冬の早朝。
時刻は5時30分。
けたたましい目覚ましの音で俺は叩き起こされた。
飛び起きて枕元を見ると、そこには異様に目玉がぎょろついた、時計を抱える兎を模した目覚まし時計があり、爆音を轟かせている。
『お早う!起きやがれ寝ぼすけ野郎!さっさと布団から出て、十秒以内に支度を済ませろ!』
どこの軍隊だ、どこの。
俺は不機嫌極まりない動作で、叩き壊さんばかりの勢いをつけて、そのむかつく目覚まし時計の頭を思い切りはたいた。
『残念!そのスイッチはダミーだ!本当のスイッチがどこか、その足りない脳みそをたまには使ってみたらどうだ!』
うるせー!何で朝から器物に馬鹿にされなくちゃいけないんだ。
俺は目覚まし時計を掴み上げると裏を覗いたり、頭にもうひとつスイッチがないか見たりしてみたがそれらしいものはない。
『お早う!起きやがれ寝ぼすけ野郎!さっさと布団から出て、十秒以内に支度を済ませろ!』
「うるせー!もう起きてんだろうが!とっとと止まりやが―――」
「目玉でございますわ、お兄様」
「は?」
俺が突然の声の方を振り返ると、そこには朝からかんっぺきなメイド服姿をした妹の姿があった。およそ早朝とは思えぬくらいに、長い金糸の髪は滑らかに棚引き、青い大きな瞳が慎ましやかに伏せられている。
そして、あいも変わらずの大きな柔乳の谷間が、ふるふるとむき出しになっていた。
妹でなければ是が非でもフラグを立てたいところであるが、あいにく俺にそんな属性は無い。
第一―――。
「その目玉を思い切り指で突くのでございます。眼底を叩き破らん勢いで」
そもそも頭が可愛そうな女に欲情する趣味は俺にはない。
言われた通り、目玉に痛烈な目つきを叩き込むと、『この卑劣漢の外道めが!』と最後に罵倒してから目覚ましはようやく止まった。
どこのメーカーだ。こんな不快な目覚まし時計を作ったのは。
「私の手製でございます」
「おまえかよ!大体、昨日寝る時はこんなものなかったぞ!」
「当然でございます。先ほどこっそり置かせていただきました」
「なんでだよ!普通に起こせよ!」
「武村家の殿方は皆様寝起きが悪すぎます。すっきり起きて頂くための私なりの気遣いでございます」
「いらないいらない。そんな気遣いいらないから」
「左様でございますか…。あと私が考え付くのは、朝から身も心もすっきりしていただく身体を使ったご奉仕くらいしか…」
「お前の頭の中はどうなってるんだ!」
「『ちょ、朝からなにしてるの?』『ふふふ。クリスにすべてお任せください。この猛り狂った立派なご子息を、すぐに静めてご覧に―――』」
「言わんでいいわ!」
第九話 メイドと黒歴史と恐喝と
俺ははぁはぁと肩で息をしながらクリスに怒鳴りつける。なんで朝から全力で突っ込みを入れなくてはいかんのだ。
「もう朝食は出来てございます。エルピス様などは既にナプキンまでつけて席についてらっしゃいます。お兄様もお早くお越しください」
「その前にクリス、一つ言っていいか?」
「何でしょう?」
「朝の5時半は早すぎるわ!俺は9時に会社に行けばいい上に、会社はここから5分で着くんだよ!」
「何事も早め早めの行動を心掛けくださいませ」
もうだめだ。この妹に何を言っても通用しない。俺は溜息をつきながらクリスに続いて居間の方へ歩いていく。
「本日はイギリス風でご用意してみました。お兄様の食指が動けばいいのですが」
「ふぅん」
旧英国風の朝食か。よく分からんがパン食に揚げた魚とかだろうか。
「こちらでございます」
「知ってる知ってる」
ここは俺の家だ。
ガチャと扉を開けて居間に入る。
すると味気もそっけもなかったテーブルに白いクロスが掛けられ、燭台に蝋燭が灯され、銀食器が所狭しとならんでいる。
うん。俺言ったよな?あんまり荷物持ち込むなって言ったよな?
「お兄様は私に言っても無駄という事をそろそろ学習してもよい頃かと」
確信犯かよ!
何で朝からこんなに疲れなくちゃいけないんだ…。
ともあれ朝飯をしっかり食べられるのは嬉しくもある。
俺は椅子を引いて腰掛けながら、前に座るエルピスに「おはよう」と挨拶して。
そして硬直を余儀なくされたのだった。
「え、エルピス…?」
銀髪の美少女はきょとんとしながら俺に首を傾げて見せる。その様は何とも愛らしくはあるのだが、それよりも異常な光景が先立って俺に平静な思考をさせない。
何だこのゴスロリ衣裳は…。
エルピスはふんだんにフリルをあしらった黒い豪奢なドレスの中に埋没していた。エルピス本人よりも衣裳のボリュームの方が大きいのでどうしてもそう言う表現になる。
例えるなら毛刈り前の羊みたいな。
ごってりしたカチューシャにごってりしたドレスにごってりしたブーツにごってりしたロンググローブ。おい。色々突っ込みたいが少なくともブーツはいらねーだろ、ブーツは。
我が家は土禁だぞ。
「イギリス風と申し上げましたでしょ?」
エルピスがかよ!
おかしいだろ!
「お兄様の食指が動けばいいのですが…」
動かねー!
動いてたまるか!
「まぁ。どうか冷めないうちにお召し上がりくださいませ」
「…いただきます」
俺はげっそりした気持ちで朝食を頂くことにした。
「ところでお兄様」
朝飯は普通に焼き魚と味噌汁と白ご飯だった。お前この銀食器は何に使うつもりだったんだ?
という今更な突っ込みごと朝飯をもぐもぐ飲み込んでいると、クリスが俺に話し掛けた。
「何だ?」
「このおうち、いささか殿方の一人暮らしには広すぎる気がするのですが?」
やはり来たかその突込みが・・・。
因みにこの家は3LDKで一人暮らしの俺には確かに広すぎるわけだが、どうしてこんな部屋に一人で住んでるかは禁則事項です。
「朝から家捜ししました所、どうにも女性物のコートやらバッグやら化粧道具などを発見しまして、もしやお兄様に女装のご趣味が、とも思いましたが、極め付けにぎっしり写真が入ったアルバムなども出て参りまして…」
いやいやいやいやいや!
「お前、朝から人の家で何やってるんだ!」
「流石にアルバムに『二人の愛のメモリー』というタイトルはベタを通り越して薄ら寒いと存じますが…」
「やめろー!」
いいじゃないか。別にいいじゃないか。
「いい加減別れた女に未練たらたらなのもどうかと思いますが」
てめー、知ってて人の傷を抉ってきやがったな!
俺が彼女と付き合っていたのは半年前までだ。
上手く行っていた。上手く行っていたはずだった。趣味も合ったし会話も弾むようだったし、二人は相性ぴったりだったはずなのだ。
なのに、突然の手紙。
消えた彼女。
捜さないでください、という走り書き。
だからこれは未練では断じて無い。ただ、彼女が消えたことを上手く理解できて無いだけだ。
「人はそれを駄目男と呼ぶのでございます」
ほっとけ!あと心を読むんじゃない!
ピンポーン
その時、インターホンの音が室内に鳴り響く。
時刻は未だ6時を少し回ったくらい。
こんな非常識な時間に一体誰が…?
朝帰りで家に帰るのが面倒になった石川社長という線が最有力ではあるが…。
「はて?どなたでございましょう?」
「おい。当然の様に玄関に出ようとするな」
お前の格好見たら知り合いでも家間違えたと思うわ。
俺は気だるい身体を立ち上がらせて、玄関に向かう。
「はーい?」
鍵を開けて扉を開く。
そこに立っていた人物を見て、俺は完全に思考を停止させた。
日本民族らしい美しい黒髪は絹の様に滑らかで、雪の様に白い肌は今は少し紅潮している。黒いロングコートは、彼女の豊満な体つきをなぞるようにして浮き立たせる。
「ユキ…」
「帰ってきちゃった」
苦笑しながら舌を出す女性は今際ユキ。
半年前に俺の前から消えた、儚い雪の様な女性だった。
「おやおやおやおやおやぁ…?」
帰ってきてくれたのは本当に嬉しい。嬉しいがしかし。
今日このタイミングというのはなかった。
「これはこれは申し訳ありません。いささか複雑な場面に居合わせたようで」
ちっとも申し訳なくなさそうなにやつき顔で現れたクリスに、俺の硬直した顔がぴくぴくと動きを取り戻した。
「…どちら様?」
突然あらわれたクリスにユキが些か不機嫌そうに形のいい弓なりの眉を顰める。
やはり好きだと自覚する。
指の一本一本まで。
髪の毛の一房に至るまで俺はユキを愛していた。
「妹だよ。気にしないでくれ。寒かっただろう。上がる?」
「いもうと…?」
俺の言葉に今度は怪訝そうに眉を顰め、そしてクリスの足の先から頭の先までを見上げるユキ。
うん、ごめん。気持ちは分かるけど、本当に妹なんだ、それ。
「左様でございます。『肉隷奴』と書いて『いもうと』とお読みください」
「おい!」
「か、変わった妹さんね…」
ユキは引きつった笑顔で微笑んだ。お願いだからせめて昨日うちを尋ねて欲しかった。そしたら絶対にクリスを家に上げなかったのだが。
「まぁ、上がってよ。立ち話もなんだし…」
「お待ちください、お兄様」
何なんだお前は。いい加減にしたらどうなんだ。
せっかく。せっかくユキが。
「お兄様にはもっと聞かなくてはいけないことがあるのではないですか?」
「…何を言ってるんだ、クリス」
「例えば、なぜ今になって戻ってきたのか、とか。こんな朝早い時間に何故来たのか、とか。そしてこうもタイミングが良過ぎるのはどうしてなのか、とかでございますね」
「それは、俺は仕事があるから。仕事の前に会いに来てくれた…?」
「後でもよろしいでしょう?事前に電話をしてもよろしいかと」
「クリス、お前、何を…」
「トモくん」
俺の言葉をユキが遮った。昔そうしてくれたのと同じに俺の名を呼んで。相変わらずの笑顔を俺に向けて…。
いや違う。何かが違う。それは注意深く見なくては分からないほどの小さな変化。しかしそうと気付いてしまえば決して見逃すことなどできぬ決定的な変化。
そこにあるのは、俺が見たこともない表情だった。
美しく、可憐で、儚げなのに…。
「エルピスを返して貰いたいの。もし返してもらえないと、ちょっと強引にお願いしないといけなくなるわ」
ぞっとするほど悪意に満ちた笑顔だった。