[21]王と女王
女王専用の執務室では、二人の人物が会談を行っていた。
一人は、この部屋の主であるトリステイン女王アンリエッタ。
そしてもう一人は、このトリステイン王国の司法をつかさどる高等法院の院長を務めるリッシュモンである。
「やはり、遠征軍の編成には、今以上の税率の増加が不可欠です」
二人が行う会談の内容は、先日の戴冠時にアンリエッタが宣言したアルビオンへの侵攻の件だ。
リッシュモンが治める高等法院では、国内の法案、歌劇や文学などの遊楽に対する規定、平民の生活を賄う市場の取り締まりなどを行う。
そのため、行政面を担う王政府とも、国の政策を巡り会談が行われることがたびたびだった。
「すでに先日の陛下の宣言以来、市民に課す税金の引き上げが行われています。これ以上の税率の増加は、民を干上がらせます。下手を打てば、反乱の可能性すらあるでしょう」
「民たちには、窮乏を強いることになりますね」
アンリエッタ主導で行われているアルビオン遠征軍の結成は、すでに難航を見せている。
空に侵攻する艦隊の編成、軍力の最重要な要因である兵力の徴兵、そしてそれらを行うための莫大な資金の確保。
その資金の確保が、早くも暗礁に差し掛かっているのである。
国同士の戦争に置いて、防衛と侵攻では、侵攻の方がはるかに難しい。
兵法における、攻め手の常勝には守り手の三倍の戦力を必要とするという事も一つの理由ではあるが、何よりも困難なのは、敵国の領地へこちらから侵攻していかなくてはならないという点だ。
自らの土地で戦う敵国と違い、遠征軍は自らの補給を自国より運び出さなければならない。
兵に与える兵糧、武器弾薬、その他にも多くの準備。
これらすべてを、遠征をおこなう軍は自国から持ち出していかなくてはならないのだ。
そのための運搬にかかる費用は、遠征軍にだけ強いられる。
それも運搬は一度ではなく、敵地にて軍が干上がらないようにするためには、二度三度と行っていく必要がある。
自らの土地でない場所で大軍を維持し続けるということは、それだけで莫大な資金と物資を強いる。
そしてそれらを取り揃えるために身を削るのは、他ならぬ自国の民なのだ。
国力に乏しいトリステインにとって、それはまさしく血肉を削るが如き苦渋を強いることになる。
「やはり遠征軍の建設など、あきらめなされ。いかにゲルマニアとの同盟があれど、国力に乏しい我がトリステインには、始めから無茶であったのです」
諭すような口調で、リッシュモンはアンリエッタに提言する。
リッシュモンは先代の王の時代より仕えてきた古株の貴族であり、王家とのつながりも深い。
その中でリッシュモンが、アンリエッタと己が娘のように接することは一度や二度ではなかった。
その経験のためか、自らの主君となった今も、アンリエッタに対する説教じみた口調が表れてしまう。
「無茶・・・、本当にそうでしょうか?」
しかし当のアンリエッタは、幼い頃のか弱さなど微塵と見せることなく、正面から見返して返答した。
「財務卿よりの報告では、これら軍事費の確保は困難なれど、必ずしも不可能ではないと報告を受けています」
「計算された紙面上の数値と、実際に必要とされる金額は、また異なりますぞ。戦争ともなれば、予想外の事態などはいくらでも起きるものです。まして今回の相手はアルビオン。攻めるには、あまりに危険が大きすぎる」
アルビオンという国はこのハルケギニアの上にはない、空を浮遊する天空大陸。
定期的にその位置を変化させ、ハルケギニアの上空を飛行し続ける。
そんな空の大陸への侵攻は、陸路をいくよりも遥かに困難なのだ。
まず侵攻のためには、空を行く艦隊の編成が必須事項であり、大軍を運ぶためには相当数に艦船が必要となる。
また兵員だけでなく、武器弾薬や食糧などの補給物資の運搬も艦船が行うことになる。
そこにかかる費用は、陸路を行く場合を遥かに上回るのだ。
更に、アルビオンは定期的にその位置を変える。
この位置が離れてしまえば風石の航続距離が足りなくなり、艦隊がアルビオンへと到達することは不可能となる。
アルビオンの侵攻には、大陸が最も近づく時期を選ばなくてはならない。
それはつまり、敵側には侵攻の時期が事前に知られ、時期が外れればこちらからは援軍を出す事も敵わないということだ。
アルビオンへの侵攻に際しては、まず初めに制空権を確保しなくてはならない。
これをしなくては上陸や補給はもちろんのこと、本国との連絡すらままならない。
そしてそのためには、古くより精強を誇るアルビオン艦隊を、艦隊戦にて打ち破らなければならないのだ。
地上に根を下ろす国と、元より空に君臨する国とでは、同じ空軍でも練度の程が違う。
過去多くの侵攻では、この空での艦隊戦にて、悉く攻め手側が煮え湯を飲まされてきた。
天然の環境によって守護された難攻不落の空の大陸。
過去幾度もハルケギニアの王達が同盟を結び、アルビオンへと攻め込んだが、ただのひとつとしてその侵攻を成功させた例は存在しない。
決して他の色に染め上げられる事の無い『白の国』、彼の国の不敗よりの由来である。
「アルビオンへの侵攻は、もはやトリステインにおける国是。軍の編成は、決して中断いたしません」
その辛酸たる過去を知りつつも、アンリエッタは躊躇うことなくそう言い放った。
「民たちを干上がらせるおつもりか?そのような強行、不満や怨嗟の声が上がる事でしょう」
「干上がらせる?ならばリッシュモン殿。民を干上がらすより先に、あなたたち上流貴族の方々から財を引き絞らなければなりませんね。民たちから奪い去るよりも、そちらの方が遥かに得るものが多そうです」
アンリエッタの鋭い指摘に、リッシュモンは口ごもった。
その機を逃さずに、アンリエッタは更に言葉をたたみかける。
「民だなんだと申していますが、結局のところ、あなた方は自らが肥やしてきた財を手放したくないのでしょう。以前までのような、贅を尽くした生活が出来なくなるからといって」
「へ、陛下・・・。い、いえ、決してそのようなことは・・・」
「ならば、この戦のために私財を投げ打つ事に、躊躇いはないでしょう。財務卿の出した結論も、あなたのような高取得者が規定した通りの提供を行ってこそのものだそうです。
見れば、随分とご立派な羽織を纏っているご様子。その銀細工といい、散りばめられた金粉といい、豪奢極まる衣装ですわ。そのような格好で金がないなどとのたまわれても、説得力がありませんよ」
遠征軍の建設に際し、軍事費の確保のためアンリエッタは貴族たちに倹約を促す令と態度を示している。
近衛の兵には杖を彩る銀の飾りを禁止し、彼女自身も余分と思える装飾は全て売り払って、遠征軍の軍事費に当てていた。
現にこの女王専用の執務室も、執務用の机がひとつあるだけで、一国の主のものとは思えないほどに殺風景である。
主君自らが率先した倹約を行うことで、下の者に対する模範となろうとしているのだ。
その態度は王宮内でも効果を示し、最近では貴族たちにも装飾を自重する動きが見えつつあった。
「これは一本取られましたな。しかしながら、陛下。高等法院の意見は、ほぼ遠征軍の建設の反対でまとまりつつあります。私一人が意見を覆したからといって、全体の意思まではそう容易くは変わりませぬぞ」
「そうした意見調整は私たちの役目です。法院長であるあなたの説得を為せたというだけで、この会談の意味は十分といえます。
大丈夫、法院の方々の説得には自信があります。私には、軍事費に賄える資金のアテがあるのです。あなたが指摘した税率の増加も、それを工面できれば、圧政も不満の域で治まるでしょう」
淀みなくスラスラと述べるアンリエッタを、リッシュモンは眩しい眼差しで見つめた。
「ご立派になられましたな。この老骨は先代のフィリップ様のころよりお仕えさせていただく身ですが、これほど喜ばしいと感じた日は他にございません」
「あなたは私がこの世に生を受ける以前より我が国に尽くしてくれました。そして私のことも、随分と良くしてもらいましたね」
「おそれながら、赤子であった陛下をこの腕にて抱き上げて、むずる陛下をあやす経験も、一度や二度ではありません。かつては我が手の中でぐずっておられた陛下の、このような立派な姿を見られるとは。このリッシュモン、思い残すことはありませんぞ」
互いに愛想の良い笑みを浮かべて、アンリエッタとリッシュモンは談笑する。
古い付き合いである二人には共有する思い出も多く、雑談の話題には事欠かない。
しばらく二人は他愛ない雑談を楽しみ、やがてリッシュモンは退出の意向を伝えた。
「ところで陛下。先ほどおっしゃられた、資金のアテというのは?」
扉の前に差し掛かったところで、振り向いてリッシュモンが尋ねてきた。
「まだ言えません。アテと言っても、確実なものではないのです。不確かな情報で、皆を余計に落胆させる事は避けたいのです」
「そうですか、分かりました。なに、御安心めされ。そのような心配などせずとも、このリッシュモンがいくらかの資金など、すぐに工面してごらんにいれます」
そう言い残して、リッシュモンは退出していった。
しばしして、部屋を後にしたリッシュモンと入れ替わる形で、一人の人物が執務室へと入ってくる。
現在のトリステインの頭脳たる人物、年若いアンリエッタの参謀を務める、枢機卿マザリーニである。
「陛下。例の件の調べが付きましたぞ」
挨拶も早々に、マザリーニは本題を持ち出した。
「やはり陛下の考えた通り、あの夜には誘拐犯の脱出を手引きした者がいたようですな。陛下がかどわかされるその直前、王宮を出た者がおります。その者は当直の門番に『すぐに戻る故、閂は閉めるな』と言ったそうです。そしてその者が戻ってくる僅かな時間に、一味が侵入して陛下をかどわかし逃走を図った」
「でしょうね。でなければ、たとえいかなる者であろうと、あれほど円滑に一国の主をさらい出すなど考えられません」
「門の件だけならば、まだ偶然と言い張ることもできるでしょう。しかし、放った間諜の報告によれば、最近になりその者の周囲では不当なほどの大金の動きが確認されているとも」
「不信な行動と金の動き。偶然と片づけるには出来過ぎていますね」
もたらされた報告に、アンリエッタは表情に難色を示す。
現在この情報を知るのは、アンリエッタとマザリーニを含めたごく僅かな者達のみ。
非常にデリケートな案件故に、王宮でも極秘とされている情報だった。
「やはり、リッシュモンが身中の虫ですか」
先ほどまで朗らかに会話をしていた人物の名を、まだ舌も渇き切らぬ内にアンリエッタは口にした。
ウェールズ一味による誘拐事件での一件、正規のものではない裏金の調査。
二人が話すのは、このトリステインに潜む『レコン・キスタ』の内通者を探り出す案件だ。
「正直に申し上げれば、私にはまだ信じられません。リッシュモン殿は、先代のフィリップ様の時代より国に忠義を尽くしてきた古参。それがよもや『レコン・キスタ』に下るなど・・・」
「彼が忠義を尽くしてきたのは、国ではなく財だったということでしょう。彼の周りには以前から、裏金の噂が付いて回っていましたから」
リッシュモンを語るアンリエッタに、先ほどまでの親しみは見受けられない。
あるのは、ただ冷然と突き放す拒絶のみである。
その拒絶は少なくとも、幼いころより自分の世話までしてくれた者に向ける感情ではなかった。
「いけませんな。年を取ると、どうにも考えが固くなってしまう。古く年月を重ねたものが、必要以上に神聖に思えてくる。陛下のご指摘が無ければ、危うく裏切り者を見逃すところでした」
「自分を責める事はありません、枢機卿。あなたは私などよりも遥かに古くから、このトリステインに尽くしてきたんですもの。その古くにあるものを信じようとすることを、間違いなどと誰が言えましょう」
己の老獪な忠臣に、アンリエッタは労いの言葉をかける。
彼にはこのトリステインの運営のため、多くの債務を課している。
それだけでも相当な重責であるだろうに、更にこのような間諜の任まで与えて、本当に申し訳ないと思う。
ましてその対象が自分と同じく古くより国に仕えてきた者であるならば、その心労は計り知れないものだったに違いない。
老臣の苦労を思い、アンリエッタは心よりその身を案じた。
「それで、陛下。リッシュモン殿の件はいかがいたしますか」
「無論、処罰いたします。浅ましき金銭如きで国を売った愚か者。その愚行のなれの果てを示すことで、第二第三のリッシュモンの出現を防ぎましょう。
背信に裁判は必要ありません。家は取り潰し、肥やした財産はすべて王家が没収し、遠征軍の軍事費にあてます。裏切り者の末路がいかなるものなのか、それを国内の貴族に知らしめるのです」
そして同じく老臣に対する冷酷な言葉も、やはり心からのものだった。
今の彼女は、かつてのような甘さや弱さとは無縁の位置にある。
ウェールズの諭しを受け、考えなき信頼が、ただの依存であると思い知らされた。
彼の残した最期の教えを順守するのは、彼女にとって誓いにも等しい。
愚鈍なる純心は、王にとっての美徳ではない。
必要なのは確固たる自立の精神と、毅然とした王の姿。
眼福となる花は、民から慕われはしても、忠誠を掲げる国の柱にはなりえない。
現にルイズから報告される民の声からも、自分がいかに権威に劣っているかが見てとれる。
未だ年若い小娘と侮られるアンリエッタには、アルビオン侵攻に乗り出す前に王としての態度を国民にはっきりと示す必要があった。
リッシュモンへの断罪を、彼女の王としての最初の威光とする。
リッシュモンはトリステインにおける法の頂点、高等法院長の座に就いている。
その法院長を、同じく法を以て断固たる裁きを与えることで、背信に対する恐怖を国内の者共に植え付ける。
その畏怖を以て王としての威光と為し、アンリエッタは初めて真に一国の主として立つことが出来るのだ。
「しかしながら陛下。そうは申されますが、現状ではリッシュモンを断罪するには証拠が足りません。冤罪による処断は、あなたに不利益しか生みませんぞ」
「分かっていますよ、枢機卿。だからこその、今回のキツネ狩りではありませんか」
その話題を上げると、途端にマザリーニは苦虫を噛み潰したような表情となった。
「やはり、あなたはまだ反対ですか?私が立てた今回の計画に」
「・・・陛下の計画の有効性は認めます。ですが、御身自身を囮とするという考えは、臣下の一人としては賛同いたしかねますな」
不審はあれど、いまだ確かな証拠を掴ませていないリッシュモン。
その罪を白日の元に曝すため、アンリエッタはひとつの計画を思いついた。
すなわち、自らを囮として、内通者たちをおびき出すという計画を。
トリステインの君主であるアンリエッタが突如として消えれば、監視役でもあるだろうリッシュモンは当然慌てる。
そして事の真相を確かめるため、すぐにアルビオンの間者へと接触しようとするだろう。
その瞬間こそが、この計画の狙い目。
アンリエッタが自らその行方を眩ませ、その後のリッシュモンの動向を見張っておけば、必ずやその尻尾が掴めるはず。
その時こそ、このトリステインに蔓延る内通者の芽をまとめて摘み取る絶好の機会。
真近に迫る戦乱に備えて、国内の憂いを払うために、今回の計画はあるのだ。
「周到なリッシュモンに迂闊な接触を誘発させるには、それに見合うだけの餌が必要ですわ。それに今回の計画は王宮の者にも秘匿としなければ意味がありません。計画の秘密を守れ、同時に彼が飛び付くほどの価値を兼ね備えた人物とは、一体誰でしょうね?」
「・・・・・・」
「この任務に一番ふさわしいのは私です。尻込みなどしていられませんわ」
「・・・分かりました。陛下の御意志がそれほどに強固であるならば、私は何も申しません」
淀みのないアンリエッタの言葉。
そこにアンリエッタの決意の強さを見取り、それ以上の追及をマザリーニはしなかった。
「ところで、陛下。遠征軍の件ですが、問題は軍事費だけではないようです」
リッシュモンの案件から話題を変えて、マザリーニは告げる。
トリステインの内政を司る彼の立場からすれば、謀略の算段などよりこちらの方が本題だろう。
「今回の陛下が宣言されたアルビオンへの侵攻に関して、いくつかの有力貴族が兵の派遣に関して拒否する意向を示してきています」
「それは、アルビオンによる工作にようためのものではなく?」
「確証はありませんが、恐らくは。相手はあのラ・ヴァリエール公爵です」
マザリーニの口から出たヴァリエールという名前に、アンリエッタは表情を曇らせる。
ラ・ヴァリエール公爵家は、トリステインでも随一の歴史と格式を誇る名家だ。
元々は王家と同じ血筋の起源を持ち、幾人もの優秀なメイジを輩出してきた彼の公爵家は、所有する土地も影響力も並の貴族などとは比較にならない。
王家の政策に反対してきて、はいそうですか、とやり過ごせるような軽い相手では断じてない。
彼の公爵家の決断は他の貴族達にも影響を与えるだろうし、現在のアンリエッタの行う開戦の準備にも小さくない足かせとなるだろう。
そして、もうひとつの大きな理由。
ラ・ヴァリエール公爵家は、彼女が信頼する友人であるルイズの実家でもある。
ルイズの実家が自分のやり方に反対すること、それ自体がアンリエッタにとって軽いショックだった。
(やはり、人とは皆違うものですね・・・)
ラ・ヴァリエール公爵ならば、アンリエッタも良く知っている。
公爵家と王家は元々親交が深く、両家共に面識が深いのだ。
そのために幼い頃のアンリエッタの遊び相手にルイズが選ばれたのであり、その父であるラ・ヴァリエール公爵とも、会話する機会は十分にあった。
幼いころの認識なのではっきりとした事は言えないが、ラ・ヴァリエールという人物は有能であり、そして誠実な方だったと記憶している。
必要以上に傲慢に振る舞うことなく、下々の者にも相応の態度を以て応じる、優雅さを兼ね備えた立派な貴族だった。
そして自分に対しても、随分と良くしてくれたのを覚えている。
そんな誠実で優秀な彼が、今は自分のやろうとしている事に反対している。
幼いころの自分には、到底想像もつかなかったことだ。
それは恐らく、どちらが正しいかという話ではなく、どちらも違う考えを持った人間であるという事なのだろう。
「ラ・ヴァリエール公爵からは、陛下を窘める内容の書簡も届いております。かの空の大陸には侵攻はせず、包囲する事によって、持久戦に持ち込むべきだと」
「正攻法のやり方ですわね。あの空の国に対しての」
「正攻法となるのは、それが最も有効な策であるからです。陛下、僭越を承知で言わせていただきますが、ラ・ヴァリエール公爵の言い分にも、確かな理がございます。ここは一度、今後の国の方針に対し今一度の再考を設けたほうがよろしいやもしれません」
諫言ではなく、あくまでも臣下としての忠言として、マザリーニは言う。
当初から、今回の侵攻の件については幾度となく検討を繰り返してきた。
トリステイン重臣内での会議、退役した将校への相談、有力貴族達の意見調査。
そうした中でいつも上がる議題が、アルビオンへ対する侵攻計画の是非であった。
前記した通り、空の大陸であるアルビオンへと侵攻する事は容易ではない。
いかにゲルマニアとの連合があり、兵力的にはこちらが上回っているとはいえ、常勝を期待できるほどではない。
先ほどリッシュモンが述べていた戦争反対の言葉は、彼だけのものではないのだ。
「宮廷内の意見は、すでにアルビオンへの侵攻にまとまったはずですわね?」
「未だ影響力は強いですが、公爵はすでに表面的には軍務より退いた身です。今の公爵に国の方針に意見する権限はありません。彼が行ったのは、兵員の派遣と軍団の編成の依頼の拒否と、先ほどの書簡による進言のみです」
「ならば、我が王家に方針変更はありません。アルビオンの打倒は、今やトリステインの国是。いかなヴァリエールといえど、たかがひとつの貴族の言葉に姿勢を違えるようでは、王家の権威は失われます」
断固たる口調で、アンリエッタは語る。
その言葉の中には強い意志は感じられたが、同時に王という責務に対する気負いのようなものがあった。
その感情を目聡く察知し、マザリーニは忠言する。
「陛下。王としての心構えと姿勢はも重要ですが、時には恥を忍んでの行動も必要ですぞ。感情論だけでなく、理を用いた考えも―――」
その時、以前に比べて随分と鋭くなったアンリエッタの視線が、マザリーニを射抜いた。
「感情・・・?枢機卿、私がいつ、感情如きで動いたというのです?」
あまりにも冷徹なアンリエッタの言葉に、老獪たるマザリーニが言葉に詰まる。
「あなたとは幾度となく話し合ったはず。今回の戦における、攻める事の理を」
アンリエッタが宣言したアルビオンに対する宣戦布告は、彼女だけの一存ではない。
防衛や包囲を捨てて、あえて侵攻を選びとったことには、それに見合う確かな理が存在する。
大陸を空に孤立させ、純粋な国力ではトリステインにすら劣るアルビオン。
先の侵攻の疲弊もあるだろう今ならば、大陸を包囲し兵糧攻めに持ちこめば、早々に相手側は干上がる。
その後に申しだされるだろう和平交渉で、アルビオンに敗北を認めさせればよい。
その手段はなるほど、まさに正攻法と呼ぶにふさわしい。
犠牲も少なく資源を費やす事もないまま、安全に勝利を得られる手段だ。
過去に行われたアルビオンへの侵攻でも、この手段が数多く試され、そしていくつかは成功を収めていた。
あのラ・ヴァリエール公爵がこの方法を進言する事も、無理からぬことだろう。
―――しかし、その手段が有効なのは、今の状況がこれ以降も続いた場合での話だ。
今敵対しているのが誰なのか、アンリエッタは忘れてはいない。
これから彼女が雌雄を決する敵は、神聖アルビオン共和国初代皇帝クロムウェル。
元は一介の神父でしかなかった身の上から、王家に対し革命が起こせるほどに戦力を整え、そして実際に王座の簒奪を成し遂げた男なのだ。
先日の条約を無視した侵攻や、ウェールズの骸を利用した誘拐未遂など、その手段は卑劣にして狡猾。
また高等法院長であるリッシュモンや、魔法衛士隊隊長のワルドなど、多くの内通者を抱きこむなど、その謀略は底が知れない。
そして彼自身が自称する『虚無』なる未知の力など、謎めいた何かを有している。
得体の知れないこの非道の男の姿が、アンリエッタにはひどく巨大なものに映っていた。
これほどの奇策や謀略を巡らせる狡猾な男が、仮に包囲されたとしても、何もせずただ黙って降伏してくるとは考えられない。
それにこちらが優位にあるとは言っても、それはあくまでゲルマニアとの同盟があってこそのものなのだ。
元々トリステインとゲルマニアという国は、折り合いの良い国同士ではない。
始祖の時代から起源を持ち、伝統を重んじるトリステインと、まだ誕生して間もなく、伝統より金銭や領土など即物的なものを頼りとするゲルマニア。
まったく異なる国色を持つ両国の関係が良好であるはずがなく、これまでも幾度となく戦争を繰り返してきた。
今はアルビオンという共通の大敵がいるため同盟を保てているが、それも堅実とは言い難かった。
クロムウェルが抱き込んだリッシュモンにワルドの二人は、トリステインという国においてもかなりの地位に就く人物だ。
リッシュモンには金という短絡的な動機がある分まだ理解できるが、ワルドに至ってはどのようにして籠絡したのか全く想像もつかない。
そしてそれほどの手腕を持つ男ならば、あのゲルマニアに対しても何らかの謀略が巡らせられていると考えるべきだろう。
ゲルマニアとは前記した通り、誕生からの歴史の浅い国だ。
元はひとつの都市国家だったものが、利害の一致よって周辺貴族が団結して誕生したという経緯のため、主君である皇帝に対する忠誠も高いものではない。
古き歴史を持つトリステインよりも、ゲルマニアの方が抱き込むことは遥かに容易いだろう。
もしこの同盟が破綻すれば、今ある優位は一瞬にして消え去る。
万が一ゲルマニアがアルビオンに取り込まれるなどという事態に陥れば、孤立するトリステインには完全に打つ手が無くなってしまう。
アンリエッタが包囲ではなく侵攻を選んだ理由は、純粋に勝算の高い選択肢を取ったに過ぎない。
トリステインとゲルマニア、そしてアルビオンの三国がそれぞれの情勢を抱えて睨み合う現在の状況は、敵側にとっても予想外の事態のはずだ。
彼らの思惑通りに事が進んでいたならば、先の奇襲によってトリステインは陥落し、今頃この地はアルビオンの領地となっていただろう。
だが、それは失敗に終わった。
こちらでも全く予想しなかった助勢の出現により、アルビオン艦隊は全滅。
条約無視のリスクを犯してまで行ったアルビオンの侵攻は、思いもよらぬ『虚無』の力によって阻まれたのだ。
すなわちそれは、数々の謀略を巡らし、非道な策を以て勝利を収めていきたクロムウェルにとって、ほぼ唯一の想定外。
自分達に勝機があるなら、相手の謀略の種が失われた今を置いて他にない。
失われた艦隊の再編成もさせず、相手が謀略を巡らす時間も与えない電撃作戦。
その策の方が包囲よりも勝算が高いと、アンリエッタは判断したのだ。
断じて直情や私怨によって動かされたような、浅はかなものではない。
「枢機卿。私の決定は、それほどまでに軽いですか?」
「・・・無礼をお許しください。今のは失言でありました。迷っていたのは、私の方だったようです。どうも老いぼれると、弱気が板についていけませぬ。既に決めた事だというのに、未練がましく振り返り思ってしまう。果たしてこれ以外の、戦争を避け得る方策が無いものか、と」
「・・・・・・」
「その点、陛下は本当にお強くなられた。あなたのその揺らぎない姿を見れば、付き従う将兵達にも大きな励みになりましょう」
「益の無い世辞は結構です。それより枢機卿。ラ・ヴァリエール公爵への対応については考えていますか?」
述べた通り、ラ・ヴァリエール家はトリステインでも最大の権威を誇る大貴族だ。
その影響力は他の貴族などとは比べ物にならず、たかが一貴族と切り捨てる事など出来はしない。
いかに国是を優先するとは決めても、単に無視するわけにはいかないのである。
「このまま向こうの申し出を受け入れるのは得策ではありません。ラ・ヴァリエール家は我が国でも名立たる名門。ヴァリエールが戦争に反対する姿勢を見せれば、それに呼応する貴族も出てくるでしょう」
「では、どうしようと?」
「公爵の気位を考えて、彼が己の意見を容易く翻すとは思えません。戦争を控えるこの時期に、あえて不信の種を芽吹かせる事は避けるべきでしょう。ここは、譲歩の姿勢を以て応じるのがよろしいかと」
「譲歩?」
「要請した一個軍団編成の拒否、これは受け入れましょう。ただしその代わりに、彼には侵攻軍の派遣後、本国の防衛の任に就いていただきます。この要請ならば、公爵も拒否できないはずです。また本国の防備を賄えることも、無益ではない。侵攻軍を派遣すれば、本国の守りが手薄になりますから」
「・・・枢機卿。やはり、あなたはガリアの関与を疑っているの?」
そこでアンリエッタは、トリステインにゲルマニア、アルビオンと三国を巻き込むこの戦争に対しても、冷然たる中立を貫くもうひとつの大国の名を口にした。
「年を取れば小心で、疑い深くなりましてな。かの国の沈黙が、私には不気味に思えてならないのです」
「ガリアがアルビオンと通じていると?共和制を唱えるアルビオンの台頭が困るのは、ガリアとて同じはずですが」
新生アルビオンが唱える共和制。
国の主権を民衆へと委ねるこの政治形態は、ハルケギニア中すべての貴族にとって恐怖すべきものだ。
このハルケギニアの権力者である貴族とは、すなわちメイジである。
貴族は長く続いた血筋の尊さや名誉の気高さ、そして魔法という権威の証を以てこの世界に君臨している。
長らく続く貴族主義の体制も、この魔法の存在によるところが大きい。
だが、考えてみるがいい。
どれほど魔法の力が強大でも、総体から見たメイジの数はハルケギニアの総人口の一割にも満たない。
極論ではあるが、もし全ての貴族と平民が二つに分かれて決戦を行えば、敗北するのは貴族の方なのである。
同じ一人の人間として見ればメイジの方が強いが、もしメイジを別々の種族として見たとすれば、より数を増やせる平民こそが強者なのだ。
平民が権力を身に付けること、これはそのまま全てのメイジ、ひいては貴族にとって脅威になり得る。
まして国の体制を国民の多数決に委ねる共和制は、貴族の権威に対する正面からの恐怖である。
ハルケギニアの国々が共和制を受け入れないのは、単なる利害関係ではなく、むしろ本能的な忌諱。
力で劣るが数で勝る平民達の台頭は、すべての貴族にとっての悪夢だ。
魔法という明確なる両者の違いは、それ故にそれぞれの者達に結束をもたらす。
だからこそ、貴族たちはあるひとつの事実から目を背け、また平民にそれを知らすまいとしてきた。
―――いかに魔法を持つメイジとて、所詮は同じ脆い人間に過ぎないのだという事実を。
古くから続く伝統を重んじる制限君主制のトリステインや、建国より歴史の浅く金や土地によっては平民とて貴族になれるゲルマニアとて、魔法を持つ者の権威を重んじる点は変わらない。
まして未だに絶対君主制の色を残すガリアこそ、アルビオンの共和制は打倒すべきものであるだろうに。
「だからこそ、中立を貫く意図が気になるのです。アルビオンの打倒は、今やハルケギニア中の国家の総意。それにあえて参加せず、我関せずの姿勢を見せる。あるいは、我らが戦い疲弊するのを待って、侵略を企んでいるのやもしれません」
「・・・ガリアの現国王は、ジョゼフ殿でしたね。彼は確か臣下の者からも『無能王』と称されるほどに、愚鈍な人物と聞いていますが」
「私にはその『無能王』という俗称こそが不穏なものに思えるのです。愚鈍の評価の影に隠れ、何か底知れぬ企みを抱えているのではないか、と」
老成からの経験が語るマザリーニの言葉を、アンリエッタは重く受け止める。
彼の眼は長きにわたり、この世界を見つめ続けてきた。
その年月の重みは、自分などとは比べ物にもならない。
今や彼女が最も信頼する老臣の言葉を、アンリエッタはしかと胸に刻み込んだ。
「今はガリアの事を思案しても仕方ありません。我らの目下には、アルビオンという強大な敵が控えているのですから」
「おっしゃる通りです。ガリアへの懸念は、ひとまず我が胸に潜ますとしましょう」
マザリーニの言葉は心に留めながらも、アンリエッタは話を戻した。
いま話すべきは、ヴァリエール公爵家に対する今後の対応である。
「公爵自身への要請は、先の本国の守護でよろしいでしょう。後は遠征軍に対する金銭的な援助。これで王家の面目も保たれる。公爵も愚かではありません。外に大敵を持つ今、いたずらに内部を乱すような真似は控えるでしょう」
「・・・果たしてそうでしょうか」
「不十分とおっしゃいますか?」
「枢機卿、あなたの言う対応は正しいものと思います。そこに反対を述べるつもりはありません。ですが、それだけでは他の家系が自らの嫡子を戦場へと送り出している今、公爵家のみに対する贔屓とも取られるでしょう。血を流さぬ奉公に、真の忠義は見えません」
「なるほど。では、陛下には何か考えがおありで?」
マザリーニの問いに対し、アンリエッタは言葉を切った。
押し黙り、己の中の葛藤に一瞬の沈黙を挟み、感情を押し殺した声で口を開く。
「私の直属の女官であるルイズを、艦隊司令部の指揮下に置きます。ラ・ヴァリエールの息女として、そして『虚無』のメイジとして」
「なんですと!?」
アンリエッタの発言に、『鳥の骨』と噂されるマザリーニの動かぬ無表情に、驚愕が浮かんだ。
「直系の三女を戦場に出したとなれば、ラ・ヴァリエールも日和見主義でいるのではないと他の貴族たちに示せましょう。それに、ルイズの持つ『虚無』は先の戦でアルビオン艦隊を退けた。此度の戦争でも、必ずや役にたちましょう」
「よろしいのですか?それではミス・ヴァリエールに相当な過酷を強いることになります。彼女は陛下の幼き頃からの友人ではありませんか」
マザリーニは、古くからトリステイン王家に仕えてきた。
ルイズがかつて王家と親交の深い公爵家の令嬢として、アンリエッタと友情を育んだことは彼も知っている。
そのルイズに、アンリエッタがそのような任を与えるなど、容易くは信じられなかった。
しかし、当のアンリエッタの表情には動きはない。
ひたすらに感情を押し殺した声音で、冷静に返答する。
「ルイズは私の大切なお友達。それはこれからも決して変わりません。ですが、それ以前に彼女は私の臣下。一人の臣下に王が贔屓をすれば、他の臣下に不信を招きます。ましてルイズにはあの強大なる『虚無』の力がある。使わない手はありません」
「陛下・・・っ!」
「私はこれより、我が国に住む民達に対し、苦痛と死を要求するのです。罪深き命の選別に、差別があってはなりません。
戦争においては、命の全ては盤上の駒。駒のひとつひとつを最大限に活用し、勝利を目指す。例え能力に違いはあっても、駒ひとつの重みに違いはありません。
今は伝説とて道具のひとつとして利用すべき時なのです。それがどのような神秘であろうと、僅かでも勝利の可能性を上げられるのなら、私はそれを使います
―――例えそれが、私の親友であってもです」
静かに、だがはっきりとアンリエッタは断言した。
その姿に、マザリーニはしばし呆然と立ち尽くす。
あのアルビオンの侵攻に際した会議の席より、アンリエッタは目覚ましい成長と遂げていた。
「私を、非情の人間だと思いますか?枢機卿」
「・・・いえ。嫌なものですな、戦争とは」
「ですが、今はその戦争が必要です。そして同時に、決して敗れることは許されないのです」
アンリエッタの言葉には、明確な意思が宿っている。
感情にただ流されたものではない、確かな自覚と責任を伴っての姿は、まさしく王の姿勢。
今ここにマザリーニの前にいるのは、かつてのか弱きトリステインの華ではなく、まぎれもないこの国の王なのだ。
「さて、そろそろ私も行かなくては。後の事は頼みましたよ、枢機卿」
話を切り上げて、アンリエッタは席を立つ。
切り替えた彼女の思考にあるのは、内通者と目されるリッシュモン、その尻尾を掴むための計略だった。
「シャン・ド・マルス練兵場の視察の帰りより、私は姿を眩ませます。王宮内への対応はあなたに一任します」
「兵はどこの者を使います?他の重臣たちにも内密に事を運ぶとなると、魔法衛士隊は使えませんが」
「私の直轄の銃士隊を使いましょう。リッシュモンへの情報の伝達も、隊長のアニエスにやらせる事とします」
「・・・あの小娘を、ですか」
不快気に眉を顰めて、マザリーニは呟く。
銃士隊とは、アンリエッタが女王となった折に新設された彼女直属の親衛隊である。
女王の親衛隊という事で、そのメンバーは全員が女性で構成されている。
それだけならば他の部隊と大した違いはないが、最も特徴的なのは親衛隊全員が平民であることだ。
「枢機卿。まさかあなたも、銃士隊の設立には反対なのですか?」
平民を王族の親衛隊に加える。
これまでのトリステインにない、平民の地位向上を目指したこの政策に、王宮内は反対意見がほとんどだった。
一応は低下しつつあるトリステイン国力の回復を目的としたという理由で納得させていたが、大半の貴族は銃士隊の存在に不満を抱えている。
特に、先の戦争の功績によって任命された銃士隊隊長アニエスには『シュヴァリエ』として貴族の称号が与えられていた。
隊長が貴族でなければ他の部隊との均衡に支障をきたすための措置であったが、そんな理屈よりも平民が貴族になったという事実が、王宮の貴族達を苛立たせている。
その苛立ちは銃士隊の面々への侮蔑や嘲笑という形で王宮内に現れていた。
若くして女王となり、いまだ確かな土台の無いアンリエッタに、この改革的な政策はかなりのリスクを伴うものであった。
いつの時代でも、改革という事業には反発する勢力が現れ、そして大抵はそちらの勢力の方が強い。
いかに国力回復という名目があったとしても、多くの貴族たちの不満を買ってしまった今回の政策には、明らかに不利益の方が大きかった。
それでも銃士隊の設立を推し進めたのは、それがアンリエッタの抱く理想に続く道であるからだ。
人は、己の生まれを選ぶ事は出来ない。
誰もが自らの意志とは関係の無い所で誕生し、その出生によって運命を縛られる。
自分が王族であることを止められぬように、人が自らの出生から逃れることは出来ない。
その必然として、世界には格差と不平等が生まれる。
それがいかなる悲劇であるのか、今のアンリエッタにはよく分かる。
自分が王族であることを捨てられないように、平民達も己が平民であるという事実を変えられはしない。
貴族に生まれた者には約束された栄誉の道が、平民に生まれた者には手に入れる事が出来ない。
どれほどの努力を重ねてもその結果が変わらないのであれば、努力をしようなどと思えるはずがない。
どうにも出来ぬ己の出生によって、その後の人生までも挫折してしまうなどあんまりだ。
だからこそ、アンリエッタは可能性を提示した。
例え平民でも、努力と功績次第では上り詰める道があるのだと、それを皆に知らしめたかった。
それは共和制のように貴族の存在価値を落とすものではなく、ただあらゆる者に与えられる機会の自由。
万人の公平にはまだ程遠いが、それでも少しでもこの世界の不平等を正していきたい。
そんな平等を示す道こそ、アンリエッタが王として歩むべき道なのだ。
そしてその事は、マザリーニとて理解していた。
「いえ。土地に乏しい我らが国力の増強を図る事は、悪くありません。度が過ぎれば貴族の権威の失墜にもつながりますが、今の段階では有効な策です。平民のみで構成された銃士隊の存在は下々の兵にとっても励みとなるでしょうし、陛下に対する民衆からの支持も厚くなるでしょう」
「それならば、なぜアニエスに対してそのような悪意を見せるのです?」
だからこそ、マザリーニが問題としているのは銃士隊の存在ではなく、あくまで個人の話。
ある一人の個人に対して、マザリーニは不信を顕わとしていた。
「・・・あの小娘は信用なりません。あれは陛下に対する忠義心で動いているのではない。あくまで己が私怨に従って行動している。そういった類の輩は、命を賭して陛下をお守りするべき親衛隊にはふさわしくありません」
「彼女は元々王家とは無縁の生まれの者です。貴族が重んじる忠義心を解しなくても仕方無いでしょう」
「ただの貴族ならば、私もここまでは申しません。ですが、あの小娘は今や、陛下の側にて守護する立場にあります。私情を挟んで行動する者は、事と次第によっては寝返る可能性が非常に高い。そのような者を陛下の近衛として信頼せよというのは、私にはいささか困難です」
マザリーニの懸念は、分からない訳でもない。
けれど、その理由はどうあれ、アニエスは自らの力のみで功績を上げ、自分の目に留まった。
生まれの地位など無く、ただ純粋な己の力のみで上り詰めてきた彼女の姿に、アンリエッタは惹かれた。
例えその動機が卑しきものであろうと、その過程に積み重ねられたであろう血と汗は誰にも否定できない。
そんな人間こそ、アンリエッタは近衛として傍に置きたかった。
願わくば、そんな彼女の姿が自分の道の導きとなる事を期待して。
それが私情であるとは理解していたが、自分の片腕にもなるだろう人間はやはり自分の意思で選びたかったのだ。
振り返れば、自分はこれまで臣下達を省みる事をしなかった。
ひたすらに自らの思案に没頭するばかりで、その内面を推しはかろうともせず、ただ拒絶ばかりを繰り返した。
先のワルドの件や今回のリッシュモンの事も、ひょっとしたらそんな自分の態度こそがそもそもの原因かもしれない。
そのような者に、真に忠誠を誓う臣下など出来るはずがないのだ。
「真の忠義など、そう容易く得られるものではありません。これより彼女の忠誠を勝ち取れるかどうか、それは私次第なのでしょう」
だからこそ、アンリエッタはアニエスを選んだ。
最初からの忠義など、端から期待はしていない。
自分と全く接点の無かった彼女が自分の目にとまり、その在り方には共感を覚えた。
この出会いを、単なる偶然にはしたくない。
アニエスが真の忠臣となるか、それとも反逆の徒となるか、それはこれからの自分次第。
その采配こそが王たる自分を試すことになり、またその価値を決定することになるだろう。
「・・・陛下。辛辣な言い方となりますが、兵とは所詮換えの効く消耗品です。例え近衛であろうと、代わりは用意出来る。ですが、あなたの命には決して換えが効かない。それをお忘れなきよう」
「理解しています。言ったでしょう。この時において、全ての命は盤上の駒だと。そして駒にはそれぞれ、固有の役割を持っている。キングの駒がとられては、ゲームが終わってしまいます」
安心させるように微笑んで、しかし強さを伴った姿勢を見せて、アンリエッタは言った。
「ですが、時にはキングの駒も動かさねば、対局には勝てません」
涼やかにふてぶてしく、アンリエッタは断言する。
その姿は、老獪のマザリーニにして、王の気高さを感じさせるものだった。
朝日の光が目に染みる、トリスタニアの朝。
一階の酒場は夜にしか開いておらず、日の出ている内は宿の切り盛りと店の仕込みに時間を費やされる。
その一環として、ルイズは表の水の入った桶を運び入れる作業をしていた。
その作業に淀みは特になく、なんだかんだ言ってもう随分と慣れてきたルイズであった。
「ふぅ・・・」
桶一杯に入った水の重さに疲れ、ルイズは一息つく。
朝の心地よい風の中で流す汗は、貴族の贅沢には無い労働の清々しさを与えてくれた。
「おい」
そんな清々しさは、背中にかけられた不遜の声と、蹴りの衝撃によって彼方に消えた。
「ガボ、ゴボゴボ」
蹴り付けられた衝撃で水の満載した桶の中に顔から突っ込み、ルイズはもがく。
それを行った背中からの声は、ルイズの様子など露ほども気に掛けず、ただその無様な姿を見降ろしている。
ようやく水の中から起き上がったルイズは、ずぶ濡れとなりながらキッと後ろに振り返った。
「ギルガメッシュ!!アンタ、何すんの―――」
怒鳴りかけたルイズだったが、振り返った先のギルガメッシュの姿に一端言葉を切らせた。
「あれ?アンタ、元に戻ったのね」
そこにいたのは最近の幼年体ではなく、青年体の姿をした黄金の男。
かつてルイズが召喚した時と同じ、英雄王ギルガメッシュが立っていた。
元に戻ったという事だろうが、ルイズとしては少々残念だった。
子供の方のギルガメッシュは素直で扱いやすく、青年体の時よりも問題は遥かに少ない。
子供は子供でプレッシャーをかけてくる時もあるが、それでも大人時の横暴を思えば十分許容範囲だ。
もう少しの間くらい、ギルガメッシュには子供のままでいてもらいたかったのだが・・・。
「どうしたのよ。まあ、アンタの行動がいきなりなのはいつもの事だけど、今回はまた随分と唐突じゃない」
「・・・・・・」
ルイズの問いかけに対して、珍しい事にギルガメッシュはすぐに返事を返さなかった。
何事にも即断即決、言葉への返答も常に即答であるのがギルガメッシュであるはずなのだが。
「・・・我にも、よく分からん」
「え?」
「記憶が曖昧なのだ。恐らく昨夜前後にこの姿に戻ったのだろうが、その周辺に位置する時間の記憶が、上手く思い出せぬ。まるで、自ら忘却の渦に封印してきたかのような」
そう言われて、ルイズは思い返す。
昨夜といえば、チップレースの結果発表にて、子供であるギルガメッシュが優勝を決めた時。
『魅惑の妖精のビスチェ』の着用を迫られ、その後スカロンより逃走した時ではなかったか。
あれから結局、ルイズはギルガメッシュの姿を見ていない。
いつまでたっても戻ってくる気配はなく、そのまま就寝してしまったのだ。
・・・そういえば、朝起きた時に見たスカロンは、随分と艶々して満ち足りた表情をしていたような。
「何かあったのか?」
「・・・いえ」
ルイズは眼を逸らした。
「陛下がかどわかされただと!?君達軍人は、一体何をやっていたのかねっ!!」
朝一にて届けられた急報に、まだ寝巻き姿のまま着替えていないリッシュモンは、目の前の女騎士に罵声を浴びせかける。
リッシュモンの元に届けられた、女王アンリエッタ行方不明の報せ。
突然の急報に熟睡の中を叩き起されたリッシュモンに、その報せは余計に彼の機嫌を損ねるのに十分な効果があった。
「君達は一体何度同じ事を繰り返せば気が済むのだ!?先にも似たような誘拐騒ぎがあったばかりではないか。間諜の警戒など、最も優先してやっておくべきではないのか!?」
「誠に、返す言葉もございません。法院長殿」
リッシュモンの怒声に、女騎士は冷静に言葉を返す。
彼女の身なりは、他の騎士とは少々異なっていた。
軽装の鎧を纏い、貴族の証でもあるマントを靡かせているが、その腰に下げているのは杖ではなく剣。
おおよそ貴族らしからぬその武装が気に障ったのか、リッシュモンは更に不快に顔を歪めて罵声を続けた。
「当直の護衛はどこの部隊だ?陛下の守護の栄誉を賜っておきながら、何と不甲斐無い」
「我ら、銃士隊でございます」
その罵声に対し、銃士隊隊長アニエスは淀みなく言葉を返した。
「お前達は己の無能を証明するために設立されたのか?平民の身分でありながら、陛下より近衛騎士の栄誉を授けていただいた御恩を、よもやこのような醜態で返すことになろうとはな。やはり銃や剣など、メイジの杖の前には露ほども役には立たんわ」
「申し訳ありません。現在、汚名をそそぐべく、全力で陛下の行方を捜索中でございます。つきましては、法院長殿には街道、及び港の封鎖許可をいただきたく存じます」
リッシュモンの怒声を身に受けながら、深く頭を下げてアニエスは謝罪の意を示す。
だがその実、内心は氷の如く冷え切り冷徹な眼差しをリッシュモンへと向けていた。
アンリエッタの失踪の報告は、全て虚言だ。
アンリエッタが行方をくらます手引きをしたのは他ならぬ銃士隊であり、当然ながらアニエスはその行方を知っている。
今頃アンリエッタは、トリスタニア市内に身を隠しているはずだ。
この虚言は、全てリッシュモンを釣り上げるための餌。
目の前のリッシュモンも表面上は怒り狂っているようにも見えるが、その仕草の随所には焦りの色が見えている。
自分のより知らぬ陰謀の気配に、動揺を隠し切れていないようだった。
「全力で陛下を捜し出せ。見つからぬ場合は、貴様ら全員、我が法院の名にかけて縛り首にしてやる。覚悟しておけ」
ペンを走らせ、戒厳令を許可する旨を記した書簡を手渡される。
これで、この場所での自分の役割は終了した。
後はこのまま一礼して退出し、間者に送るであろう連絡の後を追えば、それでアルビオンの内通者の尻尾が掴める。
これ以上この場に留まっても相手に疑いを持たせるだけであり、任務の益となることはない。
「何だ?まだ用があるのか?」
だから、こうしてドアの前で立ち止まったのは、あくまでアニエス個人の意思。
これより行う問いかけも、全ては彼女の私情より生まれるもの。
アンリエッタに対する忠誠も何も無い私怨を以て、アニエスは言葉を紡ぐ。
「閣下は、二十年前のあの事件に関わっておいでと仄聞いたしました」
「ん?事件・・・?」
怪訝そうにリッシュモンは首を傾げる。
二十年前と聞き、すぐにあの“惨劇”に思い至らない事に、アニエスは強い怒りを覚えた。
「アングル地方にて起きた“反乱”の件でございます」
「ああ、あの“反乱”か。確かにな。だが、それがどうした?」
“反乱”という言葉を乗せて、ようやくリッシュモンは思い出す。
だがアニエスにしてみれば、あの事件を“反乱”などと定義される事自体、ひどく屈辱的であった。
トリステイン西部の沿岸に位置するアングル地方、またの名をダングルテールという。
数百年前にアルビオンから入植してきた人々が築いた土地で、時のトリステイン政府とたびたび悶着を起こしながら、100年程前には一種の自治区となっている。
その実体は幾つかの寒村があるばかりの辺境地であり、わずかばかりの漁業を生業として生きる、そんな平和な場所だった。
記録の上ではダングルテールの住民は王国に対し、反逆を企てたという事で鎮圧されたことになっている。
しかしその真相はロマリアによる新教徒狩り、それを取引材料とした薄汚い裏取引であったのだ。
ダングルテールに住む住民たちは、皆が古い教義から新たに実践的な教義を取り入れた新教徒であり、それが時のロマリア政府の目に止まったのである。
古き始祖の教えを信仰するロマリアの宗教庁にとって、新しい宗教の形を示す新教徒は厄介者以外の何者でもなく、それ故に密約の元で大規模な異教徒狩りが行われたのだ。
その手引きをしたのが、当時高等法院に勤めていたリッシュモンである。
ダングルテールにはアカデミーの実験部隊が投入され、その土地に住む人々は有無言わさずに殲滅させられた。
国家転覆をはかった反逆者として、何の罪もない人々が“虐殺”されたのである。
ただ異教徒であるというだけの理由で、宗教庁より譲られた賄賂の額というくだらない理由によって。
歴史の裏に埋没されたその真実を、アニエスは決して忘れはしない。
―――あの惨劇を生き延びた、数少ない生き残りとして。
「“ダングルテールの虐殺”は、閣下が立件なさったとか」
故郷を失ったあの日から、自分は復讐のためだけに生きてきた。
身体を鍛え、学問に励み、女の身でありながら戦場に出て、人の何倍もの働きをしてみせた。
そうして登り詰めていって、故郷を滅ぼした憎き仇に追い付くために。
自分の事を拾ってくれたアンリエッタには“感謝”している。
おかげで自分はあの惨劇の正体を知ることができ、こうして仇の前へと辿り着く事が出来た。
もしアンリエッタがいなければ、自分は今も功績を求めて、どこかの戦場を駆けずり回っていたに違いない。
その事実に関しては、素直に恩義を覚えている。
あの若き女王は、自分の復讐を成就させる機会をくれたのだから。
「当時の事について、なにか感傷のようなものはございますか?」
長年に渡り追い続けてきた仇が、いま目の前にいる。
だがその喉にこの剣を突き立てる前に、ひとつ聞いておきたい事があった。
果たして長きにわたり憎しみ続けたこの男は、自分のすべてを奪ったあの虐殺に対し、一体どのような感情を懐いているのだろう、と。
無論、今さら何を言われても許す気は毛頭ない。
だが、ようやく辿り着いたこの男にとって、あの惨劇がどれほどのものであったか興味があった。
近衛隊長として任命されてまだ日の浅いアニエスは、リッシュモンという人間の個人について何も知らない。
自分がこれより復讐を為そうとする者は、果たしてどのような人間なのか。
もしあの出来事を僅かでも悔いる気持ちがあるならば、あるいは手を下す時に一片の慈悲くらい与えてもよいかもしれない。
「虐殺?人聞きの悪いことを申すな。アングル地方の平民どもは国家転覆を企てた大罪人だぞ。その殲滅は、正当な鎮圧任務だ。そんなものに挟むような感傷など持ち合わせておらん」
そして憎むべき男は、悔恨の感情など微塵も見せずに容易くそう言い捨てた。
罪無き人々を虐殺し、その血と涙の元に醜く財を肥やしておきながら、もはやどうでもいい事だとあの惨劇の事を言い捨てたのだ。
憎悪の炎が燃え上がる
今ここで即座に剣を抜き放ち、その身体を引き裂いてやりたい衝動に襲われる。
冷徹の仮面の下で憤怒の激情を渦巻かせながら、その一端でアニエスは安堵を覚えていた。
これでもはや、何の迷いも懐くことはない。
自分が求めた復讐の対象は、真実憎悪すべき外道であった。
「昔話など後にしろ。今は陛下の御身の捜索だけに全力を注げ」
手を振る仕草で、リッシュモンは退出を命じてくる。
それに逆らう事はせず、アニエスは素直にその場より退出した。
ここでは、まだ殺さない。
卑しき外道にはもっとふさわしい死に場所がある。
この男はアンリエッタの手によって全ての名誉を剥ぎ取られた後、この手で惨たらしく殺してやる。
それに、これで終わりではない。
リッシュモンは黒幕ではあるが、所詮は手引きをしただけ。
自分の故郷を炎で包み、両親を含めた大切な人々を焼き殺した実行犯は、別にいる。
その全てを殺し尽くさぬ限り、我が復讐の炎と故郷の無念は消える事はない。
我が名はアニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン。
復讐こそが我が生き様、憎悪こそが我が気力の源。
忠誠ではなく怨恨にてその剣を振るう、復讐の騎士である。
感想を述べるなら、その芝居は三文だった。
「ひどい役者ぶりだ」
最前列の席に居座り、気の無い視線を目の前の劇に向けながらギルガメッシュは欠伸を漏らす。
公演されている『トリスタニアの休日』は、現在のトリステインで流行の劇だ。
劇を公演しているタニアリージュ・ロワイヤル座も豪華な石造りの立派な劇場であり、客席には満員の鑑賞客で埋まっている。
だがこれだけの評価を受けておきながら、肝心の劇の出来は見事とは言い難かった。
脚本は悪くないのだが、いかんせん役者の演技が下手なのだ。
セリフは棒読みだし、歌の場面では音痴な部分が目立つ。
どう贔屓目に見ても、とても名劇とは言えない出来栄えである。
「贋作ならば贋作なりの楽しみもあるかと思ったが、やはり真作に勝るものなど無いという事か」
文句を漏らしてみるが、そんなことは観る前からすでに分かっていた事でもある。
この世の全てを極めつくしたギルガメッシュの眼にかかれば、物事の真贋を見極めることなど造作もない。
人の内面全てまで見通す英雄王の眼からすれば、ほとんどの芝居が単なる陳腐に堕ちる。
彼を満足させられる劇を作ろうと思うなら、それこそ歴史に名を残す名役者たちを一同に揃えなければならないだろう。
評判が高いと聞いてもしやとも思ったが、正直に言えばそれも大した期待ではない。
それでもこの場に足を運んだのは、単純に退屈であったからだ。
「ふん」
劇より視線を外し、途中だというのにギルガメッシュは席を立つ。
他の客からの目が集まるが構いはしない。
興味の失せた場所に居るつもりは毛頭なく、早々に劇場を後にする。
外に出れば、すでに陽は落ちていた。
召喚より時間も経ち、すでに飽きを覚え始めた双月の星空を眺めながら、ギルガメッシュは息をつく。
本来ならば、こんなにも早く幼年体より戻るつもりはなかった。
所詮は幕間の座興ならば、それにふさわしい姿にと思い、姿を変えていたのだが、予想外の事で元に戻ってしまった。
青年体となったギルガメッシュに労働意欲などあるはずもなく、こうして退屈を持て余す羽目になっている。
「間もなく、戦乱が到来するか」
女王アンリエッタが宣言したアルビオンとの全面戦争。
現在トリステインでは、その戦争に向けて軍備の編成を急いでいるという。
街では迫る戦に対し、期待や不安など様々な感情を抱えて見守っている。
そんな複雑な思惑を含んだ戦乱の到来を、ギルガメッシュは心待ちとしていた。
戦争とは、英雄を育てる苗床だ。
大規模な戦があり、そこで流される多くの血があるからこそ、それを止めるために英雄が生まれる。
そんな凡百の雑種の価値を超えた命の輝きは、ギルガメッシュにとっての何よりの娯楽である。
ハルケギニア全土の統一と共和制の樹立を謳う新生アルビオンとの戦争は、さぞや価値のある命をこの大地に生みだすことだろう。
「だが、それまでは退屈だな」
肩を竦め、ギルガメッシュは歩きだす。
そうして入っていった路地裏で、ギルガメッシュは一人の女と鉢合わせした。
その女の正体は、ギルガメッシュにとっても意外な人物であった。
「あ、あなたは・・っ!?」
「貴様は・・・あの時の小娘か」
灰色のフードをかぶり、顔は見えにくかったが、そこにいるのは紛れもなくアンリエッタであった。
思いもよらぬ人物との出会いに、ギルガメッシュに僅かばかりの驚きが生まれる。
「おい、こっちを捜せ」
その時、甲高い衛兵の声が裏路地のこの場所に響いてくる。
声に呼応して足音も聞こえ、その音はどんどんこちらへと近づいてくる。
そしてその音が近づくにつれて、アンリエッタの表情の曇りが強くなっていった。
「ほう・・・」
大方の事情を感じ取り、ギルガメッシュはローブ姿のアンリエッタを見つめる。
やがて足音が真近に迫り、衛兵が路地裏に姿を現した時―――
壁にその身体を押し付けながら、強引に唇を奪った。
「っ!!?」
唐突になされた情熱的な接吻に、アンリエッタの目が驚愕に見開かれる。
その目が映しているのは、至近に迫ったギルガメッシュの美しい相貌のみだ。
ギルガメッシュの後ろでは、衛兵が二人に気付かず通り過ぎていく。
正面からの角度では、衛兵からはアンリエッタの顔が見えない。
横から見ても、壁に押し付けるギルガメッシュの手が邪魔して見る事は出来ない。
何より誘拐の可能性を危惧する女王の安否を、こんな場所で情事に耽る男女に結びつけられるはずがない。
衛兵をやり過ごし、やがてゆっくりとギルガメッシュは唇を離す。
そして未だ呆然としているアンリエッタに、不遜な笑みを浮かべて見せた。
「どうした?奴らに見咎められてはまずいのだろう」
「あ・・・は、はい。あ、ありがとう、ございます」
動揺か、それとも情事の熱に浮かされたのか、虚ろな声でアンリエッタは答える。
自分の胸より響く、確かな鼓動の高鳴りを感じながら。
それから二人は、元の路地裏より少しばかり歩いた場所にある宿屋へと足を運んだ。
宿屋といっても、粗末な木賃宿であり、その内装は人が住めるギリギリといった具合でしかなく、二人の身分や気位いを考えればとても相応しい場所とは言えない。
しかし今夜に限っては二人とも部屋に不平を洩らす事無く、構わずに中へと歩を進めた。
「ほう。キツネ狩り、と」
月明かりのみが頼りの光源となる部屋の中、二人は同じベッドの上に並んで腰かける。
部屋には一応ランプもつけられてはいたが、今の二人は特に必要とはしていなかった。
「はい。内通者をいぶり出す餌として、私は姿を眩ませました。そのため、他の一般の兵にも私の姿を見られるわけにはいかないのです」
女王が一人あのような場所を彷徨っていた事情を説明する。
得心を得たギルガメッシュは、隣に座るアンリエッタに嘲笑を向けた。
「仮にも王を名乗る者が、卑しき隠者の真似事とは。随分と滑稽なことだな」
「仕方がありません。私は王として、まだあまりに力不足。権力も、人材も、私が自由と出来るものは限られています。活用できるものは、例え我が身であろうと用いていかなければ追い付きません」
ギルガメッシュの挑発にも、凛とアンリエッタはそう返す。
今までならばムキになって反論するか、黙りこんで項垂れるかのどちらかだろうに、その動作には余裕すら垣間見える。
強かさを兼ね備えた今のアンリエッタは、ギルガメッシュとの対面にあっても気圧されはしなかった。
そんなこれまでと様子の違うアンリエッタを、ギルガメッシュは好奇の眼差しで見つめた。
「・・・あなたとこうしてゆっくりと話すのは、初めてでしたわね」
会話が止まり、しばしの沈黙が流れた後、ゆっくりとした口調でアンリエッタは切り出した。
「あなたの力は、王宮でも随分と話題になりました。何人かの貴族は、あなたの存在を“兵器”として徴収しようと言う者までいたくらいです」
「ほう。で、この我を捕えようとでも言うつもりか?」
「まさか。そのような眠れる魔人を叩き起すような愚を、私は犯しません」
ギルガメッシュは、トリステインの味方ではない。
彼の気まぐれひとつで、その矛先が今度はトリステインへと向けられる事もあり得る。
幾度かの邂逅で、その不遜さを理解していたアンリエッタは、ギルガメッシュに対する手出しの一切を禁じた。
・・・触らぬ神に祟り無し。
下手を打てば、たった一人の個人によってトリステインという国が滅ぼされる事になるかもしれない。
どの道制御など不可能な存在であるならば、最初から期待などしないほうが得策である。
それに、国が抱える問題を、異邦人であるギルガメッシュに頼りきって解決するようでは、国の末路など知れたことだ。
「ふむ、良い心がけだ。この我より無用の雑事の手間を省いた点は褒めてとらそう」
「それはどうも。・・・思えば、あなたと相対する時というのはロクな思い出がありません。あなたという存在に触れるたびに、私は己の弱さを露呈するばかりでしたね」
アンリエッタとギルガメッシュが初めて対面したのは、アルビオンへ使者として向かう任務をルイズに授ける際の事。
共に王の名を冠する者同士ではあったが、その時の両者の器の大きさの違いはあまりにも歴然であった。
己の存在そのものを揺るがされたあの時の記憶は、まだはっきりと脳裏に刻まれている。
あの時のアンリエッタは、ギルガメッシュの王者としての風格にただただ圧倒されるばかり。
初めて目にする英雄王の迫力は、単なるか弱き小娘だったアンリエッタには衝撃しかもたらさなかった。
だが、今は違う。
「けれど、あなたの言葉のおかげで今の私がいる。それもまた、事実です。その事には、素直に感謝しておきます」
王としての覚悟を背負った今のアンリエッタならば、これまでのように圧倒されるばかりではない。
例えその力の大きな差があろうとも、精神では決して気圧されない。
力で劣ろうと信念が均衡を保ってこそ、初めて自分は王としてこの人物の前に立つ事が出来る。
それを証明するために、自分は今この男と共にいる。
「ですが、あの夜での事に関しては、私はあなたには謝りませんよ」
だからこそ、アンリエッタはそう宣言した。
先日の復活したウェールズによる、アンリエッタ誘拐未遂事件。
あの事件では結果的に、ギルガメッシュに救われる形となっている。
自分の不甲斐無さゆえに他の者にも多大な迷惑をかけてしまった事には、謝罪以外の言葉が思いつかない。
しかし、この男にだけは謝らない。
彼は確かに自分を助けたかもしれないが、他ならぬ彼本人にそんな気は毛頭なかった。
この男が行ったのは、ただ自分の事を愚弄し、嘲笑ったのみ。
救う形をなったのは、あくまで結果の事象に過ぎない。
結果に対する感謝はしても、侮辱を受けての謝罪は述べない。
侮辱に対して謝辞を述べれば、それは侮辱そのものを認める事になってしまう。
自らを卑下するような心を残せば、この男の前には立つ事は出来ないから。
それは王としての自立を目指す、アンリエッタの意地だった。
「ほう。しばし見ぬ間に、多少は見どころを示すようになったな。つい先日までは、愚かさのみが取り得の道化とばかり思っていたが」
「私は今や女王です。いつまでもか弱き王女のままではいられません。この国に君臨する者として、王の意思を持っていかなければ」
「そして、その王の意思とやらで行うのが、今度の戦というわけか」
投げかけられたその言葉に、アンリエッタは押し黙った。
「聞いているぞ。此度の戦には、ルイズもまた参戦させるのだったな。国を挙げての戦を前に、わざわざ個人を指名しているのだ。よもや小娘如きの知恵などを期待しているわけではあるまい。貴様が目を付けているのは、あくまで奴の『虚無』の力だけだろう」
そしてそれはルイズという少女を、一人の人間としてではなく一個の兵器として見なすということ。
親友と呼ぶ存在を、今度の戦では道具として活用する。
「・・・国家という枠組みの中では、ルイズとてひとつの駒に過ぎません。国の大事を前にして、個人の私情にて活用すべきものを見失うのは、上に立つ者としてふさわしい態度ではありません。ルイズの存在が国のための利となるのなら、私はそれを使います」
「非情な事だ。迷いはないのか?」
「ありません。我が心身は、すでに王者としての覚悟を兼ね備えております」
毅然とし、きっぱりとアンリエッタは答える。
それは、“あの夜”を境に彼女が懐いた確かな決意だった。
「・・・それは嘘だろう」
そのアンリエッタの決意を、ギルガメッシュは容易く否定してみせた。
「王者としての覚悟、だと?ハッ、笑わせるな。そのような脆弱な在り様で、王者を名乗るとは片腹痛い」
「・・・聞き捨てなりませんね。一体どのような根拠があって、そのような侮辱を言うのです?」
聞き咎めて、しかし冷静な姿勢は崩さぬまま、厳しい眼差しでアンリエッタは言葉を返す。
「人はそう容易く己の本質を変えられん。貴様が奥底に隠す脆弱なる本質。例え外部を錬鉄に覆おうとも、漏れ出る真実を消し去ることは出来ん」
「私の弱さ、ですって・・・?かつての私ならばいざ知らず、今の私には特に思い当たる節はありませんが」
「フフッ、違うな。思い至らんのではなく、あえてそこから目を背けているだけだ。外面はどれだけ非情を取り繕うとも、その内心はすでに悲鳴を上げている。貴様の強さなど、所詮は偽りの仮面。その決壊点は、果たしてどこかな?」
「そんなものはありません。私はすでに、過去の弱さとは決別しています」
やや強情となりながらも、アンリエッタはまだ毅然としたまま言い返す。
多少の動揺はあったが、いまだその在り様に揺らぎは見せてはいない。
国を率い、老獪マザリーニをも瞠目させる、それはトリステイン女王としての姿であった。
「―――ウェールズ、か。奴に王たる者としての自立でも促されたか?」
だが次の一言で、その気高き強さに亀裂が走る。
尊い奇跡によってアンリエッタとの間に交わされた、ウェールズの遺言。
そこで為された彼との誓いが、今のアンリエッタを動かす原点となっている。
愛する者の最後の言葉があったからこそ、こうして自分は立っていられる。
だがその誓いは、あくまで彼と自分だけのものだ。
あの夜の会話は誰にも明かしていないし、また明かすつもりもなかった。
―――誰にも触れては欲しくない、最も神聖な部分を、なぜこの男はこうも容易く言い当てるのか。
「どうした?随分と意外そうだな。今の際、奴が貴様に遺すべき言葉などそれぐらいしかなかろう。あの男の性質を考えればな」
気の在る様子もなく、さも当然のようにギルガメッシュは言う。
それはまるで、分かり切ったことをわざわざ口にして告げているかのように。
実際、この男は分かっているのだろう。
自分の在り様を一目で見抜いたこの男ならば、僅かな会話のみでもその人の内面にまで踏み込んでくる。
アルビオンでの邂逅ですでにウェールズという人間を把握していたとしても、不思議ではない。
だがアンリエッタにとって、それは容易には受け入れ難いことだ。
愛で結ばれたアンリエッタでさえ、最期の時にようやく気付けたことなのだから。
それを赤の他人がこのように気安く口にする事は、彼の思いに対する侮辱に聞こえる。
「・・・確かに、あなたの言うとおり、きっかけはウェールズ様の言葉です。ですが、それがどうしたというのです?きっかけが何であれ、私がいま行っている事が変わるわけではない」
「きっかけ?ククッ、そのような容易いものではあるまい。奴の遺した言葉は、今の貴様にとって“全て”ではないのか?」
肩を掴まれ、ギルガメッシュの顔が目前まで迫る。
その視線から逃れる事も敵わず、真紅の双眸にアンリエッタの姿が映される。
ギルガメッシュの持つ魔性の眼光が、まるで魂までも呑み込まれていくかのような錯覚を、アンリエッタに与えた。
「元より貫くべき信念も何も持たなかった貴様だ。矜持も愛も何もかもを失い、この世のすべてが不確かに思えたであろう。故に貴様には、新たに縋り付くものが必要だった。そして、あの時の貴様に、支えになり得るものなどひとつしか無い」
これ以上、この話を続けさせてはならない。
アンリエッタの心の中で、警鐘が鳴り響く。
今まで封じてきたもの、押し込めてきたものが、ゆっくりとアンリエッタの内部よりにじみ出てくる。
このままでは女王という言葉と姿に隠れる、アンリエッタという人間が暴かれてしまう。
だがそうは思っても、拘束されたその身は逃れることが出来ない。
肩を掴むギルガメッシュの手は固く、有無を言わさぬ強さがあった。
彼の言葉から耳を塞ぐ事を、誰より彼自身が許しはしまい。
「ウェールズと交わした遺言。いや、その様子を見れば“誓い”と言ったところか。それを遵守し、全うすることこそ、貴様に残された唯一の在り方。
奴の言葉に触発されて奮い立ったわけではない。単にそれしか残されておらんから、それを選んだというだけのこと。そのような逃避によって成り立った王など、本物であるはずがない」
固く封じられた箱の施錠が、次々と外されていく。
決して開いてはいけない、決して触れてはいけない、決して目にしてはいけない“モノ”が入った、心の箱が。
箱の中に閉じ込めてあったものがじわりじわりと浸食してくる感覚に、アンリエッタは恐怖を覚えた。
「・・・貴様に根差す起源を教えてやろう」
箱の鍵を開く最後の言葉を、ギルガメッシュは口にする。
「自己より発生したものではない何か。その何かに縋って、己の存在を定義しようとする。そんな他者に対する“依存”こそが、貴様の起源だ」
そして、箱は明け放たれた。
手の平の上に、小さな粒が乗っていた。
とてもとても小さな、儚く光る粒。
それが数えきれないほど無数に、手の平一杯に乗っていた。
よく見ればその粒の光は、ひとつひとつがそれぞれ違う色を放っていた。
粒の光はとても小さく、目を凝らさねば判別できないほどに些細であり、けれど確かに光は違っていて。
そんな異なる色の光が彩るコントラストに心惹かれた。
その輝きをじっと見ていると、ふとした拍子に手の平から粒のいくつかが落ちる。
零れおちた粒は大したことはない、全体から見れば微々たる量。
少々惜しいとも思ったが、すぐに関心は元の全体の粒へと移る。
そして手の平より零れ落ちた僅かな粒が、地面に散った。
“―――っ!!”、“―――っ!!”、“―――っ!!”“―――っ!!”“―――っ!!”
瞬間、形容し難い怨嗟の声が沸き上がった。
取り落とした粒が人の形となって立ち上がり、それぞれに妄執の叫びを上げる。
それは無念であり、嘆願であり、激痛であり、そして憎悪である。
そしてそれらの妄執は、すべて自分に向けられたものだった。
驚いて、手の平の粒がまたも僅かに零れ落ちる。
そして立ち昇ったのは、同じく怨恨の絶叫。
手の平より取りこぼした自分に対し、零され見捨てられた粒達はそれぞれの感情を叩きつける。
向けられる感情に驚いて取りこぼし、そこからまた粒の怨嗟が起こり、その怨嗟によって手の平からは粒が零れ落ちる。
悪しき循環は廻り続け、やがて手の平に残るのは最後の一粒のみとなり、それすら遂には手の平より落ちた。
その最期の粒から現れたのは、桃色の長髪をなびかせた小柄の少女。
とても仲の良い幼馴染みであるはずの少女は、自分に対して信じられないほどに冷たい眼差しを向ける。
「・・・あなたが、私を殺す」
呪いの言葉を遺して、その少女の姿もかき消える。
気が付けば周りの叫びも、いつの間にか消えていた。
静寂が包みこみ、怨嗟も嘆きも何もない闇の中に自分だけが残される。
そして世界は独りになった。
その光景は、アンリエッタは見る夢の姿だ。
戴冠を果たし、王としての責務をこなす中で、毎晩毎晩現れる悪夢。
自分のか細い手の中から全ての命が零れ落ち、最後には独り自分だけが残される。
この夢のせいで、度の強い酒に力に頼らなければ眠れない夜が続いている。
身体の健康には劣悪な代物だが、心の安定を取り戻すにはそれは有効なものだった。
この夢はまさしく自分の未来の不安を暗示するものだ。
国の担い手として、手にした命を取りこぼし、すべてを台無しにする最悪の光景の具現。
強くなったと見せかける外見の裏で、内部に潜めた弱さは夢という形でアンリエッタの前に現われていた。
どれだけ気丈に振る舞おうと、どれだけ自らに強くなったと言い聞かせようと、その弱さまでは覆い隠せない。
気付かないふりをしていても、弱さは何らかの形で現れる。
ギルガメッシュの言うとおり、人がそんなに容易く変わることなど出来るはずがないのだから。
「・・・よい表情だ。食指が動かされる。やはり我の見立てに狂いはなかったな」
アンリエッタの身体を、ギルガメッシュが押し倒す。
そこにあるのは、堂々たる姿勢を見せていた女王たる彼女の姿ではない。
王者の仮面を剥がされ、裏に隠された本性を暴露されたその姿は、元のか弱く儚い少女だった。
そんなアンリエッタに、ギルガメッシュは玩具を愛でるような慈しみと、それ以上の嗜虐心を覗かせた表情で迫った。
「喜べ、アンリエッタ。今の貴様は、なかなかに我好みだ」
ギルガメッシュの身体が、アンリエッタに覆い被さる。
その蹂躙に抵抗する力もなく、暴力的な愛撫にアンリエッタはそのまま身を委ねた。
「”依存”、ですか・・・。確かにそうかもしれませんね・・・」
情事の後、熱に火照る裸体を抱きながら、アンリエッタはそんなことを口にした。
「私は強くなんてない。そう見えているのだとすれば、それは単なる上辺だけのもの。現にこうして、暴かれれば崩れるのも容易いものです」
マザリーニとの論議の際、自分はさもこの戦争に対して、何の迷いもないかのように語った。
問いかけられても毅然としていて、弱気になったマザリーニの方を奮起させたほどだ。
だが、その姿は真実でもなんでもない。
毅然と振舞っていたのは、単なる見せかけだけのもの。
むしろマザリーニが弱気に走ってくれたからこそ、逆にこちらが毅然と振る舞えたのだ。
本心は、怖くて仕方がない。
今度の戦争は他の誰でもない、自分自身の手で行うのだ。
先のように攻められたからという訳ではなく、自分から民に戦ってこいと命じるのである。
その命の責任は、自分にある。
このトリステインに住まう全ての人々の命を、これから自分は道具のように切り捨て使っていくのだ。
民達は自分の采配ひとつで、容易くその運命を定められる。
恐怖がないはずがない、思い返さなかったはずがない。
戦争以外の方法があるのではないか、自分は無為にルイズの命を棒に捨てようとしているのではないか。
マザリーニが言うまでもなく、アンリエッタはそれこそ何度でも、他の方策が無いものかと考えに考え抜いた。
その上で、アンリエッタは先の決定を国是として決断したのだ。
けれど、それでもやはり恐怖を感じる弱さは消えなくて。
それを誤魔化すために、ひたすらに王者としての強く揺るがぬ自分を演じ続けた。
悪夢が見せる不安も、酒の力で強引に封じ込めて、マザリーニの前でもその姿勢を崩さなかった。
そうして自らを誤魔化しておけなければ、平静を保ってなどいられなかったから。
しかしそんな王者の仮面も、真なる王の前では容易く剥ぎ取られてしまった。
「あなたの事は、ルイズからいろいろと聞きました。あなたは異世界の王でいらしたそうですね」
ギルガメッシュは、トリステインと何の関わりの無い者。
アンリエッタが王として気負う必要の相手だ。
だからこそ、アンリエッタは訊きたい。
同じく王であったというこの男の、その胸中はいかなるものだったのか。
女王となって知った王の重圧を、果たしてこの男はどのようにして背負っていたのかと。
「・・・あなたは、王である事が恐ろしくはなかったのですか?」
自分が感じる恐怖を、アンリエッタは問うた。
「愚問。答えるまでもなし」
その恐怖を、ギルガメッシュはただ愚かだと言い捨てた。
「国の全ては王の物。善意であろうが悪意であろうが、この世の全てを飲み干せずして何が王か。民の命運は、王の下に在り。当然である世の理に、迷いなど持ちこむ必要はない」
気負いもなく未練もなく、ただ明快にギルガメッシュは言い放つ。
民草の声も運命の采配も、原初の英雄王においては背負うべきものにすら値しない。
世界唯一の覇王であったギルガメッシュにとって、この世のすべてなど始めから背負っているもの。
そこに差し込むべき迷いも、感じるべき気負いも、ギルガメッシュには存在していない。
彼は原初の覇者ギルガメッシュであり、ギルガメッシュであるが故に彼は王である。
由縁もなければ教訓もない、在るがままの彼の姿が、すでに彼の王道を物語っている。
人が己を人である事を疑問と思わないように、ギルガメッシュにとって自らが王である事は、自然に過ぎないのだから。
そんなギルガメッシュの姿を、アンリエッタはただ大きく、そして眩しいと感じた。
「・・・すごいですね。私は、そんなに強くはなれない。あなたこそは、真の王たる者なのでしょう」
「何だ?我に玉座を譲ろうという気にでもなったか?」
「ああ、それは魅力的な提案ですわね」
そう出来たらどれほど良いだろう。
この身に合わぬ重圧に耐えかねる、この毎日から解放されたら、どんなに楽だろう。
自分で口にして、それをどれほど熱望しているのか、アンリエッタは気付いた。
あるいは彼女の“依存”という名の起源が、この男に縋り付くことを求めるのか。
何者よりも強く揺るがぬこの男に寄りかかれれば、それはさぞや自分に安堵の念を齎すだろう。
それがきっと、この自分にふさわしく充実するだろう生き方だ。
「けれど、私は決めたから」
だからこそ、アンリエッタは拒絶の言葉を口にする。
「こんな所で私はこの冠を放りだすわけにはいかない。私には、果たさねばならない誓いがあるからだから私は、女王として生きていきます」
ここで放棄すれば、自分はかつての弱い自分に戻ってしまう。
ウェールズと交わした誓いに沿えば、それは決して認めてはならないものだ。
“愛”と“依存”は、少し見方を変えればとても似ていて、けれど決定的に異なるもの。
ただ縋り付くだけの思いを、“愛”などとは言わない。
もしここで自らに“依存”を認めてしまえば、それはウェールズと築き上げた“愛”すらも“依存”のものとして貶めることになる。
それだけは、アンリエッタは断じて認められない。
「・・・そろそろ行かなくては。今夜はいろいろとありがとうございます。おかげで、少しスッキリしました」
ベッドより起き上がり、脱ぎ散らかされた衣服を纏って、アンリエッタは立ち上がる。
その一言を別れの挨拶として、アンリエッタはこの部屋より去ろうとする。
「人は、己の起源に縛られる。自覚はしていなくとも、その片鱗は無意識の内に現れる」
そうして去ろうとするアンリエッタを、ギルガメッシュは呼び止めた。
「貴様の生き方は、己の起源と相反する生き方だ。その在り様は、貴様にとって苦痛でしかあるまい。それでも、その道を歩むというのか?」
アンリエッタの身を案じてというより、その覚悟のほどを試すような口調で、ギルガメッシュは問いかける。
その問いかけに対し、アンリエッタは己の迷いを断ち切るかのようにはっきりと返答してみせた。
「だって、この道は正しいものでしょう」
自分が選んだこの道は、あるいはギルガメッシュの言うとおり、ウェールズへの思いに対する“依存”であるのかもしれない。
他に縋り付くものを無くした自分が、死に逝く恋人の言葉に促されて動いているだけなのかもしれない。
だがそれでも、これは始めて自分自身で選んだ道なのだ。
誰かの傀儡としてではなく、あくまでアンリエッタ個人が選びとった道なのだ。
その始まりがどうであれ、国のため民のために奮い立つ女王の道は、真に正しくあるはずのもの。
それはアンリエッタの生涯において、初めて得られたものであった。
「今まで何も持たなかった私が、初めて得られた正しく価値あるものです。それを私は、大切にしたい」
未だ、このように容易く仮面が剥ぎ取れてしまう、偽りの王ではあるけれども。
けれどそんな偽物の仮面も、被り続ければやがてはそれが素顔ともなるだろう。
本当の強さとは、刹那の決意には無い。
ある一時に感情に任せ、何か重大に思える事を決意することは、案外と誰にでも出来る。
大切なのはそれをやり遂げて、そして現実のものとして昇華すること。
そこに至るまでの継続を維持し続ける力こそが、本当の強さなのだ。
だからこそ、アンリエッタは女王たる自分をやり遂げようとする。
その生き方こそが、彼との誓いを果たすことになると思うから。
「そうしてこそ、私は初めて―――自分を誇ることが出来ると思うから」
優雅に微笑みさえ浮かべて、アンリエッタは答えを返す。
その姿には、いまだ発展途上ではあれど、確かに英雄足り得る者の命の輝きが備わっていた。
アンリエッタが去り、部屋にはギルガメッシュ一人が残される。
見るからにみすぼらしく粗末な部屋であるが、ギルガメッシュがいるだけでまるで豪奢な王宮の寝室とも錯覚できるから不思議だった。
そんな部屋のベッドに踏ん反り返り、ギルガメッシュは先ほどのアンリエッタとの談話を思い返す。
「王座を譲る?ハッ、たわけめ。我がこんな小国の、侘しい玉座などに執着を懐くとでも思ったか」
つまらない世界になど、興味はない。
仮に支配しても、その後が退屈なのでは意味がない。
ふたたび世界の覇者として君臨するならば、その世界はかつての世界にも匹敵する価値と娯楽を備えていなくてはならない。
だからこそ、ギルガメッシュは英雄を求める。
世界を彩る装飾を、自らを飽きさせないための娯楽の種を。
真に価値ある命によって構成された世界こそ、この英雄王が支配するに値する。
「空想に頼る演劇など、やはり我には不要。他ならぬ浮世の人間の足掻きこそが、何よりも真に迫った名演ではないか」
真なる命の輝きを見せる価値ある者達の宿業。
その足掻き、その生き様こそが、どんな空想にも勝る物語を作り出す。
この世界そのものが劇の舞台であり、生きとし生ける全ての者がその舞台の役者である。
そんな舞台の役者達の演技ぶりを、ギルガメッシュは傍観者として客席に座り見下し続ける。
「この我をわざわざ異界へと招き寄せたのだ。せいぜい退屈させるな、世界よ」
英霊たる自分が、単なる偶然にてこのハルケギニアに招き寄せられたとはギルガメッシュは思っていない。
そこには必ずや、世界の意思が介在しているはずだ。
自分の召喚が世界に意図されてのものであるならば、自分にも何らかに役割が運命に定められているのだろう。
だがそんなこと、所詮は雑事に過ぎない。
例え世界の意思がどうであろうと、ギルガメッシュは変わらない。
ただ己が望むままに振る舞い、無興を娯楽で満たすのみ。
傲岸不遜の英雄王を支配するのは―――他ならぬ王自身のみであるのだから。
「さあ―――第二幕の開演だ」
舞台は整い、新たな役者も出揃った。
世界の織り成す演劇の第二部の開始を、ギルガメッシュは高らかに宣言した。