紙コップを満たすコーヒーから、白い湯気が昇っている。黒く熱い液体を一口啜ると、苦い芳香が広がった。自動販売機が林立する休憩室の片隅で、カイトはつかの間の安息を味わっていた。時刻は午前2時を回っている。静かだった。この場所には、他に人影は見あたらない。
胸ポケットに入れたままの携帯電話が、バイブレーションを作動させた。アルベルトからの着信だった。
「オレだ。どうした?」
「今、エリスは落ち着いて眠った所。多分明日には平常通り動けると思う。少なくとも、表面上はね」
「十分だ。よくやってくれた」
報告は満足すべきものだった。エリスは現状、彼等が保有する最大の打撃力であり、作戦の土台そのものだったのだ。彼女が後ろに控えているという前提があればこそ、カイトやアルベルトを前線に投入できるのだから。
「次はどうする? そっちへ戻ろうか?」
「いや、必要ないだろう。こちらは問題なさそうだ。皆よくやってくれてる。お前も休んで少しでも体調を万全に近付けてくれ。念の為、呼び出しに対応できる状況を整えておいてくれればそれでいい。オレももうすぐ仮眠をとらせてもらう」
電話越しにアルベルトが了解の意を伝えてきた。打てば響くように返ってくる。使い勝手のいい部下だとカイトは思った。上司の意図に忠実であるだけでなく、頭が回り自分で判断させても不安がない。ヒトとしての一線を越える極めた側の戦闘能力こそ持たないが、彼の念は応用範囲が恐ろしく広く潰しがきいた。惜しむらくはただ二つ。妹が絡むと行動の箍が外れてしまう点と、有能さの基準があくまで普通の職業のそれである点だろう。仮に贅沢をいうのなら、ハンターとしては、性格にもう一つ二つ毒が欲しい。
「ところでカイト、戦力の補充についてはどうだった?」
目下の懸念材料の一つについて、アルベルトが尋ねた。元々の捜査対象に加え幻影旅団まで現れた今、自陣営の念能力者が3人というのはあまりに少ない。個々の実力や組織的なバックアップでなんとか補ってはいるものの、手数で勝負されたら対処が難しいのが実情だった。仮に今からでも優秀なハンターを加える事ができるなら、それはとてもありがたかった。
「難しいな。知り合いのハンターにあたってはいるが、旅団に対抗できる実力と時間的余裕を合わせ持つような都合のいい人間は早々いない」
しかし、現実は早々上手く回らない。そもそもハンターは年中世界を飛び回っているのが当たり前の職種である。有能な人物ほど己が目的や探究心に身を任せ、精力的にハントを手掛けている。中には他ならぬカイトの師匠のように、実力があるくせにどこで何をしているかも定かではない変人もいるにはいるのだが。
「そういう人種こそコンタクトさえとりにくいのが世の常だ。もし依頼をしようと思ったら、その為に新たなハンターを雇う必要があるだろう。できれば特別な念能力をもつ専門家をな。なぜなら、彼等自身こそが特A級のハント対象と呼べるにふさわしいからだ」
ハンター最大のハント対象にハンター自身が含まれるとは皮肉だなとカイトは笑った。アルベルトも電話の向こうで同意した。二人とも実感がこもっていた。
「ハンターとしての活動基盤がまだ整っていないひよっこ以下なら捕まるだろうが、そんな連中を集めても仕方がない。ああ、そうういえばアルベルト。今年の有力な新人へのアクセスはお前に任せていたな。確か、二人いるといっていたか」
「それなら、メールで報告上げた筈だけど」
アルベルトが不思議そうな声を出し、カイトはしまったと顔を顰めた。どうやら、忙しさのあまりどこかに紛れ込ませてしまったようだ。
「もう一回送ろうか」
「いや、口頭でいい。すまんな」
「結論からいうと、二人とも色好い返事はくれてない。一人は例のゾルディックの長男で、もう一人は生っ粋の戦闘狂でね。ゾルディック家は丁度仕事中で、旅団に対抗できるだけの人員は裂けないそうだ。後の一人は、天空闘技場でお楽しみの真っ最中だってさ。一応旅団の名前を出して勧誘してはみたけれど、タイムリミットはもうすぐだし、期待はしない方がいいと思う。刈り入れの時期、らしいからね」
つまり、望みはないという事だろう。はじめから予想はしていたが、どうやらこのままでは3人で二正面作戦を強いられる事になりそうだった。しかも脅威の半分は悪名高き蜘蛛である。生半可な困難で済ませてくれそうな相手ではない。それでも勝ちを拾うなら、よほど大胆に立ち回らなければならないだろう。
パクノダ経由で流した情報を逆に利用して罠にはめる案も出されたが、雨期という切迫した期限の前には難しかった。あらかじめ予定した決行時間を変えるだけでさえも、スケジュールが詰まりすぎて不可能だったのだ。
「わかった。ご苦労だったな。明日に備えてじっくり休んでくれ」
「了解。じゃ、僕はこのままエリスの部屋で眠るから、何かあったらこっちに連絡して」
カイトは頷いて通話を終えた。休憩室がしんと静まり返る。深海底のような世界だった。暗く、全てが深々と静止していた。自動販売機から微かに零れる作動音が、静けさの中に波紋を落とした。
湯気を立てていたコーヒーは、いつの間にか冷めていた。
何とはなしに目が覚めた。カーテンの向こうが白んでいた。もうすぐ夜が明ける。鳥が鳴き、空が紫から青へ染まっていく時分だった。染み付いた習慣に従って、最初に枕元の銃の存在を確認した。ひんやりした感触が掌に広がる。弾は装填されていない。もう何年の付き合いになるのだろう。使い続けた愛銃は、男の手にしっかりと馴染んでいる。
まだ薄暗い寝室に、オレンジ色の間接照明が仄めいている。買ったばかりの新しいシーツが、汗をかいた裸体に心地いい。萎えたものを包んだままの少女の柔肉は、寝息とともに穏やかな収縮を繰り返している。胸板に当たる呼気がくすぐったかった。煙草を飲みたいと男は思った。行為の後は、無性に一服が欲しくなる。
ふと、少女が小さなうめき声を上げた。慣れ親しんだ生理現象だった。寝起きで張り詰めた肉の棒が、彼女の内側をえぐっていた。彼はどうしようかと思案した。眠ったままの少女の都合などおかまいなしに、このまま処理してしまってもよかったが、何となく面倒なのも事実だった。数秒の後、男は性欲より怠惰を優先した。
男は気怠げに力を抜いて、全身をベッドに再び預けた。春の朝は少し寒い。まだまだ温もりが恋しくなる季節だった。布団をかぶり、とりあえず、男は手近な熱源を抱き寄せた。
タイル張りの浴室は、意外と綺麗に使ってあった。湯は出なかったが水は出た。コックを一杯に捻っても流量はたかが知れていたが、シャワーが使えるだけ贅沢だった。やはりこの物件は、この辺りでは上等の部類なのだろう。
「痒い所はありませんか」
座った男の後ろに立って、少女は髪を洗ってやっていた。新市街で見つけた輸入品のシャンプーは泡立ちもいい。短く刈った金髪をわしゃわしゃと洗う。男は返事をしなかった。少女も特に気にしなかった。そのまま続けろという意味だと分かっていたからだ。
水しか出ない浴槽で、全裸でいるのは少し寒い。しかし、それも気分の問題だった。少女も既に纏を覚え、体は丈夫さを増していた。冬の最中でもない限り、水浴びぐらいなら風邪などひかない。だから、こうしてゆっくりできるのだ。
「本当は、もう少しマシな洗髪も心得ているんですけどね」
男の頭皮に爪を立てて掻き回しながら、娼館で磨かされた技量を思い出して少女はいう。男のこういう大雑把さは嫌いではなかったが、自分の腕前が発揮できないのもつまらないものがあった。といっても、とうに諦めてはいたのだが。
「あのぬるいマッサージみたいなやつか。いらねぇよ。もっとがしがしやってくれ」
「はい。こうですね」
言われるまま、少女はもう少し力を込めた。十本の指で慈しむように掻き回す。気持ちいいのだろうか。大きな背中が微かに震えた。可愛いなと少女は小さく微笑んだ。
「流しますよ。目、つぶって下さいね」
一度に流れ出る水量では心許ないので、あらかじめ手桶に貯めておいた水で一度流した。続いて、シャワーで拭い取るようにすすいでいく。短い髪だ。すくに済む。それを勿体ないと思ってしまう自分がいて、少女は苦笑を噛み殺した。
「はい、終わりましたよ」
最後にタオルでふいて少女は言った。男は特に礼もいわず、大きな欠伸をしてから頷いた。それすらもセクシーな仕種だと思う少女はきっと末期なのだろう。発達した肩や逞しい首に触れて、内側の筋肉を愛でたくなった。
「腹減ったな」
「もう昼過ぎですしね」
続いて背中を流しながら、少女は適当に相槌を打つ。泡立てたスポンジで擦りながら、空いた手でさり気なく肌に触れる誘惑と戦っていた。あくまでそっと手を置くだけで、いやらしく撫で回しはしないつもりでも、男にはきっと悟られるだろう。少女にはそれが怖かった。不快に思われたくは、なかったのだ。
「上がったらメシにすっか。何か食いたいものあるか?」
「食べたいものも何も、食材なんてほとんどないと思いますよ。昨日、どうせまたすぐ買い出しにいくからって、ちょっとしか買わなかったじゃないですか」
「あー、そういや日用品ばかり仕入れてきたっけな。まあいいや。明日の朝までしのげるだけはあるだろう」
「水と岩塩でしのぐなら、何とか」
「ま、たまにはそれもいいだろ」
「どうしても出かけないつもりですか?」
男の適当な発言に、少女はあからさまに眉をしかめた。背中を一通り洗い終え、泡を流した所だった。男は上体を捻って不満そうな様子の少女を持ち上げ、膝の上に座らせた。自然、抱きかかえられるような体勢になる。
「面倒くせえよ。それともお前一人で行くか?」
「……財布を預けてもらえるなら、近場回ってくるぐらいならしますけど」
膝の上で、少女は背中越しに男を見上げた。この辺りの地理には不馴れだったが、通りに沿って歩くぐらいならできるだろう。少女が持てる荷物などたかが知れているが、二人分の食料程度なら何とかなる。都合よく利用されている気がしたのは、少しだけ不満ではあったのだが。
「財布、か。どうせなら花売りで稼いでこねぇ?」
今度は男が、少女の髪を洗いだした。特に心を配りもせず、汚れさえ落ちればいいという手つきだった。まるで相手が弟のように、息子のように、舎弟のように。繊細な銀糸の扱いにしてはいささか乱雑ではあったけれど、少女は文句を言わず目を閉じている。
「嫌です。どうしてもお金がなければ、最後の手段としてなら構いませんけど」
まずはちゃんと働いて下さいと少女は言った。たわいない戯れ言だとは分かっていたが、そこは譲れない一線だった。薄目を開けて後ろを見上げてくる相手を気にもせず、男は洗髪のついでに返事を返した。
「ま、お前に飽きないうちは従ってやるさ」
「はい、それで十分です」
少女は満足そうに頷いた。
暖めたヤギのチーズをパンに乗せただけの簡単なブランチを食べた後、少女は外へと繰り出した。隣には男も付き添っている。一緒に行こうという少女の誘いが成功したのではなかった。唐突に甲斐性に目覚めたのでもない。単に、腹がくちくなって食後の一服としゃれ込もうとしたところで、ズボンの後ろポケットから空っぽの紙巻き入れを発見したというだけである。
「何か食べたいものはありますか?」
道すがら、少女は男の希望を聞いてみた。思えばこれが、はじめて買い物を任される機会だった。それに気付いたときからずっと、少女の胸は密やかな高鳴りをやめてくれない。保護者同伴の体もかえって嬉しい。預けられたままの財布の存在感が、無性に暖かく感じられた。
「旨いものならなんでもいいや」
割とどうしようもない返答も予想の範囲内だ。そもそも料理の経験などあまりない彼女には、大層なリクエストをされても応えられない。懐も暖かいとは言いがたかった。パンと野菜と、あとは適当に肉と酒でも買いましょうかと少女は尋ねた、男もそれでいいぜと頷いた。
そうと決まればまずは肉屋だ。最初に見つけたのは鳥肉屋だった。そこそこ安く、宗教的にも無難だからだろう。旧市街で肉屋といえば、やはり鳥を売る店が最も多い。ニワトリ、アヒル、ウズラにウサギなど、様々な種類の商品を生きたまま店先に並べている。もう少し貧しい地区になると、これがラクダや野犬、そしてクズ肉や脂肪の欠片を売る雑肉屋になる。
「ニワトリでいいですか?」
簡素な鳥篭の中で思うままに時を貪る鳥達を見ながら、少女は無難な選択を男に示した。時折ばたばたと暴れるたび、羽毛や糞が辺りに飛び散る。獣の臭いがとても濃かった。これが一因なのだろう。鳥屋は食料品店から離れた場所で開業されるのが常だった。
「ウサギにしようぜ。どうせなら」
ポケットに手を突っ込んだまま気楽にいう男を、少女は顔をしかめて見て遣った。今、二人は節約しなければならないのだ。ウサギは買えないほどではなかったが、今後を考えれば少し重い。健全な定期収入さえあるのなら、少女の反応も違っただろうが。
「ガキが余計な心配するんじゃねーよ」
強く、乱雑に頭を撫でながら男が言った。そのガキに欲情したくせにと、少女は軽く睨んでみせた。が、男が堪えようはずもなく、いいからさっさと選べと少女を促すだけだった。
仕方なく、ウサギ達の入った篭を眺めると、とある一羽と目が合った。長い耳がピコピコと揺れて、つぶらな瞳が見上げている。やや濃いめの茶色の毛で、丸々とした体型が可愛らしい。見た所、体に異常もなさそうで、毛並みも抜けなどはなさそうだった。かがみ込み、いけないと知りつつ鼻の先に指を差し出してみると、一通り嗅いだ後、小さな舌先で甘えるように舐めてきた。人懐っこいウサギだった。美味しそうだと少女は思った。
「……これにします」
「お、気に入ったのあったか」
男の誘惑に乗ってしまうのはあまり面白くなかったが、目に付いてしまったからには欲しくもなった。男にも見せると、いいじゃないかと褒められた。最初の買い物で見る目があると認めてもらえたのは、掛け値なしに嬉しかった。
「今夜はシチュー、ですかね」
「おう、いいぜ。味付けは俺に任せな。昔、ダチから教わったとっておきがある」
「それは、楽しみです」
ウサギは肉の味も悪くないが、すじ肉や骨も捨てられない。上等のダシこそが真価だからだ。下ごしらえをして鍋に入れ、野菜と一緒にことこと煮込めば、それだけでご馳走の出来上がりだった。二人では少し多いかもしれないが、男は沢山食べるし、余っても翌日に回せばいい。
店員を呼んで、気に入った商品を指し示す。そうすればよく研いだナイフを喉元に刺して、屠殺と血抜きをしてくれる。殺されたのが確かに自分達の望んだ個体である事を確認すると、少女は残りの買い物を澄ませるべく別の店へ向かおうとした。帰り際に立ち寄る頃には、最低限の下処理を済ませてくれているだろう。
「どうしました?」
ふと、男が立ち止まっているのに気が付いた。
「いや、別にな。よくある事さ」
なにか、奇異な視線でも感じていたのだろうか。歩きはじめる前に男がちらりと目をやった先には、何の変哲もない建物の屋上があるだけだった。ここからは大分離れている。少女がじっと見つめてみても、人影も異常も何もなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
今朝方早くに、アルベルトとカイトさんが出動していった。現地では今頃、国家憲兵隊が今や遅しと展開の命令を待っていて、その外側では、陸軍空挺師団が演習の名目で集結している。先行潜入した陸軍特殊部隊は、他文化を持つ敵性地域にも溶け込む訓練を積んだエリートだそうだ。夜間を徹して包囲網の構築と住民の強制退避作戦が並行され、突入は夜明け前に決行される。急拵えの作戦だけど、この短い間に繰り返し研究を重ねた最善の一手。
わたしが乗る飛行艦は、地上ではなく現地でもなく、首都上空で待機する手はずになっている。せめて少しぐらい近くに進出したかったけど、カイトさんはあえてこの配置を選んだ。高高度なら遷音速巡航が可能という飛行船の常識を覆すサンダーチャイルドの俊速があるのなら、それを活かさない手はないという理由で。確かにこの配置なら、首都に居ながらにして全国に睨みを効かせる事ができるんだろう。
彼女は一隻だけしかなく、わたしも一人しかいないから、実際に駆け付ける事ができるのは一箇所だけだけど、アルベルトにいわせればそれほど心配はいらないらしい。既に旅団は情報を得ている。得ていないはずがないそうだ。パクノダさんを経由して、わたしが見せた能力の一端を。
なら、まとまった人数でないと対抗できないという認識は、とうに出来上がっていてしかるべきで、仮に寡数で事件を起こすとしたら、それは陽動でしかないという。
だからわたしは、この空で構えていればそれでいい。この国のどこで火の手が上がっても、すぐに駆けつけられるように。
例え、それが真下でも。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……ふう」
皿に残ったシチューを拭いたパンの最後の一口を胃の腑へと飲み込んで、少女は満足そうな息を吐いた。
「あー、食った食った。な? たまには贅沢して正解だったろ?」
「はい。お腹いっぱいです。思ったより煮込むのに時間がかかってしまいましたけど、そのぶん味が染みて美味しかったですね」
窓の外はとっぷり暗く、野良犬が寂しげに吠えている。風は冷たく、宇宙が深い。夜空が仄白く染まっているのは、きっと新市街の方向だろう。きらびやかに輝く高層ビルは、彼等だけの特権だった。
空腹で旨さが増したのは否めないが、それを抜いても料理の出来は上々だった。とろ火で抱かれたウサギの出汁は豊潤で、肉は柔らかく、脂肪は甘く、野菜は土の香りが芳しかった。食べきれず鍋にはまだ残ってしまっているが、一晩寝かせればまた違った表情を見せてくれるだろう。
満腹で腰が重くなってしまう前にと、少女は食卓から立って食器を下げる。台布巾で一通りテーブルを拭いた後、ひと休みしましょうと提案した。
「いま、お茶を淹れますね」
「あ、俺コーヒーな」
「はいはい。分かってますよ、もう」
美食は人を寛容にするのだろうか。少女だけに働かせ、さっそく煙草をくゆらせ始めた男のだらしなさも今は愛しい。気を抜くと緩みそうになる頬を押さえて、少女は二人分のティーカップを用意した。もちろん、何も言われずともブラックだ。自分の前には甘い甘いミルクティーを置いてから、少女は食後の一服に興じる事にした。
普段は目くじらを立てる苦いままのコーヒーも、今夜だけは濃いめに淹れてある。
時間が優しい。男と向かい合って座ったまま、会話は何一つなされていない。男は紫煙の合間にコーヒーを飲み、肩の力を抜いて目を閉じている。この沈黙が幸せだった。少女は男を眺めながら、暖かい甘さで唇を潤した。
ただ、時計の秒針だけが支配するこの一時。
そんな満ち足りた安息でさえも、いつか必ず終わってしまう。ミルクティーの残りが冷めてしまった頃、少女はさてと立ち上がった。二人分のカップを流しへ運び、エプロンを付けて洗い物に取りかかる。このような後片付けでは、男はどうせ役に立たない。初めから期待などしてなかった。
「ほとぼりが冷めたら、なあ」
「なんですか?」
「海行かねぇ? 海。お前実物の海を見た事ってあるか?」
「……あるわけ、ないでしょうに」
「俺もないんだわ。考えてみたらよ、短い人生、海ぐらい見ておかないと損だろう」
「それは構いませんけど、海の近くで私の念を発動させるのはやめて下さいね。絶対、洒落じゃ済まなくなりますから」
「おいおい。今だって洒落じゃ済んでないだろ」
「だったら尚更でしょうっ」
男に背中を向けたまま、気怠げな戯れ言をあしらっていた。食器が触れあって音を奏でた。水が指に冷たかった。いつの間にか会話はまた途切れてしまったが、少女はさして気にしなかった。どの道、放っておけば勝手に生活するのである。彼女が今さら何か言っても、男の気ままな性根は変わらない。
そもそも、少女は男のそんな一面が、あまり嫌いではなかったのだ。
「あー、なんか眠くなってきた。もうシャワー浴びて寝るわ」
「え?」
食卓でだらりとくつろいだまま、うつらうつら舟をこいでいた男が言った。振り向くと、ふらりと立ち上がり、歩き出そうととする姿が見えた。
「もう寝ちゃうんですか?」
少女は尋ねた。知らず、声色にはすがる想いがにじみ出ている。
「明日から、雨が降るって予報なんですよ?」
「だからどうしたよ」
心底疑問だとでも言うかのように、男が瞬きして聞き返した。そんな態度が気に入らない。少女は内心のいらだちに気付く前に、同じ意味の言葉を繰り返し紡ぐ。
「ですから、明日からは、雨期です」
「らしいな。……なんだ、言いたい事があるならはっきり言えよ」
じれたのか、男の目が細められた。眠気でぼやけていたはずの瞳には、微かながら剣呑な光が灯っている。
「もういいです。……じゃあ、とっととシャワーでも浴びて、寝仕度すればいいじゃないですか」
怯えが半分、拗ねたのが半分の胸の内で、少女は滞っていた手の動きを再開した。といっても、既に残りは少なかった。二人きりで生活してるだけに、使う皿が少ないのは道理である。ゆっくり、丁寧に洗いつつも、その数は着々と減ってしまう。終わらなければいいと少女は思った。
男が近付いてくる気配がして、少女はぴくりと小さく震えた。嫌われるのが嫌だった。怒られるのが怖かった。だが、どんなにささやかであろうとも、男から構ってくれるならやはり嬉しい。触れてくれるならそれだけで楽しい。素直に認めるのは、少々癪でもあったのだが。
「……どうか、しましたか?」
ゆすいだ食器を水切り篭に並べてから、流しの周りを布巾で拭いていく。近付いてくる足音に耳を傾ける。後ろは横目ですら見なかった。なぜなら少女はあくまで、そう、あくまで家事に専念しているだけなのだ。
「振り向くな」
「ひゃっ!」
耳元で男が囁いた。卓越した身体能力で一気に距離を詰めたのだろう。少女は予想外の不意打ちに驚いたが、男の言葉通り振り返る事はできなかった、
「念を使いましたね!?」
少女が吠えるも、男はどこ吹く風で飄々としている。じたばたと暴れても後ろを向けない。逃げようとしたら抱えられた。ついで逃げるなとも命じられ、すみやかにそれは実現した。彼女は改めて実感した。本当に、嫌になるほど便利な能力だと。
「離してっ! 離して下さいっ!」
「ま、なんだな。祭の前に英気を養っておくのもまた良しか」
少女は抗議を完全に無視され、むかつくほど手慣れた手つきで肩の上に担がれた。
「まだっ、片付けも終わっていませんよ!」
「あれで十分だろ。食器なんて綺麗に片付けても、どうせ明日には無駄になるんだ」
「訳の分からない事言って誤摩化さないで下さいっ」
歳相応に小さな少女の体が、ベッドにぽすんと投げられた。エプロンを奪われ、スカートをめくられ、下着を膝まで下ろされる。強引に押し付けられた男の唇は、微かにコーヒーの香りがした。後頭部を抑えられ、口腔を深くまで貪られた。
長い長いキスだった。舌と舌を絡め合い、唾液と唾液を混ぜ合わせる。葉の一本一本を丹念に舐められて、応じるように顎を動かして吸い付けば、いつしか少女の瞳も蕩けていた。のしかかる男の体重が愛おしかった。
「どうしても、いますぐしたいんですか?」
男の頬を両手で押さえて、キスの合間に少女は尋ねた。本当はもっとムードを大切にしたかったが、昂ってしまえば過去に思いを馳せる余裕もなくなってしまう。駆け引きの合間の沈黙さえ焦れったくて、彼女は啄むように唇を触れさせた。
「……お前がしたくないって言うんならいいけどよ」
いじわるだ。少女は可笑しくなって微笑んだ。こんな夜中に、こんな場所で、こんな近くで、こんなにも熱く大きくしながらも、男はそんな戯れ言を紡ぐ。
「そうですか。なら、どうするんですか? これ」
意地悪には意地悪で返そうと、少女はズボンの上から撫で上げた。堅く反り返った棒状で、先端だけが少し柔らかい。人種的な理由もあるだろうが、男のそれは逞しかった。指先を悪戯っぽくやわやわと動かしながら、少女は記憶に浮かぶ感覚を思い浮かべた。例え蕩け切っていても深く突き上げられると痛く苦しく、しかし言い様のない充実感を与えてくれる肉の味を。
「なに。俺は街頭女でも買ってこりゃそれでもいいぜ」
少女の首筋に顔を埋めて、低く優しく男は告げた。残酷なセリフで耳の裏を甘く切なく攻められて、小さな体がゾクリと震える。被虐の快感を誤摩化すように、少女は拗ねる演技をしてみせる。
「……さすがに、それは意地悪すぎはしませんか? こんなときぐらい、私だけを見て溺れて下さい」
「はっ。いっちょまえなセリフは十年はえーよ」
「いいです、もう……」
ズボンの、袋のある辺りを軽く抓った。薄い皮の存在を弄びながらも捻ってやると、男が微かに顔を顰める。
「今夜は、私が上になりますから」
胸板を片手でそっと押し、寝転んで下さいと少女はいった。大人しく従った男の上に跨がって、上着のボタンに手をかける。衣擦れの音が部屋に消え、膨らみに乏しい胸部がはだけられた。そして、少女はスカートを捲り上げる。隠すものは何もなかった。
「どうですか? 私の体だって、そう捨てたもんじゃないでしょう?」
片手で少し広げてやると、褐色の太腿を雫が伝った。頬が熱くなっていた。少女は今、羞恥と興奮に浮かされている。あんなにも嫌だったこの行為が、愛という調味料があるだけで、こんなにも甘美になるのが不思議だった。
「ほら、とろとろですよ?」
「……だな」
男の膨らみが一層大きくなったのを目の当たりにして、少女の胸は歓喜で壊れる寸前だった。お互いの視線が双方の一点に固定される。ああ、興奮してくれてるんだなと、泣きたくなった。
「愛して下さい。いっぱい、いっぱい、忘れられなくなるように」
上ではなく下でキスをして、感極まった声でねだってみせた。返事はない。男の瞳は性欲に昂ってはいたが、奥底はどこか冷たかった。少女の優れた嗅覚が、残酷にも事実を告げていた。それでも、いい。少しずつ、ゆっくりと腰が沈んでいく。寝ていた男が上体を起こし、少女の体を強く抱いた。押し付けられた唇は、ほのかに煙草の味がした。
「随分と気合い入った陣容じゃないか」
感心したようにマチが言った。視線の先には、国軍の首都駐屯地が広がっている。演習場を兼ねる為、郊外の荒野を利用した広大な敷地は灯りに乏しく、深い夜闇に飲み込まれていた。が、ナイトビジョンも使わずに遠くの丘から眺めているにも関わらず、彼女にはその詳細が手に取るように把握できた。
「あー。これって確実にオレ達の襲撃読まれてるよね」
すぐ側の木に登っているシャルナークが気楽に呟く。陸軍第一師団が威信をかけた厳重警戒態勢を前にして、彼は微塵たりとも動揺しない。
「当たり前ね。戦車も数が揃てるよ」
まるで獲物を見付けたというかのように、口元を隠した服装のフェイタンが笑う。細心の注意を払って偽装隠蔽された防御陣地にこもる車両をも、いとも簡単に発見していた。
「ま、どっちにしろオレらの敵じゃねーけどな」
腕を組みながら大言したフィンクスを、誰一人として諌めない。機関銃陣地、迫撃砲、榴弾砲、飛行船、もちろん数多の自動小銃。加えて、主力戦車まで投入された体勢である。世界的に見れば第二世代相当の旧式とはいえ、その性能は人類が生身で対抗できるほど生易しくはない筈なのだが。
「だけどちょっと面倒臭いな。ウボォーもこっちに来てもらえば良かったかも」
「あのガタイとパワーじゃ地上で良くても地下で動きがとりにくいだろ。団長の判断は間違ってないぜ」
シャルナークに対してフィンクスが言った。右肩に左手を置きながら、軽く回す仕種をしている。オレなら小回りの効いた戦いができると、言外に誇っているようだった。
「あいつは開けた場所で使うのが最適ね。それに獲物減るの、つまらないよ」
フェイタンもまた、好戦的な態度で同意する。そんな二人の様子に、マチが横から口をはさんだ。
「ちょっと、忘れるんじゃないよ。あたしらが最優先する目的はね」
「パクだろ。忘れるかよ、んなもん」
うんざりしたように放言しつつも、フィンクスの瞳はぎらついていた。連絡を絶ったパクノダの身柄の確保が、さもなくば生死の確認が、クロロからの指示だった。
次回 第十六話「Phantom Brigade」