ユキが何を言っているのか分からない。
彼女は優しい女性だった。
いつも誰かに気を遣っていて、それは一層もどかしいくらいで。
美人で頭がいいのに、俺がいないと何もできないって、そう思わせる女性だった。
「ねぇ、トモくん。エルピスはどこ?」
そう言って困ったように微笑むユキが何を言っているのか、俺にはだからちっとも分からない。
ただぼうっとして、何かを喋らないといけないと思いながら、何も喋らずにうろたえることしかできない。
そんな俺を見て、クリスが盛大に溜息をついた。
「はぁ。情け無い。それが武村家の殿方の姿ですか。いや、待てよ。お父様もあれでお母様の前ではまったくの役立たずでございますし、意外とこれこそ武村の男の業というものかもしれませんねぇ」
「妹さん。悪いけど、邪魔はしないでくれるかしら?」
「承服しかねますねぇ」
ユキが相変わらずの困ったような笑顔でそう言うと、クリスは挑発的に鼻を鳴らして豪快に笑ってみせる。
「…と、言ったらどうされます?後ろにいらっしゃる怖いお友達に何をさせます?」
クリスにそう言われて俺は初めて気付いた。ユキの後ろには、プロレスラーのような体格をした二人の男が、その身を窮屈なブラックスーツとサングラスに包み込み、両腕を組んでことの成り行きを睨みつけていた。
クリスの発言を聞いて、ユキの笑顔がその邪悪さを増す。見たくない。こんな顔をしたユキを、俺は知りたくない。
「そうね。言うことを聞いてもらえるように、彼らのやり方でやってもらえるように頼むかもしれないわ。そしたら、妹さんはどうするの?」
「承服しかねますねぇ」
完全に相手を挑発する口調で、クリスはそう言ってにたりと笑った。
第十話 男はそのときうろたえる
「エル、アール。残念だけど、プランBでお願い」
ユキが後ろの二人の向かってそう言うと、ずずいと二人が前に出てくる。
「お願いだから手荒な真似はさせないで。ね?トモくん?」
そう言った彼女の表情は立ち塞がる二人の屈強な男に隠れて見えなくなる。俺は少しだけほっとした自分に気付く。
「で、お兄様はいつまで呆けているつもりですか?」
だが、そんな俺に、クリスが冷たい視線を向けた。
まるで路傍の石を見るような、いや、それよりもずっと低温の視線。
「お兄様は、どうしたいのですか?」
俺はユキを好きだった。好きだったんだよ。
「お兄様は…」
その時、男のうちの一人がクリスのメイド服の胸倉を掴む。胸倉といっても奴の胸は何にも覆われていないので、ほとんど胸を掴むような感じである。
その衝撃にぷるんと巨乳が弾む。
「この衣裳、そこそこお値段が張るのです。まことに申し上げにくいのですが、とっととその薄汚い手を離していただけますか?」
こんな状況でも焦り一つ見せずに、クリスは逆に男を挑発してみせる。それでも表情一つ変えずに、男は力任せに腕を振り切った。
びりりっと音を立てて、クリスのメイド服が胸元から千切れ飛ぶ。
意外にも白いブラジャーに包まれた豊乳が弾みながらその輪郭を顕にした。
クリスはそれでも男の方を見ていない。ずっと俺の方を見ていた。そして、その目は今ほんの少しだけおかしそうに細められていた。
「…むかつくよなぁ」
俺の声である。俺は知らず知らずの間にクリスの服を引きちぎった男の腕を掴んでいた。
「本当にむかつく。お前に踊らされてるみたいで、腹たって仕方ない」
そう言って俺はクリスを見る。わが意を得たりといった感じで悠然と微笑む俺の妹。
お前、服の前を隠すくらいのことはしたらどうなんだ。
「それで、お前の期待通りのことをしちまう、俺がまたむかつくんだよなぁ」
俺は、男の腕を握りつぶさんばかりに力を込めた。
「誰の妹の乳さわっとんじゃ、こらぁ!!!」
俺の渾身の拳が男の右頬に炸裂する。
大きく仰け反って後方の壁に叩きつけられる男。
どこの誰だか知らないが。
状況はさっぱりわからんが。
見知らぬ男に妹の乳さわられて、だまってる奴がいたらそいつは男じゃねぇ。
「もう一度さわりやがったらその腕きり飛ばすぞ!」
ファイティングポーズを構え、俺は二人の男の前に立ち塞がった。
「そう。トモくんは私の敵になるのね」
ぞっとする声がしたのはその直後だった。
「換装」
いつの間にか、ユキは一本の装剣を抜いていた。彼女にぴったりの真っ白い雪の様な美しい刀身。彼女の身体が光に包まれ、神話的置換作用によってその身が神に愛されるべき鎧に変換される。
俺は陶然となってその様を見ていた。
まるでお姫様の様な雪のティアラを頭に頂き、氷のような結晶のデザインが随所に見られるその装剣は本当にユキに似合っている。
丸い肩や鎖骨の白い肌のラインが目にまぶしく、首から提げられた、やはり氷の結晶をあしらったネックレスが、氷の胸当てに持ち上げられるようにむき出しになった白い豊かな胸の谷間の上で弾んでいる。
外気にさらされた腹部は、すっきりとした縦長の臍のラインを扇情的に見せ、腰回りのややごってりとしたスカートの様な氷の鎧は、微妙に透けて見えて奥の秘密を喚起する。
氷の女王。
そんな言葉が、彼女にぴったりとあいそうだった。
白い氷のブーツを鳴らして、ユキは悠然と一歩前に進む。
「換装」「換装」
ユキの後ろで二人の男も装剣を換装する。
無骨な鎧で包まれた男達が、俺を威圧するように剣を構えた。
「ねぇ、これが最後だと思って。トモくん、エルピスを返して」
「ユキ…」
彼女が装剣を使えるなんて、俺は勿論知らなかった。
たった三ヶ月の付き合い。
それでも俺は彼女のすべてをしっているつもりだった。
ユキが困った笑顔で俺を見る。
クリスが冷たい視線で俺を見る。
そして、俺はユキの氷の鎧に反射して、廊下の影から心配そうに俺を見るエルピスの姿に気付いた。
なんでそんな、心配そうな顔をしてるんだ、エルピス。
そうか、そんな顔をさせてるのは、俺か。
「ユキ…」
俺はたぶん今日初めてまっすぐにユキの目を見た。
微笑む彼女。
魂を捕らえて離さない花の様に魅力的な笑顔。
だがそれは、いまや邪悪に歪んでいた。
「エルピスは渡さない」
俺ははっきりと、そう言って彼女を拒絶した。
「よくぞ言いました!」
次の瞬間、クリスが俺の首根っこを掴んで引き摺るようにして廊下を駆け始める。
「お、おい!クリス!」
「問答は後ほど。エルピス様。こちらへ」
仕方なくクリスに続いて部屋内に逃げ込む俺たち。エルピスはクリスに手を引かれて走る。
すぐ後ろを。
しかしユキたちが追いかけてくる。
「あちらから下に降りてください」
そう言ってクリスが指差したのはうちのベランダだった。
「っておい!ここ、五階だぞ!」
「大丈夫です。こんなこともあろうかと、昨日のうちに脱出ポートを造っておきました」
「人のマンションを勝手に改造するんじゃない!」
「お早く。ここは私が食い止めさせていただきます」
クリスがスカートを翻すと、そのすらりと伸びる右足に、ベルトで括られて黒い装剣が現れた。
びゅんと言う音を立てて、クリスは装剣で宙を薙ぐ。
「クリス」
「すぐに行きます」
静かに追いすがるユキたちをまっすぐに見据えるクリス。
俺はそんな妹を見て、エルピスを抱きかかえるとベランダに躍り出た。
「本当に、すぐ来いよ!クリス!」
「無論です。下に彼を待たせてあります」
「彼?」
疑問を持つ暇も無い。俺は確かにベランダの手すりの上に設えられた、長いトンネルの様な脱出ポートの中に、エルピスを抱えたまま飛び込んだ。
「換装」
すぐ後ろから、そう呟くクリスの声が聞こえた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
ちょっとしたジェットコースターの気分。このまま地面に激突したら流石に即死だという恐怖を必死で押さえながらエルピスを抱きしめていると、きゅっとエルピスも俺を抱き返してくる。
さすがの彼女も怖いらしい。
「うおっ!」
終点は意外にも柔らかなマットの上だった。
ぼふっという軟着陸の音を立てて、俺とエルピスはワンバウンドする。
いや、ちがう。これはシートだ。
俺たちはオープンカーのシートの上に着陸したらしい。
『お久しぶりでございます。坊ちゃま』
「お前、セバスチャンか!」
旧世紀趣味丸出しの赤いオープンタイプのスポーツカーに向けて話し掛ける俺という男は、他人から見たら奇異に見えるかもしれないが、俺に話し掛けたのがこの車であるから仕方ない。
正確には車ではない。車の端末を通して俺に話し掛けたのは母さんがプログラムした武村家のオペレーティングプログラム。つまり我が家のデジタル執事ことセバスチャンである。
世間非公開の神話的技術がふんだんに使用されたまったくもって迷惑な天才の力作がここにあった。
エルピスが俺の脇の辺りからひょこりと顔を出す。
しゃべる車に興味津々のようだった。
『そちらがエルピス様でございますね。ずいぶん個性的な衣裳をまとっていらっしゃいますが…』
「アホ妹の趣味だ。空気読め。しかしお前、どうしてここに?」
『事情はお嬢様にうかがっております』
「そうかそうか。知らないのは俺だけか。まぁいい。あいつは何だって?」
『それは、ご自分でお聞きになるのがよろしいかと』
「へ?」
直後、ひゅーーーーーという落下音がして。
空から降ってきた女が車の助手席に降り立った。
「セバスチャン!車を発進させなさい!お兄様、ハンドルを!」
「クリス!」
当然というべきか。
5階の高さから降り立ったのはクリスだった。
頭には金髪に映える黒い小さなシルクハット。
腕と脚には黒曜石を切り出して造ったようなごついガントレットとブーツ。
だが他に身に着けているものといえば、ぴったりと首から胸の上半分を覆う黒い革鎧と、Tバックのビキニパンツのみ。
特に胸部の鎧は丸く突き上げた下乳が丸見えと言う仕様で、下から覗けばいろいろとよからぬものが見えてしまいそうだった。
「流石に甘くはない。すぐに追って参ります」
「どこへ行く?」
「ソレは逃げながら考えればよろしい」
俺がアクセルを踏み込み車が発進したのと、空からさらに三つの影が落下してきたのはほぼ同時だった。
「危ないところでしたわ。お兄様、装剣はお持ちではないのでしょう?」
「個人の私的な装剣の携帯は条例違反だからな」
俺はそう言うとジト目でクリスを見る。しかしクリスは涼しい顔で「条例など気にしてメイドはやっておられません」と言って鼻を鳴らした。
早朝の道路は空いている。というよりこの時代、わざわざ価格も税金も高額の自家用車で移動しようという奇特な人間などほとんどいないと言っていいだろう。
「とにかく車を走らせてください。話はそれからです」
「わかった」
俺はアクセルを踏み込む。踏み込んで初めて、俺は自分がパジャマ姿であることを思い出したのである。