2-(1)
夢。
夢を見ている。
二年前の体育祭。
頭上に広がる青空はどこまでも抜けていくように高くて。
額を伝う汗が首筋へと流れていく。
つないだ手と手から伝わる皆の鼓動が共鳴する。
ひとつの大きな生命のように。
どくん、と跳ねる心。
私たちの、決意。
走り切る、覚悟。
プラスチックのバトンに託された思いのすべてが私に届く、その時。
その刹那を。
今か今かと待ちわびる。
音の領域を歓声だけが占めた世界の中で。
アンカーのバトンが今、私の掌に届いた―――
ものの見方や考える視点を少し変えただけで、気の持ちようは変わってくる。
その変わり具合に色を付けて誰にも分かりやすく表現しようとするのならば。
私にとってそれは、陽光を照り返すシャボン玉がもっともイメージしやすいもののひとつだ。
もっとも。
私の視界に映るそれはもちろんシャボン玉ではなくって。
早い朝特有のもやにけぶる太陽を背にした、どこかのお寺の五重塔で。
ランニングシューズが踏みしめていくものは、確かに、私たちの町にだってあるアスファルトと、その構造や成分に大差はないはずなのに。
目に映るいつもと違う風景が、非日常の光景として知覚されたことをもってして。
早朝ランニングといういつもと変わらない習慣を営む私に、ようやく、今が修学旅行中なんだという現実を知らせてくれたのだった。
「―なんか、うれしそうだね」
すぐ隣から届く、聞きなれた声。
登校前のランニング中、両耳をふさぐお気に入りのイヤフォンとウォークマンは今はなくって。
変わりに、物心ついたときからを互いに共有する幼馴染の、規則正しい呼吸音が私のリズムを作っていく。
「―圭ちゃん、つきあわせちゃってごめんね」
「―なんのなんの。あたしも部活の朝練、出るとこだったしね。ちょうど良かったって」
「―でも」
「―それに、フリーランのしずかに伴走できる人なんて、あたしを置いていないっしょ」
佐野圭子ちゃん。
幼馴染、である。
どれくらい幼い頃からの馴染であるのかといえば、それこそ、”どれくらい”などという秤を私たちの時系列のどこに持っていけばいいのかさえあやふやだ。
しかしてその不確かさなんていうものは、私と圭ちゃんのいわゆる幼馴染歴を語る上では“野暮”というもので。
通ってきた学校も。
持っている友達も。
進んでいるその道のどれをとったって、交わることの少ない私たちだったけれど。
こんなふうに、ランニング中に呼吸を乱すことなく会話できるくらいに、私たちは幼馴染だったのだ。
「―あ、またにやけた」
「―に、にやけてなんかないよぉ」
「―いーやにやけてたね。ゆるゆるほっぺにたれたれ瞼。昼寝中のとめさんみたい」
「―と、とめさんはそんなに目たれてないもんっ」
「―飼い主は犬に似るって、ほんとのことだったんだねー」
「―逆だよ、圭ちゃん…」
通りを駆け抜けていく。
深紅の格子がはめどられた町屋が立ち並ぶ。
アスファルトとは違う感触で返ってくる石畳の反発。
この道が千年の時を刻んできたのだと思うと、なんだかそれだけでわくわくする。
目前に迫る階段を視界に収め、予定調和のように顔を見合わせた私と圭ちゃんは。
互いにシンクロした一拍の手拍子を合図に、両足の回転数を上げたのだった。
*
「―ごーっるっ」
感覚的に捉えるところ、約三十段ほどの石階段を駆け上り、ゴールテープを切るようにフィニッシュする私と圭ちゃん。
途端、目を差す朝日がまぶしくて、思わず目を閉じる。
階段ダッシュで流石に上がった呼吸を整えがてら、歩いてクールダウン。
そうしてたどり着いたのは、
「―鴨川だぁ」
「―鴨川だねぇ」
京の都を南北に流れる鴨川の河川敷だった。
「…気持ちいいね、圭ちゃん」
川のせせらぎが生んだそよ風に髪を遊ばせて、私。
「…なんかそれ、じじむさいよ、しずか」
嵐山から顔をのぞかせたお日様に目を細めて、圭ちゃん。
「…なんか、このまんま寝ちゃいそう」
「ふふ、そうだね。あったかいもんねぇ」
「まぁ、それもあるけど。昨夜は隣がうるさかったし」
「隣って…ああ、唯たち」
「ほんっと軽音部って元気だよね。あのどたばたからすると、まくら投げでもやってたのかな?」
「私はもう寝てたから、あんまり覚えてないけど…でも、途中で突然静かになったような…」
「ああ、それ、さわちゃんが怒鳴りこんできたからだよ」
「さ、さわ子先生が?」
「うん、“はやくねなさいっ、ぴしゃっ”って感じで」
「そうだったんだ…」
「そのあとまたうるさかったけどね」
「に、二回戦?」
「大方、りっちゃんあたりがもう一回って言い出して、ムギがよしきたーって感じじゃない?」
「…圭ちゃん、まるで見てきたように…」
「ムギのスイングがまたいい角度で決まるんだわこれがっ」
「やっぱり乱入してるっ?」
程度の良い筋肉の緊張。
スプリントで刺激された足裏から上昇した血液が頭のてっぺんまで巡る。
全身を上向けて大きく伸びをして。
私の意識は完全に覚醒した。
「…にしても、」
伸びをする私の様子をひとしきり眺めて、圭ちゃん。
「信代たち、全然来ないね」
修学旅行二日目の朝。
桜が丘女子高等学校三年生百八十余名、そのおよそ四分の一を占める運動部員たちは、旅行出発前の示し合わせにより、日の出前の五時AM、宿舎である旅館の玄関前に集結した。
各部が新体制となって、早一月。
三年生にとっては部活生活最後の年。
間近に控えた県総体を、あるものはさらなる高みへと続くインターハイを見据えて。
あるものは部活生活の集大成をぶつけるラストステージとして捉えて、修学旅行中だってその集中力は途切れない。
桜高女子のモットーは“初志貫徹“。
“徹頭徹尾”。
“豪華絢爛”。
“桜が丘の女子たるもの、初なる志を徹して貫き、雷桜の如く絢爛豪華に舞い咲かん”
唱和する部員たちに私が混ざっていたのは、やはり習慣というものは恐ろしい、ということくらいしか理由が思いつかなかったのだけれど。
これも確かに、修学旅行の一つの楽しみだったんだと。
朝日にきらめく鴨川の流れを見て、そんなことを思う。
「まぁ、エリに至ってはしょうがないかもしれないけど」そう苦笑交じりに言う圭ちゃんの言葉に、今朝の一こまを振り返る。
“修学旅行中の運動部の朝練”という、“夜中の騒ぎを注意されて廊下に正座”くらいの定番メニューを億劫がっていたバレー部員であるところの瀧エリちゃんだったけれど。
『―ルゥァアストスパァアトォーッ』
『―ええっ、もうっ?』
ご近所迷惑も顧みない(しかもここは私たちの町でさえないのだ)朝のしじまを突き破る叫びとともにスタートダッシュしたエリちゃんの背中を追い抜いたのが、体感するところ十分前くらいの話。
『―玄関をスタートしてからあんたたちに抜かれるまで、あたしは一位であり続けた。それだけで本望よ―』
そんなセリフをいい顔で言ってのけたエリちゃんは、日も差さない薄暗い町屋通りでひときわ輝いて見えた。
だから、っていうわけじゃないけれど。
「―そうでもないよ」
聞こえるのだ。
「え?」と聞き返す圭ちゃんに、自然、私の口元はほころんだ。
千年を刻む石畳に、新しい時を刻む音が、聞こえるのだ。
もう一度そうでもないよ、と繰り返した私は。
河川敷で予定されているメニューに備えて、オリジナルのトレーニングサイクルであるところのストレッチを行う。
視界の隅で肩をすくめる幼馴染の横で。
石階段を登り切った仲間たちの息遣いが聞こえた。
*
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」両手を膝につけて呼吸を整えようとしているアカネちゃんの隣で、
「もっ、し、しずかたち、は、速すぎるよっ」額の汗をぬぐう潮ちゃんの横で、
「なんなのあの階段っ」腰に手を当てて背後の石段をにらみつける三花ちゃんの前で、
「が、合宿の朝練よか、きっついっ」歩いてクールダウンする信代ちゃんのその先で、
「なめてたっ、京都なめてたっ」頭を抱えて悔しがる夏香ちゃんの後ろで、
「やるな京都っ」
「やるな鴨川っ」肩を組んで敵を称賛する姫子ちゃんと春子ちゃんの姿があった。
まだまだ余裕のありそうな、三年二組が誇る運動神経の塊な人たちの、すぐ後ろ。
「…」呼吸を整える間も表情の動かないいちごちゃんの隣で、
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、ぁぅっ」打ち上げられた金魚のように口をパクパクさせるわじまきちゃんの横で、
「つ、つるっ、全身がつるっ」息も絶え絶えに膝まづく慶子ちゃんの背に、
「つ、つるのはっ、足だけで、十分、だよぉ」自身の背を預けるとし美ちゃん、そして、
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…ぅ、ぅきょぇっ」ひっくり返ったカエルのような声を出しているエリちゃんだった。
他の同級生たちも、状況は似たり寄ったり。
朝練の次のステージへは、もうワンクッション必要のようだったけれど。
「―よっしっ。それじゃあみんなー、ストレッチからはじめよっかっ」
運動部を統括する任を負う体育局部長であるところの信代ちゃんが音頭をとる。
フィジカルトレーニングに必要な要素である、負荷の継続性をよく分かっている。
まだ少し苦しそうないちごちゃんとペアを組んでストレッチをする。
クールダウンでふきだした汗で少し湿った背中同士をくっつけて、まずは私がいちごちゃんを背負う。
「―やっぱり、速いね、しずか」
次は、いちごちゃんの番。
「―こんなに、軽いのに」
「―そ、そんなこと…い、いたいっ、いたいよっいちごちゃんっおろしてぇっ」
なにか怒っていらっしゃるっ?
周囲を包む笑い声をよそに、信代ちゃんの練習メニュー指示は着々と進んでいく。
リズムスキップ。
ダッシュ。
ジャンプタッチからのダッシュ。
クロスステップ。
バックダッシュ―。
「―よっし、今日はここまでっ。それじゃあみんな」
おつかれさまでしたーっ
声をそろえる。
運動部特有の終わりのあいさつと一緒に、拍手。
ハイタッチしながら、みんなで朝練一回目の打ち上げ。
「さあて。それでは戻りましょうか我らが本部へ。戻り方は木下先輩、ご指示をお願いします」
「ええっ?わ、私っ?」
「トラックアンドフィールドの申し子が何をいまさら」
「えっ?えっ?」
「お、お願いだからしずか、きついのはやめてね?ね?」
「エリちゃん、そんな涙目で見つめられてもっ?」
「気にするなしずか。一発激しいのでいこっ」
「な、なっちゃん…。えと、じゃあ、お言葉に甘えて…」
私の出発前の予定メニューでいい、かな?
そうして提案した、清水さんの赤鳥居にタッチしてから旅館へダッシュする、というメニューのおかげで。
その日予定していた班別行動中に足をつった友達が続出したことは、また別のお話。
思いを託すのがバトンなら。
その思いを握って走るのが私なら。
止まってなんかいられない。
後ろになんかいられない。
誰よりも速く。
誰よりも先に。
ただ、なによりも、その先に。
走れ。