Ⅰ
空の天幕が漆黒ではないのは、ぽっかりと大きな穴から眩い輝きが漏れているからだ。
少しの悪戯心から、そこに指を刺し込みたくなったけれど止めておいた。
だって、とっても綺麗だったから。
それに、どうしたって届かないことも理解できる。
柔らかい光に優しく照らされ、何だか訳も無く悲しくなる。
人は触れることが出来ない美しさを認めると、自身の惨めさを思い知るということなのか。
でも………きっと、この気持はそれだけではないのだろう。
あそこに一人きりではあまりにも寂しそうだと、自然と心に浮かんだからだ。
いつから、孤独だったのか。
どうして、誰もそこに寄り添おうとしなかったのか。
あんなにも、あれは艶やかだというのに。
あんなにも、あれは愛おしいというのに。
あんなにも、あれは哀れだというのに。
遙かである事を理由に、誰もがそこに辿り着くのを諦める。
あるいは、触れ得ない故に畏れるか憎悪する。
だったら、せめて自分が傍に居てあげなければ。
理由なんてきっとそんなもので、それで充分だったのだ。
実は、そんなに難しいことでは無い。
当たり前のことを、当たり前のようにすればいいだけの話なのだから。
だから、その手をとって連れ出した。
もう孤独ではないのだと、分からせる為に。
世界は、こんなにも幸福で満ち溢れていると知ってもらう為に。
笑ってくれさえすれば、それだけで嬉しかったのだ。
色々と取り零したり失くしたりするかもしれないけれど、今は些細な事だ。
そう───とにかく、噛み締めなければ。
夢幻の中で過ぎ去る、一瞬の中の永遠を切り取る。
浮遊する光景に、泣きたくなる程の喜びが刻み込まれている。
ああ……本当に
こんやはこんなにも─────つきが、きれい─────だ─────
私から見ると、シェイキィはどうにも脳天気に見えた。
「ねぇ、どうしていつもそんなに困った顔で笑ってるの? もしかして、君って日本人なの?」
「え? なんで?」
「だって、日本人って意味もなく笑ってるんでしょ? それで、怒るときはいきなり怒り出すから怖いって、マリーおばあちゃんが言ってた」
そう言うと、ますます困った顔になる。
眼鏡の奥の瞳が微かに細められて、何か直視できないものに視線を向けているかのようだ。
実は、その表情は結構可愛いから私は気に入っていた。
「相変わらず酷いよな、ガビーは。幾ら何でも、それは日本人に偏見を持ち過ぎだよ」
「え? ということは、本当に日本人なの?」
私としてはほんの冗談のつもりだったが、そこでそういう抗議をするということは自身がその国の人間ということしか有り得ない。
少しだけ意外だったので、驚いた。
口元に指を当てて僅かに俯いているのは、記憶を辿っているからだろうか。
僅かに芳しい香の匂いが染み付いた静謐なる礼拝堂の中、私達は厳粛さとは程遠い調子で話をしている。
私は、ヘブライ語で『そして神は光あれと言われた』と刻まれた講壇に背中を預けて寄り掛かっていた。
シェイキィは、最前列の長椅子に前屈みで座っている。
朝のミサを終えて村の人達が全て帰った後に、二人で一通りの清掃を行い一息ついた所だった。
足元からの冷気は、訪れる者に此処が神聖な場所なのであるという事を解らせるのに一役買っているのだが、生活する者にとってはただ寒いだけである。
「うーん、どうだろう? 国籍はそのままになってるだろうから、多分………」
「ふーん、そこは覚えてるんだ。何か、他には思い出せないの?」
「うん………残念ながら」
戸惑った表情で首を振っているが、悲観するような感じは全く見受けられない。
そのうち何とかなるだろうと、シェイキィは本気で考えているようだ。
そういうおおらかさは、私も嫌いじゃないけれど。
でも記憶が殆ど曖昧で、名前と意味不明な強迫観念しか覚えていないでは、私であれば絶対に錯乱する自信がある。
「こうして話していると、君って普通すぎるほど普通なのにねぇ。とても、歩いて月に行こうとか言い出す子とは思えないわ」
「うん。自分でもどうかしているとは思う。でも、そこに大切な何かが待っている気がしてね」
「だけど、歩いて月には行けないのは分かるわよね? だって、ほら、あれ………上にあるのよ?」
「そうだね。間違いなく、行けないだろうね」
私が天を指さしたのを上目遣いで見ながら、困ったように微笑む。
柔らかく照らす日差しの中で、それがとても痛々しく見えてしまう。
この子が、どこか壊れているのがよく分かるからだろうか?
それとも、今にも消えてしまいそうなぐらい儚い印象があるから?
どちらにしても、放っておくわけにはいかないだろう。
昔から、拾ったものには猫でも犬でも責任を持つのが私の信条だからだ。
シェイキィは…………うん、犬だな、これ。
垂れ下がった耳を付けて、丸まった尻尾を付ければ、どこに出しても恥ずかしく無い立派な小犬の出来上がり。
つぶらで澄んだ綺麗な瞳が醸すものは、誰もが頬ずりして可愛がりたくなること請け合いだ。
………と、いけない、少し妄想が先走った。
こちらを見る不思議そうな目に、少し焦る。
私は、一つ咳払いをした。
「とにかく………今後どうするかは、もう少しゆっくり考えることね。まだ暫くは、この教会に居ていいから」
「それはどうも。でも、大丈夫なのかな? 素性の分からない人間が居座っていると知れたら、迷惑が掛かると───」
「気にしなくていいわ。神は、迷える子羊を決して見放したりはしない。だって、迷える子羊一匹救うのに他の九十九匹の子羊を放っておくっていうのが御心に叶う道なのよ?」
「随分と都合が良い解釈じゃないかな、それ…………何度も訊くようだけど、ガビーって本当に修道女なの?」
まったく………確かに、何度それを訊けば気が済むのだろう。
伊達や酔狂で、こんな修道服を着る人間が居るとでも───ああ、まあ、居ないこともないか。
───ええ、紛う事無き修道女(ですのよ、私。
清貧・貞潔・服従の三つの修道誓願だって立てて御座います。
身も心も、全て主のために捧げておりますの。
まあ、その…………日々をはやまったかなあという、心の囁きと戦って過ごしているわけだけど。
私、ガビーことギャブリエル・ヴァルツは現在ドイツに限り無く近いフランスの東の端っこの端っこ───生まれ故郷であるアルザスの小村ソルスティスで、教会付きの修道女(を務めている。
こう言っては何だけど、ソルスティスはとても田舎だ。
何しろ、この村の人口は七百人に届いていない。
ただ、村自体の景観はとても美しいのが自慢だ。
まず周囲に葡萄畑が風光明媚な広がりを見せているのが、文明の猥雑さから隔絶させる防壁のようである。
その中に、中世さながらの木組みの建物が立ち並んでいる。
生活に必要最小限の公共施設や僅かな店舗が唯一ある大通りに面し、あとは全て民家。
間を走る路地は、時の重みを感じさせる疎らな石畳で下品に彩る華美な部分は村の何処にも見られない。
強いて装飾を挙げるなら、時折ある花壇に飾られた花々や申し訳程度にその建物が何であるかを示すシンボリックな看板くらいか。
それらは、夕陽を浴びると一つの芸術作品として完成するとまで言われるほど出来過ぎな光景を紡ぎ出す。
どうやら、かつて著名な絵描きがそれをモチーフにする事を目的に頻繁に訪れたりした事もあったらしい。
その為、村はそこそこ有名で観光目的に来る人も珍しくなかった。
少し離れれば、ちゃんと立派な地方道が走っているので交通の便もそれ程悪くないのだ。
だが、ここは別にそういう観光地としての演出をしているわけでは決してない。
あくまで、人々の営みの結果として自然とそうなっているだけである。
それもまた、外の人間を喜ばせているようだが。
私は村に代々住む大工の一人娘として生まれた。
しかし、両親のことは殆ど憶えていない。
父母ともに、自動車の事故で私が幼い頃に亡くなっているのだ。
何でも、とても仲が良い評判の若夫婦だったそうで、前途洋々たる彼らに起きたこの事件は当時の村を震撼させたようだ。
私は、その時にたまたまご近所の人に預けられていて助かったのだという。
この出来事は、私にとってあまりに理不尽すぎる不幸であった筈なのだが実は薄弱な印象しかない。
幼さ故にそれが上手く理解できなかった所もあったからだろう。
ぼんやりした喪失感しか記憶に残っていなかった。
それは、極めて客観的で俯瞰的な白黒の画像が幻灯機で途切れ途切れに映し出されるような曖昧なものだ。
だが、周囲から見れば突然に悲劇的な境遇となった哀れな幼子だったわけで、村の人々には事あるごとに同情された。
小さな村なので、外の者には閉鎖的なところもあるが内の者には皆家族のように親身になってくれたのだ。
まるで自身に降り掛かった事に実感など無かった私などの為に、皆で真剣に話し合い等もしてくれたらしい。
その結果、どういう経緯でそうなったのか未だ良く分からないが、身寄りのない私は今居るこの教会の神父様に引き取られたのである。
そしてこの巡り合わせこそが、私にとっての運命だったのだ。
つまるところ、私のそれからは保護者となってくれたこの人にこそ帰結しているのだから。
だけど、まあ………その辺りの自身の詳細については少々省かせてもらおう。
私がそれからどうして修道女(になってしまったのかとか、その原因となった神父様がどういう人であるかということは、それなりに馬鹿馬鹿しくも複雑で悲しくも笑えるロマン溢れるものがあるのだが、それを語ると長くなるし第一死ぬ程恥ずかしいので。
とりあえず私が修道女(になったのを後悔していること、良く分からない事情により神父様が長期間留守にしており無責任にも教会を私一人に任せっきりにしていること、その事により心が荒んで日々を悶々と過ごしているという現状だけ述べておく。
Verdammte Scheiße(! と日に何度か心の中で呟いては、許しを乞うているというそんな見事な駄目修道女(なのである、私は。
無論、村の人達には敬虔にして貞潔なる物静かな修道女(で通っているが。
やっぱり、今まで猫をかぶり続けてきた身としてはその部分は保たないと色々世間と上手くやっていけないし、教会の評判を落としたら神父様も悲しむだろうし。
それくらいは大目に見てもらいたいものだ。
天に在す御方は、時々それは流石にどうか? と思う程の無茶をするが、基本的には寛容で愛に溢れている………と、私は考えている。
だから、取るに足らない信徒の弱さやちょっとした過ちなど、おおらかな心で許してくれる筈なのだ、多分。
──────ま、許してくれなかったら、それはそれで良いけどさ。
さて、つまらない私のことなど置いておいてシェイキィを拾った際の話をするとしよう。
ちなみに、この拾ったというのは修辞としての言葉ではなく単なる事実だ。
要するに、草むらに文字通りシェイキイは落ちていたのだ。
それこそ、勢い余って飛ばしてしまいそのまま打ち捨てられた物悲しいスニーカーのように。
それは、月が鏡のように輝き真円を描いていた夜だった。
私はその時熱ってしまった身体を冷ますために、村の離れの雑木林を吹き抜ける風を浴びながら散歩をしていた。
神父様の部屋で密かに所蔵されていた上等なワインを見つけてしまい、腹いせに手を付けたら止まらなくなってしまった為だった。
独りで教会に取り残された寂しさから、ストレスが相当溜まっていたのか。
恨みがましい愚痴を零しながら飲んだそのペースはかなり速かったと思う。
少しだけの味見のつもりが、気がついたら一本丸々空けていた。
結果、結構いい具合に酔っ払ってしまったというわけだ。
今考えると、へべれけの修道女(などという醜態を村の人に見咎められなかった事を主に大いに感謝するべきだろう。
その時は全くそんな心配など心に浮かばず、とにかく気分が良かっただけだったのだが。
私は、頭の窮屈なベールを脱いで自慢の赤毛を風に靡かせながら、妖精にでもなったつもりで軽やかに危機感もなく歩んでいた。
高低の組み合わさった木々の間を通り斑に影を落とす月明かりはなかなか幻想的な雰囲気で、幼い頃に聞かされた童話の一幕を思い起こしていた。
時折、自分の足元で枯れた枝が折れる音が軽やかに鳴るのが意味もなく面白く、くすくす笑ったりしたのは端から見たら結構不気味であったかもしれない。
そんな御機嫌な私が心赴くままに出鱈目に歩いてから暫く、急に視界から今まで連なっていた鬱蒼とした木々が途切れた。
いつの間にか、丁度広場のようになっていた小さな草原に辿りついていたのだ。
丈の短い草のみが生えて風に揺られ天からの銀光に濡れているそこは、なかなか素敵な場所だったと思う。
今にも本当の妖精や動物たちが現れて舞踏会でも催しそうだなと、一目で私が極めて乙女丸出しな想像をしたくらいだ。
切り取られた薄蒼い天幕は、月を中心と据えてまるで黎明間近のような静寂を演出していた。
すっかりそこが気に入り、鼻歌交じりで夜空が真上に見上げられるなだらかな傾斜に寝転がろうと足を進め───しかし、私はそこに先客がいることを察知し跳ねるような歩みを止めた。
最初は、自分から伸びた影が映っているのかと思った。
やがてそれが立体であると分かり、不法投棄されたマネキンかと考え、僅かに身動ぎしたことで仰向けに倒れた人影だと漸く私は気がついた。
ここまでプロセスを踏まなければならなかったのは、何となくそれが生きていることが信じられなかったからである。
で、普通なら私ぐらいの年頃の娘のそんな時の正常な反応としては悲鳴の一つでも上げているのだろうが………酔いというものは、本当に恐ろしいもので。
私は、あまりに怪しすぎる人物だと理解しながらも少々喧嘩腰に勢いで声をかけたのだった。
その時の自分を推測するに、多分何か楽しい気分に水を差されて癪に障ったとか些細すぎる理由だったのだろうと思う。
一応付け加えるならば、何かのトラブルで行き倒れているのかも知れないという現実的な懸念もしていた。
「君。そんな所で倒れていると危ないわよ」
不機嫌な声で言いながら、回りこんで正面から人影を見下ろす。
細身で少々小柄な体格。
パッと見は随分と歳若い。
無造作に伸びた黒髪が蔦のように草に波打って広がっていた。
眼が微かに朧な蒼い輝きを発したのは、私の錯覚だったのだろうか?
「え─────」
「え、じゃないでしょ。こんな夜更けに草むらで寝てるなんてよっぽど暇なのね。気をつけなさい、危うく蹴り飛ばされるところだったんだから」
自身の影が重なっていたが、鮮明過ぎる月光で勢い良く上半身を起き上がらせたその子の表情が分かった。
意外過ぎるものを見たように、目を限界まで見開き本当に呆気に取られていた。
確かに急に声を掛けられて、こんな不躾なことを言われたら誰でもこの様な反応をするかもしれない。
一陣の夜風が草を揺らし潮騒のような音を奏でる。
私は、その子の口元が淡く変化するのを見逃さなかった。
そして、それが何故か大きな喜びと僅かな悲しみの中間に位置する表現だと理解する。
恐らく、それに題名をつけるとしたら『郷愁』といったところか。
そのように形作った理由はさっぱりわからないが。
「───ふうん。蹴り飛ばされるって、誰に?」
「馬鹿ね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
悪戯っぽい問いかけに、私は腕を組んで自信たっぷりに答えてやった。
そんな事は自明の理ではないかなどと勝手な事を考えていたのは、酔っていたからだということで許してもらいたい。
ただそんな酔っぱらいの私でも、その反応が薄いことには不審を覚えていた。
どうも何だかぼんやりした感じだし、大丈夫だろうか? などと、自身を棚上げして思った。
言葉に、ぜんまいが切れた人形のように動きを止めて呆然となっていたのである。
風鳴りが途切れ、演劇の間のような静寂が僅かに流れる。
が、次の瞬間
「は─────」
詰めていた息を吐き出し、その子は顔をくしゃりと崩した。
堪え切れ無いというように、身体をくの字に曲げ腹を抱えながら震え始める。
何かの持病が突発的に発症し苦悶しているのかとも見え焦ったが、息も絶え絶えに引きつった高い声を上げているのを聞き、それが爆笑だと気がついた。
一体何がそんなに可笑しいのか、理解不能だ。
暫くその様子を呆れながら眺め、私は段々と腹が立ってきた。
こちらが分らない理由でそこまで笑うなど、全くもって失礼である。
文句の一つでも言ってやろうとして───だが、すぐに思い止まる。
その頬を伝うものを認めてしまったばっかりに。
どうして心底笑っているのに、この子はそこまで悲しそうな涙を流せるのか。
明らかに情緒が不安定に見えた。
虚空に響く陽気な高い笑いが今の幽玄な世界にあまりに不釣合いに思えて不気味で、不安にもなる。
この時には、怖いもの知らずを後押ししていた酔いも大分醒めてきていたのだ。
「ちょっと───」
「………ああ、ごめん。こういう事ってあるものなんだって、ちょっとびっくりしてね。そりゃあ、奇跡なんて掃いて捨てるほどこの世に有り触れているのは知っていたけど」
一頻りの笑いを漸く収めて濡れた目元を袖で拭い、幼く無邪気な微笑をこちらに向けた。
意味が分からない。
分からないけれど───その儚い笑顔は、ちょっと、どうなんだろう?
顔が熱いのは、これ、きっとアルコールのせいじゃない。
いや、待て、待て。
私には、そんな趣味は無いはずだ。
ああ、申し訳ありません、神父様。
決して心が揺れてたとか、そんな事は一切無いですから。
ええ、そりゃもう、主に誓ってそのような事は決して。
私は、そんな撃沈されかかった心の慌てふためきを表面に出さないように苦労しながら、睨むように眼に力を込めた。
結局、顔は逸らしてしまったが。
「あー、その………要するに君、お月見でもしてたの?」
「いや、違うよ。見てたんじゃなくて、行こうとしてたんだ。そうしたら、少し目眩がしたからここで寝転がって休んでたって所かな」
「は? 行こうって、何処に? まさかと思うけど、あそこに?」
「そう。あそこに」
巫山戯半分で指差した方向に、神妙な顔で頷かれてしまった。
つまり、私は夜空に粛々と鎮座するお月様を差したわけで………。
何か私の方が勘違いしているのだなと、この時は考えた。
話している相手が正気じゃないなんて怖かったから、自分を誤魔化したとも言える。
「ふ、ふーん。まあ、良いけどさ。こんな所にいつまでも居ると風邪をひくと思うよ」
「もう少し休んだら行くから、心配しなくてもいいよ。えーっと………」
「私はギャブリエル。ガビーって呼んでくれていいわよ。君は?」
怪しくはあったし、関わったらどうにも厄介そうな子だなと思ったが、私はちゃんと名乗ることにした。
先程の笑顔が頭にちらついていたせいもある。
それで、むこうも一つ頷いて名乗ってくれたのだが、聞き慣れない発音に私は戸惑った。
「え? ちょっと、良く聞き取れなかった。トゥーシェイキイ?」
「うーん、少し違う。名の方だけでいいから」
「名って………どれが?」
「後半部分。シェイキィって言ったように聞こえたけど、そうじゃなくて───」
「ああ、シェイキィね。随分と変な名前ね。英語?」
正直な感想に、むっとしたように眉を寄せ少し不服そうな顔をしていた。
でも私は、変な名前だと思うし似合ってないようにも思えるのだ。
それとも、仇名か何かだろうか。
私が首を傾げたのを見てか、シェイキィは諦めたかのように溜息をつきつつ苦笑いをした。
「もう、それでいいや。ところで、ガビー………だっけ? 何でそんな格好してるのかな。そういう趣味なの?」
「………趣味って何よ。見て分らない? 本物の修道女(なのよ、私。今は、ソルスティスの教会に務めてるってわけ」
私は、踊るようにくるりと回って修道服を見せつける。
スカートが想像通り、花開くように広がった事に満足した。
機会が無かったから、一度人前でやってみたかったのだ。
修道院でこんな事やったら、多分懲罰を受けた上に有り難いお説教を一ダース位受けることになるだろう。
村の人達の前では体面上できないし、ましてや神父様の前でなんて私自身がしたくない。
だから、私としては結構勇気を出してやってみたことなのだが、あまり受けはよくなかったようだ。
というより、殆ど無視されて怪訝な表情をされただけだった。
「え? 本当に? ああ、でも、そうか。修道女(って言っても色々いるしなあ」
「何か凄く失礼な言いようね。君には私が、どう見えてたってわけ?」
「そりゃあ、酔った勢いで修道女(のコスプレでもしてた、少しヤバめの女の人って感じかな、正直」
「フ、フフフフフ………言うわね。ガキのくせに」
そんな可愛い顔で、なかなか直球な事を仰る。
効果音付きで、額に青筋が浮き上がったのを自覚する。
確かに、酒の匂い漂わせた女がこんな夜更けにフラフラ歩いてたら、そんな風に思われても仕方ないかもしれない。
でも、もう少し婉曲な言い方というものがあるだろうに。
目上の人間に対する態度がなってないなこの子は、と自分でも大分きつくなっていると分かる目付きで睨みつけた。
鈍そうに見えるが、流石にこれには気がついたのか、シェイキィは慌てて誤魔化すように手を振った。
「ああ、でも俺が知ってる修道女(って半分人間じゃ無いみたいのとか物騒な銃や剣振り回したりする人達だったから、それに比べればガビーは大分マシだと思う」
「どういう言い草よ、それ。そんな訳の分からないのと、比較しないでもらえる? それに、デリンジャーくらいだったら懐に入ってるけど?」
「げ───本当に?」
「当たり前でしょ。それくらい、淑女の嗜みってやつよ。女ってのは、いつ良からぬ狼に襲われるか分からないんだから」
………と、実はこれ、村一番のお菓子作りの名人であるマリーおばあちゃんの受け売りである。
マリーおばあちゃんとは、私の事を何故か昔から気に入ってくれて私もまた本当の祖母のように慕っている、有り難くも頭が上がらない存在だ。
何と言っても、村で唯一私が猫を被っても通用しない相手なのだから只者ではない。
この人が作ってくれて時々差し入れてくれるお菓子は本当に絶品で、特にオレンジピール入りのクグロフを私はアルザス一だと思っている。
しかし、今でこそ品の良い穏やかな老婦人で通っているそんなマリーおばあちゃんであるが、昔は相当無茶をした愉快な人だったらしい。
何でも、私に譲ってくれたこの年代物のデリンジャーはおばあちゃんが若かりし頃に恋人から貰ったもののようで、おばあちゃんはその人と一緒に夢物語のような活劇を繰り広げたんだとか。
尤も、嬉しそうに語ってくれたその時の事を聞く限り、私には数字のコードネームを持った謎装備満載の特殊工作員の話みたいだなと思えたくらいなので、大分脚色が入っているのであろうが。
シェイキィは、胸を張ってそう言った私に呆れたような視線を向けてから大きく息を吐きつつ俯いた。
我が身の不幸を慨嘆しているようでもあるが、どういう訳か少々楽しげでもあった。
「まったく………何で、俺の周りってこういうのしか寄ってこないんだろうな。日頃の行いは、それなりに良いつもりなんだけど」
「修道女(の前で、そんな事抜け抜けと言える神をも恐れぬ厚顔さが悪いんじゃないの? ま、色々言いたいことはあるけど、そろそろ帰った方が良いと思うよ。何処から来たんだか知らないけどさ」
「いや、そうしたいのはやまやまなんだけど…………」
途方に暮れた幼子のような瞳をこちらに向けて、シェイキィは言い淀む。
そういう顔は、出来ればやめてもらいたい。
何だか、その柔らかそうな髪を撫でてしまいたくなる誘惑に駆られてしまうじゃないか。
私は、意識して仏頂面を作り不機嫌そうな低い声を出す。
「なに?」
「言い辛いけど………何処から来たとか、自分の事がさっぱり分からないんだよね。ただ何となく月に向かわなきゃって考えてて、いつの間にかここに居たって感じで………」
「はあ? でも、さっき自分の名前は言ってたじゃない、君」
「うん、名前は憶えてたけど。後のことは、夢の中の出来事みたいに曖昧で。断片的に時々記憶が浮かぶけど、どうにもいまいち繋がらない。ちょっと困ったね、これ」
肩を竦めながら軽く言われたから、一瞬それ程大したことじゃないのかと思えてしまう。
しかし、善く善く内容を考えてその深刻さに驚き、シェイキィの呑気な態度に私は呆れた。
「ちょっと困ったねって………要は、本当に記憶喪失みたいなものって事? しかも、迷子って………こういう場合、何処に連れて行けばいいのかしら? 病院? 警察?」
「それは、どっちも勘弁してもらいたいな。身動き取れなくなると、目的が果たせなくなる。時間もあまり残ってないだろうし…………」
「目的って、月に行くっていうのが? あのさ………一応、言っておくと───」
「ああ、言いたいことは分かるよ。これでも、一応それなりに常識は備わっていると思うし、信じてもらえないかも知れないけど正気のつもりだから。それでも、どうしてもそこに辿り着かなきゃならないって衝動は消えてくれない。我が事ながら、どうしたものかって目下悩み中」
それなりに渋い顔をして考え倦ねているようには確かに見えるが、どうにも論点がずれているように私には思える。
幾ら悩んだところで、それは解消されることは無いし解決手段もあるまい。
私が知る限りでは、某超大国の宇宙開発局だって今は月へ行くことはしてなかったんじゃなかったか?
昔から今に至るまで、あれは地に足をつけて浮かんでいる美しい様を愛でるものなのだと個人的には思う。
多分、この子は記憶の混乱で何らかの比喩を勘違いして捉えている可能性があると私は考えつく。
本人が言うように、一応は正気に見えるし。
となると、その状態を何とかする方が先決だろう。
「とりあえず、持ってる物全部出してみせて」
「え? 何で? まさか、今更追い剥ぎ?」
「そんな訳無いでしょ! いいから、出す! 何か身元分かる物があるかも知れないじゃないの。自分で、ちゃんと確認したの?」
失礼な言われように思わず怒鳴ってしまった私の剣幕に圧されたように、シェイキィは慌ててポケットやら懐やらを探る。
丸っ切り手ぶらに見えたから、出てきたのはほんの僅かなものだった。
薄っぺらな財布と、眼鏡と、小さな鉄の棒、首元にマフラーのように巻いていた布切れ。
それを、恐る恐る差し出してくる。
いや、それじゃあ本当に私が追い剥ぎでもしている気分になるから。
でも、とにかく、ひったくるようにそれらを受け取って注意深く調べることにする。
「財布の中身は………しけてるわね、5ユーロも無いじゃない。カード類も無いし、他にも君の事が分かるような物も………これ、眼鏡って事は、目が悪いの? 今は、コンタクトでもしているとか?」
「眼が悪いというか……そういえば、どうも頭がぼうっとすると思ったら視え過ぎてたせいかな」
微妙に意味が通らないことを言いながら、手振りで物色している私に眼鏡を返すように要求してきた。
手渡したそれをシェイキィが素早く掛けると、ただでさえ幼い顔がますます幼く見えた。
少々先程よりすっきりした表情なのは、視界が鮮明になったせいなのだろう。
それにしても、自分が眼鏡していた事まで忘れていたというのか。
態度があまりに平然とし過ぎているからいちいち分かりにくいが、思ったよりも重症みたいだ。
「この鉄の棒は何なのかしら? 何か刻まれてるみたいだけど、模様───って、わ!?」
私は、弄りまわしている内に何処をどう触ったせいか分からないが、その鉄の棒から軽い金属音と共に急に出てきたものに驚いた。
ほぼ同じ長さの、鋭い刃が飛び出てきたのだ。
心臓の鼓動が速くなっているのを自覚しつつ、憤慨してシェイキィを睨みつける。
危うく指を切ってしまうところだったのだ。
「ちょっと! ナイフだったらナイフって教えてよ! それとも、これも忘れてたっていうの?」
「あ、いや────」
乱暴に振ってみせたナイフにシェイキィは不意を突かれたように呆然となり、まじまじと見詰めてくる。
その反応に、やっぱりこれがナイフだという事が分かってなかったということなのかと気が付いた。
勢いで責めてしまったことを、私は少し反省した。
奇妙な沈黙が流れ、遠方からの夜鳥の鳴き声だけが一際響く。
気まずくなり、私は意味もなくそれを夜空に翳した。
月光に、刃の部分が妖しく煌いた。
私はそれを、結構綺麗だなと何気なく考えながら眺めた後、僅かな間で視線を戻し
「え…………?」
───目の前の雰囲気が一変していた事に慄然とし声を詰まらせる。
先程まで少々気弱そうだったシェイキィの穏やかな眼鏡の奥の瞳が、細く絞られている。
それは、何故か何の感情も読み取れない機械のようなものになっていた。
瞬間、淡く幽かな蒼い光を不気味に発したように見えたのは果たして錯覚だったのか。
闇の中に残光のように浮かぶ二つの輝点が向けられ、私は金縛りにでもなったかのように恐怖で硬直する。
自然と脳裏に浮かんだのは、巣に囚われた哀れな獲物へ無情にも迫る巨大な蜘蛛という馬鹿げた妄想。
私は悲鳴を上げることもできず、頭の中が真っ白になり───
「ごめん。今、思い出した。確かに、それは危ないよな。返してもらえるかな?」
だが、微笑みと共に発せられた柔らかな声の響きに、あまりに凶々しいこの気配は一瞬で嘘のように霧散した。
私は、悪い夢から急激に目覚め周囲が鮮明になっていくのに似た感覚を覚える。
「え、ええ……………」
ぎこちなく頷き、差し出された手に刃が出たままになっているそれを乗せる。
心にほんの少し、これをこのまま返してしまっていいのかという躊躇いが浮かんだが、誤魔化すようにそれを打ち消した。
そう───今のはアルコールの残滓が見せた気の迷いに違いないと考え、私は精神の均衡を取り戻す。
背中に冷たく貼り付いたままになっている汗は、無視することに決めた。
「そ、そうだ。その、刻まれているやつに見覚えとかはないの?」
「ああ、これ? えーっと………」
慣れた様子でぱちりと刃を手早く収めながら、シェイキィは柄の部分を指差し困惑したように首を撚る。
私は、動揺のままにした質問に大して期待などしていなかったが
「ナ───そうだな、こっちの言葉に直すと七つの夜(か七番目の夜(という感じになるのかな? このナイフ自体の名前だよ、これ」
と、あっさり答えられたことに少々意外さを覚えた。
何かの装飾にしては確かに乱雑に見えたが、それは文字か記号であったということか。
「随分と詩的な言葉ね。どういう意味合いなの?」
「さあ、そこまでは………あまり意味なんて無いのかもしれない」
シェイキィは何故か肩を竦めて、自嘲するように言う。
浮かんだ虚無感を漂わせる表情に、私は嫌な予感がして方向を変えて問いかける事にした。
「でも、とにかく君はそれが読み取れたということだよね? それで何か少しは思い出したりしないの?」
「今見てる様な光景を、何処か他の場所でも見たことがある事くらい───かな? ほんとうに、よくおぼえてないけれど」
憧憬を寄せるような視線を、シェイキィは月に向けた。
それが一際幼い表情に見えて、私は胸を突かれる。
まるで独りぼっちで取り残された迷い子のようだなと、改めて思う。
寂しさに耐えかねて今にも泣き出しそうなのに、それに耐えて微笑んでいる
あるいは、その事実を受け入れながら尚も楽しいことはあるのだと強情を張る。
そんな、哀れで悲しい子供に見えてしまった。
もしかして………本当に月から落ちてきて地上にただ一人で残ってしまった子なのではないかと、柄にもなくメルヘンな想像を私はしてしまう。
「よし! 決めた! 君、教会に来なさい。その調子じゃ、どこかで野垂れ死ぬのは目に見えてるし。そうなると、私の寝覚めが悪いからね。何より、一応神職の身にあるから迷っている子なんて放っておけないわ」
「え? いや、いいよ。それに、もう行かなきゃならないし。好意は嬉しいけど───」
「いいから、来なさいっての。もう少し落ち着いて、自分の事を思い出したほうが良いわよ、絶対。大丈夫、警察にも病院にも連れていかないから」
「でも───」
言い募るつもりで立ち上がろうとしたシェイキイは、足を縺れさせて尻餅をつく。
今の一動作だけで、全力を使い果たしたかのように荒い息をついている事に、私は驚いた。
夜更けとは思えない程に明るかったとは言え、月光では流石に気がつかなかったのだ。
この子………顔が土気色になってるし、大分弱ってる?
「ちょっと!? 君、大丈夫!?」
「大した事無いよ。慢性的な貧血でね。時々、目眩起こして倒れるぐらいだから。ほんと、もう少し休めば大丈夫………」
「そんなの聞いたらますます放っておけないわよ! 病院に連れていかないって言ったの無しね。こうなったら引っ張ってでも───って?」
獣が唸るような音が大きく響き、慌てて肩を抱えようとした私は動きを止めた。
いや、今のは、大きかった。
シェイキィは俯いて、バツが悪そうにお腹を抑えていた。
「念の為聞くけど………君、何日くらい、食べてないの?」
「あ、えーっと…………三日ぐらいになる………のかな───っつ!?」
無言でひっぱたいたのに、シェイキィは頭を抱えて涙目になる。
その時の私の表情は、神の子に死刑を言い渡した総督ピラトのようであったと自分では思う。
「も・う・一・度・訊・く・け・ど、教・会・に・来・る? オニオンのスープだったら、まだ結構残ってるけど」
耳元に口を寄せ、一字一字区切るように私は言った。
シェイキィは、オニオンのスープというのに触発されたのか、鳴り止まなくなった腹の音に観念し力無く項垂れていた。
「……………はい、行かせて頂きます」
うん、素直で宜しい。
私は、シェイキィに肩を貸してふらついている身体を立ち上がらせる。
背が殆ど変わらないから、然程苦労することは無さそうだが、ここから教会までこの状態で戻るのは結構難儀だ。
心の中で気合を入れ直し、歩き出す。
この状況を誰かに見咎められるという心配を自分がしなかったのは、後から考えると不思議だった。
こうして私は、シェイキイを拾った。
まあ、餌付けしたのだとも言えなくもない。
放っておけなかったのは事実だが、教会で独り寂寥を抱えていた私にとってこの子と居る時間はとても楽しい。
一応、恩義を感じてくれているらしく、教会の務めに関しても骨惜しみなく手伝ってくれるのも助かる。
つまり、事あるごとに出て行こうとするこの子を何度も引き止めたのは自分の為でもあったのだ。
勿論、未だに碌に何も思い出さないのでは話にならないとちゃんと考えてもいたのだが。
だから、その後に巻き起こった数百年の平穏を打ち破り村を滅茶苦茶にした騒乱は私のせいでもあるとも言える。
幾人もの外部からの異常な来訪者のせいで、それは起こった。
しかし、その中心にあったのは間違いなく、この穏やかで呑気そうな陽だまりの中の小犬を連想させるシェイキィだったからである。