外伝 タバサと黒騎士
シュヴァリエ・ド・ノールパルテル
北花壇騎士第七号
それがタバサの学院の外、故国ガリアでの称号である。
ガリアの誇るヴェルサルテイル宮殿には、季節ごとの花々が優雅に咲き乱れる『薔薇園』と呼ばれる花壇が存在する。
由緒あるガリアの騎士団は、その花壇に咲く花々にちなんで命名されている。
南ならば薔薇、東ならば百合、といった具合である。
ただ唯一、『薔薇園』には北側のみ花壇が存在しないので、北が名前に入る騎士団は公式上存在していない。
だが、それはあくまで表向きでの話。
王宮の裏舞台には、“北”の名を冠する騎士団が存在した。
ガリア王家の汚れ役のすべてを担い、国のためにならぬ事柄を闇の葬る、忠節や騎士道とは無縁の騎士団。
それが北花壇警護騎士団であり、タバサはその七番目の騎士なのだった。
「お姉さまお姉さま、本当に行くのね?」
主を背に乗せ飛ぶ風竜のシルフィードが、人間の言葉を用いて話しかける。
騒ぎになることを防ぐため学院には明かしていないが、タバサが召喚した使い魔であるシルフィードは、今では失われつつある古代の知恵ある竜、風韻竜の一匹であった。
「命令」
「でもでも、今度の命令はいくらお姉さまでも無茶なのね」
主の身を案ずる自身の使い魔に、タバサはいつもの無表情で応える。
しかしその内心では、此度に彼女に下された王家の命令に、大いに憤りを感じていた。
『シエルネィヴァ山脈の山中の砦跡が、盗賊団ゲルゴウィアと思しき一団の根城であると報告あり。これを確認し、速やかに一団を逮捕、または殲滅せよ』
それが今回、タバサに伝書鳩を通じて送られてきた命令書の内容である。
盗賊団ゲルゴウィア。
その名前、というより悪名はタバサとてよく知っている。
ガリア地方を中心に活動し、戦時であれば傭兵として、平時であれば盗賊として、悪行三昧を振るう、もはや盗賊と呼ぶもおごがましい鬼畜集団。
団員の総数は五百人にも及ぶと言われ、構成員は平民のみでなく貴族崩れのメイジも複数存在する。
特に頭目のジルドベットは、『業火』の二つ名を持つ『火』のスクウェアメイジ。
裏の世界では、かの『白炎』と並び称されるほどに、残虐にして強力なメイジである。
彼らの手により略奪され、焼かれた村の数はもう数えきれない。
無論、国家とて彼らのその悪行を阻むべく、幾度となく討伐軍を派遣した。
しかしその度に、狡猾なジルドベットは軍の動きを察知して、捉えられることなく逃げ果せてきた。
自身の仲間さえ蜥蜴のしっぽ切りのように切り捨てられるジルドベットの冷血な知略に、ガリア王家は何度も煮え湯を飲まされてきたのだ。
(とうとう、王家は私を謀殺しにかかったのか・・・)
今回の任務に対し、苦々しくタバサ―――本名シャルロット・エレーヌ・オルレアンは思った。
今でこそタバサなどと珍妙な名前を名乗っているが、本来の彼女は現王ジョゼフの姪、すなわち立派な王族である。
しかし彼女の父親オルレアン公シャルルは、王座を巡る政略争いの中で謀殺。
母親も薬によって廃人とされ、その母を盾に自分も憎き王家の道具になり、厄介払いとばかりに命の危険のある数々の任務を押し付けられる。
その苦難と屈辱の日々に耐えながら、タバサは必死に自分を磨いてきた。
成功率が絶望的な任務をいくつもこなし、戦闘経験を積み重ねる。
ヒマさえあれば本を読み、様々な知恵を身に付ける。
すべては、彼女の伯父であり、自分から両親を奪った張本人である現ガリア国王ジョゼフに復讐するために。
だがそうして何時まで経っても死なない自分を疎ましく思ったのか、とうとう王家はとんでもない無理難題の任務を与えてきた。
メイジも含めた五百人近いという武装集団に、たった一人で挑む。
それはもはや、知恵や工夫の入り込む余地のない、無謀も通り越した愚行だった。
(でも・・・)
理不尽な王家の命令に憤りつつも、タバサにはいくつか腑に落ちない点があった。
一つは、この命令を受けたのが、ガリア本国ではなくトリステイン魔法学院であったこと。
いつもならば騎士としても指令は、ガリア本国のヴェルサルテイル宮殿の離れにある小宮殿プチ・トロワにて受けるというのに、今回は伝書鳩による直接の指令書送付であった。
こんな死刑宣告にも等しい任務、あの陰険な従姉妹が喜びそうなことだというのに。
また指令書を見ると、この命令はどうやらガリア王ジョセフからの勅命であるらしい。
憎むべき復讐対象の言葉だと思うと、知らず指令書を握る手に力がこもった。
しかし、同時に不可解でもある。
これまでの命令は、一応北花壇警護騎士団団長の地位にある従姉妹のイザベラが行ってきたというのに、今回に限ってなぜ王自らが下したのか。
そしてタバサが最大に奇妙と感じる事柄は、指令書に記されたこの一文である。
『合流地点にてもう一人の騎士と合流し、連携して任務に当たれ』
もう一人の騎士。
つまり今回の任務は二人で行えということだ。
タバサのこれまでの任務は、例外なく一人きりでの物だった。
考えれば当然、それらの任務はすべてタバサという存在を闇に葬るための物なのだから。
そのような死地にわざわざ人材を送り込むことは無いし、それ以上に自分に有利になるようなことをあの王家がするとは思えない。
まあ、有利になるとは言っても、今回の任務に限っていえば大した違いにはならないだろうが。
(私を脱走させないための監視役?)
それは十分にありそうな考えだと、タバサには思えた。
自分とて何も素直に王家の言いなりのまま死ぬつもりはない。
いざとなれば王家に背いて脱走する考えは、無論のことある。
だがそうなると問題なのは、人質として捕られている母の存在だ。
脱走するにしても、何とか母も一緒に奪還しなければならない。
それを防ぐために監視役を配置するというのは、十分にあり得た。
(あるいは、私のように王家に疎ましがられている者?)
これもまたあり得る。
王家にとって邪魔な存在となった者の、体の良い始末。
これまであの王家がさんざん自分に対して行ってきたこと。
その悪魔の所業を、他の者に行っていないなどと、断言できるはずがない。
もしそうだとすれば、ひょっとすれば脱走にも協力してくれるかもしれない。
そんな楽観的な考えも僅かに交えて、タバサはシルフィードをその騎士との合流地点へと向かわせた。
ガリア地方の南東300リーグほど離れた地点に位置する、高大な山々が連なるシエルネィヴァ山脈。
火竜たちが跋扈する火竜山脈ほどではないが、その規模はハルケギニア全体から見ても最大級の広大さである。
その山脈の麓にある森の、ひときわ大きく聳える大木の元に、タバサはシルフィードを伴い降り立った。
「ここがその騎士さんとの合流場所なのね?」
コクリとタバサは頷く。
シルフィードはブルブルと震えた。
「う~ん、わたし、ここ嫌いなのね。ヌメヌメしてジトジトして、暗~い気分になっちゃうのね。ここに住んでる動物は、きっと変な味するのね。とってもグルメなシルフィードの口は、そんな物は受け付けないのね。
あ、ご飯のお話をしてたら、何だかお腹が空いてきたのね。ご飯ご飯、こんな所からはさっさと出てって、おいしいもの食べたい、きゅいきゅい」
「うるさい」
わめくシルフィードの頭を、タバサは長い杖でポカリと殴って黙らせる。
その時、『風』のトライアングルとして、空気の流れを鋭敏に感じ取るタバサの感覚が、自分以外の足音を捉えた。
「誰?」
問いかけに応じてか、深い森の闇の中より、一人の人物が歩み出た。
そして自分の視界の前に出たその人物の姿には、常に動じず氷のように冷徹な精神を持つタバサでさえ瞠目した。
頭も兜でくまなく包むフルプレートの甲冑。
それは華美にも武骨にも貶められることなく、機能と豪奢を絶妙なバランスで両立させる、およそ鎧という概念の元で完璧と呼ぶにふさわしい一品だった。
数々の戦を駆け抜けた事を証明する、その表面に刻まれた無数の疵跡でさえ、武勲を称える勇猛の華の役割を担う、戦士ならば誰もが憧れるであろう、理想の戦化粧。
しかしそんな栄えある鎧も、その全体を染め上げる汚らわしく淀んだ黒色がすべてを台無しにしていた。
“華”の要素など微塵もない、ただ相対する者へ胸に焼きつく恐怖の念のみを与える、漆黒の騎士。
それがタバサの前に現れた者の姿だった。
「あなたが、今回の任務を受けた騎士?」
尋ねるが、黒騎士は答えない。
ただ沈黙し、幽鬼のようにタバサの前に佇むのみだ。
「ゲルゴウィアの根城まで」
それでも重ねて、タバサは目の前の黒騎士に言葉をかける。
それに対する答えは無かったが、それでも今度は一応の反応はあった。
黒騎士がこちらに背を向け、目的地であるシエルネィヴァ山脈へと歩き出していく。
それを肯定の意思表示と受け取り、タバサもまたそれに続いて歩き出そうとする。
「お、お姉さま、行っちゃダメなのね」
そんなタバサを、シルフィードは慌てた様子で呼び止めた。
「あれは絶対、危険なのね。シルフィードの古代種のカンがそう言ってます。あれは関わっちゃダメだって」
シルフィードの言うことは、もちろんタバサにとて分かる。
あれの異形に、危機感をまるで感じない者がいるとすれば、それはよほどの鈍感か狂人くらいだ。
しかし、そうあっさりと逃げ出すという選択肢は選べない。
あの騎士が自分の監視役であるという疑いを、タバサはまだ消していない。
もしその疑いが正しければ、王家の魔の手はすぐさま母の元へと伸びるだろう。
逃げ出すとすれば、王家の目を欺けうる虚偽を纏ってからだ。
「あなたはここで待ってて」
呼び止めるシルフィードに、タバサはそうとだけ答える。
どの道、これより先は徒歩での行軍だ。
恐らくこの辺り一帯をくまなく把握しているであろうゲルゴウィアの根城に、シルフィードで空から行くのはいくらなんでも目立ちすぎる。
そして何より、シルフィードを自分の都合に巻き込みたくない。
いかに使い魔であるとはいえ、元々シルフィードにとってこれらの任務は全く関係がないのだ。
彼女の胸の内の復讐の決意は深く、重い。
しかし同時に、彼女はその自身の復讐に誰も巻き込みたくないという思いもあった。
復讐という行為は、結局のところ、究極的に不毛な行為なのだ。
それを為したことろで、誰かが救われるわけでも、何かが得られる訳でもない。
得るものがあるとすれば、それは自分自身のための満足感のみ。
だからこそタバサは、復讐は自分自身の手で行うと決めていた。
自分以外に何かを得る者がいないなら、自分だけでやればいい。
こんな苦しい思いをするのは、自分だけで十分だ。
自己のために父を奪った王家の利己的な暗躍に対し、一種の意地でそう思う一方で、同時にタバサには彼らを殺すのはどうしても自身の手でなければ気が済まないという暗い思いもあった。
やはりこの身より湧き出る憎悪の意志は、自分自身の手で決着をつけてこそ道理だ。
それで得られる最大の満足感でこそ、自分の屈辱と苦難の日々も報われるというものだろう。
そんな明暗両立する思いを胸に抱き、タバサは黒騎士に続いて目の前に聳えるシエルネィヴァ山脈へと歩き出していった。
正面の山道を避けて、山の中に広がる木々生い茂る森の中を、タバサと黒騎士は黙々と歩く。
その足場の悪さはなるほど、軍の派遣を躊躇わせ、少数に任務を任せるのも僅かに理解できるものだった。
こんな所をゲルゴウィアに対抗出来るほどの大部隊で進軍すれば、その過程だけで時間も体力も使い果たしてしまうだろう。
シルフィードと別れてからそろそろ四時間ほどが経過しようとしている。
黒騎士の歩みに対して、視界より離れないほどの距離を取って、タバサも黒騎士の歩みに付いて行く。
あの不気味な黒い甲冑の騎士の傍らで長時間歩き続ける神経は、さすがのタバサにも無かった。
なかなかに険しい森の道中でタバサは、自分の前を進む黒騎士に対して抱く疑惑の種類を変化させつつあった。
当初は自分の監視役と疑っていたが、その考えもいまや薄れている。
この黒騎士は、ただひたすらに歩き続けるばかりで、こちらに全く目を向けようとしない。
一応、こちらが休憩しようと立ち止まると、あちらも歩みを止めるが、それとて向こうに休む意図があっての行為ではない事は明白だった。
視線も正面を向いたままで動かず、あくまでタバサが止まったから自身も止まるといった態度。
そこに休息の要素は微塵もなく、事実タバサが立ち上がれば再び歩き始める。
まるで、ただタバサと共に行動せよと刷り込まれたかのような人形の如き動きは、タバサにこの黒騎士が人間であることを疑わせた。
試しに何度か話しかけてもみたが、返答はやはりない。
それは自分の冷然な無視とは違い、本当にこちらの声が聞こえていないとしか思えない態度だった。
もしかしたら、これは本当にガーゴイルなのかもしれない。
魔法先進国とも呼ばれるガリアの魔法人形ガーゴイルは、他国に比べ格段な進歩を遂げている。
そのガリアの技術を以てすれば、これくらいのガーゴイルは十分作れるだろう。
それに自分という厄介者に付ける騎士として、人形以上の適役はいまい。
皮肉気にそう思いながら、タバサは黒騎士に続いて歩みを進め、やがて森の抜けた先の崖へと辿り着いた。
崖といっても、それほど高くはない。
せいぜいが四十メイルといったところで、メイジであれば何の問題もなく降りられる高さだ。
そしてその崖下には、ゲルゴウィアの根城と目される、件の砦跡があった。
「ゲルゴウィア・・・」
指令書の情報は確かであったらしい。
崖から僅かに顔を覗かせて下の砦跡を見つめ、タバサは思った。
かつては東方のエルフ達との戦いに用いられたという砦の跡地。
そこには現在、大量のならず者たちの姿があった。
ここからパッと見ただけでも、少なく見積もっても二百人はいる。
建物の中に居るであろう者達のことを考えると、その数はさらに跳ね上がるだろう。
構成員五百人がすべてこの場に勢ぞろいしているかは分からないが、少なくとも一人か二人でどうにかなる数ではないことは確かだ。
(どうする・・・?)
正面からの突入はまず論外。
自分の魔法ではどれだけ魔力を振りしぼった所で、倒せるのはせいぜい二、三十人が関の山。
精神力が尽きた後はあっという間に仕留められ、いや最悪の場合捕えられて慰み者にされるかもしれない。
もっと高威力の、都市制圧用の大規模高等呪文があれば話は別かもしれないが、あいにく自分は威力よりも精緻さを魔法に求めるタイプである。
必要最低限の労力で、最大限の効果を上げる。
そのやり方をこれまで通してきた彼女が、この砦すべてを一気に殲滅しうる魔法など使えるはずがない。
となれば考えられるのは、毒などといった搦め手の手段だが、これもやはり非現実的な手段だと言わざる得ない。
毒の一つだけで全滅してしまうほどずさんな管理ではないだろうし、そもそもそんな強力な毒など自分は持ち合わせていない。
結局、ゲルゴウィアを相手にするには、人も準備も何もかもが足りていないのだ。
(やっぱり、こんな任務には付き合ってられない。何とか王家の隙をついて―――)
そうタバサが思い始めた、その時だった。
「Ar・・・errr・・・」
これまで完全なる沈黙を保っていた漆黒の騎士が、初めて声を発したのだ。
だが初めて耳にする黒騎士のその声は、人の声というよりも、獣のうなり声のような印象をタバサに与えた。
その声にタバサが動揺する中、黒騎士はさらに驚くべき行動に出た。
タバサをこの場に残し、突如として崖下の砦跡へと身を躍らせたのだ。
「なっ!?」
タバサが驚愕する中、黒騎士は四十メイルもの高さを『フライ』も『レビテーション』も用いずに落下し、砦の中へと降り立つ。
身を隠すことなどまるで考慮していない黒騎士の行動に、当然ながら相手も気づいた。
「な、何だ、おま―――」
突然現れた漆黒の甲冑騎士に、近くにいた男が手にする槍を構えようとする。
しかし次の瞬間には黒騎士はその男の首を掴み取り、無造作にボキリとへし折った。
「何だテメェは!!」
「俺らが誰だか分かってんのか?」
仲間を殺されたゲルゴウィアの構成員たちが、一斉に黒騎士へと殺気を向ける。
ならず者たちの獰猛な殺気を一身に受けながら、黒騎士は自身が縊り殺した男の手から、特に装飾もない凡庸な槍を左手に取った。
瞬間、崖上よりその光景を眺めていたタバサは、異様な現象を目撃した。
黒騎士が槍を手にした瞬間、そこを起点として、まるで蜘蛛の巣のように黒い筋が槍全体に幾重にも絡みついていったのだ。
まるで騎士の身を染める暗黒が、そのまま武器にまで浸食していくかのように。
そしてそのような怪現象を顕した黒騎士の左手には、禍々しく光り輝くルーンの文字があった。
山脈の中腹辺りに位置する、太古の戦場の名残を残す砦の跡地。
現在はならず者達が支配するその場所に、今まさに一人の死神が舞い降りていた。
「ひ、ひいぃぃぃぃっ!!?」
「こ、このくそ野郎がぁっ!!」
悲鳴と怒声が響きわたる中、その声を永遠に途絶えさせる黒い影が駆け抜ける。
漆黒に染まった槍をさながら棍のように旋回させ、黒騎士は次々と向かってくるならず者の生命を鮮血の飛沫の中に散らせていった。
駆け抜ける黒騎士の動きに、ゲルゴウィアの構成員たちは全く追随することが出来ない。
それは彼らが弱いということではなく、単純に黒騎士が疾すぎるが故の結果だった。
彼らがその黒騎士の面前に相対した次の瞬間には、目にした者すべてが黒騎士の槍に穿たれ、なぎ払われている。
それはまさしく、これまでの彼らの悪行に死の制裁を加えにきたかのような死神の姿だった。
「あ~ん、こりゃどういうことだぁ?」
死神の姿にならず者達が恐怖に身を怯ませる中、彼らにとってそれに負けず劣らずの畏怖の対象である人物が現れた。
盗賊団ゲルゴウィア頭目、『業火』のジルドベット。
どうしようもない荒くれ者たちを知略と恐怖によって支配するゲルゴウィアの頭領が、ついにその姿を現したのだ。
「何なんだよ、あいつは?」
「わ、分かりません。い、いきなり現れまして・・・」
完全に臆している部下に舌打ちし、ジルドベットは遠巻きに自分の根城に襲撃してきた黒騎士の姿を見る。
その動きは、幾多の戦場を潜り抜け、その分の修羅場も体験して捩じ伏せてきたジルドベットでさえ捉えられるものではなかった。
「すげぇな、オイ。あれ、本当に人間か?」
すでに人外の領域の動きを行う黒騎士に、感心したようにジルドベットは言った。
しかしその様子は、他の団員たちのように恐怖に怯んでいる訳ではないようだった。
「ほれ、お前ら何ボサッとしてんだ。さっさと行けよ」
「か、頭!?け、けどよぉ・・・」
「ったく、ビビっちまったのかよ、情けねぇ。よし、じゃあこうしようぜ。あいつを仕留めた奴には、エキュー金貨3000をくれてやるよ」
ジルドベットの口から出た金額に、団員たちの心が僅かに揺れる。
しかしそれでも、やはり命があっての物種である。
金欲よりも保身が優先し、どうしても前に踏み出すことが出来なかった。
「・・・オイ、あんまりモタモタしてっと、燃やすぞ」
命令を聞こうとしない部下たちにとうとう業を煮やしたジルドベットが、底冷えする声音で告げた。
部下たちはその言葉が決して脅しではないことをよく知っている。
彼の機嫌を損ねた者を、それこそ何の前触れもなく焼き殺す光景を、彼らは何度も見てきたのだ。
その恐怖に押され、団員達は半ばヤケとなって黒騎士へと突っ込んでいく。
それは結局、黒騎士が作る死体の量をまた増やすだけのことでしかなかったが、そうして黒騎士が死体の山を積み上げることに躍起になる様を、ジルドベットはニヤリと笑みを浮かべて見つめていた。
そして自分の身の丈ほどもある鉄の杖を、黒騎士と自分の部下が戦う場へと向けた。
「燃えちまいな」
その一団に向けて、ジルドベットは何の容赦もなく『ファイヤストーム』の呪文を解き放った。
吹き荒れた炎の暴風は、まさしく『業火』の二つ名にふさわしい威力であった。
螺旋して荒れ狂う炎の渦が射線上のすべての物体を溶解させ、消滅させていく。
それには当然、先ほど彼自身が突入させた、彼の部下も含まれていた。
初見にて、黒騎士の動きがまともにやった所で捉えられるものではないと理解したジルドベットは、相手の気を逸らすためと自分の魔法の詠唱時間を稼ぐために、あっさりと自身の部下を捨て駒としたのだ。
「ハッ、どこのどいつか知らねぇが、この俺様に手を出したのが運の尽きだったなぁ、クソ虫がぁっ!!」
炎の嵐が黒騎士へと迫る。
その炎の破壊力は、いかに人外の力を持つ黒騎士といえど、受ければタダでは済まない規模だ。
もはや回避も間に合わぬ眼前に炎の嵐が迫る中、黒騎士は自身が手にする槍を目の前の炎に向けて投擲した。
撃ち出された槍は黒騎士の手を離れた瞬間、音をもはるかに上回る速度に達し、巻き起こす衝撃波で炎の嵐に穴を空けて直進する。
そして槍の矛先は、その射線上に存在したジルドベットの頭をいとも容易く粉砕した。
声など、上がるはずもなかった。
彼は恐らく、自身の死の瞬間まで、自らの勝利を確信していたはずだ。
これまで幾度も王家を欺き、罪無き者たちを苦しめ続けていた『業火』のジルドベットの最期がそれであった。
術者の制御を失った炎の嵐は、黒騎士に届くことなくその寸前で霧散する。
それに一歩遅れる形で、頭の無いジルドベットの身体がゆっくりと倒れた。
「ひ、ひぃ!?お、お頭がぁ!!」
「終わりだ・・・。ここはもうお終いだ!!」
この一団にとっての統制の柱でもあったジルドベットの死に、とうとうならず者達は完全に恐怖に支配された。
もはや何の外聞もなく、我先に黒騎士に背を向けて逃げ出していく。
その背を眺めながら黒騎士は、足元に転がっていた死体から、両手にそれぞれ剣を剥ぎ取る。
途端、先ほどの槍の時と同様に、両の手どちらの剣にも闇が浸食し、その左手のルーンが一層輝きを増した。
「■■■■■■■■ッ!!!!」
もはや人語の域にない魔性の雄叫びを轟かせ、背を向けるならず者の一団に黒騎士は突っ込んでいた。
眼下に広がる光景を、タバサは震えと共に見つめていた。
彼女の心に止むことなく吹き荒れていた無謬の雪風も、今は恐怖の極寒となって彼女の心を支配している。
その光景はまさしく、現世に再現された地獄の景色であった。
砦の至る所で火の手が上がり、吐き気を催さずにはいられない血肉と臓物の異臭。
そこに生命の息吹を保つ者は一人としておらず、打ち捨てられた肉塊となって骸の丘を築いている。
そしてその骸の丘にただ一人で立ち、その身を暗黒と鮮血の赤の二色のみで染め上げて、人外の咆哮を轟かす狂乱の騎士。
それはもはや人にあらず、あらゆる魔性を凌駕し、命の尊厳を踏み砕く殺戮の鬼であった。
ここに至りタバサはようやく、叔父が自分にこの指令を下した意図を理解した。
見せつけるためだ。
自分の復讐を完遂するためには、あの鬼と相対しなければならないと分からせるためだ。
あの鬼と戦うなどと、想像するだけで背筋が凍る。
あれは自分の知略でどうにかなる存在ではない。
人が恐れる闇に巣くい、飲みこまれた者を喰らう魔物なのだ。
人が相対した所で、ただその顎の餌食となるだけ。
そんな恐怖の殺戮者の姿を目に映しながら、ともすれば折れてしまいそうな心を必死に支える事しかタバサには出来なかった。