「……仮眠から目覚めてみれば、何処かねここは一体」
上下も左右も手前も奥も無い、ただただ広いと感じさせるその無間封所の空間で、
少年――佐山・御言は、意識を覚醒させた。
学生にしてはやや大きめの背丈に釣り合いの取れた体格。
白髪の混じったオールバック風の髪型に、母校である尊秋多学園の制服であるブレザーで身を包んだその少年は、現在自分が置かれている状況を確認する。
「……概念空間では無い様だが、現実世界とも言い難い」
佐山の立っているその空間は、およそこの世のものとは思えない様相を呈していた。
まず佐山の目に入ったのは。
否、佐山の姿をその視界に捉えた『モノ』は。
天と地の区別が無いこの無間空間を縦横無尽に埋め尽くしている、無数の『眼球』だった。
人体の眼球をそのまま人間大に等倍したかのような巨大なサイズの目玉が、佐山を取り囲む様にして空間内に無数に存在している。
しかしその位置は、佐山から見て近くも無く遠くも無く。
一種のトリックアートのような錯覚を見る者に与える、不思議な存在感を纏っていた。
その内の一つに触れてみようとして、佐山はそこから一歩を踏み出す。
前へ出した右足が空間を踏みしめ、そこから『歩ける』と言う情報を取得した佐山は、
二歩三歩と歩みを止めず足を動かしながら、そのまま声に出して思考の整理を再開する。
「貘もいないか」
佐山がいつも連れている霊獣の姿も見えない。
仮眠の時には遠くに置いておいたはずの貘だが、
有事の際には定位置である佐山の頭の上か、制服の胸ポケットの中に存在しているはずであった。
が、佐山には今、その姿を確認する事は出来なかった。
慣れた重量感が無い事に若干の違和感を感じつつも、佐山は冷静に考えを進める。
空間を漂う眼球はそんな佐山を目で追うものの、それ以上の行為を仕掛けては来なかった。
「そして何より――新庄君がいないね!」
言うが早いか、佐山はいきなり制服の内ポケットに手を突っ込み、中にあるはずの『あるもの』の所在を確認する。
あった。佐山は瞬速でそれを抜き取ると、自分の顔前――それもかなりの至近距離に展開した。
それは、一枚の写真だった。
汚れないようにラミネート加工されたその写真の中には、ある人物が写りこんでいる。
「ふふ、危うく日課である起床後の礼拝を忘れる所だったよ。私もまだまだ未熟だね新庄君」
写真に写った人物――新庄と呼ばれたその人物の本名は新庄・運切と言う。
腰まで伸びた長髪を持つ中性的な顔つきの新庄は、佐山と同じ尊秋多学園の生徒であった。
そして佐山と同じく『ある機関』に所属しており、双方共に無くてはならない、かけがえの無い存在である。
その名コンビ具合は学園でも機関でも有名であり、変人揃いの佐山の関係者からも満場一致で祝福の声が上がるほどであった。
曰く、『末永くお幸せにですよー。主に先生の見えない所でですけど』
曰く、『今度良い病院紹介するわ。脳外科と精神科と佐山科どれがいい? オススメは断然三番だけど』
曰く、『式には呼ばないでくれよな、絶対! いやホントマジで、勘弁してください』
「絶賛だね新庄君! ああ、写真からでも君の愛が伝わってくる様だよ。直に触れられないのが残念だ……」
そう言って佐山が人差し指で撫で回している写真の中の新庄は、変わらずの無表情。
写真を撮られている事に全く気づいていない、不自然なまでの自然体は表情どころか目線にまで表われている。
宙を進む新庄の目線が行き着く先は、湿気を防ぐために防水加工を施された壁掛け時計へと伸びている。
その時計には明朝体のプリント文字で、小さくこう書かれていた。
『祝・女子大浴場 開場一周年記念贈呈品 ※持ち出し厳禁』
よく見ると写真の中の新庄は、女性用の下着を着けたままの状態で椅子に座っていた。
そしてその手には、IAI製スポーツドリンク『エネル減(コーンスープ味)』が握られている。
「ご老体から押収した光学迷彩付き接地式超小型カメラ『最前線くん』とも、長い付き合いになる……」
佐山は感慨深げにしみじみとそう口にしながら、礼拝の時間を終えた。
色々と考えつつもかなりの歩を進めた佐山であったが、いざ周りを見渡してみても風景は依然として変わりは無かった。
その後も様々な思考を巡らせてみたが、事態が好転する事は無く。
そして佐山はそこで、ある結論に達した。
ふむ と一言つき、手を打ちながらに至ったその結論は、
「つまりこれは……夢だね?」
夢。そう結論を出した佐山は刹那の速さで他の全ての思考を捨て去り、力の限り叫んだ。
「新庄君ー!! 裸にYシャツ1枚の姿で私の胸に飛び込んでくる新庄君ー!!」
かなりの声量を込められて叫ばれたその言葉は四方八方に響き渡り空間を震わせたが、それだけだ。
三秒待って、佐山ははて と首をかしげ、
「……おかしい。私の夢ならばここで間髪いれずに新庄君が大量発生して私を取り囲むはずなのだが
……気合が足りなかったかね?」
最後に投げかけた佐山の問いに答える者は、誰一人としていない。
空間に浮かぶ無数の眼球も、佐山が顔を向ける度に目を合わすまいと不自然に視線を明後日の方向に向けていた。
「では今一度」
「その必要はありませんわ」
再度の欲望を吐き出すべく佐山が息を吸い込もうとしたその時、
いきなり佐山の近くの空間から声が生まれた。
佐山が特に驚いた様子も無く声の方向に顔を向けると同時、
佐山の視線の先の空間に突然、引き裂きながらこじ開けたような、粗い楕円形の穴が出現した。
そして、その歪な円の上方と下方に紫色のリボンをつけて開かれたその穴から、
一人の女性がゆっくりと、しかし優雅な足取りで現れた。
「誰だね貴様。……新庄君ではないようだが」
「ご挨拶が遅れました。
私は紫。八雲・紫と申す者ですわ」
紫と名乗ったその人物は、長い金髪に白い帽子を乗せ、紫色を基調としたドレスに身を包んだ女性だった。
手に持った日傘を頭上に掲げゆっくりと歩いてきた紫は、佐山の正面まで来ると佐山に対して一礼する。
その礼を受けた佐山も、姿勢を正して一礼を返した。
対面が終わり、二人の周りが静寂に包まれる。
きっちり十秒経過した後、ふむ と言う前置きを置いて佐山が言葉を発し、その静寂を破壊した。
「新庄君ー!! 裸にYシャツ1枚の姿で私の胸に飛び込んでくる新庄君ー!!」
「えええ!? まだ続けるのですかそれ!?」
紫が慌てて佐山のシャウトを止めると、佐山が不満そうな顔と声で抗議をした。
「何かね一体。私の目下の任務はこの佐山インザ夢空間に新庄君を召喚する事なのだよ裸Yシャツで!!
多ければ多いほどよろしい何故なら夢なのだから。わかったら部外者は退いていたまえ」
「ここは貴方の夢でも無いし新庄氏は召喚出来ませんし裸Yシャツも着せませんし人間は増えません。わかったら私の話を聞きなさい」
紫が口調を崩して気だるそうに諭すと、佐山はしぶしぶと召喚儀式を止めて紫と視線を合わせる。
お互いが視線を合わせたままの状態が続いた後、今度も佐山から言を切り出した。
「新庄君を知っている様子だが、どういった塩梅かね?」
「変わり無く無事です。……が、ここにはいません」
「私の夢では無いとするとここは何かね? 納得の行く説明を要求するが」
「ここは空間と空間の境界の空間。正式な名称は教えられないのでスキマとでも呼んでくださいな」
「なぜ私はスキマとやらにいる? 私は尊秋多学園寮の自室で仮眠を取っていたはずなのだが」
「私が招き入れました。このスキマは私が作り出したモノですから」
「……貴様は人間――LOW-G所属の者か?」
「貴方がLOW-Gと呼ぶ貴方の世界に属している者ではございません。別の世界の住人です」
そして紫は言葉を繋ぎ、
「貴方の世界で起きている騒動に被せて言うなら、こうでしょうか。
……私はLOW-Gではない、違うGの住人です、と」
佐山が聞く問いに間を置く事無く紫は答えた。
ここまで聞いて佐山は押し黙り、少ししてこう切り出した。
「色々と尋問したい事もあるが、先程貴様はこう言ったな? 『私の話を聞け』と。
聞いてやるから次は貴様から話をしてもらおうか」
「……私の名前は八雲・紫だとも、先程言ったつもりでしたが?」
「残念ながら私のいた世界では新庄君以外は全て『貴様』で通じるのだよ。
そちらの流儀に合わせて欲しくば、まず信頼出来る情報を開示したまえ」
視線を外さずに、務めて自然体で切り出す佐山に紫は嘆息し、
やがて再度、口を開いた。
「わかりました。後で色々と説明し合うとして、
まずは単刀直入に――願いましょう」
紫は出会い頭の会釈とは違う、頭を深く下げた礼節作法に則った一礼を佐山に行った。
三秒かけて頭を元の位置までゆっくりと上げた紫の顔には、笑みがあった。
その表情は、佐山がLOW-Gで行っていたある『交渉』のさなかに幾度も見せ付けられた、対峙した交渉相手に浮かんでいた表情。
『信用してはならない』と佐山の持つ直感と経験が自身に告げる、含みのある笑みだった。
そんな疑惑の表情を崩さずに、紫は二言を繋げて佐山に告げる。
「機密組織UCAT所属、佐山・御言率いる『全竜交渉』関係者に……私達の世界を救って欲しいのです」
「私達の世界。
私達のG。
全竜交渉と言う物語の平行線上にある幻想のG――Ex-Gを」