「家に寄るわ」
混沌とした世界政府のビルを後にして、俺にそう告げた母さんに従い車を走らせる。わかってはいたが、俺に会社に復帰するという選択肢はないらしい。
「しばらく家にいるの?」
「いいえ。すぐ月に帰るわよ。折角だからあの人には月で手伝ってもらおうと思って置いてきたから、しばらく家を空けることになるわ」
親父…。相変わらず母さんには弱いなぁ。
まぁ母さんに強い人間がいるものなら是非お会いしたものだが。
秘訣とか教えてください。
「今、掃除させてるのよ。あ、クリスとエルピスもこっちに呼んであるからね」
一言の相談もなしにそんなことが決まっているが俺は文句ひとつ言わない。何て言うか、もう慣れたよ。
『奥様。クリス様から通信が入っております』
突然、車が母さんに話しかける。
つないで、と短く答える母さん。そう言えばさっきのイケメン執事のセバスチャンは何だったんだ?どっちかというとデモンに近い雰囲気を感じだけど、まさかね?
『お掃除は大体終わりました。今お戻りになられればお茶をご用意できます』
「わかったわ。あの子はどう?使える?」
『それはもう。ただ、少しばかり堪え性がないですね。まぁそれは追々躾けていくとして。ふふふふふ』
「そう。楽しみね。直に着くわ。ダージリンでお願い」
『かしこまりました』
ピ、と言って通信が切れる。
何だろう。
ものすごく嫌な予感がするんですが。
何、妹のあの邪悪な微笑みは?
俺はこの後、俺の嫌な予感が全面的に的中したことを知るのであった。
第十七話 続・武村家へようこそ
そうこうする内に車は家にたどり着いた。
車庫入れをセバスチャンに任せた俺たちは、無駄に長い門を抜けて、巨大な屋敷にたどり着く。
「お帰りなさいませ。お母様。お兄様」
「疲れたわ。何か甘いものをくれる?」
「かしこまりました。スコーンを焼いてございますが、そちらでよろしいでしょうか?」
「気が利くわね。ありがとう」
すたすたと歩いていく母さんに従って俺は居間へと入っていく。
ソファの上に、エルピスがちょこんと座っているのが見えた。
豪奢な金髪の少女は、俺を見とめると、ソファを飛び降りてたたたたたっと駆けて来た。
そのまま俺の脚にひしっとしがみつく。
うわ、何この子かわいい。
俺は思わずエルピスを抱き上げると、だっこして俺と向き合わせた。
「何だ。寂しかったのか?」
俺がそう聞くとエルピスはぶんぶんと首を横に振る。
強がっちゃってまぁ…。
最近俺を癒してくれるのはお前だけだよ、エルピス。
「節操がないわね。そんな小さい子にまで手出してるの?ほどほどにしときなさいよ」
「出してない出してない」
俺は全力で否定する。母さん、あんた息子を何だと思ってるんだ。
大体ほどほどならいいのか。
「まぁいいわ。クリス。私の鞄を持ってきてくれる?」
「承知いたしました」
俺の弁解はどうやら受け入れられなかったようで、母さんはどうでもいいと言う風にクリスにそう命じた。
おい。あんた自分の息子が性犯罪者でもいいのか?
いや、俺は違うよ?違うけどもさ。
「こちらでよろしいですか?」
「ありがとう」
程なくクリスが高そうな黒い鞄を持ってくる。それを受け取った母さんが、中から黒いチョーカーを取り出した。
チョーカーの先には白い水晶が二つほど設えられている。
だがその水晶、どう見ても唯の石ではない。
存在するだけで並ならぬ神力を感じる。
「クリス、お茶の用意を。トモキ、これをエルピスにつけてくれる?」
「いいけど、これ、何?」
俺の質問に母さんはにんまりと笑って答えた。
「ファフニールハート。作るのに苦労したわ。作ったのは父さんだけど」
「ファ、ファフニールってあの?」
北欧神話に出てくる魔竜ファフニール。ニーベルンゲンの指輪でも有名なあのファフニールか。確か、その心臓を食べた主人公は…。
ごくり、と俺はのどを鳴らしてエルピスを一旦床に下ろす。
きょとんと首をかしげる彼女の金髪を書き上げると、母さんから受け取った黒いチョーカーをその首に回した。
すると白い水晶が血のようなワインレッドに変わる。
うおっと俺が気おされていると、その変化は静かに起こった。
「トモキ…?」
俺と出会って二週間。親父と話した以外では聞いたことがなかったエルピスの声。しかもそれは俺にもわかる標準言語での発話であった。
「エルピス、俺の言葉がわかるのか?」
「うん、わかる。すごい…。これが人の子の利器…」
うん、若干キャラが想像と違うけど、それはそれでよし。その美少女の外見に恥じぬ鈴を転がすような美しい声で、エルピスはためらいながらも確かに話していた。
「では、お茶に致しましょうか?」
クリスがそう言ってにっこりと笑った。
「…ありがとう。…やっとトモキと話せた…」
「いいえ、礼には及ばないわ。エルピス」
テーブルに座りなおして、俺たちはお茶の用意を待っていた。
いや、しかし驚いた。
どういう原理になっているかは例によってまったくわからないが、エルピスの言葉が俺たちにわかるし、俺たちの言葉もエルピスにわかるらしい。
舌ったらずな少女らしい口調でその言葉はどこかたどたどしい。もともと彼女がこういう口調なのかファフニールハートが完全ではないのか。
だがその朴訥な感じがなんだか庇護欲を増進させ、俺の心の底の開けてはならない扉をむずむずさせる。
トモキ。その扉は閉じておきなさい。
「ありがとう…」
「ん?」
「ずっと…トモキにお礼を言いたかった…」
エルピスがそう言って俺の服の裾をきゅっと掴んだ。
相変わらずの無表情だが、どこか恥じらいを含んだその台詞に、不覚にもどきりとしてしまう俺だった。
竜の心臓を食べた英雄は動物の言葉がわかるようになって危難をかわしたと言うが、俺、何か逆に追い込まれてない?
「三日寝ないで作らせた甲斐があったわ」
母さんがそう言って満足げに微笑む。
親父…。こき使われてんな…。
俺はコンマ1秒ほど、心の中で親父に深い同情をすると、視線をエルピスにうつす。
何せこれまで身振り手振りでコミュニケーションをとってきたのである。
話したいことが一杯ある。
だがそこで、トントンと扉がノックされる。
「どうぞ」と母さんがいると、クリスと、そしてもう一人の人影が盆を持って室内に入ってきた。
見ればなかなかの巨にゅ、いや美人である。
クリスと同じメイド服を着ているが、遜色ない巨にゅ、美しい女性であった。
ばっくり開いた胸の谷間にネクタイが落ち込んでいるのがクリスと同じだが素晴らしい。
張りのある、それでいてやわらかい乳は、アヤ姉には劣るがクリスを凌ぐのではないか。
あの、もっと別のものをはさんで貰えませんかと思わず言いたくなる。
新しいメイドなのかもしれない。
俺は顔を確認しようと、ふと視線を上に上げて…。
…ん?
その顔をまじまじと見て、俺は表情を硬直させた。
ほら、俺ってさ。
胸から人を見る癖があるからさ。
その人が長い黒髪をしていることに気づくのに時間がかかったのである。
そして愛らしい唇や、小さな鼻や、パッチリした目をしていることに。
「ユ、ユユユユユユユユユユユ、ユキぃぃぃぃぃぃッ?」
「は、はい。お客様」
今にもパンツが見えそうなミニスカメイド服で涙目になりながら、恥ずかしそうに頬を染める女性は確かに今際ユキ。
かつて俺が愛した恋人であった女性であった。
「まだ、調きょ、ごほん。見習い中だから何かと粗相があるかもしれないけど、よろしくしてあげてね、トモキ」
「か、かかかかかかかかかかかか、母さんッ!」
「何?」
何か問題でも?という風に小首をかしげる母さん。
うん。どこからどこまでも問題だらけなんですけど!
「ほら、彼女。前回の件で政府を首になってね。行く所ないって言うから母さんが雇ってあげたのよ。エルピスの世話をさせるのにクリスは置いておかないといけないじゃない?月で雑よ、研究の手伝いをする人材がほしくてね」
今雑用って言ったよね?大体研究の手伝いにメイド服の着用は義務付けられてないよね?
「そうよね。ユキさん?」
「…奥様の仰るとおりです」
ユキは屈辱に赤く染まった頬でぎこちない笑みを浮かべながら、お菓子とお茶を給仕していった。俺はそんなユキの姿を思わずまじまじと見る。おっぱいとかふとももとかお尻とかおっぱいとか。
俺の視線が屈辱なのだろう。
その表情がいっそうぎこちなくゆがむ。
「あらら?ユキさんは嬉しくないのかしら?困ったわ。ユキさんの為になると思ってやったのに。弱ったわねぇ。ユキさんと”お話し合い”が必要かしらねぇ」
お話し合いという言葉を聞いたユキの変化は劇的だった。
びくり、とその身を震わせ、震えた拍子にむき出しの乳房がふるると揺れる。
そしてなぜかスカートの裾(短いから自然それは股下のあたりになる)をぎゅっと握り締め、何かに耐えるようにもじもじと内股をこすり合わせる。
そして、唯の羞恥とは違う、どこか艶香の漂う淫靡な朱色に、頬やむき出しの乳房が染まり、恥辱にどこか期待感が混じった表情で、切なげに母さんを見るユキ。
え?
何?何これ?
なんだか知らんけど萌えるぞ、オイ!
「滅相もありません。奥様。奥様に拾っていただいたご恩を、ユキは一生忘れません」
「そう。良かったわ。じゃあ、あとでご褒美を上げないとね」
びくりっと再び震えるユキ。
その口が半開きに開かれ「あ…」と恍惚に震えた声が発される。
ごめん。ここ、全年齢板なんだけど?
この僅か一週間の間にユキに何が起こったのか。
知りたいようで、まったく知りたくない。
この世には開けてはならない扉がいくつもあるのである。
その後、しばらく穏やかな(?)談笑をした後、母さんが席を立った。
「エルピス、ちょっと私と洋服を見に行かない?クリスのお古だけど、あなたに会う服を見繕ってあげるわ」
母さんの言葉に、エルピスがどうしよう、と言う風に俺を見たので頷いておいた。
「うん…いいよ」
そしてエルピスは母さんに連れ立って部屋を出て行った。
小一時間後、俺とクリスはエルピスを連れて帰路に着いた。
帰り際ユキが捨てられた子犬のような目で俺を見たが、俺は諦めろと心の中で言うしかなかった。
ごめん。俺は無力だ。そっちでそれなりの幸せを見つけてくれ。
洋服をいっぱいもらったエルピスは無表情なりに嬉しそうにしていた。
だから俺はこの時点では何も知らなかったし、気づかなかったのである。
俺がいない間の二人が、どんな言葉を交わしていたのかということを。