翌日。
手早く仕事を終わらせた俺はパン研を訪れていた。
時刻は夜8時。
当然の様に煌々と灯がともった研究所に溜息を吐くと、俺は気持ちに急かされるままに、研究所内に足を踏み入れた。
「おお。来たか」
研究室ではおっちゃんが昨日と同じ白衣姿で一人の少女に向き合っていた。これは同じ白衣を何着ももっているとかいうことでは断じてない。
昨日とまったく同じ格好をしてここにいるということだ。
「風呂くらい入ったら?」
「入ったわい」
心外な、とでも言うようにおっちゃんが肩をいからせる。
風呂入って同じ服着てたら世話無いわ。
「アヤ姉は?」
「朝顔を出したがな。流石に忙しいらしい」
それはそうだろう。アヤ姉は世界最大企業の一角、パンドラグループのトップである。それも財界やら政界やらから虎視眈々とその失脚を狙われ続ける新参者に過ぎない。
懸念事項は山ほどあり、日々その処理に忙殺される。
そして、目の前に新たな、そして巨大な懸案事項が一つ。
「エルピス…」
俺の呟きに、銀髪の少女はこくりと頷いた。
第七話 武村家へようこそ!(前編)
「髪を少しだけもらってDNA鑑定にかけたが、現生人類のどの段階とも似ていない。それどころか、700万年遡っても、彼女と同じ塩基配列の人類は多分存在しないぞ」
「人間じゃない、のか?」
「それが、物理的にも神理的にも完全に人間なのさ。我々と同じに呼吸し、飯を食い、成長し老いて死ぬ。ただ、まるで何も無いところから造られたみたいに、進化の痕跡のないDNAを持っているというだけだ」
「神理的辻褄合せってことなの?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。はっきり言ってお手上げだな。彼女が話す言語は唯一自分の名前らしき言葉だけ」
「エルピス…か」
俺がもう一度その言葉を呟くと、少女は俺の方を振り返ってこっくりと頷いた。どうやら自分の名前が呼ばれていることは分かるらしい。
流石に裸のままでは不憫と、スタッフが急遽買ってきた膝までの白いスカートとレースで飾られたブラウスは、彼女のどこか神秘的な雰囲気に良く似合っている。
愛らしい美少女だ。
表情と言う表情が、まったくないのが残念ではあるが。
俺は思わず少女の頭に手を置くと、その銀の髪を撫でてみた。
意外にも、少女は気持ちよさそうに眼を細め、されるがままになっている。
「おい。埋設物に気軽に触れるなよ?」
「埋設物かどうか、分かんないでしょ?」
二階堂のおっちゃんが見咎めたように言った言葉に、俺は肩を竦めて見せた。
「完全に人間なんだろ?危険はないっしょ」
「まぁ、多分な。しかし、しっかり懐かれたな、トモキ」
「子どもには好かれるんだよ、昔から」
「女に、の間違いだろ?」
と、ニヤニヤしながら言う眼鏡のおっさん。何を言う。人聞きの悪い。
「まぁ何にしろ、俺が調べて分からんのだから誰が調べてもわからんだろう。アヤちゃんはこの子を当分の間秘匿することに決定した。世間には公表せず、パンドラで身元を預かる」
「秘匿ったって、どうすんの?まさか、ここで育てんの?」
俺は少女のやわらかい髪を撫でながら大げさにそう言ってやった。こんなおっさんと一緒に暮らしていたら、教育上悪すぎる。
「それこそまさかだ。スタッフが順番に家につれて帰るという案もあったんだがな」
「犬猫じゃないんだからさ」
「そう。それに、皆帰りが遅いからなぁ」
それはそうだろう。かと言って俺もアヤ姉も帰りは遅い。下手したら午前様の時もある。とても子ども一人養える環境ではない。
「と、言うことでだ。トモキ。俺と匣崎代表は一致した、一つの論理的帰結に達した。もうこれ以上ないと言うくらい理想的な案だ」
ぶるっと俺の背中が震える。何今の寒気?滅茶苦茶嫌な予感しかしないんだけど?
そして俺の予感は的中する。こんなときだけ俺の直感は、多次元コンピューティングのラプラス予知並である。
「この子、お前のとこで面倒みろ」
おっちゃんの言葉に、俺は心底から絶句した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
次の日は土曜日。俺はバイトをキャンセルして東京タウンのはずれ、いまだ緑がうっそうと残るジャングルみたいな所に来ていた。
目の前にあるのは無駄にでかい家だ。初心者は遭難すること間違いなしのうっそうとした林を抜けた向こうには、近所の子どもからお化け屋敷認定間違いなしのでかい洋館が聳えている。
内装も期待を裏切らない旧世紀前半ばりばりのレトロ趣味だ。
この家の主の懐古趣味にも困ったものである。
ここに来るのは半年振りか?もっとか?よく覚えていない。
あまり来たい所ではないので、自然足が遠のくのである。
「久しぶりだが、相変わらず大きな家だな」
俺の隣には珍しく私服姿のアヤ姉がいた。タートルネックのセーターにタイトなスカートを白いロングコートで包んだその姿は、俺の着衣萌え魂に火をつける素晴らしい格好だ。
セーターというのがいい。セーターというのが。
盛り上がる二つの膨らみが一層強調されて目の保養になるからである。
訪問者は俺とアヤ姉だけではない。
俺の手をしっかりと握って、とてとて付いて来る、小さな銀髪の少女も一緒である。
余所行きの白いワンピースに身を包んだその姿は、さながら森の妖精といった風情である。
「エルピス…。大丈夫か?もう少しだからな」
俺がそう言うと、少女はこっくりと頷いた。
ピンポーン
『はーい。どちら様でしょうか?』
旧世紀から変わらないレトロなベルを鳴らすと、インターフォンから妙に丁寧な女の声が聞こえる。
相変わらずか。
俺は溜息とついてからインターフォンに向かって言葉を発した。
「俺だよ。開けてくれ」
『あら、お兄様ですか?どうされたんです。一年ぶりでございますねぇ』
どうやら一年ぶりだったらしい。思ったよりも家を空けていたようだ。
「いろいろあってな。通信じゃ話しにくいから直接来た。いいからとっとと開けろ」
『ご事情は分かりかねますが、ひとまず分かりましたわ』
突然の訪問で留守だったらどうするのかって?
大丈夫。この家の住人が家を出ることは隕石でも降ってこない限りはあり得ない。
…ひょっとしたら降ってきてもないかもしれない。
恐ろしいほどのものぐさ人間たちなのである。
がちゃ、と門が開いて、俺たちは林の中をひたすら歩かされる。今時自動歩道もない石畳の上を、しかも全然手入れされていないために木々が張り出し放題の中を進まなくていけない。
俺はエルピスの手を握る力を強める。エルピスもしっかりと握り返してきた。しゃべらないし、表情が乏しいので何を考えているのかは分からないが、遭難されるわけにはいかない。
やがてようやく俺たちは洋館の前にたどり着いた。
そこには頭にカチューシャを付け、白いフリルとアクセントにした黒のエプロンドレスを着た女が、妙に綺麗な姿勢で一礼していた。
人は多分あれをメイド服と呼ぶのだろう。
ふわりと広がったスカート。
きゅっと絞られた細い腰。
そして大きな胸を強調する胸元が開いたデザイン。
それでいて首からはネクタイが下がっているので、それは当然胸の谷間に落ち込むことになる。
そしてカチューシャが乗っかるのはぱっちりとした青い目に、豪奢な絹糸のような金髪に白い美形の子顔である。
これでもかと言うくらいに萌要素を搭載した様なこの女の姿に、俺としたことが全然萌えない。
それもそのはずである。
この明らかにコンセプトを間違えたメイドの格好をした頭の可愛そうな女。恥ずかしながらこの女こそ、俺の実の妹、武村クリスなのである。
「は?」
クリスは俺を見るなり、そう言って絶句した。そしてアヤ姉とエルピスを交互に見た後、もう一度俺を見て、そしてふるふると震えだした。
「クリス…?」
俺が眉をしかめて妹を呼ぶと、クリスはそのまま突然に洋館の中に引き返し、そしてキンキンと耳にやかましいそのでかい声で喧伝するように叫びながら走るのだった。
「お、お父様!お兄様が!お兄様がついにアヤコ様と子どもをお作りになりましたーーーーー!」
「ちょっ、ククククククク、クリスちゃん!違う!それは違うぞ!」
「…馬鹿妹が」
俺は思わず頭を抱えて頭痛に耐える。
あり得ない勘違いにアヤ姉は口をぱくぱくと開けたり閉めたりしている。
ただ俺の手を握るエルピスだけが、きょとんとした顔で首を傾げていた。