雨音の中に佇む
今もそこから
動けないでいる
☂
木という自然素材を使用している物が多いから、楽器のコンディションは湿度に大きく影響を受けるらしい。
晴れでも雨でも、ランニングシューズを通じて地面から走力を得るランニングにおいては、湿気と気温もさることながら、少しの風が及ぼす影響も計り知れない。
「これは…?」
私の席の後ろの壁に立てかけられた、黒のギターケース。
「ああほら、唯の彼氏」
弦楽器は特に湿度の影響を受けやすく、ネックと呼ばれる部分が反ったり、サイズが縮んでしまうこともあるのだとか。
おはよーの挨拶を交わしながら何やら衝撃的な紹介の仕方をしてくれた姫子ちゃんのウンチクである…もちろん、よしみちゃん譲り。
…っていうか、
「彼氏っ?」
「かばってきたんだってさ、この雨の中」
「愛ゆえの献身、ってやつだよね」
呆れの色がにじむ苦笑を寄越す姫子ちゃんとアカネちゃんの向ける視線の先。
「かゆいところはございますか~?」
「ありませーん、ってそれはちがうよ~」
「なんだいきなりのそのノリは…」
「びようしさんごっこ~」
雨でぬれた唯の髪をタオルで乾かすムギと突っ込むりっちゃんと澪ちゃん。
梅雨入りしても平常運転な軽音部の面々だった。
「それにしてもよく降るねー」
というアカネちゃんの声に視線を戻し、席に着く。
隣の席では机に乗せた鏡を前に桜高女子垂涎のウェーブヘアを手櫛する姫子ちゃんの姿がある。
「梅雨は湿気が多いから、ほんと大変」
何やら格闘しているご様子。
「姫子ちゃん、髪ふわふわだもんね」
「癖っ毛だから、朝とか大変だよ。しずかは?」
「私は、ほら」
ふるふるふる。
「ね、すぐ元に戻るの」
「いいなー、それ。私も鬼太郎ヘアにしようかなー」
「鏡、ありがとねムギ」「どういたしまして~」
と姫子ちゃんがムギに借りていたであろう手鏡を返す間に抗議の声を上げるほど、私も狭量ではない。
聞けば自身も癖っ毛であるというムギであるし、姫子ちゃんを始め、癖っ毛な人たちにとっては梅雨の時期だけが特別に大変というわけではなく、お風呂の後とか、朝とか、髪の毛のセットには気を使うことだろう。
それでも、長くてきれいな髪の毛を持つ人すべてが梅雨に苦労しているわけではないようだ。
「そんなことしたら桜高女子の半数がキュン死するから、やめたほうがいい」
「キュン死って何よ…。っていうか、いちごじゃん」
「ん、はよ。しずかも」
「うん、おはよーいちごちゃん」
と見上げるいちごちゃんは今日も完璧な縦ロールがセットされていて。
湿気の影響など微塵も感じさせない彼女だけれど、その瞼はいつもよりも幾分下がっている。
じめじめした空気にほとほと、嫌気がさしているのかもしれない。
そんないちごちゃんもやっぱり、桜高で一番かわいいのだけれども。
「いーっくし」
いちごちゃんの可愛さで湿気を紛らわせていた矢先、窓の方から聞こえてきたのは唯のくしゃみだった。
「大変っ。服乾かさないと風邪ひいちゃうわ」
「部室で干すか」
ムギとりっちゃんのそんなやり取りを聞いて、今朝のランニングから帰った後に浴びたシャワーの温かさを何となく思い出しながら、
「バケツとかにお湯でも張って、足からあっためるといいよ」
とアドバイスを送っておくと。
「お湯なら、うちのやかん使う?」
バレー部長のアカネちゃんからも提案が。
「私も部室に行かなきゃだから、付き合うよ」
席を立ちながら髪をかきあげて姫子ちゃん。
「じゃあ、ムギのカバン持ってくよ」
私にできることって言ったら、これくらいだし。
「箸より重いもの持ったことないちびっこしずかには文字通り荷が重そうですなー」
と机の下からひょこっと顔を出して失礼なことをのたまうエリちゃんだったので。
「…エリちゃん放課後酢昆布の刑だからね」
じとっとした目と共に釘をさしておく。
「うそっ、やめて割とマジでっ」
「タキエリどんまい」
「タキエリ言うな般若娘っ」
エリちゃんといちごちゃんのお約束なやりとりはさておいて。
「ありがとね、みんなっ」
ムギのこんなにいい笑顔が見れたんだから、お湯を作りに行くなんて安いもの。
肩に背負ったカバンから香るムギの匂いを感じつつ。
私たちは教室を後にした。
☂
慣れ親しんだ、でも久し振りにも感じる運動部の匂い。
バスケ部ならバッシュ。ソフト部ならスパイク。
勝つために、闘うために練習して。
鍛えて、耐えて、そうして滲み出る汗を吸い込んだ布やら何やらの匂いが占める部室棟の廊下を歩く。
木造校舎であるところの桜高ではあるけれど、私立の例に漏れずその設備には相応の投資がなされている。
とりわけ運動部では全てのクラブに部室があり、吹きっさらしにドアが面することもないので、中学の時の部活を思えば雲泥の差だ。
…もっとも。
私がこの恩恵を預かることは、そもそもないんだけれど…。
「じゃあ、ちょっと取ってくんね」
「ありがとうアカネちゃん」
「私は荷物取ったら、家庭科室の鍵、借りてくるよ。いちごは?」
「一緒に行く。姫子がガス爆発起こしそうだから」
「私どれだけ物騒かっ」
「まあまあ姫子ちゃん…いちごちゃん、私も一緒に行くね~」
お湯を沸かす段取りを着実につけていくみんなを、なんとはなしに歩いて見やる。
「…あ」
と思わず漏れ出た声が、目の前の張り紙に吸い込まれる。
やはり見慣れた、数字の羅列。
カンマで区切られた桁数四桁が意味するところ、それはゴールラインを割った際の計測タイム。
四百メートル予選会出場者一覧表と銘打たれている。
その最上位に位置する見知った名前を見るにつけ、素直にすごいなと思いつつ、自然と目が、結果タイムを追ってしまう。
「…懐かしい?」
「えっ?」
「こんなさ。わざわざ部室の前に張り出さなくてもいいのにね」
「あ、うん…そう、だよね」
「まあ、陸上って特に個人で競うこと多いし、刺激しあいましょう、みたいなね?
他の部もやってるから…あ、これが社会で流行りの異業種コラボレーションってやつ?」
「それはちょっと違うような」
「まあそーだよね」
「夏香ちゃん…」
「ん?」
「1位出場、すごいね」
桜井夏香ちゃん。
言わずと知れた、桜高陸上部のエース。
そして。
「中、入る?」
「え?」
「部室、しずかの古巣みたいなもんじゃん?」
「桜高のは、違うと思うけど…」
得意種目は私と同じ、四百メートル走。
「ま、入んなよ」
☂
「しずか、さ」
桜高陸上部の部室に足を踏み入れた私に背を向けて。
夏香ちゃんはそう切り出した。
「いつも走ってるね、朝」
窓を開けながらの言葉に、少し驚く。
「なんで知ってるの?」
「しずかのランニングコース、たぶんあたしんちの前通ってるから」
「部屋から見えるんだ」と言う夏香ちゃんの表情は見えないけれど。
きっとなんてことのないカミングアウトとはいえ、本人としてはなんだか面映ゆい訳で。
「そ、そうだったんだっ」と少し動機を早くしながら返答する。
「雨でも走ってるし…。ほんと走るの好きだよね、しずかは」
「うん…。走るの、好き。それに」
「それに?」
「―雨の日ほど、走りたくなっちゃうの、私」
今日みたいな雨足の強い日は、特に。
「…しずか、陸部入んない?」
「…三年の、今から?」
「これから夏の大会あるし。最後だけど。しずかなら今からでも、かなり上まで行けると思うし」
「それは、でも…」
「あたしもしずかいてくれると張り合い出るし。後輩たちもしずかが入ったなんてことになったら小躍りして喜ぶと思うし」
「でも、その、あの…」
「しずか?」
「…ごめん」
「そっかーっ。むしろごめん、あたしこそなんか、空気読まずに」
「…ううん、そんなことない。誘ってくれたの、嬉しかったし」
「…まだ、ダメなんだ」
「…え?」
「しずかはさ。ずっとあそこに、いるんだね」
「っ」
ひゅっと、息を飲む音は一段と強さを増した雨音に一瞬で掻き消された。
横を通り過ぎる夏香ちゃんのシトラスレモンの香り。
仰ぎ見た夏香ちゃんはなんだか申し訳なさそうな、泣き笑いのような顔をしていて。
それを追いかけて振り向くことができない私の視線を、ただ窓の外を降りしきる雨線が縫い止める。
「もう、大丈夫だと思うよ?誰も、しずかが止まったままなんて望んでない。あの日の誰も、そんなこと望んでないよ?」
そう、言っていたのだろうか。
そう、言ってくれていたのだろうか。
自分の体調管理がなってないせいで風邪をひき。
これで中学最後の大会だからと無理して出場して。
結果、熱で浮かされた意識の中で四百メートルを完走できるわけがなくて。
コースアウトしながらあの人たちのレースを台無しにしてしまった私に。
確かめる術もなく、勇気もなく。
あの日のことを受け止める事さえできないままの私が、トラックに立っていいわけがない。
闘いの舞台に、上がっていいはずがない。
今も昔も私は。
あの雨のトラックで、うずくまっている。
「…勝負しようよ」
「えっ」
夏香ちゃんの、聞いたことが無い真剣な声音に思わず振り返る。
すると何かに気がついたのか。
「あー、違うか」と表情を崩して浮かべる苦笑いと共に、夏香ちゃんが言う。
「あたしと勝負して、しずか」
「な、え」
「あの日しずかと一緒に走った友達から、仇討ち、頼まれてるから」
「っ」
「今月末の土曜日。インハイの予選会あるから。それ、終わった後に」
「ちゃんと、トラックでさ」と伝えることだけを伝えて。
夏香ちゃんは部室を出て行った。
雨の音がやけに。
耳について離れない―。