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No.24979の一覧
[0] サリエルを待ち侘びて(Fate After Story オリジナルキャラ有り)[tory](2010/12/18 12:21)
[1] サリエルを待ち侘びて Ⅰ[tory](2011/07/16 00:35)
[2] サリエルを待ち侘びて Ⅱ[tory](2011/02/26 21:28)
[3] サリエルを待ち侘びて Ⅲ[tory](2011/08/02 23:45)
[4] サリエルを待ち侘びて Ⅳ[tory](2012/10/27 22:28)
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[24979] サリエルを待ち侘びて Ⅲ
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/08/02 23:45



 ───要するに、ただの間が悪い『偶然』に過ぎなかったのだ。
 
 彼、ジョルジュは壮年のトラックの運転手である。
 勤続年数は、十五年と八ヶ月。
 それ以外の職に就いたことはなく、その風貌は如何にもな感じでなかなか厳つい。
 190センチ近い長身に屈強な体格。
 眼窩に落ち窪んだ鋭い眼。
 高い鼻柱に、せり上がった額。
 眉間に、常に不機嫌そうな深い皺の跡。
 と、このように大抵の場合まず喧嘩を売られることはない見事な強面だ。
 お陰で、良くちょっとした暴力沙汰(具体的に言うと酔っぱらいの喧嘩など)の仲裁に駆り出されることが多い。
 何しろ、少し睨みつけるだけで殆どの相手は怯む。
 付け加えるならば、発せられる声も地を這うように低く野太い。
 だから、実際のところそんな外見とは裏腹に彼が極めて気が小さく、お人好しで、誰よりも諍いを嫌う優しさに溢れる人物だと知る者は殆どいない。
 親しい友人、両親、最愛の妻、子供達といった極々近しい家族もしくは家族同然の僅かな人々だけがジョルジュの本当の性格を理解している。
 何故そのような本来の人格がまるで知られていないかというと、彼がどちらかというと無口で自分を表現することに不器用だという事に起因していた。
 要するに、誤解されやすいのだ。
 ついでに言うと、運もかなり悪い。
 そのせいか、大袈裟にして尾鰭がついた風評が立つこともある。
 無論、全部が全部出鱈目ばかり。
 それは、例えばこういうものだ。
 
 曰く、片手一本でマフィアの用心棒すら務めるプロの格闘家を病院送りにした。
 
 ───実際は、相手が大分酔っ払っていて勝手に転んで気絶したのである。彼が、話せば分かるというジェスチャーのつもりで慌てて手を突き出したのに対し、相手がタイミング良く倒れたので、見ていた者たちが妙な曲解をしたのだ。
 
 曰く、熊を凝視することで追い払い、それだけでは飽きたらず素手で仕留めて食べ尽くした。
 
 ───実際は、バカンス先で運が悪いことに熊に遭遇し、恐怖で固まっていたら勝手に熊の方が何処かへ去っただけの話。後にハンターにより熊は仕留められ、そのハンターに熊料理を振舞われたが彼は熊が哀れで食べることが出来なかった。
 
 曰く、ストライキの時に警官隊と衝突し、怒りに任せて十数人をまとめて薙ぎ倒し血の雨を降らせた。
 
 ───警官とストライキを敢行した輸送業者の組合員達の興奮した揉み合いに巻き込まれただけである。血の雨どころか、こちらが何かの拍子で殴られ鼻血を出した。

 曰く、懐から豹を飛び掛かからせた。
 
 ───意味不明である。懐に豹など入るわけがない。

 曰く、懐から鰐が這い出てきた。
 
 ───全く理解出来ない。鰐も入らないと思う。

 曰く、懐から無数の鴉を羽ばたかせた。

 ───自分は運転手であって、手品師ではない。

 曰く、懐から象が突進してきて車を粉砕した。
 
 ───ここまで言われると、溜息しか出てこない。何故、人間動物園扱いされなければならないのだろう。

 曰く、懐から巨大な怪物の脚らしきものが……
 
 ───いい加減にして欲しい。荒唐無稽にもほどがある。

 ただ、これら生き物関係の怪談じみたものは十数年前の一時期だけの噂だったのだが、身に覚えがなさすぎて未だ彼には謎だ。
 もしジョルジュに非があるとしたら、これらの誤解を解くための努力が不十分だったというところにあるだろう。
 しかし、彼にしてみれば元々が口下手なのにどう説明したらこれら馬鹿げた噂を否定出来るか見当がつかなかったのだ。
 本気で弁明するのもどうかと思ったので。
 まあ、多少は好都合だと考えた部分もある。
 自分のままお人好しに振舞い舐められると酷い目に遭うというのを、経験として知っていたからだ。
 それだったら、誤解でもまだ怖がれていた方がましだ。
 大切な人にさえ、自身がちゃんと理解されれば問題はない。
 実際、ジョルジュは今の姿形とは似ても似つかない、まだ小柄だった幼い頃によくいじめられていた。
 故に、彼をこのような見た目に成長させてくれた神に大いに感謝すらしていた。
 気弱で不器用な自分が世間で生きやすいように配慮してくれたのだと。
 そう───ジョルジュは素朴にして敬虔なカトリックの信者でもある。
 日曜のミサへ家族と共に行くのを欠かしたことが無いのは言うに及ばず、それ以外でも頻繁に教会に訪れる。
 ジョルジュにとって信仰は生きて行く上で不可欠なものである。
 もし幼馴染の現在の愛妻の存在がなければ、間違いなく修道院にでも入っていたと思う程に。
 つまり、そんな彼が難儀にあって往生していた神職の者を見過ごすことなど出来なかったのは道理だった。
 例え、それが彼に危難を訪れさせる者であったとしても。
 本当に彼は、色々と運が悪かったのだ。

 
 殆ど車通りがない県道を、のんびりとジョルジュが走っていた時の事だ。
 その日、季節特有の快晴の透き通った青空が見渡す限り道の果てまでどこまでも続いており、彼の心は自然と軽かった。
 何事も無く順調にいけば、これから向かう荷物の受け渡し先である目的地カールスルーエへの到着時刻は予定より大分余裕がある。
 最近少々機嫌が悪かった愛車であるルノーのマグナムも、要因は不明ながら快調に轟くエンジン音を不安無く響かせていた。
 この大型トラックは、箱を二つ縦に並べたような奇抜なデザインの為か比較的車高が高く、またフロントガラスの範囲が広い。
 つまり、ドライバーにとってありがたい事に視界が非常に良好であるのがジョルジュが気に入っている点の一つだった。
 この時もそのおかげで、かなり遠い位置からそれに気がつくことが出来たのである。
 
 片側一車線の両側に鬱蒼と雑木林が広がる道の途上、路肩に白煙を上げた車を停めつつ成す術なく佇んでいたのは、華奢で小柄な姿だった。
 恐らく、エンジンがオーバーヒートでもして動かなくなってしまったのだろうか? と、ジョルジュはその状況に遠目で見当をつけた。
 さて、彼の性格としてはこのように困っているだろう者を前にして知らぬ振りで通り過ぎるのは難しい。
 とは言え、過去の経験から少々の躊躇も心を占める。
 かつて、不運な事に全く同じような状況で無警戒に相手を助けようとしたら強盗だったという出来事があったのだ。
 車のトラブルを装い、それを助けにきた人物を隠れていた者達が銃で取り囲み所持している金品を強奪するという手口だった。
 あの時は幸い荷物が空の帰路途中で財布を取られたぐらいで済んだが、本当に命が助かった事は僥倖だとジョルジュは後に涙を流して神に感謝したものだ。
 少ない収穫しか無かったことに、強盗達が腹立ち紛れで自分を殺すことも充分にあったからだ。
 だから、そのトラウマと困っている者を見過ごせないという想いの二律背反にジョルジュは一瞬懊悩したわけだが………距離を縮めしっかりと確認できたその人物の扮装で、天秤は即座に一方に傾いた。
 明らかに修道服を着ていたからである。
 しかも、かなり歳若く見える女性………つまり修道女スールということだ。
 このような相手では、信徒としても自身が男であるという点でも放って置ける訳もない。
 神に仕える者を助けるのは信仰を持つ者として当然であるし、男が困難に直面している女性に手を貸さないということも彼の価値観からは有り得ない。
 少なくともジョルジュは両親に、特に父親に、そう言い聞かせられて育てられた。
 威圧的にならぬよう配慮しながら、徐々にスピードを緩めて車体をその修道女スールの近くで停止させる。
 こちらに向けた彼女の顔は、穏やかながらも強い意志が容易に垣間見えるほど凛々しく端正な造形だった。
 蒼穹の青空と樹々の深緑を背景に屹立する修道服を纏った姿に、まるで荘厳な宗教画に描かれた聖女を既視感と共に連想する。
 端的に且つ下世話に言えば、滅多にお目にかかれない程の美人だ。
 尤も、ジョルジュにとっては妻以外の女性への評価自体あまり自信がないが。
 声を掛けるためにパワーウィンドウを降ろした後、渇いた音を響かせるエンジンを切る。
 
「ご機嫌よう、修道女様マ・スール。どうやらお困りのようですが、私で宜しければ何かお助けできることはこざいますか?」

「暖かいお心遣い感謝致します、ムッシュ。お恥ずかしい話なのですが実は…………って、え───」

 ジョルジュの真摯な言葉に、貞淑を旨とする修道女スールらしく彼女は粛々と頭を下げる。
 しかし、改めて見上げる形で顔を上げてジョルジュと視線を合わせた途端に絶句していた。
 眼鏡の奥の澄んだ蒼い瞳が見開かれ、丸くなる。

「ネロ・カ…………!?」

「は? え?」

 瞬間で正視し難い程に厳しい表情に豹変した彼女に、ジョルジュは訳が分からず狼狽し言葉を詰まらせた。
 背筋に冷たいものが走る。
 何故か、銃口を突きつけられたような恐怖を感じ身体が固まった。
 初対面の女性に面相で怖がられてしまうのは慣れているが、これは一体………?
 が、───やがて息苦しくなるほどに緊張した空気はすぐに霧散する。
 何かに気がついたように言葉を止め、修道女スールの雰囲気が穏やかなものへと急速に戻ったからだ。
 彼女は一度咳払いをした後、再度深々と頭を下げた。

「あ、いや、大変失礼致しました。実は、えー………あまり、良い気分では無いかもしれませんが、亡くなった知人に貴方がとてもよく似ていたので」

「あ、ああ、そうでしたか」

 こちらが恐縮する程に本当に申し訳なさそうに言う彼女に、ジョルジュは緊張を解いてぎこちなく頷く。
 なるほど、そういう事もあるのかもしれない。
 そういえば、過去に何度か全く知らない人々から全く知らない名で呼ばれたこともあったのを彼は思い出す。
 確か、世の中には良く似た顔の人間が三人はいるらしいというのを聞いたことがあるし。
 しかし───自分によく似ているというその人物は、このく修道女スールにとってどんな相手だったのか。
 今の剣呑な雰囲気から考えると、とても尋ねる気にならない。

「………まあ、どうかお気になさらずに。それよりも、ここから見た感じですとその車───」

「はい。色々手を尽くしてみましたが、駄目でしたねえ。どうやら、天に召されてしまったようです。任務に使うからなるべく頑丈な車を用意しろと言ったのに、ちょっと無茶したらこの始末でした。全く………最近、私に対するサポートが特に杜撰なんですよね。ま、嫌がらせには慣れてますけど」

「はあ………」

 困ったものです、と腰に手を当てつつ溜息をついて呟く修道女スールに、ジョルジュは馬鹿みたいに相槌を打つしかなかった。
 今も車体前部から煙を棚引かせているのは、空色の車体の角張った形をした古い年代のボルボだった。
 それだけならばエンジントラブル等なのだろうと思うのだが、善く善く見ると側面部が何かに激突したように大分へこんでいたり、ミラーが取れかかっていたり、テイルランプが無惨に割れていたりするのが気になる。
 無茶といっても………一体、どういう無茶をすればこうなるのだろう?
 つまり、このく修道女スールはもしかしたら運転が極端に下手なのか?
 いや………車体の至る所に穿たれた穴が見えるが、あれはもしかして弾───

「その………ご覧の通りなので、出来れば行けるところまで同乗させて頂ければ有り難いのですが。勿論、充分な謝礼は致しますので」

「あ、ええ、はい。実は、こちらからそう申し出ようと思っていたところです」

 照れくさそうにはにかんで言う彼女にジョルジュは慌てて答える。
 一瞬の不審が目眩と共に消える。
 そう………自分は過敏になって何か想像力を逞しくしてしまったのだろうと彼は思考を切り替えた。
 このようなく修道女スールが、派手で荒唐無稽な映画でしかお目にかかれないような事に関わっていよう筈もない。
 とにかく今は、この難儀している不運な彼女の期待に応えなければ。

「主にお仕えする方をお助けするのは、信徒の端くれとして当然ですから。謝礼などと言われても逆に困りますよ、修道女様マ・スール。とりあえず、目的地は何処なのでしょうか?」

「はい、ソルスティスというコミューンです。アルザス地方なんですが、ご存知でしょうか?」

「ああ、それなら丁度良かった。通り道です。かなり近くまでお送りすることが出来ますよ」

 ジョルジュは、言いながら安心させるつもりで自身では最上のものと信じる笑顔を浮かべる。
 だがそれは、極々限られた彼の身内にしか通じない類のものだ。
 口元はどう見ても不敵に歪んでいるし、瞳は大抵の者が圧迫感を覚えるような輝きを放っている。
 端的に言うと、完全に逆効果だった。
 だから、対するこのく修道女スールが穏やかな微笑を保っていたのは、ある意味只者では無い証拠だったのかもしれない。
 例え頬が少々引き攣り、思わず手を懐に伸ばしかけたとしても。


 陽光と青空に映える低木と牧草地の広がり。
 時折見える、申し訳程度の疎らな建物。
 そのような長閑な風景に差し掛かり緩やかなカーブ以外はほぼ一直線である起伏のない田舎道を、トラックは一定の速度でひた走る。

「それで、私の上司が何て言ったと思います? 『お前に回せる余剰の手は、例え子猫のものだろうともはや無い。そもそも、お前に車など必要無いだろう。さっさと目的地まで走れ。父と子と聖霊の御名において、今度こちらにこのような下らん要請をして手を煩わせるような真似をしたら千の苦痛と万の断罪の後に速やかに八つ裂きにするから、そのつもりでな』ですよ!? 性格が破綻してるにも程がありますよ、本当に! そうは思われませんか、ジョルジュさん?」

「はあ……………」

 助手席に座った憤慨して捲し立てる彼女に、ジョルジュは訳が分からずもハンドルを操作しながら曖昧な表情で頷く。
 元々気の利いたことなど言えない彼であったが、何よりもその内容がいまいち理解し難く言葉を濁さざるを得なかった。
 とても教会に属する者とは信じられない物騒な言い回しだったからだ。
 それとも、何か聖職者特有の暗喩に満ちた言葉なのだろうか?
 その後に続いた彼女の『何も結界施術された移動要塞やMBTを持って来てくれと言ってるわけじゃないんですから、特殊車両の一台や二台手配してくれても良いじゃないですか』という小さな呟きは、さっぱり意味が解らなかったが。
 何にしろ、あそこで立ち往生した際にこのく修道女スールは自身を派遣した教会に現状を報告したら相手にされなかったというのは事実らしい。
 彼女の言う通りだとしたら、確かにその上司とやらは間違いなく酷薄だ。
 第一、あの場所から徒歩でソルスティスに向かうのはどう考えても無茶である。
 50Kmは優にあるし、大体彼女は全部合わせたら100Kgは超えるだろう荷物を自分の車に積んでいたのだ。
 
 その殆どは、ほぼ鉄の塊同然の鎖を巻きつけられた立方体………どこか神秘的で畏怖すら覚える、過剰に装飾が施されたパンドラの箱じみたケースだった。
 それを荷台に積み替えるのにジョルジュは結構苦労した。 
 まあ、大型冷蔵庫よりは重くなかったし一人で持てないこともなかった。
 何の冗談か、持ち運び用の取っ手もケースに付いていたがこれを気軽に持って歩く人間など居ないだろう。
 ましてや、このか弱げにすら見えるく修道女スールには微塵も動かせるとは思えない。
 それは自分で積みますなどと彼女は遠慮がちに申し出たが、ジョルジュはその社交辞令に大丈夫ですよ任せてくださいと笑顔で答えた。
 それでも不安げな表情をされたので、彼は安心させる為に仕事で鍛え抜かれた腕で力こぶを作ってみせたら何故かますます複雑な表情をされたが。
 これが何なのかは全く想像がつかないが、このような重量の荷物では積み下ろしも目的地まで辿り着いたらやってやらなければならないだろう。
 それはほぼ正規の運送の仕事に等しかったが、仕方ない事だとジョルジュは腹を括った。
 
 修道女スールは、シエルと名乗った。
 正直、随分と珍しい名だとジョルジュは感じる。
 洗礼名とも思えない。
 だがくシエルとは、その雰囲気が清廉で柔和なこのく修道女スールにはぴったりだと自然と納得した。
 シエルが同乗してからの道中の会話は、他愛もないものに終始した。
 彼女は屈託なく良く喋る。
 それだけでも、ジョルジュが知る静謐を旨とする修道女スールとは相当違う。
 が、決して不快ではないのはその柔らかな口調と品のある穏やかな雰囲気故にだろう。
 ジョルジュも訊かれるままに、色々と自身の事を喋った。
 仕事について、故郷について、家族についてと言葉少なにぽつりぽつりと。
 特に、幼馴染である妻とどうして結婚に至ったのかという事に対してシエルは好奇心のままに目を輝かせ訊いてきたので、赤面しながらも出来るだけ詳細に話したら

「ははあ、そんな経緯が───なかなか、ロマンチックで素敵なお話ですね。率直に言うと、少々妬ましいくらいです」

 などと嬉しそうに目を細めて返されたので、ますます恥ずかしくなった。
 それを誤魔化すために話を変え、ジョルジュの方もシエルに対してどういう理由でソルスティスに向かっているのかと尋ねる。
 彼女がその質問に対して絶やさない笑みで答えてくれたところによると、無論観光目的などではなく臨時でそこの教会に着任する為に向かっていたという事のようだった。
 何度か仕事の関係でそこに訪れたことがあるとジョルジュが遠慮がちに話すと、天真爛漫な仕草でシエルは興味深げに村の印象を訊いてきた。
 ジョルジュはソルスティスの風光明媚な様を思い返し、訥々と答える。
 
「そうですね………良い所だとは思いますよ。牧歌的でありながら、洗練された美しさを持つ村かと。ただ………」

「ただ?」

「あくまで私個人がですが………決して住みたいとは思えない所でしたね。何というか………上手く表現できないのですが、空気が澄み過ぎてるとでも言えばいいんでしょうかね? まるで凌明や黄昏の最中の雰囲気に村全体が常に包まれているような………もしかしたら、自分のような俗な人間には似つかわしくない場所だからということなのかもしれませんが」

 横目でちらりと見たシエルが、意外そうな表情をして目を瞬かせているのが分かった。
 全開に開けられた窓からの風で、彼女の頭に被ったベールのはためく音が耳障りにになるほどの間が空く。

「はあ、なるほど。失礼ながら、見かけによらず結構繊細な方なんですね。なかなか感性豊かで、ちょっとびっくりしました」

「いえ、その………少々衒いが過ぎました。分かりづらい言い方で申し訳ありません、修道女様マ・スール

 本気で感心するような声音で言うシエルにジョルジュは口篭る。
 改めて考えてみると、今のは確かにあまりに大仰かつ無防備な心象の吐露だと気恥ずかしくなる。
 だが、修道女スールからの問いかけだからという事でなるべく真摯に答えたつもりだったので言葉に嘘はなかった。
 二、三度だけ、ソルスティスにいつも行っている者の代わりに緊急で物資の運送をしたのだが、その時に受けた印象がそういうものだったのだ。
 廃村のように陰気で不気味だというのではなく、人が住むには畏れ多いというべきか。
 あの時に連想したものは、敢えて言うならば聖堂のそれだ。
 それに、住民たちがあからさまに他所者に対して閉鎖的なような気もした。
 表面的には笑顔なのだが、その内面には帯電するような緊張した雰囲気を隠し持っているというか………。
 観光に訪れる人達も多いと聞くからもう少し開放的でも良さそうなものだが。
 もしかして、単なる気のせいか何か間が悪かっただけなのかもしれない。
 
「いえいえ、大変参考になりましたよ。実に的確で驚いたというのもあります。ジョルジュさん、周りから鋭いと言われませんか?」

「あ、いや、そんな事は。そもそも、お恥ずかしながら自分口下手な方でして………」

 言い淀むジョルジュの耳に僅かに“徹底してるとは聞いていましたが、そこまでとは……”という彼女の小さな呟きが入る。
 意味は分からなかったが、それは何かに切迫したような真剣味を帯びているように感じた。
 それにしても………人見知りも激しく、言葉をよく吃らせる自分が、今日はやけに気軽に話が出来ていると彼は不思議に思う。
 この修道女スールの人徳であろうか?
 
「ところで話は変わりますが、貴方にとって信仰とは何ですか?」

「はあ? いや、そうですね………日々の生きる上での糧であり、愛そのものです。肉親への愛、隣人への愛、共に大切ですが私にとってそれらは主への愛という大前提のもとで成り立っているものです。俗世にある身ではありますが、そこは忘れることはありません。無論、神にお仕えする修道女様マ・スールのような方々のお覚悟とは比べるべくもありませんが」

 本当にうって変わった問い掛けに、ジョルジュは戸惑いながらもこれ以上無く心よりの言葉で答える。
 しかし、何故このタイミングで?
 話の前後が繋がらなさ過ぎる。
 尤も、修道女スールからしたら当たり前の質問なのかもしれないが。
 その証拠に、シエルの問いを発する顔が異端審問もかくやという能面の如き静謐なものになっているではないか。
 が、やがてそれは何処か苦笑を僅かに滲ませた柔らかいものへと変化した。 

「なるほど、理解できました。やはり、貴方が今時珍しいくらい敬虔な信者だから影響を受けやすかったんですね」

「? と、言いますと」

「すいません、ジョルジュさん。あまりに都合よく貴方が現れた事と合わせてちょっと疑ってしまいまして。余程上手く擬態して私を欺こうとしているのかと。見かけの印象を拭えなかったというのもありますが。まあ、逆に考えたらそんなあからさまである筈ありませんよね」

 私もまだまだ精進が足りませんねなどとシエルは呟き、反省するように溜息を吐く。
 無論、ジョルジュには彼女の話は飛び過ぎて付いていける訳も無く返す言葉も思いつかないで運転に集中するしか無かった。
 しばし、振動を伴う重いエンジン音と風を切る音のみに車内が支配される。
 彼は運転中に音楽をかける事を嫌ったが、こんな気まずさになるんだったら何か用意するんだったと後悔した。
 しかし、こんな噛み合わなさは予想しろと言われても無理だろうし………。
 シエルは、一つ咳払いして重い沈黙の空気を破るように言葉を続ける。
 ただ、彼女がミラーを僅かに鋭い目で一瞥した事にジョルジュは全く気がつかなかった。
 
「いえ………仰るように本当に少々普通じゃ無い場所なんです、あそこ。まあ、後で忘れてもらいますから言いますけどね。私、その後始末に向かってるわけでして」

「あの………忘れてもらう、というと?」

「───申し訳ありません。それも先に謝っておきます。どうしても、そうせざる得なくなりました。そもそも他の組織に関わる話じゃあないのに、何故ここまでしつこいのか良く分からないんですよね、本当に。好意に甘えて結果的に大変な迷惑を掛ける形になってしまいました。でも、貴方にもこのトラックにも毛程の傷も付けませんから」

「───何の話でしょう?」

 ただならぬ物言いに驚いてジョルジュが完全に顔を横に向けると、確かに助手席に座っていた修道女スールが陰も形も無く消えていた。
 彼女が被っていたらしきベールが、窓から入り込む風に巻かれて飛んでいく。
 混乱のあまり、頭が真っ白になる。
 即座に思い浮かべたのは、数々の得体のしれない怪談話。
 が、状況の唐突な変化はここからが本番だった。

「おおお?!!」

 怪鳥の叫びの如き尾を引く残響。
 花火が破裂するような渇いた炸裂音。
 連続しての腹に直接響く、経験したことの無い爆発による轟音。
 信じ難い事に衝撃でこの巨大な車体が微かに揺れたのに対し、ジョルジュは慌ててハンドルを保つ。
 ───何だ………今のは?
 ───これは、何かの悪夢か?
 幾ら自分が運が悪いからと云って、こんな馬鹿げた───

「ジョルジュさん! 停めてください!」

「は、はい!!」

 横合いからの叱咤に等しい厳しい声に、ジョルジュは驚きのあまり条件反射に近しい反応で急ブレーキをかける。
 タイヤが、接地しているアスファルトに大きな傷痕を残しつつ甲高い悲鳴を上げる。
 気弱な彼にしてみれば、目を瞑らなかったのが上出来だった。 
 窓から逆さまに覗く顔は、短い髪が乱雑に煽られ靡いている。
 シエルは、その不安定極まるトラックの制動の最中にも拘らず常人には到底理解出来ない身体の駆使の仕方で再び車内に滑り込んだ。
 手には、どこから出したのか自身に比してあまりにも不釣合な大型の拳銃が握られていた。

「いい加減、頭に来ちゃいました。こんな所でパンツァーファウストまで持ち出すなんて、何を考えているんでしょう。見境ないのも程があります。この際、徹底的に潰しておくことにします」
 
修道女様マ・スール、それ…………それ!? 貴女、一体───」

「まあ、何とかこれで弾頭は撃ち落せましたが、さて………」

 この非常識な事態に対して悠長とすら言えるシエルの口調に、ジョルジュは唖然とした表情で見詰め返すしか無かった。
 手慣れた様子で取り回しているこの大型拳銃もさることながら、彼女があまりにも自分とは違う世界に生きていると今の事で漠然と理解したからだ。
 話している間に、停まったトラックの横合いを頑強な棺を不吉に連想させる装甲車らしきものが猛スピードで追い越す。
 その装甲車は二十メートル位先で停止すると、後部のハッチが開き幾人もの剣呑な装備で身を固めた者達を吐き出した。
 集団は即座に槍の穂先を揃えるように、幾多の長身の銃器をこちらに向ける。
 丁度の逆光で、黒炭で塗り潰された一塊の不気味な影絵の模写のようだ。
 そもそも彼らが、全体的に黒系統の統一された衣服を身に着けているのが原因だろうと気がついた。
 …………こんな場面を何時だったか映画で見た覚えがあると、ジョルジュはすっかり現実感が希薄になった頭でぼんやり考える。
 あのような前に立って蜂の巣にならないような登場人物は、多分最初から何か馬鹿馬鹿しい超能力を持っていると設定された派手な衣装を身を包んだヒーローくらいだろう。
 少なくとも現実に即した物語の登場人物だったら、成す術なく血溜まりに沈むしか無い。
 それを目の前の清楚な美しさに満ちた修道女スールと自分の姿に置き換え、ジョルジュは嘔吐しそうになる。

「何なんですかあれ!? 何で私達を………」

「いえ、狙われてるのは私だけですが。結構減らしたつもりだったのですけれど、まだあんなに居たんですねえ。まあ、でも、十数体と言ったところですか」

「と、とにかく話し合いましょう! きっとあの人達、何か勘違いしているんですよ!! 話し合えば人間誰だって───」

「ええ、私もそうしたいのはやまやまなんですけど。そういうの通用しないんですよね、彼ら。そもそも、人間じゃないですし」

「………は?」

 肩を竦めながらさらりと言われた言葉に、ジョルジュは絶句する。
 だがそれは、彼の思考の中で形を為さなかった。
 それがどういう意味なのか、具体的に考えられないほど彼が焦燥し混乱していたからだ。
  
「………ええっと、じゃ、じゃあ、私がトラックで突っ切りますから───」

 そんな事をして今の状況から脱し切れるものではないのは百も承知だ。
 しかし、先程見た未来視に近い妄想がジョルジュを駆り立てる。
 自分はともかく、この修道女スールが血塗れで殺される所など決して見たくはなかった。
 何とか、彼女だけでも絶対逃さなければ。
 だが、そのような覚悟が伝わったのかシエルは苦笑を湛えながら僅かに首を振った。

「………ジョルジュさんて、本当に良い方なんですね。でも、貴方は御家族を深く愛されているのでしょう? それこそ、主に仕えるのを諦めたほどに」

「え? あ、はい。そうです………けど」

 慈愛に溢れた表情で言われた唐突な指摘に、ジョルジュは虚を突かれたように反射的に答えてしまう。
 シエルはそれを聞いて一つ頷くと、子供を叱るような咎める目付きをした。
 その瞳には、何故か僅かな悲しみが揺れている。

「だったら、そういう軽はずみな事を言わないでくださいね。自身を蔑ろにし愛する方を悲しませるのは、主を裏切るに等しい業罪ですよ。───巻き込んでしまい本当に申し訳ありませんでした、ジョルジュさん。縁があったら、また違う形でお会いしましょう。」

 何を………とジョルジュは言いかけるが、それは声にならなかった。
 蒼く透き通った双眸に覗き込まれ、視界は暗く閉じていく。
 意識が洗浄されるように曖昧になり、規則的な点滅が脳裏で繰り返された後にジョルジュの身体は力無く崩れ落ちた。
 シエルはそんな彼の座席のリクライニングを素早く倒し、楽な姿勢にさせる。
 気持よさそうなジョルジュの寝息を耳にして、彼女はくすりと微かに笑った。

「………ご丁寧に待っていてくれているのは有り難いですが、どういうつもりなんでしょうね、実際。こんなもので私をどうにか出来るとは考えていない筈ですが」

 シエルは、動きを見せずに構えたままの姿勢でいる特殊部隊さながらの装備で身を固めた集団を蔑むように見据える。
 実は、彼らが一斉に射撃してきても数分は耐えぬく程の強度の守りをこのトレーラーに乗る際に施してある。
 しかし、パンツァーファウストのような対戦車弾には対応しきれないので先程は少々慌てて撃ち落としたのだ。
 それが、相手には分かっているのかいないのか。
 ソルスティスへ向かう途中の今日だけで五度目。
 あのような木偶どもに何度襲撃されようが、自身への被害など無いに等しい。
 それは、あれらの操り主も承知しているだろうが。
 いや………不覚にも油断して足とした車は壊された。
 どうも、乗り物の扱いは苦手である。
 忌々しいが、上司が言うように最大限の性能を発揮するのが目的なら彼女にどのようなものであれ車など不要だ。

「とは言え、あの状態のセブンを持ったまま数十キロの強行軍というのは、いくら私でも流石に無茶ですからねえ。とりあえず、あの装甲車を頂いていくとしましょうか。少し目立ちますが、途中で乗り捨てれば良いですし」

 シエルは、溜息を吐きつつ窓から車外へ俊敏に跳躍して降り立った。
 気軽に散歩へ行くが如く悠然と歩を進める。
 手には、その華奢な外見にあまりに不釣合いな大型の自動拳銃デザートイーグル.50AE
 しかも、何処から出したものか左右両方にそれが握られている。
 つまり、馬鹿げた事に映画や漫画でしかお目にかかれない冗談じみた二挺拳銃だった。
 多対一ではあるが、まるで果し合いのように………一定の距離で不気味な沈黙を保つ銃器の群れと彼女は対峙する。
 全員が黒い目出し帽を被る故に唯一そこだけ露出した彼らの瞳は、ガラス玉同然の生気の無い鈍い光を発していた。

「さて…………つまり、今回はこういう趣向ですか。何となく目的が解ってきましたけど、正直大分高く付きますよ?」

 怜悧に唇を吊り上げ、緩慢にも見える動作でシエルは銃口をそれらに向けた。
 応じて、対する十数の黒色に鈍く輝く銃身の金属音が連続して鳴る。
 一陣の冷気を伴った強風が吹き抜け、彼女の黒色にも近い紺の修道服をはためかせた。
 それを合図とするように───
 叙情的な広がりを見せる風景に異物同然に浮かびあがる彼らは、悪夢の如き銃撃戦を開始した。


 暮れかける日差しに顔を直接照らされ、ジョルジュは眩しさのあまり目が覚める。
 薄目で見る窓の外の光景は、淡い暖色に染められつつも陰影の輪郭が鮮明で美しかった。
 いつの間にか敷き詰められた綿に似た雲も、斑に橙で色付けされている。
 それは、影絵の如きなだらかな丘の稜線に良く映えた。
 何気ない風景がほんの刹那に垣間見せる美は決して完全には固着できない。
 それは、どれだけ人間の文明が進み記録媒体が発達しても神の御業故に不可能なのだ………そう断言したのは誰だったか。
 多分、芸術家か哲学者なのだろうが、もしかしたら自分の勘違いなのかもしれない。
 ただ、今素直に感じているものがあまりに自然と心に浮かび過ぎた為に自身の言葉だとは思えなかったとか。
 いや、そんな事より少し腹が減った。
 それに、どうも関節の節々が痛い。
 それは身体の大きさに合わないシートに収まり無理矢理睡眠をとっていた為だと分かっていた。
 自分は、走行中に連日のハードワークが祟ったのか急激な睡魔に襲われ、このままでは危険だと判断したので仮眠を取ることにしたのだと少し思い出す。
 つまらない事故を起こしてしまっては元も子もない。
 自分に何か有ったら待っていてくれる家族は大いに悲しむ。
 無論の事、妻にも子供にも絶対にそのような思いをさせたくは無い。
 それについて、実際につい先程窘められた事であるし………? いや、誰に?
 自分はずっと一人だった。
 それについて疑問の余地はない筈なのだが………ああ、そうか何か夢を見たのか。
 もしかしたら、無意識の不安が夢となって誰かの形をとって表れ己を叱ってくれたのかもしれない。
 今は、どんなそれが夢だったのかすら思い出せないが、例え夢であってもその何者かに感謝すべきであろうとジョルジュは苦笑混じりに考える。
 徐々に空が晴れ渡るように、頭がすっきりしてきた。
 薄暗くなった車内でもくっきり浮かび上がる時計のデジタル表示を、視線だけで確認する。

「え!? 何で───」

 仰天のあまり倒れたシートから発条仕掛けのごとく起き上がり、勢い余ってハンドルに付いたクラクションを手で突いてしまった。
 吹きすさぶ風鳴りと鳥の微かな長鳴き以外音がしなかったこの場に、無粋で攻撃的な高音が響き渡った。
 ジョルジュは大いに焦って即座にクラクションから手を離したが、目だけは無慈悲に時刻を告げる数字から離れることはなかった。

「そんな…………納入時間を、二時間以上も過ぎている……なんて………」

 呆然とした表情で、ジョルジュは力無い声を漏らす。
 仮眠の予定は一時間の筈だった。
 計算では、その程度の時間だったならば余裕があったのだ。
 彼の数少ない特技に、目覚ましなど無くても自分で決めた時間にほぼ正確に起きることが出来るというものがある。
 これは地味ではあるが普段の生活の中で非常に重宝して、お陰で今まで寝過ごすという体験をジョルジュはしたことがなかった。
 だから、今の状況がとても信じ難かった。
 四時間近くも眠っていたなんて、自覚はなかったがそこまで疲労が蓄積していたのか。
 
「と、とりあえず所長に電話を」

 初めての事態に大いに慌てつつも、即座に荷の運び先であるカールスルーエの倉庫所長へ携帯で連絡を入れる。
 正直に言えば、胃が縮まり目眩を覚えるほどの重圧をジョルジュは感じていた。
 あの、豪快で陽気ではあるが、仕事となれば鍛えに鍛え抜かれた鋼玉のように厳しく頑固なドイツ人に怒号を浴びるのは確実だったからだ。
 前の担当だった者は、この所長と些細な事で折り合いが悪くなり、事故に巻き込まれて遅れたという事情があった時でさえメッタ打ちにクレームを付けられ続けたのだという。
 結果、彼は急性の胃潰瘍で入院してしまいジョルジュが担当を代わったという経緯があった。
 幸いなことに今までミスもなくきっちり仕事をしてきた為か、ジョルジュは所長に気に入られていたのだが、それも今日までかもしれない。
 直通の番号へのコール音に対し、早く繋がれという焦燥とこのまま繋がらないでくれという逃避の気持ちが複雑に混ざり合う。
 向こうは、着信番号が表示されているから誰からの電話か分かっているだろう。
 いきなりの怒鳴り声には少し受話口を離したほうが良いだろうか?
 が、やがて

『よー、どうしたよジョルジュ。何か書類に不備でもあったか? 新入りが作成した奴だから、ちょい怖かったんだが』

 聞こえたあまりに予測と違う陽気なだみ声に、ジョルジュは呆気に取られ即座に言うべき謝罪の言葉が詰まった。
 何だ? 何故だ?  
 しかし、混乱極まるジョルジュを取り残して、所長はドイツ人とは思えぬ流暢なフランス語を続ける。
 口調には、面白がるような響きがあった。

『それにしても───お前さんただ者じゃあ無いと踏んじゃあいたが、あんなもので荷物寄越すとはねえ。あれ、お国の装甲車だろ? パリのパレードで見かけたこと有るよ。確か、VABとか言ったか』

「は? あの? え?」

『しかも、運転席から出てきたのはとんでもなくべっぴんの修道女様マ・スールときたもんだ。“今日だけジョルジュさんの代わりに、荷物お届けに参りました”なんて、天使様みたいな笑顔で言うもんだからウチの若いもんなんか骨抜きにされちまったよ。どういう冗談かと、俺なんかしばらく考え込んじまって───』

「え!? 荷物を? ちょ、ちょっと!! ちょっと待ってください」

 ジョルジュは、運転席より転げるように飛び出し最後部に息を切らせて走って荷台の扉に取り付く。
 いつも何気なくやっているロックを解除する作業がこんなにもどかしいと思ったことはなかった。
 やがて、いつもより十秒近く手間取って厳重なロックを外すと重い両開きの鉄の扉を勢い良く開いた。

「どういうことだ…………これは」

 中を見て、思わず膝が折れるほどに力が抜けて呆然となる。
 そこには、帰路で受け取るべき荷物がこれ以上無く整然と並べられていた。
 満載に程遠いのは、荷が機械部品の為に扱いがデリケートだからだ。
 実は積んでいた荷物は全て合わせても荷台の五分の一も満たさないほどしか無い大きさだったが、一つ一つが非常に重い。
 それだけに、積み方にもコツというものがあるのだが、これは完璧だった。
 自分がやるよりも遙かに。
 一体、誰が?

「所長! そっちは、荷物受け取ったんですか?」

『お? おうよ。検品したが、不備はねえってよ。相変わらず、荷の扱いが丁寧で助かってるぜ。しかも、あの嬢ちゃんのはええこと、はええこと。積み下ろしから積込みまで少し目を離した隙に一人でやっちまいやがってな。ほんの五分程だぜ? 意味が分からねえよ。ありゃ、何かの魔法か? 急いでるとは確かに言ってたけどよ………』

「五分って…………いや、それより、誰もおかしいとは思わなかったんですか?」

 ジョルジュは一通り荷物を目視で確認した後、荷台から飛び降り扉を再び閉める。
 これらの積み替えが一人で、ましてや五分で、出来る分量である筈がないと思いながら。
 自分のような慣れた者であっても、最低もう一人サポートは必要であるし、早くて三十分はかかるだろう。
 所長は大袈裟に言っているのだろうが、それにしたってこれがあまりに異常すぎるのは間違い無い。
 だが、脳裏で不審が駆け巡り続けているものの自分が意外と落ち着きを取り戻しているのはどうしてだろう?
 慣れてきたというべきだろうか?
 いや………何に慣れたというのか。
 運転席に戻り、ダッシュボードから伝票やら書類を取り出すと当然のように完璧に必要事項が記入された形でそれがあった。
 何となく、予想はしていたが。

『そりゃあ、なあ。けど、どういうわけか誰もおかしいとは何故か思えなかったんだよなあ、あの時は………何たって、装甲車だからなあ。それだけで何事かと普通は思うわな。知ってるとは思うが、ウチの守衛の爺さんだって入場許可証が無けりゃあ戦車でも入れねえって頑固ジジイの筈なんだがね。というか、そもそも警察に連絡だよな。ただ、馬鹿馬鹿しすぎて突っ込めなくてよ。何か、みんながそんな異様な雰囲気だったな』

「そう………ですか。とにかく、問題自体はなかったと」

『そういうこったな。ま、俺は深く考えるのはやめにしたよ。あんまり詮索すると、お前さんの組織の人間に消されちまうかもしれねえからな、わははは───そういや、あの嬢ちゃんの顔が思い出せねえや。何でだ?』

「所長………お言葉ですが、仰ってる事が滅茶苦茶ですよ。何ですか、その組織って。そもそも、顔が思い出せないのに何で美人ってことは覚えてるんです?」

 少々の頭痛を感じつつ、ジョルジュは疲れた声でもっともな疑問を呈す。
 また、いつもの如く自分をダシにして出鱈目な妄想でも頭の中で繰り広げているのだろうと呆れる。
 まあ、与太をちゃんと与太と分かって楽しんでいる分だけ彼はまだマシな方だ。
 時々行き過ぎた部分もあるのだが。
 この所長は何故か、子供じみた荒唐無稽な話を好む。
 テレビドラマや映画は云うに及ばず、アメリカンコミックや日本のアニメーションやMANGAとやらも大好きらしい。
 見た目は、童話に出てくるようなずんぐりむっくりしたドワーフ小人を思わせる髭面の頑固そうな初老の男である。
 なので、周囲の殆どの者はその趣味について似つかわしくないこと甚だしいと内心考えてはいるだろう。
 だが無論の事、それを指摘する勇気ある人間はいない。

 余談ではあるが、そんな所長にジョルジュはまずこの容姿で喜ばれた。
 何という悪役面と初めて挨拶した際に嬉しげに言われて、内心で大分落ち込んだりもしたものだ。
 声もジョージそのものじゃないかとはしゃがれたが、これは未だ何のことかよく分からない。
 何かのキャラクターなのだろうが、深く知る気にもなれなかった。

『そうだよなあ………言われてみれば、漠然とべっぴんの修道女スールだったとしか思い出せないってえのも妙な話だが。ま、お約束だ、お約束」

「本当に、さっぱり意味がわかりませんが…………」

『まったくだな。でも、世の中意味が分からねえものがたくさんあったほうがおもしれえだろ?』

 ジョルジュは、愉快げな口調で言われたことに対し憮然とした表情で溜息をついた。
 駄目だこれは、と一種諦観の中で思いながら。
 どうも、価値観の違いからか、論点に大きな齟齬がある。
 どうやらこの件に関して、先程自身で宣言したように所長は本気で棚上げしているようだ。
 確かに、どうあれ荷物は間違い無く倉庫に届き、出荷すべきものはちゃんとジョルジュに渡っているのだから彼にとって不都合など何も無い。
 例えその経緯が不自然を通り越して不条理に過ぎたとしても、だ。
 さて、では自分はどうするべきだろうか? と、ジョルジュは思い悩む。
 身に覚えがないとも今更言いづらくはあった。
 大体、正直に話すにしろどう話せばいい?
 聞いた話が本当なら、自分が寝ている間に、その美人の修道女スールとやらがやるべき仕事を全て行ってくれたということになる。
 しかも、何故か装甲車でだ。
 これが所謂、奇蹟というやつだろうか?
 いや、幾らなんでも運送業の肩代わりを請け負うなどというスケールの小ささは無いだろう。
 こういう発想に至ったこと自体、あまりにも不敬だ。
 ジョルジュは心の中で主に許しを乞う。
 それに───これはどちらかというと、靴職人のところに現れた小人の童話に似ているように思える。
 …………何とも馬鹿馬鹿しい。
 こんな想像を巡らす時点で、自分も所長のことをとやかく言えない。

『お? おう、今行く! ………じゃねえや、Ya! ich komme gleich!! Ist ja gut, beruhige dich......』

 急に切り替えられた言語での野太いがなり声に驚き、思わず携帯の受話口を少々耳から離す。
 ドイツ語に対する偏見もあるのだが、その語調が全て怒っているように聞こえるのがどうにも馴染めない。
 まあ、この所長の場合は四六時中部下に本当に怒っているのかも知れないが。
 とにかく………これ以上、こうやって話していても無駄であろことは理解できた。
 ジョルジュは遠慮がちに、会話を切り上げるべく甲高い機械音と雑多な喧騒が聞こえる電話の向こう側へ声をかける。

「…………あの、失礼しました。どうやら、私の勘違いだったようです。御忙しそうですのでそろそろ切りますね、所長」

『Ya,ich....おおっと、わりいな。じゃ、ま、そういう訳だから荷の方は宜しく頼むぜ。お前さんのことだから間違いはねえと信じてるが。それに引き換え………ウチの今度の新人は、本当に使えやしねえ。やっぱItakerは駄目だな』

 ブツブツとドスが効いた不平の呟きを耳に残して、通話は切れた。
 どうやら、最近入社したイタリア人の新入社員がいたく御不満らしい。
 さもありなん。
 以前一度だけその新人の彼に会ったことがあったのだが、常に躁状態かと思うほどに陽気過ぎる優男で正直苦手なタイプだなと自分も辟易したからだ。
 所長とは、相性が最悪ではないかと思える。
 ただ、ジョルジュが見る限り有能ではあるようだ。
 怒鳴って出す彼の無体な指示を、軽口をたたきながらも何とかこなしてしまうのだから。
 それはともかく

「さて………どうしたものかな」

 ジョルジュは途方にくれて、再度大きな息を吐く。
 自分の中で今の状況をどう処理すればいいのか。
 一度、頭の中を整理する。
 と言っても、それほど複雑な事ではない。
 要するに、居眠りしている間に自身の仕事を終わらせてしまった何らかの異常があったというだけの事だ。
 過程を無視するならば、不都合どころか大いに幸運であったとさえ言えるだろう。
 しかし、当たり前だがそれを“はい、そうですか”と容易に納得出来そうには

「───するしか無いのだろうなあ………やはり」

 運転席に戻ったジョルジュは、腕を組み命題に挑む哲学者の如き表情で低く呟く。
 眩さに耐えるように目を細め、なかなか暮れない茜色の空を眺めた。
 声には何かを妥協するような響きが滲んでいる。
 この不可思議は、どう考えても自身の及ばない領域にある。
 何も分からない。
 だが、心の何処かで理解出来ないながらも何故かそう実感せざる得ない拭い去れない何かがある。
 実は、こういう経験は幾度もあるような気がするという朧な感覚もあるのだが。
 何か、世間から隠されたものと僅かに擦れ違ったという………。
 三度目の大きな溜息。
 とりあえず、エンジンを始動すべくキーを回す。
 馴染みの軽い振動の後に、愛車は渇いた低い回転音を上げた。

「やれやれ。まあ、明日は久しぶりの休みであるし───」

 路肩に停められた状態からUターンすべく大きくハンドルを切りながら、パリに居る家族を心に浮かべる。
 自身と不釣合だと常々考える今以て可憐で美しい妻と、彼女によく似た(自分には欠片も似なくて本当に良かったと考える)幼き愛娘二人。
 ジョルジュは、最愛の彼らと明日は教会に行こうと思い立つ。
 そういえば、もうすぐ復活祭も近いから、その準備を皆で考えるのも良いだろう。
 それは彼としてはごくごく自然な発想であり家族も特に不審に思わないかも知れないが、どうも幾分罪滅しのような成分が僅か気持ちに含まれている。

“自身を蔑ろにし愛する方を悲しませるのは、主を裏切るに等しい業罪ですよ”

 そう優しげに言われた筈なのだが、誰の言葉だったのか。
 暖かみのある口元しか思い出せないが、それは悲しげな実感がこもった心からのものだったのだと響きから察する事が出来た。
 この人物の為に主に祈りを捧げるのも悪く無いだろう。
 ジョルジュは、自然とそう思う事に何の疑念も抱かなかった。
 トラックは、長閑な風景を一定の速度でひた走りはじめる。
 前面のライトは、薄紫に染まりつつある空に合わせて煌々と輝いていた。
 無論の事、ほんの10kmほどの反対方向の道に、その言葉を発した人物が鼻歌混じりで装甲車を走らせているなどとはジョルジュは夢にも思っていなかった。

 
 こうして───この不運なトラックの運転手は、要所に大いに釈然としない部分を残しながらも無事に帰路についた。
 彼は巻き込まれ虎口を目前としながら、それを無自覚に辛うじて脱することができた。
 本当に色々と運が無い人物なのである。
 それは、あまりに間が悪い外見でこの世に生れ落ちたところから始まっている。
 ありふれた日常と隠された異常は、本来顔を合わせる事が無い。
 意図的に厳重なる境界が設けられている故に。
 しかし、それらは本来隣り合ったあまりに近い距離にある。
 だから、些細なる瑕疵から向こう側が稀に垣間見える事はあり、人々はそれを『怪異』もしくは『奇跡』もしくは『錯覚』と称するのである。
 
 ジョルジュは、端的に言えばその悪意に満ちた陥穽の如きものに陥りやすい人物だったのだ。
 実は、今回のような状況は彼自身自覚は無いが極めてありふれたものだった。
 当然、その要因に彼自身の特殊性というものは微塵も存在しない。
 あえて言うならば、その要因は複雑さや混沌とした煩雑さから人々に読み解く事を放棄させた事象………つまりは『偶然』と一括りにされる類のものだ。
 だが、『偶然』とは神秘の皮肉なる隠語でもある。
 ジョルジュの場合、あまりにも不運ではあるが不幸ではなかった。
 何故なら、彼は生涯に渡りそれに無自覚で、主観的には平穏であり続けたからだ。
 擦れ違い、巻き込まれ、翻弄されながらも盲目を保つ。
 『奇跡』というなら、これこそが『奇跡』というべきだろう。
 それはまた、幾多の別の物語となるが。

 さて、では“彼女”はどうであろうか?
 今回中心となる“彼女”は、呆れるほどの『偶然』で構成されていると言える。
 自身の特殊性は確かに際立っているが、それにしても───客観的に見て、そこには何かしらの要因とも言うべき悪意が存在するのではと勘繰りたくなるほどである。

 ───何故、こんな事になったのか?
 それは、起こりえる事だからである。

 ───では、何故それは避けられなかったのか?
 それは、起こり得なかった事だからである。

 そんな容赦の無い0と1の構成で成り立っているようだと、万人が舌打ちしつつも容認しているのがこの世界だった。
 故にそれは、性質が悪い事に無慈悲ではあるが理不尽ではない。
 だが、しかし、では…………
 “彼女”にとって幸いだったのは、今回そう問いかける者達が『偶然にも』周囲に存在したという事実だろう。
 しかも、その内の一人はあまりにもそれが飛びぬけていた。
 あまりに馬鹿馬鹿しくも、悲痛な願いに満ちた異名で呼ばれたほどに。
 だからこそ、その顛末は決して────


 ──────四時間程前。
 
 吹き抜ける風は、本来草の香りが多く含まれているはずだが、それは今は瞬間の刺激臭で鼻を付く硝煙のそれに取って代わられている。
 無論、そのようなものは即座に洗い流され薄く引き延ばされるのであるが、量が量だったのか結構残留しているのだ。
 見れば、濛々と霧がかるような煙が揺れ動いているようにも思える。
 その殆どは、今荒れた草地に無造作に転がっている者達が発した。
 完全武装の特殊部隊を思わせるような装束と装備は、しかし無惨にも激戦区を潜り抜けた後であるようにボロボロだった。
 いや、そのような生易しいものではなく、彼らは明らかに圧倒的な武力で蹂躙された戦死者といっても良い。
 
 腕が獣に食われたように千切れ飛んでいる。
 
 脚が途中から吹き飛ばされ、白い棒のようなものが僅かに突き出している。
 
 腹の大部分が抉られ、筋のようなもので辛うじて繋がっている。
 
 胸に、太い杭で串刺しに穿たれたような穴。
 
 頭部が内部から破裂したように粉々で首に下顎しかない。
 
 過剰なる大量虐殺。
 惨殺死体の博覧会。
 ある意味、ありふれた地獄絵図。
 平和を享受している人間がこの状況を見れば、盛大に嘔吐するか気を失うかのいずれかだろう。
 が、鋭敏な者ならすぐにある一点に気が付き、それを避けられる可能性もある。
 それは───

“わー、ひどーい。相手がお人形さんだからって、よくもまあ、ここまでできますよねー。さすがマスター。相変わらずの人でなしです”

 そう、これらの無惨な屍達は血の匂いなど全くしなかった。
 要するに、これだけ肉体が破損すれば流すであろうものを一滴たりとも漏らしてはいなかったのだ。
 当然、血液を持たない人間など存在しない。
 注視すれば、彼らの傷口と言うには些か憚られる破壊の痕から覗き見えるものは、複雑に噛み合った歯車だったり、縺れたように絡まる管だったり、摺り合った線で構成された金属の部品だったりする。
 つまり、比喩などで無く本当に人形なのである。
 恐らくは、僅かな有機体と無機物で組み立てられる、魔術師が秘術を以て創り出した自動人形。
 用途は、明らかに戦闘用。
 故に、最低限の偽装しか施されず擬似的な血液も持っていなかった。
 余計なものはカットし特化させようとした意志がありありと見える。
 だが、それにしてはあまり出来が良くない。
 動きに滑らかさも足りないし、単純な肉体性能も通常の人間を然程上回るものではなかった。
 これならば、訓練された本当の人間の軍隊の方が同等の火力を持たせれば数段マシであろうし、コストも安く上がる。
 しかし………

“あ、すごい。あのお人形さん、まだ立ち上がろうとしてますよ? 脚もとれかけて、お腹半分無いのに。まるで、生まれたてのお馬さんを見ているみたいです。ううう………ああいうの見ると、こう、つい手に汗握って頑張れと応援してあげたくなるというか………って、ひー!? 撃った! 頭が弾けた西瓜みたいに!?”

 残響する甲高い乾いた音。
 再び燻る硝煙。
 薬莢が地に落ちる音にあわせ、肩のみの背になった人の形が緩慢に倒れ伏していくのを淡々と眺める。
 一応は、頭部を破壊されれば動きが停止するようだということを改めて確認した。

“うー、まったくもう………そんなだから、マスターってばとりがーじゃんきーなんて言われちゃうんですよー”

 先程の戦闘で狙いを散らしたのは、動力の核が意表をつく部分ではないかと疑った故だ。
 一から創られた人造物の場合、脆弱さの基準が人間と異なる事がままあるのだ。
 が、人の形である以上その部分はセオリーを外していないらしいと確信する。
 どうやら創造者は、自動人形にありがちな単体での強化のさせ方は重視していないらしい。

“私、前から言ってますけど……マスターが情緒不安定なのって、あの明らかに幻覚作用ありそうな粉ばっかり混ぜた茶色い食べ物のせいなんじゃないですかね?”

 丁度最後の一発を撃ち切った空の弾倉を落下させ空中で受け止めた後、流れるようにリロード。
 念の為だ。
 更なる襲撃が無いとも限らない。
 五度目においての決闘じみたあからさまさによって漸く気がついた。
 これは何かの実験ではないかと。

“あれ、どう考えても脳に悪そうですし。それを山盛りで毎晩三杯なんて、そりゃあ段々と正気じゃなくなってきますよね、きっと。ってことは………ああ!? マスターってば、とっくに取り返しがつかない残念な人ってことに!? ううう………薄々気がついてましたが、私のマスターがそんな人でかなりショックですー”

 人形達の部隊は、別に性能自体は向上していかなかった。
 だが、些細ではあるが襲撃の度に明らかに変わったものがある。
 それは、集団としての正確なる連携だ。
 戦術の精密さと言っても良い。
 あまりに迂遠であるが、主旨は理解できる。
 こちらは毛程も被害を受けなかったが、回を重ねる毎に掃討する為の時間が秒単位とは言え延びていったのは事実だからだ。
 となると、個人で対軍の領域にある自分はこれら人形を操作する者の目的に格好の相手ではないか………

“それとですね、幾ら見た目が昔と変わらないといっても実際若くは無いんですから、ああいう暴食はそろそろ控えないとお尻とかお腹に余分なお肉が………って、あう!? いた!? いたい! いたい! いたい! いたいです!! やーめーてーくーだーさーいー!!”

「………あははははははは。久しぶりではしゃぐのはわかりますけどね、セブン。そろそろ自重しないと、また変わっちゃいますよ? 具体的に言うと、頭の形とか。ジャスト、ナウ」

“割れる! 割れる! 割ーれーるー! 頭割れちゃいますぅ!! ごめんなさい! 許してください! あと、知らない間に改造されるのはもういやですー!” 

 泣き叫ぶのを無視し、シエルは更に締め付ける力を強める。
 とは言っても、実際の肉体を使ってそれを行っているわけではない。
 そもそも、この能天気な声は彼女にしか聞こえないしその姿など何処にも無い。
 彼女の意識の中で間借りするように、各所に馬の特徴を持つ人外の美少女は居た。
 だから、有り余る魔力で強引に自身の手を意識内部に形作り、力任せの制裁を行っているのだ。
 蹄状になった手足をばたつかせて、金髪の頭を鷲掴みにされながら少女は悶絶している。
 やがて、きゅうともくうともつかない呻きの後にぐったりとした彼女をシエルは漸く解放した。
 
「まったく………あなたときたら、人に居座っている分際で言いたい放題。退屈なのは分りますが、もう少し我慢なさい」

“あー、うー。ほんと、馬鹿力なんだから、マスターって………だって、あんな仕打ちって無いです。あんな雁字搦めじゃあ、私全然出られないし周りが何も見えないじゃないですか。だから、法印通してマスターに逃げ込むくらいしかなかったんですよー”

 哀れみを誘うように半泣きの表情になる少女に、シエルは溜息をつきつつやれやれと腰に手をやった。
 先程トラックから降ろし、荘厳な建造物のように地面に鎮座する鉄の箱へ視線を送る。
 確かに、ここまで聖別を施された鉄鎖が何重にも巻き付き過剰に封印施術されては、精霊たる彼女がほぼ無力化するのも仕方が無い。
 何しろ、その内部には少女の本体とも言うべきものが収められている。
 寧ろ、ここまでされながら思念を辿り自分の意識に潜り込める事こそ驚嘆に値する。
 流石は、祀られて千年を超える器物の分身たる存在と言うべきか………。

 普遍的な意味を持つ、唯一の神を拝する最大宗教の裏の顔というべき聖堂教会。
 この秘された人類の守り手を自任する組織が、異端殲滅の為に秘蔵する切り札の一つこそがこれであった。
 概念武装『第七聖典』
 摂理を正すべく、転生批判・永劫無不滅の理を刻み込む魂砕き。
 その守護精霊が、この半人半馬の姿をした少女である。
 呼び名は“セブン”。
 シエルが特に捻り無く、簡潔に名付けたものだ。
 それでもセブンは、名を得た事を大いに喜んだものだったが。
 そもそも、このようなカタチを成したのさえシエルがマスターになった故だ。
 だから、自意識を持った特定の存在として呼称されるのが少女には随分と新鮮だったらしい。
 
「仕方ないでしょう。ああいう状態で無いと、あなたを持ち出す許可が下りなかったんですよ。まあ、形式上とは言え、あの枢機卿に気を使った処置ということなんでしょうね。あのでぶチビ………あ、いやいや、あの方は、どうも何かを勘違いして埋葬機関を目の仇にしているようですし。あなたのような曲がりなりにも秘蔵の聖典を、私のような洗礼名も無い魔に汚染された者が担っているというのが気に食わないみたいです。だから、今回は特例的に制限付きで一時預かりという形に書類上ではなっています」

“? マスターはマスターですよ? 私が認めてるんですから、それは間違いないのです”

 神妙な顔で不思議そうに首を傾げるセブンに、シエルは苦笑で返すしかなかった。
 この無邪気で能天気過ぎる存在に、組織内部における人間の醜い機微を教える気にはなれなかったからだ。
 ある大戦の終結を機に成り上がった、矮躯の枢機卿を思い浮かべる。
 表の理屈と同じように、教会の裏の顔すら掌握しようと無駄な奮闘をする人物。
 彼を、巷では極めて徳が高く慈愛に満ちた人格と評価している。
 また、行動力にも溢れ有能な為に次期法王候補の筆頭にと推す人々は多い。
 が、シエルには聖職者とは思えぬ程の下卑た野心を持つ男としか感じなかった。
 器も存外に小さい。
 
 だから───いずれ思い知る事になるだろう。
 何故、聖堂教会などという教派を越えて統一された影の組織が存在するのかを。
 それを必要とされる世界は、下らない権謀術数を内部で行っている悠長さなど無いという事を。
 今はまだ、彼の立場を慮って苦笑で返される程度で済んでいるが、一線を越えた瞬間どうなるか。
 多分、何の理屈も無く……………。
 彼の主張する、埋葬機関不要論も的を外れている。
 それは、誰もが承知している事だからだ。
 そんなものは、無い方が良いに決まっている。
 代替の方策など、どれ程検討されたと思っているのか。
 根本的な解決など、たった一つしかないというのに。
 あれでは、あの嗜虐性を持つ比類ない怪物そのものである局長に、弄りがいがある生餌を与えている事にしかならない。
 彼女にはその程度にしか考えられていない筈だ。
 彼に何時か訪れる末路を考えると、ある意味同情にすら値する。
 恐らく、そう先の話では無い。
 “そろそろ飽きた”と、彼女が冷たく言い捨てたのをシエルは耳にしていたからだ。

「まあ、それはともかくとして………その括りを解く事は、私ですらそう簡単には出来ません。ですが、やがて日が訪れればそれは自動的に解けますから、安心なさい」

“はあ? それって、いつなんですか?”

「さて………現地で確認しないといけませんが、多分あと数日の猶予でしょうね。復活祭前の一番弱まる時を突いて、至点は決壊するでしょうから。そうなったら、あなたの出番というわけです」

“出番? あの………私、何やらされるんですかね? 何だか、すごーく嫌な予感がするんですが、マスター”

 おずおずと頭の中で問いかける不安一杯の表情をしたセブンに、シエルは残骸と化した人形達を短剣で屠殺さながらに淡々と分解していた手を止めた。
 内部を探り構造の傾向から、創造者の情報を把握しようとしていたのだ。
 結局、無駄だったが。
 その辺りは、実に上手く隠蔽されている。
 理解できたのは、これらが経験したものはリアルタイムで送信され創造者に反映されているだろうという事だけ。
 そういう、送受信を司る術式が込められた装置のみ何とか判別できた。
 つまり人形達は末端に過ぎず、制御は違う場所で独立しているということだ。
 予想通りだが、それが判明したところで今のところ意味は無い。

「嫌な予感も何も、あなたの役割など一つしかないでしょう? 最近あまり使われなかったからって、少し気が緩みすぎじゃあないですか?」

“私の役割って………あの、何度も何度も言ってますが、私は由緒正しい厳かな聖典であってですね。正直、斬ったり抉ったり突き刺したり殴ったりなんて物騒な事に向いてないんですよ? だから、そういう乱暴な扱いは、怖いからいい加減止めて頂け無いかなーって”

「何言ってるんですか、セブン。人聞きの悪い」

 シエルは、名前通りの蒼穹の空を思わせる爽やかな微笑を浮かべた。
 駄々っ子に言い含めるような雰囲気には、天使を思わせる優しさがある。
 だが、セブンは内面の戦慄のままに顔を引き攣らせる。
 付き合いが長い故に、よく分る。
 こういう顔をする時は決まって───

「私、あなたをそういう風に扱うつもりしかありませんけど? その為に、ああいう形に改造したんですし」

“う、うわーん! やっぱりー!! マスターのおにー! あくまー! いんどー!! こ、今度は何を斬ったり抉ったり突き刺したり殴っちゃったりするんですかー!? 吸血鬼さんですか!? また、吸血鬼さん達なんですね? ふ、ふふふふ…………所詮、私は良い様に使われるだけの哀れな高位存在。あんな、血をちゅうちゅう吸うわけのわからない人達の灰に塗れてろと、マスターは言うわけですね? ほんと、酷いです。しくしくしくしく…………”

「……………多少の暴言は許しますが、蹄で地団駄とか踏まないで下さいねー。うるさくて仕方ないですし」

 意識の片隅で丸まって陰気にいじけるセブンに、シエルは気の無い声を掛けた。
 惨状に似つかわしくない、悠長な牛の鳴き声を彼女は背後で聞く。
 改めて見渡すと、周囲はどこまでも牧歌的な草地が広がり、空には綿に似た雲が点々と連なっていた。
 それらと目前の凄惨な光景との落差に───少々やりすぎたかと、ようやくの慙愧の念らしきものが湧いた。
 



「セブン、今更ではありますが………」
 
 全ての事後処理を終え、間も無く目的地である小村ソルスティスに辿り着くという途上。
 シエルは、ハンドルを握りながら淡々とした口調で呟きを漏らす。
 アメニティなど当然一義のものとして考えていない車内は、腹に響かんばかりの低いエンジン音に満たされている故に、それはかき消されんばかりの小さな声音と言える。
 しかし、相手がそれを聞き逃す筈はない。
 にも拘らず、反応が返ってこない。
 しばらく、低い響きの振動を伴う走行音のみの沈黙が続く。
 
 五度目以降の襲撃は今のところ無い。 
 一応警戒は続けているが、恐らくは同じ形で相手が仕掛けてくる事は無いだろうとシエルは踏んでいる。
 撃破した人形たちの総数は、全部で三十三体。
 あれらは、確かに一体一体がお粗末であるが集団での行動に特化する為の術式は相当高度だ。
 装備も、現代おいて最新のものを使用していた。
 つまり、コストも時間も相当かかる代物だということだ。
 無論、それらを湯水のように使える背景が相手にはあるのかもしれない。
 しかし、実験の為とは言え、そろそろリスクの高さを考慮する頃合だろう。
 既に連絡をした事で、教会の処理班は動いている。
 戦闘跡に残された物を回収し手掛かりを徹底的に洗っているであろうし、網も張っているはずだ。
 故に、教会の、ましてや埋葬機関の代行者を敵に回すということがどういう事かに対し無知でなければ、そろそろ手を引く。
 正気ならば、であるが。
 厄介なのは、その保証が決して出来ない事にある。
 何故なら、人形の構造から創造の法を鑑みるに相手が魔術師だろう事は確実だからだ。
 あの連中は理知と高度な意思に基づく(と彼らが信じる)独自のルールで、時に保身にも常識にも不在する。
 まあ、人形達に自爆を敢行させなかったので、まだこちらの予測の範疇に収まる相手なのだとは思うが………。
 
 シエルは、備え付けられていたコンマ四桁まで表示するデジタルの時計を一瞥する。
 日付が変わるまで、あと二時間弱。
 陽光の残滓は嘘のように払拭され、黒色に近い闇が辺りをすっかり占拠していた。
 雲が厚い故か、星の輝きも月の光も地に届いていないのがそれを更に助長している。
 人々の営みを表す灯の光も、砂漠におけるオアシスの蜃気楼の如く遠近の定かでない点として揺れるのみだ。
 擦れ違った車は、数時間の走行で僅か三台。
 恐らく、上空から俯瞰する視点がある者が居れば、この走行する装甲車が発し続ける強力なライトの輝きのみが帳を切り裂くナイフさながらに目立って見えるかもしれない。

“え? は? ね、寝てません! 寝てませんよ?”

 いい加減返事が無い事を不審に思いシエルが意識を探るのと、寝ぼけ眼のセブンが一段高い声を上げながら慌てて跳ね起きたのはほぼ同時だった。
 ……………今更だが、本当に精霊とは信じ難いほど人間臭い。
 まあ、実際にセブンの性格骨子は捧げられた人間の少女であるので当然といえば当然である。
 ただ、カタチを成したのも話しかけたのもシエルが最初であった為、その影響も大いにあるのでは? と周囲には目されていた。
 随分と失礼な話だと彼女は思う。
 少なくとも、自分はここまで能天気ではない筈だ、と。

「道理で大人しいと思ったら………。何なら、そのままあなたの出番が来る当日まで、そうしててもらっても構いませんけれど」

“む………………………あ、いや、その手には乗りません。起きたら、またワケの分らない改造をされているかもしれませんし”

「いえ、言ったように今のあなたには私でも簡単には手出しできませんから。それにそんな事だったら、今までだってあなたがどんな状態だろうが関係なくやってますが?」

“うううう………そういえばそうでした。マスターは、私が泣こうが喚こうがハンダまで押し付けるあくまでした………”

 よよよと器用に蹄の底部で顔を覆い泣き崩れるセブンを無視し、シエルは道から逸れる為に大きくハンドルを切る。
 既に遠目でソルスティスが見える所まで差し掛かっていたが、その前に確認したかったのだ。
 説明は受けていたが、やはり自身の目で見ておきたい。
 風に揺れる、切り絵の如き樹木がアーチを形作った丘の入り口を潜る。
 道は満足な舗装もされておらず、車幅ぎりぎりの実に危ういものだった。
 おまけに、片側は雑木林が連なる急斜面となっており、車高が高いこの装甲車ではタイヤを踏み外したら一息で横転しそうだ。
 シエルは、ギアを落とし慎重に運転をする。
 時折、照らし出す直線的な輝きの中に小動物らしきものが横切った。

 それ程大きな丘ではない為、十分もかからない傾斜の走行で頂上に近い地点の広場に辿り着く事が出来た。
 簡易な木のベンチと水飲み場があったので、多分近隣に住む者達が軽い行楽に訪れるようなちょっとした憩いの場なのだろう。
 車を駐車できそうなスペースは何とか一台分。
 そこに強引に突っ込ませる形で、VABは停められた。
 エンジンを切りライトを消す事で、本来の時刻に相応しい静謐さと濃い闇が瞬時に蘇る。
 重い扉を開け、ふうと一息つきつつ外に出ると、即座に木々や草花の香りが混じる特有の冷気がシエルの身を包んだ。
 特に嗅覚を刺激したのは、アンゼリカの放つ強い芳香だ。
 どこかに群生しているのだろう。
 しかし、当然不快ではない。 

“わー! なんか此処って、凄く気持ち良い場所じゃないですかー! 生気に満ち溢れていながら、人を決して拒絶していないというか。多分、お日様が昇った時に来たらもっと楽しそう。それに、何だか少し懐かしい雰囲気もしますー”

「そうですね。人と自然の調和の体現であるあなたには、そう感じられるかもしれません。生憎の曇天だから見えませんが、ここから見る星や月はさぞかし綺麗なのでしょう。今の時期ならば、アークトゥルスのオレンジ色の輝きが良く映えている筈です。でも、私は別に、夜中のピクニックと洒落込んで此処に来たわけではありません」

 夜空に目を遣りつつ、シエルは無邪気にはしゃぐセブンに苦笑混じりに答える。
 実は、その視線は上方に向けられつつも、夜空ではなくもっと低い位置にあった。
 広場の中心には、十メートルを優に越す樅の木が主であるかのように聳えている。
 彼女が此処を目指したのは、この高木が特に目に付いたからというただそれだけの理由だった。

 露で濡れた野草を柔らかく踏み鳴らしつつ、その側に歩み寄る。
 そして、身体を僅かに沈ませると瞬間でシエルは飛鳥のように跳躍した。
 途中、枝が蹴られた事で樅の木が風に浚われた様に揺れ葉鳴りを大きく発する。
 だが、それは二度だけだ。
 獣すら凌駕する動きで、頂点に近い場へあっという間に辿り着く。
 視界は、常人であれば眩暈を起こすほどの黒々とした俯瞰風景として広がった。
 足元はあまりにも脆そうな枝であるが、まるで体重の無い者の如く彼女は静かに屹立している。
 しかし、高所の強風が流れる中でその修道服と短い髪が煩くはためいているのにも拘らず身体が微動だにしないのは、一体どういう体勢制御なのか。

“あの………マスターって、なんで、こう、高いところ昇りたがるんですか? こういう危ないところが好きって、生き物として色々間違ってませんかねー? もしかして、煙と同じ?”

「遠まわしに何かを言いたいみたいですけど、常にふわふわと飛んでられるあなたに言われたくはありません。それに、私は必要が無ければこういう事はしませんよ」

“えー? そうですかー? だって………あ、いや、分りました。怖いから、大きい拳骨創ろうとするのやめてくださいってば!! そ、それより、何でこんな所に?”

「まったく………隙を見せるとすぐに余計な無駄口を叩きますね、あなたは。いっそのこと今度、消音機能でも付けてやりましょうか?」

 意識の隅に逃げ込みびくびくと頭抱えるセブンに、疲れたような投げ遣りな声でシエルは言う。
 小動物のように気弱で臆病に見えるが、実の所は意外に図太く何をされても懲りる事が無いというのがこの不良精霊の本質なのだという事を彼女は知り尽くしているのだ。
 咳払い一つ。
 彼女は、気を取り直したように代行者としての冷徹な表情に改めた。

「───ま、いいでしょう。今の状態ですとあなたと私の視界は同調しているわけですから、視線の先にある小さな集落が当然分りますよね? あれが、私たちの今回の目的地であるソルスティスなのですが」

 通常であれば、星も翳り月も隠れた今夜のような曇天の視界に映るのは、深い闇と僅かに灯された蝋燭の炎のように頼りない村から漏れる民家の明かりのみである。
 だがシエルの修練された眼は、既に簡易な術式を叩き込まれ闇を日中さながらに見通すものと変じていた。
 他の感覚器官も当然のように、一時的に人を超越したものとなっている。
 これを彼女は、呼吸をするが如く苦も無く自然に行える。
 当然である。
 闇を本領とし、影から影へと潜む死徒どもを相手にその程度が出来なければお話にならない。

“へー? あ、葡萄畑に囲まれてるんだ。随分、面白い形してますね。まるで、領主様が住んでた都市の防壁みたいになってますよ。ばうむくーへんとかいうお菓子も思い出します”

「そう。ほぼ正確に、不自然なまでに真円を描いて葡萄畑が連なり、その中に人々が暮らす場があります。で、村に行く為にはあの県道から北の道を入るか、もう少し行って北西に逸れた道を入るかして、しばらく行った後の多叉路を北か北東の方向へ進みます。つまり、南北の道と北西から南東に伸びる道が交差して、その交差部分から北東にも道が伸びている。そして、あの円形の村の位置は北への道と北東の道に挟まれるようにあるというわけですね。さて………あの村も一部と考えて、今言った周囲の道の形に心当たりはありませんか?」

“え? え? え? あ、えーっと、えーっと、こう書いて、こう書いて、こう。で、ここに丸で………あれ? これって?”

 セブンは説明に対して頭で理解することを放棄し、慌てて手を使って見える道と村の位置を簡易に宙に描いてみた。
 現れた形に目を丸くして驚いた表情をしながら口元を覆い、鳩のような仕草で首を傾げる。
 何故? とセブンは全身を使って問いかけていた。
 シエルはそれに対し軽く頷き、答えを示すように淡々と言葉を続ける。

「理解できましたか? ちなみに、あの場の流れもその形に沿っています。少々幼稚なはったりが過ぎるとも思えますが、そのはったりもあそこまでやれば概念的な力となるでしょう。つまり、そこまでやらなければならない程のものがあそこにはあるという事です。浅はかな輩を抑止するという目的もありましたがね。主に容認されしものは、容認されているが故にこれを討つをあたわず。ただ、御名において祓うのみ。しかし………」

 執務室で命を受け、交わされた会話を思い浮かべる。
 『とんだ茶番を、随分と続けていたものだ』と切って捨てるように言い、あの人格破綻者は相手に殺意を抱かせずにはいられない独特の冷笑を形作っていた。
 説明を受けてそれに同意する気持ちも確かに湧き起こったが、シエルにはそこまでの侮蔑は決して出来ない。
 そこが彼女の甘さだと言えるし、自覚もしている。
 しかし、むしろ自身がそうある事にこそ本質があり拠り所があると信じてもいた。
 出来る事なら、持ち得る力で修復すらしたいと思っていたが、今一目で確認した限りでは残念ながらそれも適わないだろうと分った。
 感じ取れた地脈の乱れは、法則を乱したことにより調律出来る範疇を超え、封は水で浸された紙も同然に脆弱となっている。
 あれでは、あの範囲内の感覚が鋭敏な者や“魔”を内包した者に何らかの影響すら及ぼしかねない。
 恐らく、彼ももはや限界だろうと予測できる。
 だからこそ、自らの存在を保つぎりぎりで書面をこちらに送ったのだ。
 乱れた血を吐き出すような筆跡でそれは充分に理解できた。

「セブン。今更ですが、あなたの誤解をまず解いておきましょう。今回、我々が罰するのは宿敵である死徒どもではありません。とある『現象』であり、それは地に根付き、人に根付き、想念に根付くという、ある意味では下手な死徒より余程厄介な相手と言えます」

“ほえ? で、でも、マスターは吸血鬼さん以外は相手しないって───”

「確かに、埋葬機関の存在意義の優先順位から言えば死徒達の殲滅こそ至上で、それ以外に力を用いる暇など無いというのが実情なのですがね。けれど、今回あなたの力こそが鍵となりますので、私が出てこざる得なかったというわけです」

“えー!? それってどういう…………”

「───喜びなさい、セブン。あなたが願って止まなかった、本来の聖典としての力を今回は存分に奮ってもらうことになるのですからね。概念を討ち得るは概念のみ。特に、あなたの持つものこそが最も適しています。効果は覿面でしょう。何しろ、相手はかつての我々の同胞なのですから」

 寒気さえ感じる冷酷な口調で、シエルは機械的に呟く。
 その顔は、人としての感情を捨て去ったように作り物めいた無表情だった。
 セブンは、言われた自身に関わる内容よりもその彼女の様子に心を衝かれ悲しげな顔で言葉を詰まらせる。
 知る限り、優しすぎる自分のマスターは、このようになった時こそ深く苦悩し何かに耐えているのだという事を知っていたからだった。

 この時点で───シエルは、代行者として拝した命により運命を決せられる人物、それを引き起こした特殊な地での自らの任にのみ思いを巡らしていた。
 故に、そこで自らに深く関わる人物の『ある結末』を見せつけられるとは、神ならぬ身の彼女の想像を遥かに超え予見することなど出来なかったのだ。

 ───要するにこれは、ただの間が悪い『偶然』に過ぎなかったのである。
 


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