クラス長による対決から数日後の授業は少しだけ雰囲気が異常だった。
確かに今日は、IS学園に入学して初めての実機訓練だ。訓練機の『打鉄』を用いたものであるとはいえ、セシルのような専用機を持ったもの以外の人間にしてみれば、初めてISに触るのだから、雰囲気が異なるのもある種当然といえば、当然だ。
しかし、その場の空気は、どこか色が異なるような気がする。どこかそわそわしている様な、落ち着かないようなそんな空気だ。
そんな中、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、副担任の真耶がジャージ姿で現れる。彼は、小柄な身体を揺らしながらいつも浮かべている笑みのまま、ISに搭乗する際に着るインナースーツに包まれた男達の前に立つ。体格がはっきりと分かるインナースーツに包まれた集団は、軍人を目指しているものも多く、どこか暑苦しい。
しかも、小柄な真耶が彼らの正面に立つと教師と学生というのに、どちらかというと生徒達のほうが年上に見えるのだから不思議だ。
「皆さん、揃ってますか?」
彼らの正面に立った真耶が、綺麗に整列した男達の前に出席簿を前に彼らに尋ねる。しかし、彼の聞き方では、いない人はいませんか? と尋ねているようなものである。真耶としては、彼らを信用し、遅刻してくるものなどいないと思っているのだろうが。
返事がなく、全員来ているのだろう、と思いながら真耶は確認のために念のため彼らの顔を見渡す。彼の頭の中にはクラス全員の顔が入っている。真耶は、彼らの顔を確認しながら、あれ? と怪訝に思った。誰か、足りないような気がする、と。誰だろうか? ともう一度確認しようとしたところで、正解が自分から近づいてきた。
「す、すいません……遅れました……」
「ああ、そうですか、織斑さ―――きゅぅ」
申し訳なさそうな声を出してアリーナの出入り口から出てきたのは、全世界においても紅一点のIS操縦者である織斑一夏だ。真耶が倒れた理由はいうまでもないだろう。
今日は、初めてのIS実習なのだ。当然、彼女の格好は、セシルと模擬戦を行ったときと同様に体の形がはっきりと出ているインナースーツだ。しかも、前回は、実兄の千冬と幼馴染の箒と真耶だけだった。だが、今日は、クラスメイト全員の前にインナースーツで出なければならないのだ。気恥ずかしさは前回とは比べ物にならない。
よって、一夏はせめての抵抗として、ギリギリまでアリーナの更衣室から出なかったわけだが、それもある種失敗だった。他人と違う行動をするのだ。一夏が声を出したときに全員の視線を集めてしまった。見られる事が分かったのだろう。つい、反射的に一夏は、自分の胸を腕で隠し、できるだけ体型や肌を見られないように身をよじった。
しかし、それも失敗だ。腕で隠された胸は、むにゅうと押しつぶされるように形を変え、一夏の胸の大きさを却って誇示しているように見える。しかも、肌を隠すように内股になり、身体を縮こませているのだ。胸を腕で隠し、縮こまっている彼女の姿は、羞恥心で真っ赤になっており、むしろ堂々としているよりもむしろエロかった。
一夏のインナースーツ姿は、ただでさえ刺激的なのだ。今の一夏は、それを3割増し程度に刺激的であり、真耶が耐えられるはずもなかった。
さて、彼女の格好を見て、男子達の反応は大別して三つだった。おおぉぉっ! と感嘆の声を上げてがん見するものが3割。ありがたや、と拝むもの2割。ごくりとつばを飲み、じっと見るもの2割。必死に視線を逸らそうとするが、それでもチラッ、チラッと見てしまうもの2割。そして、最後にしっかりと視線を逸らすもの1割だ。
一瞬、時が止まったように固まった空間、その空間を動かしたのは、一夏の羞恥に耐えかねた一言だった。
「もう……あんまり見ないでよ」
羞恥に染まった抗議。しかし、それは、一夏の魅力を底上げするだけだった。先ほどの男子の反応の比率が変わった。彼らの中で3割程度が、急に蹲るような格好になった。しかも、彼らはそろいも揃って顔を上げない。なぜ、そんな格好になったか、については割愛する。ただ、彼らを他の男子は納得したような表情で見ていた。一方の張本人である一夏は、彼らの行動の意味が分からなかったのは幸いだったのか。
さて、そんな風にいい具合に混乱してきた彼ら―――収めるべき真耶は、気絶している―――だったが、不意に背後から聞こえてきた地獄の底から響いてきそうな声によって、正気に戻された。
「貴様ら……何をやっている」
その声は、振り返らなくても分かった。おそらく、彼らが一番聞きたくない声だった。だが、振り返らないわけには行かなかった。数人が勇気を振り絞って振り返ると、そこには、今日使われる予定だったのだろう『打鉄』が四機、鎮座した状態で置かれていた。いや、それすらも現実逃避。彼らが本当に視界に入れなくてはいけないのは、その前に腕を組んで必死に怒りの形相を押さえ込んでいる織斑千冬だ。
「……織斑、お前はなにか羽織るものを着て来い」
一瞬で状況を把握したのだろう。千冬は、一夏にそう命令する。一夏も、天の助け、といわんばかりにすぐさま踵返し、アリーナの中へと戻っていった。
その一夏の後姿を、あぁ、と残念がった声で見送る数十名の男子達。だが、彼らの行動は、千冬を前にしてするべきではなかった。冷静に事態を見ていた箒―――もちろん、彼は視線を逸らした―――は、こっそりと彼らの冥福を祈った。
「さて、貴様らはどうやら、元気が有り余っているようだな……」
―――ああ、今日は地獄かぁ……
一体、幾人が、それを自覚しただろうか。
その後のことは、誰も思い出したくはなかった。ただ、翌日、誰もが筋肉痛に悩まされたことは、言うまでもない。
◇ ◇ ◇
「では、これより、ISの飛行操縦を実践してもらう。織斑、オルコット。試しに飛んでみせろ」
初めての実機訓練から、さらに数週間後、ちょうど桜が散ってしまい新芽が出る頃の四月の下旬。今日も今日とて、織斑千冬が教官を行う授業を一夏たち一同は受けていた。
千冬に呼ばれたセシルと一夏は、並んでいた列から外れて、少し離れた場所へと行く。ISを展開し、飛行までするのだ、少し開いた空間でなければならない。
初めての授業のときは、一夏のインナースーツで騒ぎになってしまったが、今ではそんなことはない。セシルは、インナースーツのままだが、一夏の格好は、駅伝などで待機している選手が着ているような袖や丈が長いジャンバーだった。
これは、騒動の次の日に千冬は一夏に渡したものだ。一夏は混乱を避けるためという名目上、実習のときこれを着用する事が許可された。もちろん、その決定について不満を言うような愚かな真似をした学生はいない。あの日の地獄が思い出されるのだから当然だ。だが、それでもこっそりため息を吐いたものはいたが。
本来であれば、インナースーツそのものを改良すればいいのだが、インナースーツとは、ISとの伝導率を高めるものである。そのため、薄着のほうがいい。そのため、ほとんど裸に近い状態でインナースーツは着る。今までは、男子だけが対象だったから特に問題はなかった。予定外の事態として一夏の登場だ。しかし、一夏のためだけに体のラインがでないようなインナースーツの開発はできない。よって、妥協案がジャンバーの着用だった。
しかし、ジャンバーで隠せるのは、ISを起動していないときだけだ。ISを起動するためには、ジャンバーを脱がなければならない。
前を留めていたボタンを外して、一夏はジャンバーを脱ぎ捨てる。そして、耳についている待機状態の白貴に触れると召還の儀式のための文言を口にする。
「『断罪せよ。白貴っ!』」
一夏の呼び声に応えて、耳のイヤリングが白く光を放つ。一度、イヤリングは光の粒へと分解され、やがて、その量を増して、脚部から一夏を覆っていく。まずは、脚部のパーツ。次にスカートのように広がる腰から踝までのパーツ。そして、豊満な胸を隠すように胸部のパーツが装着され、腕と翼のように広げられるスラスターが展開され、最後に頭頂部にヘアバンドのような装甲が装着されて、織斑一夏の専用IS『白貴』の展開は終わる。
白貴が無事に展開されて、一夏はほっ、とする。
セシルとの模擬戦の後、一番苦労したのは、実は召還のための文言だ。これがISが気に入る形でないと展開できないという素敵仕様であるため、一夏は悩んだ。そもそも、意味が分からない。非効率すぎる。緊急時はどうするんだ? という感じである。しかし、それを言っても仕方ない。すべては、どこかのプログラムのように『仕様です』の一言で済まされるのだから。
結局は、箒とセシルと相談して決めた。最初に箒に相談をしていたのだが、テラスで話している間にセシルが近寄ってきて、勝手に相談の中に入ってきたのだ。もっとも、専用機持ちで、文言について詳しく知っていたセシルのおかげで決まったこともあって、邪険にもできなかったのだが。
「ふむ、”一夏”、展開も早くなったじゃないか。俺との特訓の成果が出たのか?」
はっはっは、と隣で笑うのは、ブルーティアーズを展開して、一夏と同じく地面から少し離れたところで浮かんでいるセシルだった。
ちなみに、セシルが、一夏のことを呼び捨てにしているのは、一夏が許可を出したからだ。しばらく、『一夏さん』と呼ばれていたのだが、あまりにセシルのイメージと合わず、本人もそう思っていたのだろう。言いにくそうにしていたため、文言のお礼も兼ねて、呼び捨てを許可したのだ。
そのセシルとは同じ専用機持ちということで、箒との剣道稽古―――白貴の武器が雪片・弐式しかないため、剣道の稽古は続けている―――と交互で、セシルから専用機について教えてもらっているのだ。偉そうな態度はあまり好きではないが、教師である千冬が時間が取れないときの教師としては優秀だった。
「おかげさまでね」
「はっはっはっ! そうだろう。なにしろ、俺が教えているのだからな」
ちょっとお礼を言うとすぐに図に乗るから、素直にお礼を言いたくないのだが。しかし、礼節にかけるような真似をしたくない一夏としては素直にお礼を言うしかない。それがセシルを増長させると分かっていても、だ。
「よし、展開できたようだな。飛べ」
「了解。お先に行くぞ、一夏」
千冬からの命令が飛ぶと、セシルの行動は早かった。国家代表候補にして専用機持ちは伊達ではないのだろう。すぐさま、後方の四枚のスラスターから光を出力し、急上昇し、アリーナのはるか上空で静止する。
セシルの言葉に若干遅れて、飛び出した一夏だが、その飛行速度はセシルよりも明らかに遅かった。
「何をやっている。白貴のほうがスペック上では上だぞ」
セシルと一夏を見ていた千冬から叱咤が飛ぶが、そうは言われてもセシルとの模擬戦が終わった直後は、基本動作を一から学んでいたのだ。
今のような急上昇、急降下を練習したのは、昨日のことだ。急上昇、急降下は、刀を振るうように操縦者が直接動きによって補完するわけではない。操縦者のイメージによって動く。一夏の教師役であるセシルによると『自分の前に三角錐があって、風を切り裂くような感じ』らしいが、いまいち分からない。
おそらく、スペック上では、一夏の白貴が勝っているのに、セシルのブルーティアーズに追いつけないのは、まだ一夏の中でイメージが固まっていないからだろう、と考えている。
「ふむ、俺のイメージを教えたのは失敗だったか? 俺のイメージはあくまで俺が一番理解しやすい急上昇のイメージだ。一夏には、一夏のやり方ががあるだろうから、それを見つけたほうが良いかもしれないな」
「ええ、そうすることにするわ」
放課後に訓練しているときも思うのだが、セシルは時折、このように深慮を見せることもある。いつも、こんな態度ならいいのに、とは思うが、最初の印象が強い一夏としては、もしも、次の日からセシルがずっとこんな態度だったら、真っ先に病院に行かせることを考えるため、その考えを振りかぶって捨てる。
それよりも、問題はイメージだ。こればかりは、セシルが言うように一夏が掴むしかないのだろう。
―――とりあえず、図書館で航空力学の本でも借りてこようかしら?
ISが浮遊している原理はよく分からない。いや、IS技術に関する本は持っていて、読んでいるのだが、専門用語も多い上に難解で、完全に理解しているとは言いにくい。ならば、同じく空を飛んでいる飛行機などの力学を理解したほうが早いのではないか、と一夏は考えたのだ。なにしろ、セシルは、三角錐が風を切り裂く感じ、などという本当にイメージだけであれだけの速度を出しているのだから。
「ならば、また放課後にでも、訓練してやろう。なに、礼はいらない。同じ専用機持ちのよしみだ」
「あ、今日はいいわ。今日は箒と訓練だから」
ふっ、と気障ったらしく言うセシルの誘いを一蹴する一夏。がくっ、と肩が落ちるセシルを一夏はあっさりと無視した。
現状、一夏の放課後は、箒との剣道稽古とセシルとのIS訓練に別れている。箒の場合は、剣道部に所属しているので、部活に顔を出さないわけには行かない、ということで、セシルの訓練は渡りに船だった。最初の一週間は、部活が始まっていないため、付きっ切りだったが。
ちなみに、一夏は、箒が裏で剣道部に所属する部員から一夏を連れてくるように執拗に迫られていることを知らない。
「織斑、オルコット、急降下と完全停止をやって見せろ。目標は地表10センチだ」
「了解。では、次も俺が先に行かせてもらうか」
そういうと、すぐさま地表に向けてセシルが四枚の羽から光を発しながらまっすぐと突っ込んでいく。彼の姿はすぐに小さくなり、そして、アリーナの辺りできちんと着地していた。どうやら成功したようだ。この辺りの技術に関しては、一夏は、セシルに遠く及ばない。彼の中で見習うべき一部だ。
「さて、次はわたしね」
昨日ちょっとやっただけだが、大丈夫だろうか? と思いながらもやらないわけにはいかない。まだイメージが固まっていないな中、不安があるが、とりあえず、セシルから教えてもらった『背中にロケットを積んでいる感じ』という何とも物騒なイメージのまま、一夏はまっすぐ地表へ駆ける。
後は、『自分をクレーンで吊り上げるような感じ』で完全停止すれば何も問題はなかったのだが―――
「きゃっ」
やはり、地面が高速で近づいてくるのは怖い。結局、ぶつかるかもっ! という恐怖に耐え切れず、一夏は、地表から5メートル程度のところで完全停止をしてしまった。そのまま、ゆっくりと降りていく一夏。
「織斑、タイミングが早かったな。訓練を繰り返すことだ」
「はい」
昨日、始めたのだから仕方ない。あの恐怖心を払うためには、千冬の言うとおり繰り返し練習するしかないだろう。
「はっはっは、どうだ、一夏。ここは、やはり教官の言うとおり放課後は俺と訓練しないか?」
おそらく、千冬の評価を聞いていたのだろう。己は何も言われなかったのか、ブルーティアーズに乗ったままセシルが近づいてくる。しかし、一夏とセシルの間に割ってはいる影が一つ。
「セシル・オルコット。何を言っている?」
「決まっているだろう。一夏がISの操縦が上手くなるための提案だ」
セシルが何を当然のことを言っているんだ? と言いたげな表情をしているが、箒は怯むことなく、ISに乗っている相手に相対しているのにまったく怯むことなく、むしろ、セシルの言葉を鼻で笑った。
「ふん、ならば、俺が剣を教えたほうがいい。一夏の武器は刀だけだからな」
箒が言うことももっともだ。一夏が現在、持っている武器は、雪片・弐式のみ。この先の行事予定としては、クラス代表戦が待っているだけに武器の扱いは急務ともいえる。しかも、ISの操縦は千冬でも教えられるが、剣は箒しか教えられない。
セシルと箒の視線がバチバチと火花を散らすように交差する。
一夏がこの光景を見るのは割りと日常茶飯事だ。あの模擬戦が終わってから結構な頻度で見ているような気がする。お互いに一夏がISの操縦のことを考えていてくれるのはありがたいのだが、もう少し仲良くできないものだろうか、とも思うこともある。
その様子を見ながら一夏は考える。
―――ここは、『やめてっ! わたしのために争わないでっ!』って入るべきかしら?
しかし、残念ながら、その役目は別の人物によって奪われたようだ。
「馬鹿者っ! そんなことは端でやれっ!」
千冬に怒られてはやめざるを得ないのか、二人は、やや不満げながらにらみ合いをやめる。お互いを視界に入れないようにそっぽ向く二人。その仕草がなんだか、子どもっぽくて、思わず一夏はくすっ、と笑ってしまうのだった。
二人がお互いにそっぽ向いたとき、ちょうど授業の終了を告げるチャイムが鳴り、その日の実習は終わりを告げるのだった。
◇ ◇ ◇
「ふぅ、ようやく着いたっ!」
夜。IS学園の正面玄関前に小柄な体躯に似合わないボストンバックを持った少年が立っていた。
まだ暖かな四月の夜風に箒のようにうなじで結んだ髪が揺れる。もっとも、その長さは箒が腰ほどまでの長さであるのに対して、少年の長さは肩からちょっと出るぐらいの長さだ。金色のゴムがよく映える黒色の髪だった。
「ええっと、受付ってどこだっ?」
そういいながら、少年は上着のポケットを探る。そこから出てきたのは一枚の紙。ただし、慌てたのか、あるいは適当に入れたのか、紙はくしゃくしゃになっており、少年の大雑把さが伺える。しかし、それでもめげずにくしゃくしゃになっている紙から受付の場所を何とか彼は読み出した。
「本校舎一階総合受付事務。なるほどね……って、それどこだよっ!!」
一人、ゲート前で漫才のように自分にツッコミを入れる少年。おそらく、周りに人がいれば、奇怪な目で見られただろうが、幸いにして今は、一人だ。よって、誰も彼に何も言うことはなかった。それが、彼にとって幸運か、不運か分からないが。
「ちっくしょう、探せばいいんだろう。探せば」
そういいながら、彼は再び紙を上着のポケットに入れる。その際に、紙がまたくしゃっ、と悲鳴のような音をあげていたが、もちろん、彼は気にするはずもない。
しかも、ぶつくさと文句を言いながらも足は動いていた。考えるよりも行動する。それが少年のスタンスなのだろう。良く言えば、『習うより慣れろ』悪く言えば『考えなし』だ。
―――まったく、迎えがないとは聞いてたけど、学園も、政府ももう少し考えてくれよなっ!
少年は一見すると日本人のように見えるが、違う。日本人と比べて鋭角的な瞳は、彼が中国人であることを示していた。もっとも、日本は彼にとっても第二の故郷とも言うべき土地だが。
―――誰かいないかな?
少年はキョロキョロと案内役を探すために周囲を見渡す。しかし、時間帯は午後の八時。校舎の明かりは落ち、誰も外を出歩くような時間ではない。よって、彼を案内できそうな人影は何所にもなかった。
―――はぁ、空飛んで探すかな?
一瞬、名案っ! とも思ったが、ここに来る前に読んだ電話帳三冊分の学園規則を思い出してやめた。なにより、まだ入学手続きも終わっていないのにISを起動するなど暴挙を起こしてしまえば、外交問題にも発展しかねない。少年の短絡さを知っている政府の人間が、ここに来る前に必死に頭を下げていたのを思い出した。それを思い出して少しだけ気分が晴れる少年。
―――ふふん、僕は重要人物だからね。少しは自重しておこうかな。
昔から『年を取っているだけで無駄に偉そうな大人』が嫌いな少年にとって今の環境は非常に居心地がいいものだった。ISの適正が高く、また操縦技術も群を抜いて高いために第三世代の選抜に選ばれて専用機まで与えられたのだ。彼の重要度は中国国内でもかなり高いほうといえる。子どものご機嫌取りを政府の高官がしなければならないほどに。
そして、彼がもう一つ嫌いな人間がいる。それは、『少年の身長を揶揄してくる人』だ。今も155センチ程度で男子としては小柄に入るが、少し前はまだ低かった。男子の中でも断トツで背が低いほどに。だから、小学生時代のあだ名は『チビ』だった。しかし、そのあだ名を嫌った少年は、暴れた。それはもう、暴れた。身体能力の高さも仇となったのか、身長のハンデも関係ないほどに彼は喧嘩が強く。気がつけば、一人で孤立してしまうほどに。
女子は、女子で身長の低さを揶揄するように『可愛い』といって、頭を撫でる。それがまた癇に障った。
―――でも、あの子は違った。
思い出すのは、一人の女の子。中学時代に出会った女の子。偶然となりになっただけの女の子だが、今までの女子のように嘲笑も何もなかった。ただ、彼を彼として認めてくれた女の子。彼が日本に帰ろうと思った理由だ。
―――元気かなぁ?
おそらく、元気だろう。彼女はいつだって、笑顔で、元気だった。元気でないところを見たことがない。いや、正確には見たくないのかもしれないが。
そんなことを考えていた少年の耳に人の話し声が入ってきた。よかった、案内してもらえるっ! と思って駆け出した少年だったが、すぐに身を隠すことになる。
見えた人影に見覚えがあったから。そう、忘れない。忘れられるはずもない。あの特徴的な黒髪のポニーテールは、間違えようがなかった。いや、彼が隠れた理由は彼女にあるわけではない。問題はその隣を歩く男だ。豪華な金髪が特徴的な背の高い男。その男は彼女と仲良さそうに話しかけていた。その光景にショックを受けて思わず少年は隠れたのだ。
―――隣の男、誰だよっ!。どうして、そんなに親しそうなんだよっ!
彼女の姿を見たときに一瞬だけ、高鳴った心臓は、すっかり成りを潜め、その代わり、今は胸に苛立ちと疑問が雪崩れ込んできていた。
中学時代、彼女は、男子と親しくすることなどなかった。親しくしようとした男子はいるみたいだが。唯一の例外が少年だ。少年だけが、彼女の隣にいることを許された。それは密に彼の自慢だった。だが、今は自分以外の男が隣にいる。その光景を目の前にして苛立ちが湧かないわけがなかった。
しかし、ここで乱入するわけにはいかず彼女―――織斑一夏の中学時代に唯一隣にいることを許された少年―――鳳・鈴栄は、物陰に隠れて、彼らが通り過ぎるのを待つしかなかったのだった。
つづく
あとがき
鈴登場。中国名は、良い名前が思いつかなかった……。イメージは五飛さんみたいな感じ。