幻想郷の何処かに群生するその竹林は、住人の間からは迷いの竹林と呼ばれていた。
正確な広さは不明であり、今となっては測量に望む住人が出ると言う事は間違っても起きない。
そんな未知の面積を持つ竹林が迷いの竹林と呼ばれる所以は、至極簡単であった。
この竹林に足を踏み入れた人間はみな迷い、彷徨い、心身共に絶望を味わうまで抜け出せないからだ。
間違って入る者はいても、
間違っても出口を見つける事は出来ない。
そんな危険地帯の代名詞として噂されている迷いの竹林だったが、迷い人の明確な死亡が確認されたケースは非常に少なかった。
ある者はさんざん迷ったあげく、気づいたら入り口に戻っていたと言い。
ある者は竹林の中で見たことも無い屋敷を見つけ、気づいたらそれまでの記憶を失い入り口に立っていたと言い。
ある者は人間の子供ほどの大きさの妖怪ウサギを追いかけていたら、脱出できたと言い、
ある者は竹林で不思議な少女に出会い、入り口まで護衛付きで案内されたと言う。
不運にも死体が出ず帰らぬ人となった者は神隠しか妖怪に食われたか、どちからだとされている。
いずれにせよ、迷いの竹林は幻想郷に住む者なら一度は聞いた事のある、いわく付きの場所となっていた。
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「……もうすぐ陽が沈むな……」
そんな迷いの竹林の、中心部分に近く位置する開けた場所。
背の長い竹々に囲まれ、夕陽の放つ橙光の大部分が遮られた薄暗いその空間に、一人の少女が立っていた。
長い白髪を飾布で縛り紅白の混じるもんぺ袴を着たその少女は、竹葉で覆われた空を見上げながら呟いた。
少女はその長身と言える背丈をゆうに超える長さの竹に背を預け、両手を袴のポケットに突っ込み大きな動きを見せないでいる。
「今日は迷い人が特に多かったな。珍妙な格好してる奴がほとんどだったが……なんだったんだろうか」
少女の名前は、藤原妹紅。
迷いの竹林に隠れ住む少女にして、竹林で遭難した者の案内役を生業とする、噂話の人物本人だった。
幻想郷の生まれではない妹紅だったが、ある事件から各地を転々としながら幻想郷に身を隠してからは、
この竹林を自らの生き場として自給自足の生活を送っていた。
流浪の民としての生活が長かった為に他者との関係を作る事を苦手とする妹紅は、
迷い人を案内する時も必要以上の会話をせず、送り届けたら早々とその姿を消してしまう。
故に住人からは人間か妖怪の区別がされぬまま、徐々に幸運な『現象』と言う存在として確立をされてきていた。
(現象ねぇ……ま、あれこれ余計に詮索されるよりはよっぽどマシよ)
その事について妹紅は、事実の隠遁と言う評価に対し喜びを感じると同時に、
存在の隠蔽と言う観点に対して悲しみを感じていた。
(よそうよそう、考えるのはよそう。いくら考えても答えは出ないし)
(いくら考えても、後悔でしかない)
(いくら悔やんでも……もう元には戻れない)
妹紅は思考をかき消すようにして首を振り、落ちかけていたその頭を向き直して視線を前に伸ばした。
その視界は先刻より明らかに狭く、伸びる竹々の本数が視認出来る限りでは明らかに減っている。
いつの間にか、陽が完全に落ちようとしていた。
「さて、と……たまには山菜でも探してみようかな。別に食べなくても死にはしないけど」
誰とも無くそう呟いて、妹紅はその場から立ち去ろうともたれていた竹から身を起こす。
しなった竹が反動で妹紅に対してその身を近づけたが、妹紅はそれを片腕一本で止めて位置を固定した。
その時、顔の高さに伸びていた小枝が空間を走ると同時に、妹紅の右頬を掠め浅く切り裂いた。
鋭利な刃物と化した枝に切られた箇所には細い線が引かれ、一瞬の時間を置いて赤い液体が流れ出す。
「……ふん」
妹紅は指す様な痛みを覚えるが、傷跡に視線を送るとつまらなさそうに息をついた。
その一息の刹那をもって、少量の出血が蒸発したように消え去り、赤線の傷跡は逆再生の如く色を消失して完全に塞がれた。
妹紅は一瞬で完治した頬の傷に手を当てて二、三度撫でると、
まるでその傷を惜しむように、消えた傷口に対して不快感を露にした。
(……帰ろう……)
想いが顔に出てしまい哀に歪んだ表情を隠すようにして、妹紅はその場を離れようとする。
寝倉に帰り、憂鬱な時を日付と共に清算しようと足をのばした、
その時だった。
「……何だ?」
妹紅は立ち止まり、おもむろに背後に振り向く。
己の背後は変わらぬ竹々からなる空間であり、その視野は狭く、奥は闇で彩られている。
しかし妹紅が最初に感じた違和感は、視覚から生まれるものでは無かった。
(人の声……)
聴覚が竹藪の奥から響く音を感じ取り、妹紅に停止の命令を下す。
(ん?)
閉塞空間に絶望しかけている人間……では無いと、妹紅は思う。
泥酔した人間……では無いと、妹紅は思う。
妖怪ウサギを見つけ興奮している人間……でも無いと、妹紅は思った。
その理由として、彼らはそれぞれがそれぞれの理由で、かなり程度の差こそあれど
意味のある言葉を叫びながら現れる事が常であったが、
「迷子の迷子のぉ~マーライオンん~、あなたのぉおうちわぁあああ……タマセクぅぅぅ」
(……んんんん~~~!?)
強烈なシャウトをかけて聞こえてくるその声は、妹紅が聴く上で完全に意味不明の大音量で近づいてきたのだった。
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「おうちを聞いても海の底ぉ、なまえを聞いても水嘔吐~」
理解不能の呪文を唱えながら妹紅の前に姿を現したそれは、長身の男の姿をしていた。
白いスーツに身を包んだその男は、金髪を短く刈った頭を低くし、手に持った大型の剣の柄をマイク代わりにして熱唱している。
それでも歩みを止めずに近づいてくるその男に対して、妹紅はコミュニケーションを取るのも忘れて呆然としていた。
妖怪の類かと一瞬考えたが、決め付けるのは人間であるかどうかを確認してからでも遅くないと考え直す。
もし人間だった場合、この時間に竹林を彷徨い歩く事は危険だと妹紅はよく知っていた。
「キ、メ、ラぁのおまわりさん。こまってしまってぇぇぇぇぇ……」
なおも経らしき言葉を口にするその男に対し、妹紅は意を決して話しかけた。
「なぁ……あんた」
「ワンニャーガウグルキーワオーンウホッホギョッギョーケーン!!」
「うぉああああああああああ!?」
妹紅が声をかけた瞬間、
目を見開きながら大絶叫を上げる男の声量をモロに受け、本気で驚きながら妹紅は尻餅をつきながら後ずさった。
「ワンニャーガウグルキーワオーンウホッホギョッギョーケーン……と、誰だお前」
きっちり二回言い切り余韻を含ませながら握り拳を決めた男は、程無くして眼下の妹紅に気づく。
「………………」
「もしもーし、聞こえてやがりますかこの野郎」
「………い……」
「い?」
「いきなりなにするのよこの馬鹿野郎ー!!」
ショックから立ち直った妹紅は平然と聞いてくるその男に対して抗議の意を込めて怒鳴り返した。
「なんだテメェ、俺様の会心の一曲に対してなんか文句あんのかコラ」
「曲!? 今のが歌と言い張るつもり!? 何それ宇宙人との交信じゃないのまともな言語使いなさいよこの馬鹿!!」
「あァ!? 今のが日本語に聞こえないってのかこのガキ。テメェどこ中だよ、逆さに振るぞ」
「追いはぎかー!!」
頭に手を乗せて乱暴に掴んでくる男の手を払いのけ、妹紅は急ぎ立ち上がる。
土の付いた袴を手で払い、妹紅は警戒の色を強めながら距離を開けつつ聞いた。
「で、あなた何? 人間?」
「まぁそんなようなもんだ。説明すると長いからしねぇ」
「……で、なんであなたこんな所にいるの?」
「竹が俺を呼んでいたからだ」
「…………こんな時間までなにしてたの?」
「寝て起きて歌って斬って寝て歌って斬って寝て寝て寝てた」
「………………あなたもしかして馬鹿なんじゃないの?」
心底面倒くさそうに妹紅が小声で聞くと、男は額に青筋を立てて怒鳴り返してきた。
「なんだとこの野郎、テメェなんかあれだ。そうあれだよあれ……ほら、なんだ……馬鹿野郎!!」
「やだもうほんと面倒くさいコイツ」
妹紅が身体を半ば男の逆側に捻りつつ全身で帰りたいオーラを発しながら、一応といった感じで聞いてやる。
「あなたは竹林で迷ってる訳じゃあ無いのね?」
「俺がこの程度の竹藪に負ける男だとでも思ってんのか。失礼極まり無い奴だなオメェ」
「あっそう。じゃあさようなら」
全てを無かった事にして踵を返す妹紅だったが、
帰路の一歩目を踏み出す前に後ろから襟を捕まれた。
「まぁ待てよ」
「はなして」
「落ち着きの無ぇガキに、これをくれてやろう」
男の手を振りほどくべく身をよじる妹紅の手に、中指ほどの大きさの板切れのようなものが差し込まれた。
訳もわからず妹紅が不審そうな目を男に向けると、男は自分の手を指で口に放り込むような動作を取りつつ、
「なんだ、ガムも知らねぇのか? 食ってみろ、美味いから」
「……がむ?」
妹紅の知らない言葉であったが、どうやら携帯式の固形食糧のようだった。
怪しさ全開であったが、自分の体質と好奇心が勝り、美味いと言う言葉が後押しして躊躇いがちに口に入れ、一気に噛み、
「多分だけどな」
むせた。
今までに経験した事の無い味が妹紅の舌を襲い、口に入ったものを慌てて外へと吐き出す。
ガムが口から出た後も今までに経験した事の無い後味が妹紅の口内を襲い、しばらく声にならない声を上げてのたうち回った。
「……『痴漢者トーマス禁煙ガム・魅惑の七色焼肉フレーバー』か。
シークレットでプルコギ果肉入りとか相変わらず何考えてんだウチのおめでたパパは」
「あんたが何考えてんのよ!!」
なんとかダメージから復帰した妹紅が、未だ息荒く上下する上半身を片手で押さえつつ、よろよろと立ち上がった。
「どうだった?」
「死ぬかと思ったわ」
「天国に行きかけた所で、ありがたい体験をくれてやった俺様の話に付き合いつつ出口まで付き合いやがれ。迷ったわけじゃねぇぞ?」
「連れてってあげるからもう喋らないで」
げんなりとして妹紅は言うが、聞き忘れていた事があったのを思い出した。
「あなた、名前は?」
「ああ? ……仕方ねぇ、特別サービスだ。一度しか言わないからよく聞けよ?
俺の名前は熱田・雪人。全てにおいてハイセンスな、2nd-Gの剣神様だ」
人生のブラックリストに載せるべく聞いた妹紅に対し、
男――熱田は、ドヤ顔でそう答えた。