに問題がある。加えて、使徒の行いに対する健気な子羊たちの対応も問題があった。祈りの言葉を使徒が(強制的に)唱えているにもかかわらず、言葉に耳を傾けない。これでは、奇跡を奇跡と彼らが認識できない恐れがあった。彼らに祈りの言葉を授けるつもりであったというのには、大誤算だ「以前の使徒らと違い、やはり教育が十全ではなかったのでしょう。」英知に包まれた存在にとって、過ちは認められ、修正されねばならない。そこには、いかなる例外も存在してはいなかった。「では、どなたかが教育すべきだ。」当然、方策は明瞭かつ簡潔なものだ。教育が不足しているという事実。ならば、それを導くにふさわしい英知を有する存在を遣わす他にない。「ふむ...一理ある意見でしょう。よろしい、地上に適切な使いの者を遣わし、主の栄光を讃えさせます。」故に、即断された答えは実に当然の帰結だった。それは、為すべきことを端的になすために行われなければならないのだ。帝国海軍高海艦隊旗下、第七潜水戦隊所属、艦隊潜水艦“U-20”U-20は艦隊司令部より発令された哨戒航海を終了し、夜間水上航行にて速度を稼いでいた。水上航行によって得られる速度は、母港への帰還を楽しみにしている乗員たちにとって無上の喜びだ。だが、同時に彼らには獲物を得ることができなかったことを悔しく思う気持ちもまたある。いくどか雷撃の好機に恵まれたものの、運悪く命中はなし。散々下手糞な爆雷を浴びせられたのでお互いさまというところだが。ともあれ、母港に帰るまでにできれば一隻くらいは戦果をあげておきたいと誰もが考えていた。そして、その日、幸か不幸か見張り員は夜陰に不審な船影を見出すに至る。「艦長!本艦三時方向に独航船です。」当直員からの報告で叩き起こされた大尉艦長の反応は機敏だった。距離・針路共にある意味最適な距離であり、雷撃するには最高のチャンスが転がり込んだのだ。軍装のまま横になっていたベッドから機敏に起き上がると、その足で発令所に飛び込む。「総員起こし。潜航する。潜望鏡深度だ!」手際良く配置に就く乗員らも、今航海最後のチャンスとばかりに動作は理想的。お手柄の見張り員らはハッチを閉めて飛び降りてくるなり、戦友らから肩を小突かれ歓迎されている。まったく、お手柄だった。「機関停止、潜望鏡用意、魚雷発射管注水用意!」訓練とは違う躍動感。水兵らを指揮する下士官らの表情も狩りへの興奮が抑えきれずに高揚している。誰もが、久々の獲物に静かながらも興奮しているのだ。「発射管水圧調整完了!」静かな、そして待ち遠しい時間が過ぎていく。そんな中で潜望鏡を覗き込んでいた艦長は、獲物を判別していた。「・・・貨物船か?副長、君はどう見る?」ほぼ、艦種については知悉している。なにしろ一瞬で識別出来なければ、獲物を見分けられないのだ。だが、その日珍しく艦長は判断に躊躇いを覚えてしまう。「我が軍の封鎖海域を突破するのであれば、貨物船ないし軍艦かと。しかし、見慣れない艦影です。」同時に、意見を求められた副長が潜望鏡を覗き込み困惑する。彼らはこの海域で哨戒経験が豊富であり、おおよその敵艦は知悉しているつもりだった。もちろん、封鎖海域を突破しようとするのは敵艦ないし敵性国家の艦船だ。だが、見慣れない艦影という点が彼らを警戒させていた。「それに貨物船にしては、少しばかり無警戒過ぎる。灯火管制が不十分だ。」なにより、探照灯を付けている点が注意を引く。対潜警戒中の巡洋艦に見えなくもないのだ。やや艦影がずんぐりむっくりしているのが気になるものの、仮装巡洋艦ということもありえた。浮上して砲撃するというオプションはこれで消える。やはり、雷撃しかないだろう。「速度約25ノット・・・やはり、独航中の巡洋艦ではないでしょうか?」なにより、足が速いという点が問題だった。単独で航行しつつ25ノット弱という速度。これほど優速の輸送船ならば、護衛が当然近隣にいておかしくない。あるいは、単独航行中の巡洋艦だとしてもその火力は十分潜水艦にとって脅威だ。25ノットもでる中立国船籍の貨物船がこの海域に紛れ込んでいるならば、事前に艦隊司令部から警告も出るだろう。それに、軍艦がこんな地域をうろうろしているならば、連合王国側なのは自明だ。「封鎖突破用の高速輸送船もあり得るが。・・・よし、雷撃戦用意!」結局のところ、不審ではあっても敵に違いはなさそうなのだ。事前に受け取っている作戦命令では、海域に侵入した船舶への無条件攻撃が命じられている。なにしろ、この海域は連合王国船舶の大動脈だ。「はっ、雷撃戦用意!」「せっかくの機会だ。残雷を使いきってしまえ。」母港も近く、帰還途上ということもあった。これまではけちけちして外して来たのも艦長の判断に影響している。とにかく、撃沈して見せよう。「では?」「4本いくぞ!」「はっ!」残雷4本の射角を散開設定。相手が1万トン以上であるという仮定から、ある程度深度を深めに設定。乗員が必中を祈念するなか、射出された魚雷は順調に目標へアプローチ。連続して鈍い音と振動が2度。「・・・敵艦へ直撃2!」聴音手からの報告に思わず誰もが喝采を叫びそうになるのを堪える。まだ、獲物を沈めたと決まったわけではない。だが、次の瞬間、誰もが思わず喝采を叫んでしまう。「誘爆音多数感知!弾薬庫を直撃した模様!」水中に身を潜めてなお、確実に敵が致命傷を負ったと理解できる音。火薬が同時に破裂し、船体を吹き飛ばすような轟音。それは、聴音手が報告するまでもなく乗員に何が起きたかを理解させてくれる。ただの誘爆音ではなく、ほとんど弾薬庫が丸ごと吹っ飛んだかのような音だ。「敵艦、急速に傾きつつあります。」わずかに潜望鏡から見えるのは、一気に横転していく敵艦だ。だが、良く眼を凝らすと何かを海上に投射しているようでもある。「・・・?どうも、重巡洋艦以上の大物に見えるな。」対潜戦闘が未熟。加えて、船影が想像以上に大きい。「・・・単独ということを考えると重巡洋艦かと思われますが。」だが、単独で航行していたという事を考えると護衛がついていないのは極めて不審。ありえるのは、やはり重巡洋艦程度だろう。なにがしかの事情によって独航していたと考えるのが自然だった。「やはりそうだな。・・・しかし大きい。1万5千トンクラスはある。」「何れにせよ、大物です。これで、大手を振って帰れますよ、艦長。」しかし、何れにしても大物であることに大差はない。当然、撃沈スコアによって得られる撃沈報奨金も大した額になるだろう。そのことを思えば、それ以上の高望みはいささか慾深過ぎるようにも思えた。「そうだな。よし、予定通り帰到する。」故に。その日、U-20の航海日誌には撃沈スコアが追加される事となる。船種詳細不明なれども1万5千トンクラスの敵艦を撃沈。それが、その日彼らが判断した戦果だった。・・・実際は排水量4万4千トン越えだと彼らが知るのはしばし後である。陽光が差し込み、お日柄は良好。なれども、将兵らの多くは日だまりを楽しむ前に生き残らねばならなかった。精巧で緻密な戦争機械と、粗雑ながらも巨大な戦争機械のぶつかり合い。極限まで双方共に国力を絞り出して投じられる物資が、兵力が、果てしなく浪費されているのだ。ほとんど、際限なき消耗の張り合い。そこにあるのは、文明の破壊力がむき出しでぶつかり合うハルマゲドン。サラマンダー戦闘団とて、その地においてはわずかな力を振るい得るに過ぎない。いや、わずかというには少々誇張が過ぎる。雲霞のごとき連邦軍相手に、力戦したところで圧倒的物量差だ。叩いたところで、叩いたところで、次々に新手が押し寄せてくる。その様は、ほとんど途切れることなき敵戦力の豊富さを物語ってやまない。後退するべきだろうか?ベテランの古参士官らは一瞬そう考え、しかし即座に考えを放棄する。なにしろ、苦しいのは戦域全般に共通した事象だ。突出点に位置しているのでもない限り、ここで引いたところで状況が改善するという保証は皆無。それどころか、戦線が崩壊してより状況が悪化することも想定し得た。加えて、戦局は被害甚大なれども防衛可能と彼らには判断できる状況。なるほど、圧倒的物量差からなる圧迫は脅威。だが、単純なひら押しならばまだ撃退できる。ベテランならば、勝機を見出す状況判断ができた。そう、ベテランならば。「持ち場に戻れ、少尉!」逃げ出そうとする新任少尉。ほとんど、血相を変えて今にも飛び去りそうな若造を抑えるべくヴァイス大尉は罵声を上げていた。将校がよりにも寄って兵の前で、である。「しかし、無理です。無理です、大尉殿!」『その囀る元気があれば、さっさと持ち場に戻れ。』内心で、侮蔑と怒りに駆られつつもヴァイス大尉は呼び掛ける。まだ錯乱しつつある少尉を、何とか諭して義務を思い出させるべく呼びかける。「少尉、まだ持ちこたえられる。落ち着いて、義務を思い出して配置に就きたまえ!」敵は2個大隊規模の歩兵。はっきり言って、中隊規模の魔導師がいれば簡単に押し返せる。敵に火力支援と小隊規模の魔導師支援がついているとはいえ、押し返せない相手ではない。ラインの大規模会戦や東部のもっと厳しい戦いに比べれば今回はまだ、マシな状況だ。はっきり言えば、厳しいという状況の尺度が違う。勝ち目が見える時点で、この衝突はよほどまともな状況なのだ。にもかかわらず、新任がまた着任早々騒ぎ始めてヴァイス大尉を煩わせていた。「無茶です、大尉殿!あんな数、支えきれるわけがありません!後退するべきです!」「ふざけるな!まだ持つ!ここで引けば戦線が崩壊するのだ。持ちこたえろ!」新任どもが受けている促成栽培と過酷な戦場。想像している戦場とのギャップは確かに大きいのだろう。だから、それとなく幾度か警告はしてきたが連中は理解しない。まったくばかげた話だ。自分が警告する時は悲観的だの大げさだの言われ、敵が来るとあんな敵を相手にするのは無理だと言われる。これが何度も続いていては、さすがにヴァイス大尉としても考えざるを得ない。「あんまりだ!私は、指揮官の権限として部隊を全滅から救うために後退を進言します!」「認められん!引けば、それこそ全滅だ!」だが、この手のやり取りを何度か繰り返しているだけにヴァイス大尉は次に眼の前の馬鹿が囀ることが理解できた。「無謀な行為です!私は、反対だ。付いていけない!このことは、師団司令部に具申します!」意見具申。指揮権の喪失を宣言。あるいは、独自行動の宣言。ともかく、逃げ出す口実を彼の前任者らも口にしたものだ。「敵前逃亡だぞ少尉!最後の警告だ。さっさと、持ち場に付け!」いい加減、疲れてしまう。ヴァイスは、新任のおかれたストレスに理解を有してはいた。少なくとも、先任として先達の義務を果たすべく配慮と教導を行ってはいる。だが、こんな一刻を争う事態になると指揮官としての義務が彼には存在していた。彼は、自分の与えられた命令を部隊の損害を極小化しつつ行わねばならない。そんな状況での配慮だ。そこには、おのずから限界が存在する。「戦術的撤退は裁量権に含まれています!!私は、必要な行動を取らない将校を司令部に告発するだけです!」「先任軍曹、その馬鹿を止めろ!」将校が、部隊を、兵を見捨てて逃げ出す?そんな事態は、どう考えても許容できない。当然ながら、咄嗟に取り押さえざるをえないのだ。精神錯乱として、後送すれば少なくとも銃殺刑は逃れられた。さっさと抗命と敵前逃亡で銃殺しかねないあの方に比べれば、これは随分と穏当な措置だろう。あの方は、そこに関して躊躇が極端に乏しい。「少尉殿、失礼します!」命じられたため、素早く幾人かの下士官が飛びかかり抑え込もうと試みる。だが、最後の慈悲も無駄に終わることとなった。「離せ!離せぇ!!」その魔導将校は咄嗟に演算宝珠を起動。錯乱しきった状態、血走った目。そのまま飛翔しようとするのは、最悪の状況だった。司令部の位置すら露呈しかねない愚行。いや、そのまま飛んでいけば間違いなくやりかねない。それだけは、許せない事態だった。「っ、あの馬鹿を撃ち落とせ!」やむを得ずに、出す射殺命令。待機していた他の魔導師が即座に光学系狙撃式を展開、起動。分厚い連邦魔導師の防殻を焼き切る狙撃術式が集中し、あっさりと焼き切られた魔導師が墜落する。敵前逃亡とはいえ、味方殺し。盛大に友軍陣地の所在を露呈しかけた間抜けの始末とはいえ気分のいいものではない。繰り返そう。気分のいいものではない。「・・・これで三度目。いい加減、まともな将校を寄こしてほしいものです。」そして、撃墜した小隊を指揮する准尉が忌々し気に呟く。中隊司令部付きの彼らは、すでに3度目の銃殺執行を行ったのだ。はっきり言って、苦々しい思い以外の何物も抱いていないだろう。補充される新任将校の質は酷いものだった。魔導師として二線級ならば、御の字。今では、ほとんど訓練も受けていないようなものまで少尉様だ。状況判断能力にも著しく欠点が見られる。「彼でも、まだまともな部類だろう。少なくとも、錯乱して乱射されるよりはマシに違いない。」肩を落としつつ、片手でヴァイス大尉は撃ち落とされた元部下の収容を指示。少なくとも、今回は誰も巻き添えにならなかったのだと自分を慰める。「ああ、奴ですか。アレは確かに酷かった。」「全くだ。貴重な古参兵を巻き添えにされるとは。思ってもみなかった。」前任者に比べれば、まだマシ。そう判断し、ヴァイス大尉は双方に不幸なことだったと諦観の念を抱く。一瞬だけ、黙祷。そして、大尉は意識を切り替える。「よし、迎撃にとりかかるぞ。」そう、お客さんだ。まずは、生きて帰らねばならない。全てはそれからなのだ。兵士だろうと、将校だろうと生きている以上は生活上の営みが不可欠だ。特に、食事と睡眠は絶対に欠かすことのできない極めて重要な要素だろう。暖かい食事がとれるかどうか。それは、単純に嗜好の問題を越えて戦略レベルで補給が機能するかどうかという問題に直結している。さすがに、というべきだろうか。帝都の食糧事情はさすがに良好だった。帝国軍参謀本部の食堂を除けば、という但し書きがつくが。聖グレゴリウス教会傍の食堂。久しぶりの帝都だったので足を運んだデグレチャフ中佐は、昔馴染みの店に足を向けていた。顔なじみの老ウェイターは徴兵されるには年を食い過ぎていたのだろう。いつも通りの完璧な接客態度で、昔座っていた席へ即座に案内される。差し出されるメニューを一瞥する限り、戦火の影響は少なくとも食事が楽しめない程ではないらしい。なにしろ、メニューを開く限り、価格が少々上昇してはいるが大体はいつも通りだ。「アイントプフ、それとリーキのグラタンにアイスバインを。付け合わせは、いつものザワークラフトで。」それだけに、嬉々として注文を始めていた。前線では、到底望みえないような良質な食事。何より、参謀本部の会食室で食べるよりはずっとマシだ。なるほど一部、ワインや煙草それに砂糖といった趣向品は配給制になっている。だが食料品全般の供給はまだマシらしい。案外食糧生産と供給は万全なのかと安堵しかけたターニャの希望的観測。それが打ち破られたのは、食後のメニューまでオーダーしようとした時だった。「それと、タンザニアン珈琲を。」帝国ではかなりポピュラーな銘柄を注文。食後の一服というのは、食事には欠かせない。そして暖かい珈琲は、単に趣味を越えて日常に欠かせない一つの要素だ。そう思い、なんとなしに口にした時違和感を覚える。「申し訳ありません、お客様。」「うん?ああ、品切れですか。仕方ない。では、なにがありますか?」申し訳なさげな老ウェイターの表情。そこから、単に品切れかとターニャは早とちりする。戦時中だ。遺憾ながら、こんなこともある。多少の品切れはやむを得ないのだろう、と。だから、気にすることなくある種類を頂こうと考えていた。「軍属の方ですか?」だが、返される言葉はより深刻な事態を示唆していた。相手はこちらが口にした事に少々驚いているのだ。つまり、なにか知らないうちに変化があったに違いない。「ええ、そうです。魔導軍に奉職しております。」「ああ、では御存じないのでしょう。今、珈琲は配給制でして各家庭別に割り当てられたものに限られているのです。」そして、申し訳な下げに老ウェイターから告げられた事実はターニャを打ちのめす。告げられた事実、配給制の拡大。意味するところは、食堂では最早珈琲を楽しむことができないという事実。文明にとって不可欠な要素である公共空間。その公共空間形成に歴史的貢献を果たして来た珈琲が欠如する?・・・ああ、なんたることだろうか。「・・・なんですと?では、食後の楽しみは?」「一応、代用珈琲ならばございますが。」謝意を示す老ウェイターが提示してくる代替案。少なくとも、何もないよりはまともだろう。それに、食事自体は提供されるのだという事実。ここは、妥協するしかないかとターニャは判断した。「ううん、仕方ない。それを頂こう。」「かしこまりました。少々お待ちください。」食べる喜び。それが奪われることは悲しいが、まだ前線に比べれば食事は良いのだ。自分自身に、そう言い聞かせて食事が出てくるのを待つ。だが、期待しない方が良いかもしれないと覚悟してしまう。そして、覚悟はある意味正しかった。「うん、悪くはないな。」アイントプフは、さすがに野戦糧食よりはずっと良好だった。インゲンとジャガイモは味がいい感じにしみ込んでいる。ベーコンはいつも通り、良い仕事がしてあった。それだけに、熱々のアイントプフに関して言えば期待通りだ。季節もののリーキはとろりとした食感と程良い甘さに満足できた。問題はアイスバイン。明らかに小さくなった上に、少しと言わずに味が落ちている。ハーブは、ドライハーブが手軽に入手できる以上肉と塩の問題に違いない。水質が変化したという話も聞かない以上、そういう事だ。肉類の質が落ちているという事実は、食糧事情の悪化を間接的に物語るのだろう。付け合わせのザワークラフトも昔ほどは、よくない。だが、まだ料理人の仕事によって悪くないと評することができる水準にはある。仕事がしてあるのだ。好きか嫌いかで言えば、ターニャは好きな方だと答える。確かに期待し過ぎていれば、失望したかもしれない。だが、前線の食生活に比べれば信じられないくらい良い食事だった。なにより、同じ食糧供給事情かまだマシな参謀本部のソレに比べればずっとマシだ。悪くない。それは、いつもの状況と比較してであってこの状況下ではほとんど望みえないほどの賛美に近い。それだけに。「・・・っ、」それだけに、残念だった。「お口に合いませんでしたか。」「申し訳ないが。慣れていないのでしょうな。」飲み干した小さなコーヒーカップを老ウェイターに返し、ターニャは差し出された水に手を伸ばす。中に入っていた液体は、確かに黒かったし珈琲の様な色はしていた。だが、単にそれだけだ。香り高い珈琲の芳香も、芳醇な味わいのかけらもそこには存在していない。泥の様な味と司令部の珈琲を罵っていたが、まさかこの世にアレより酷いものがあるとは想像してもいなかった。なまじ珈琲と名がつくだけに、失望も大きい。何より、カフェインが感じられなかった。これは、致命的だ。なんのために珈琲を口に含むのかと叫びたい代物。「やはり、慣れねばそうそう飲めたものではありませんな。」そう口にする老ウェイター自身、決して好きそうな表情はしていない。実際、他に口にするものが無い以上渋々という事なのだろう。しかし、この店で飲めないということは他でも飲めないという事だ。その事実は、ターニャをして落胆させてしまうものである。どこのカフェに行っても、代用珈琲しか出てこないのであれば足を運ぶ価値は激減するのだ。「ですな。ああ、食事は素晴らしかった。よくぞ、ここまで味を保てるものです。」だが、気分を切り替えて素直に食事に対する賛辞を口にする。材料はともかく、料理人の手仕事がきっちりと良い味を維持できるように励んでいた。これは、賞賛に値する仕事だろう。「ありがとうございます。やはり、そう言っていただけると励みになることでしょう。」「ぜひ、軍にも欲しい程だ。では、失礼。」まったく。これぐらい食事がまともならば、外食せずに済むのだが。会計を済まし、街へ足を向けながらターニャが思うのは軍の食事への不満であった。あとがき日常生活も必要らしいので。あと、たまにはターニャさん以外にも活躍させようと思いました。帝国の潜水艦が活躍するエピソードを入れてみます。あと、本作は未成年の飲酒、喫煙には反対しております。アルコール・煙草は基本なしで。誤字修正ZAP