しゃかしゃかしゃかしゃか。
鏡を見ながら歯を磨く俺。
あー、めんどくさい。
何故人は朝起きなくちゃならないのか?
昼からじゃ駄目なのか?
どうせ俺夜遅いぜ?
自慢じゃないが俺こと武村トモキ。
滅法朝に弱い。
鏡に映る俺は、まるで怒れる閻魔大王のようにぼさぼさで天を突く髪をして、物凄い不機嫌そうに鏡を見る俺を見ている。
別に仕事は嫌いじゃない。
仕事に行くのは一向構わん。
だが朝は行けない。
大体そんなに俺に来てほしいなら、仕事の方が俺のとこへ来たらどうなんだ(?)。
俺がそんな益体もないことを考えてやさぐれていると、不意に洗面所の扉が開いた。
「おはよ…」
「ん?おお。ふぉふぁふぉお、ふぇふふぃす(おはよう、エルピス)」
洗面所に入ってきたのはエルピスだった。
パジャマ姿の銀髪の美少女は相も変わらずの無表情であるが、平たい胸元で光る二つの赤い石のおかげでこうして会話が出来るのはありがたい。
俺の腰の高さくらいの身長しかないエルピスは、たたたっと俺に駆け寄ると、「ごはんできた」と短く告げた。
クリスのお使いと言うわけだろう。あいつはいい加減、俺を5時半に起こすのを止めてくれないだろうか。無理ですか。そうですか。
俺はがらがらがらとうがいをすると、「わかった、すぐ行く」と伝える。だがそれでもエルピスは戻ろうとしない。俺のパジャマのズボンの端をきゅっと握っている。
「一緒にいく」
ぐはっ。なんという破壊力。だって、ここからリビングなんて数メートルだぜ?一緒に行くったって数十秒間の話だぜ?
そんな間だって離れたくない。
そう言われてるようで思わず俺の目じりが下がる。
「わかった。一緒に行こうな」
俺がそう言うと、エルピスがこくんと頷く。
手をつないで廊下を歩いていると、エルピスがふいに俺を見上げてこういった。
「お仕事…がんばってね…」
うん!パパお前の為にがんばるよ!
俺はこの瞬間、世の父親たちの気持ちを唐突に理解した。
この子の為なら、俺は文句のひとつも言わず、にこにこと仕事が出来るに違いない。
どんな理不尽にもめげずにがんばれるであろう。
俺は不意に上機嫌になって朝食のテーブルについた。
クリスが馬鹿を見る目で俺を見ているが、ちっとも怒りがわいてこない。
こんなかわいい女の子にはげまされて、怒れる奴の気がしれないものである。
第十八話 こうして男は馬鹿を見る
「っざけんじゃねぇぞ!出来ませんじゃねぇ。やれよ!」
携帯端末に向かって怒声を響かせている男がいる。よほど腹に据えかねるらしく、周囲の同僚がドン引きするようなドスの聞いた声で怒鳴り散らしている。
まぁ、俺なんだけどね。
朝の思いは何だったのか。
会社に来た俺はおおよそ信じられない報告を聞いて、仕入先のメーカーの担当者を怒鳴りつけていた。
『はぁ。申し訳ありません。でも、出来ないものは出来ないので』
「それはお宅の都合でしょうが!何で2ヶ月も前に依頼してた材料が明日入んないんだよ!」
『はぁ。忘れてまして』
「だからそれはそっちのミスだろ!ってか、俺2、3回確認したよねぇ?何あれ全部うそ?」
『そうです』
「そうですじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
何だお前は。
ある種の天才か。
俺の血圧を上げる天才か。
「…もういいから。とにかく明日までに材料をつけろよ。お客さんが発掘入れないだろ?」
『ですから、無理なものは無理です』
…もういい。
「知らんからな」
『は?』
ピッ。
俺は端末を切ると、腹の底から深いため息をついた。
どうして世の中にはこういう奴がいるのだろう。
自分のミスを棚に上げて、澄ました顔で出来ませんとか、何なんだお前は。
ミスすることはいい。
まだ、まぁ許せる。人間だからな。
奴が這いずり回ってでも材料を集めようとして、それでも集まりません。すみません、と言うなら俺が客先に土下座してもいい。
だが、あいつのあの態度で俺がそこまでする義理はないし、客の発掘を遅らせるわけにも行かない。
本当はだいっきらいだが、こういうやり方をするしかない。
はぁ。へこむなぁ。
こんなやり方しか出来ない自分にへこむわ。
「珍しく荒れてんなぁ、武村」
うるせー。
俺はにやにやと俺を見る同僚を鬼の眼力で黙らせると、端末に向き合い再び通話を開始した。
さっきまで電話していた俺の担当ではない。
そのボスのボスのボスのボス。
発掘系のトップメーカー、カグヅチのCEOに電話をかけたのだ。
『…役員会議中だ。掛け直せ』
「俺の担当を替えてください」
石川社長はドスの聞いた声でそう言ったが、やはり怒りを含んだ俺の声を聞いて、ほんの少しだけ沈黙した。
『…5分待て』
「わかりました」
一旦端末を切り、俺はカグヅチへ2ヶ月前に発注した伝票を準備しておく。すると僅か2分後、石川社長から電話が入った。
『すまん。お前の担当が無能すぎて、話を聞いたが何を言っているのかわからん。状況を話してくれ』
「役員会議中なんじゃないすか?」
『構わん』
社長がそういうので、俺は伝票片手に2ヶ月前に注文した商品が明日入らなくては困ることを伝える。
担当者の態度などは特に話さない。
そんなことを話さなくても、社長は俺がよほどのことがない限り、仕事のことを直接話はしないと知っているからである。
『わかった。明日だな?何とかする。悪いが納品先と数量を俺にメールしてくれ』
「社長に直接っすか?」
『あぁ。悪いな』
いやいやいや。
超巨大メーカーの大社長が自分で発注業務やるってか。
クレームは初期対応が最重要ではあるが、社長は自分の責任においてこの件を済ませるつもりらしい。
俺は礼を言って通話を切った。
翌日、「クサナギver.10」2000ケース、結界発生装置「岩戸」50機、簡易呪法結晶「勾玉」3万ダースが、滞りなく現場に納入された。
すべて、俺の発注量より2割多く、サービスだと告げられた現場所長からお礼の電話が掛かってきた。
僅か一日でこれだけの物量を揃えるとは…。
さすがはカグヅチのCEOである。
俺が社長の仕事に感心していると、受付から内線が入って呼び出された。
「はい。剣装部武村っすけど?」
『受付です。お客様がお見えです』
はて?約束、あったかな?
「お約束は特にないということなのですが、担当の引継ぎの件でということで、カグヅチの宮下様がお見えですが」
仕事早すぎるよ。
俺は苦笑しながら、俺の新しい担当者であるカグヅチ社員を、応接に通す様に受付に告げた。
やられた…。
俺は完全に石川社長の手腕に脱帽していた。
さすがはカグヅチのCEOである。
俺はそのことを再度痛感させられていた。
「この度は大変ご迷惑をお掛け致しまして申し訳ありません。カグヅチ発掘営業部、特需営業課、営業課長の宮下です」
そう言って、彼女は白く美しい指でそうっと名刺を差し出した。慌ててそれを受け取り自分も名刺を渡す。
その際、当然二人の距離は近づき、そして俺は思わずごくり、と喉を鳴らした。
何度も言うが、俺は人に会ったらまず胸から確認するタイプだ。
宮下レイカ。
名刺にそう記された彼女は、白いブラウスに黒いスーツと言う出で立ちで来社していて、よく女性の営業にあるような明け透けな色気を出しているわけでも、胸元を開いて女性をアピールしているでもない。
しかし、しかしである。
問題は白いブラウスだ。
普通の人間がこれを身に着けても特にどうということはない。
だが。
こと魔乳に属する人間がこれを身に着けるとなると、話はまったく変わってくるのである。
大きく張り詰めた二つの塊が、布地に完全に包まれながらもその豊潤さを見るものに伝える。うっすら透けて見えるような気がするブラのラインと色。
大きすぎるふくらみに、ボタンは悲鳴を上げそうなくらい左右の布地にひっぱられていて、いつ張り裂けるかと期た――、不安で気が気でない。
そしてその上に乗っかっている顔はと言えば、娼婦の様に淫靡…というわけではなく、あくまで清楚でかわいらしい、どちらかと言えば幼さを残した容貌。
しかし年齢はおそらくアヤ姉と同じくらいであり、子供の純真を内に秘めたまま大人となったような、そんな女性であった。
俺のすすめた椅子に姿勢よく座る宮下さんは、そんなに姿勢よく胸を張ったら大きな胸が強調されることがわかっていないのだろうか?
不安そうに眉を寄せ、「この度は本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げる宮下さん。
「あ、いえ。顔を上げてください」
と俺が言うと宮下さんは姿勢を戻し、その拍子に魔乳ぷるんと揺れた。
すげー。
アヤ姉並…。まったくの互角だ。
「これからは私が誠心誠意、武村主任のお仕事のお手伝いをさせていただきます。どうか。これからもカグヅチをよろしくお願いいたします」
そう言って再び頭を下げる宮下さん。
今度はさっきほど深く下げてないが、すると逆に、ブラウスの隙間から禁断の胸の谷間が見えるではないか。
っく。くそ。負けない。負けないよ。俺はおっぱいになんか屈しないよ!
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
気がつけば俺はいい声でそう言っていた。
男って本当に駄目な生き物だと思った。
「どうだ、宮下は?俺のとっておきだぞ?」
「部下をエロい目で見るのは止めてください」
「何言ってんだ。俺は俺の鑑賞に堪える社員を雇う為だけに面接に参加してるんだぞ」
死ね。セクハラ発言過ぎるわ。
その日の夕方。俺は石川社長に呼び出されて、近所の焼き鳥屋で酒を飲んでいた。
社長はこういうとき、キャバクラに行こうとは言わない。
時と場合を、しっかり把握した人間なのであるう。
「実は親戚の娘でな。姪にあたる。とは言っても縁故でとったわけじゃない。優秀だから会社に入れたんだ。宮下は冗談抜きで有能な社員だ。これからはあんなことはないと思ってくれていい」
「まぁ、あれは事故みたいな事っすからいいっすよ。結果的にものが間に合ったわけだし」
「そう言ってくれると助かるな」
社長はそう言ってくいっと酒を煽る。
そのとき、ピピピピと社長の端末が鳴った。
「ん?どうした。あぁ、いや、今武村と一緒だが。ん、いや、まぁいいが。場所はわかるか?」
ピ、と社長が端末を切る。
「どうしたんすか?」
「ん?いやな」
「こんにちわー」
「へ?」
がらがらがらっと扉を開けて、一人の女性が店内に入ってくる。
それはスーツから、ハイネックのセーターに着替えた、宮下レイカの姿であった。
窮屈なブラウスではなく、ゆったりとしたセーターの中の魔乳を想像して、俺は思わず生唾を、ってそうじゃなくて、なんで?
「いや、たまたま近くにいて来たいって言うから呼んでやった。営業同士、酒で親睦を深めるのも悪くはないだろう?こいつはかなり飲める口だ」
「おじさ――、ごほん。社長。私の酒量はほどほどですわ」
「ま。そういうことにしといてやろう」
ほんの少し頬を膨らませて、宮下さんはするりと俺の隣の席に腰掛けた。
「突然お邪魔してご迷惑でしたか?」
宮下さんが遠慮がちに上目遣いでそういうのを、迷惑だ何て言える男が存在するとお思いか。
「いや。ちょうど社長と二人じゃ色気がないなって思ってたとこですから」
「ほお。いや、まぁ。まったく同感だがな。実はなレイカ。俺と武村は女の趣味がかなり似通っていてな。お前のようなでかい乳の女に目がないんだ」
おい。おっさん。酒は言ってるからってやめろ。セクハラ慎め。あと俺も巻き込むな。
すると宮下さんは「まぁ」と言って目を丸くして、しかし次の瞬間には微笑をたたえてこう言った。
「でも良かった。武村さんに嫌われたのじゃないかと不安になっていたから」
品のいい、甘い香りの香水が僅かに香る。
子供のように純真だなどと、俺は完全にこの人を見誤っていた。酸いも甘いも味わって、清も濁も飲み込むような大人の女性。
アルケイックな女神のように微笑む宮下さんに瞳を覗かれて、俺は少年のように鼓動を早くしたのだった。