でかいビルだった。
ビルにはやはりでかい看板が設えられていて、「世界政府 旧日本地区行政館」と書かれている。
国家が解体された現在社会に唯一存在する権威。
世界政府の門戸は硬く閉ざされていた。
常に二人の門衛が奥のビルに続く道の前を警備し、すべての車両をチェックしている。門衛は腰に装剣を提げた、一目で手練とわかる使い手だ。
鋭い眼光には一部の隙もないように思える。
だがそれがどうしたといわんばかりに。
つかつかつかとハイヒールを鳴らしながら母さんが歩いていく。
門衛は一瞬その美しさに目を奪われたようだが、ぶんぶんと首を横に振って母さんの前に立ち塞がった。
「レディ。失礼ですがお約束はおありですか?」
丁寧な言葉の中にも威圧を込めて門衛は母さんにそう言った。まだ若い、だがガタイのいいあんちゃんだった。
そんな門衛に、母さんはにこりと笑いかける。
「『アバドン』」
「は?はぁっ!?」
突如、男の足元の地面の空間が歪曲し、門衛の男が腰の辺りまで飲み込まれる。呪法…だと思うが、どうしてこの人は換装してないのにこんな真似が出来るのか、誰か教えてください。
「ほら、行くわよ、トモキ?何ぼっとしてんの」
母さんに言われて俺は慌てて後を追った。
ビルから次々に出てくる人間達が、やはり次々と地面に飲み込まれていく。
みんな断末魔の悲鳴とか理不尽に対する絶叫を上げているが、母さんが歩くスピードは少しも変わらない。
「でも、大丈夫なのか?通報されて、警備が来たら面倒なんじゃ…?」
俺がとても5(ピー)台の尻とは思えぬタイトスカートを突き上げるぷりぷりのふくらみを追って歩きながらそう言うと、母さんは大丈夫よ、とのたまった。
「事前にあらゆる電子機器を停止させておいたし、通信網からも分断した。第一、ここは今亜神域にしてあるから、外からは神理的にも絶縁されてるわ」
おいおいおいおいおいおい。
どこのテロリストだ、あんたは。
換装なしで呪法なんておかしいと思ったが亜神域とは…。
どうやったらそんなことができるんだ?
電子機器を停止云々はまぁわからないでもない。
母さんは神理コンピューティングの始祖とも言える人間であり、あらゆるプログラム言語に彼女の手が加わっている。
どうやらその時点で何らかの細工がしてあるらしい。
どんなセキュリティもファイアウォールも彼女の前ではざる同然。
俺たちが日々享受している神理的アーティファクトの根幹には、この女性が仕掛けた爆弾が眠っているというわけだ。
とか考えている間にも母さんはつかつかと颯爽と歩く。
あちこちから悲鳴とか怒号の声とかが聞こえてくる。パニックになってるなぁ。
急にパソコンが動かなくなり、通信がつながらず、警備員が全滅したのだ。
人事だけど、とても同情します。
やがて勝手知ったる他人の家にとでも言うように、淀みなくエレベーターの前にたどり着いた母さん。そのまま流れるような動きでボタンを押して、さっさと乗れと言うように俺を促した。
「母さん、ここ来たことあるの?」
「ないわ」
「何でこんな的確に道がわかるの?」
俺がそう言うと、母さんは、何だそんなこと、とでもいうように面白くなさそうに言った。
「セバスチャンにテレパスでナビさせてるわ。別にどうってこはないでしょ」
は?テレパス?
それ以前になんで最高機密だろうこのビルの間取りを知ってんの?
俺の疑問などどこ吹く風。
チン、と音を立ててエレベーターが停止する。
エレベーターが開くと物々しげに数人の警備員が群がってきて―――。
「『アバドン』」
床に沈んでオブジェと化した。
合掌。
第16話 悪魔は誰だ
バン、と蹴破るようにして扉を開ける、母さん。
その拍子にパンツが見えたかもしれないが気にしないらしい。
すらりと伸びた足が蹴りつけたその扉には、世界政府旧日本地区統括室と書かれたプレートが掛かっていて、さらにその足は、机に向かって可哀相にびっくりと目を見開く、神に愛されなさそうなバーコード禿のおっさんの姿があった。
「ずいぶん高く喧嘩を売ったわね?」
「だ、誰だ!」
おっさんの机の上には室長と書かれた三角錐が置かれている。
ということはこの駄目そうなおっさんこそが、世界政府の日本支部の、そのトップであるのだ。
よく見ればよさそうなスーツを着ている。完全に着られているが。
「武村家家長、武村トーコ。身内が迷惑かけられたお礼をしに来たわ」
ん?今の台詞どっかおかしくないかって?いや、別に特におかしいところはない。
家長というのは厳然たる事実なのだ。
何故なら俺の父親は武村家へ婿養子に入った旧性レイモンド・ラッセル。癪に障るがラッセルの超言語と言えば小学校の教科書にも載っている。
親父は飛び級で14歳で大学院で学んでいたとき、当時としては日陰者だった神話層の神語的解釈で熱弁を振るっていた神理博士、つまり若干16歳の超天才、武村トーコに一目ぼれしたのだと言う。
この辺りは神理学者の間ではそれこそ神話的だ。
同じ大学に神話的利器工学で一躍有名になる二階堂のおっちゃんや、「神話的埋設物の積極的活用の提唱」で教科書に載るウォーリー・ヴィンセント、後にパンドラグループを興すアヤ姉の親父さんである匣崎タケフミ、そしてラプラス的予知理論の提唱者で、量子予知力学者のフラッガーが居合わせたというのだから驚きである。
「武村トーコ…?」
おっちゃんが訝しげに眉をしかめる。
そして値踏みするように母さんの全身を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「何を言い出すかと言えば、言うに事欠いて武村トーコだと!馬鹿は休み休み言え。お前の様な小娘が武村トーコのはずがないだろう!」
「…小娘?」
やばい…。
俺の隣で、母さんの額にびきりと青筋が走った。
体感的には角が生えたようにさえ見える青白いオーラが立ち上っているようだ。
まずい。やばい。やめろおっちゃん。それ以上言うんじゃない。命が惜しかったら黙れ。命が惜しくなくても黙れ。
俺はあんたの自殺行為に巻き込まれたくねぇ!
だが俺の願いも空しく―俺の願いは大抵空しいが―、おっちゃんは言ってはならない一言を豪快に口にしたのだった。
「武村トーコは今年57になるババァだ!お前の様な小娘のわけが――」
おっちゃんはそこまでしか言葉を紡ぎだす事ができなかった。
いつの間に、そしてどこから現れたのか。全身黒尽くめの若い男が、突然に現れておっちゃんの口を後ろから塞いでいたのだ。
「お呼びでしょうか?奥様」
「セバスチャン、その男、不快だわ」
セバスチャン?セバスチャンって今言わなかった?
かなりの長身イケメンである執事服姿のその男は、深々と母さんに礼をしてから。
何とおっちゃんの首根っこを掴んで後ろの壁にたたきつけた。
「うげ、う、うぐぐ…」
うめき声をあげるおっちゃん。
細腕に見える片手で首を支えられてる為、かなり苦しそうだ。
盗み見ると、母さんがその様を実に楽しそうに見ている。
馬鹿!本当に馬鹿!この世で一番敵にまわしちゃいけない人を敵にしたら駄目でしょ!
じたばたじたばたともがき苦しむ男を見て、俺はさすがにやばいと思って母さんに進言した。
「か、母さん。その…その辺にしたらどう?死んじゃうよ?」
実に控え目に。
「死ねばいいんじゃない?」
えええええええええええええええ。左様ですか。いやさすがにそれはちょっと…。
「仕方ないわね。セバスチャン、その辺でいいわ」
母さんがそう言うと、セバスチャンはおっちゃんの首根っこを掴んだまま、今度は仰向けに机に叩きつけた。
首根っこは押さえたままなので、自然首は上を向き見上げる形になる。
つかつかと歩み寄る母さんがおっちゃんに向かって腰を折ったので、おっちゃんの目の前には揺れる二つの果実が見えるはずであるが、とてもそれを堪能する気分ではないだろう。
「やさしい息子に感謝するのね。いい?小野寺室長。寛大な私は選択肢をあげるわ。今後一切私たちに不干渉であること。エルピスは諦めなさい。私がもらう。あの小娘もね。もしそれが出来ないなら――」
そう言って母さんは天を指差す。
後ろからその様を見る俺にはすっきり背筋を伸ばした美しい姿勢が見えるだけだが、おっちゃんの目の動きでおっぱいが弾んでいるのがわかった。
おっちゃん。こんな時まで男だな。
ドン!
俺がおっちゃんに同情を示した一瞬の後。
おっちゃんが突っ伏す机の上。
つまりおっちゃんの頭のすぐ隣に、炸裂するように何かが突き立った。
見ればそれは槍である。
天井をぶち破って降ってきたその槍は、真っ赤に焼けていたがやがて冷え、鈍色の神々しい姿を見せ付けた。
「グングニルレプリカver.11。私の私費管理衛星に搭載した軍事用狙撃システム。見ての通りナノ単位の狙撃精度を誇る純然たる兵器よ。あなたの頭に当てることも出来た」
ええっと意味がわかんないんだけど、要するにそれ宇宙から降ってきたってこと?
亜神域同士を結んで量子予知的ショートカットを作ったのか?
いや神理学的置換作用か。
まぁこの際何でもいいや。
にこりと、母さんが微笑を浮かべる雰囲気が伝わってきた。
だが、おっちゃんはその天使のように愛らしいだろう笑顔にひぃっと悲鳴を上げる。
見れば槍から黒い霧が染み出している。
それはまるでデモンの様に、だんだんと実態を取り始めた。
「グングニルは戦の始まりを象徴する神の武器。放置すればラグナロクと呼ばれる亜神域を自動で現出させ、向こう3ヶ月デモンを生成し続ける。人間だけが排除される、実にクリーンな兵器よ。ねぇ、どうする?」
悪戯っぽく肩を揺する金髪の悪魔。
おっちゃんは首根っこ押さえられたまま、助けてくれ、と呻いたのだった。