(9)
――また明日ね
そう言ってこれからもずっと続いていくんだと思っていたあの頃。
中学生も半ばになる頃には、自分の得手不得手というものが分かってくる。
自然と、それ相応となるように身体が順応していくのだと思う。
それは私の場合も例に漏れることなく、中学生になって初めて部活動という環境に身を置くことでほぼ体得できていたと言ってもいいと思う。
こんなふうに断定的な表現で終わることができない理由として唯一挙げるとするのであれば、それは、小学校最後の運動会の全員リレーで“アンカー全員をごぼう抜き”という荒業をやってのけたことだろう。
この経験が、今も昔も平凡でどこにでもいる、“ちょっと”背の低い女の子であった私に、陸上部という道を選択させた(私の母校であるところの中学校では、部活動全員所属が原則だったのだ)。
そこへいくと、いちごちゃんの場合、私なんかとはまるで違う。
今に至る経緯も、動機も、理由も。
なんていうかすごいのだ。
すごい、という表現の仕方にももっといろんな比喩修飾が加えられるべきなのだろうけれど。
“バトン演技中の若王子いちご”を評する上で、“なんていうか”という前置きは、それこそなんていうかしっくりくる。
中学校から陸上のキャリアを積み始めた私に対して、いちごちゃんのバトン歴は小学校入学時から続いている。
バトン教室に通い始めていた当時のことを、“習わされていた”と振り返る彼女だが、いわく、
お母さんがそういうこと、めちゃくちゃ厳しくて
一度やり始めたことは最後までやり通せって
だからやってたんだけど
それでも、小学校三年生の時に初めて演技大会に出ることになって
それなりに練習してたと思うけど、結果は最下位
出場者には年下の子だっていたのにね
控室ですごく泣いた
お母さん、すごく怒るだろうなって思って
だから、怖かった、けど
結果を出せずに泣きじゃくっていた娘に母がしたのは、お手製の金メダルを首にかけてやることだった。
その時の様子を教えてくれたいちごちゃんの穏やかな表情は、私の中の若王子ベストショットランキングの上位にランクインしている。
うれしかった
いちごの演技はママだけの金メダル、って言ってくれて
それが、私がバトンを続ける理由のひとつ―そのいちごちゃんの言葉に続きはなかったけれど。
今この時、舞台の上で、ふと、聞こえるのだ。
しずかはどう、と。
私が陸上部を選んだ理由。
短距離を選んだ動機。
走ることを選んだ経緯。
そして、走ることをやめてしまった現在。
これまでの高校二年間を共に過ごし、卒業までの時間を同じ教室で共有できる親友が放ったバトンの軌跡を目で追いながら、そんなことを考えていたのだった…。
…あれ?ばとん?
「―しずかっ」
「―へ?…あだっ」
固い何かが頭頂部を打ち付けた。
衝撃に目がくらむ。
瞼に星が飛び散るという現象を実体験した私は、それでも何とか踏みとどまると。
直後、差し出されていた両手にひんやりと冷たい感触。
少しの重みとともに降ってきたそれは、いちごちゃんから放られ、私の頭を打ったバトンだった。
水を打ったように静まり返る講堂内。
「…」
「…」
司会のちかちゃんからは何やらサインが。
舞台袖の姫子ちゃんからは手のひらを倒すジェスチャーがそれぞれ送られてきて。
…アカネちゃんに羽交い絞めにされているエリちゃん、という図はきっと見間違いだろう…。
目を見合せた私といちごちゃんが慌てて一礼すると。
割れんばかりの拍手と。
舞台袖からは演技に対するおしみない称賛の声(もちろん笑い声まじりだったけれど)をいただいた。
でも、これで終わりじゃない。
ここからが私の仕事だ―
『―あ、え、えっとっ…あ、ありがとうございましたっ、いちごちゃんの演技でしたっ』
『しずか、しずか、部長が抜けてる部長が』
『えっ?あっ。あぅ、あのっ、ごめんなさいっ。いちごちゃんもとい、いちごちゃん部長さんでしたっ』
『まざってるまざってる』
『い、いいいちごさんちゃんっ?』
『って部長はどこ行ったーっ』
…絶妙なかけあい…とは、言ってはもらえないだろう。
盛り上がる会場とは裏腹に。
もう、恥ずかしくって何が何だかっ。
『あははっ。もう、しずか、落ち着いてっ。ちなみに新入生の皆さん?これが桜高名物、“あたふたしずか”ですよー。行事の合間合間にはよく見ることができるし、普段の教室移動中とかにもたまーに発生するから、お見逃しなくっ。発見できたあなたはきっと可愛さ余って更に可愛がりたくなるからっ。みんなで“しずしず”しようねーっ』
名物っ?私が名物っ?
「…珍獣扱い」
「はぅ」
いちごちゃんのつぶやきが、今はただただ心に染みわたる…別の意味で…。
「…しずか」
「うぅ」
「大丈夫。しずかならできるよ」
そうしてぎゅっと握られる手のひら。
伝わるいちごちゃんの体温。
私が一緒にいるから。
そう、言われた気がした。
深呼吸。
吸って、はく。
呼んで、吸う。
エリちゃんがいつも言っているではないか。
心頭滅却すれば、恥もまたおいしい、って。
深呼吸。
『―あのっ…えと、バトン部です。今演技をしていたのが部長の若王子さんで、クラスメイトの私はただのお手伝いなんですけど…。部員は二年生が十人いて、三年生は若王子さん一人です。練習は厳しいです。部長さんの指導は特にそうです。でも、だからこそ全国大会でも上位に入るし、練習しているみんなはとっても真剣で、格好よくて、だからこそ私にはとっても楽しそうに見えます。二年生は皆いい子だし、部長の若王子さんは無愛想だけど実は桜高で一番可愛いって評判で…いたいっ、いちごちゃん痛いよっ、つねらないでよぉ』
「…照れたな」
「…照れたね」
「あたしもしずかをつねりたいっ」
「エリはちょっとだまってなさい」
「…がんばって、しずちゃんっ」
そんなふうに、よしみちゃんと姫子ちゃんとエリちゃんとアカネちゃんとふみちゃんのつぶやきが聞こえた、ような気がした。
き、気を取り直してっ。
『な、なのでっ。新入生の皆さん、気軽に入部してみてください。初心者も大歓迎です。手とり足とり教えます。健康とか、美容とかにもいいんですよっ。その証拠がこのいちごちゃんですからっ。見てください、この巻き毛っ』
『やや、髪の毛は関係ないでしょ』
『さっきの華麗な演技の後でも乱れないロールっ。そしてこのキューティクルっ』
『なにっ?バトン部のスポンサーはジャパネットなのっ?実演販売なのっ?』
『…入部した人には若王子巻き毛教室無料受講の特典が』
『タダより安いものはないっていうもんねーっ』
『ですから、新入生の皆さんっ』
新生活のスタートは、是非、桜高バトン部でっ
そんなふうに舞台上の三人、声を揃えて締めくくったところでちんっというベルの音。
タイムキーパー役の和が鳴らした音だ。
…これでもちゃんと打ち合わせ通りですよ?
『おぉーっとーっ、ここでバトン部タイムあーっぷっ。お二人さんありがとうございましたーっ』
『ありがとうございましたっ』
『ありがとう』
終わった…。
いちごちゃんの演技はいつもどおり完璧だったし。
ちょっとアクシデントはあったけれど、それもご愛嬌の範疇、というやつだろうし。
うん。
いちごちゃんのお手伝い、みっしょんこんぷりーと、かな?
『ところで木下さんちのしずかさんや?』
『はい?』
『なんでしずかだけレオタードなの?』
『え゛っ』
ちかちゃんからの無用で容赦のない指摘に。
写真部が手にした一眼レフカメラのシャッター音の嵐と。
新入生たちの視線と喜色にとうとう耐えかねた私は。
恥ずかしさのあまり気絶してしまったのだった。
意識を手放す直前に映った、顔を赤らめて自前のデジタルカメラを握りしめるふみちゃんの姿がやけに印象的だった。
――また明日ね
――うん、また明日ね
それは明日への言葉。
また会うための合言葉。
今日と同じ明日が。
今週と同じ来週が。
今月と同じ来月が。
そして、今年と同じ来年が、いつまでも続いていくんだって。
そう、思っていたあの頃。