その日、珍しく現場からの呼び出しを受けなかった俺の仕事は順調に終わろうとしていた。なんと現在午後6時半。
この段階ですでに終りが見えているのである。
あとは、この書類に部長の判子をもらうだけ。
どうせ部長はめくら判である。
「部長、これお願いしまっす」
「はぁい」
うちの部の部長は女性だ。その名も斑鳩クララと言う。だが初めて会う人は皆彼女のことを少女だと言ってはばからないであろう。
身長135、体重秘密、スリーサイズ?なにそれ?おいしいの?といった合法ロリぼでぃを誇る我らが部長様は、そのご尊顔も愛らしく、にぱっといった笑顔が似合う。口調もどこか舌足らずで、一緒に営業に行くと飴をもらえる始末である。
その手の趣味の奴には堪えきれない一品であろう。ごめん。そっちに俺いないんだ。
これで36歳だというのだから世も末である。
「武村くん、今失礼なこと考えなかったー?」
「まったくもって気のせいです。ほら、しゃきしゃき判子押してください」
「しゃきしゃき?」
部長がそう言って小首を傾げると長い黒髪がふわさっと揺れた。髪を伸ばさないとバランスがとれないらしい。
ともかく、これで俺は解放される。
今日の俺の仕事終了の福音を告げる判子がぽん、という音を立てる前に、しかしデスクの電話がぷるるるるるる、とけたたましく鳴った。
「内線?誰かしらぁ?」
部長はがちゃっと電話を取ると、大きな受話器を小さな両手を使って苦労して耳に当てる。誰だこの幼女採用した面接官は。
電話の先の人物に、笑顔ではい、はいと答えながら部長はこくりこくりと頷く。やがて1分ほど話した後、部長はお疲れ様です、と電話を切った。
「ささ、部長。電話終わったなら、判子を」
俺がそう言ってずい、と書類を突き出すと、部長はそれを受け取ってひらりと取り上げた。
「これじっくり読むから、武村くんはお仕事しててくれるー?」
おい。お前いつもめくら判だろうが。ときどき漢字の読み方が分からなくて俺たちに聞いてくるだろうが。まじめに誰だこいつ採用したの。
「社長が呼んでるからー。今すぐ社長室に来いってー」
「は?」
俺を開放するはずの白い紙が、部長の手の中でふわふわと踊った。
第三話 匣崎総帥
「剣装営業部 主任 武村トモキただいま参りました」
「うむ」
でかい部屋である。
それもそのはず。
128階という階高を誇る我がパンドラ本社ビルの最上階は、ワンフロア丸ごと社長室なのだ。とてつもなくどでかいガラス張りの部屋の中にひとつだけぽつんと置かれた社長のデスクという絵はシュール以外の何物でもない。
たぶんこれ、遠まわしの嫌がらせだと思う。
「それで、何の御用ですか。匣崎社長」
俺はたった一つのデスクに肘を突いて座る妙齢の女性にそう声を掛けた。この女性こそが世界最大資本を誇るパンドラグループの現総帥にして、総合商社パンドラのCEO。
本来であれば俺の様なヒラ社員が会うことなど年始の社長訓示くらいだろうという財界の怪物の一人。
アヤコ代表取締役であった。
「…ひとつだけ言っておく」
低い、不機嫌な声で社長はそう言った。流石に世界経済の一角を似合う人物の迫力は違う。カグヅチの石川社長もそうだが、有無を言わせぬカリスマのようなものを感じる。
俺が思わずごくりと唾を飲み込むと、社長はすっと俺の目を睨むように射抜いた。
「二人きりの時にはアヤ姉と呼べと何度言ったら分かる!他人行儀は止めろ!べ、別に傷ついてるわけじゃないからなっ」
「普通逆じゃね?」
「うるさいな」
そう言って社長ことアヤ姉は胸の前で腕を組んで椅子にふんぞり返る。ちなみに鈴木社長が巨乳ならアヤ姉は魔乳である。
両腕によって持ち上げられたその双球が、スーツ越しにも俺に存在感を見せ付ける。そもそも俺のおっぱい属性はこの人によって与えられたのだから仕方ない。10歳くらいですでにDカップあったことを、幼馴染の俺は知っているのである。
「まぁいいや。アヤ姉、何の用?俺今日は早く帰って寝たいんだけど」
「ふん。べ、別に大した用事ではない」
「あ、そ。じゃあ」
「おい!帰るな。そこに座れ」
俺はしぶしぶアヤ姉が指差した応接セットに腰掛ける。アヤ姉もまた、デスクから立って俺の前に座る。
しかしすごい身体だ。
身長172。体重は秘密。スリーサイズは上から98、56、88と言うモデルもびっくりの引き締まった27歳。これで剣の腕も俺と互角と言うのだからパーフェクト人間と言うのは存在するものである。あ、情報元は企業秘密で。
長い黒髪をポニーテールにしてまとめた切れ長の目をした怜悧な美女は、俺の前にどっかり座り、揺れる乳でひとしきり俺の目を楽しませてから口を開いた。
「貴様、一昨日。またカグヅチにバイトに行ってきたらしいな?」
「え?まぁ」
まぁ会社員として褒められたことではないが、一年も前からあそこでバイトしてることをアヤ姉は知ってるのだから、今更である。
何を言いたいのかいぶかしがる俺に、アヤ姉は暑いのかやや頬を赤くする。
「その、また石川社長にスカウトされたのだろう?カグヅチに来い、と」
「え?あぁ、まぁ。何で知ってんの?」
「石川から電話があった。武村を寄越せって」
あの親父…。
「その、あのな。その…何て答えたのかな、て思って…」
そのまま俯いてしまう匣崎パンドラグループ総帥。俺ははぁ、と溜息をついて、ぐったりとふかふかの椅子にもたれた。
「謹んでお受けしますと、答えた」
「うそ!」
「うそ」
「タケちゃん!」
そのまま物凄い勢いで立ち上がるアヤ姉。やべ、流石に怒られる、とか思っていると、怒声の代わりにひく、ひくとしゃくりあげる音が聞こえてきた。
「そ、そういう、そういうことは、ひくっ、いっちゃ、ひく、だめだよぉ、ひっく…」
「ごめん!ごめんなさい!俺が悪かった!だから泣き止もうね。もう27だからね!アヤ姉、ほら~。タケちゃんだよー。どこにも行かないよー」
「タケちゃんが、タケちゃんがいじわる言うからー」
「ごめん!本当ごめんなさい!まさか泣くとは思わなかったんだよ」
「だって、ひっく、だってタケちゃんがぁ」
「悪かった、どこにも行かないから。ね?泣き止んで?ね?」
「本当?本当にどこにも行かない?」
「行かない行かない。路頭に迷う」
「本当の本当の本当に?」
「本当の本当の本当に」
ブラックスーツでばしっと決めた年上のキャリアウーマンが、目に一杯涙をためて上目遣いに俺の顔色をうかがう様は確かにぐっとくるものがある。あるのだがしかし。
(めんどくさ…)
俺はアヤ姉には間違っても聞こえない様に、心の中でそう呟いた。
アヤ姉は昔からそうだった。姉御肌で男勝りでしっかり者で、でもいつも背伸びして影で頑張っていた。本当は弱虫で泣き虫なのに。
5年前、匣崎の親父さんが死んで突然任されたCEO。巨大コンツェルンをこれを機に解体しようと動く政府や、少しでも美味い肉を切り取ろうとするハゲタカの様な世界中の企業と、若干22歳の小娘が渡り合わなくてはならなかった。
「ありがとう…」
ひとしきり泣いて落ち着いたアヤ姉が椅子に座り直すと、俺も安堵の溜息をついてぼふっと椅子に倒れこむ。
匣崎アヤコは優秀だった。今も厳然と世界最大の企業体としてパンドラが存在することが何よりの証拠だ。この5年、心休まる暇もなかったに違いない。俺の様なアホのお調子者が、必要なこともあるのだろう。
「…すまん。いつも、その、苦労をかける」
「いいよ。アヤ姉を守るって、親父さんと約束したからな」
折角の切れ長の目を赤く晴らした幼馴染が「馬鹿…」と言って俯くのを見ながら、さっき心の中で面倒くさいと言ったのを、やはり心の中で謝ったのだった。