「ほう…。なるほどな」
おっさんが、さっきから遠慮も呵責も無い目で俺たちを見ている。
馬鹿妹の誤解を解き(もちろんまったく解けなかった。もうお兄さんは色々諦めました)、何とか客間まで侵入することが出来た俺たちを待っていたのは、無駄に立派な髪を蓄えたおっさんだった。
白髪が混じり始めた金髪を手櫛で後ろに梳いただけの気取らない風貌は、気に入らないが決まっていてむかつく。
大きく張った肩に高い身長は、ただの開襟シャツを着ているだけなのにこのおっさんをワイルドに見せるし、鋭い眼光が妙に知的に見えるから不思議だ。
認めたくはないがこの男こそ俺の父親。
その名を武村レイモンドと言う。
何もしゃべらなければ、旧世紀のハリウッド映画俳優の様な風貌であるが。
「いい乳に育ったな。アヤコさん」
「な…!?」
突然の親父の言葉に絶句するアヤ姉。
おい、何を感心してると思ったら、エルピスじゃなくてそっちかよ、と言う突っ込みを入れる気力も湧かない。
この男こそ俺の父親。
俺とちっとも似ていない、気に入らないおっさんである。
第8話 武村家へようこそ!(後編)
「お茶を、どうぞ」
「あ、ありがとうクリスちゃん」
アヤ姉がそう言って給仕をする妹に礼を言う。その様子が妙に様になっていて呆れる。この妹は本格的に頭がおかしいと思う。
「私、自分の進む道を見つけましたわ」と言って、13の時にメイド服の着用を始めたこの妹は、だからそれから5年もの間、ひたすら我が家のメイドをやっている。
わからない。6つも年が離れてるせいか、お兄さんにはお前がさっぱりわからないよ。
「どうですか、お兄様、この衣裳は?」
「ひとつ聞いておくが、何でお前のメイド服はいつも露出度がそんなに高いんだ?」
具体的にはおっぱい出しすぎである。
「あぁ、そんなことですか。決まってますわ。お父様とお兄様が女性の乳房に異常な執着を持っておいででしょう?ですから胸部の露出は武村家のメイドとして当然のことなのです」
そう言ってむき出しの白い谷間に手をあてて、にっこりと笑うクリス。
横からアヤ姉がじと目で俺を見ている。
違うよ!妹とかぜんっぜん萌えねぇよっ!
この頭のイタイ子がメイドってもんをカン違いしてるだけだよっ。
クリスは旧世紀の映像資料を参考にメイドというものを解釈している節がある。そう言えばいつか俺に「お兄様の資料を拝見させていただきました。大変参考になりました」と赤い顔して言っていたような…。
俺の資料って、まさかあの、ベッドの下に隠していたアレじゃないよね?
え?これってひょっとして俺のせい?
エルピスはと言えば興味深そうに陶器のカップから立ち上る湯気を見つめている。
うーん。研究所では紙コップにインスタントコーヒーだったからなぁ。
つくづく教育によくない場所だった。
「話は大体分かった。しかし、トモキ、お前、いつもこんなに美人で巨乳に育ったアヤコさんと一緒にいるのか?羨ましい。羨ましすぎるぞ。もういいからお前、とっとと帰れ」
「巨…、えっと、その…」
ほら、アヤ姉が困ってもじもじしてるじゃねぇか。女性の前で巨乳とか言ってんじゃない。照れて真っ赤にあってるじゃないか。
っていうか可愛いなぁ。あとおっぱい大きいなぁ、って違う。そういうことじゃなかった。
「いつも一緒にいるわけじゃねぇよっ!あと恐ろしく認めたくないことだが、帰るも何もここは俺の生家だ!」
「ふふん。マンションに住みつきちっとも顔を出さないドラ息子がよく言う。お前もクリスを見習って私の研究を手伝ったらどうなんだ?」
そう。今年18になるはずの俺の馬鹿妹はすっかり親父に洗脳されて、メイド兼このおっさんの助手という色気のない職業に色気満点の格好で青春を費やしているのである。
美人で胸がでかく気立てもよく、惜しくも頭がかわいそうなことを隠せば世の哀れな男どもならいくらでもどうにでも出来る女であると言うのに、心底残念な奴である。
「まぁいい。本題に入っていいか?」
「まぁ、いいだろう。うちでその子を養うと言う話だね、アヤコさん」
「え、えぇ。武村博士のお手元であれば安心してお任せできると。勿論養育費用に関してはパンドラが十分なものをお支払いします」
「そんな気遣いは無用だよ、お嬢さん。私がアヤコさんからお金をせびる狭量な老人に見えるかね」
「い、いえ。その、お気分を害されたのであれば申し訳ありませんっ」
「いやいや、そういうわけではない」
仮にも世界に名だたるパンドラグループ総帥たるアヤ姉が、へりくだった態度を取るのには理由がある。
パン研の二階堂のおっちゃんは人並み外れた才能を持ちながら、誰かと競うとか、権力を得るとか、そう言ったことにまったく興味を持たない残念な天才だが、おっちゃんと同期のこの男は言ってみればおっちゃんの真逆である。
「私としてもその子はとても興味深い。主に将来がとても楽しみだと言う意味で。見てみろ、トモキ。この子はかなりの美人に育つぞ」
「お前、一回死ねよ」
前言撤回。残念な人間と言う意味ではまったく一緒だった。
「エルピス。君はどうだ?ここで暮らすのに異存は無いかな?」
親父はエルピスの目を正面から見つめてそう言った。エルピスはその言葉に小首を傾げる。
「エルピス。この言葉ではどうだ?」
親父が共通語ではない別の言語でエルピスに話し掛けた。俺も少しはかじっている。ギリシア語のようだがそれにもエルピスは反応しない。
「ではこれでは?これはどうだろう?これでは?」
「おい、親父…」
「これならどうだろう?」
「あんたが博識なのは分かったからいい加減に…」
矢継ぎ早にいくつかの言語で話し掛ける親父をどなりつけようとした俺に、しかしエルピスはぴくりと反応して、何とその名前以外の言葉を始めて口にした。
「*********、******?」
「え、エルピス!」
俺が驚いて思わずその名を呼ぶと、エルピスはちょこんと首を傾げる。別に喋れないと言った覚えはない。そんな具合にきょとんとしている。
「なるほど。**********、*********?こんな感じかな?」
「!? *******、********、************」
「*****、***************」
「**********、***********」
「うんうん。気にするな。私は天才だからな」
「おい、親父。俺たちにも分かる様に通訳しろよ」
「ん?この子が『何故あなたがその言葉を?』と言うから、『驚くには値しない。君の美しさに比べたら少しもね』と返した」
「…で、エルピスは何て?」
「『ごめんなさい。今度は何て言われたか分からない』と」
言葉が通じて話が通じないというのは、エルピスにとって初めての体験に違いない。
「ふん。二階堂の奴め。初めからこれを狙っていたな。私が神語理論の研究でやっていることを、あいつだけは正確に理解しているからな」
「どういうことでしょうか?」
アヤ姉が不思議そうに首を傾げるのを見て、親父がにっこりと笑う。
なるほどね。俺にもようやく二階堂のおっちゃんの考えが読めた。
「神話的埋設物を利用したアーティファクトを起動するあらゆるプログラムは、神語と呼ばれる超言語に翻訳することで始めて機能する。超言語とは、あらゆる言語の原型たる言語、という神理学上の仮想言語だ。神話段階によってその形が様々に違うから、旧来はそれを一つの統一したプログラムに統合する作業など不可能だと言われていたのだよ。この、私以外にはね」
そう言って親父がにやりと笑う。そうなのだ。悔しいがこの男は希代の天才だ。二階堂のおっちゃんがハード面の天才なら、この男はソフト面のそれ。
現在稼動するすべての神話的アーティファクト、つまり世界に存在するほとんどあらゆる工業品は、この男の発明なくしてはあり得ない。
毎年数兆円とも言われる特許料をその懐に収めるこの男に逆らえば、最悪特許使用停止を命じられる可能性もある。
だからパンドラの様な企業は決してこの男に逆らうことは出来ないのだ。
「その理論を応用して、エルピスに複数の神話段階の言葉を試した。ちょうどギリシアと北欧に、ほんの少し西アジアが混じったくらいの複層神話言語だな。統一神語を作り出した私からしたら、まだまだ優しい部類だ」
とんでもないことを言ってのける男である。あの僅かな間にエルピスにそれらを試し、あれだけのやりとりで神話層を特定したというのか。
だから嫌いなんだ。この親父は。親父は…昔から何でも出来すぎる。
「それは、まぁいいとして。エルピス、どうだ?ここで暮らしてみるか?」
とわざわざ共通語で言ってから、親父はエルピスの言葉でそれを尋ねた。すると彼女は数瞬考えた後、首を横に振った。
「何故?…ほう。うんうん。なるほど。ははぁ…」
「ははぁじゃねぇよ。エルピスは何て?」
「私にはまったく理解できん心境ではあるが、トモキ。この子はお前と離れたくないそうだ」
「はぁ?」
俺が驚いてエルピスに視線を向けると、無表情の少女が心なしか上目遣いで俺の目を見つめている。
「私としても大変不本意ではあるが、この子の意向と言うなら仕方ない。トモキ、この子はお前が預かれ」
「いやいやいや。俺も仕事とかあるから。一日家で一人にはしておけないし、託児所に預けるわけにもいかないし」
「それには及ばん。クリス」
「はい、お父様」
「お前、しばらくトモキのところでこの子のお世話をしなさい」
「まぁ!私がお兄様の落し種を?」
「違うし、その妙に生々しい言い方を止めろ!親父も、勝手に決めるな!勝手に」
「何だお前。自分でつれてきた小さな女の子を放り出す気か?お前が7歳の時に犬を拾ってきた時、最後まできちんと面倒を見るようにあれだけ言っただろう?」
「エルピスは犬じゃねぇ!」
「尚更だ。可愛い女の子を忙しいからとかそんな理由で感知外に遠ざけるか。はっ。誰だこいつ。絶対俺の息子じゃないな。こんな卑劣感を身内に持った覚えは無い」
「て、てめーな…」
「でも、お父様はどうされるのです?私がいなくなってはお父様のお世話をするものがいなくなりますが?」
クリスがそう言って唇に指をあてて小首を傾げる。奴曰く、殿方の心を癒す仕草を研究しているとのことだ。こんな奴と暮らすとか胃に穴が開きそうなんだが。
「心配無用だ。私もしばらく家を空けることにする」
「はぁ?どんな風の吹き回しだ?」
三度の飯より研究が好き。用がある?はぁ?てめーが来いよ、というどんな相手にも上から目線ばりばりの親父が外出?
俺が首をひねっていると、いつの間にかエルピスが俺の服の袖をきゅっとつまんでいた。
「どうした?」
何も言わない。それに無表情。なのにどこかその目は、捨てられた子犬を連想させた。
「ということだからクリス。早速支度を始めなさい。アヤコさんもそれでいいかね?」
「え、えぇ。その…タケちゃんさえ良ければですが…」
俺さえ良ければね。はいはい。俺さえよければいいんでしょうが。
「はぁ…いいよ。クリス。あんまり荷物を持ち込むなよ」
「本当ですか!まぁ、良かった。新しいご奉仕のバリエーションを研究したいと思ってたところなんです!」
いいよ、現状維持で。寧ろ後退しろ。その無駄な向上心は何なんだ。
「良かったな。小さなお嬢さん」
親父がまた不思議な言葉で何事かを呟くと、エルピスは目を丸くして、そして俺を見た。
「ま。ここに来て俺は知らんっていうわけにも行かないしな。これからよろしくな、エルピス」
俺はそう言って彼女の頭を撫でてやる。
無表情な少女は、気持ちがよさそうに目を細めた。
「善は急げだな。クリス。私の荷造りも頼む。一ヶ月ほど家を空けるからその準備もな」
「一ヶ月?どこに行くつもりだよ、親父」
「ん?あぁその子のこととか、色々なことを討議したい。二階堂は現場主義だから討論には向かん。やはり私が対当にものを話せる人間はこの世に一人しかしないということだ」
「母さんに会いに行くのか」
なるほど合点が言った。この男が唯一頭が上がらない存在こそ俺の母親武村トーコ。研究人間の親父がべたぼれして結婚してもらったと言う親父の上を行く傲岸不遜人間である。
「そう言えばおば様の姿が見えないな。今どちらにいらっしゃるのだ?」
アヤ姉が俺にそう尋ねる。うーん。言っていいものかどうなのか。…びっくりしないだろうか。
俺はアヤ姉の言葉にとりあえず人差し指を上に向けた。
「ん?二階?じゃないよな。すると…、あぁ、飛行機の中か」
「違う違う。もっと上」
「は?上ってタケちゃん…、どういうこと?」
アヤ姉がいぶかしげに眉を寄せると、親父がそこから先を引き継いだ。
「我が細君は今、月の宇宙ステーションで神理理論が月面上でも組み立て得るか、その場合どのような影響を受けるかと言う政府のプロジェクトに参加していてね」
参加というか仕切っているらしい。っていうか政府に金出させたの母さんだし。ちなみに親父が学会の裏の顔役だとすると、母さんは面の大御所である。
二人揃って人に迷惑をかけることを厭わない、非常に迷惑な夫婦なのだ。
「つ、月?」
「そうだ。だから通信も出来ないし、往復するだけでも時間がかかって仕方ない。だがトーコさんに会うためだ。多少の労力は仕方あるまい」
俺も4年くらい会ってないと思う。クリス産んだのも日本じゃなかったしな。
「月とか、一般人が行けるものなんですか」
「大丈夫。金にモノを言わせる」
そうですか。所詮この世は金ですか。ありがとうございました。
ぽかんと口を開けるアヤ姉に、親父は場を仕切るように、楽しそうに声を張り上げた。
「さぁ、久しぶりに面白くなるな」
それ、俺にとって、ちっとも面白そうでないのは気のせいか?