[15]王と精霊
「飽きた」
開口第一声、不躾にギルガメッシュはそう告げた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだたった一日しか経ってないじゃない」
昨日と同じくギーシュを同伴させた、モンモランシーの自室。
情け無用の宣告より一日も過ぎぬ内に、ギルガメッシュは再び彼女の部屋を訪れていた。
その来訪が意図するものが何であるか、言うまでもなく明白である。
「思っていたよりつまらん趣向であった。まあ、当初こそ物珍しさ故に、それなりに楽しめていたのだが・・・」
やれやれと嘆息しながら、ギルガメッシュは言った。
「いかんせん、行動が一定すぎる。容易に予測が立ちすぎて、意外性に欠ける。いつもの奴の方がまだマシだ。それに、奴のような貧相な肉付きで娼婦のように迫られても、滑稽すぎて興も沸かん。鬱陶しい事この上ない」
ルイズの純潔、いまだ誰にも許したことのない不可侵の領域に対し、正気の本人が聞けば大激怒必至の失礼千万な事をあっさりと口にする。
ちなみにそのルイズはというと、しつこく絡んでいく内に、面倒になってきたギルガメッシュの手刀の一撃により轟沈され、今は部屋に転がって沈黙している。
もっとも今のルイズならば、それくらいの事では全く堪えず、目を覚ませばすぐさま迫って来るだろうが。
「さて、こうして我は現状に飽きを覚え始めたわけだが、先日に宣告した通り、無論のこと我が所望する解除薬は出来ているのであろうな?雑種」
ジロリと、ギルガメッシュの視線がモンモランシーを捉える。
顔面蒼白となりながら、モンモランシーは歯切れの悪い口調で答えた。
「そ、それが、その・・・」
「・・・・・・」
「い、一応努力はしたんだけど、その、やっぱり元手が足りなかったというか、いろいろ巡り合わせが悪かったというか・・・」
「・・・つまり?」
「その・・・まだ、です」
モンモランシーの答えを聞き届け、ギルガメッシュは二コリ、と笑顔を浮かべて見せた。
それに釣られてモンモランシーも、口端が引きつった笑顔を返す。
両者笑い合うその場で、ギルガメッシュの背にする空間があたかも水面下のように歪曲し始めた。
その現象が何を意味するのか、傍から見ていたギーシュは骨身に染みて知っていた。
「おおおおお待ちをぉーーーっ!!陛下っ!!」
恋人(未定)の危機に、慌ててギーシュが両者の中間に割って入る。
いつも呑気な彼も、さすがに今回は必死である。
このままいけば、モンモランシーに下されるギルガメッシュの決定は、オーバーキル必至なのだから。
モンモランシーのため、ギーシュは何とかギルガメッシュの気を逸らそうと、咄嗟に考え付いた言い訳を並べた。
「今回、陛下のご所望に添えなかったのは、その、単純なお金だけの話ではなくてですね、そもそも原料である水の精霊の方に問題がありまして」
「水の精霊、だと?」
そんなギーシュに必死さが功を奏したのか、ギルガメッシュの意識が僅かに彼の話す話題へと移る。
その機を逃さず、ギーシュは一気にまくし立てて、意識を引きつけた。
「はい。モンモランシーが生成しました惚れ薬は、ガリアとの国境付近にあるラグドリアン湖の水の精霊の身体の一部たる、『水の精霊の涙』を原料とした秘薬を用いています。ですが、最近になってその水の精霊と、連絡が取れなくなってしまったのです」
咄嗟に口にした言い訳ではあったが、その割にはなかなかに筋の通った言い分であった。
水の精霊の話は、先ほどモンモランシーより聞いたばかりの話で、確かな事実である。
モンモランシーも自分に差し迫った危機の重さを感じ取って、裏金融に借金するくらいの覚悟ではあったらしい。
だがいくら金があろうと、最も重要な秘薬がそもそも店になくては、どうにもできない。
しかも店主に尋ねたところ、入荷はもう絶望的、などという答えが返ってきた。
その理由が、ラグドリアン湖に住む水の精霊との連絡の途絶にあるという。
「店では手に入らないと悟った我々は、すぐにでもラグドリアン湖に赴き、直接この手で水の精霊の涙を入手する所存でした。今はまさしくその出発の時でして、どうか御身には今しばらくお待ちを・・・」
「ふむ・・・」
ギーシュが並べた口上に、ギルガメッシュも殺意の手を取り止めて、思案を巡らせる。
殺意の霧散に伴って、ギルガメッシュが背にする空間で宝具召喚の歪曲現象も収束した。
ギルガメッシュの関心が、モンモランシーへの罰からギーシュの話す精霊の話題に移ったためである。
とりあえず目下のところの危機が去ったと知り、ギーシュはホッと一息をついた。
「よし、ではそのラグドリアン湖とやらに、我も同行しよう」
「えぇっ!?」
だがその矢先、いきなりのギルガメッシュの宣言に、ぬか喜びから一気に驚愕へと転化する。
無論、そんなギーシュの驚愕などお構いなしに、ギルガメッシュは話を続けた。
「自然の触覚たる精霊種。この世界においても、その役割に大きな変化はないそうだな。幾千の年月を一つの土地にて生き抜く、その水の精霊とやらに興味が沸いたぞ。
そうと決まれば、行動を起こすのは迅速に限る。行くぞ、ギーシュよ。今すぐに我をラグドリアン湖とやらに案内せよ」
「りょ、了解しましたっ!!」
「あ、それじゃあ私は、そういうことで・・・」
と、ちゃかり自分だけは逃げようとするモンモランシーの首筋に、虚空より生えた宝剣の刃が添えられた。
喉元にピタリと据えられる刃の冷たさに、モンモランシーの背筋が凍り付く。
「冗談ですっ!!行く、行きます、もちろん行かせていただきますぅっ!!」
半泣きになって、モンモランシーは前言を撤回して、同行を了承する。
そう言い放つ彼女の様子は、ほとんどがヤケクソ気味であった。
「フン、水の精霊、か。なかなか良い退屈しのぎになりそうだな」
愉快気に笑みを浮かべて歩き出すギルガメッシュに、それに付き従う形で後に続くギーシュ。
そしてあからさまに全く乗り気ではないモンモランシーを引き連れて、三人はラグドリアン湖へと出発した。
「はぁ・・・。初めてのサボりね」
部屋の出口へと歩き出す中、モンモランシーはそんなどうでも良い事をぼやいた。
夜の薄闇が城内を暗闇へと覆っていく中、アンリエッタは城の中の自分の寝室にいた。
明かりもつけぬままに、肌着一枚の気だるげな格好でベッドの上に寝転がっている。
部屋の至る所には、脱ぎ散らかした彼女のドレスが散乱していた。
お付きの女官や侍従には見せられない、だらけ切ったその様子のままに、アンリエッタは虚ろな瞳を自分の左手へと向ける。
その手の薬指には、ルイズが斃れたウェールズより持ち出し、アンリエッタの元へと届けた『風のルビー』があった。
「ウェールズ様・・・」
ぼんやりと、自分の前にこの指輪を嵌めていた人物の名を呟く。
愛する人の温もりを宿したこの指輪を眺めていると、自然と彼との甘く大切な思い出も脳裏に蘇らせることが出来た。
その思い出は、今より遡ること三年の夏の夜。
トリステイン、ガリアの国境沿いに位置するラグドリアン湖で行われた、各国から客を招いての太后マリアンヌの誕生日を祝う園遊会。
格式ばった礼節の数々に退屈し、晩餐会の席より抜け出したラグドリアン湖の湖畔で、アンリエッタはウェールズと出会った。
永遠の誓いを象徴する湖畔での出会いより、若い二人はあっという間に恋に落ちた。
園遊会が続く最中、アンリエッタとウェールズは毎晩月明かりが照らす湖畔にて密会し、恋人の睦言を楽しんだ。
その時間は、王家という箱庭の中で窮屈な思いを味わってきたアンリエッタにとって、初めて生きていると実感できる瞬間であった。
だが幸せの時間とは、得てして過ぎゆくも早きもの。
客人として招かれたウェールズは、園遊会が終われば遠き空の上のアルビオンへと戻ってしまう。
仮に何かに機会で出会えたとしても、公の場では夜の湖畔で交わしたような、愛の語らいは不可能だ。
アンリエッタは王女であり、ウェールズは王子。
どちらも王族として、人生のすべてを国のために尽くす事を生まれる前より宿命付けられた、自由無き血筋。
その時ほどアンリエッタは、自分が生まれ持った王族の血筋を疎ましく思ったことはなかった。
「どうか、誓ってくださいまし。私への変らぬ永久の愛を、『誓約の精霊』たる水の精霊の住むこの湖畔で」
密会の最後の夜、アンリエッタはそう申し出た。
ラグドリアン湖に住まう水の精霊の前で結ばれた誓約は、決して違えられることはないと言い伝えられている。
月光の元、人目を憚る湖畔の峰で、アンリエッタは永遠の誓いをウェールズへと求めた。
もちろん、アンリエッタとて分かっている。
永遠の誓いなど、単なる迷信に過ぎないのだと。
水の精霊の前で行われた誓約が決して違えられることがないなど、言い伝えになぞらえた妄想でしかない。
特別な効果など何一つなく、せいぜい自身に信じ込ませる自己暗示程度にしかなるまい。
だがそれでも、アンリエッタは構わなかった。
これまでアンリエッタの生とは、常に王族の名や主従の関係によって左右される、自己の無いものだった。
そんなアンリエッタにとって、ウェールズに懐いた恋心は、己の内より初めて発生した感情なのだ。
例え根拠なき妄言であろうと、この愛の感情の所在を何かの前で証明したかった。
そうすれば、せめて夢の中でならば自分はウェールズを思い慕い続けることが出来るから。
しかしウェールズは、そのアンリエッタの求めに応えてはくれなかった。
「どうしてあなたは、あの時おっしゃってくれなかったの?」
なぜ誓ってくれなかったのか。
愛してくれていたのではないのか。
例え迷信だとしても、それで得られる安心があるならば、意味はあるのではないのか。
三年の月日が流れた今でも、あの時の疑問は尽きない。
そしてもう、あの時とは違い、この疑問に答えてくれる人は、いない。
この疑問が解き明かされる日は、永遠にこない。
手の『風のルビー』を眺める瞳に、涙がついっと流れた。
トントン
その時、無粋といえばあまりに無粋なタイミングで、扉がノックされる音が聞こえた。
「誰?」
また枢機卿辺りが、何かの許可を求めてきたのだろうか。
すでにゲルマニアとの結婚も近日に控え、宮廷内でも準備が進んでいる。
それに比例して、臣下達の多忙さも増していた。
それを理解して、しかしアンリエッタはこの来訪者を歓迎する気にはならなかった。
自分はすでにゲルマニア皇帝との結婚を、すなわち国事の道具として利用されることを受け入れている。
自分に出来ることは、もうこれ以上は無いはずだ。
そんな自分に、今さら何の許しを求めるというのか。
民のため国のため、道具であることを決意した女に、これ以上何を求めるというのか。
―――どうして、せめてそっとしておいてくれないのか。
「ラ・ポルト?それともマザリーニ枢機卿?どちらでも良いわ。私の、王女の許可が必要なら、いちいち私に許しを得る必要はありませんよ。私の許可など、所詮は形式のようなもの。私が許可したということで、そちらで勝手に処理してくださって構いません」
たっぷりと拒絶の意志を込めて、突き放すようにアンリエッタは扉の向こうに居る人物に言う。
その言葉に対して、アンリエッタが予想する老いた声ではなく、扉越しに透き通って響く青年の声が返ってきた。
「僕だよ。アンリエッタ」
胸に響くその声は、アンリエッタにとってあまりにも懐かしい声だった。
ハルケギニア随一の名所として知られるラグドリアン湖は、トリステインとガリアを間に挟んだ位置に存在している。
トリステイン中央部に位置する魔法学院からはそれなりの距離があり、移動にはかなりの時間がかかる。
早馬にて学院を出発したギルガメッシュ達がラグドリアン湖に辿り着いた時、すでに日はすっかり沈んだ後だった。
「・・・おかしいわね」
一行の先頭を駆けていたモンモランシーが、湖を一望出来る丘の上からの光景に怪訝な声を漏らす。
愛する少女のその呟きを、後ろを付いて来ていたギーシュが耳聡く聞き取った。
「どうしたんだい、モンモランシー?こんなに素敵な場所に来たというのに、浮かない顔をして。なんとも綺麗な湖じゃないか。陛下の命がなければ、君と一緒に水辺の散策でも楽しみたいところさ」
「なに呑気なこと言ってんのよ。ほら、見てみなさい。あそこに、水面から出てる屋根が見えるでしょう。しかも古い建物じゃなくて、新しいわ」
湖の一点を指差し、モンモランシーが告げる。
そこにはなるほど、彼女の言うとおり水面から突き出る形で映る藁葺きの屋根が見えた。
目を凝らして見れば、水の底に家が黒々と沈んでいることに気が付く。
「水位が上がっていうのよ。私が前に見たときは、湖の岸辺はもっと向こうだったはずよ。その影響で、どうやら村が一つ飲まれてしまったみたいね」
モンモランシーは馬を降り、湖の波打ち際に立つと、水に指をかけて集中するように目を瞑る。
トリステイン王家と、水の精霊の間では、古い盟約が取り交わされている。
その盟約の交渉役を、モンモランシーの実家であるモンモランシ家は何代にも渡り務めてきたのである。
現在はモンモランシ家現当主が精霊の機嫌を損ねてしまったため、別の貴族がその役割を担っているが、それでもその血筋に宿った水との共感力は未だ十分な効果を持っていた。
「・・・水の精霊は、どうやら怒っているみたいね」
「それは、やっぱり不味いのかい?」
「当たり前よ。水の精霊はプライドが高いから、機嫌なんて損ねたら大変なのよ。私の実家だって、そのせいで開拓に失敗しちゃったし」
当時のことを思い出し、モンモランシーは嘆息した。
不用意な父親の発言のせいで、モンモランシ家の水の精霊の協力を得た領地開拓はあえなく失敗。
結果としてモンモランシ家には多大な負債のみが残り、今も領地の経営を苦しめている。
それはモンモランシーにとっても、まぎれもなく苦い思い出だった。
「ということですが、いかがします?陛下」
モンモランシーの発言を聞いた上で、ギーシュは最後尾に在るギルガメッシュへと、確認を取るように尋ねる。
ギルガメッシュは、声色に一切の迷いを滲ませることなく、即答で答えた。
「何も変わらぬ。例え何人の意志が介入しようとも、我の決定が覆ることなどありはせぬ」
はっきりと、ギルガメッシュは宣言する。
馬上より言い放つその振る舞いは、厳格なる威厳を纏い、王者の風格を漂わせている。
「にゃぁ~ん♥ゴロゴロ♪」
だがその王の在り様の手元では、甘い猫鳴き声で頬ずりする黒猫の姿があった。
いや、正確に言えば黒猫ではなく、ルイズである。
前回同様の露出度の高い黒猫ルックを纏い、ギルガメッシュの膝元にもたれ掛る形で、馬に騎乗していた。
更にご丁寧に、言葉もギルガメッシュの要望通りのキャット口調であった。
その姿には、もはや侯爵家の令嬢たる気品はなく、王のためのただの愛玩動物だった。
「あのー・・・。どうしてルイズまで連れて来たんです?どの道薬の調合のためには学院には戻らなくてはならないんですし、別に置いて行っても良かったような気がするのですが・・・」
「我とて連れてくる気はなかった。だが間が悪く、こいつが目を覚まし、しつこく食下がってきてな。置いて行っても構わなかったのだが、まあこれとて今回の事で見納めであろう。せいぜい最後の時まで我の遊興になってもらう事にした」
答えながら、ギルガメッシュは膝の上のルイズの顎の辺りを、コチョコチョとくすぐるように撫でてやる。
それに反応して、ルイズが本物の猫のように「きゅ~ん♥」と鳴き声を上げた。
唐突だが、ルイズは美少女である。
プロポーションの一点を除けば、魔法学院の美男美女揃いである貴族の生徒達の中でも、間違いなくトップクラスの顔立ちだ。
またその身体つきの幼さも、妖艶な色気の代わりに、一種の妖精のような可憐さを引き出す要因となっている。
そんな妖精のような魅力を称えるルイズに対し、現在の黒猫ビキニスタイルは、はっきり言って反則級の破壊力がある。
先日の授業ではいきなり過ぎるということもあって、それほどの騒ぎにはならなかったが、授業後はすでにファンクラブのようなものが立ち上がっていたりする。
ギーシュもまた、そんなルイズの普段からは考えられない萌え要素に、クラリと理性を傾かせた。
「い、いやいや、全くですねぇ。このルイズとは、これが最後の見納めとなってしまうんですから、存分に楽しんでおかないと・・・」
言いながらギーシュは、そおっとルイズの顔へと手を伸ばす。
だがその瞬間、ギーシュに対してルイズは「フーーーッ!!」と髪を逆立てて威嚇し、胸のバンドより杖を引き抜く。
それを情け容赦なく、手を伸ばしてくるギーシュへと向けて振り下ろした。
空間に生じた爆発が、ギーシュを飲み込んだ。
「どうだ。よく躾けられた猫であろう?」
「・・・なんだが、元に戻った後が怖くなってきました」
爆発の中、真っ黒なボロボロの姿となりながら、煤けた声でギーシュはコメントした。
「・・・む!」
と、ふざけた様子で緊張感を欠いていたギルガメッシュの表情が、急に引き締まる。
前方のギーシュより意識を外し、視界に映らぬ後方へと意識を向けた。
「どうされました?」
「・・・何者かが、この場所に近付いている」
それは、十分に不自然なことだった。
時刻はすでに日を落とした夜、都会でもない場所で人が活動するような時間ではない。
また湖の水位の増加に伴い、近隣の村の人々はすでに立ち退きを余儀なくされている。
こんな時間にこんな場所に用があるのは、それこそギルガメッシュ達のような特殊な用事があるものだけだ。
その目的が如何なるものかは不明だが、人の目を忍んで行う以上は、あまり褒められた行為ではないだろうことは確かである。
「乱客か。ふん、まあ良かろう。水の精霊とやらの前の、ちょうどいい余興だ」
膝の上よりルイズを退かし、ギルガメッシュは地面へと降り立つ。
そして高慢を如実に表す不敵な笑みを浮かべ、来たる新たな来訪者を待ちうける。
ギーシュとモンモランシーは戸惑い気味に後ろで事を見守り、ルイズはギルガメッシュの背中にすりすりと自分の顔を擦りつけていた。
やがて、夜の暗闇の中から二人の人影が現れる。
人影の方もギルガメッシュ達の存在に気付いていたのか、その手には杖を持って身構えている。
だがそんな一触即発の雰囲気は、両者が互いの顔を視認した瞬間に解消されていた。
「お前達は・・・」
「ダ、ダーリン!?どうしてこんな所に?」
「意外」
現れた二人の人影。
その正体は、一行も良く知るタバサとキュルケの二人であった。
「じゃあ君達は、湖の水嵩が上昇したせいで被害にあったタバサの実家の頼みで、水の精霊の退治をしにきたんだね」
互いの事情を説明し終えて、現状を認識したギーシュが言う。
彼女達の話によれば、ガリアの国境付近に存在するタバサの実家に対し、水嵩の上昇により家が水没した近隣住民より訴えがあったという。
この付近の土地の領主であるタバサの実家も、領民の求めを撥ね退けるわけにはいかず、タバサが代表として討伐に出向いたのだそうだ。
その説明を行ったキュルケは随分と曖昧な口調ではあったが、とりあえずこの場でその事は追及されなかった。
「それにしても、ラグドリアンの水の精霊を討伐しようだなんて。あなた達、命知らずもいいところね」
「あらぁ?そういうあなたは惚れ薬でしょ?まったく、自分に自信が持てない女って、最悪ね」
「う、うるさいわね!!ちょっと試しただけよ!!」
動揺した様子で、モンモランシーが答える。
だがそれをきっぱりと無視して、キュルケはギルガメッシュの方へと向き直った。
「それよりも、ルイズ。あなた、いくら薬のせいだからって、ダーリンにくっつきすぎよ。あん♪ダーリン、お会いできなくてキュルケ寂しかったぁ~~」
そう言って、ギルガメッシュの身体に寄り添い頬ずりしているルイズに対抗して、キュルケもギルガメッシュに腕を絡めた。
歳に合わぬプロポーションを誇るキュルケの豊満なバストが、大胆に押し付けられる。
それを見たルイズが、癇癪を起こして叫んだ。
「キュルケッ!!ギルガメッシュに馴れ馴れしくしないで!!」
「嫌よ。そんなこと、別にあなたに許可されることじゃないもの。だいたい・・・」
ビシリと、ルイズの格好を指してキュルケは言った。
「あなたみたいなちんちくりんのまな板娘がそんな格好したって、しょうがないでしょ。そういうのはね、私みたいなグラマラスな美女が着てこそ引き立つのよ」
「ぬわぁんですってぇ~~~!!」
バチバチと火花を散らし、キュルケとルイズがギルガメッシュを間に挟んで睨み合う。
両者の視線が交錯し、二人の背にメラメラとしたオーラが立ち上り始める。
それは男ならば怖れ慄かずにはいられない、張り詰めた修羅場の空気だった。
「いや、ルイズはルイズでキュルケとは違う特有の魅力がある!!そのぺったんこなスタイルが、ある種の萌え要素となって―――」
口走ったギーシュは、キュルケの炎とルイズの爆発によって即座に黙殺された。
邪魔者が消え、ルイズとキュルケの間に再び一触即発の空気が流れだす。
その迫力たるや、周囲の者が尻尾をまいて逃げだしたくなるほどに重く激しい。
そして迂闊に手を出そうものなら、ギーシュの二の舞となることが見え透いている。
そんな両者の間に挟まれては、そこらの並の男子ならば空気の重さにまともな呼吸さえ敵うまい。
だが―――
「ふはははは!!そう争うな、妾ども。なに、案じずとも、何の問題もない。この我の寵愛がたかが一人の女如きで手に余るものか。どちらかなどと狭量なことは言わず、両名まとめて可愛がってやろう」
二人の間の空気を読まないどころか全く気にせず、ルイズとキュルケの肩を抱き、ギルガメッシュは豪語した。
この程度の修羅場など、傲慢不遜の英雄王にとっては脅威どころか一抹の動揺さえ沸かせない。
ギルガメッシュの感性に置いて、この世のすべては自分を楽しませるための玩具であり、それを手にするのに切り捨てるという発想など懐かない。
二つの物があるならば、どちらか一方を選ぶのではなく両方まとめて我が物とするのがギルガメッシュの流儀であった。
ギルガメッシュの抱擁を受け、二人の少女の歓声が夜のラグドリアン湖に響き渡る。
完全に置いてきぼりをくらっているタバサとモンモランシーは、その光景を呆然と見ているしかなかった。
「―――さて、戯れはこれくらいにして」
と、腕に絡みついていたキュルケとルイズを引き離し、やや落ち着きを取り戻した口調でギルガメッシュは言った。
「この世において何においても優先されるべきは、この我の意思。まずはこの我の意向が先行する。よもや異存はあるまいな?」
言われたタバサは、特に反論を口にすることなく頷く。
元より、彼女の任務は水の精霊が行っている湖の水嵩の増加の阻止にある。
討伐はあくまで手段であり、果たすべき目的ではない。
ギルガメッシュの交渉によって目的が果たせる可能性があるなら、あえて止める理由など無かった。
「そら、そこな巻き毛の雑種。さっさと水の精霊とやらを呼び出さぬか」
「何よ、巻き毛の雑種って!!もう少しまともな呼び名はないの!?」
反論しつつも言葉には素直に従い、モンモランシーは腰に下げた袋から一匹のカエルと取りだす。
鮮やかな黄色に、黒い斑点が身体に散ったそのカエルは、春の『サモン・サーヴァント』にてモンモランシーが呼び出した使い魔である。
「いいこと、ロビン。あなたたちの古いお友達と、連絡がとりたいの」
使い魔に言伝すると、モンモランシーはポケットより針を取り出し、自分の指に僅かに突き立てた。
指先に赤い血の玉が膨れ上がる。
その血の滴を使い魔へと滴らせると、湖の中に向けて放った。
水の精霊とは、人間のような肉を持った生物ではない。
その性質はコケに近く、無数の水の組成が組み合わさって構成される意識集合体なのである。
故に彼らは人のように視覚によって情報を得るのではなく、同種の液体との接触によって他者を知覚する。
モンモランシーが使い魔に渡した血液に水の精霊が触れれば、それが過去に自分が契約していた血筋の者だということが分かるだろう。
使い魔のカエルが水の精霊を連れてくる間、一行はしばし待機となる。
「けれど、どうするの?」
と、水の精霊が現れるのを待つ間、タバサが尋ねた。
「交渉をしても、水の精霊の気位の高さを考えれば成功は難しい。戦いとなっても、相手は水の集合体。普通のやり方じゃ倒せない」
水の精霊は、水素の集合によって存在している生物。
その性質はすべてが液状であり、人の持つあらゆる物理攻撃では、水の精霊を打倒することは敵わない。
討伐を行っていたタバサとて、正面から争おうとはせず、空気の気泡の中に入って精霊の元まで接近し、高温の炎によって徐々に削っていくという搦め手の策を取っていた。
いかに強力なギルガメッシュの宝具とて、相手に刺さらなければ意味がないと判断しての、タバサの考えだった。
だが言わせてもらうならば、タバサのその判断は幾分ギルガメッシュの宝具のことを侮りすぎている。
いや、侮るというよりも、認識が不足していると述べたほうが正しいだろう。
空間の門を隔てて開放される宝物庫、そこに貯蔵された莫大な財は、ギルガメッシュを万能に近い超越存在にたらしめている。
いかに形の無い水分の集合であっても、ギルガメッシュが本気で所有する財を駆使し尽くせば、打倒する手段などいくらでもあるのだ。
以前に似たような液体物質の相手だった、『闇水晶』に呑まれたフーケのゴーレムを相手にした時、ギルガメッシュが撤退を表明したのも、勝機を見失ったからではなく、純粋にあの汚物の相手に自身の宝具が汚れる事を嫌ってのことである。
その認識の違いを、しかしギルガメッシュは特に正そうとはせず、ただ疑問に対してのみ答えた。
「それは向こうの出方次第だ。奴はまだ、我に対して何かをしたという訳ではないからな」
平坦に、ギルガメッシュは答える。
湖の水嵩の増加による、近隣の村の水没などは、ギルガメッシュにとっては気に掛けるような事柄ではない。
ギルガメッシュ個人から見れば、水の精霊はいまだ相対した事の無い未評価の存在だ。
その処方を定めるのは、あくまで対象の見定めを終えてからである。
数分後、一行の前に水の精霊がその姿を現す。
岸辺より三十メイルほど離れた地点の水面より、輝きと共に水が蠢き盛り上がっていく。
最初はアメーバのように決まった形を取らなかったそれは、やがて人の形骸を模して変化する。
変体を終えた水の精霊は、モンモランシーの背格好を模倣した氷の彫像のような姿となって、一行の前に佇んだ。
モンモランシーの家系、モンモランシ家との古き盟約を覚えていた水の精霊は、モンモランシーの交渉に応じた。
水の精霊はこのハルケギニアにおいて、始祖ブリミルにも勝る歴史を持つ先住種族。
悠久の時を生きてきた精霊は、現在の事象も過去の事象も等価値として記憶している。
今は断裂しているとはいえ、モンモランシーの血液に刻まれた契約の刻印は確かなものとして映った。
だが、話題が水の精霊の身体の一部たる『水の精霊の涙』の提供に移ると―――
「断る。単なる者よ」
にべもなく、その要求は拒絶された。
「ああ、やっぱり。そりゃそうよね。それじゃあ、残念だけど、この話はあきらめ―――」
そう言いかけたモンモランシーの喉元に、虚空より伸びた首狩り鎌の刃が添えられた。
「―――る訳ないじゃないのぉぉぉ!!どうかお願い、水の精霊!!何でも言う事を聞くから、『水の精霊の涙』を分けて頂戴!!ていうか、お願いします。ほんのちょっとでいいですから、いや本気で、このとおり」
額を地面に擦りつけて、土下座の姿勢で深々と頭を垂れてモンモランシーは懇願した。
普段彼女が唱える貴族の誇りも、やはり命あっての物種なのだろう。
そんなモンモランシーの誠意が通じたのかは不明だが、水の精霊は先ほどとは別の解答を示した。
「ならば、条件がある。単なる者よ。貴様はなんでもすると申した。ならば我の代わりに、我に仇なす貴様の同胞を退治してみせよ」
「退治?」
「左様。我は今、水を増やすことに精一杯で、襲撃者の対処にまで手が回らぬ。その者どもを退治すれば、望み通り我の一部を進呈しよう」
その言葉に、後ろで控えていたキュルケとタバサは慌てた。
水の精霊が言う襲撃者とは、他ならぬ彼女たち自身である。
精霊の示す交換条件は、この場合彼女たちを打倒するということになってしまう。
「水の精霊、あなたはどうして湖の水嵩を増やす?あなたの行いのせいで、多くの人が被害にあっている」
タバサが皆より一歩前に出て、湖に佇む水の精霊に尋ねる。
当の襲撃者であるタバサを目の前にしても、水の精霊はそれに気付かない。
通常の五感を持たない水の精霊は、水を通じて接触しない限り、個人を特定することができないのだ。
まるで詰問するようなタバサの口調に、モンモランシーはあたふたと動揺する。
ここで水の精霊を怒らせては、せっかくこぎ着けた交渉も破談となるかもしれない。
それはすなわち目的達成の不可能を意味し、同時に彼女自身の命の危機でもあるのだ。
だがモンモランシーの心配を余所に、水の精霊は怒りを見せることはなく答えた。
「単なる者よ。それは貴様らの同胞が、我の守りし秘宝を盗んだためだ」
「秘宝を、盗んだ?」
「そうだ。あれは月が三十ほど交差する前の晩の事、我の存在するこの水の最も奥底より、我が秘宝を貴様らの同胞は盗んだのだ。
我は秘宝の返却を望む。我は下手人を追跡する手段を持たない。故に、我はすべてを水に覆う事とした。我の触覚たる水が世のすべてを覆ったならば、我は失われた秘宝の在り処を知るだろう」
それは、なんと気が長く、そして単純な話であろうか。
水の精霊は、ただ目的の物に手を伸ばそうとする、そんな感覚でハルケギニア全土を水没させるつもりなのだ。
果たしてそれにどれほどの時間が費やされるかなど、水の精霊は考慮もしていない。
その過程でどれだけの人間が苦しむかも、同様に。
水の精霊は、良くも悪くも、人間とは全く異なる感性の元に行動しているのである。
そんな水の精霊の行動に、一行は一様に呆然となった。
「フン、くだらんな」
そんな口をきくのが躊躇われる空気の中で、ギルガメッシュは毅然とそう断じた。
「自然の触覚たる精霊種。異界においてもその役割は変わらぬとは感じていたが、在り様の退屈さも同様であったか。まったく、面白みの欠片もない」
「・・・なんだと?」
ギルガメッシュの暴言に、平坦だった水の精霊の声色が変化した。
「行動に賢しき動機もなく、目に付くような執着もない。まったくもって、退屈極まる在り方だ。そんなものが、この我と対等に弁を交えようとするなど、それのみで罪に当たる。
おまけに、交換条件だと?たかが雑念の集合如きが、随分と図に乗ったな。貴様が為すべきは、ただこの我の意思に従い、我が所望に応えることのみ。それ以外は一切不要よ」
水の精霊より、怒気が立ち昇る。
水で構成された形骸の表情には、何の変化もない。
だが、ギルガメッシュが臆面もなく言い放つ侮辱の数々は、形ではなく醸し出す雰囲気によって、水の精霊に明確なる怒りを生じさせていた。
「傲慢なる、単なる者よ。貴様が何をざわめこうが、我を従属させることは敵わぬ。過去と未来いかなる時代であろうと、我は何人の意志の下に在る事はない。我らが総体は、この世を統括する“大いなる意思”の一部であるが故」
「御託はよい。元より貴様の意志など知ったことか。これより貴様の意思を、この我が恐怖を以て蹂躙してやるのだからな。恐れからの屈服、畏怖よりの隷属を以て、我が軍門に下るがいい」
「それは不可能だ。傲慢なる者よ。恐怖とは、貴様ら人のみが有する感情だ。我は貴様らとは存在の根底より違う。もはや数えるも愚かしい悠久の時間を、変化なく流れてきた我には、恐怖なる感情は存在せぬ」
一切の憂いなく、水の精霊は断言した。
その途端、待っていたとばかりにギルガメッシュは不敵に笑みを浮かべて見せた。
「恐怖がない、と抜かしたな?雑念」
タバサとモンモランシーを押しのけて、ギルガメッシュは水の精霊の正面に歩み出た。
ちょうど水の精霊と正面から向かい合う湖の岸辺に、臆することなく凛然と立つ。
「ならばその言葉、試してみよう」
そう言って、ギルガメッシュは湖の中へと足を踏み入れる。
その行動に、後ろに控えていたモンモランシーとタバサは息を呑んだ。
湖の水は、水の精霊にとって他を知るための唯一の感覚であると同時に、最強の武器でもある。
水に僅かでも触れたが最後、水の精霊の意思は精神へと侵食し、その心を乗っ取られる。
生命の組成を司る『水』の化身である水の精霊にとって、他の生命を掌握するなど呼吸と同義なのだ。
自ら水の精霊のテリトリーである水の中に踏み込んだギルガメッシュの行動は、いうなれば相手の刃圏に首を差し出し、どうぞ狩ってくださいと言っているようなもの。
自殺行為にも等しい愚行である。
「どういうつもりだ?傲慢なる者よ」
「言ったとおりだ。貴様の恐怖は無いなどという言質、その真偽のほどを我が見定めてやろう」
岸より五メイルほど進んだ辺りで、ギルガメッシュは足を止める。
その足は、ちょうど脛の部分まで湖の中に沈んでいた。
「どうした?わざわざ我が、貴様の土俵の上に上がってやったのだぞ。あれほどの大言を吐いて見せたのだ。せいぜい賢しく抵抗してみせよ」
あまり傲岸が過ぎるギルガメッシュの言葉に、水の精霊は呆れた。
感情が表情に出るような身体の作りではないが、それだけに纏う空気は敏感に変化している。
その空気が、目の前の相手に対する水の精霊の侮蔑を明確に表現していた。
「・・・愚かな」
最初に今の形骸を繕った時と同様に、水の精霊の身体が蠢きだす。
しかし今度は形を持たすことはなく、むしろ千差万別なる無形を表すように自らの形体を崩していく。
「単なる者よ。―――己が矮小さを知るがいい!!」
水の精霊の身体が弾け飛ぶ。
霧散した精霊の肉片は湖の中へと四散し、湖畔すべてと感覚を同調させ意識を広げる。
そして自らの懐に佇む矮小なる敵対者に、その意思の総体を以て襲いかかった。
『水』は、あらゆる生物の起源である、生命の原点。
生命の原種も水の中より生まれ、いかなる生命にも『水』が重要な要素として含まれる。
生命の生きるという行為は、そのまま体内の『水』の流れによって置き換えられる。
見る、聞く、動く、考える。
肉体のあらゆる行為において『水』の脈動が生じ、その流れに従って行動は進められる。
『水』は全体に意思を運び、運びこまれたその意思が、人の行動を決定している。
『水』とは、精神と肉体を繋げる行動の架け橋だ。
―――ならば、体内にて脈動するその『水』を統括することは、すなわち生命のすべてを支配することに他ならない。
全は個であり、個は全である。
無数に存在する個なる意志が群れを為して総体を作り、積み重ねられた意志群の総意を以てひとつの個を形成する。
どれほどの時が流れようとその総体に変動は無く、全体の中で統一された総体の意思は幾年が過ぎようと揺らぐことは無い。
それが、水の精霊という存在の在り方だ。
そんな水の精霊から見れば、人間の意思とはいかにも小さく弱い。
例えるならそれは、流れる河川を行くこの葉で出来た小船。
時という河川の流れの中で幾度も不安定に揺らめき、ほんの少しの力が加われば容易く沈む。
それぞれの個による違いなど、大いなる流れの中では無いものに等しい。
無数の意思の総体たる自分は、悠久の時の中の河川の流れそのもの。
例えどのような個であろうと、膨大なる全の意思の前では、容易に覆い隠される。
そしてその個もまた全の一部となって、総体内に取り込まれる。
単なる意思の掌握など、全なる自分にとっては人にとっての呼吸と同義なほとに簡単で当たり前のことなのだ。
故に、今この内にある個とて、それは例外ではなく。
どれほど傲慢なる個も、圧倒的なる全の意思の中にあっては無性なる一個に過ぎず。
全の中に包みこまれた個は総体の中に薄れゆき、胎盤をたゆたう胎児の如くまどろみの中へと眠っていく―――
(つまらんな。雑なる想念がざわざわと、騒々しい。これでは眠たくても眠れんわ)
「!!!?」
その時。
無限の意思を連ねる全の中で、あり得ないはずの個の声を聞いた。
(いかに数を揃えようと、所詮は雑念。やはりこの程度のものであったか。全く、いらぬ期待を託させおって、こんなものは戯れにもならん)
あり得ない。
こんなことはあり得ない。
どうして全の中より、個の声が聞こえる?
どうして単なる個が、総体たる全の意思を凌駕する?
単一の個など、膨大なる全の中においては、儚く脆い存在でしかないというのに。
全とはすなわち数であり、環境であり、時間である。
単なる個の意思など、その大いなる全の要素の中に置いて、いくらでも変動する。
どれほど強固な意思も、大衆の流れには逆らえず、劣悪な環境の中では摩耗し、時の経過と共に薄れゆく。
その変動こそが、個なる意思の限界であり、弱さなのだ。
ならばこそ、個なる意思を集結させ、確固たる全の意思となって変動することなく存在する自分こそは、あらゆる精神の上に君臨する王であるはず―――
(笑止。何を喚こうが、所詮貴様は雑多の意思の集合体。確固たる意志など無く、他が他を補いながら全体意思を統合しているに過ぎん。雑なる念の寄せ集め風情が、王を息巻くとは笑わせる)
消えない。
この個は消えない。
こんな存在など、自分は知らない。
これまで相対してきた者は、ひとつの例外なくその精神を支配出来た。
どれほど確固たる意志を持った個であろうと、自分という圧倒的な全の中には抵抗出来ずに飲み込まれた。
総体たる全の意思に、個の意思はただ押し流されて覆い隠されていったのだ。
だがこの個の意思は隠せない。
どれほどの全を以て覆っても、覆われた全の中でより一層の輝きを以て際立ち光る。
むしろ覆い隠そうとすればするほどに、この個の意思は更なる輝きを以て全の上に君臨する。
こんな精神が存在するなど、完全に想定外だ。
(フン、早くも脆さが出たな。そう、貴様の自尊など、無知から来る愚鈍に過ぎん。自分を揺るがす存在を知らぬから、自分を確固などと抜かせる。一度ボロを出させれば、後は連鎖にて崩れ出す。全く以てつまらぬ、張り子の見栄よ)
―――消え失せろ!!
明確なる拒絶の意志を以て、己という存在を揺るがそうとしている異物に向けて叫ぶ。
その意思はもはや総体にて覆い隠そうとするものではなく、大多数を以て強引に押し流す暴力にも等しい行為。
自分という存在を形成する意思の全体が、そうしなければならないと訴えているのだ。
―――消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ!!!
―――消え去って、自分の中からいなくなってしまえ!!
(わめくな。見苦しい)
その水の精霊の全存在を懸けた拒絶を、黄金の英雄王は嘲りの一言を以て一蹴した。
(雑多の想念共の相手にもそろそろ飽いた。失せるがいい、雑念)
そして、水の精霊の拒絶に対する返礼とばかりに、今度はギルガメッシュが拒絶の意志を以て応える。
その意志を受けた瞬間、水の精霊は自らの存在の中に亀裂が生じるような感覚を確かに感じた。
いかなる多数、いかなる場所、いかなる時代においても変動する事の無い絶対自我の光が、包み込む全なる意思を打ち消していく。
眩しく巨大なその光によって、水の精霊は包みこんでいた全存在を丸ごと弾き飛ばされた。
精神世界より回帰した現世にて、水の精霊はその総体を湖の中へと霧散させる。
散乱した意思は、再び現世での形を取ろうと、一個の元に集まろうとするが、なかなかそれが敵わない。
ようやく集まっても先ほどのような形骸を取り繕う事が出来ず、無形の水塊となって蠢いている。
存在の誕生より初めての打ちのめされた経験は、水の精霊にかつてないほどの動揺をもたらしていた。
「理解したか?それが恐怖というものだ」
その水の精霊に対し、ギルガメッシュは容赦なく告げた。
「恐怖という感情は、人のみが持つ固有の感情ではない。理性ある者ならばいかなる存在であろうと共通して懐く感情だ。恐怖がないなどという言葉は、いかに貴様の世界が浅はかであったかを物語る何よりの証拠。
貴様は先ほど、殺意の拒絶を以てこの我を抹消しようとした。その殺意こそが、貴様の懐いた恐怖の表れ。恐怖という感情より発露した、自己を揺るがす敵対者に懐く、生物特有の防衛本能。
認めろ、精霊。我に対する恐怖を認識した時点で、貴様は敗北したのだ」
ギルガメッシュの言葉に、水の精霊は何も答えることができない。
未だ水の精霊の動揺は収まらず、形を為すことも出来ずに蠢いているだけだ。
その動作のすべてが、ギルガメッシュの言葉の一つ一つに影響を受けているのは明白である。
やがて、ようやく落ち着いてきたのか、水の精霊は定まった形を繕おうと収束していく。
その形、ギルガメッシュの姿を模倣した形体へと変化していき―――
「王の形骸を模倣するとは何事か、無礼者っ!!」
ギルガメッシュのただ一言の一喝により、その形は脆くも崩れ去った。
再び無形の水の塊へと戻り、ウネウネと慌てたように蠢きだす。
その光景を後ろで見ていた者達は、一様に驚嘆を露わにしていた。
このハルケギニアにおいて、不可侵なる先住の種族として畏怖の象徴のひとつである水の精霊。
その畏怖の象徴が、たった一人の人間に対して、明らかな怯えを見せている。
その事実は、彼女らの中でひとつの畏怖の崩壊を意味し、同時にギルガメッシュという男の新たな驚異の一端を垣間見せていた。
「今一度告げる。我が所望する、『水の精霊の涙』なる物を速やかに献上せよ」
傲慢なる物言いはそのままに、上から下へと見下して一方的に告げる。
それは先ほどモンモランシーが水の精霊に告げ、そして拒否されたはずの要求。
だがギルガメッシュの口から告げられたその要求に、水の精霊は自らの身体を震わして、身体の一部を弾き飛ばした。
飛んできた『水の精霊の涙』を、モンモランシーは持っていたビンで受け止めた。
「そして、水嵩の増加の件。雑種共の住まい程度ならばどうでも良い。だが、我が娯楽の庭たるこの地の全土を浸水させ汚さんとするとは何事か。即座に停止しろ」
「・・・承知した」
ギルガメッシュの言葉に、水の精霊は一切の反抗を見せず殊勝な態度で従う。
現世ではなく、己が領域たる精神世界にて完全なる敗北を喫した水の精霊は、すでにこの相手に対抗する意思のすべてを喪失していた。
要件を済ませ、ギルガメッシュは一行を引き連れてこの場を後にする。
すでに水の精霊に対する興味を失った今となっては、もはやこの場所に留まる理由はない。
他の皆も、その意向に反対しようとはせず、素直に彼について行った。
「おお、そういえばもう一つ」
と、立ち去る中で一度だけ、ギルガメッシュは立ち止まり水の精霊の方へと振り返った。
「貴様のような無個性なる存在がそれほどの執着を示す秘宝。それは何なのだ?」
「・・・『アンドバリ』の指輪。死したる者に、偽りの生命を与える、水の秘宝。貴様らの同胞、クロムウェルと名乗った男と、その一団が我より盗み出した」
「ふぅむ。偽りの生命、か。まあ、あえて我が執着して欲するべきものではなさそうだが、一応思考の片隅くらいには入れておくか」
それだけを言い残すと、ギルガメッシュ達は二度と振り返ることはなくその場を去っていった。
「ああああああああああああああああぁぁぁ――――!!!」
他の生徒達がすべて寝静まった、夜の魔法学院。
その夜の静けさの中に、少女の絶叫と連続する爆発音が響き渡る。
轟音の音源にいるのは、新たに調合された解毒薬により正気に戻ったルイズと、次々と起こる爆発を避けていくギルガメッシュだ。
原料たる『水の精霊の涙』を手にいれ、超特急にて調合された解毒薬の効果により、惚れ薬の呪縛から解放されたルイズ。
だが薬の効果が切れても、それまでの記憶が無くなるわけではない。
惚れ薬はあくまで感情に干渉するポーションであり、記憶に関わるようなことはない。
故に、正気に戻ったルイズは、その正気の頭で、今までの自分が行った珍行の数々をしっかりと思い出し、発狂した。
「どうした?ルイズよ。この我が珍しく我以外の誰かのために動いてやったのだ。地に頭を擦りつけて謝意を示すくらいのことはしたらどうだ?」
「ああああああああああああああああああぁぁぁ―――!!!」
雄叫びを轟かせながら、ルイズは更に空間を爆裂させていく。
思い返すのは、惚れ薬によって惑わされていた間の己の恥辱の行い。
あられもない格好で衆目の中に現れたり、売女のような言動でギルガメッシュへと迫ったり。
それらの行動による羞恥心がルイズの感情を爆発させ、途切れることを知らない爆発の乱舞を引き起こしていた。
これほどの騒音を夜に響かせているというのに、苦情の声はほとんど上がっていない。
誰も関わりたくないためだろう。
ちなみに余談だが、後ろで刃に脅されながら休む間も惜しんでポーション調合に勤しんだモンモランシーは、完成と同時にダウンした。
今はギーシュによって介抱されており、彼女の当初の目的を考えれば結果オーライと言えるかもしれない。
「そうそう、明日の授業は我も出席するとしよう。無論、“あの格好”で行けよ。者共にも好評であったし、お前自身気に入っていたではないか」
「@*%#$%&$&‘$#%#”’&^¥-%#&%%‘%$!!!」
もはや解読不可能な訳の分からない叫びを上げて、ルイズは力任せに杖を振るう。
諸悪の根源―――と勝手に決めた―――に向けて魔法を放つが、生じる爆発をギルガメッシュは軽快なステップにて容易く避けていく。
大気中の魔力の振動を事前に感じ取り、攻撃を先読みして回避しているのだ。
結果として、両者の決着はいつまでたっても付くことなく、爆音轟く鬼ゴッコが展開されていた。
やがてそれにも飽きたのか、杖を振るうルイズの顔面に、ギルガメッシュの綺麗な飛び蹴りが決まる。
それで爆発もとりあえず治まり、これにて今宵の騒ぎは終わりを告げる。
はず、だった。
「そうよ、思い出したわ。ウェールズ皇太子よ」
唐突に、思い出したようにキュルケが声を上げた。
「さっきすれ違った時から、ずっと名前が喉のあたりに引っ掛かっていたんだけど、やっと思い出したわ。戦死したって聞いてたけど、生きてたのね」
キュルケの言葉に、ギルガメッシュと、その足の下で踏みつけられて取り押さえられているルイズは、同時に視線を彼女に向けた。