身につけたドレスが、とても重い。
ポシェットから卵の化石を取り出して、両手でそっと握りしめる。本当に、綺麗。深く澄んだ蒼色に、心も体も吸い込まれそう。だってのに、この胸を締め付ける苦しさは、ちっとも吸い取ってくれなかった。やっぱり、アルベルトがいないと、わたしは、こんなに弱い。
椅子の背もたれに体を預けて、わたしは深く息を吐いた。目を閉じる。暗い闇の中にひとりぼっち。飛行艦は今、首都の司令部に待機している。いつ入ってくるかもしれないスクランブルの為、五分体勢を維持する艦橋の中、わたし一人が落ち込んでいた。欝だ。あの光景が、脳裡に焼き付いて消えてくれない。膝を抱えて泣き出したかった。だけど、アルベルトの頑張りを無駄にする事だけはしたくなくて。
本当は、こんな姿を周りに見せるだけでも、いけない事だって分かってたけれど。
手鏡を取り出し、笑った顔の演技をする。大丈夫。そう、わたし自身に言い聞かせるように。アルベルトの重荷にだけはなりたくない。その想いだけが、鏡の中の笑顔を支えていた。
そうこうするうちに時間は経ってしまっていて、手元のモニタが点灯した、現れたカイトさんが、打ち合わせの開始をわたし達に告げた。4分割された画面の向こうで、パクノダさんとアルベルト、憲兵司令のワルスカさんが頷いた。通信状態が悪かったからか、画質がちょっと荒いみたい。
大事な仕事だ。これから始まる通信会議は、作戦の最重要段階に直結している。カイトさんもパクノダさんも真剣で、わたしも緊張せずにはいられない。アルベルトだけは、普段と変わらない様子だったけど。
そんな、いつも通りのアルベルトは、合成されたCGだった。
あの日、ジャッキーさんが亡くなった夜、アルベルトはそれを急造させた。小さく洗練された装置は要らない。有り合わせの無骨な代物でいい。そんな注文が忠実に実行された結果、わずか二時間後、司令部に帰った時には目当ての物の基幹部分が組み上がっていた。
その時から、アルベルトは機器の群に埋もれていった。医療棟の集中治療室を一つ占領して、ベッドに横たわったままで栄養は点滴、排泄も呼吸も機械任せ。接続されるチューブの数も、時間の経過に従って増えていった。自分の体の制御を最小限に押さえたアルベルトは、余った脳の処理能力を電子情報の制御に振り分けていた。
体のそこかしこから具現化される情報を拾うため、受光器が何個も置いてあった。開きっぱなしの両眼に照射される二本の半導体レーザーが、秒間数ギガビット以上のデジタル信号を送信して、オーラで強化された視神経を通って脳に伝わる。細胞の脱分化と再分化を制御できるアルベルトだから失明の心配こそないけれど、自分をそんな、便利な道具みたいに扱うのは、仕方がない事態だと分かっていても苦しかった。
わたしも訓練に忙しくてあまり側にいてあげられなかったけど、時間を見つけて治療室まで行く度に、本当に、心臓が潰れそうなぐらい怖かった。身体制御を極限まで省略して電子の海に沈むうちに、いつか本当に、機械の一部になってしまうんじゃないかって、不安になってしまったから。
ガラスの向こう、白い病室の中に沢山のケーブル。次々に情報を流す多数のモニタ。横たわったままのアルベルト。窓越しに眺めても何の意味もなくて、データ越しでないと話す事すらままならない。アルベルトは昼夜も知らずに働き続けた。その間、体はぴくりとも動かなかった。
アルベルトがやった事はシンプルで、コンピュータ上に自分の人格を仮想化するという試みだった。軍研究所のスーパーコンピュータを一棟丸ごと借り受けて、その環境をあっという間に掌握したあと、瞬く間にそれは実行された。汎用プロセッサで無いなんて、些細な問題だったらしい。
たとえアルベルトの能力でも、人格の基幹部分だけは数式化できない。だけど、それ以外の部分はどんどん移植されてデータになった。今では既に計算の主力はコンピュータで、アルベルトの脳髄は、プログラムに人間なりの価値観を提供する機能に特化してしまっている。
危険すぎると、わたしはもちろん反対した。記憶はバックアップをとるから大丈夫、なんて本人は微笑んでいたけれど、どう考えても尋常な手段じゃない。
だけど、カイトさんが許可を下したのを知った時、わたしは空恐ろしくなって震え上がった。過ごした時間は短いけど、あの人が自分の渡らない橋を人に押し付けるような性格じゃないのは知っていた。だから、嫌が応にも理解してしまった。ここまでするんだ、と。目的の為には。この人達は。ハンターと呼ばれる人達は。
アルベルトの能力の詳細を知る人間を局限する為に、直接関わってる医療スタッフ以外には、わたしとカイトさんしか知らない秘密。だからパクノダさんに相談する事もできなかったし、そもそも最近は予定が噛みあわなくて、モニタ越しにしか会えてなかった。
これが、アルベルトが提供した奥の手だった。
ナノ秒以下の時間が流れる電子回路の基準から見れば、人の思考はとても遅い。一分や一秒なんてそんなもの、水晶振動子の鼓動と比べれば那由他に等しい。今時の、1990年ごろからの十年で急激な進歩を遂げたコンピュータは、CPUひとつで秒間数百万回の命令をこなしてしまう。人の価値観を理解する為のパーツを手に入れたプログラムは、人間に報告して指示を仰ぐ必要がなくなった。あるいは、最小限のタイムラグで済むようになった。自己構築までもが可能になった。
国中の情報が徹底的に管理され、人でない存在に人間らしい判断がなされている。どこかのSFに出てきそうな未来像を、アルベルトはこの現代に実現させた。
電子情報との、誰よりも高い親和性。それがあったからできたのだけど、素直に喜べはしなかった。だって、それだけ人間離れしてるって事だから。アルベルトの無茶は今さらだけど、今回はちょっと度が過ぎてる。もしかしたら、本当に自我の崩壊を恐れてないのかな、なんて、馬鹿な事を勘ぐってしまうぐらいには。
ふと、アルベルトの発の名前が思い浮かんだ。
【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】
コッペリア。機械仕掛けの人形の名前。彼女にはもちろん脳は無く、魂も無く、ヒトを模しただけのカラクリ細工。自分を操る能力に名付けるなら、あまりに不吉すぎるんじゃないかと思う。
壊される宿命の哀れな人形。存在した事で不和を招いて、失われる事で幸せに繋がる犠牲の羊。彼女が破壊される展開を経て、雨が降った後の地面が固まる。思いをはせるたびに辛くなる。アルベルトはあの頃、何を考えていたのだろうと。自分の生命を維持する力に、どんな想いを抱いたのだろうと。
人間を真似て造型されて、人間らしく動いて、精一杯頑張って。なのに壊れる事が前提なんて、わたしは絶対に許容できない。めでたいめでたいハッピーエンド。ギャロップを踊る村人達と、忘れ去れたコッペリア。そんな脚本は許してあげない。
だから、これ以上重荷を作りたくなかった。駄々をこねるのは胸の内だけ。今はわたしも精一杯やってみせて、全部終わったら沢山叱ろう。怒って、怒鳴って、泣いて、笑って。それから、ぎゅっと抱き締めて褒めてあげて。ご苦労さまって、ねぎらってあげようと密かに決めた。
だからね、アルベルト。
頑張って。今はそれしか言えないけれど。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二人はカフェを後にして、再び街中へと繰り出した。とりわけ、目的の定められた行動ではない。この街の地理を把握するという名目こそあったものの、実際はただの散策である。目的地を決めることもしないまま、うららかな陽射しの中を歩いていた。
木々が緑で潤う4月の街並は風光り、時間は緩やかに流れていた。スラムとは違う清潔な市街。雨期を控えて街を覆うピリピリした嫌な緊張感も、二人にだけは関係がない。
風が吹き、少女の長い髪が柔らかくそよいだ。顔にかかる銀糸を手櫛で直して整えると、ふと、彼女を見下ろす男と目が合った。
「どうかしましたか?」
「ん、ああ。別にな」
歯切れの悪い返事も特に気にした様子は無く、少女はそうですかと頷いた。
あのようなやり取りがあった後でも、二人の距離感はあまり変わっていなかった。呪縛が解け、愛を告げたにも関わらず、少女はいつもの関係に甘んじている。腕を組もうともせず、体を寄せようともせず、ことさら会話を増やそうともしていない。
ただ、男の隣にいるだけだった。
男は当初、そんな彼女の様子をいぶかしんだが、すぐに気にしない事にした。いつも通りに少女を連れて、いつも通りに街を歩く。それで問題は何もなかった。いつも通り、男が獲物を見付け出すまではそうだった。
「駄目です。そういうのは、私が嫌いですから。ほら、行きますよ」
素晴らしく欲情できる素敵な玄関を発見して立ち止まった男の腕を、少女が引っ張って中止を促した。まだ何も言ってなかったが、輝いた瞳で分かったのだろう。邪魔だなと、男は胸の芯が急速に冷えたのを自覚した。
殺そう。男は即座にそう考えた。街中での殺人に慣れた男の頭は、遺体処理の方法について最適解を弾こうと回りだした。結果、この家に忍び込むと同時に捨てる事に決めた。それが一番楽だった。
「おい」
ついてこい。男は命じようとして息を呑んだ。殺しを躊躇したのではない。殺人程度、今更躊躇えるほど繊細ではない。
少女は男を受け入れ切った目で見上げていた。おまえを殺すと告げたなら、きっとそのまま受け入れるだろう。男に対してこんな目を向ける人間は、暗示を与えた奴隷以外に見た事がなかった。だが、少女は明らかに自分の意志で行動している。媚びるでもなく、恐れるでもなく、縋るでもない。ゴミ溜めで物心付いてから幾星霜、こんな人間の存在は知らなかった。深く底が見えない赤褐色の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「これからどう食っていけって言うんだよ」
「真面目に働けばいいでしょう?」
「おいおい……」
ぼりぼりと頭をかきながら男は呆れ、図太くなったなと少女にこぼした。女の子に対して失礼ですねと顰める顔は、珍しく歳相応に幼く見えた。
「それに、元々こういう性格でしたよ。知りませんでした?」
いけしゃあしゃあと少女が言う。あるいは、本人は本気なのかもしれなかった。
「いや、変わったよ」
掛け値無しの本音で男は告げた。いつまでも路上で突っ起っていても仕方がない。そう考えて、再びあてもなく歩き出した。少女はどうせ、後ろから付いてくるだろう。
「そうでしょうか?」
「ああ」
明らかに、少女は昨日より生き生きしていた。積極的に生きていた。怖いものがなくなっていた。惰性で生きる男とは違い、何か目標を見出したようだった。
「お気に召しませんか?」
「どうだかな」
こんなガキでも、右手代わりの役には立つ。啼かせて遊ぶのもいいだろう。だからもう少し生かしておこうと男は思った。雨の日に使えないのが難点だったが。
「じゃあよ、お前はどこか行きたい所、あるのか?」
ぶっきらぼうに男は尋ねた。どこか拗ねてるような声だった。可愛い仕草だと少女は思った。表に出すことは、しなかったが。
「この近くに、公園とかありませんか? 椅子でもあって、ゆっくり過ごせる場所がいいです」
「公園、ねぇ。まあいいけどよ」
街並みから地理を推測する直感は、男のほうがはるかに優れる。経験の桁が全く違った。建物の様相、地面の高低、人の流れ。そんなありふれた情報から、なんとなく予想して方向を定めた。男が適当に向かった先には、こじんまりした空間があった。木々で囲まれた中に広場があり、遊歩道が通っている。それは公園というよりも、小さな緑地に近かった。
二人は木陰に据えられたベンチに座った。芝生にはスプリンクラーが水をまき、小さな虹がかかっている。設備の整った新市街は、乾期でも水に不自由しない。オアシスへ水を供給していたものよりもう一つ深い場所にある水脈から、強力なポンプで取水しているからだった。旧市街の同設備は、誰かに略奪された後である。新しく導入される事もないだろう。水資源の配分先を、無駄に増やすのは愚行だからだ。
「エサでも買ってこればよかったな」
ベンチの背もたれにだらしなく体を預けながら、群れる鳩を眺めて男が言った。少女はそうですねと頷いた。本来ならマナー違反なのだろうが、あれほど悪事に手を染めた上で、今更こだわり抜くほど善人ではなかった。
「ん、いや。待てよ」
「なにかあるんですか?」
「ちょっとまってろ」
男はポケットをしばらく探ってから、紙巻きと、一袋のビスケットを取り出した。少女はそれに見覚えがあった。堅く焼き締めただけの、味も素っ気もない保存食。袋の中で割り砕いたそれを、男は少女の掌にぱらぱらと落とした。
「良かったな」
にやりと、煙草をくわえて男はいった。悪戯っぽい、少年のような笑みだった。少女が微笑むのを確認して、マッチに火を付けて吸い込んだ。安物の軽薄な紫煙ではなく、馥郁たる香りが辺りに広がる。どうせまた、忍び込んだついでに失敬した品だろうと少女は思った。
ハト達も手慣れているのだろう。少女が欠片を撒く前に、足下にワラワラと集ってくる。それだけでは遅いと思ったのか、腕に、膝に、肩に、頭に、少女を埋め尽くすように群がってきた。ここまで人に慣れているという事は、恐らく、誰かが日常的に世話しているのだろう。
「え? わっ! わわっ!?」
珍しくも素っ頓狂な狼狽ぶりを見せて、ハトに埋もれたままの少女が慌てる。頭を振り、上半身を揺らして追い払おうとするも、彼らは全く気にしていない。ばたばたと翼を羽ばたかせながら、掌の上の餌を狙ってひたすら群がる。両者が暴れるせいでビスケットは辺りに飛び散り、それを狙ってまた群がってくる。野生の食欲は留まる所を知らなかった。服や髪の上に撒き散った欠片さえも啄もうと、嘴で鋭く突っついてくる。端的に言って、少女は生きた餌台と化していた。
「ぶっ、はははっ。なんだそりゃ、おまえっ、はははははっ!」
「ちょっ、笑ってないで、助けっ! 助けてっ!」
紙巻きを片手に、隣で見ていた男が吹き出す。小さな体を必死で動かし、少女は全力で混乱している。掌を宙に差し出したままなのは、律儀なのか思い至ってないだけなのか。仕方がないので男は、袋に残っていた粉を少女の頭の上からぱらぱらと振り掛けてやった。ハト達は大喜びで食らい付いた。
「ぶぁはははっ! っ、やべっ、苦しっ! あはははっ!」
「ふざけんなーっ!」
少女の絶叫は虚しく響き、男は腹を抱えて爆笑していた。
そして数分後、ベンチでは鎮座した少女が拗ねに拗ねていたという。
「返す返すも、随分と好きにしてくれましたね」
「だから何度も謝ってるだろ。いい加減しつこいぞ」
「女性の髪にあんなもの振りまいておいて、その誠意のなさは賞賛に値します。ええ、ほんとに」
「へいへい……」
日が暮れかかった帰り道、思い返してまた腹が立ったのか、少女は鋭い視線で睨み上げてみせた。男はうんざりした表情で溜め息をつき、面倒臭そうに対応する。それが彼女の怒気を増々底上げしていたが、不思議と、男の側を離れる事だけはしなかった。むっつりとしたままの表情で、彼の腕を強く掴んでいる。しばらくそうしていた二人だが、折れたのは男の方だった。
「あー。悪かったよ。俺がガキだった。詫びに髪止めでも買ってやる。埋め合わせって事で納得してくれや」
少女の髪の毛を撫でながら男は言った。なんとなく考えていたらしかった。背中に流したままの長い髪は、風に広がって邪魔だろうと。それに、月光を思わせる銀の糸には、控えめな宝石がよく似合うと。
「あの。本当に埋め合わせて頂けるなら……、その、髪止めなんかよりも」
だが、少女は他に希望があったらしい。男は好意を無下にされた形だったが、不快感より疑問が勝っているようだった。そもそも、少女に物欲が乏しい事は、これまでの付き合いで分かっていたのだから。
「髪止めなんかよりも、なんだよ」
男の視線から逃げるように、少女は目を閉じて俯いた。歩道の真ん中で足を止めてしまった二人を、通行人が迷惑そうに避けていく。
少女はかつて、客の機嫌を取る為の口上ならいくらでも言えた。だけど、本心から紡ぐ言の葉が、これほど喉に重たいとは知らなかった。怪訝に思い声をかける男の腕から手を放し、大きな掌を両手で握った。
自分の抱いた愛情を自覚しても、少女はこれまで積極的に迫る事はしなかった。それは打算の産物だった。どうせ惚れてしまったからには、相手にだって惚れさせたい。尽くしたいとも思うけれど、尽くされる側の快感にだって、一生に一度ぐらい浸ってみたかった。少女の想いは、半分ほど子供らしい悪戯心で、残り半分は本能だった。
それでも、もう。
目を閉じて、頬を染め、男の掌をきつく握った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜半。
作戦の全容が、決定された。
カイトさんから連絡があった。明日中に手回しが終わって、深夜から部隊を展開して夜明け前に仕掛ける。全ては極秘のうちに。犠牲は計算のうちに。強引である事は承知の上で。
古典的な手段だけど、熟練の念能力者に通じるはずもないけれど、人間のバイタルリズムから最も不意打ちに適した時間を狙う朝駆けは、少しでも成功率を上げる為だ。パクノダさんが包囲の指揮を執り、カイトさんが突入し、アルベルトが現場を統制する。シンプルで、だからこそ堅実な作戦だった。陸軍から融通された指揮用歩兵戦闘車に最小限の改造を加えた特別車両も、今頃は急ピッチで調整されているんだろう。今までのような、高度な情報管理はもう要らない。現場さえ把握できればそれで良かった。
だけど、わたしは首都でお留守番。火消しの役割を負ったが故の、もう一つの懸念材料が生じたが故の、歯ぎしりするほど理不尽な現実。本当はわたしも行きたかったし、本来なら上空から圧迫する役割を請け負うべきだったけど、どうしてもそれができなかった。その元凶となったのは、数日前、ジャッキーさんが亡くなった少し後から騒がれだした。新しい不審死の勃発だった。
それは明らかに模倣犯で、あまりにも大きな脅威だった。
噴水や池の近くなど、水のある場所で誰かが死ぬ。白昼道々、公衆の面前で唐突に。死因は全て窒息死で、目撃した人は口を揃えて、被害者が自分で呼吸を止めたようにしか見えなかったと証言している。被害者に因果関係は全くなくて、唯一共通する点を挙げるならば、体のどこかに、小さな刺し傷があったことぐらい。そんなあからさまに不可思議な事件が、このところ大々的に量産されてる。一度に亡くなるのが一人か複数かの違いはあったけれど、当て擦ったように水に関わりある場所で繰り広げられる新しい形の窒息死は、人々を混乱させるに十分すぎた。
アルベルトは明言してくれなかったけど、少し考えれば分かってしまう。犯人は明らかに念の使い手で、動機はわたしの存在だろう。わたしは最後の手段だから、最悪の場合に備えないといけない。犯人が誰かは分からないけど、わたしが首都に拘束されていた方が都合がいいどこかの誰かは、新たな虐殺で目的を遂げてる。もしもわたしが動いたなら、別の場所で、大殺戮ぐらいは起きるかもしれない。それくらい、人を人とも思わない所行だった。
そして、アルベルトが教えてくれない事がもう一つ。絶対に、内部事情が漏れている。最低限、ハンター達の役割分担まで知っている人が、わたし達の情報を洩らしている。
もしも時間さえあったなら、新しい事件の解決は容易だったかもしれない。手段は明らかに強引で、目的も明白だったから。だから、アルベルトが静観してるように見えるのは、手出しできない事情があるのか、対処する準備をしているのか。どちらにしても、必要のない負担が確実に増えている。
感情がささくれ立っているのがよく分かった。アルベルトはあんなに頑張ってたのに。体中、チューブだらけにして頑張ってるのに。こんな嘲笑うような真似、わたしは絶対に許せない。だけど、アルベルトはきっと言うんだろう。憎しみに捕われて、視野を狭めてはいけないよと。現実をあるがままに認めないと、対策すらもとれないからねと。
殴りたい。アルベルトを苦しめてる犯人を。腹立たしくて仕方がない。頬を打つぐらいじゃ勘弁できない。右手を堅く堅く握りしめて、何度も何度も殴ってやりたい。それが無意味な夢想だと分かっていても、空虚な妄想が止まってくれない。怒りと一緒に不安が高まって、胸がひたすら苦しくなって、わたしの感情は沈んでいった。
ガラスの向こうで眠るあの人を見つめる日々は、どんなに、怖かったか。
こんなストレス、お肌にとても悪いんだろうな、なんて、冷静に沈み込むもう一人の自分が、どうでもいい事を考えている。頑張ろうという決意は忘れてないけど、それでも正直、気を抜けば涙が滲みそうで。悲しくて、悔しくて、体は無性に寒かった。
せめて顔にだけは出さないように、周りの誰にもばれないように、ひたすらそれだけを考えていた。飛行艦を待機状態に維持する為に神経を詰めている人達を、邪魔するような真似は嫌だったから。今ここで、エリスって優しく呼んでもらえたら、わたしはきっと、みっともなく号泣してしまうんだろうけど。
そんな想いに耽っていた時、ふと、座っているコンソールに通信が入ってきた。誰からだろうと応対すれば、鋭い目を光らせるカイトさんだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ひんやりした地下司令部の長い通路を、パクノダは独り歩いていた。無機質な蛍光灯の灯りの下、靴底がリノリウムを鳴らしている。指揮する部隊の視察が終わり、丁度帰ってきたところだった。もっとも、指揮と言っても実際には部隊長に任せきりで、彼女は念への対処要員及びカイトの予備戦力としての位置付けだったが。
「あら、カイト?」
曲り角に差し掛かったとき、見知った姿が視界に入った。いつも通りの鋭い視線で、細く洗練されたシルエット。こんな人物は一人しか知らない。
「帰ったか、パクノダ」
言って、カイトは右手を挙げた。てっきり挨拶の仕種だろうとパクノダは思った。それほど自然で、気負いの見えない動作だった。直後、通路の隔壁が一斉に降りた。床に叩き付けるように天井から降りる鋼鉄の壁は、明らかに本来の仕様を無視していた。
反射的に全力で後退し、一つを潜った判断は間違ってなかったのかもしれない。だが、結局はそれも無駄だった。廊下に点在する分厚い隔壁が一斉に降りて、パクノダの逃げ道を潰していた。
飛び込める部屋もありそうにない。カイトとの間を隔てた壁が、ゆっくりした動作で上がっていく。当然、携帯も通じはしなかった。パクノダは愛銃を具現化して、現れたカイトをじっと見つめた。
「どういうつもりかしら?」
一応、聞いてみた。ばれているのだとは悟っていた。尻尾を出した自覚はなかったが、この状況下でそれ以外の、陳腐な希望的観測に縋る趣味は彼女にはなかった。それでも声に出して尋ねたのは、ただの確認だったのだろう。
「背中の蜘蛛だ。アルベルトにはそれが見えたらしい」
それなら仕方がないとパクノダは思った。十二本脚の蜘蛛をモチーフにした、団員のナンバーが白抜きされた黒い入れ墨。それは余りに有名だった。だが、一つ解せない事がある。彼女はアルベルトに、素肌を見せた記憶がない。ゆっくりと近付いてくるカイトにその点を尋ねると、意外な回答が帰ってきた。
「確かにお前は慎重だったが、一つだけ思慮が足りなかった。世の中には、赤外線を視認できる人間もいる事に」
ジャッキーが他界した夜の事だった。あの夜も、パクノダはいつも通りの格好だった。下着もワイシャツも着込んでおらず、薄い春物のスーツの上着だけ。たとえその色が黒だったとしても、人体以外の熱源に乏しい夜間では、浮かび上がって見えたのだろう。黒体に近い物体ほど熱放射が強くなりやすい。白い肌に黒い入れ墨の組み合わせは、アルベルトに疑念を抱かせる程度には鮮明だった。
カイトの説明から理解して、パクノダは肩をすくめて呆れてみせた。もう、どうしようもない。だいたいそれは反則だろう。他者や物体の記憶を読む、極めて珍しい能力を持つ彼女がいえる立場ではないかもしれないが、変態すぎるとパクノダは思った。
「それで? 今まで泳がされていたのかしら?」
「その通りだ。だが、効果はそれほど芳しくなかった。お前達の仲間には、よほど携帯電話に通じている奴がいるんだろう。暗号も対侵入も見事な技術だと、アルベルトも賞賛していたな」
カイトは言ったが、実際には、それほど皆無な収穫ではなかった。暗号そのものこそ解読できはしなかったものの、交換局を掌握していたアルベルトは、別の方面から情報を入手していたのである。その日、パクノダがどんな任務に携わり、何を調べ、何を漏洩していたのか。解読ではなくパターンの出現頻度と回数、通話時間の推移から、パクノダが何を重要視していたのか、如何なる状勢変化を優先的に報告していたのか、おおむね把握する事ができていた。無論、国内で同様の暗号化が使用された頻度を元に、仲間らしき集団の居場所に関する推測も立てている。
全ては、膨大なデータを管理できたがこそだった。
「なら、あたしは用済みって事かしら」
「そうだ。これ以上は、生かしておいた場合のリスクが大きい」
そう、とパクノダは頷いた。拳銃を構え、不適に笑う。既に生還できるなどという希望は抱いてなかったが、だからといって楽に殺されてやるほどお人好しでは無かったのだ。どうせここまでの命なら、一矢報いてやりたかった。死ぬ時は楽しく死にたかった。
だが、カイトとて敵には情けをかけない。
その刹那、カイトは全力で壁際に跳んだ。壁にへばりつくような奇行を疑問に思う暇もなく、パクノダの上半身は消滅した。赤い閃光が貫いた。戦いと呼べるものなど全くなく、彼女は灰燼と化していた。パクノダが背中を向けていた分厚い隔壁の向こうから、遥か彼方の隔壁まで、幾重にも風穴が続いている。
エリス・エレナ・レジーナに殺人の経験を積ませるため、カイトはパクノダの生命を流用した。
鋼鉄の塊が天井へ吸い込まれ、エリスは死体の状態を把握した。人間らしさは全くなかった。ただ単に、ぱたりと下半身が倒れていた。赤茶色の液体がゆっくりと流れ、おぞましい切断面から臓物がいくつかこぼれている。異臭がして、空気が血の味に染まっていた。
エリスは自らが作り上げた光景を目の当たりにし、口元を押さえて座り込んだ。真紅の翼は解けて消え、ドレスのスカートが床に広がる。覚悟などではどうにもできない、生々しい現実がそこにあった。白く澄んだ通路の中で、パクノダだけが赤かった。
カイトはそんなエリスに近付いた。焦りはしない。権威者と仰げるようにゆっくりと、頼もしく感じるように堂々と、震える彼女へ歩み寄った。カイトは同情など感じていない。上司として、仲間として、エリスを利用すべき者として、義務を果たすだけの事だった。
お前がしたことは正しいと、誰かが肯定してやらねばならないのだ。
現状で、彼女に折れてもらうわけにはいかなかった。明日一日、いや、今夜一晩だけの間でも、アルベルトに付き添いをさせようとカイトは決めた。
次回 第十五話「忘れられなくなるように」