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あの頃は楽しかった
だからね
これからもきっと楽しいよ
レム睡眠、という睡眠用語がある。
“桜高きっての才媛”という肩書を恣にしている砂原よしみちゃん曰く、
『―レムス移民?なんだしずか、いつの間に民族歴史学を専攻する気になったんだ?』
しかもこんな高等教育の途上で…と、最初こそ訝しげであったものの。
勉強音痴な私にしては珍しい問いかけだったたことが災いしたのか、よしみちゃんは読みかけのハードカバーをぱたんと閉じると。
身体ごと私に向き直りながら、おもむろに取り出した眼鏡をかけて、瞬きを一つ。
スクウェアのツーポイントフレームはシンプルなシルバー。
通称“よしみプロフェッサーモード”が発動された瞬間だった。
『―まずもって、日本の社会学においても民族集団についての研究はようやく増えてきたところなんだ。特に千九百八十年代半ば頃から注目されるようになったのが“ヤンキー”という民族集団でな?語源は定かではないけれど、米国において“エスキモー”がみずからを“イヌイット”と呼びかえたように、“ヤンキー”も彼ら自身によって提唱されはじめた呼称であると推察されているんだ。皮膚や眼球の色はほかのモンゴリアンとかわりはない。けれど頭髪の色は黒色はほとんどみられず、赤みがかった茶褐色がもっとも多い。また、モンゴリアンとしては極めて珍しいことに金髪が混在しているケースが少なくない。加えて、男性を中心として“パンチパーマ”と称される堅く縮れた毛質をもつ者が多い…。この点、長髪直毛を特徴とする少数民族“サーファー”とは対照的で…』
私が目と口を三角にして抗議したのは言うまでもない。
プロフェッサーモードのよしみちゃんを元に戻すのは文字通り骨の折れる作業なのだけれど。
この時ばかりは私の剣幕に我を取り戻したのか(…相手の目と口が三角になれば、誰だって正気を取り戻すだろうけれど…っていうか自分の正気を疑うけれど…)、
『わかったっ、わかったっ。私が悪かったっ。だからもう目と口を三角にするのはやめろっ。それ以上三角にしてたらデフォ絵がひどいことになるぞっ?』
よく分からないことを言うよしみちゃんである。
『…それで、レム睡眠、だったか?』気を取り直したように咳払いを一つついて、よしみちゃん。
『確か、シカゴ大のクライトマンとアゼリンスキーの共同研究によって提唱された睡眠用語だな。睡眠中の状態のひとつで、“身体は眠っているのに、脳が活動している”ってやつ。夢を見るのはこのレム睡眠中であることが多く、この期間に覚醒した場合、夢の内容を覚えていることが多いらしいぞ?』
―まあ私に言わせれば、睡眠用語、っていう単語語自体が、なんだか夢見がちな言い方だけどな
そんなちょっと呆れたふうな。
苦笑いをともなったよしみちゃんの言葉をすぐ耳元で聞いていたように感じて。
かしゃっ
「…ん…」
そこで目が覚めた。
*
眠気眼を指でこする。
よしみちゃんと、ついさっきまでおしゃべりしていた気がする。
話題は、なんだっけ…たしか、ヤンキーさんとサーファーさんが親戚だとか何とか―
かしゃっ
「わっ」
まぶしいっ?
「―あちゃ、フラッシュたいちった」
「???」
「ごーめんしずかっ。でも、おかげさまで起きぬけのしずか、げーっとっ」
グーサインを突き出したほうとは逆の手で握られるそれは、悪戯っ子の笑みを浮かべたメガネっ娘とは不釣り合いなほど無骨な一眼レフカメラ。
「ち、ちずる?」
島ちずる。
桜高写真部きってのホープとは彼女本人の談である。
「エリとアカネと圭子も撮ったし…。あとは軽音部の面子からクラス全員制覇しますかっ」
「…寝顔、撮ったの?」
「良く寝てたからねー」
「…はんざいだよ?」
「寝るほうが悪いっ」
びしぃ
「それもあたしの前で寝るなんて、寝顔を撮って飾って送ってってお願いされてるようなもんだよ」
…どこに送るつもりなのか気になるけれど。
とっっても気になるけれど。
ここは敢えて突っ込むまい。
藪をつついて蛇が出てくるのは、何も今回に始まったことではないのだから…。
「んん?どうしたのしずか…あ、さてはこの写真の送り先が気になって仕方がないんじゃない?」
「そ、そんなことないよっ」
「あっ、そのうろたえてる感じ、すっごくいい感じっ」
かしゃっ、とシャッター音。
相変わらずマイペースな私の親友である。
自分の琴線に触れた瞬間は、TPOに関わらずシャッターを切る生粋のフォトグラファー。
その腕前は小学校のころから培われてきたものらしく、桜高写真部に入部してからはいろんなところでいろんな賞を獲ってきている。
もっとも当の本人にしてみれば、表彰とかそういう周りからの評価には全く頓着が無いようで。
被写体の一挙手一投足を、まるでその時間を切り取ったかのように写真に収めてしまう。
そんなちずるが一番得意とするのが、動いている被写体、だった。
「んーっ。走ってるときのしずかもいいけどさー。やっぱ、こんなふうにしていつもあたふたしてるしずかもいいよねっ」
「い、いつもあたふたしてないもんっ」
どうやらその得意には、私も一役買ってしまっていたようで…。
陸上と写真。
そんな動的なことと静的なことを結びつけたのが。
彼女の持つ、ごつっとしたこの真っ黒いデジタル一眼レフカメラだった。
知り合った当時からはもちろんとして、現在の私たちに至るまでに数度モデルチェンジをしたそれは。
今となっては世界最高数値である三十六とんで三メガピクセルの有効画素数を実現したセンサー搭載の最新モデルである。
「そのふくれっ面もいいねーっ」
かしゃっ
「…」
「あっははー…。ま、トラックをスパイクでかっ飛ばすしずかも、最近はとんと御無沙汰だしねー」
「…ちずる」
「けどさ」
モードダイヤルを調節しながら、液晶画面を覗きこむ。
フォーカスリングを回しながら。
静止画として写った私は、どんな表情をしているのだろう。
ちずるのファインダーにフォーカスされた、今の私は―。
「被写体が逃げるわけじゃないしね」
「…え?」
「んふふー」
窓から差し込んできていた西日を、ちずるの形のいいおでこが淡く照り返している。
飴色に染まった親友の柔和な表情は、なぜだか、私の心を軽くしてくれた。
そんな気がして。
「…ちずる」
「ん?」
「…顔、気持ち悪いよ」
「な、なんですとーっ?」
自分の顔をぐりぐりと手もみするちずるをひとしきり眺め。
はたと気づく。
「…なんだか静かだね…」
「え?ああ、そりゃあ」
「みんな寝てるからね」ウィンクと共にささやかれた言葉には、これから皆の寝顔を許可なく撮影するという少しの悪意と。
この三日間の旅の疲れへの労いが含まれているようで。
「…旅が、終わるんだね」
ふと、溜息混じりのそんな言葉が口を衝いて出ていた。
「ん」とカメラを下ろしたちずるは車窓へと目をやると「なんだかしんみりしちゃうね」と感傷に浸る。
車外を流れていく知らない風景。
瞬きの間に後ろへと遠ざかっていくオレンジ色の景色に。
あっという間だった修学旅行の日々が、なんだか重なっていくように思えて。
ちずるの言うとおり、なんだか、しんみり。
「…あ、そうだしずか」
「…なに?」
「見る?見る?」
「え?」
「ほら、あたしのお役目は記録係りだからさ。こんなんでも一応、卒アルに載せるための写真とかも撮ってるんだよ」
これなんか我ながら傑作だよー?
そんなふうに目とおでこ(は余計か)を光らせるちずるの手元を覗きこんで。
一眼レフに収録された、私たちの修学旅行の一こまを見るたびに。
一瞬一瞬の感情の機微が、ダイレクトに伝わってくる。
新幹線の集合にまとめて遅れそうになって走ってくる軽音部の四人とか。
出発式であいさつするさわ子先生の横顔とか。
新幹線でトランプする和たちとか。
バスの中のゴミを拾ういちごちゃんとか。
大食い競争している春子ちゃんと信代ちゃんとか。
旅館のロビーで語り合うまめちゃんと多恵ちゃんとか。
玄関で再会を喜び合う二組の皆とか。
見ているだけで伝わってくる。
聞こえてくる、皆の楽しい笑い声。
素敵な、楽しさいっぱいの旅の思い出。
「―また」
「ん?」
「また、こようね」
「もっちろんっ…と、その前に」
「え?」
大事な任務必ず完遂してみせますですっ
そう、いい顔で宣言したちずるは自慢の相棒をシャッターポジションで固定すると。
二組全員の寝顔を撮影するべく、機敏な動きで高速走行中の新幹線車内を縦横無尽に動き回るのだった。
無許可撮影に憤慨した一部のクラスメイトにより、写真部の某ホープが、そのフォトグラファー生命に終止符を打たれそうになったのは、また別のお話し。
あの頃は楽しかった
だからね
これからもきっと楽しいよ